ふたつ

 自分の人生の最古の記憶。

 それを正確に思い出せる人は、一体どれくらいいるのだろう。

 僕は思い出せない。いや、脳の奥底を掘り起こしてみれば、それらしき記憶はいくつかある。

 こたつの中に隠れて両親の諍いをやり過ごしている記憶。アパートの外廊下で街灯の灯りに寄ってくる羽虫を見つめていた記憶。床に置かれた僕のご飯茶碗の中に入ったハサミムシを指先でつついていた記憶。

 けれど、どれが最古の記憶なのかは曖昧だ。幼い頃の記憶であることは確かなのだが、何歳の時のものなのかは、さっぱり分からない。どうしてそんな経験をするに至ったのか、なんとなく予想はつくが、詳しい経緯までは思い出すことができない。

 しかし、そんなおぼろげにしか思い出せない幼少期の記憶の中にひとつだけ、何歳の時に、どこで、何を、どうしたのかに至るまで、酷く鮮明に覚えているものがある。

 それは決して僕の最古の記憶などではないが、その奇妙な経験の記憶だけは、大人になった今でもはっきりと思い返すことができるのだ。

 そう、まるで、昨日のことのように———。




 七歳の時で、季節は夏だった。

 僕は一緒に暮らしていた両親のゴタゴタに巻き込まれ、一時的に父方の祖母の家に預けられることになった。

 預けられる、とは違うかもしれない。僕はさらわれるも同然にアパートの部屋から連れ出されたのだ。突然訪ねてきた、父の弟を名乗る男の人によって。

 玄関のチャイムを連打し、土足でズカズカと部屋の中に入ってきたその男の人は、畳で寝ていた僕を見るなり、舌打ちをした。僕は最初、時々訪ねて来る怒鳴り散らす人たちが、また来たのかと思った。格好がそっくりだったからだ。

 その父の弟を名乗る男、いわゆる叔父に当たる人は、簡単に自分の身の上と僕の置かれている状況を説明すると、僕を連れ出して車に乗せた。その時、家に両親はいなかった。二日前の朝に、二人とも仕事をしに行くと言ってパチンコ屋に行ったきり、帰ってきていなかったからだ。

 叔父さんはどこかに連絡を入れるそぶりも見せずに、そのままアパートを発つと、無言で車を走らせ続けた。僕も何を言うでもなく、助手席に座り、窓の外を眺め続けていた。

「お前、名前は?」

 途中、そう訊かれたが、その頃の僕はなぜか声を発することができなくなっていた為、答えられなかった。

 僕がむっつりと黙り込んでいると、叔父さんはフンと鼻を鳴らし、

「無愛想なガキだ」

 と、吐き捨てた。

 住んでいた街から大分離れた頃、叔父さんは道の駅みたいな所に寄って、たこ焼きとオレンジジュースを買ってくれた。久しぶりの食事だったので無我夢中で食べていると、ちゃんと爪楊枝を使えと怒られた。結局、道の駅を出て少ししてから気分が悪くなり、たこ焼きとオレンジジュースはほとんど吐いてしまった。叔父さんからは、吐く時は言え、せめて窓から吐けと、また怒られた。

 その後、車は山間の道に逸れていき、鬱蒼とした竹林を抜けて、〝町〟というよりは〝村〟という言葉が似合う場所に辿り着いた。

 その頃にはもう薄暗くなっていて、辺りの古めかしい造りの民家には、ぽつぽつと灯りがともっていた。

 そんな中、車は村の一番奥の、辺りの民家よりもずっと古めかしい造りの家の前に停まった。

 叔父さんは、

「待ってろ」

 と、一言だけ言うと、車から降りて家の中に消えていった。しばらくすると、今度は家の中から、白い割烹着にもんぺ姿の老婆が現れた。

「降りんね」

 そう優しく微笑む老婆に手を引かれ、僕は家の中に連れていかれた。すれ違いで家を出て行く叔父さんの顔は、どこか寂しげだった。

 家の中は、まるで昔話に出てくるような造りをしていた。入るとすぐに土間があり、かまどがあり、石造りの流し台があり、板張りの上り口の向こうには、続き間の和室があった。所々破けた障子に、ひび割れた白い漆喰の壁、剥き出しの梁や柱、漆色をした竹張りの天井、同じく漆色をしたちゃぶ台に箪笥。所々にぶら下がる裸電球が、それらを柔らかく橙色に照らしていた。

 老婆は僕を和室に上げると、ちゃぶ台の前に座らせ、土間で水仕事をし始めた。しばらく待っていると、目の前に小さなおにぎりが二つ乗った皿が置かれた。

 たこ焼きの時と同じように、僕は無我夢中で食べた。今度は手づかみで食べても怒られなかった。

 老婆は手についた米粒を必死に舐める僕の頭を優しく撫でると、

「あんた、名前は?」

 と、訊いてきた。僕は答えることができず、またむっつりと黙り込んだ。

 老婆はそんな僕を見かねたのか、

「言わんでもええ。しばらくは、ばあちゃんとこに居り」

 と微笑むと、布団を敷き始めた。

 その夜、僕は初めて人の温もりに包まれて眠りに落ちた。

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