第7話 吸血鬼によろしく
「寄れや、寄れや」
暖かい日差しの中、伸びやかな
「巫女様だ」
誰かが声を上げた。
「山車見物に行かれるのであろう」
「今年はどなたであろうか」
「気になるなら南門に行くとよい。桟敷に座られた巫女様を拝めるかもしれんぞ」
人々は輿を眺めながら噂しあった。
巫女とは王国で信仰される九大神のうち処女神エメロアに奉仕する修道女たちを指している。選ばれた巫女が祈祷を欠かさず純潔を守ることで安定と豊穣を約束されるとされている。トランド市にも教会預かりとして修道院の奥に豪奢な廟堂が建てられ、王都のエメロア大神殿が遣わした六名の巫女が配されていた。彼女たちは三十路を過ぎて年季が明けるまで女神の侍女として一切の雑事を免ぜられ、儀式や祭典に来賓に招かれて祝福を与える以外は廟堂に籠って女神に祈祷を捧げる日々を送る。
大路の両側には屋台が並び、あちらこちらで芸人が芸を披露して銭をねだっている。それを目当てに祭見物の人々が群れて山をなしていたが、心ある人は道を行く輿に向かって丁寧に頭を下げた。
その中で、一人の踊り芸人が一際多くの人数を集めていた。浅黄の祭服を纏い黒い長髪を優雅に靡かせた美少年だ。その儚く可憐な所作に人々は足を止めて茫然と見惚れ、地に腰を落とし熱心に見入る者もいた。
やがて輿の列が少年を中心に大きな見物人の輪に差しかかった。先触の騎馬が列から飛び出すとその輪に馬を寄せた。
「巫女様の行列だ。危うし。寄れ。片寄れ」
馬上から見物人たちに呼びかけた。
それでも人々は少年から目を離さず動こうとしない。
騎兵がふと少年に目を向けた。音曲も無くこれほど見事に踊れる少年の技量に内心感心した。しかし、後ろから輿が迫っている。このままでは巫女の列が乱れかねない。無粋とは知りながら馬を乗り入れ少年に笞を向けて大音を発した。
「巫女様の行列だ、踊りを止めて道を空けよ」
少年がはたと踊りを止めて騎兵を見上げた。
「許せ、巫女様が通るまでだ」
見物人たちの非難の目に不覚にも狼狽え、詫びの積りで懐を探って銅貨の束を二本投げた。
足許に落ちた銅貨の束を見て少年が微笑んですっと跪き、手を揃えて地に額をつけそうなほど深く頭を下げた。
無用の揉め事を避けることができて騎兵からほっと溜息が出た。
その溜息が途中で止まった。
少年が頭を上げると、そこには黒い大入道の首があった。馬が嘶き棹立ちになり、人々が悲鳴を上げる中、大入道は風を巻いて宙を飛び、輿を掠めるように空中高く飛び上がってそのままふっと消えた。
一瞬の出来事に人々か腰を抜かし、後には静寂が残された。なんとか馬を鎮めた騎兵が思い出したように輿に馬を寄せた。
「巫女様、御無礼」
簾を少し上げて中を覗き込んだ顔が強張った。
中に座っている筈の巫女様が霞のように消えていた。
秋の終わりの昼過ぎだった。毎年のことだが、修道院の中庭は辺りに樹木の一本も見当たらないのに落ち葉だらけになっていた。
また院長様の繰言を聞かされる前に下人頭に言って掃き清めさせなくては。
マガルは前庭を礼拝所に向かって歩きながら眉を顰めた。齢の頃は四十前か。五尺八寸の痩身を薄茶色の修道衣で包み、肩に使い込まれた六尺棒を担いでいる。樫の棒の両端にいくつも鉄輪を嵌めた凶悪なものだ。剃り上げた頭に眼光が鋭すぎる大きな黒い瞳、筋は通っているが大きな鼻梁、細い顎に一文字に結ばれた薄い唇、まず異相といっていいだろう。
(情けないものだ)
かつては重槍兵四十余を預かる身であったものが、今は坊主の顔色を窺い庭の落葉の始末を気にしている。
(まあ命があるだけまだましというものか)
左頬に入った斜めの疵痕を指でなぞった。刃物疵だが弾けた肉のまわりが浅黒く盛り上がって武骨な顔が増々凶悪に見えた。
マガルは扉口横の小部屋の門衛に愛用の棒と雑嚢を預けた。礼拝所に入る際は国王でも無腰と決まっている。
「マガル修道士様、今日はどういった御用向きで」
門衛の下人がマガルに軽く一礼して笑顔を見せた。彼もマガルの属する見廻組の一人だ。
「知らん、院長様に呼ばれたのだ」
「御廻りの労を報じられるのでは?」
マガルは
「まさか」
マガルが軽く笑った。
礼拝所に入ると中は薄暗く黴臭い埃の匂いが鼻についた。もともと、この礼拝所は種族間戦争のさ中、この都市がまだトランド要塞と呼ばれていた頃に、前線の将兵に直接祝福を与える目的で建てられた野戦礼拝所であり、故に敵の矢を避けるため極端に窓が少ない。初めてここを訪れた者は誰もがその気味の悪い昏さに驚くという。実際、この礼拝所には矢石の中で修道士たちが一心に祈祷を捧げて味方を励まし敵を退けた逸話が残っている。今でこそ内装を今様に着飾ってはいるが、喧嘩慣れした風情は隠しようもない。
奥の内陣に燭台の灯が見えた。その灯を目指して身廊を歩く。歩きながら微かに違和感を覚えた。いつもは午後の勤行で数名の修道士見習いが四つん這いで床を磨いているはずだがその姿が見えない。かわりに祭壇の前に十人ほどの人影が見えた。
その人影が修道院の主だった者たちだと認めたマガルは戸惑いを覚えた。院長を中心に院の主だった修道士たちが彼を見つめている。進むうちに列から少し離れて見慣れない者がいることに気づいた。紺色の制服を着た警邏が一人、燭台の灯を避けるように暗がりに身を置いてマガルに刺すような視線を送っている。
祭壇の十歩手前で剣と縄を持ったクラーマの女神像に向かって合掌して一礼すると、作法通り上体を屈めて小走りに中央の老僧の前に進んで跪いた。
「院長様、お呼びにより参りました」
「よく来た。マガル修道士」
院長が慈愛の笑みを浮かべた。ヤン院長の笑顔に騙されてはならない。マガルは警戒した。王族出身の院長は些細なことで激昂する癇癖があった。
「東の教区の様子はどうでした?」
報告書は昨夜のうちに仕上げて朝餉の前に提出していた。読み書きできるお陰で彼は修道士になれたのだ。しかし、わざわざ報告書の件を口にして機嫌を損ねるのも愚かだ。
「はい、些細な偸盗が数件と軽易な訴訟が三件、しかし野盗山賊の類の兆候は認められませんでした」
「そうですか……」
院長がたいして関心が無いように呟いた。話の枕に訊いただけなのだろう。本題は別にあるのだ。
これは略式の神前尋問だ。やっとマガルは気づいた。日頃の勤めを労われるどころではない。何か手落ちがあったか。自分のこれまでの行動を思い返した。自分で言うのも何だが律義に勤めてきた積りだ。院長直々の尋問を受けるような不始末不行跡の覚えはない。
「見廻役配下見廻組徒士修道兵マガル修道士よ。立て」
副院長が厳かに口を開いてマガルを長々しい肩書付きで呼んだ。
「昨日が収穫祭の大詰だったのは知っているな」
立ち上がったマガルに副委員長が尋ねた。
「はい」
祭の煩わしさを避けるために昨夜遅くに巡回から帰ってきたのだ。
「その際に巫女様が拐されたことは?」
「はい?」
言っていることが理解できず、間抜けな声が出た。
マガルの反応に苛立ちを抑えながら副院長は続けた。
「昨日、収穫祭大詰の山車揃の来賓に招かれた巫女ミレーネ様が道中で拐かされた。このことは輿に付いていた者以外知らぬ。祭には、巫女様は体調が優れぬ故に戻ったと伝え、急遽代役を立てたのでまだ公には漏れておらぬ」
そんな大事を軽輩の俺に伝えていいのか? 真意がわからぬマガルは不安になってきた。
「質問をお許しいただけますか?」
副院長が眉を顰めるのを見て慌てて頭を下げて口をつぐんだ。質問は一切許さないのだろう。
構わず副院長が続けた。
「昨夜、投文があった。巫女を無事に返して欲しくば金貨二千枚を寄越せと。その運び役に選ばれたのがお前だ」
「はい?」
もう一度間の抜けた声が出た。
「何故私なのです?」
思わずマガルは口を開いた。
「それはこちらが聞きたい。神の御前で心して答えよ。何故お前が選ばれたのだ?」
「一切心当たりがございませぬ」
「お前はこの修道院に入って一年足らず。もしや一味が送り込んだ間者ではないのかと疑う者もいる」
「滅相もございません」
疑っているのは副院長ではないのか。副院長の酷薄な顔を見ながらマガルは思った。
「まあウルガン副院長、そこまで言わなくとも」
警邏が進み出て割って入った。
「私たちに選択の余地はない。下手人の指示に従うほかないのだ」
「フレイ隊長、しかし……」
副院長の言葉を遮って隊長が続けた。こいつが警邏の指揮官か、マガルは上目遣いに隊長を見た。茶色の髪を撫でつけ髭面に分厚い体躯、修羅場に真っ先に突っ込む手合いだ。
「副院長、まあ聞いてください。我々は巫女様の安全を最優先に考えなくてはならない。しかし、そこのマガル修道士が身代金引き渡しの役を買って出るなら拒むことはできない」
そう言って反応を窺うようにマガルを見た。
「マガル修道士、我々警邏は君が拒むことも考えて、君と外見が酷似している警邏を一名用意している。あくまでも拒まれた場合に備えてだ。勿論、君が拒めば君が一味に同心している疑いは晴れることになる」
なんだこの三文芝居は。だんだんマガルは馬鹿々々しくなってきた。副院長と隊長とで示し合わせて脅しすかして自分に身代金を運ぶ役を降りろと誘導している。それが自分を除くこの場の全員の総意なのだろう。畜生、俺はまるで木偶の坊扱いだ。直接命じればいいのにそうしないのは、巫女に何かあったときに俺に責任を押しつけるためだ。
副院長が院長に向き直った。
「院長、どうでしょう?」
院長が口を開く前にマガルが声を上げた。
「フレイ隊長、身代金の引き渡しについて詳しく話をお聞きしましょう。拐かしの一味から直々の御指名とあらば断わるわけにはいかない」
「マガル修道士、何故引き受けた」
修道院長たちが礼拝所から去ったのを見計らってレナード修道士が詰るように訊いた。マガルより一回り半は若い。黒髪を短く刈り揃え、端正な顔に形のいい鼻が乗っている。折角の二枚目な顔が朱に染まっているのは燭台の灯のせいだけではあるまい。
「それは一味が私を指名したからです。見廻役様」
マガルが努めて無表情を崩さずに答えた。
「これでお前が一味に加担している嫌疑は更に深まった」
「どうせ運び役を断っても嫌疑は晴れないでしょう。成すべきことを成せと女神クラーマも教えているではないですか」
視線の片隅でフレイ警邏隊長が薄く笑った。
「黙れ。戯言を言うな」
この若者はすぐ興奮する。マガルはレナードを冷ややかに眺めた。
「まあいい。お前が一味だろうがどうでもいい。巫女様だけは無事に……」
「まあ抑えて、レナード見廻役殿」
フレイが口を挟んだ。
「マガル修道士は一味とは何の関わりもないし、偶然巻き込まれただけだと思います。さっき巫女様が拐されたことを聞いた時の態度や経緯から考えてその可能性が高い。しかし、だからといって問題がないわけではない」
フレイがマガルに向き合った。
「『
秘していた二つ名を呼ばれてマガルの態度が急に不穏なものに変わった。その名は修道院の誰にも明かしていない。戦場を這っていた頃の名だ。
「何が言いたい?」
「金貨二千枚を手に入れる千載の好機と思っているんじゃないのか?」
「俺が金を盗んで逐電すると?」
「そうは言っていない。しかし、一味ではないからといって全幅の信頼を置くことはできない」
「なるほど」
言いたいことは分かった。そう疑われても仕方がない。銭には苦労した記憶しかない。彼の家は代々モンブル州ヴイヤンの司祭職である。山奥の教会で一生を終えるのは無念と十六の齢で軍の募兵に応じて出奔、大戦に従軍したのを皮切りに王国内戦まで各地の戦場を渡り歩いた。しかし主取りが悪く、彼が大将と頼んだ主家は次々に減封や改易の憂き目に遭い、その度に犬のように路上に放り出され、時には物乞の真似事までして何とか口に糊してきたのだ。
「それでどうしろと?」
マガルが腕を組んで尋ねた。
「贋金を用意する」
事も無げにフレイが切り出した。
「フレイ隊長、それは……」
レナードが絶句した。贋金を渡せば巫女の命は無い。
「院長にご報告せねば」
「待たれよ、見廻役殿」
上ずった声を上げたレナードを手で制してフレイが続けた。
「今、贋金を運ぶことを知っているのは、ここにいる三人と私の部下数名しかいない」
「どういうことだ?」
レナードが眉を顰めた。
「警邏隊は修道院に内通者がいると睨んでいる」
「本気で言っているのか、隊長殿?」
「わからない、しかし主だった者の中にいてもおかしくない。マガル修道士の名前を一味が知っていたのもそいつを通じてかもしれない。マガル修道士はここでは新参者だ。こういう汚れ役には打ってつけの人選だからな」
フレイが二人を見回して声を潜めた。
「それにこのことが内通者を釣るための針になるかもしれない」
「ちょっと待ってくれ」
マガルが手を上げた。
「身代金引き渡しの時に贋金だとわかれば巫女様は殺されるぞ」
「大丈夫だ。引き渡し場所の周囲には人数を伏せてある。お前が身代金を渡すのを合図に全員を取り押さえて巫女様の居場所を聞き出す」
「一味に念話士がいたらどうする? 念話されたら終わりだぞ」
内戦が終わってどの家も多くの将兵が召放になっている。そのうち少なからぬ数が侠家や盗賊に流れていることはマガルも承知していた。
「そんな暇は与えない」
フレイが不敵に笑った。
「だいたい贋金を渡すことは最初から決めていた。金貨を渡したところで巫女様が無事に帰ってくる保証はどこにもない。何か質問は?」
駄目を押すようにフレイが言った。
「一番危ういのは俺のような気がするが、もしかして気のせいか?」
「もう辞退はできない。あんたは巫女様が拐されたことも、贋金を運ぶことも知ってしまった」
