第6話後篇 外伝 帝国継承戦争カルフィール戦役編 約束の地
帝国外務省普請技術指南役ウェルドの助手兼現地案内人であるシャンテは、教会に担ぎ込まれてから自分の寝ている担架を三度移動させられていた。担ぎ込まれた翌日の午後、彼は化膿止めと称して真っ赤に灼けた鉄鏝を傷口に押し当てられた。シャンテは悲鳴とともに二度と焼肉を食うまいと心に誓った。
安っぽい臭いの火傷用の油を塗られて最初の三日間は生温い風が通る日陰の窓際に置かれた。三日目にやっと医者がやってきて傷を診た。
次に移されたのは土間だったがまだ梁に屋根が乗っていた。冷たく黴臭い空気の中で丸一日放っておかれた。彼の隣に寝ていた女性が苦しそうに呻きながら寝返りを打ってそのまま息を引き取った。蠅の集る死体はシャンテと同じようにそのまま放置され、やっと様子を見に来た衛生兵が彼女の死を確認し、大急ぎで担架と毛布を剥ぎ取った。ここではこの二つが最も不足している備品なのだ。
三度目は中庭に追いやられ、申し訳程度に日除けの布が張られた暑苦しい地面に寝かされた。人々は群がる蠅を追い払う余力もなく、時折負傷者の泣き声と呻き声が上がって耳を覆いたくなった。唯一の救いは看護婦か衛生兵が一刻ごとに見回りに来ることだった。
「汗を拭くわね」
長い黒髪の看護婦が茶色く汚れた手拭でシャンテの額を拭った。
「今は暑いけどもうすぐ夜になるからここも少しは涼しくなるわ」
「君は確かイーリと言ったね」
シャンテは額に触れる少女の指先に陶然としながら言った。
「何日か前に偉い軍人とやり合っていた」
「あれを見ていたの?」
恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「見ていたも何も、あんな大声じゃ誰だって気づくさ」
死人だって目が覚める大声だったと言おうとして止めた。この場所ではあまりにも不謹慎過ぎる。
「痕は残るけど傷はたいしたことないって先生も言っていたわ」
イーリに手伝われてゆっくりと上体を起こした。
イーリが汚れた包帯を取り、血膿で汚れた油を拭き取る。シャンテは心地良さに思わず声を上げた。
「ごめんなさい、痛かった?」
イーリの手が止まった。
「いや、俺はこれまで女の子にこんなに親切にされたことがなくて……」
シャンテは片頬を歪めた。彼は施刑徒と呼ばれる一種の労役囚だった。貧民の出だったシャンテは首都でケチな盗みで捕まり、施刑の労働として外国人の従僕に就いた。それが今「先生」と呼ぶウェルドだ。ウェルドの世話を焼くうちに、普請という地形を操る技術に驚き、なかば強引に弟子入りした。刑期を終えても普請場を飛び回るウェルドに従い勉強に次ぐ勉強で、女性を顧みるゆとりもなかった。それなりに玄人女との付き合いはあっても、彼女のような存在は彼の意識の外にあった。
「ウェルドさんの助手なんでしょう?」
新しい油を塗りながらイーリが言った。
「ああ」
「何やってるの?」
「普請だよ。道や橋を作ったり修理したり、水路を切ったり」
「へえ」
言ってしまってからシャンテは後悔した。
自然を崇める精霊信仰の根強いエルフには、もともと自然を加工するという概念が薄い。道は人や獣が踏み均してできたもの、川は浅瀬を渡るものという考えが一般的だった。植民地時代に植民地政府が街道を整備し、橋を架け、治水に乗り出したが、その度にエルフの抵抗に遭った。橋を架けようとして暴動が起きることも珍しくなく、街道や橋が叛乱の理由になることもあった。エルフが人夫の募集に応じなかったために、初期の植民地政府はわざわざ周辺地域から外国人労働者を人夫として送り込まなければならなかった。道や橋の利便性は認めるものの、それを必要悪と考えるエルフはなおも多く、今も道路作業は囚人の仕事という認識が普通だ。
シャンテはイーリが眉を顰めるのではと危惧した。
「凄いじゃない。みんなの為になるお仕事なんて」
眼を輝かせてイーリが言った。敬虔な秩序の光教の信者であるイーリにはそんな心配は杞憂だった。
「うん、でも戦争で滅茶苦茶だし俺はこの様だ」
自嘲気味に笑った。
「大丈夫よ、またやり直せばいいじゃない。もうすぐ戦争も終わるって神父様も仰ってたわ」
「そうだな。傷が治ったらまた国中の道を修理して回らないと」
「素敵な仕事ね。あちこち旅しながら人の役に立つ仕事なんて」
背中に回って包帯を巻き直しながらイーリが答えた。
「……一緒にやらないか?」
躊躇いながら訊いた。
「え?」
イーリの手が一瞬止まった。
「いや、俺と一緒に旅をしないかって言ったんだ。戦争が終わったら」
「うん、いいわよ、考えておくわ。でもまず怪我を治さないとね」
湯桶に手拭を落としてイーリが立ち上がった。
「夜になったらまた来るわ」
「ああ、待ってるよ。楽しみにしてる」
シャンテは去っていくイーリに小さく手を振った。振り向いたイーリがはにかみながらにっと笑って手を振り返した。シャンテは胸が締めつけられるのを感じた。そういう経験が皆無だったシャンテにはまだ自覚はなかったが、惚れるなというのが無理な話だった。
薄暗い廊下を四つの人影が足早に歩いていた。一人は少女と見間違うばかりに幼く見えた。後に続く三人の女は揃って艶のある茶色の髪を靡かせ目鼻立ちも三つ子のようにそっくりだ。兜を目深に被り、濃緑色の軍衣を着た四人は、むっつり押し黙ったまま一番奥の部屋の前で立ち止まった。小柄な女兵士が振り向いて心細げに後ろの三人を見上げた。三人が力強く頷くのを見てゆっくり深呼吸すると勢いよく扉を開けた。
簡素な執務机の奥から部屋の主が顔を上げ、四人の襟の下士官章を認めた。
「何だ貴様らは。エルフではないな。傭兵か?」
凄味を利かせた声が低く響いた。
「第一外人連隊のアイカ伍長です。野戦憲兵隊長のカウズ中佐ですね?」
大きすぎる軍衣の小柄な兵が口を開いた。こんな子供が下士官だと? 中佐は不審の目で伍長を見つめた。
「そうだが?」
「我が連隊のニド曹長の拘禁を解きに来ました」
「ああ」
中佐は僅かに考える素振りをして続けた。
「あのダークエルフの曹長か。あれはまだ取調べ中だ」
「証拠不十分だと聞いています」
「国王警備隊からの反証待ちだ」
「国王警備隊とは話を通してます。待っても無駄です。もうすぐ敵が攻めて来るのにこんな些事に付き合ってられないそうですよ」
赤い瞳の三白眼が嘲るように少佐を眺めている。上位者に対して何という非礼。小娘相手に怒りが沸いた。
「だいたい敵前逃亡を図って剣を抜いた裏切り者を殺したから拘束とか。憲兵隊ってまるで糞の山に糞を運ぶフンコロガシですね」
「図に乗るなよ、傭兵。外務省から邪魔が入らなければあの曹長はその日のうちに吊るしても良かったんだ」
けッと小さな伍長が咳のような声を吐き出した。
「臨陣格殺ですか。点数稼ぎのためにそうやって罪をでっち上げて何人吊るしてきたんです?」
「貴様、何を言っているのかわかっているのか?」
「これが外務大臣の署名入りの命令書です」
懐から取り出した紙切れを机の上に置いた。何かの反古紙の裏に走り書きされた命令書、署名は確かに外務大臣だ。
「こんなもの命令書と言えるか。それに総司令部からの命令がなければ釈放できない」
「御託はいいから早く鍵を渡してください。実力行使してもいいんです。個人的には実力行使を希望します」
小娘が蛇の笑顔で中佐を睨め上げて窓を指さした。背筋に冷気を感じた中佐が立ち上がり、窓から外を見下ろして蒼ざめた。いつの間にか中庭に傭兵が一個小隊ほど屯している。手に手に得物を持ち、所在なげに佇んでいるが目が据わっている。中佐は本部に詰めている憲兵の人数を思い出そうとした。駄目だ、この小娘の合図一つでここは制圧される。それは理解できた。
「中佐」
小娘のような伍長が声を低め、聞き分けのない子供を諭すように優しく言った。
「敵はもう目の前まで迫ってます。こんなくだらないことで遊んでる暇はないんです」
こんな子供のような下士官に説教される屈辱に中佐の全身が震えた。
「この外務省の越権は抗議させてもらうぞ……」
鍵束を取り出しながら呻くように告げるのが精一杯だった。
「お好きにどうぞ。もうすぐここも跡形もなく吹き飛ばされるって時に救い難い阿呆ですね」
うんざりした口調で言い捨てると手を伸ばして鍵束を毟り取り、小さな伍長は三人を連れて部屋を後にした。
「んー!」
聖堂の東にある古い大きな宿屋を接収した憲兵隊本部の前でニドは大きく伸びをした。
「お日様が美味しいわ。ずっと小さな鉄の檻に入れられてて体も伸ばせなかったのよ」
「何呑気なこと言ってるんですか、姐さん。こっちは気が気じゃなかったんですぜ」
三十人ほどの傭兵を引き連れたドワーフがうんざりした顔で言った。
「ありがとう、ベルゲス。でもずっと暇で暇で参ってたのよ。いやらしい尋問も無かったし」
ベルゲスが差し出したパイプを受け取って口にくわえた。
「お願いします。兵たちの前でそんなこと言わないでください……」
横ではアイカが三つ子の一人の腰にしがみついていた。
「うええ、怖かったよう、グスタフ……」
「よく頑張りましたわ、アイカ様」
琥珀色の瞳が優しく微笑んでアイカを見下ろした。
「そう?」
涙目のアイカが顔を上げた。
「ええ、本当に」
グスタフがアイカの兜を取って禿髪を優しく撫でた。他の二人もアイカを囲んで三人で撫で始めた。
「ちょ……、ドーラもカールもやめて」
そう言いながらアイカは気持ちよさそうに目を細めた。
呆れ顔でアイカたちを眺めながらニドが口を開いた。
「それで、誰か私が囚われのお姫様だった間の状況を説明してちょうだい」
「回廊が落ちました」
カールがアイカの喉を撫で回しながら答えた。
「え? あそこが? こんなに早く?」
「アンテが包囲されたことで連隊長が撤退を決めたのです」
ドーラがアイカの首筋を撫で回しながら答えた。
「何やってるのよ。アンテは見殺しにされたのね。他に情報は?」
「敵が動甲冑兵を投入しています。数は二騎」
グスタフがアイカの顔を撫で回しながら答えた。
「噂は本当だったのね。それって大変じゃない」
「うん、大変だよ。助けて……」
三人に撫で回されながらアイカが答えた。
「あなたたち、アイカの頭が磨り減っちゃうわよ」
グスタフたちがはっとして手を引いた。
「ところでロラもスウも無事なんでしょうね?」
「ロラ姉さんはタムタムでお仕事中。スウ姉さんは二日前に裸みたいな恰好で帰ってきたよ」
「裸って何やってたのよあの子……。スウは今どこ?」
「聖堂の病院に行ってる。約束があるからって。終わったらこっちに来るって言ってたよ」
「ならスウが来たらタムタムの陣地に急ぎましょ。演奏会に遅れちゃうわ」
足首まで埋まる泥に往生しながら、ファルケン大尉は不機嫌な顔で泥濘の中を歩いていた。目指す先には一個小隊ほどの人数が何かを取り囲んで立ち尽くしている。何人かが彼に気づき、中の一人が彼を出迎えるように歩いてきた。
「曹長、どうだ?」
荒い息をつきながら訊いた。
「往生しましたが何とか引き揚げました。しかしティグレ大尉殿は……」
「それは覚悟してる。見せてくれ」
「こちらです。鎧は脱がせました」
帝国人の曹長に案内されて人だかりを割って中に入った。
そこには動甲冑が仰向けに横たわり、その横にティグレ大尉だったものが筵を被っていた。曹長が目配せして兵士の一人が筵を剥いだ。大尉は手足を伸ばした仰向けの姿勢で戸板に置かれていた。短い金髪、熱帯用軍衣が膨れ上がり、片方の足袋は見当たらなかった。露出した部分は長く水に浸かっていたせいか腐敗のためか、妙に人工的な作り物めいた光沢を放っていた。顔で多少とも原型を保っていたのは鼻から下だけだった。眉間と右の眉の上に裂傷のような穴が開いていた。そこを中心に顔と頭が普通の倍に膨れ上がってどす黒い艶やかな毬のようで、その中に曇った硝子球のような目が埋まっていた。右の目は左からの圧力で押し出されて横向きに飛び出していて、地面を這う得体のしれない虫を観察しているように見えた。
商売柄ひどい死体は見慣れてきた筈だった。それでも長年の戦友に変わり果てた姿に胸のむかつきを抑えられず、思わず背中を向けて息を吸った。
懐から引っ張り出した紙巻をくわえ、火打石を取り出したが手が震えて火打鉄をうまく擦れず火がつかない。見かねた曹長が自分の火打石で火縄を点けて差し出してくれた。礼を言って深く吸い込んだ。反吐の味がした。それでも何とか落ち着きを取り戻したのを見計らって曹長が話しかけた。
「軍医にも診てもらいましたが、頭部の損傷が激しく蘇生は無理とのことです。遺体は集団墓地まで運びますか?」
「ああ、そうしてくれ」
「ティグレが殺られた状況はわかるか?」
「これがティグレ大尉の頭部に刺さってました。ほとんど即死だったでしょう」
雑嚢から二本の太矢を取り出した。
「エルフの矢にしては短いな」
「弩です。上げた面甲の隙間から撃ち込まれたんです」
闇夜の中、上げた面甲の僅かな隙間を正確に射抜いた。凄腕だ。ファルケンは僅かに身震いした。
曹長が二十間ほど離れた大木を指さした。根元から折れて半ば水面に没している。
「あそこにクル族の狙撃兵の死体が二つ転がってました。ティグレ大尉と相討ちになったんです。そいつらが弩を持ってました。それとうちの偵察兵が一町ほど離れた場所に小舟が隠されているのを見つけました。恐らくそいつらのものでしょう」
「脱走兵か?」
「わかりません。まさかこんな所に外哨を立てるとも思えませんし」
今回の動甲冑兵の浸透迂回はファルケン自身が立案したものだ。危険は承知していたが、まさかこんな事故に近い形で経験を積んだ動甲冑兵を喪うとは。発見されることを恐れて単騎毎ばらばらに行動したのが間違いだった。今後は動甲冑も常に連携して動く必要がある。戦友を喪った衝撃に打ちのめされながらもファルケンは戦訓を冷静に分析していた。
「大丈夫ですか?」
黙り込んだファルケンを心配して曹長が尋ねた。
「あ、ああ」
不意に問われて戸惑いながら答えた。
「お二人は付き合いが長かったと聞いています」
「大戦以来の仲だ。俺はあいつと士官学校の動甲冑兵課程で同期だったんだ」
短くなった煙草を投げ棄ててブーツで踏みにじった。
「俺はあいつに二度命を助けられた」
「北部戦線で?」
「まあな。長くなるからまたいつか話そう。ここの始末を頼む。俺は宿営地に帰って次の作戦の準備だ」
場末の飲み屋で女を口説くような昔語りはファルケンの趣味ではなかった。
ファルケンが中隊の隠蔽陣地に戻ると、半地下壕の本部天幕でギズム技術伍長が彼を待っていた。
「整備所の主が珍しいな、どうした?」
床几に腰を下ろして訊いてから言葉が詰まった。右腕に血の滲んだ真新しい包帯が巻かれている。
「実は……」
姿勢を正したドワーフの伍長は口ごもった。
「ライノス少尉殿が今朝方整備天幕から動甲冑を引き出して強行偵察に出発しました」
「強行偵察? 命じてないぞ」
天幕の入り口で何かが光った。
「あたしも反対したんですが聞き入れられませんでした」
「まあ座れ、クーン、茶を二つ頼む」
ギズムが床几に尻を落とした。急に外が暗くなり、手桶一杯の炒豆を板の間にぶちまけるような音がして大粒の雨が天幕を叩き始めた。雷の音が大きく響いた。
「腕の傷はその時のものか?」
「押しのけられたときに工具箱にぶつけましてね」
クーンが湯呑を二つ持ってきて組立式の野戦机に置いた。
「動くなと言っておいたはずだが」
「ティグレ大尉殿が戦死なされたことがよほど我慢できなかったようでした」
「あの莫迦野郎め」
湯呑の一つをギズムに勧めながら自分の湯呑に目を落とした。茶ではなく腐泥のような黒茶だった。ファルケンは悲しげに目を伏せた。少なくとも怒りを落ち着かせる効果はあった。
「関所への攻撃を控えて色々立て込んでいるときに勝手に行動しやがって」
「少尉殿はティグレ大尉殿の仇を取ると息巻いとりました」
雨音が一層酷くなってきた。
「向こう見ずもいい所だ」
関所には大勢の魔導兵が控えている。彼らの集中法撃を喰らえば動甲冑といえどもひとたまりもない。
「随伴兵は?」
「連れていません」
本来、動甲冑兵に随伴する役目だった軽騎兵たちはハン少尉率いる遊撃隊との戦闘で戦死し、補充も間に合っていない。
「じたばたしても始まらん。少尉が無事帰ってくることを祈ろう」
二人はほとんど同時に湯呑を取って口に運び、あまりの不味さに咳き込んだ。
その日の朝、ウェルドとマースは教会の正門の前に立っていた。庭には相変わらず人々が所構わず横たわっていた。血と排泄物と飢餓患者特有の酸っぱい体臭が混じり合って溢れ返り鼻孔を直撃した。
「ひどいな。前来た時より増えてる」
マースが呻いた。
「戦局が逼迫してるからな。まだ増えるぞ」
ウェルドが素っ気なく答えて中に足を踏み入れた。
苦労して教会の建物に辿り着いたが、廊下にも雪隠の前にも患者が折り重なるように寝かされている。死んだように動かない者も大勢いた。これほど患者が多ければ中には気づかれないまま死んでいる者もいるだろうとウェルドは気が滅入ってきた。
やっとシャンテが寝かされている壁際に着いたが、そこには上半身に重度の火傷を負った負傷兵が寝かされていた。
「おい、いないぞ。まさか」
譫言を繰り返す兵士を眺めながらマースが心細げに口を開いた。
「いや、死ぬほどの怪我じゃないと言ってた」
自分で言っておいてウェルドも自信は無かった。様態が急変して死ぬのは珍しくない。特にこのような環境では。
「あら、ウェルドさん、それにマースさん」
振り返るとイーリが湯桶を持って立っていた。にっこり笑顔を浮かべているが、疲労の色は隠しきれてない。白衣の前が子供たちの緑便で汚れていた。ウェルドは飢餓がより一層深刻に進行していることを知った。
「シャンテさんですか?」
「ああ、まさか死んだとか……」
「元気ですよ。こっちです」
そう言って歩き出した。
「みんな感謝しています。ウェルドさんとマースさんのお陰で蠅が随分少なくなったって」
ウェルドは周囲を見回した。とても少なくなったように見えなかった。
「あそこですよ」
案内されたのは庭の一角だった。そこにじっと地面を見つめて動かないシャンテがいた。シャンテが足音に気づいて顔を向けた。
「先生」
前より随分ましな顔色でウェルドは安堵した。
「良かったな。生きてるぞ」
マースが大袈裟に笑った。
「かなり良くなったな」
ウェルドが背嚢を降ろしてしゃがみこんだ。
「はい、化膿もそれほど酷くなかったので」
「すまんな、軍の仕事に駆り出されてここに来る暇がなかった」
「そうだったんですか。軍の仕事って?」
「軍隊がタムタムの関所に陣地を作っているのは知ってるだろ。泊まり込みで手伝っていた」
「あれは手伝いっていう程度じゃなかったぞ。ほとんど仕切らされてた」
マースが口を挟んだ。
「敵はそんな所まで攻めて来そうなのですか?」
不安げにシャンテが訊いた。
「まだだ。だが、敵が近いといって民間人は御役御免になった」
「ついにここまで……」
横で聞いていたイーリの顔が蒼ざめた。
「大丈夫だ、ここは病院だ。攻撃はされないだろう」
安心させようとウェルドは語気を強めて言った。
「攻撃しようとしても帝国の軍事顧問団が止めるだろう。いざとなれば俺がここに来て連中を止める。忘れたのか? 俺は帝国政府の役人だぞ」
自分で言ってて莫迦らしくなってきた。説得力がないのは百も承知だ。しかし絶望的な現実を突きつけるよりましだ。
それを知ってかシャンテが力なく笑った。
「ええ、そうですね」
「それより土産がある」
沈んだ空気を吹き払おうと背嚢を勢いよくイーリの前に置いて開いた。
「軍から貰った。たいした足しにもならないが皆に食べさせてやってくれ」
中にはみっしり芋が入っていた。マースも自分の背嚢を降ろして横に並べた。
「ここまで重かったんだぞ」
マースがそう言ってにやりと笑った。
「まあ、こんなに沢山。でもいいのですか? ウェルドさんとマースさんの分は……」
喜びよりも戸惑いが先に立った。