マガルは黙り込んだ。ぐうの音も出ない。
「納得してくれたならこの礼拝所の談話室に来てもらおう。引き渡しに出発するまでお二人とも我らの監視下に入ってもらう」
本当に楽しそうにフレイが言った。
その時、扉が音を立てて開かれ、三人は息を詰めた。
「誰も入れるなと命じたのに……」
若さ故か苛立ちを隠さずレナードが呻いた。逆光の中、数人の人影が長い裾を引いて身廊をしずしずと渡って来る。
「まさか、巫女様」
レナードが絶句した。巫女が祈祷堂を出ることは滅多にない。三人は慌てて跪いた。
五人の巫女が三人の前に立った。巫女たちの後ろに立つケーレ堂守役が三人に告げた。
「巫女様から三人にお言葉がある。心して承れ」
三人がさらに平伏した。
巫女筆頭のラウレーアが口を開いた。
「皆さん、ミレーネのこと、よろしく頼み置きましたよ」
三人は答えない。相手は女神エメロアの侍女であり、女神が現身する際の器となる巫女だ。直答は非礼に当たる。
「ミレーネを救い出し、彼女を攫った悪党どもに神の罰を下してください。お願いしましたよ」
それだけ言うと、巫女たちは踵を返して扉に向かって歩き去っていった。
「これは首尾よく果たさねば我らの首が飛ぶぞ」
面白そうなフレイの呟きが聞こえた。
平服に着替えたマガルが一頭立ての軽装馬車を操って修道院を出たのは日も落ちてすっかり暗くなってからだった。麻の上下に紺の綿入れを羽織った格好は外町で小商いを営む中年男に見えた。道の両側はすっかり店仕舞いが済んで板戸の列が並び、犬の遠吠えの他は何も聞こえない。
投文には丑の刻までに金貨二千枚を外町西の外れにある野寄合場に届けろと書かれていた。届け役はマガル修道士たった一人、お約束通り警邏には知らせるなとも書かれていた。丁寧に折り畳まれた紙片に書かれた筆跡は抑揚が利いて雅なものだった。場所はよく知っているので遅れることはあるまい。頭の中で道順を確かめながら、マガルは慎重に馬車を進めた。贋金とはいえ身代金を運んでいるなら尚更だった。
路地を抜けて外壁の西の城門に至る通りに差し掛かろうとしたとき、変化が起きた。人影が道の真ん中に佇んでいる。馬の脚を落としたが道端に寄ろうともしない。やがて星明りの下で人影が両手を拡げた。山嵐のような髪、袖無しの黒革の上衣に霞柄のズボン、黒革のブーツを穿いた二十歳過ぎの若者がにやにや笑いながらマガルを眺めている。背は六尺ほどでマガルより高い。
馬を停め、声をかけようとしたマガルに暗闇から大きな手が伸びて襟首と帯を掴み、御者台から引きずり下ろすとそのまま地面に叩きつけた。全身に激痛が走ったが、嘆いている暇はなかった。見上げると雲を突くような髭面の大男がマガルを見下ろしていた。恋人のようにお揃いの黒革の胴衣とブーツ、唯一の救いは髭面のズボンが藍染だったことだ。
山嵐が近づいて革のブーツでマガルの頭に蹴りを入れようとしていた。磨き込まれた艶のあるブーツが分厚い斧のように見えた。咄嗟に頭を庇った左腕は一撃で痺れ、庇ったつもりの頭にも突き刺すような痛みを感じた。このまま地面に永久に横になっていたかったが、体を転がして素早く二人に目を向けた。相手は二人だけで、他に仲間は見えない。しかし二人だけで十分だった。山嵐も髭面もマガルより若く、背が高く、胸板も厚い。丸腰の自分を心の中で罵った。マガルは激しく咳き込みながら、まだ動く右腕を使ってなんとか体を持ち上げようとした。
丸太のように太い腕がマガルの首と右腋に巻かれてマガルは何とか立ち上がることができたが、それが親切で助けてくれた訳ではないのはマガルにもわかっていた。
にやついた笑顔を顔面に貼りつけた山嵐が続けざまにマガルを腹を撲り、完全に息が詰まった。入ってこない空気を何とか飲み込もうと顎が震え、脂汗が首を濡らした。だが、二人が喧嘩慣れしていないことはわかった。なんとか感覚が戻った左腕で髭面の右手に手を伸ばし、太い薬指を掴むとそのままへし折った。小気味良い軽妙な音がした。
髭面が泣き声のような悲鳴を上げて咄嗟に左手で右掌を押さえて屈みこんだ。自由になったマガルはそのまま地面に跪いた。そのまま顔色が変わった山嵐の両足の間に頭を差し込むように低く跳ぶと、山嵐の両のブーツを抱え込んでそのまま体ごと押し倒した。山嵐の後頭部が路面を直撃した低い音と感触が肩越しに伝わってきた。
髭面は折れた薬指を握ってうずくまってしまい、山嵐は頭を抱えて呻きながら横たわっている。喧嘩に慣れているということは、痛めつけられることに慣れていることに過ぎない。この戦意の失い方は一度も痛めつけらたことがない人間の反応だった。続けて第二撃を加えるべきだったが、マガルの受けた打撃のほうが大きかった。かろうじて二人から離れて息を整えながら得物になりそうな物を探した。足許に手ごろな石を見つけたマガルが拾おうと身を屈めたとき、後頭部に強い一撃を受け、意識が完全に途切れた。
マガルは槍を杖に道をとぼとぼ歩いていた。向こうから百鬼夜行の化物どもが火の車を引いてぞろぞろとやって来る。見回せば周りに立つ者は全て戦死した仲間だ。喉の渇きを抑えきれず、水溜まりに口を付ければ異形の手が伸びて僅か数寸の水の中へ彼を引き込もうとした。
「おい、目が覚めたか、起きろ」
声の質から判断するとレナード見廻役だ。もう一つの顔がぐっと迫ってきた。フレイ警邏隊長だろう。
「気がついたか、マガル修道士」
口振りから二人ともマガルの境遇に同情していないことだけはわかった。
ゆっくり体を起こして地面に胡坐をかいた。後頭部に鈍い痛みが走り、思わず手で押さえた。
「状況を説明してもらう必要がある。大丈夫か?」
「ああ」
喉が渇いて声が掠れた。
「何があった?」
「いきなり襲われた、知らない相手だ。少なくとも三人。二人は二十そこらの若造だった」
「偉そうな口を利いておいてこの様か」
レナードが詰るように言った。
「道中は監視していなかったのか?」
レナードを無視してフレイに聞いた。
「外壁の西門から外へは私服の警邏を配置していた。まさか壁の中で襲われるとは予想してなかった」
言い訳するようにレナードが答えた。
「今何刻頃だ」
「もう丑二つの鐘が鳴った」
「もう一つ教えてくれ、荷台の身代金はどうなった?」
レナードが呆れたように首を振った。
「あるはずがないだろう」
マガルがゆっくりと立ち上がった。まだ足がふらつく。二人組に痛めつけられた体の節々が抗議の声を上げ、痛みに息が止まった。
「俺を馬車に乗せてくれ」
「一体何を」
「俺を襲った連中が巫女を拐かした一味の保証はない。全く関わりの無い追剥かもしれん」
「何が言いたい?」
「もし追剥なら、野寄合場に行って一味の受取役に事情を話して身代金の猶予を得るしかない」
「約束の刻限を過ぎて一味の連中が残っていると思うか?」
フレイが疑わしげに尋いた。
「兎に角、俺が受渡場所に行くことが今できる最善手じゃないのか」
その時、警邏の一人が駆け寄ってきてフレイに目配せした。フレイが二人から十歩ほど離れると、彼に小さく耳打ちして紙片を渡したのが見えた。その紙片に目を落としたフレイが二人に近づいて声を掛けた。
「今、修道院に詰めている念話士から連絡があった。敷地に射込まれた矢文を夜廻りが見つけた。指定の場所と刻限に身代金が届けられなかった以上、交渉は打ち切りだと書かれていたそうだ」
「つまりお前はけちな追剥に身代金を渡したことになる」
レナードが吐き棄てるように言った。
「まあ、見廻役殿、あれが贋金だったことが不幸中の幸いだった」
「本物の金貨はどこにある?」
紙巻を取り出しながらマガルがフレイに尋ねた。
「警邏隊で厳重に保管してある」
フレイが懐から紙巻をくわえ、レナードにも一本手渡した。
「なら出来るだけ早く修道院に返すことだな」
火打石を取り出して火縄を点け、フレイとレナードにも火を分けながらマガルが言った。
「お前に言われるまでもない。すぐにでも事情を話して返納する」
そう言ってフレイが紙巻を深々と吸い込んだ。
「それでは俺はもう関係ないだろう。日々の勤行に戻らせてもらって構わないな?」
マガルが紙巻をくわえてレナードに訊いた。見廻組としてやらねばならない仕事は少なくない。
レナードが窺うようにフレイを見た。視線に気づいたフレイが頷いた。
「追剥の人相について聴き取らねばならないので付き合ってくれ。もしかしたら一味と何か関わりがあるかもしれない。それが終わったらもう用はない」
それからフレイはレナードに向き直った。
「今は相手の出方待ちだ。その間に修道院内の内偵を進めたい。話を詰めたいので見廻役殿には付き合ってもらう」
悪夢のような一日がやっと終わった、とマガルは心を撫で下ろした。あれほど飽いていた日々の勤めが今は懐かしい。しかしもっと悪夢な日々が続くことをマガルはまだ知らなかった。
辰の刻も過ぎ、ようやく警邏から解放されたマガルは空きっ腹を抱えて修道院の厨房に顔を出した。厨房は朝餉の後始末で下女たちが忙しく立ち働いていた。
「今頃何しに来やった」
マガルの顔を目敏く見つけた三十搦みの肩の張った下女頭が叱声を上げた。
「今まで勤めで他行していたのだ。何か食い物はあるか?」
巫女誘拐の件は見廻役より他言を固く禁じられていた。
きつい目が仁王立ちでマガルを睨み据えた。
「夕餉まで我慢せい」
彼女は何人もの下女を追い使って修道院の厨房を差配しているせいか口が悪かった。
「頼む、ガラヤ。温かい飯を食わせろとは言わぬ。せめてパンの欠片なりとも食わせてくれ」
「これでも食っておれ」
ガラヤが棚の抽斗から出した紙包みをマガルの手に乗せた。開けると小さな焼菓子が四つ入っていた。
「ありがたいが、これだけでは腹の足しにもならん」
「今はそれしかない。足りぬなら庭の草でも毟ればよい」
仕方なく一つ摘まんで口に入れた。
「ふむ、味が全くしないな」
「余った麦粉で手慰みに作ったものだ。贅沢言うな」
水をくれと言おうとしたとき、修道士見習の少年が厨房に入ってきて声を掛けた。
「マガル修道士、副院長がお呼びです」
「わかった」
厨房を出ようとしたマガルが思い出したように振り返った。
「馳走になった。かたじけない」
「いいからさっさと行け」
満更でもない面でガラヤが噴と小さく笑った。
「マガル修道士、汝を探索方に任ずる。巫女様の行方を追い、あわよくば救い出せ」
執務室でウルガン副院長は開口一番そう言い放った。
「は?」
「聞こえなかったか?」
「いえ、よく聞こえました。しかし何故私が?」
「お前はこの件の関係者だからだ」
「私はたまたま身代金の運び役に選ばれただけで、それも失敗った愚か者です。それに探索方の手技も年季もありません」
内戦の頃はこの修道院もそういう連中を飼っていたことはマガルも聞いていた。しかし、その真似事をやれというのは、鶏に鷲の真似をして狐を捕れというに等しい。
「それでも引き受けてもらわねばならん」
「何故でしょう?」
「お前は表向き召放になるからだ」
マガルは困惑した。そんなマガルを副院長は冷ややかに笑った。
「はい?」
「この度の一件で巫女様たちがいかい御立腹でな。誰かが責を負わねばらななくなった。恐るべきは美女の癇気だな」
まるで他人事のように言った。
「その誰かが私ですか」
「お前が追剥に襲われなければ、今頃は一味を召し捕えてミレーネ様をお救い申し上げていた筈だ」
「それならば追剥の横行を許した警邏の責も問わねば道理に悖るのでは」
「これは決まったことだ」
抗弁は許さない、そういう言い振りだった。
「探索方を引き受けるなら、ミレーネ様が無事お戻りになってほとぼりが冷めれば呼び戻す。引き受けなければ文字通り召放つ。どこかの村で居喰いに戻るがよい」
居喰いとは村が共同で雇う用心棒のことだ。食と住居を世話されるかわりに野盗の襲撃や村合戦では先頭に立って戦わねばならず、村に軍役夫役が課せられれば真っ先に選ばれる。下手をすれば村を襲う魔獣の相手をさせられることもある。割に合わない稼業だが、戦が終わり治安が回復しつつある昨今では居喰いを飼う村も少なくなっていた。
「わかりました。引き受けさせていただきます。ただし」
合掌して頭を下げた。
「何か手掛かりなりありませんと探索の糸口もございません」
「その点については些か心当たりがある」
副院長の言葉を聞いて、マガルの大きな瞳がぎらりと副院長を見た。その眼力に見据えられて副院長に僅かに緊張が走った。
「巫女様が拐かされたときの様子は聞いているな」
「はい」
「あれは天魔の所業だ」
外法外道の技のことだ。今では禁忌とされ、使う者は根絶やしにされたといわれている。
「そこで、夷には夷、魔には魔よ」
副院長が得意げに鼻を鳴らした。
「はあ」
何が言いたいのか分からず、思わず気の抜けた返事が出た。
「外町の南にあるあしか亭という店を知っているか?」
「名前だけは。亜人相手に商売をしている飲み場と聞いています」
あまりよい評判は聞いたことがない。少なくとも堅気の店ではあるまい、くらいの知識しかなかった。
「そこを頼れ、あの店にはこの手の技に長けた魑魅も出入りしているという噂だ」
「噂ですか」
「そうだ、しかし何もないよりましだろう」
「わかりました」
「ただし、私が教えたことは他言無用だ。わかったな」
副院長が机の上に布の袋を置いた。
「銀貨が二十枚入っている。当座の費えに使うがいい」
無言で両手で袋を押し頂くと懐に入れた。それを見届けて副院長が言った。
「今後の連絡は搦手門を使え。見廻組の者どもには話を通しておく。何かあれば報せよ」