「気にしなくていい。僕たちは関所で軍の特配を腹一杯食ってきた」
「ありがとうございます」
涙ぐんだイーリが微笑んで深々と頭を下げた。
「先生、ありがとうございます」
「しっかり食って養生しろ。何もなければまた明日にでも顔を見せる」
そう言って立ち上がった。
「少しは俺たちの分も残しておけばよかったかもな」
町に向かう道中でマースが未練がましく呟いた。
「あの様子を見てそんなことできるか」
ウェルドが呆れたように窘めた。
「そうだな、それより」
「なんだ?」
「あのイーリって看護婦とお前の助手、あれはいい仲だぞ」
「まさか」
ウェルドは目を見開いた。あいつは女っ気とは無縁の男だ。
今度はマースが呆れる番だった。
「気づいてなかったのか? 時々二人で目配せしてただろう。あれは目と目で通じ合うという一種の魔法だ」
「あいつ、いつの間に」
こっちが土方仕事に精を出している時にあいつはなんと羨ましいことを。
「お前は人生経験が足りてないな」
マースが笑った。
「俺より何倍も生きてるお前に言われてもな」
しかし内心動揺を隠しきれなかった。あんな真面目な奴が。
「さて、これからどうする?」
話題を変えようとマースが振ってきた。
「さあな、病院の手伝いでもするか?」
「それもいいかもしれんな。礼拝所で寝てるよりずっといい」
ふとウェルドが立ち止まって空を見上げた。
「どうした?」
「雨が降る。急ごう」
「この天気でか?」
マースが疑わし気に空を見上げた。所々に白い雲が浮いているが綺麗な青空だ。
「ああ。でかいのが来るぞ」
ウェルドは手慣れた土木技術者だ。天気の勘だけは鋭かった。
なかばウェルドの住処になってしまった礼拝堂にも絶望と飢餓の足音が迫っていた。配給の食糧も減らされ、人々は力なく俯き、時折咳が聞こえる他は何も聞こえない。あまりの辛気臭さに耐え切れなくなったウェルドは、安らかに寝ているマースを置いて礼拝堂を出ると、紙巻をくわえてミクラス山を眺めた。
「何が見えますか?」
振り返って驚いた。後ろに護衛の娘二人を従えたエルメイア姫が立っていた。白金の髪とスカートが緩やかに風に靡き、深紅の耳飾りが陽光にきらりと光った。
「これは姫様」
ウェルドは慌ただしく紙巻を踏み消すと深々と頭を下げた。
「先日は大変な目に遭われたと聞きました」
修道士たちの送還の件だろう。
「いえ、お力になれず申し訳ございません」
「いいのです。あなたのせいではないのですから」
姫が儚げに笑った。その姫の顔が急に暗い影が落ちた。見上げるといつの間にか一面に雨雲が拡がっている。ほんの一瞬閃光が辺りを照らすと、ざっと音がして周囲は驟雨に包まれた。
「姫様、中へ」
護衛の娘が声をかけるのを手で制して、エルメイア姫が笑顔のまま告げた。
「ウェルドさん、少しお付き合いくださらないかしら?」
「何をです?」
雨に叩かれながらウェルドは答えた。足が屋根の下に逃げ込みたがっていた。
「お酒のお相手をしていただきたいのです」
「酒の相手なら」
後ろに二人いるだろう。言いかけて言葉を呑んだ。姫の青い瞳がじっとウェルドを見据えている。
「私をいつまで雨に濡らしておくお積りです?」
顔は笑っていても眼は笑っていない。姫の思い詰めた真っ直ぐな視線がウェルドを射抜いた。雷音がウェルドの鼓膜を叩きのめした。
「私でよろしければ」
そう答えるのが精一杯だった。
案内されたのはクル族政権の新庁舎二階の一室だった。もともと質素な教室に場違いに豪奢な調度品が並んでいる。首都から逃れてきたクル族政府はここに絨毯を敷き、王宮で使っていた家具を持ち込んでいた。その中でも一番目を引いたのが絹の天幕付きの寝台だ。どうやってこの部屋に運び込んだのかウェルドには思いつきもしなかった。
ウェルドは椅子に座って強風にはためく刺繍編みの窓帷越しに雷雨を眺めていた。姫に座れと命じられたのだ。護衛の二人は何処かに行ってしまった。窓から打ち込む雨は窓帷を濡らし、開け放たれた窓の桟を叩き、絨毯と倒れた寝椅子を濡らした。
部屋中の全ての物が濡れそうな勢いだったが、部屋の持ち主も招かれたウェルドも気にしなかった。どうせアルテラ兵が入ってきたら略奪され焚き付けにされる家具なのだ。
「どうぞ」
姫が凝った造詣のギヤマンのグラスを二つテーブルに置いてワインを注いだ。赤紫色のワインが雷光を受けて不気味に煌めいた。
「賜りましょう」
礼を言って一口含む。上物だ。高級な酒には縁がないウェルドでもわかった。
「何故あなたはこの国に来たのです?」
濡れた髪を拭くこともせずに姫が訊いた。濡れそぼった絹のシャツが肌に張り付いている。姫様は下着をつけてなかった。貴人は下々に裸身を晒しても羞恥を感じないという話はウェルドも聞いてことがあった。飲み屋の片隅で交わされる他愛もない冗談の一つだ。あれは本当だったのか。なら見ても無礼じゃないかもしれないが、股間を硬くするのは間違いなく無礼なはずだ。ウェルドは姫から視線を外して心の中で素数を数えた。
「姫様、御召物を乾かさないと」
ウェルドはなんとか怖気を押し殺して言った。
「答えてください」
「単純な理由です」
姫がシャツの釦をゆっくりと外し始めた。
「姫様、お止めください」
「どうしてです? 服を乾かせって言ったのはあなたですよ」
「せめて私の見ていないところでやっていただきたい」
姫が咳き込むように笑った。
「なら見なければいいでしょう」
仕方なくウェルドは目を閉じた。
「それで、単純な理由とは?」
衣擦れの音が聞こえる。
「帝国政府の命令です」
「外交官って兵隊みたいですね」
「本格の外交官じゃありません。外務省に出向したただの技術官僚です。それも下っ端の」
けたたましい雨音に混じって何かが濡れた肌を滑り落ちる音がした。
ふいに膝に体重を感じた。攻撃的な甘い体臭。手のグラスが奪われ、細い指がウェルドの上衣の釦を器用に外していく。
何かが起こっている。ウェルドは恐怖した。
「姫様、何をなさっているのです?」
姫の吐息を近くに感じた。
「何度も言わせないでください。服を乾かせって言ったのはあなたです」
目を開けると闇の中で姫の豊かで引き締まった裸体が見えた。両腿を開いてウェルドの両膝に跨り、青い瞳が彼を見下ろしている。予想通り過ぎて拍子抜けするくらい姫は美しかった。思わず唾を呑み込んだ。
「姫様、ご自身が何をなさっているのかおわかりですか?」
下半身の制御が効かない。股間の力強い血の流れを止められない。
「この地にはね、稀人と伽を交わして精霊を喜ばせる風習がありましたの。古い古い風習です」
「私が史学の授業で教わった話と違いますね。大昔のエルフの里では訪れた余所者を打ち殺して荷を精霊に捧げていたと聞きました」
姫が野鳩のような笑い声を上げた。
「どちらが本当か今から試してみましょう」
一際大きい雷が喝と光り、浮き上がった妖艶な笑みにウェルドは慄いた。
「ここはもともと音楽室です。どれだけ大声を上げても誰も気づきませんわ」
「来たわよ」
豪雨に打たれながら、イーリは子供たちを小児患者用の天幕に追い立てた。
「今夜は一段と酷い」
洗いたての包帯を巻きながら神父が首を振った。
「今のうちに水を貯めておこう」
手空きの衛生兵と看護婦が総出で手桶や盥を手に雨樋に走った。井戸が枯れた今、水は天水に頼る他ない。一滴でも多く集めておけば後で泣くこともないのだ。
「イーリ、お話しして」
栄養失調の子供たちが彼女にまとわりついてきた。
「遊んでやれ。ここは俺たちがやるから」
両手に手桶を下げた衛生兵が笑って言った。
「さあ、何のお話をしましょうか」
身を屈めて子供たちを見回した。
「昔話がいい」
虱だらけの頭の少年がイーリの膝にしがみついた。
「私、昔話はよく知らないの。神様のお話をしましょうか」
「もう飽きたよ、それ」
イーリは椅子に腰かけた。
「じゃあ私の知っているお話をしましょう。とっても楽しいお話よ」
ひとつ深呼吸をしてからイーリが話し始めた。
「ある若者のお話よ。その若者はある日困ってる村人のために橋を作ろうと心に決めて教会に行って神様に祈りました……」
寝台に仰向けに横たわったウェルドは頭上の絹の幕を眺めながら雨と雷の音に聞き入っていた。横に臥した姫がほっそりとした指を伸ばし、彼の髪に指を絡ませた。
「凄かったですわ」
姫が顔を寄せて耳許で囁いた。盛り上がった柔らかい乳房が腕に押しつけられた。
「久々だったからな」
照れもせずウェルドが答えた。この男には一度寝た女に急に気安く接してしまう悪い癖があった。
「いいこと教えてあげましょう」
指を首筋から胸元へと這わせながら姫が言った。
「あなたにも私にも関係ある話です」
「床の服を拾って干さないと乾かないってことか?」
「違います」
本当におかしそうに笑った。
「キリアス・アバイユ将軍」
そう言って姫はウェルドの反応を窺った。
「奴の名はあなたと俺だけじゃなくこの町の全員に関係してる」
最悪の形で、とは言わなかった。言う必要がないくらい当たり前のことだ。
「あの男は政治家でもなければ革命家でもありません。うちの屋敷の下人でしたの」
「へえ」
それは知らなかった。
「種族間戦争の頃、父上が出征して不在なのを見計らって、アバイユは私の寝室に忍び込みました」
枕元から細巻の葉巻を取り出して口にくわえた。
燭台に手を伸ばすと火をつけてウェルドの口に挟み、もう一本取り出してウェルドの細巻から貰い火をした。
「彼は山刀で私を脅して言うことを聞かせようとしました。でもすぐ召使が大勢駆けつけてきて彼は逃げ出しましたわ」
姫がふうと煙を吐いた。
「その時奴を殺しておけば俺たちはこんな場所に来なくて済んだかもしれない」
または大人しく奴と寝ていれば、とは口が裂けても言えなかった。
「内戦が始まってすぐ、帝国から私信が届きました。開けてみたらアバイユの代理人からの手紙でした。身柄を保護するから首都が陥落するまでに前線を越えろと書かれてました」
「感動的だな。将軍は百年近く君のことを想い続けていたわけだ。短命な俺たち人間には想像もできない愛の物語だ」
「やめてください」
姫がウェルドの胸に爪を立てた。
「それで」
ウェルドが姫に顔を向けた。
「まだ姫様が俺をこの部屋に呼んで身の上話をする理由を聞いていない」
姫がはっとして上体を起こした。腕を伸ばして姫の二の腕を掴むと姫の頭を自分の胸に抱いた。
「裏を話してくれ」
ウェルドの胸に顔を押し付けたまま姫が話し出した。
「明日の夜、護衛の二人とともに関所を抜けてアルテラ軍に投降します」
「今更命が惜しくなったのか」
責めはしない。自分の命を惜しんで誰が責めるものか。むしろ明日をも知れぬ命の自分にこんな素敵な時間をありがとうと声を大にして叫びたいくらいだ。
「ええ、そうです。こんな所で死ぬわけにはいかないのです。私も父も町の人たちも。あれに私を捧げればこの町の人たちも助かるかもしれません」
「民を救うために自らを贄にするか。涙なくして語れない話だ。それで俺に何をしろと?」
「付き添って欲しいのです。帝国政府の官僚の貴方がいれば無道なアルテラ兵も手を出せないでしょう」
「即答はできない」
「ええ、わかってます。明日の日暮れに礼拝所の裏で待っています。気が向いたら来て下さい」
「ああ、わかった」
そう言って姫の二の腕を優しく撫で上げた。
「凄い雷ね」
「朝までには止むさ。俺は天気だけは詳しいんだ」
しかし、その轟音に雷鳴以外の音が混じっていることを二人は知らなかった。
ウェルドが異変に気付いたのは、夜が明けて雨も小降りになり、そろそろ配給所に並ぼうとマースと並んで礼拝所を出た時だった。野戦憲兵隊の騎兵が数騎駆けてきて、昨夜の記憶を反芻してにやけていた彼に泥を跳ね飛ばした。
「一体何だ?」
服を汚されてマースが拳を振り上げた。
「関所で何かあったのか?」
「いや、あれは病院の方向だ」
ウェルドは自分で言った後で得体の知れない不安感に襲われた。マースも同じ思いだったのだろう、急に深刻な顔つきになった。
マースの行動は素早かった。
路上に走り、後続の騎兵に向かって両手を拡げた。
「踏み殺されたいのか! 道を開けろ!」
殺気立った野戦憲兵が叫んだが、マースは怯まなかった。
「何があった?」
「野戦病院が敵に襲われた」
「あそこは戦線後方だぞ。しかも非戦闘施設だ」
「そんなことはアルテラ族に言え!」
「俺たちを後ろに乗せろ。あの病院の関係者だ」
雨上がりの教会はウェルドが最後に見た時より随分平らになっていた。
「ひどい」
マースが呆然と呟いた。
平たく見えたのは中庭に建てられた旧式の大型天幕が全て支柱を失って潰れていたからだ。白さを誇っていた漆喰の壁は黒く煤け崩れていた。ほんの僅かな生存者が兵士たちに抱えられて馬車に乗せられていた。
「生存者はいるか!?」
野戦憲兵の叫び声が飛び交う中、二人はよろめきながら中に入った。
あたり一面足の踏み場も無かった。蠅が群舞する中、血に染まった天幕の切れ端、折れた担架、割れた桶、枯れ枝のような手足が散乱し、その無惨さにマースは嘔吐した。
シャンテが寝ていた辺りは人と毛布と担架が念入りに摺り潰され丁寧に掻き回された上にこんがり焼かれて誰が誰なのか見分けがつかなかった。足許に千切れたエルフの耳が散らばっていた。
「シャンテ……」
ウェルドが悲しげに呻いた。
教会の入り口で顔見知りの女情報将校が兵士たちに指示を与えていた。
「エベル中佐」
「関係者以外立入禁止です」
眼鏡の中佐が二人を手で制した。
「私はこの教会の普請を任されていました。被害状況を確認する義務があります」
はったりだった。
「そうだったのですか。でももうあなたの仕事は無さそうですよ」
周りを見回した中佐は悔しそうに言った。
「ありとあらゆるものが壊され、焼かれ、殺されています」
「敵の浸透部隊ですか?」
「動甲冑です」
中佐が吐き捨てるように言った。
「例の帝国製の聖騎士です。だから私は言ったんです。ここはあまりにも戦線に近過ぎると。神父は重傷者の移送不可能を理由に移転命令を拒み続けていましたが、こんなことになるなら強制的に立ち退かせるべきでした」
「生存者!」
叫び声が聞こえた。人々が声のする方向へ集まった。
黒焦げになった天幕の下から数人の兵士が少女を抱きかかえて出てきた。
「イーリ!」
乾いた地面に寝かされたイーリにウェルドが駆け寄った。
「ウェルドさん? 子供たちは?」
イーリが左半分が焼け爛れた顔をウェルドに向けて力なく繰り返した。
「子供たちを見てきて」
ウェルドは天幕を振り返った。焼け爛れた支柱の下に毬のようなものが折り重なっている。寝台ごと押し潰された子供たちだった。
「大丈夫だ。子供たちはみんな無事だ」
「よかった」
イーリの無事な右の眼から一筋涙が流れた。少女が小さく、本当に小さく微笑んだ。
「私ね、シャンテと約束したの。戦争が終わったら国中を回って道路を作ったり橋を……」
そこで言葉が途切れた。マースが首筋に指を当てて首を振った。
「逝った」
そう言って小さな手を胸の上で組み合させ、小さくエルフ語で祈りの言葉を唱えた。
ウェルドは立ち上がり、中庭の修羅場に足を向けた。泣きたいはずなのに涙は一滴も零れなかった。
エベル中佐が数人の兵士と地面を探っているのが見えた。ウェルドは中佐の前に立って尋ねた。
「動甲冑兵の数は?」
「たった一騎」
中佐が赤紫に染めた形のいい唇を歪めた。
「これが奴らのやり方なんです。まず弱いところを徹底して痛めつけて見せしめにする」
「何故一騎だけだと?」
「奴の騎乗している鋼馬の蹄の数です」
中佐が崩れた壁を指差して説明した。
「あそこから入ってきて一通り掃射した後、教会の建物を粉々にし、中庭を大暴れして門を壊して逃げたのです。森の中に蹄が一頭分、門の外にも同じく一頭分の足跡が残っていました」
ウェルドは焼け崩れた門に目を向けた。
「豪雨に乗じて森の中を接近してきたのでしょう。前線からここまで監視兵に見つからずにやって来たのはほとんど神業です」
中佐が乗馬ブーツで地面を蹴った。
「病院にも守備兵を配置すべきでした。どんなにアルテラ族が残虐だといっても、彼らは彼らなりに心得ていて野戦病院だけは絶対に襲わなかった。我々がアルテラ族の捕虜にも病院を開放していたことを知っていたからです。でもその暗黙の了解も今日破られました」
「こいつは今どこにいるんです?」
「追跡班を編成して追わせています。まだ遠くまで行っていないはずです」
中佐の言葉を聞きながら、ウェルドは運び出される少女の遺体を見送った。
「あの娘はいい子でした。少々気の強いところはありましたけど、子供たちばかりではなく兵士たちにも人気がありました」
中佐は運ばれていくイーリに小さく頭を垂れると、ウェルドに一礼して去って行った。
「ウェルド」
マースがウェルドの横に立った。
「少し黙っていてくれ」
自分の非力さへの怒りと行き場のない怒りが重々しく腹に溜まって言葉が出ない。
「関所のほうで煙が上がっている」
マースが東の空を指差した。微かに甲高い音と重苦しい音が響いてきた。ウェルドにはわからなかったが、それはアルテラ軍の法撃音だった。
「奴ら本気でナージの町を包囲する気だ」
後片付けの兵士たちの間を縫いながら二人はとぼとぼと歩き始めた。崩れた門の隙間から出ようとしたとき、ふいに後ろから声を掛けられた。
「先生……」
汚れた包帯を上半身に巻いたシャンテが壁にもたれかかるように立っていた。
「シャンテ! 生きてたのか!」
急に涙が溢れ出した。
「崩れた壁の間に挟まっていたんです。おかげで命だけは助かりました」
「良かった、本当に良かった」
「イーリのことなんですが」
「彼女のことなら何も言わなくていい」
「イーリは私の担当看護婦でした。明るくて元気がよくて人を勇気づける力を持っていました。奴のせいで彼女は死んだ。私の言いたいことがわかりますか?」
「すまん、よくわからない」
「関所で戦闘が始まれば追跡班はすぐ呼び戻されるでしょう。軍が彼女の仇を討つ気がないのなら、誰かがやらなければならない」
「動甲冑兵を壊したいのか?」
「はい」
「無茶だ、お前はまだ真っ直ぐ立つことも出来ないじゃないか」
マースが口を挟んだ。
「大丈夫です。まだ走るのは無理ですけど」
どう斜めに見ても全然大丈夫に見えなかった。
「話は聞かせてもらったわ」
だしぬけな声に三人が振り返った。後ろに傭兵のニド曹長が腕組みして立っていた。その横に昨日まで世話になったロラ軍曹がいた。背中に長剣を吊ったロラがにこやかに頭を下げた。
「ニド曹長……」
「曹長はやめて」
「どうしてここに」
「動甲冑兵が出たって聞いて飛んできたのよ」
「憲兵に捕まったと聞いていた」
「心配してくれてたのね、嬉しいわ」
ニドが大股で歩いてシャンテの前に立った。
「あなた、動甲冑兵を見たって言ったわね」
「はい」
「じゃあその特徴もたっぷり頭の中に入っている訳ね」
「はい!」
ニドが砂糖を塗りたくった悪魔の笑みを浮かべた。
「もっとあなたのお話を聞きたいわ。立ち話も何だから、あっちの人気のないところでどう?」
まるで娼婦の誘い文句だ。ウェルドはふいに十一番街を思い出した。
案内されたのは二頭立ての無蓋馬車だった。病院の生存者を運ぶために駆り出された馬車だろう。しかしその出番はなかったようだ。誰もあんなに生者が少ないとは思わなかった。
「まずその怪我を何とかしなくちゃね」
ニドがウェルドたちの手を借りてなんとか荷台に這い上がったシャンテを見て言った。
「傷を見ますね」
ロラが荷台に座り込んだシャンテの後ろに跪いて包帯を巻き取り、そっと傷に触れた。びくんとシャンテの上体が小さく跳ねた。
「まだちょっと膿んでいますね。不自由なく動けるようになるには日にちがかかります」
「治してあげるわ」
ニドが立ち上がった。
「できるのか?」
荷台の縁に腰かけたウェルドが尋ねた。
「これでも魔導士の端くれですからね。治癒くらい使えるわよ。ちょっとやり方が特殊なだけで」
「姉さん、今ここでやるのは止めてください」