マガルは合掌して頭を下げた。腑に落ちない何かが腹に溜まってどうにも腹の据わりが悪かった。俺はどうやら体のいいお払い箱になったらしい。
他に行く当てのないマガルがあしか亭の前に立ったのは、まだ日も高い申の刻に差し掛かった頃だった。看板に吊るされた箒から、この店が日が落ちてからなのはわかっていた。しかし、夜に魔に逢うのはいかにも薄気味悪い。この店の者が巫女を攫った一味に加担していないとも限らない。用心し過ぎることはない。
板張りの大きな平屋の戸口に吊るされた看板が見上げた。あしかを彫りつけた積りだろうが、マガルには太った化物が寝汚く午睡に耽っているようにしか見えなかった。
両開きの扉を開けて敷居を跨いだ。中は外町にありがちな
奥のカウンターに褐色の女が一人、掃除をしている女が四人。皆突然の闖入者をじっと見つめている。店の仲居たちだろう。一味に関わりがあるとは思えなかった。店ごと絡んでいるならともかく。
扉の前で立ち尽くすマガルに向かって、箒を持った一人が木沓で床板を叩きながら小走りに寄ってきた。背は四尺五寸ほど、浅黄色のエプロンに継ぎ接ぎされた深緑色のズボンを穿いた禿髪の少女だ。ぺこりと下げた頭が上がり、三白眼の中の小さい赤い瞳がマガルを見上げた。
「ごめんなさい。この店は日が落ちてからなんです」
「すまない。私の名はマガルという。女将に用事があって来たのだ」
少女は小首を傾げて考えるふうだったが、すぐに後ろを振り返って奥の女に向かって大きく声を上げた。
「ニド姉さん、お客さんだよ」
奥の女がカウンターを回ってこちらに歩いてきた。暗褐色の肌に尖った耳が横に伸びたダークエルフだ。背は五尺余、ダークエルフの娘にしては幾分痩せている。一般にダークエルフの娘はもっと豊満だ。銀の長髪に膝までの黒いケープを羽織り、紅い瞳がやけに目を引いた。
ダークエルフは丁寧に一礼すると、一重の吊り目がちの眼がマガルをまっすぐ見つめた。
「ようこそ、この店の女将のニドと申します。マガルさん、でよろしいですね」
にこやかな笑顔に一瞬魅入られた。
「ああ」
「立ち話も何ですからこちらへどうぞ」
椅子に座るよう促されてマガルは無言で腰を下ろすと、ニドという名のダークエルフが椅子を回してマガルの横に座った。埃っぽい空気の中で甘い体臭が鼻孔をくすぐった。
「アイカ、ロラに黒茶を淹れるように伝えてきて、二杯分ね」
少女にそう伝えると、マガルに向き直って小さく微笑んだ。
「マガルさん、どういったご用件かしら?」
マガルは口ごもった。巫女が拐かされたことはまだ公表されていない。マガルは心の中で自分の迂闊を罵った。店に入ったはいいが、どう切り出すのか全く考えていなかった。
アイカと呼ばれた少女が盆に湯呑を二つ運んできた。
「どうぞ」
湯呑を置いて深々と頭を下げた。
「ありがとう」
マガルが礼を言うと、アイカはにっと笑って去っていった。まだ年端もゆかぬ子供だ。
「この店はあんな子供を夜まで働かせているのか?」
アイカの背中を眺めながらマガルがこれ幸いと時間稼ぎに訊いた。
「ええ、働かないと食べていけないもの。それにあの子はうちの看板娘なの。うちは女を売り物にしない真っ当なお店なんですからね」
その言葉で店の中を見回した。
目の前のダークエルフも店内を掃いている三人も娼妓のほうが似合いそうな美形だ。異様なのは掃除している三人だ。安物のドレスを着ているが、たてがみのように盛り上がった赤銅色の髪といい、琥珀の瞳といい、無表情な顔といい、三つ子のようにそっくりだ。三人とも不審なはずのマガルに一切興味を示さないのが逆に不気味だった。
目の前でニドが金色のパイプをくわえて火打石を使って火をつけた。その所作に天女の舞を見ているようで逆に薄気味悪さを感じた。
年経た狐狸は家に棲み美女に化けて訪れる人を誑かして遊ぶという。目の前の黒茶も実は
心を落ち着かせようと懐を探って紙巻を取り出した。紙巻がくの字に歪んでいる。小さく舌打ちしながら形を整えて口にくわえた。
ニドがパイプを差し出しながら言った。
「あなた、教会の人でしょう?」
貰い火しようとしたマガルの動きが止まった。動揺を悟られまいとパイプを掴んで火皿から紙巻に火をつけた。微かに触れたニドの柔らかい指先に更に動揺した。
「どうしてわかった?」
「それに教会のお仕事は僧兵でしょ」
ニドが細く煙を吐いた。
「血と鉄の匂いがするもの。妙に姿勢も真っ直ぐだし、それにその足運び。長く鎧を着ていた人のそれだわ。その頬の刀疵も。あなた、前は兵隊さんだったでしょう?」
マガルは背筋に冷気を感じて思わず身震いした。やはりこの女は狐狸の化身かもしれぬ。
「女将、
「そんなに怖がらないで。長くこういう商売してる女なら誰だってそれくらいわかるわ」
マガルの心を見透かすようにニドが艶然と微笑んだ。
「それで、教会の荒法師さんがどういったご用向きなのかしら?」
この女に誤魔化しは効かぬ。マガルは観念して腹を据えた。紙巻を一息吸ってゆっくり煙を吐いた。
「エメロアの巫女様は知っているな」
「ええ、修道院の奥の祈祷堂で一年中お祈りしてる巫女でしょ」
つまらなそうにニドが答えた。
「収穫祭の山車見物に招かれたのだが、道中で拐かされた」
「あら」
「道で芸を売っていた傀儡舞の稚児がやにわに大入道の首に変じ、宙を飛んで巫女様を攫ったのだ」
黒茶を一口啜って唇を湿らせた。
「外法の術だ。それでここに来た」
「どうして?」
初めて不思議そうな顔をしたニドを見て、こういう顔もできるのかとマガルは見直した。
「この店に来れば、外法に詳しい者に会えると人伝えに聞いたのだ」
「そんな用事で来たの?」
「出来れば巫女様を探す助力も頼みたい」
「買い被りもいいところね。詳しい話を聞かないと答えられないわ」
一通り話を聞いたニドがゆっくりパイプを吸うとふっと煙を吹いた。うわの空で何か考え込むようだったが、やがて黒茶を啜って口を開いた。
「一人心当たりがあるわ。紹介してもいいわよ。でも」
紅い瞳に見据えられてマガルはたじろいだ。
「扱いには細心の注意が必要よ」
「どういうことだ?」
「一種の凶神だからよ。それでもいい?」
「巫女様を無事お救いするためだ。悪魔の手だって借りよう」
他に当てはない。毒啖らわば皿までの心境でマガルは答えた。
「わかったわ。覚悟はできてるのね」
鼠を前にした猫のようにニドがにたりと笑った。
「それじゃマガルさん、店の準備もあるから奥の部屋で待ってくださる?」
パイプを仕舞うとニドが立ち上がってマガルに言った。
「ここで待たせて貰っても構わないが」
「駄目。店の準備の邪魔よ。こっちに来て」
有無を言わせずマガルの手を取った。
引かれるままにカウンター奥の暖簾を潜ると、そこは厨房だった。女が一人、料理の下拵えをしている。六尺を超えようかという大女だ。艶やかな黒髪を後ろで束ね、透き通るような白い肌を暗黄色のシャツと藍染めのズボンで包み、見事にくびれた腰に茶革の前掛けを締めている。シャツに無粋に押し込まれた豊かな胸に目を奪われた。切れ長の二重眼の赤い瞳がマガルを捉え、涼し気に微笑んだ。
「あら、お客さんですか?」
柔らかい声が涼やかに響いた。
「ええ。こちらは教会から来られたマガルさん。奥の部屋を使うわよ」
ニドが答えた。
「マガルと申す。お取込み中のところ恐れ入る」
手を引っ張られながらマガルが慌てて頭を下げた。
「これはご丁寧に。ロラと申します。こちらこそよろしくお願いしますね」
両手を添えてゆっくりと頭を下げた。
「それと『伯爵』を呼ぶから料理を作っておいて」
マガルを引っ張りながらニドがロラに言った。
「伯爵さんですか、久し振りですね」
ロラが嬉しそうに笑った。
案内されたのは、厨房を過ぎた短い廊下に面した部屋の一つだった。中は六畳ほどで真ん中に木の寝台が置かれている。
「空き部屋だからゆっくりしていてね」
「さっき伯爵と呼んでいた者が例の外法使いなのか?」
「そうよ。人をやって伯爵を呼んでくるからそれまで待っていて。どうせ暗くなるまで来ないから」
「わかった」
「お腹空いてない? 何か食べ物がいるならロラに言ってね」
それだけ言ってニドは戸を閉めて部屋を出ていってしまった。
取り残されたマガルは部屋を見回した。四隅の燭台の他に何もない殺風景な部屋だった。鎧戸の隙間から差し込む日の光だけで中は薄暗い。寝台に腰を下ろして横たわり、今回の一件を頭の中で反芻した。
一味が「交渉は打ち切りだ」と通告したにもかかわらず、マガルは本気で信じていなかった。金二千枚という大金が目の前にぶら下がっているからには、一味から再び交渉の連絡が入るはずだ。それまで修道院との繋ぎを絶やさないようにしなければ。しかし何の成果もなく修道院に足を向けるのは躊躇われた。様々な考えを巡らせながら、マガルはいつの間にか眠りに落ちていた。彼は気絶していた間を除いて昨日から一睡もしていなかった。
どれくらい寝ていただろうか。部屋に入る人の気配でマガルは目を覚ました。ゆっくり戸口に目を向けると、佇んでいるニドと目が合った。外はすっかり暗い。寝ている間に燭台に火を入れたのだろう。揺らぐ小さな灯りの中でニドが笑みを浮かべた。
「ニドか」
呼びに来たのだろうと上体を起こそうとするマガルをニドが手を上げて制し、それから人差し指を自分の唇に当てて悪戯っぽく微笑んだ。
媚を含んだ眼差しでマガルの目を見つめながらニドが寝台に上がった。膝立ちになってゆるゆるとケープを脱ぎ捨て、締まった裸身に黒い晒と白い下帯だけの姿になり、そのままマガルに跨るように四つん這いになった。女の体臭が甘い。ニドはそのまま鼻先をマガルの首筋に近づけ、すんすんと鼻を鳴らした。細く柔らかく優しい銀の髪がマガルの顔をくすぐった。
(俺を誘うか)
マガルも艶事はとんと無沙汰だ。ついふらふらと細い腰に手を回して引き寄せた。
くっと切なく呻いてニドがマガルに体を預けた。細いダークエルフの心地よい体重を感じた。そのまま体を入れ替えて上になると、身をよじるニドの濡れた唇から切なげな喘ぎが漏れた。マガルを見返す紅い瞳が濡れ輝いている。マガルはニドの唇に舌を這わそうと顔を近づけた。
「はい、そこまで」
声のする方を向くと、開いた戸の前で仏頂面のニドが腰に手を当てて立っていた。
「え?」
我に返ったマガルは、抱き締めた枕を舐めようと舌を突き出している自分に気づいた。
「わっ」
枕を放り投げて跳ねるように上体を起こした。
「もう、
ニドが顔を戸の外に向けて声をかけた。
「すまぬ、その者の心底が今一つ掴めなかったからな」
低い声とともに黒い外套を着た痩身の男が部屋に入ってきた。齢は四十前後、背は六尺に僅かに足りない程度か、背の割にやや長めの腕、暗がりに浮き上がる病的に青白い肌、黒髪を総髪に撫でつけ、鷲鼻の上の細い鋭い目が寝台に座り込んだマガルを品定めしている。
「これでわかったでしょ?」
「ああ、わかった」
男が口を引きつらせた。どうやら笑ったようだ。
「教会の手の者と聞いて用心したが、腐っても異端審問官、このような者を討手には選ぶまい。女に弱いところを見るに、これは俗物だな」
「異端審問なんて百年も前の話よ」
「百年など互いに褥の夢に等しいではないか」
「このお方はどなたか?」
ようやく混乱と羞恥から回復したマガルが問うた。
「さっき言ってた伯爵よ」
「伯爵は止めてくれ。もう爵位を捨てて久しい」
伯爵はそう言ってマガルに手を差し出した。
「今はただのクルーガだ。先程は失礼した。よろしく、マガル殿」
マガルがおずおずとその手を握ると、クルーガは無理矢理な笑顔を作った。
「それでは店で食事をしながらお話を伺おう」
店内は噂通り亜人の客が多かった。人間の客に交じってエルフがげらげら笑いながら盃を傾け、その横ではリザードマンが名前も知らぬ生魚を丸呑みし、オークが砂糖菓子に夢中な童のように茹でた人参を次々口に放り込んでいる。そこら中で床が踏み鳴らされ、椅子が軋み、皿が机の上で踊るように鳴った。煙草の煙が白い帯を作り、その雲の中を泳ぐように流しの娼婦が媚びを投げながら行き来している。
「この店も久しぶりだ」
クルーガがカウンターに両手を載せて楽しそうに言った。
「いい店だと思わないかね?」
隣に座ったマガルに顔を突き出して訊いた。
「こういった店には殆ど縁がなくてな」
「そうか。この店はいいぞ。まるでぐつぐつ煮込んだ闇鍋の底だ。悪徳と汚辱に蠢く毒蛇の舌だ」
「それ誉め言葉じゃないわよね」
ニドがむすっとしてパイプをくわえた。
「飲み物はいつものでいい?」
カウンター越しにニドが湯呑を二人の前に並べた。
「いつものを頼む」
クルーガが機嫌よさそうに肩を揺すりながら答えた。
「マガルさんは?」
「黒茶を頼む」
今は酔う訳にはいかなかった。得体の知れぬ外法使いを前にすれば尚更だ。
ニドが急須からマガルの湯呑に黒茶を注ぎ、続いて小振りな薬缶を取ってクルーガの湯呑に湯気の立った透明の液体を注いだ。
「それは?」
不思議に思ってマガルが訊いた。
「砂糖水だよ」
クルーガが湯呑を両手で包んだ。
「私には酒も黒茶も刺激が強すぎてね。ああ、私に気を遣うことはない。君はどんどん飲んでくれ給え」
顎を少しだけ上げてにんまり笑った。
両手に皿を持ったロラが暖簾を割って入ってきた。
「お待たせしました」
マガルの前に大きな木皿を置いた。敷かれた菜葉の上に茹でた大海老が乗っている。
「河口で取れた蛇紋海老です。美味しいですよ」
それから大きな深鉢をクルーガの前に置いた。中は赤味がかった黄色いどろりとした液体だった。
「ああ、これかね。野菜を細かく擂り下ろして煮たものだ。私は生来胃腸が弱くてね。固い物は体が受けつけないのだよ」
気味悪そうに眺めるマガルの視線に気がついたのか、クルーガが楽しそうに説明しながら匙で掬って口に入れた。
「美味い」
満足げに呟いた。
「ロラさん、今日の料理も実に美味い。今日は何が入っているのかね?」
「芋と大根、南瓜に玉葱、蕪、チーズ、それに大蒜を少々、他にも新鮮な桃も手に入りましたので」
「素晴らしい」
マガルにはとても素晴らしくは思えなかったが、クルーガは感動に打ち震えた。
「ご満足いただけで何よりですわ、伯爵様」
「おお、今でも私を伯爵と呼んでくれるのはロラさんだけだ」
そう言ってロラの手を握りしめた。
「あなたさっき私に伯爵って呼ぶなって言ってなかった?」
横で聞いていたニドが無愛想に煙を吐いた。
「それではごゆっくり」
ロラが厨房に引っ込むと、クルーガがマガルに向き直った。
「いい店だろう? さあ君も食べたまえ、話はそれからだ」
どこがどういいのかよく理解できなかったが、美女揃いの店なのは理解できた。確かに海老は旨かった。
「それでは本題に移ろうか、マガル殿」
食事を終え、砂糖水を一口啜ってクルーガが口を開いた。
「マガルでいい。ニドもマガルと呼んでくれ」
「それなら私もクルーガと呼んでもらおう。構わないね?」
「ああ。その前に確かめておきたい」
「何かね」
「並の人間ではないのだろう、何者なのだ?」
「ふむ」
クルーガが目を閉じてゆっくりと息を吸った。
「吸血鬼よ」
カウンターからニドがマガルの疑問に答えた。
「え?」
マガルは絶句した。
吸血鬼と聞いてマガルが怖気立ったのも無理はない。「
今でも一部の地方では、幼子が夜泣きすると
「ほれ、吸血鬼が窓から覗くぞ」
などと言って脅す。
恐るべき膂力を備え変化の術に通じ、数多の使い魔を従えて夜な夜な人の生き血を啜る怪物。血を吸われた者は、童貞処女は吸血鬼の眷属に、そうでなければ屍食鬼に成り果てるという。
伝承によれば、吸血鬼とはもともとこの地の先住民の一つである。
初代国王ゼネキデス一世がナダンの山中に遊んだ折、川で
この理不尽な仕打ちに怒ったヴァンの民の一部は邪悪な儀式を行って魔を降ろし、山を下って市井に潜んで
「世に
と貴賤を問わず殺戮を繰り返した。人々はこれを吸血鬼と呼び、説話や唄に残して長く恐れた。
(その吸血鬼も教会の異端審問官の執拗な掃討を受けて
目の前で擂った野菜汁と砂糖水を啜る痩男がその生き残りだとはマガルには信じられなかった。
「まあ信じられないのも無理はない。特に宣伝はしていないからな」
クルーガが恥ずかしそうに笑った。
「大まかな話はニドから聞いている。先ほど見せた通り、私は些か外法の術に通じている。私が吸血鬼か否かは兎も角、今はそれで十分ではないかね」
その言葉にマガルは居住まいを正した。
「その通りだ。巫女を攫った外法使いに心当たりはあるか?」
「ふむ、攫った時の手口から外法の一つなのは間違いない。その者はかなり使う」
「あんたよりもか?」
「うむ、私以上かもしれない。かの外法使いは大勢の者たちに同時に同じ幻を見せた」
「あなたも出来るでしょう?」
ニドが口を挟んだ。
「やれぬことはないが気骨が要る」
クルーガが懐から細巻の葉巻を取り出し、ニドのパイプから火を貰った。
「この術は魔法に似て魔法に非ず。一種の手妻だ。人の心の隙を突いて幻を見せ、更には思うがままに操る。言ってしまえば他愛もないものだ」
「手軽そうには思えないが」
つられてマガルも懐から紙巻を出した。
「勿論その者の才にもよるし、長い修練も必要だがね。このニドだって多少は使えるぞ」
「やめてよ」
ニドが慌てて声を上げた。
「このニドはかつて山賊の頭目が構える屋形の軒下に十日潜み……」
「ほんとにやめないと怒るわよ」
ニドが冷ややかな目でクルーガを睨んだ。
「わかった、この話は止めよう」
怪人がダークエルフの小娘に頭を下げた。
「とにかく、相手はかなりの術師だ。それ故に探しようもある」
「どのように探す?」
「今は使えない。明日、やり様を教えよう」
「それともう一つ聞きたい」
煙を吐きながらマガルが訊いた。
「何かね?」
「外法を封じる技はあるのか? 先程のように相手の外法使いに誑かされないためだ。頼む」
クルーガの僅かに開いた目がマガルをまじまじと見つめ、ふいに微笑んだ。
「安心し給え。先に言った通り外法は人の心の隙に付け込む技だ。心強く持つ者には外法は通じぬ。故に戦陣の兵にこの術は効かぬと言われている」
ゆっくりと紫煙を吐いて励ますように言った。
「君はかつて戦働きしていたとニドから聞いている。その時の心根を思い出せばよい」
これで話は終わりだというふうにクルーガがニドに向き直った。
「ロラさんにおかわりを頼むと伝えてくれ」
夕餉を終えたマガルは、早々に寝ようとニドとクルーガに告げて部屋に戻り、店の喧騒を微かに聞きながら寝台に仰臥した。明日からどうしたものかと物思いに耽りながら杉無垢の天井を眺めていると、戸が開く音とともにニドが入ってきた。
「もう寝ちゃったの?」
両手に酒瓶と湯呑二つを持って寝台に腰を下ろした。
「何しに来た?」
上体を起こして胡坐をかいたマガルが訊いた。
「ご挨拶ね、喉が渇いてるんじゃないかって思ったの」
湯呑を一つマガルの手に渡して濁酒を注いだ。
「また外法で俺を嬲るか」
「そんなわけないでしょ。私は止めようとしたのよ」
ニドが自分の湯呑に手酌で注ぐとくいと一口呑んだ。それを見てマガルも恐る恐る口をつけた。上等な酒ではないが酸味が利いて僅かに甘い。
「うまいな」
「でしょ、アキュールから取り寄せた馬乳酒よ」
ニドが得意げに微笑んだ。
「あなた、内戦ではギガンにいたの?」
「ああ」
酒を舐めながらマガルが答えた。
「頬の疵はギガンの毒矢と見たけど、やっぱりね」
マガルはニドの観察眼に感心した。
王国内戦で、マガルは革命軍の拠点の一つであるギガン州に攻め込んだ第三軍の列にいた。最初は鎧櫃一つ槍一筋の陣借り身分での従軍だった。ナジュムを落とした際の戦功で組頭に取り立てられ、ハンマ第五王子六千の軍勢に編入されて北上する軍の先鋒になった。その後、ゲシェル伯軍五千とブラン城攻めの先陣争いの最中に城から放たれた矢が頬を掠った。
「掠り傷と甘く見たのがいけなかった」
マガルは唇を舐めながら引き攣った頬の疵を撫でた。
「ブラン城はエルフの弓達者ばかり揃えた滅法きつい城でな」
あの辺りのエルフは狂暴で鏃に毒を塗ることが半ば常態化していた。最初は傷口を洗う程度で済ましていたが、次第に赤く膨れ上がり、慌てて薬を塗ったが追いつかない。そのうち顔が西瓜のように膨れ上がった。
「切出で腐った肉を削ぎ落した。おかげでこの有様だ」
「戦疵は武人の誉れよ」
ニドが手を伸ばして頬の疵に触れた。
「でもハンマ王子の軍ってあなたも運がなかったわね」
マガルは苦笑した。
ハンマ王子は国王が白拍子に産ませた子だが、傲岸愚昧と評判の王子だった。第三軍の一翼を担ってムジ山に進んだハンマは、革命軍が大挙攻め寄せるとの報を聞くや味方を捨てて敗走、「王国一の卑怯者」と謗られて王都に召還されて蟄居の身となり、数年後に病を得て死んだ。当時は毒を飼われたという噂が流れたが、誰に殺されてもおかしくない男だった。
「王子が逃げたとき、俺はムジの出城にいた。譜代の臣ではなかったから、そのまま置き捨てにされたのだ」
マガルは指先についた酒を舐めた。
「ゲシェル伯の雑兵どもと共に隊を組んで敵中を抜けてやっと友軍に合流したら、我らは臆病者の配下として宿営地に禁足だ」
更にギガンの革命軍が駆逐されると武具を没収され、その場で召放ちを受けた。
「その後は居喰いしながら村々を転がり、その伝手でようやくここの修道院に修道士として潜り込んだ訳だ。神職を嫌って家を出たのに結局この齢で教会に出戻りよ。しかも数段品下がって平僧兵とは。そしてそこも攫われた巫女様を探し出すまで戻ってくるなと追い出された。やることなすこと全て裏目だ」
湯呑に残った酒を一気に呷った。
「俺はもう阿呆らしゅうてなあ」
口にしたことで心の底から自分が情けなくなってきた。顔を上げていられない。床を見つめてうなだれた。
「世の中にはいつも貧乏籤を引き当てる人がいるっていうけど、あなたがそれね」
ニドは空になった酒瓶と湯呑を床に置くと、体を寄せてそっとマガルの右の手首を取った。
「何をする」
ニドはマガルの問いに答えず、微笑みながら手をケープの裾に導いた。ケープの下の柔らかい裸の胸を掌に感じ、中指の先が女の固く勃った乳首に触れた。目を上げると優しく濡れた紅瞳がマガルを見据えていた。
「ねえ、女に抱き締められてその胸で泣くのと、女を抱き締めてその胸で泣くのと、どっちがいい?」
遠くで鶏が時を作る音が聞こえた。
「どう? 気が済んだ?」
裸の胸に乗った男の剃り上げた頭を撫でながらニドが訊いた。
「幻じゃなかったんだな」
マガルが僅かに浮いた女の肋を確かめるように撫でた。
「失礼ね。私はいい男に手妻を使ったりしないわ」
「
自嘲気味に短く嗤った。女に惚れられる顔ではない自覚はある。そんな台詞は銭を払った商売女にしか言われたことがなかった。
「そうよ。あなたはとてもいい男」
ニドがマガルの額にそっと唇をつけた。
「不運に挫けず生き抜いてるじゃない。こんないい男他にいないわ」
そう言ってマガルの頭を抱き締めた。
「貧乏籤なんかに負けないで。例え運命の女神があなたを見離しても、私はあなたを見離さない」
「ありがとう、ニド、お前もいい女だ」
「当たり前のことだから嬉しくないわ」
嬉しそうに言って抱き締める手に力が入った。
「ねえ、もう鶏が鳴いてるわ。ご飯にする?」
「いや、もう一度励ましてくれ」
ニドが鈴のような笑い声を上げた。
「いいわよ」
マガルがホールに顔を出したのは、日も高く昇った巳の刻に掛かろうとする頃だった。あの後、カウンターで待つようにマガルに告げてニドは部屋を出ていった。仕方なく部屋を出て厨房を抜けると、カウンターではクルーガが昨夜と同じ格好同じ姿勢で砂糖水を啜り、細巻をくゆらせながらロラと談笑していた。
「おはよう、よく眠れたかね」
マガルの姿を認めたクルーガが背筋を伸ばして挨拶を投げた。
「ああ、おかげさまでね」
クルーガが隣に座ったマガルを見つめ、ふいににやりと笑った。
「何か顔についているか?」
言いながらもマガルは内心動揺した。ニドとの交情を悟られたと直感した。
「何か吹っ切れたようだな。昨夜の凶相が嘘のように消えている」
マガルの心中を知ってか知らずか何か納得したようにクルーガが頷いた。
「おはようございます、マガルさん」
続いてロラが笑顔で頭を下げた。
「朝餉をお持ちしますのでお待ちくださいね」
「いや、出掛けねばならない。水の一杯も頂ければありがたい」
そう言って懐から紙巻を取り出した。
「まだ時間はある。ロラさんの好意を断るのは勿体ないぞ。私もさっきロラさんの料理を食べたが、おかげで今日は素晴らしい一日になると確信した」
クルーガが火の点いた細巻を差し出した。
「ふふ、伯爵様は御冗談がお上手」
恥ずかしそうに笑ってロラが暖簾の奥に消えた。
マガルはクルーガの細巻から火を貰った紙巻を大きく吸って煙をゆっくり吐いた。ロラが消え、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「吸血鬼なのに朝でも平気なのだな」
沈黙に耐え切れなくなったマガルが先に口を開いた。
「ああ、そのことかね」
間髪を入れずクルーガが声を弾ませた。この男も話す機会を窺っていたのだろう。
「吸血鬼が日光を避けるいうのは大変な誤解だ。その証拠に私はこうしてぴんぴんしているだろう?」
そう言って得意げに両手を広げて笑った。
「ついでに言うと、人の生き血を好むというのも嘘だ。吸血鬼は君たちと違って胃腸が繊細でね。食べ物は何でも摺り下ろして汁にする。それが血を啜ると誤解されたのだ」
「そうなのか?」
「全ては我らを恐ろしい妖魔と決めつけんがための流言だよ」
そう言ってマガルに向けて口を開けた。普通の歯並びだ。話に聞くような尖った牙は見られなかった。
「だから、血を吸われた者が吸血鬼やら屍鬼やらになるというのも出鱈目だから安心して欲しい。血を吸って同胞を増やすような無粋な真似など考えただけで悲しくなる。そういうのは男女の純粋な愛の行為の結果でなくてはならない。そう思わないかね?」
そう言ってマガルの目を力強く見つめた。
「ああ、そうだな……」
「お待たせしました。何のお話をしていたのです?」
ロラが暖簾から顔を出して満面の笑顔で深鉢と小皿を並べた。中身は芋粥と焼いた小魚が三尾、その横に黒茶の湯呑が置かれた。
「賄いで申し訳ありませんけどお召し上がりくださいな」
「いや、かたじけない。有難く頂戴しよう」
マガルは丁寧に頭を下げた。頭を上げると相変わらずロラがにこにこ笑ってマガルを見ている。なにか作法に失礼があったか。マガルは秘かに狼狽えた。
「いいから早く食べ給え」
クルーガが横から肩を小突いた。マガルは慌てて紙巻を押し消すと、木匙を取って粥を口に入れた。
「うまい」
思わず言葉が出た。それを見たロラが零れるような笑顔を作った。
「お口に合ってよかったですわ。おかわりがいるようでしたら声をかけてくださいね」
そう言って暖簾の奥へ歩み去っていった。見事にくびれた腰を見送りながらクルーガが呟いた。