ロラが窘めるように言って懐からポーションの瓶を取り出した。今のナージでは黄金より貴重品だ。
「これを」
「いいのですか?」
シャンテがおずおずと尋ねた。
「貰っておけ。軍隊は何でも取り上げちまった。ポーション一本くらい返してもらっても罰は当たらない」
ウェルドの隣に座ったマースが横から口を挟んだ。
「ええ、その通りですよ」
ロラが栓を固く縛った糸を噛み切ってシャンテに差し出した。
「早く飲んでください。封を切ってしまいました」
シャンテが一気に呷るのを見てロラが微笑んだ。
「これで一刻もすれば良くなりますよ」
「礼を言うべきなのかな」
ウェルドがロラに訊いた。
「気にしないでください。マースさんの言う通りですから」
マースが跋が悪い顔をして横を向いた。
「それで、あいつはどんな感じだったの?」
ニドがシャンテの目の前で胡坐をかいて口を開いた。
「鉄の馬に乗って、左手に四角い盾を持って、右手の槍の穂先から魔法の矢を次々に凄い勢いで射ち出してました」
「馬に乗ってる以外はスウが言ってた通りね」
「スウって?」
ウェルドが尋ねた。
「回廊の生き残りよ。動甲冑が一騎撃破されたのを見届けてるの」
「倒したのか?」
ウェルドとマースが同時に目を剥いた。
「ええ、スウがやった訳じゃないけど」
ニドが顔を上げてウェルドを見つめた。
「どうやって倒したんだ?」
「面甲を上げてるところに矢を二本」
ニドが自分の眉間に指を当てた。
「素晴らしい! 奴がいつも面甲を上げてるように祈ろう」
マースが大げさに両手を拡げて呆れるように言った。
「お前は建設的じゃないな」
ウェルドに言われてマースはむっとして黙り込んだ。
「マースさんの言う通りよ。不意打ちがうまくいっただけだもの。あれは長い間人間世界の切り札だった兵器よ。もう一度同じことが出来るなんてお目出たい考えは捨てるべきね」
「マースでいい」
「わかったわ、マース」
ダークエルフがマースに顔を向けて優しく笑った。年甲斐もなくマースが赤面した。
「それでシャンテ、他に敵は見なかった?」
「いえ、見てません。敵はあいつだけで十分でした。たった一人で教会を滅茶苦茶にしやがった」
シャンテが歯を食い縛った。
「随伴兵無しで行動してるのね。豪胆だわ」
手を使わずすっと立ち上がった。シャンテの目がニドを追う。
「でもその豪胆が命取りね。絵は描けたわ」
ゆっくり上体を屈めてシャンテの目を見つめる。手がシャンテの首筋に触れた。
「あいつを壊したいって言ってたわよね。約束するわ。教会を襲った悪党がやっつけられるところを見せてあげる。今はゆっくり休んでいて」
「おい、俺の助手をどこに連れて行く気だ?」
ウェルドが抗議の声を上げた。
「関所よ」
「何故関所に奴が来るとわかる?」
「わかるわよ。これでも海千山千弥勒三千の古狐ですからね」
「関所といってもあそこは広い。いつどこに来るのかわかってるのか?」
「大丈夫、追跡班とは別に一人走らせて後を尾けさせてるの。大丈夫、こういうことに関してだけは指折りの凄腕よ」
「ええ、あの子なら大丈夫です」
ロラがにっこり笑った。
「倒せる当てがあるのか?」
「ええ、あいつは私たちを舐め切ってるわ。だから戦線後方に単騎で現れたのよ。しかも大半が非戦闘員とはいえ大手柄を挙げて追手も来ない状況よ。絶対にあいつは油断してる。その油断に付け込むの」
「わかった。俺も行こう」
ウェルドが立ち上がった。
「いいの? ここからは先は悪鬼羅刹が右に往き左に返る修羅の道よ」
ニドがウェルドを宥めるように言った。
「俺は教会で働いていた娘を死なせてしまった。敵が来たら守ってやると約束していたのに」
イーリの笑顔が脳裏をよぎり、また涙が滲んだ。
「だから俺に手伝わせてくれ。落とし前をつけたいんだ」
「堅気のあなたが落とし前なんて台詞を言っちゃ駄目」
横で聞いていたロラがそっとニドの耳許に口元を寄せた。
「姉さん、ウェルドさんは関所で対動甲冑障害の構成をほとんど一人で取り仕切っていました」
ニドがロラの目を見た。ロラの切れ長の二重の眼が涼し気に笑った。ロラが小さく息を吐いた。
「わかったわよ。一人も二人も同じですからね。いい? ちゃんと言うこと聞いてよ」
「おい、お前ら正気か? 俺たちは軍人じゃないぞ。一体どうしちまったんだ?」
マースが驚いて声を上げた。
「付き合う必要なはい。ここから歩いて町に帰っても誰も責めない」
マースがウェルドとシャンテを交互に見た。
「畜生、わかったよ。町に戻って震えながら寝てるよりましだ」
勢いよく荷台に胡坐をかいた。
「それじゃ行くわよ。覚悟はいいわね?」
ニドがそう言ってひらりと御者台に飛び移った。答えはわかってる、そういう口振りだった。
密林の中の革命軍独立動甲冑中隊の本部に念話が入ったのは雨も止んだ辰三つの頃だった。
「ライノス少尉と連絡がつきました」
ハイエルフの念話兵が本部天幕に駆け込んできた。
「位置を知らせてきました。座標呂の一三一三二五」
従卒のクーン軍曹と他愛もない世間話をしていたファルケン大尉は跳ねるように立ち上がった。
「暗号を使ってか?」
「いえ、動甲冑の念話輪を使って平文で」
念話兵が不動の姿勢で答えた。
「状況を知らせるように言え」
念話兵に椅子を勧めながら、ファルケンはクーンに顔を向けて彼にも茶を淹れるよう仕草で伝えた。
「はい、『強行偵察を完了、戦果は絶大、現在地は二一号道路と五一号道路の交点から……』」
「そんなことはどうでもいい。命令を無視してそんな所まで出かけた了見を聞け」
念話兵の肩を掴んで苛立たし気に言った。
しばらく沈黙が続いた。いつの間にか本部天幕の入り口に中隊の主だった者たちが集まっていた。
「報復攻撃だと言ってます」
ティグレ大尉の仇討ちのことを言っているのだろう。
「何をしたのか聞け」
「関所近くの兵舎と医薬品の集積所を破壊したそうです」
「すぐ戻れと伝えろ」
「今回の行動はネルダース団長の直接命令だと言っています」
「俺は何も聞いていないぞ」
馬鹿な、ネルダースは動甲冑兵の前線投入を止めようとしている張本人じゃないか。ファルケンの言葉に中隊の兵たちが顔を見合わせて小声で囁きあった。
「その話は後で聞くから兎に角戻れと伝えろ」
「無理だと言っています」
念話兵がファルケンの剣幕に蒼ざめながら答えた。
「鋼馬の膝の調子がおかしいので、このまま現在地に留まって友軍と合流する、と」
嘘だ。ライノスはそのまま関所の戦闘に参加する積りなのだ。
ファルケンの思いを見透かしたかのように念話兵がライノスの言葉を伝えた。
「故障は本当だと言っています。万が一に備えて座標を伝えた、と。これ以上は傍受の危険があるので念話は封止するそうです」
「畜生」
怒りを鎮めるためにクーンが淹れてくれた黒茶に偽装した得体の知れない液体を啜った。あまりの不味さに思わず身震いした。
「少尉は初陣で血狂いしたのだ」
凄惨な戦場、動甲冑兵の万能感、戦功への渇望、ティグレ大尉の戦死、そういった様々な要因があの若者の精神を蝕んだのだ。
「もう一度呼び出しますか?」
念話兵がクーンから渡された湯呑を両手で持って恐る恐る訊いた。
「無駄だ」
「兎に角ライノス少尉の場所はわかった。ナージ郊外、タムタムの関所近くの密林だ」
筆を取って地図に丸印をつけた。
「ご苦労、それを飲んだら通話所に戻っていいぞ」
ファルケンの言葉を聞いて念話兵は物凄く嫌な顔をした。
ウェルドたちは、監視哨の兵士に馬車を預けて関所に向かって徒歩で移動していた。軽いポーション酔いにかかったシャンテは足取りが覚束なかったので、ロラに支えられるように足を動かしていた。見上げるばかりだった伝統的な木造の陣屋はほとんどが解体されて築城資材に再利用され、遠くからはもう貧相な小高い丘にしか見えない。昨日ここを去ったばかりなのにまた舞い戻っちまった。ウェルドは自嘲した。
中尉の階級章をつけた将校が壕の入り口で一行を待っていた。エルフにしては珍しく禿げ上がった頭をしていた。
「小隊長」
ニドが声を掛けた。
「もしかしてお出迎えに来てくれたんです?」
「そろそろ戻ってくると思っていた」
「まあ、嬉しい」
ニドがにんまり嬉しそうに笑った。
そのまま壕を降りたニドに続いて中尉が歩き出し、その後をウェルドたちがぞろぞろ続いた。
「状況はどうです?」
前を見つめたままニドが中尉に尋ねた。
「今は散発的な擾乱法撃だけだ」
「今夜にも寄せてきますね」
「情報部の報告も今夜で一致してる」
「投石機の目処はつきました?」
「ああ、一個中隊が直接支援してくれる」
「少ないですね」
「仕方ない。運用が流動的すぎる。一個中隊だけでも感謝すべきだ」
「念話兵の増勢はどうです?」
「無理だ。どの部署も念話兵が足りてないのだ」
「いいわ、そちらは期待してませんでしたから」
「すまんな」
「謝らないでください。もうすぐスウが戻ってきますから、それから場定めしましょう」
「わかった」
「おい、どっちが上官かわからないな」
マースが周りに聞こえないように小声で呟いた。
「ああ、随分な貫目だ」
ニドと中尉の背中を眺めながらウェルドが答えた。
「姉は中隊で一番の遣り手なんですよ。他の部隊にも顔が利くから、ついた渾名が参謀曹長」
ロラが声を落として囁いた。
いきなりニドが振り返った。
「聞こえてるわよ、お願いだからその呼び名は止めて」
中尉が肩を震わせて笑いを堪えた。
「そうだ、中隊長が来てる」
中尉がニドに告げた。
「え、中隊長が? ナージの聖堂で大人しくしてたんじゃ」
ニドが中尉を見上げた。
「流石にそれじゃ面子が立たないと思ったんだろう。今中隊本部で座ってる」
「なら顔を出さないと駄目ですね」
もう一度ニドが振り返って一向に声を掛けた。
「中隊長への報告が終わったらご飯にしましょ。その頃にはスウも戻るでしょう」