「ロラさんは自分の手料理を食べてもらうことが何よりの歓びなのだ。まるで女神だ」
吸血鬼が神を口にする様に違和感を覚えつつ、マガルは粥を啜った。
「あら、早かったのね、伯爵」
マガルが食事を終えた頃を見計らったように、ロラが木沓を鳴らして店に入ってきた。昨夜、マガルの体を撫で上げた銀髪が濡れている。
「伯爵はやめてくれ」
クルーガがゆっくりと体をニドに向けた。
「朝から湯浴か、どうしたのかね?」
「水垢離してたのよ」
「それは殊勝な心掛けだ」
心からそう思ってないのはマガルにもわかった。
ニドに続いて、アイカという名の少女と赤銅色の髪の三つ子が入ってきた。昨夜の安物のドレスではなく、三人とも白のシャツに膝下まで伸びた黒のスカートを着ている。四人とも澄まし顔で一点を見つめている。やがてアイカが黙って布に包んだ棒をニドに手渡した。
「本当は私の役目じゃないけど今回は特別だから」
そう言ってニドがマガルの前に立った。昨夜の痴態からは想像も出来ない落ち着いたニドの気配にマガルは呆気にとられた。
「貴方にこれを」
落ち着いたニドの言葉にマガルは咄嗟に椅子から飛び降り、差し出された棒を受け取った。修道院で使っていた六尺棒より僅かに長くずしりと重い。布を手繰ると黒光りした渡り一寸程の木の棒が現れた。
「これは?」
「大戦の頃に南のドワーフの造兵廠で作られたものよ。弩砲の対大型魔族用の太矢の矢軸を仕立て直して棍にしているの。鋼木を圧縮鍛造してるから、余程の利剣じゃないと傷一つつけられないわ」
「大業物だな」
後ろでクルーガが感心したように口を挟んだ。
「こんなものをどうやって」
「製作途中で放り出されてどこかの倉庫で埃を被ってたのをどこかの悪い倉庫番が小遣い稼ぎに横流しした五十本のうちの一本よ。こういう商売を長く続けてるとね、こういった物の一振くらい流れてくるのよ」
「貰っていいのか?」
「いいのよ。全然撓らないから天秤棒にも使えないし、いつまでも転がしとくより使ってあげたほうが供養になるもの」
「かたじけない」
改めてマガルはニドに深々と頭を下げた。
「ところで、私には何かないのかね?」
クルーガが横からニドに訊いた。
「あなたは何も要らないでしょ。年経た吸血鬼のくせに道具に頼るの?」
ニドが仏頂面で答えた。
「そう言われると身も蓋もない」
クルーガが思わず苦笑いした。そこにアイカがとてとてと足音を立ててクルーガの前に立った。
「伯爵さまにはこれを」
懐から出した紙袋を差し出した。
「これは?」
「芋飴です。どうぞ召し上がってください」
にっと笑ったアイカの三白眼が細まった。
「おお」
一言呻いたクルーガが床板に膝をついてアイカを抱き締めた。
「ありがとう、本当にありがとう」
クルーガに頬ずりされてアイカがきゃっと笑った。
赤銅色のたてがみのような髪の三人の顔色がさっと変わった。マガルにはぴしりと硝子に罅が走る音が聞こえた気がした。
「グスタフ、カール、ドーラ、落ち着いて」
ニドが慌てて声を掛けた。
ひとしきり頬ずりして満足したのか、やっとクルーガがアイカを解放して立ち上がると、大きく息を吐いてマガルに向き直った。
「さて、頃や良し。そろそろ巫女様探しに出かけようか」
「ああ」
「ニド、それでは行ってくる」
「待って」
ニドがマガルの手を握った。その感触に昨夜の記憶が蘇った。
「シグナ クフアリヤ ネブロド ンガ ブルグドム イエア」
それからポーションの瓶を二本、マガルの手に握らせた。
「何だ?」
「古い古いエルフの呪文よ。意地悪な運命の女神のかわりに貴方に贈る言葉」
「そうか、かたじけない」
店を後にしたマガルとクルーガは外町の南大通りの真ん中に立った。既に日も中天に達しようとしていた。道の両側には露天の店が立ち並び、様々な種族が行き来している。
「さて、どうやって探すのだ?」
マガルがクルーガに尋ねた。
「そうだな、先ず君が襲われた場所に行ってみようか、マガル」
芋飴を一つ口に放り込み、眩しそうに太陽を眺めながら怪人は言った。
「ここかね?」
外壁の中の南門に近い通りの曲り角でクルーガが口を開いた。
「ああ、丁度この辺りだ」
「こんなに賑やかな場所で追剥とは連中も暴勇だな」
通りは若衆向けの服や小物を商う店が並び、大勢が往来している。若者が多いが皆一級市民なのでで外町の輩より身形がいい。道を駆け回る童子たちも御伽草紙の挿絵から飛び出てきたように愛々しかった。
そんな雑踏の中で、埃っぽい綿の綿入れを着て杖をついた禿頭と、黒い外套を引っ掛けた顔色の悪い痩男の二人連れはいかにも異様だった。
「この通りの店は日が落ちる前に全て閉まる。売り物は毎日倉庫から担ぎ売りなので夜は
「なるほど、追剥には打ってつけの場所なのだな」
行き来する人々を興味深く眺めながらクルーガが答えた。
「それで、どうやって探すのだ?」
「うむ、場所が少々悪い。あそこに行こう」
角見世の甘味処を指さした。今日は快晴だ。店の前に緋色の氈を掛けた縁台が幾つも並んでいる。看板に「西風庵」と雄渾な文字が躍っている。昨今若者に人気の茶屋で、今も手習いの帰りらしい良家の子女が数名談笑している。マガルは嫌な顔をした。どうせ他愛もない話に興じているのだろう。若い娘という生き物は記憶力が欠落しているので何度でも同じ話を楽しめるのだ。
「おい、あそこは女子供の通う店だぞ。家が金持ちで追剥も誘拐も知らない娘しか座れない」
マガルが二の足を踏んだ。あんな店に男二人で座るのは男の矜持が許さなかった。
「何、構わんだろう。
そう言ってクルーガはすたすたと店に向かった。
やはり座るべきではなかった。注文を取りに来た仲居の微妙な表情を見てマガルは後悔した。他の客の咎めるような視線が痛い。若い娘の使う香水の芳香すら居心地が悪い。きっと勘違いした田舎者と思われているに違いない。しかしクルーガは物怖じしなかった。彼は水軍の巡航艦の艦長が伝令に夜食を言いつけるように背筋を伸ばして仲居に告げた。
「お女中、白湯を頼む。砂糖をひと摘み落としてくれ」
「は?」
仲居の娘の口がへの字に歪んで客商売にあるまじき声が出た。
「いや、すまん、葛湯だ、葛湯を二つ頼む」
慌ててマガルが口を挟んだ。
「何かまずかったかね?」
去っていく仲居の背中を眺めながら心底不思議そうな顔でクルーガが呟いた。
「それで、どうやるんだ?」
葛湯を舐めながらマガルが尋ねた。
「まず、君を襲った連中を追う」
「あれはただの追剥だ」
「私はそうは思わない。本格の追剥や掏摸の手口じゃない」
「何故そう言い切れる?」
「君がまだ生きてるからだ」
目を見開いたマガルを横にクルーガが葛湯を一口啜って椀をまじまじと眺めた。
「うまいな、これ」
「では、あれは巫女拐かしの一味だと?」
「そうとも思えないのだ。やり方が雑過ぎる。身代金を奪うだけなら外法を使えばよい」
「結局何もわからないのか」
「それを今から確かめるのだ、君がね」
クルーガがにたりと笑った。歪んだ口から尖った牙が剥いたような気がした。
「それでは目を閉じてくれ」
葛湯を呑み干したクルーガが言った。
「何をするのだ?」
「目を閉じて街の声を聴くのだ」
「辻占か?」
言占または道占ともいう。街の喧騒に耳を傾け、往来を行く人や道で遊ぶ童の言の端を借りて降りてくる神慮を知り吉凶を占う古いやり方だ。
「そんな子供騙しで」
マガルの言葉をクルーガが手を上げて遮った。
「人の言葉ではない。街の言葉を聴くのだ」
クルーガがマガルの目を見据えた。
「いいかね、街はそれだけで一つの生き物だ。街も意識を持っている。正確に言うと、膨大な記憶の集合体だがね。街の出来事を全て記した巨大な書院だと考えてもいい。君は膨大な書の山の中から昨夜の襲撃を記した書を見つけて続きを読めばいいのだ」
マガルはよく理解できなかったので聞き流すことに決めた。
「それで具体的にどうすればいいのだ?」
「君が襲われたときの風景や襲った連中の風体を思い浮かべろ。後は街が教えてくれる。集中するんだ」
「意識を集中したくらいでどうにかなるとは思えないが」
「それは私が君を
「本当にするのか?」
「ならずっとここで二人で葛湯を啜るかね? 私は一向に構わんよ」
「わかった」
騙された積りで本当に騙されている気がした。
「それでは目を閉じて。精神統一して風を感じろ」
「感じるのは街じゃないのか?」
「そうだった」
若者が集う甘味処の縁台で、中年男二人が並んで座って瞑想に浸る奇態な光景が現出した。
マガルは目を閉じてゆっくり息を吐いた。撲られた記憶を思い出すのは気が進まなかった。山嵐のような尖った髪の男と髭面の大男を思い浮かべた。大通りを走る太った鼠、誰かが罵り合う声、薬が切れた中毒患者の叫び声、猥褻な哄笑、打ち捨てられた教会、吐瀉物と糞尿の臭い……。
はっとして目を開いた。昼下がりの中、買い物客で賑わう街並みが目の前に広がった。売り子たちが取ってつけたような笑顔で客に景気のいい声を掛け、着飾った若い男女が腕を組んで闊歩している。脳裏を走馬灯のように巡った光景とは余りにも違い過ぎてマガルは一瞬混乱した。
「何だ今のは?」
「見えたかね?」
クルーガが探るように訊いた。
「ああ、恐らく」
呆けたようにマガルが答えた。
「場所はわかるか?」
クルーガが懐から紙切れを取り出して縁台に広げた。トランド市の区画を絵にした切絵図だ。五年前から更新されていないが役所に行けば誰でも銅貨十枚で買える。マガルの指が絵図の上をしばらく泳いだ末に北西の一点を指した。
「ここだ」
「十四地区か」
クルーガが確かめるように訊いた。トランドの外町でも三本に入る極めつけの悪所だ。外町の住人も避けて通る。
「ああ、しかしどうして……?」
マガルには自分が何故そう感じたのかわからなかった。夢から覚醒しきれていないような根拠のない確信、自分で自分が信用できない。
「君は街の意識に触れたのだよ」
「これも外法なのか?」
マガルの問いに答えずクルーガが満足げに微笑んだ。
「こちら側へようこそ、マガル」
本当に大通りを大鼠が走っていたが、誰もそれを気にしなかった。若い女すら悲鳴一つ上げなかった。第十四地区の若い娘は自分の足許なんて見ていないのだ。どこを見ているのかというと、彼女たちはどこも見ていないのだ。第十四地区の女たちは、この世の全てをなるたけ見ないよう、視線を月の裏側へ飛ばして暮らしている。
彼女たちは銅貨一束か二束で体を売る。魂はとっくに酒か麻薬と交換したのでここにはない。
「素晴らしい場所だな」
汚れた空気を胸一杯に吸い込んでクルーガが楽しそうに呟いた。
「本気で言っているのか?」
うんざりした口調でマガルが訊いた。
「こういう汚猥と悲哀の中にこそ宝石が潜んでいるのだよ」
どこかで赤ん坊の泣き声が聞こえた。泣き止む様子はない。母親はどこかの路地裏で体を幾らかの金に換えているのだろう。父親はどこの誰か知らないが、どこの誰だろうとそこらの酒場で飲んだくれているに違いない。
もうすぐ黄昏時だ。この町ではもうよい子が出歩く時間ではなかった。もっとも、この町によい子なんていない。この町の子供は、娼婦を母に、
二人はなんとか原型だけは保っている救護院の前に立った。最後まで踏み止まっていた尼僧が逃げ出してもう何年にもなるが、中から人の気配がした。
「ここで間違いないのかね?」
薄汚れた壁を見上げてクルーガが尋いた。
「ああ、ここだ」
言いながら懐から紙巻を出した。火打石を使って火をつけると、大きく吸ってゆっくりと煙を吐いた。
「では入るぞ」
マガルは扉を激しく何度も叩いた。相手に考える暇を与えず扉を開けさせるためだ。これ以外の方法は思いつかなかった。マガルには策を講じる気力も神経も残っていなかった。
「何よ! うるさいわね!」
怒鳴りながら若い娘が顔を出した。陣幕の余り切れで作ったらしい帷子を羽織り、短い金髪、可憐と言っても許される面だが僅かに上気し目付きが歪んでいる。酒か違法ポーションか、恐らく両方だろう。
「何? やめてよ」
女が低く叫んだが間に合わなかった。二人は礼拝所の中に踏み込んだ。冬の焚き付けにでも使ったのだろう。長椅子も祭壇もなく、中はゴミが散乱していた。薄明りの奥に数名の男女が蹲っていた。
男が五人、女が三人、男は全員黒革の胴衣に黒革のブーツ。きっとお揃いの格好をしなければ仲間であることを忘れて争い始めてしまうのだろう。床に酒瓶とポーション瓶が転がっている。全員が嘲笑と敵意のこもった目で二人を見た。
「いるかね?」
寛いだ口調でクルーガが訊いた。
「あいつとあいつだ」
マガルが彼を襲った山嵐と髭面を指さした。
「あの二人だけは口が利けるようにしておいてくれ」
小声で伝えるとマガルが一歩前に出た。
「ちょっと話を聞かせに貰いに来た。そこの二人にちょっとした仁義があってね」
髪を
「誰に何の用事か聞かせてもらおうじゃないか」
後ろで座り込んだ山嵐がへらへら嗤いながら言った。
「何が訊きたいんだ? 言っておくが俺がやったという証拠のないことで兎や角言われる筋合いはないぜ」
マガルはほとんどうんざりしていたが、仕方なく若者たちに話し掛けた。
「証拠なんて使い慣れない言葉を使うのは止めないか。一昨日の夜、俺を襲ったこと以外にお前たちが何も知らなければ洗い浚い喋ったほうが身のためだ」
マガルの言葉に表情が強張った男たちが油断なく立ち上がった。手には鉄釘を打った棍棒や段平が握られている。女たちがさっと後ろに退がった。
「ルーク! メイズ! こいつの言ってることは本当か?」
マガルから目を逸らさず剣先を外さず棟髪刈の男が訊いた。