中隊本部は六畳ほどの細長い掩蓋壕で、入口が低く身を屈めて入らなければならなかった。中は木箱や行李が散乱し、六人入るともう息苦しくなった。一番奥に簡素な木製の机があり、真新しい軍衣を着て波打つ長い金髪のエルフが座っていた。中性的で端正な顔立ちの美少年といえるだろう。男娼として稼げる顔だ。だが落ち着きを失った所作と血の気の失せた顔色がそれを台無しにしていた。
「ニド曹長、戻りました」
ニドが机の前に立って申告した。
「後ろの三人は?」
青年がウェルドたちに怪訝そうな視線を投げた。襟元に大尉の階級章が見えた。
「現地協力者です」
ニドが素っ気なく答えた。
大尉が目だけ動かしてちらりと中尉を見た。中尉がわざとらしい仏頂面で頷くのを見て大尉がほっとしたのをウェルドは見逃さなかった。
「わかった」
精一杯威厳を取り繕った態度で大尉が続けた。
「夕刻に守備隊本部で作戦会議がある。同席してもらいたい」
「下士官の私が出席してもよろしいのでしょうか、連隊長代理?」
「お願いだ、頼むよ」
哀願するような口調で大尉がニドを見上げた。
「そういう時は同席しろと命じて下さればいいのですよ」
ニドが優しく微笑んだ。
それから半刻後、一行は後方の退避壕で桜鍋を囲んでいた。三人は目立ちすぎると言われて軍衣の上を羽織らされていた。まだ敵の間延びした法撃が続いている。
「法撃は大丈夫なのか?」
運悪く頭上に降ってこないとも限らない。しかし、訊いたウェルドも心配していなかった。音がするたびにいちいち身を竦めていたシャンテももう飽きたのか平然としている。
「平気ですよ、姉さんがいますから。それよりお腹一杯食べてくださいね。これっきり当分食べられなくなりますから」
ロラが杓子で鍋を取り分けながらさらっと厳しい現実を告げた。訊くのではなかった。ウェルドは深く後悔した。
「この鍋の中身はどうしたんだ?」
マースが馬肉を頬張りながら訊いた。
「死んだ軍馬ですよ」
ロラが答えた。
「そりゃいいな。俺も軍隊に入ればよかった」
マースが無責任に笑った。
「ところで、あの中隊長はえらく頼りなさそうだったが」
匙を使いながらウェルドがニドに尋ねた。
「ああ、あの子ね」
ニドが上官を「あの子」呼ばわりしてウェルドは軽く驚いた。当のニドもしまったと思ったのか少し気まずい顔をした。
「中隊長は政府のさるお偉方の御曹司なのよ。内戦が始まってから召集されて、いきなり大尉の階級章を縫い付けられて中隊長に補されたの。将校の数が足りてなかったのね」
内戦劈頭に多数派を占めていたアルテラ族出身の下級将校が一斉に離反した話はウェルドも耳にしていた。
「つまり軍人としては素人同然なのか」
「ちょっとややこしい事情があって可哀そうな子なの。世間知らずで多少腕に覚えがあったから、部隊に来た頃は凄く張り切ってたのよ。でも、初陣で怯えちゃって、それからはずっと後方で酒と女を抱き締めて震えてたの。だからこんな所に来るなんてびっくりだわ」
「連隊長代理って呼んでたが?」
「ああ、中隊長は第一外人連隊長代理なの。連隊って言っても実際は私たちの一個中隊しかいないのよ」
「それは中隊長も大変だな」
「それでも戦に勝てば立派な経歴になるわ。なにしろ紙の上では連隊長を務めたことになるのよ」
「それは勝てばの話だろ」
ウェルドは遣る瀬無く笑った。
「あ、お帰りなさい!」
声のするほうを向くと、壕の入口に四人の傭兵が立っていた。先頭の伍長を見てウェルドは目を見開いた。丈の余った軍衣に大きな兜を目深に被った少女だ。見た目はイーリより幼い。小さい丸盾を背負って腰に戦鉤を吊るしていた。後ろの長杖を持った三人はいずれも六尺近い長身で、兜から赤銅色の長い髪が流れている。見た目も仕草も三つ子のようにそっくりだった。
「お客さん?」
少女がウェルドたちを見回しながら口を開いた。
「ええ、こちらからウェルドさん、マースさん、シャンテさんよ」
ロラが三人を紹介した。
「初めまして。私はアイカ。後ろの三人はグスタフ、ドーラ、カールです」
そう言って勢いよく頭を下げた。勢いで兜がずり落ちそうになって慌てて両手で押さえ、頭を上げて照れ臭そうに笑った。
その笑顔にイーリの面影が重なって思わず目頭が熱くなった。
「首尾はどうだった?」
ニドがロラの隣に座ったアイカに訊いた。
「うん、大丈夫、水門はいつでもいいよ」
「ご苦労さま」
優しく微笑んだロラが馬肉で満たした椀をアイカに差し出した。アイカは受け取った碗を後ろに座ったグスタフたちに次々手渡していく。
「傭兵隊はこんな幼子まで兵隊にするのか?」
マースが訝しげに尋ねた。
「あら、女は見た目じゃないわ」
ニドが椀を啜りながら答えた。そういう問題じゃない。
「しかし……」
今まで黙っていたシャンテが口を開いた。
「アイカちゃん、こんな鉄火場に君のような子供がいちゃいけない」
アイカが椀を掻き込む匙を止めてシャンテを見た。それから隣のロラを見上げた。ロラが優しく頷いた。
「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫です」
そう言ってにっと笑顔を作った。答えになってなかった。
「アイカちゃん……」
なおも言い募ろうとするシャンテの言葉を大声が遮った。
「ただいま!」
今度は入口に槍を持った泥人形が立っていた。頭から首筋までべったり泥を塗りたくってる。泥の中から血のように赤い瞳がぎらりと動いてシャンテが息を呑む音がした。
「ごはんっ、ご飯っ」
妙な節で唄いながら泥人形が槍を置いてニドとウェルドの間に胡坐をかいた。乾いた泥がぱらぱら落ちて、ウェルドは思わず尻をずらして距離を取った。
「スウ、せめて顔だけでも拭きなさい」
ロラが手桶から濡れた手拭を取って泥人形に渡した。
「乾けば落ちるのに」
「駄目です」
ロラがぴしゃりと言い放った。
「うん」
急に素直になった泥人形が手拭を受け取った。顔をごしごし拭い、髪を拭い、首筋を拭うと金髪に小麦色の肌の女の顔が現れた。吊り目がちの大きな二重の眼がウェルドたちに向かって微笑んだ。
「すげえ、俺たち間違って遊郭に来ちまったみたいだ」
マースが呆然と言った。
「どうだった?」
ニドが尋ねた。
「うん、ニド姉の読み通りだったよ。東の溜池の奥の地隙に身を潜めてる。きっと魔力の回復を待ってるんだと思う」
「場所がわかったのか?」
ウェルドが訊いた。
「うん、場所もばっちりだよ」
スウが椀を手に杓子に手を伸ばした。
「駄目。鍋に土が落ちちゃうじゃない」
ニドがスウから椀と杓子を取り上げるとロラに渡した。
「むー」
スウが頬を膨らませた。
「場所がわかったのなら今から攻めれば……」
そう言いかけたウェルドをニドが手で制した。
「駄目よ。あそこじゃ下手したら仕留め切れないわ。それに今戦闘を始めたら敵の全面攻撃を誘っちゃう。こっちはまだ準備が終わってないの」
「しかし……」
ニドが口角を上げて不敵な笑いを浮かべた。
「任せて、あいつがぺちゃんこになるところを桟敷席で見せてあげる」
皆が食事を終えて鍋と皿が片付くと、ニドがウェルドたちに声を掛けた。
「じゃあちょっと付き合って頂戴」
そう言ってすたすた交通壕に向かった。
「どこに行くんだ?」
ウェルドが歩きながらニドに尋ねた。
「うちの作戦室よ」
「俺たちは何をすればいいんだ?」
「そうね、専門家による技術的見地からの意見ってのをお願い」
「俺は戦のことは素人だぞ」
「大丈夫、戦ってのは常識の積み重ねなのよ。心配しないで」
通されたのは半地下式の大天幕だった。中は中央に砂盤が設えられている他は何もなかった。砂盤には関所の陣地を中心に周辺の地形が粘土で再現されていた。様々な色の細引と駒は塹壕や部隊を現しているのだろう。砂盤の隅に粘土で象られた教会を見つけてウェルドの心に細い針が刺さったような痛みが走った。
「アイカ、戦闘予行をするから皆を呼んできて頂戴、中隊長も忘れずにね。大至急よ」
「うん」
アイカとグスタフたちが天幕から出て行った。
「さて、動甲冑の詳しい場所はどこ?」
スウに錐刀を渡してニドが訊いた。
「ここだよ」
スウが立体模型の一角に錐刀を刺した。ニドとロラが身を乗り出して砂盤を覗き込み、三人で何事か囁き合った。三人とも早口でウェルドには何を話しているのか聞き取れなかった。
その頃になるとぞろぞろと傭兵たちが天幕に入ってきた。人間、ドワーフ、リザードマン、ゴブリン、中にはエルフもいた。きっと他の国から来たエルフだろう。皆、天幕に入るとウェルドたちに鋭い一瞥をくれたが、すぐ興味をなくして砂盤を見つめ、互いに低い声を交わし始めた。ウェルドたち三人は追いやられるように隅に立ち尽くした。
やがてアイカが床几を抱えて入ってきて砂盤の前に置いた。
「中隊長が入られます」
全員が黙って不動の姿勢を取ったので、ウェルドたちも慌てて背筋を伸ばした。
ほとんど間を置かず中隊長が入ってきた。全員の無愛想な視線の中、指揮棒を手に威厳を見せようとしていたが、借りてきた猫の態度は隠しようがなかった。中隊長が床几に尻を落としたのを見計らって禿頭の中尉が中隊長に報告した。
「全員集合しました。初めてよろしいでしょうか?」
中隊長が痙攣したように頷いた。返事しようとして失敗ったのだ。ウェルドは心の中でそっと中隊長に同情した。
中尉がニドに軽く顎をしゃくった。頷いたニドが口を開いた。
「それじゃ今夜の戦闘予行を始めるわよ」
紅い瞳が舌なめずりするように全員を見回した。
ナージの南五里ほどの小高い丘の上に、遊牧民族アルテラ族の伝統的な移動式住居である大きな円筒形天幕が建っていた。丘の周囲には数十の雑多な荷馬車が円陣を組んで繋がれ、更にその外周を大勢の兵士が立哨していた。一面の曇天のせいで法撃の音がやけに響いた。
やがて一輌の馬車が円陣に加わり、そこから人影が降り立つと小走りに丘を登って天幕の中に入った。
「ようこそ、ファルケン大尉」
天幕の主が客に声を掛けた。革命軍総司令官キリアス・アバイユ将軍だ。様々な刺繍が施された長衣にゆったりした下衣、足には古風な乗馬ブーツ。植民地時代以前の伝統的なアルテラ・エルフの民族衣装だ。将軍が自らを大昔のアルテラ遊牧戦士になぞらえているのは明らかだったが、天幕中央に帝国のさる有名な家具工房が作った豪華な高級寝台が置かれていることと、手に持ったワイングラスがその努力を徒労にしていた。