「何のことだかわからないな。俺は誰も襲った覚えはないし、『お前たち』というのが誰のことか……」
「もういい、無意味な駆引きで時間を無駄にするのはやめにしないか?」
クルーガが割って入った。
「爺い! 引っ込んでろ!」
棟髪刈が苛立たし気に叫んだ。僅かにクルーガに視線を外した刹那をマガルは見逃さなかった。手を離した棒が床に転がり意外に大きな音がした。その時には身を沈めたマガルは懐から鎧通しを抜き、棟髪刈の丹田の辺りを深々と刺し貫いた。返り血を嫌って抉りはしない。棟髪刈がくぐもった絶叫を上げて前屈みに落ちた。
「手前え!」
怒号が響いたときにはクルーガが大股で前に出ていた。
やっと女たちの甲高い悲鳴が礼拝所に轟いた。出口をマガルに抑えられいるので逃げるも叶わず、壁を背にして固まった。
そんな女たちに意に介さず、クルーガは山嵐と髭面に声をかけた。
「ルーク君とメイズ君だったかな? 後は君たちだけだ。話を聞かせてもらえるかね」
山嵐と髭面は一瞬後退ったが、女たちの視線に気づいて得物を構えなおした。
「男を売る稼業なれば是非もないか」
クルーガが頷いて二人に歩み寄った。二人がそれぞれ棍棒と剣を振り上げて意味不明の怒号を発して駆け出した。しかし、クルーガの両手が軽く撓るや否や、二人は音もなくそのまま床に崩れ落ちた。何をしたのかマガルにはよく見えなかった。
「殺したのか?」
瀕死の棟髪刈に止めを刺したマガルが歩きながらクルーガに訊いた。
「いや、一人は生きている。口は利けると思う」
床に転がった得物を蹴り飛ばしながらクルーガが答えた。見ると、右の足首をブーツごと切断された山嵐が床の上で悶絶している。髭面は心臓を自分の剣で刺されて不思議そうな顔で絶命していた。即死だろう。
クルーガが面白くもなさそうに壁際の女たちに目を向けた。
「女たちはどうする?」
クルーガの言葉に女たちから小さい悲鳴が上がった。恐怖と哀願の入り混じった目が二人を見ている。
「どうせ流しの娼婦だ。騒がれると面倒だ」
「そうか」
答えてクルーガは人差指を女たちに向けた。女たちが息を呑み込む音が聞こえた。
「眠れ」
クルーガの言葉に女たちがくたりと倒れ込んだ。
「今のも外法か?」
「ああ、これくらいなら造作もない」
手の血を拭いながらクルーガが答えた。あれだけの殺戮をやってのけたくせに他に返り血が見られなかった。
マガルは中身が残っているポーション瓶を拾い集めると、山嵐の食い縛った口をこじ開けて飲ませた。低純度の違法ポーションのせいか余り効果は見られない。マガルは舌打ちをくれて棟髪刈が握っていた鞘から下緒を外すと山嵐の足首にくるくる巻くと固く縛った。
「畜生、貴様ら何者だ、人殺しめ」
ようやく山嵐が苦しそうに口を開いた。
「舐めるなよ、若造。先に抜いたのはそっちだ」
「あれは脅しの積りで……」
「それならそうと最初に言え」
心の臓辺りを革足袋で踏みつけた。山嵐が苦しそうに呻いた。
「さて、ルークと言ったな。お前が素直に答えるなら医者に連れて行ってやる。腕のいい治療士ならまだ繋げてもらえる」
青白い顔でルークが力なく肯いた。
出血が止まったルークが落ち着くのを待ってマガルが口を開いた。
「何故俺を襲った?」
「メイズと飲み屋で飲んでたときに誘われたんだ」
「風体は?」
「男だった。
こういう悪所に入る貴人や有徳人がよく用いる装束だ。
「そいつが俺たちに言ったんだ。ひと稼ぎしないかと。簡単な仕事で一人銀貨二十枚。ある男に喧嘩を売って適当に痛めつけて、『お前が脅迫している女から手を引け』と脅すだけでいい、と言われた。それだけだ」
マガルは苦笑して紙巻を取り出した。ルークがマガルの顔を見上げて言った。
「全部出鱈目だったのか? 俺だってその話を鵜呑みにした訳じゃなかったが、銀二十枚は大金だったから」
煙をゆっくり吹いてからマガルがルークに目を落とした。
「もう一つ、お前たちに仕事を依頼した男と、俺の頭を撲った男は同じ人物か?」
「ああ、多分同じだと思う。あの時、あの男の指示であんたを襲ったんだが、うまくいかなかったよな」
苦笑しようとしてルークは咳込んだ。
「その時、あの男が突然あんたを撲り倒しちまった。驚いてる暇もなかった。あいつは俺たちに袋を二つ投げると、『逃げろ』と叫んだんだ。それで俺たちは一目散に逃げ出した。袋にちゃんと銀二十枚入っていたから良かったようなものの、石ころが入っていても俺達にはどうしようもなかった。そんな訳でその男のことはほとんどわからないんだ」
「そいつの背格好はどうだった?」
「俺より背は低かった。多分あんたくらいだ。太っても痩せてもいなかった」
「齢は? どんな声だった?」
「三十代くらいだったと思う」
「何か他に訊くことはあるか?」
マガルがクルーガに言った。
「いや、十分だ。嘘を言っている臭いはない」
「なあ」
ルークがマガルの足首を掴んだ。
「俺達は悪気があってあんなことした訳じゃないんだ。あんたがある女を脅してるって聞いたから」
「その話を信じたのか? お前たちのような破落戸に本当のことを喋る人間がいると本気で信じてるのか?」
「俺たちは破落戸なんかじゃねえ」
「ああ、そうやって転がって泣き声を上げてる姿からはとても想像できない」
余りにも愚かすぎてマガルはこの若者をほとんど好きになりかけていた。
「なあ、早く医者に連れて行ってくれ。訊かれたことは全部答えただろう?」
足を振って掴んだ手を振りほどくと、マガルはメイズという名の髭面の大男の懐を探った。血まみれの袋を取り出して軽く揺らした。貨幣が擦り合う音がするのを確かめて袋を中身をルークの前に零した。
「二人合わせて銀四十枚。酒とポーションに使って幾ら費ったか知らないがそれで十分だろう。女たちが目を覚ましたら運んでもらえ。うまくすればまた普通に歩けるようになる」
「そんな、医者に連れて行ってくれるんじゃないのか」
ルークの抗議を無視して短くなった紙巻を血溜まりに落とした。
「繋がらなかったら、それを後悔の種にして生きていけばいい」
そう言い捨てて、クルーガに顎をしゃくって礼拝堂の出口に向かって歩き出した。
すっかり暗くなった街路を二人は風に吹かれるように歩いた。微かな星の光を除けば家の明かりもなく、道筋はすっかり
「先程は見事だった」
クルーガが呟いた。
「敢えて得物を離して気を逸らして下から突いた。皆者の小具足術と見たが、何流を学んだのかね?」
「いや、あれは自得だ」
渡り歩いてきた戦場で自然に身に着いた戦場技だ。
「ふむ」
クルーガが感心したように鼻を鳴らした。
「俺は一人だけだが、あんたは瞬時に四人倒した。見事というならあんたのほうだ」
「あれは君が奴らの気を引いて心の隙を作ったからだ。私はそれに乗ったに過ぎない。私一人ではああ上手くはいかなかった」
「それも外法の一つか?」
「その応用、といったほうがいいな」
「恐ろしいものだな」
「私は君より随分長生きしてる。それなりに修羅場も潜った。これも自得の技だよ」
恥ずかしがっているのか得意げなのか、クルーガが照れるように微笑んだ。
「さて、状況を整理しようか」
話題を変えようとクルーガが言った。
「ああ、連中は巫女を攫った一味じゃない。一味の誰かに雇われた端者だろう」
「それならば、身代金が刻限に間に合わなかったから取引を打ち切ると書かれた矢文と辻褄の合わないな。身代金が贋金だったことが書かれていなかったことも解せぬ」
「つまり、一味の中に裏切り者がいたんだ。身代金を横取りしようとした奴が」
「ふむ、そう考えるのが自明だな」
「しかも複数だ」
「何故そう思う?」
クルーガがマガルに顔を向けて訊いた。
「金貨二千枚、銭箱も入れれば二箱で十六貫だ。
「なるほど、そういう発想はなかった。敵も一枚板ではないということか」
クルーガが感心したように言った。確かに膂力に秀でた吸血鬼には無縁の発想だろう。
「恐らくな」
「ではその裏切り者を手繰るのか?」
「そうしたいが手掛かりがない」
畜生、これで振り出しだ。マガルは心の中で呻いた。
「あるぞ」
クルーガが事も無げに言った。
「え?」
立ち止まったクルーガが懐から血に汚れた布袋を引っ張り出した。
「それは?」
「あのメイズなる若者の懐にあった袋だ。銀二十枚が入っていた」
その袋はあの場で投げ捨てた筈だ。いつの間に拾ったのかマガルにはわからなかった。
「その袋をどうするんだ?」
「こうするのだよ」
ぽとりと袋が地に落ちた。見る間にクルーガの姿が崩れ、外套が地面に落ちた。外套の背が蠢いて、中から黒い中型犬が現れた。
「凄いな」
「もう少し驚いてくれると思ったのだが」
円らな瞳の黒犬がクルーガの言葉で喋った。
もう神経が擦り切れきっていたマガルはもう驚く気力も残っていなかった。
「あんた、吸血鬼なんだろう?」
「そう言われては身も蓋もない」
言うなり犬が袋に鼻をつけるとふんふん鼻を鳴らし始めた。
(やはり此奴は妖魔か)
その様を見てマガルは思った。困ったことにかなり可愛らしい犬だったので不思議と薄気味悪さは感じなかった。
しばらくしてクルーガは頭を上げて小さく欠伸をした。
「袋の持ち主の臭いを探った。あの若者の臭いが強かったので手間がかかった」
そう言ってぶんぶん尻尾を振った。
「大丈夫だ、臭いは覚えた。幸い一昨日から雨は降ってない」
マガルが黙っているのを見て心配していると思ったのだろう。励ますようにひゃんと鳴いた。
「街中を臭いを探して歩き回るのか?」
「うむ、では君が襲われた場所に戻ろう。そこからこの臭いを探して行き先を手繰る」
「そんなことが出来るのか?」
「単簡だよ。犬でも出来ることだ」
そう言ってクルーガが足早に歩きだした。いや、犬でもそんな芸当は無理だ。そう思いながらマガルは後を追った。ふいに犬が立ち止まった。
「どうした?」
「私の服を頼む。仮にも伯爵と呼ばれた身だ。人の姿に戻ったときに丸裸では沽券に関わる」
それからのクルーガは可愛らしいことに目を瞑ればまさに猟犬だった。マガルに襲われた場所に戻ると、地に鼻をつけて躊躇なく歩き出し、ふいに止まると辺りを見回し、確かめるようにマガルを見つめ、小走りに駆けた。
「そういうのは使い魔を使うものと思っていた」
クルーガの服を包んだ外套で棒の先に引っ掛けて肩に担いだマガルが言った。
「使い魔? それも重大な誤解だ。そんなものはいない」
「そうなのか?」
「当たり前だ。餌代が幾らかかると思ってるのかね」
もうすぐ払暁になろうという頃になってやっとクルーガは立ち止まった。
「ここだ」
外町の北の外れにある廃屋だ。
「服を返してくれ」
犬がマガルを見上げて尻尾を振った。ずっと犬の姿でいてくれたほうがいいのに。そう思いながらマガルはクルーガの服を地に降ろした。
「便利なものだな」
マガルがいそいそと外套に袖を通すクルーガを眺めながら口を開いた。
「いや、そうでもないのだ」
「何か問題があるのか?」
「大有りだよ。長く犬の姿でいると内面まで犬になってしまう。そうなるともう本来の自分を忘れて元に戻れない。君は犬になった私の餌代に頭を悩ますことになる。そうやって戻れなくなった同胞は少なくない」
「それは大変だな。それでは今のあんたの姿が本来の姿というわけか」
「実はあまり自信がないのだ」
クルーガが照れくさそうに笑った。
「それでここが俺を襲わせた連中の隠れ家なんだな?」
念を押すようにマガルが尋いた。
「ああ、間違いない。臭いの主はここに入った。もう二度と出てこない」
「どういう意味だ?」
「濃い血の臭いがする。恐らく生きちゃいまい」
日が昇りきらない早朝だというのに、近くの番屋に報せてから警邏たちが三尺棒を手に駆け付けるのに半刻もかからなかった。マガルはトランドの警邏の仕事振りに秘かに感動を覚えた。
「何故お前がここにいる、マガル元修道士?」
挨拶もそこそこにフレイ警邏隊長がマガルに詰め寄ってきて、マガルは秘かに感動した自分を恥じた。
「就職活動だ。大金持ちになった奴をつかまえて、護衛はいらないかと売り込む」
「無駄口を叩くな。俺はまだ朝飯を食ってないんだ」
俺もだ、と言おうとしてマガルは止めた。他人と同じ境遇を慰めあう趣味はなかった。
「偶然俺を襲った奴を見かけたのだ。締め上げたらここを教えられた」
「そこの男は?」
クルーガに顎をしゃくった。クルーガが作り笑いを浮かべて軽く一礼した。
「古い知り合いだ。昨日街を歩いていたら偶然再会した」
「つまりお前は偶然古い知人に会い、偶然お前を襲った奴を見つけ、偶然ここで死体を見つけたというわけか」
「ああ」
「舐めるなよ、悪僧。お前が副院長に探索方を命じられたのは聞いている。そいつは何者で、一体何を掴んだ?」
フレイが不機嫌そうにマガルを睨んだ。
「彼は俺が個人的に雇った便利屋だ。俺一人で探すにはこの街は広すぎる」
「クルーガだ。よろしく」
細く節くれだった手を差し出した。
「この件について教えたのか」
クルーガの手を握りながらフレイが訊いた。
「口は堅い。俺が保証する」
クルーガがフレイに向かって再び信用できない笑顔を浮かべた。
「もしこの件が噂にでも流れたら真っ先にお前を引っ張るから覚悟しておけ」
二人を脅すように睨めつけてフレイは廃屋の戸を潜った。
中は酸鼻の極みだった。床といわず壁といわず血まみれで、血痕を踏まずに立つことは難しかった。床には血達磨の死体が四つ、うち二つはエルフだ。いずれも若く、手に刃物を握りしめて横たわっていた。せっかくの上等そうな服は斬り裂かれ、血と脂と臓物で台無しだ。部屋の中央に銭箱が二つ仲良く並んでいる。マガルが運び奪われたものだ。蓋が開けられ、中に