「ここが新しい住処ですか」
「我がアルテラ族伝統の住居だよ。仮の住処としては十分だろう。どうせ二、三日後はナージの聖堂だ」
将軍はナージの町に入城するために前線視察の名目でここまでやって来たのだ。
ファルケンは寝台を冷ややかに眺めた。彼はその寝台が帝国軍事顧問団長ネルダースが贈ったものであることを知っていた。こいつは今夜何人の女をこの寝台に連れ込むのだろう。
「一杯どうかね?」
「ありがとうございます。しかし、戦闘中ですので遠慮します」
将軍はワインを一息に飲み干すと、大きく息を吐いた。
「回廊部の戦いでの活躍は聞いている」
「恐縮です」
「ティグレ大尉は残念だった」
「戦に犠牲は付きものです」
何故か胸中に熾火のような怒りが沸いた。
「これからは私の側にいて欲しい。君の野戦指揮官としての知識と能力、卓越した戦闘技術、敵に恐怖心を与える浸透技能は、これからカルフィールを長く統治し、クル族の反抗心を奪うのに必要なものなのだ」
将軍が二杯目のワインをなみなみと注いだ。
「動甲冑は政治の道具ではありません」
「この地では完全に政治の象徴だよ」
「ここでの任務が終われば私は帝国に呼び戻されます」
「私を誰だと思っている!」
将軍は急に怒り出した。こういう沸点の低い手合いは珍しくない。少しでも機嫌を損なうと烈火の如く怒り狂うのだ。やはりこいつは狂人の類だ。ファルケンは無表情に将軍を見つめた。
「精霊の司祭にして神との交信者、エルフの王、キリアス・アバイユだぞ! 帝国?! 皇帝?! 私の精霊のほうが何倍も強力なのだぞ!」
「政治のことはわかりません。私は軍人ですので」
ファルケンはわざと平板な口調で答えた。
「ともかくこの件はネルダース団長とよく話し合ってみたいと思います」
将軍が顔を真っ赤にしてワインを呷った。
「失礼します」
ぞんざいに一礼すると、ファルケンは天幕の覆いを上げて外に出た。
残されたアバイユは寝台に仰向けに転がった。
「まあいい、動甲冑兵はもう一人若いのがいた。そいつを篭絡すればいい。ナージが落ち、エルメダスを吊るしたら奴はもう用済みだ。後はいつ消すかだけだ」
ひとりごちて唇を舐めた。
舐め終わる頃にはアバイユの頭の中は後宮の誰から天幕に呼ぶかの思案で一杯になっていた。
中隊の戦闘予行が終わると、ニドは中隊長に従って出て行ってしまった。ウェルドたち三人はロラに退避壕に案内されて、そのまま待つように言われて放って置かれた。マースは憤懣やるかたない様子だったが、慌ただしい一日だったせいもあって、三人は側壁に背を預けてすぐ寝入ってしまった。
ふと耳の後ろに違和感を感じてウェルドは目を覚ました。すぐ目の前に胸元まで墨を塗ったロラの顔があった。熟睡している人間を騒がずに起こすには耳の後ろの風池の経穴を中指で押すのが一番だと後でロラに教えられた。
「静かに」
ロラがそう言って、呆然とするウェルドを余所にマースとシャンテを次々に起こした。周囲はもうすっかり暗くなっていた。昼間より激しくなった法撃の光が彼の網膜を灼き、轟音が鼓膜を叩いた。
「これを」
ロラは三人に兜と胴鎧を押し付けた。着けろという意味なのは分かった。今まで胴鎧を着た経験がなかったので呆然としていると、ロラが手際よく着付けを手伝ってくれた。袖も草摺も無い簡素な鎧だったが、これでも死傷率は大幅に下がるのだそうだ。それからロラは雑嚢からポーションを一瓶ずつ三人に渡し、声を潜めて三人に囁いた。
「もうすぐ敵が寄せてきます。こちらへ」
三人はロラの後を身を屈めて交通壕を進んだ。敵のほうをに顔を向けると、赤く光る軌跡が幾つも夜空に伸び、小爆発を起こすたびに軌道を修正してこちらへ飛んでくるのが見えた。
陣地に目を落とすと、並んだ柵前の一帯の地面が星や法撃の光で煌めいていた。
「アイカたちが池の水を引き入れたんです」
目を奪われているウェルドたちに気づいたロラが小さく伝えた。
言われて初めてウェルドはあそこが浅く広い空堀だったことを思い出した。
案内されたのは関所の後方に向いた予備陣地の監視壕だった。彼我の法撃の応酬が激しさを増していたが、ウェルドたちがいる所は反斜面なのでほとんど被害はなかった。
「来たわね」
露天の監視壕でニドが三人を待っていた。辺りの陣地全体が静まり返っていた。しかしそこに三個小隊の人数が潜んでいることをウェルドたちは戦闘予行で知らされていた。
「あそこよ」
ニドが指差した方向に目をやったが暗くて何も見えない。
「今から始めるわよ。邪魔にならないように離れてて」
ニドが隣の念話兵に顔を寄せて小声で命じた。
「小隊長に伝えて。丁の一六七四に一個法撃中隊で三斉射よ」
遠くの戦闘騒音を聞きながら、革命軍独立動甲冑中隊所属の動甲冑兵ライノス少尉は上機嫌で口笛を吹いていた。こんな状況で兵が同じことをしていたら張り倒しているところだったが、吹いているのは彼自身だったし、外に音が漏れない面甲を降ろした兜の中だった。
彼は遠くの戦闘の推移を見守りながら、戦闘加入する最適の時機を窺っていた。魔力はもうほとんど回復していた。いずれアルテラ軍の正面突撃が始まる。それに呼応してクル軍の陣地を背後から襲撃するのだ。実質的な決戦であるこの戦闘で手柄を上げればファルケン大尉も何も言わないだろう。若い彼は大手柄を上げてナージの大通りを行進する自分を思い浮かべて思わずにやけた。まずは戦利品を一山貰おう。エルフの工芸品は高く売れる。それから女遊びだ。美形のエルフ女の捕虜の中から選び放題だ。
ライノスの楽しい妄想は突然の衝撃と轟音で断ち切られた。
気がつくと周囲に法撃が次々に着弾している。完全に隠蔽していたせいで油断していた。僅かな時間で彼は素早く状況を判断した。曲射法撃で着弾点はいずれも遠い。しかし着弾点は六つ。誤射ではない。完全な法撃中隊の統制法撃。捕捉されたのは明らかだった。
十分に訓練された動甲冑兵であるライノスは混乱しなかった。彼は冷静に自分の採るべき行動を分析した。後退するか? しかし捕捉されている以上、法撃は彼を追ってくる。しかもどこから捕捉されているのかわからないのだ。
なら前進だ。一気に敵に膚接してしまえば敵は法撃できない。そのまま背後から陣地を蹂躙して陣地正面の味方に合流するのだ。
ほんの一瞬の逡巡の後、ライノスは鋼馬を起ち上げ、そのまま一直線に敵陣を目指した。
「監的壕より報告、動き出しました」
念話兵が声を上げた。ニドが後ろに控えたゴブリンに声をかけた。
「投石器中隊に報告、予定通りの座標に五斉射」
「五斉射、了解」
ゴブリンが復唱して交通壕を駆けて行った。
「さあ、聖騎士様を地獄にご招待よ」
ニドがゆっくりと上唇を舐めた。
駆けながらライノスは地面の異変に気付いた。昼間に確認したときは浅い空堀が今はなみなみと水を湛えている。ライノスは一瞬躊躇したが迷ったのは一瞬だけだ。水深は浅くない。疲れを知らぬ鋼馬なら勢いで渡り切れる。しかし、アイアンゴーレムの鋼馬は十歩も行かないうちに泥に捕まり、そこから五歩で完全に沈み込んだ。ライノスは何とか鋼馬を操って這い上がろうとしたが、踠けば踠くほど液状化した地面は鋼馬を呑み込んでいく。
その時、間の抜けた飛翔音がして、真っ赤な球体が前方に次々に落下した。
「何だ?」
法撃ではない。ひどく弾速が遅い。石弾だ。真っ赤に焼けた石弾が闇夜にひどく目立った。地面にめり込んだ石弾はもうもうと煙を噴き上げ始めた。
「煙幕か、無駄なことを」
彼と柵の間に煙の壁が立ちはだかった。まあいい。柵まで三町足らず。あの煙の壁を抜ければ後ろの連中を皆殺しだ。ライノスは兜の中で殺戮への期待に凄惨に笑った。
鋼馬を鎮めて慎重に脚を運ばせようとしたその時、煙の壁を抜けて幾つもの光弾が動甲冑兵を直撃した。
「何だ!」
魔導兵の直接法撃なのはわかった。しかし、視界を阻む煙幕の向こうからどうやって正確に狙えるのか。
「畜生」
騎槍を構え、敵方に向けて横薙ぎに光箭を掃射した。しかしその間も法撃が次々に動甲冑を包む。穂先がずれて光箭が空しく水面を叩き水柱が上がった。衝撃で一瞬気が遠くなった。
「駄目だ。防壁魔法を……」
ライノスが譫言のように呻いた。
「その煙弾は特別製よ。水に浸かったくらいじゃ消えないわ」
煙の壁を眺めながらニドがにたりと笑った。
「監的壕から報告、敵目標に直三、至近四、目標が魔法防壁を展開しました。まだ足を止めたままです」
念話兵が報告した。
「いいわ、続けて六九二二の一八八六に法撃を継続」
もう一人の念話兵が声を上げた。
「敵目標が法撃。損害無し」
「了解よ」
振り返って伝令のエルフに声を飛ばした。
「念を入れて投石器中隊にもう五斉射分お願いって伝えて」
「五斉射伝えます」
エルフが帰ってきたゴブリンと入れ替わるように交通壕に消えた。
振り返ったニドがウェルドの視線に気づいて艶に微笑んだ。
「まさかあんな手が上手く行くなんて」
マースが呻いた。戦闘予行に臨んだウェルドも机上の空論だと思っていた。
外柵の前に隠蔽した監的壕を水面ぎりぎりに構築して観測手と念話兵を配置する。
掩体を煙幕で被覆し、観測手が読み上げる座標を念話兵を通じて魔導兵の掩体に伝え、魔導兵は地図を睨みながら標的を目視することなくその座標に向けて機械的に法撃する。
煙幕超過観測法撃よ、とニドが笑って言ったが、こんなことが実地で出来る訳がないと思った。標的を曲射法撃の弾幕で包む公算射撃とは違う。直接照準しない水平法撃で初手から直撃を狙ったのだ。
もっと念話兵がいれば同時弾着も狙えたのにとニドは残念そうに愚痴を言った。戦は常識の積み重ねとニドは笑った。とんでもない。あの女は魔女か。
防壁を削られながらも守りを固めたことでようやくライノスは冷静さを取り戻していた。削られた防壁は張りなおせばいいが、このままだと魔力が尽きる。その時こそ袋叩きだ。鋼馬はもう駄目だ。なら鋼馬を捨てるしかない。