「どう見る、悪僧?」
フレイが死体を検分しながらマガルに尋いた。
「こいつらは一味を裏切って身代金を横取りしようとしたんだ。そして贋金を掴まされたことを知って仲間割れしたようだな」
「贋金を掴まされたくらいで殺し合うか?」
肩越しにマガルを振り返ってフレイが続けた。
「それに見ろ。疵は多いが一つ一つは浅い。まるで順番に互いを少しずつ肉を削りあったようだ。凌遅刑を知っているか?」
「話だけは聞いたことがある」
大昔の極刑の一つだ。受刑者が即死しないよう少しずつ斬り刻み、時間をかけて死に至らしめる残虐な処刑法である。
「並の者ならここまでになる前に出血で失神してそのまま死ぬ」
「気骨のある連中だったんだな。またはそういう性癖だったかもしれない」
「莫迦を言うな」
フレイが面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「それより、一味から何か報せはあったか?」
今度はマガルがフレイに尋いた。
「それについては外で話そう」
そう言ってさっさと出て行ってしまった。こんな修羅場には一時でもいたくないのだろう。それだけはマガルも同じ意見だった。
「何か変化はあったのか?」
火打石を使って紙巻に火をつけるとマガルが改めて訊いた。
クルーガは二人から十歩ほど離れて街並みを眺めながら悠々と細巻をくゆらせている。
「いや、一味からはまだ何の連絡もない」
フレイも紙巻を懐から出すと、マガルの紙巻から火をつけた。新鮮な空気を満喫するようにゆっくりと大きく吸った。
「まさかもう既に巫女を殺して逃げ散ったのか?」
「いや、それはない。もしそうなら最初の夜にわざわざ交渉は打ち切るなんて報せてこない。連中はまだ身代金に未練がある証拠だ」
「それなら繋ぎがないのはおかしくないか?」
「うむ、もしかしたら連中も思いの外の成り行きに戸惑っているかもしれん」
そう言ってフレイはゆっくりと煙を吐き出した。
「いずれ一味から接触してくるはずだ。それまでは動きようがない」
「修道院の内偵のほうはどうだ?」
「困ったことに怪しいところは何一つない」
本当に残念そうに言った。
「全員が一味に加担してるなら兎も角、今のところは全員が白だ」
「結局何も成果は無いのか。なあ、警邏はちゃんと仕事をしてるのか?」
「黙れ。お前をこの殺しの下手人として引っ張ってもいいんだぞ」
フレイが苦笑しながら言った。最初から期待はしていなかった。マガルは名残惜しそうに紙巻を捨てて踏み消した。
「では俺は行くぞ」
「どこに行く?」
「飯だ。まだ朝飯を食ってない」
「なら修道院に行け。副院長が気にしていたぞ」
意外だった。解き放ちにされたものと思っていたマガルは少し驚いた。あの副院長も少しは責任を感じているかもしれなかった。
「まだ報告できるようなものはない」
「何も掴んでいないことを報せるのも立派な報告だ」
「生憎わざわざ叱責されるために顔を見せる趣味はない」
「悪いことは言わん。いいから行ってこい」
「わかった」
踵を返してマガルは歩き出した。
「今後も何かあれば番屋に報せろ。俺の名前を出せば通じる。俺がいいと言うまで街を離れるなよ」
振り返らずに片手を軽く上げてマガルはクルーガに歩み寄った。
「話は終わったのかね?」
クルーガが振り返って訊いた。
「ああ、もうここには用はない」
「これからどこへ行く?」
「修道院に顔を出す。それから飯だ。それより」
クルーガを横目で見やった。
「あの死体、一味の外法使いの仕業だな?」
「君もわかってきたじゃないか」
楽しそうにクルーガが笑った。
マガルとクルーガが修道院の搦手門の前に立ったのは巳二つの頃だった。武偏な修道院らしく城壁も厚く、搦手とはいえ門構も騎馬や輿が隊伍を組んで通り抜けられるように広く高い。修道院を離れて僅か二日だが妙に懐かしかった。
「私はここで待っていてよいかね? こういう場所は居心地が悪い」
クルーガが門を眺めながら言った。
「ああ、わかった」
そう言ってマガルは手の棒をクルーガに渡した。
「待っていてくれ。半刻もかからない」
脇門を叩くと三尺棒を構えた下人が顔を出した。
「これはマガル様、お話は伺っております。どうぞ中へ」
マガルの顔を認めるや、下人の態度が急に柔らかくなった。
「様はやめてくれ。今は無役だ」
思わずマガルは苦笑した。
「何を仰る。大事な御役目ではありませんか」
「副院長に会いに来た」
「はい、どうぞ」
深々と頭を下げる下人を背にマガルは修道院の中へ入った。
ウルガン副院長は相変わらずの苦虫を噛み潰した顔で執務室に座ってマガルを出迎えた。王族から押し付けられた我儘な院長と怠け者で不道徳な修道士たちに挟まれて修道院の苦労を一身に背負い込んだ顔だ。副院長は十年前に院長が就任して以来、他の表情を作ることをよく忘れる。
「報告を聞こう」
マガルが頭を下げる前に重々しく口を開いた。
「私を襲った破落戸を雇った連中の死体を見つけました。奪われた贋の身代金もそこで見つけました。警邏には報告済みです」
「誰かに殺されたのか?」
「互いに殺しあったように見えました」
「見えた、とは?」
副院長が初めて興味深そうに眉を上げた。
「そのように偽装された可能性があります。一味が裏切り者を報復したのでしょう」
「そのことは警邏も知っているか?」
「警邏には伝えていません。しかし警邏もそれくらいは見抜いている筈です」
「あしか亭には行ったか?」
「はい、女将の紹介で便利屋を雇いました」
「外法を使うのか?」
「いえ、ただし人探しの専門家です。私を襲った連中の居場所を突き止めました」
「口は固いのか?」
「はい、銭を弾んでいます」
「他に報告すべきことはあるか?」
「ありません」
副院長がゆっくりと椅子の背板に体を預けて深く息を吸った。
「警邏のフレイ隊長とは話をしたのか」
「はい、今朝話しました。警邏も手掛かりは掴んでいないそうです。相手の動き待ちだとか」
「そうか……」
副院長が椅子を回して外の景色を見つめた。
「これからどうする?」
「手掛かりがない以上私のやれることはもうありますまい。居喰いにでも戻ろうかと」
「莫迦なことを」
副院長が薄く笑って椅子を回してマガルを見据えた。
「今から言うことは秘中の秘だ」
抽斗から葉巻を取り出し、机上の燭台から火をつけた。
「ケーレ堂守役の挙動がおかしい」
「ケーレ堂守役が?」
小太りの気の良さそうな顔を思い浮かべた。王都のエメロア大神殿から巫女たちと共に派遣されてきた守役だ。マガルも顔を知っている程度で常に巫女たちに付き従っていること以外たいしたことは知らない。
「どのようにおかしいので?」
「昨日一昨日と日が落ちてから夜遅くまで他行している。今まではこんなことはなかった」
「はあ」
その程度のことで疑うのか、心の中でマガルは訝しんだ。それを見透かしたように副院長が続けた。
「こう言っては何ですが、女郎屋通いでもされておられるのでは?」
「烏滸を申すな」
珍しく副院長が小さくおかしそうに笑った。
「一味と裏で同心しているか、または密かに取引しているとお疑いなので?」
「長年この修道院を差配してきた勘だ。しかし相手は巫女様付の守役、直に問い質すわけにもいかぬ。今日も堂守役は外に出るだろう。お前が後を尾けよ。何もなければそれに越したことはない」
「わかりました」
副院長室を出たマガルが、よく手入れされた裏庭を搦手門に向かって歩いている時だった。
「待って」
声のほうを向くと、厨房詰のガラヤが息急き切って駆けてくるのが見えた。
「聞いたよ。あんた、修道院を追い出されたんだって?」
肩で息をしながら掠れた声で言った。浅黒い肌に焦茶の髪を引詰め、額に汗が浮いている。事件のこともマガルが探索方を命じられたことも知らされていないのだろう。
「ああ、ちょっと不始末をしてな」
苦笑しながらマガルが答えた。
「今日は偉いさんに詫びを入れに来たんだろう?」
「ああ」
説明するのも面倒なので適当に相槌を打った。
「ちゃんと飯は食ってるかい?」
「いや、今日はまだだ」
「来な」
いきなりマガルの手を取った。
「おい、どこに」
ガラヤは答えずマガルの腕を引いて厨房に引っ張っていった。
「ちょっと待ってな」
厨房の入り口に待たせてガラヤが奥に消えた。
たいして待つ程もなく、手に紙袋を持ったガラヤが顔を出した。
「これを持っていきな」
ぶっきら棒に言って紙袋を押し付けた。中を開くとまだ土を落としていない甘藷が数本見えた。
「本当はここで食わせてやりたいが、他人の目があるから、これで勘弁しとくれ」
相変わらずのきつい目がほんの少し悲しそうに見えた。
「いや、かたじけない。助かる」
マガルが頭を下げて礼を言った。
「いいかい、どうしても食い扶持が見つからないなら俺の小屋に来い。お前一人くらい食わせてやる」
そう言うガラヤの顔が僅かに上気して見えた。
「ああ、その気持ちだけで有難い」
「そうか、他に困ったことはないか?」
口元が緩んだガラヤが嬉しそうに訊いた。
「そうだな、飴の類はないか? 余っていれば貰いたい」
マガルの答えにガラヤがきょとんとしてから可笑しそうに笑い出した。
「顔に似合わず脂の乗った舌だこと」
搦手の脇門を潜ると、クルーガは背を向けてじっとトランドの街並みを眺めていた。
「何か見えるのか?」
クルーガの横に並んでマガルが尋いた。
「街の気を見ていた」
「街の気?」
「街から立ち上る気の色だよ。白黒赤黄青の色を持ち、人が多く集う場所は気も太く高く立つ。盛んなれば赤が強く、衰えれば青が増す」
「俺には何も見えない」
「慣れれば見えるようになる。遠く天と地との接する線に焦点を合わせろ」
やってみたがマガルには何も見えなかった。
「この街はどうだ?」
「赤が強く次いで黒と見た」
「どういう意味だ?」
「安定と安穏、それに挑戦、流石は商都トランドだな」
「あまり役に立つ技じゃなさそうだな」
当たり前すぎる答えに落胆したマガルが苦笑した。
「馬鹿にするものではないぞ。気を見て卦を読むを昔は望見と呼んだ。古の軍配師は彼我の陣を望見して強弱を計り兵の進退を指図したという」
「乱神の類だ」
戦場で露を嘗めて生命を繋いできたマガルには胡散臭い話だ。マガルの顔色を見たのか、クルーガが珍しく気色ばんだ。
「例えば君が出てきたこの修道院だ」
振り返って顎をしゃくった。
「細く高い黄が一条」
「どういう意味なのだ」
「奸、つまり誰かが何かを隠している」
はっとしてクルーガの横顔を見た。
「それについては当たりかもしれない」
マガルの言葉を聞いたクルーガが横目で得意げに微笑んだ。
この修道院にも巡礼者のための門前町がある。軍神クラーマを祀っているため巡礼者は騎士や兵法者が多いが、彼らを相手にする宿や飯屋、酒場が正門前に小さな町を形成していた。普請の余りや破れた古楯で屋根を葺いたひどい造りだが一軒当たりの規模は大きい。中には店の者やその家族が暮らす長屋や芝居小屋を抱えているところもある。マガルは無造作にそのうちの一軒の宿屋に入ると女中に声をかけた。
「二階の北面の部屋を借りたい」
日頃から旅の兵法者を客にしているからだろうか、店の女中は二人の萎れた衣服を見咎める様子もなく、いそいそと二人を二階の個室に案内した。中は四隅に寝台が置かれ、中央に簡素なテーブルと古びれた藤椅子が四つ置かれていた。
マガルは女の手に銀貨を数枚握らせた。
「当座の銭だ。飯と茶を、それと葛湯を鍋で頼む。酒はいらぬ」
「あれ、これはまた太い御宝。こんなに要りませんよう」
「構わん、余れば胞輩と分け取りすればいい。それと」
甘藷の詰まった紙袋を渡した。
「これを竈の灰で蒸して持ってきてくれ」
「あいあい」
女は嬉々として部屋を出て行った。
「案外と内福なのだな」
クルーガが呆れるように言った。
「そんな訳があるか。しかしこうしておくと後が楽でな」
店の者に侮られぬようにする手なのだ、マガルは
やがて飯と一緒にこの店の主人が二人を訪ねてきた。
「先ほどは店の賤女に過分の御手付を賜り、まことに有難うございます」
過大な心付けに恐れをなした女が主人に告げたのだろう。
「何もない店ではございますが、精一杯のお
人目を忍んで修道院に巡礼に来た貴人と見て気を使っているのだ。
仲居が飯をテーブルに並べ終えると
「何事も御遠慮無く申しつけてくださいますよう」
深々と頭を下げてそそくさと出て行った。
「なるほど、銭というものは使い様だな」
クルーガが呆れ顔で連れを見返した。
「それで、これからケーレ堂守役なる者が出てくるのをここで待つのか?」
杓子を使って葛湯を湯呑に注ぎながらクルーガが問うた。
「ああ」
豚肉と野菜の羹にパンを浸しながらマガルが答えた。
「今日出てこなければどうする」
「銭が尽きるまでここで居続けだ」
「銭が尽きたらどうするのかね?」
「副院長にねだるか、この店で下働きだ」
パンを頬張りながらマガルが答えた。
「それは楽しみだな」
全然面白くなさそうにクルーガが答えて葛湯を啜った。
「まず飯を食ったら夕暮れまで休もう」
「おい、起きたまえ」
肩を揺すられて目が覚めた。窓を見るともう町並みは茜色だ。全身がびっしりと汗に濡れていた。
「腹でも痛むのかね?」
クルーガが心配そうに訊いた。
「敗け戦の思い出が、な」
マガルが答えると、冷えた芋を黙々と齧りだした。同じような体験をしてきたのだろう、クルーガも何かを察し、
「早く忘れることだ」
それだけ言って冷えた葛湯を舐めた。
そうしているうちにも陽はどんどん落ちて、店々が軒先に吊るした小さな灯の他はすっかり暗くなってしまった。
二人してテーブルと椅子を窓際に寄せ、むっつり黙ったまま修道院の正門を見つめた。
「一つよいかね?」
窓から目を離さずにクルーガが呟くように訊いた。
マガルはちらりとクルーガに目を向けたが、再び外に視線を戻した。
「何だ?」
「どうして私のことを知ったのかね?」
「修道院のさる者に知恵をつけられた」
「さる者とは?」
「口止めされている」
「そうか」
クルーガが薄く笑って湯呑を取った。
「人の口に戸は立てられぬか」
「すまないな」
「気にすることはない」
「あんたはいつ降りてもいいんだ」
「連れないことを言うな。あの店の頼みでは断れぬ」
「あの店に何か貸しがあるのか?」
「まさか」
声を出して笑った。
「爵位を捨て領地を追われ、随分と諸国を経巡った末にここに足をつけたのもあの店があったからだ」
「随分とお気に入りなのだな」
「魔は魔を呼ぶと申すからな」
細巻を出してテーブルの燭台を取って火をつけた。
「どういう意味だ?」
「あの店の女衆は人ではない。あれは一種の呪いと言っていい。アイカ嬢だけは辛うじて人の領分に片足の小指を残しているがね」
「ニドは確かにダークエルフだから人間ではないが」
「そういう意味ではない。彼女たちは私と同じ側、つまり化生の類だ。東の狩猟村にも一人いるがね」
燭台の灯に照らされたクルーガの双眸がマガルを見つめた。背筋を冷水が走った気がした。
「そういう訳であの店は居心地がいいのだ。それにこの件であの店に貸しを作るのも悪くない。ロラさんに褒められるのはとても気持ちがいいぞ」
そういって相好を崩した。
「女の気を引こうとは伯爵様も存外に俗物だな」
「貴族崩れの吸血鬼だからね」
照れ臭そうにクルーガが笑みを浮かべた。
やがて、副院長が言った通り、小綺麗な平服を纏った小肥りの男が門から出てきた。マガルが見慣れていた、巫女たちの後ろを前屈みで小刻みに足を動かす歩法ではなく、背筋を伸ばしてすいすいと迷いなく大股に足を進めている。
「あれかね?」
クルーガが目を離さずに尋ねた。
「ああ、ケーレ堂守役だ」
そう答えてマガルは立ち上がった。
「行こう」
堂守役は四半刻ほど歩き続け、とある瀟洒な屋敷に入った。
「ここか?」
マガルは訝しんだ。壁の内側の上品な屋敷街のど真ん中だ。誘拐犯のアジトには似つかない場所だった。
「やはり愛人の許に通ってるのか?」
マガルがぽつりと呟いた。
「いや、中に人の気配がする。少なくとも十人。一つ所に固まっている。愛人宅なら守役殿はよほど特殊な趣味だな」
クルーガが軽く笑いながら言った。
「中に入らねば確かめられぬか」
忍び込むような技は持ち合わせていない。マガルは歩き出した。
「どうするのかね?」
「戸を叩いて正面から入るしかあるまい」
扉に近づいたマガルの機先を制するように両開きの扉が開いた。銀糸で飾った黒い長衣を引っかけた金髪の優男が姿を見せた。
「マガル様ですね、中へどうぞ。お連れの方も」
「何故俺を知ってる?」
マガルが男を睨んだ。しかし男はマガルの視線に臆することなくにっこり笑った。
「ケーレ様から伺っています」
通された部屋は広さがざっと数十畳、床は緋色の絨毯で覆われ、金屏風もあり、硝子の仕切り扉もついていて、見るからに威張った風情だった。
中央に切子細工の燭台に照らされた紫檀の長テーブルがひとつ。二人の男がテーブルについていた。
マガルが周囲に目を配りながら訊いた。テーブルを取り囲むように若い男たちが立っている。先ほどマガルたちを案内した男を含めて数は八。無腰だが懐に短剣を呑んでいるのはわかった。上等そうな服を着て全員が悟りきったように涼やかに微笑んで佇んでいる。まるで年増の後家が熱を上げそうな男娼屋の顔見世だな。マガルは心の中で呟いた。
改めて中央のテーブルの二人に目を向けた。一人はケール堂守役だ。
守役が立ち上がるとマガルに笑いかけた。
「マガル君、よく来た」
問題はもう一人のほうだった。
撫でつけた茶髪、乱暴に刈り込まれた髭、石でも噛み締めているような口、目は燭台の灯を呑んで真夏の汗のように光っている。紺の制服に身を包み、腕を組んでぎろりとマガルとクルーガを睨んだが、顔は妙に神妙で口を開こうともしない。
「どうしてあんたがここにいる?」
「それはこちらの台詞だ、悪僧」
フレイ警邏隊長が苦々しげに口を開いた。
「それは私から話そう」
守役が口を挟んだ。
「巫女様を無事取り戻すために、私は独自に交渉を持っていたのだ」
ゆっくりとはっきりと喋りながら部屋の上座に視線を向けた。
そこには仕切り扉があり、紫の紗が下りていた。金屏風に隠すように置かれた絹張の読書椅子に女の影が柔らかく凭れていた。
男の一人が恭しく紗を上げてゆっくりと扉を開けた。裾の長い巫女装束の女、拐かされたミレーネ様だ。唇の両端をわずかに上げて微笑んだ顔を作っているが緊張しているのかどこか固い。
「つまり、巫女様を攫ったこいつらとの交渉がまとまったということか?」
「そうだ。だから警邏隊長を呼んだのだ」
マガルがフレイに向き直った。
「あんたはそれでいいのか、何故ここでこいつらを捕まえない?」
男たちから小さい嘲笑がさざ波のように起こった。
「巫女様に無事にお帰りいただければ警邏としては文句はない」
フレイが苦々しげに答えた。
「副院長も知っているのか?」
「それは今日私がご報告した」
守役が割って入った。
「副院長が君に私を探るよう指図した後でだ。それで君には無駄足を踏ませてしまった。本当に済まなかったと思っている」
顔も口調も本当に悪いとは思ってなさそうだった。守役が続けた。
「今夜巫女様は祈祷堂にお戻りになる。これで一件落着だ。君も修道院に戻れる」
「ふむ」
もう守役の声は耳に入っていなかった。マガルは大股で部屋を横切り巫女の前に立った。後ろをクルーガが続いた。
「おい、無礼だぞ」
守役が小さく叫んだ。その声を無視してマガルとクルーガは椅子の巫女を見下ろした。よく光る大きく涼しい眼、碧い瞳、ふっくらと、そして引き締まった唇、白銀に輝く長い髪。
「お初にお目にかかります。マガルと申します。元修道士です」
巫女に向かって軽く頭を下げた。
「貴方たちのお話は聞いています。私のために御尽力、女神エメロアに代わって礼を言いましよう」
穏やかな高音だった。微笑みを浮かべて見上げる顔に、マガルは鋼木の六尺棒を横に薙いで必殺の一撃を放った。
「え?」
その場にいたほとんど全員が凍り付いた。凍り付かなかったのはマガルを含めて三人。
椅子に座っていた巫女が神速の迅さで椅子を倒して三歩後退った。そこにいつの間に回り込んだのか、吸血鬼が有無を言わさず巫女を羽交い絞めに押さえ込んだ。
「何をする!」
フレイが立ち上がった。
「動くな」
巫女から目を離さずマガルが言った。手の六尺棒が真っ直ぐ青ざめた巫女の喉元を指している。
「この巫女は恐らく偽物だ」
「なにを莫迦な」
守役が力無く口を開いた。
「私も何故そう思ったのか知りたいね」
巫女を押さえ込んだクルーガが訊いた。
「え? 知らずに動いたのか?」
今度はマガルが少し驚いた。
「君が敵と判断した。理由が必要かね?」
小さく苦笑してマガルが答えた。
「複数の香水と体臭、この女は媾合ってる。多分この部屋にいる連中とだ」
「それがどうかしたのかね?」
「エメロアの巫女は年季が明けるまで純潔を守る義務がある。男と交合すれば賜死だ」
「なるほど、そういう仕来りなのか。確かに情交の臭いがする」
「クルーガ」
マガルが声をかけた。
「何かね」
「吸血鬼は変化した姿に内面まで染まってしまうのだったな?」
「ああ、そうだが」
言いかけて何かに気づいたようにクルーガの言葉が詰まった。
「忘れていたよ、我が同胞にも悪事に手を貸す者がいる」
そう言うと、クルーガの人間には有り得ない動きで首が伸び、目を
「なにを……」
巫女の怯えた声が途中で止まった。みるみる髪が黒く染まり、緩やかな曲線をなしていた顔の輪郭が鋭くなり、眼が細く、瞳が黒く、唇が薄くなった。女が恨めし気に顔を上げてマガルを睨め上げた。
「お前、巫女がこいつらに無理矢理犯されたとは考えなかったのか」
先ほどとは打って変わって低く太々しい声だった。こちらのほうが好みだ。マガルは何となくそう思った。
「もし本物の巫女なら掟により死なねばならない。俺は巫女様の御生害の手助けをしただけだ」
「気違いめ、貴様のほうが余程の悪党だ」
女が呻いた。
「やめろ! その女に手を出すな!」
守役が叫んだ。
「本物のミレーネ様はもういない。お亡くなりになった。その女は影武者だ」
「こいつらが殺したのか?」
マガルが懐に手を入れた若者たちを見回して言った。
「違う」
守役は少し考えるふうだったが、何かを心に決めたように話を続けた。
「拐かされる何日も前にミレーネ様は祈祷堂で亡くなっている」
「つまり狂言誘拐だったのか」
「そうだ、その女をミレーネ様の代役に祈祷所に入れ、遠からず誘拐の心労で病を得たことにして引退していただく積りだったのだ」
「どうしてそんな面倒な真似を」
「理由がただの病なら大神殿から医僧が送られてくる。見破られる危険は冒せない。心労による御乱心なら何とでも言い含められる」
黙っていたクルーガが口を開いた。
「なるほど、そのミレーネとやらは殺されたのだな。ただの病死なり事故死なりならこんな面倒事を引き起こす必要はないはずだ」
「そうだ、女の悋気は恐ろしい。取るに足らぬ下らない原因だ。ミレーネ様は他の巫女様と争ってお亡くなりになったのだ」
肩を落として守役が続けた。
「そもそも事を面倒にしたのはお前だ、マガル元修道士」
顔を上げてマガルを睨みつけた。
「最初は巫女様たちと院長様と私と私の子飼いのこの者たちしか知らぬことだった。お前が身代金を奪われたせいで事をややこしくなった」
「それは俺のせいじゃない。子飼いに手を咬まれたお前の責任だ」
「黙れ、おかげで副院長や警邏にまで真相を話さねばならなくなったのだ」
「あんたはこれでいいのか、フレイ警邏隊長?」
マガルがフレイに顔を向けて言った。
「祈祷堂の中で巫女が殺し合ったなど前代未聞だ。修道院にも責が及び宗派同士の争いになる。街の平安と治安を乱すのは警邏の本意じゃない」
「それと金か。幾ら貰った?」
「舐めるなよ、悪僧」
フレイの顔が怒りで朱く染まった。
「ところで、私はいつまでこうしていればいいのかね?」
クルーガが巫女の両腕を極めた姿勢のままでマガルに訊いた。
「俺は巫女筆頭のラウレーア様に命じられている。ミレーネ様を攫った連中に罰を下せと」
「ラウレーア様も御承知なのだぞ」
守役が懇願めいた口調で言った。
「俺はそんな話は聞いてない」
マガルの言葉を合図にクルーガが女の首筋に噛みついた。血が景気よく噴き出し、女の牙の並んだ口が大きく開いて鋭い絶叫が迸った。時間が止まったように全員が慄然と見守る中、おもむろに絶叫が止み、みるみるうちに女の体が崩れ灰になって崩れ落ち床に広がり、その上に巫女装束が音もなく落ちた。
「マガル」
全員の凝視を浴びながら口の辺りを血で濡らしたクルーガが静かに声をかけた。
「なんだ?」
「君に謝らなければならない。私は君に嘘をついていた」
そういって本当に済まなさそうにマガルを見つめた。
「実は私の一番の大好物は人の生き血なのだ」
血の滴る吸血鬼の牙が並ぶ口がゆっくり歪んで極上の笑顔を作った。
「気にするな、俺とあんたの仲だ」
「さて、こいつらはどうする?」
テーブルに並んだ料理を物色する目でクルーガが部屋を見回した。
その声に全員が懐から短剣を抜いて身構えた。
「貴様! 何をしたのかわかっているのか!」
フレイが叫んだ。その声を聞いてか聞かずか、億劫そうにマガルが口を開いた。
「こいつらは全員敵だ」
記録によれば、巫女を誘拐して殺害した賊は警邏隊の急襲を受け、その場で一人を除き尽く誅殺されたという。巫女を殺されたトランド市は大いに面目を損なったが、その際に犠牲になったエメロア祈祷堂のケーレ堂守役とフレイ警邏隊長は市と修道院から感状を追賜され、二人を扱った芝居や講談は人気を呼んだ。
唯一逃れた賊は墨面尉のマガルという名で、その場で逐電したが、巫女殺しの下手人を追う警邏も執拗だった。翌年の夏、ヴイヤンのマガルの生家に至る街道上で、警邏の巡察隊と近隣の冒険者たちに包囲されて斬り合いになった。その頃には得物の六尺棒も手離していたのだろう。マガルは鎧通し一振りで多数と渡り合い、蒼い天空のギアルナという若い冒険者に討ち取られた。各地を逃げ回った挙句、この男なりに生まれ故郷で死にたいと思ったのかもしれない。
それから十年ほどたった頃、ガラヤは外町に大きな酒屋を構える主人に一目惚れされて分限者の妻になっていた。大店の奥方になっても働き者のガラヤは周囲が止めるのも聞かず毎日店に出ていたが、ある日、店を覗く乞食に目を止めた。襤褸を纏っていたが手に六尺ほどもある黒い杖と割れた木碗を持ち、物乞いで日々口に糊する遍歴の修道士であると知れた。
目と目が合うと、その男は足早にその場を去っていった。
男の顔に走る疵から、ガラヤは懐かしいマガルの変わり果てた姿と察して後を追ったが、二つ先の角で急にその姿を見失った。
焼き鳥大火から数年、焼け果てた外町がようやく復興して火災の傷も癒えた頃の話である。
あしか亭奇譚 hot-needle @hot-needle
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