何が何でも前進することだ。このまま踏み止まることも後退も論外だった。ライノスは迷わず鋼馬から飛び降りた。腰まで泥に埋まった。邪魔な盾を捨て、左腕で泥を掻いた。やっと泥から体を引き上げ、這って進み始めた。僅か三町の距離が遠く感じられた。
「監的壕から報告。目標が下馬、匍匐前進を開始しました。防壁は展開中」
念話兵の報告にニドが微かに眉を寄せた。
「監的壕へ連絡。座標を修正して法撃を続けて。奴が煙幕を抜けたら予備掩体へ移動よ」
後ろを振り返った。
「ロラ、突撃兵に準備させて」
静かに頷いたロラが退避壕の奥に向かった。
「意外と早く思い切ったわね。でも手遅れよ」
ニドが口角を上げて唇を歪ませた。
動甲冑が地を這うとは。ライノスは屈辱に歯を食い縛った。しかし法撃の直撃は明らかに減った。いけるぞ、大丈夫だ。あの煙幕を抜けさえすれば連中を皆殺しだ。夢中に手足を動かし続け、やっと手が固い地盤を掴んだ。思い切り身体を起こして槍を構えなおした。魔力を随分消耗したが一戦するには十分だ。泥の束縛から解放された彼の動甲冑は唸りを上げて跳躍した。
「目標が煙幕を突破しました!」
念話兵がニドに向かって悲鳴のような声を上げた。
「落ち着いて、計画通りよ。付いてきて」
馬手に差した短杖の杖頭を握ると、ニドは念話兵と伝令たちを連れて大股で歩き出した。杖に幾つも仕込んだ魔法輪が煌めいた。
ふいに忘れ物を思い出したようにニドが足を止め、ウェルドたちに顔を向けた。
「ここで見てて。約束通り今からあいつをぺちゃんこにしてくるわ」
急にウェルドたち三人は監視壕に取り残された。
「おい、大丈夫なんだろうな? あいつらが失敗ったらどうなるんだ?」
マースが独り言のように訊いた。
「わかりません」
シャンテが不安そうに答えた。
それまで黙っていたウェルドが思い立ったようにニドの消えた交通壕に向かった。
「先生!」
小さく叫んでシャンテが後を追う。
「おい、ここにいろって言われただろ」
そう言いながらマースも駆け出した。
煙幕の壁を抜けると急に視界が開けた。目の前に柵が並んでいる。ライノスは速度を落として油断なく周囲の敵を探す。見つからない。もう法撃も止んでいた。逃げ出したか。まあいい。中に入ってしまえばこちらの番だ。あっさりと柵を押し倒すと、防壁を張り直してゆっくりと動甲冑の鉄靴を踏み出した。
次の瞬間、薄い板が裂ける音がして動甲冑の足が地面に吸い込まれた。一瞬ライノスは自分が地獄に呑まれたと錯覚した。目の前に土の壁。見上げると一面の雲が陣地正面の法撃の光を反射して煌めいていた。ライノスは自分が落とし穴に落ちたかと思った。
「姑息な」
ライノスが呻いた。何よりこんな子供騙しに引っ掛かった自分に腹を立てた。腕を伸ばして這い上がろうとしたが、穴が狭くて身動きができない。自分が罠に嵌まったことを悟った。落ち着け。少しずつ土を掻いて穴を拡げれば抜け出せる。敵前で何という様だ。焦燥が身を焦がした。
その時、頭上から何かがばさりと落ちて装甲に当たって滑り落ちた。泥の塊だった。泥塊と土嚢が次々に投げ込まれている。連中、俺を生き埋めにしようとしている。恐怖に駆られて絶叫して光箭を乱射した。低くけたたましい轟音とともに光の箭が雲に吸い込まれる。畜生、クルの野蛮人どもめ。
動甲冑兵が槍を発法したことで、土嚢や円匙を手にした突撃兵たちの作業が止まった。
「落ち着いて。いずれ魔力が切れます。それまで待機して」
ロラが指示を飛ばしている。そこにニドが姿を見せた。
「調子はどう?」
ニドが歩きながら尋ねた。
「姉さん、見ての通りです」
轟音の中、空に向かって撃ち出される光の束から目を離さずにロラが答えた。
「んもう、時間がないのに頑張るわね」
そのまますたすたと穴に近寄ろうとするニドの行く手をドワーフの傭兵が遮った。
「姐さん、駄目だ、まだ危ない」
「ありがとう、ベルゲス。任せて」
ニドがベルゲスを押しのけて杖を水平に振った。
唐突に撃ち出した光箭が頭上で弾け、ライノスは頭上に魔法の防壁が展開されたことを知った。
「何だ?」
状況が理解できない。槍の掃射を止めると防壁を透かした先に女の顔が見えた。顔を塗ったエルフの女。いや違う。こいつはダークエルフだ。ダークエルフの小娘の紅い瞳がライノスを艶然と見下ろしている。ダークエルフが手にした杖の頭から火炎が迸った。
驚いたのは一瞬だけだった。火炎は見た目は派手だが火魔法の中でも最も低位の魔法だ。これなら防壁を張るまでもない。動甲冑の装甲で十分防げる。ライノスはせせら笑った。今のうちに穴を崩して抜け出さなければ。
そうは問屋が卸さなかった。火炎の量が尋常ではなかった。太く長い炎の舌が穴の中の動甲冑の全身をねぶるように嘗め回す。たかが火炎の魔法だ。どうということはない。もうすぐ穴から這い出してお前たちを皆殺しにしてやる。ところでなんだこの臭いは? どこかで何かが焦げる臭いがした。すぐライノスは自分の体が燃える臭いだと気づいてしまった。身動きできないままライノスは長い絶叫を上げた。
「ニド曹長!」
穴を覗き込んでいたニドが振り返って駆けてくるウェルドたちを認めた。
「んもう、動かないでって言ったのに。それに曹長は止めてって言ったわよね」
そう言ってゆっくりウェルドたちに歩み寄った。
「予定を変更して焼肉にしたわ。でも構わないわね?」
艶めかしい歓喜の名残に上気したような顔でニドが言った。
「あ、ああ」
舌が縺れてうまく言葉が出ない。
「仇は取ったわ。あなたが掘ってくれた穴のお陰よ」
それだけ言って通り過ぎた。三人はそのまま穴の縁から黒焦げた動甲冑を見下ろした。着用者は綺麗に燃え尽きたのだろう。恐れていた焼肉臭はしなかったが、三人はあまりの凄惨さに声も出なかった。
「ニド姉」
闇の中から現れたスウが歩きながら声を掛けた。アイカとグスタフたちも一緒だ。皆、首から下が泥沼に浸かったように汚れている。彼女たちは日が落ちる前からずっと水際の監的壕で動甲冑を待ち構えていたのだ。
「ご苦労さま。異状ない?」
「うん、大丈夫」
「よく頑張ったわね」
ロラがアイカの頭を撫でた。
「これからが本番よ。主陣地に戻るわよ」
ニドが全員に声を掛けてからウェルドたちに近づいた。
「これであなたたちの気も済んだでしょ?」
そう言って東を指差した。
「この方向に行けば農道に出て、そこから半里ちょっと歩けば農家を接収した監視哨があるわ。馬車を繋いであるからそれで町に帰って。監視兵には私の名前を出せば大丈夫」
「ニドはどうするんだ?」
「まだ戦いは始まったばかりだもの」
「そうか。気をつけてな」
ニドが眼を細めて微笑んだ。
「ありがとう、次に逢った時は口説かれてあげるわ」
ニドの細い指がウェルドの唇に優しく触れた。
「それは前にも言われた」
「大事なことだからもう一度言ったの。素敵な口説き文句を考えておいてね」
ニドの指が名残惜し気に離れた。
「あなたたちに運命の女神の御加護がありますように」
そう言い残すとニドは踵を返して一度も振り返らずに闇に消えた。
三人は見捨てられた犬のように闇の中に立ち尽くした。遠くで戦闘の騒音が聞こえた。時折低く不気味な唄声が響いたが、三人ともそれが何を意味するのか知らなかった。
ウェルドは法撃に叩かれ炎に照り返された丘をぼんやり眺めていた。戦はもう彼から離れて遠くへ行ってしまった。
「おい、帰るぞ」
マースが声を掛けた。
「いや、まだだ」
ウェルドが丘から目を離さずに答えた。
「お前は何を言っているんだ。教会の仇は討っただろ」
「軍事顧問団の動甲冑兵はまだ一騎残ってる。復讐はまだ終わってない」
「おい、やめろ。そういうのは連中に任せておけ」
ふいにウェルドが踵を返し、焼け焦げの動甲冑兵の墓穴に近寄って再び中を見下ろした。
「先生」
シャンテがウェルドに声を掛けた。
「どうした、何かあるのか?」
マースがウェルドの横に並んで穴を覗き込んだ。穴の底から動甲冑の眼窩に見られているようでマースは身震いした。
「あれ、使えないか?」
ウェルドが穴を指差して言った。
「槍か?」
「ああ」
「どうだろうな。随分焼け焦げているが」
「シャンテ」
ウェルドが助手に声を掛けた。
「ニドが言っていた監視哨まで行って馬車を取りに行ってくれ」
「おい、何を考えてる」
マースの言葉を無視してウェルドは続けた。
「ここら一帯は同じような陥穽が並んでいる。あそこの切株で馬車を停めてくれ。それから筵を数枚貰えるなら貰ってきてくれ」
「わかりました」
シャンテが去るのを見送ると、ウェルドは穴の縁にしゃがみこんだ。
「槍を引っ張り上げるから手伝ってくれ」
「おい、本気か?」
槍は七貫近くあった。二人は何とか槍を地面に置くと、肩で息をしながら側に屈みこんだ。握りの前に魔法輪が三つ並んでいた。どうやって使うのかウェルドには見当がつかなかった。
「ここの握りから魔力を込めるのさ」
マースが差し渡し二寸はありそうな握りに手を置いた。
低音とともに魔法輪が高速で回り出し、穂先が仄かに光った。
「わっ」
マースが小さく叫んで手を離した。光が消え魔法輪がゆっくりと止まった。
「使えるぞ」
マースがウェルドに顔を向けて言った。
「そうか。何発くらい撃てるだろう?」
「こいつは動甲冑用の武装だ。動甲冑兵ってのは常人離れしたべらぼうな魔力がないと選ばれない。ハイエルフでもまともに動かせる者はほんの一握りだ。俺たち三人が総掛かりで魔力を込めても精々二発か三発くらいだろうな」
「それでも、油断に付け込めば動甲冑兵を仕留められる」
「おい、あのダークエルフから悪い影響を受けてるぞ」
「嫌ならここで別れてもいい。俺一人でも奴を追う」
ウェルドがマースを睨みつけた。
「落ち着けよ。反対だとは言ってないぞ」
こいつは何を苛ついているんだ。マースはウェルドの背を眺めながら思った。戦争のせいでどいつもこいつも狂っちまってやがる。
一刻半ほどしてシャンテが無蓋の荷馬車に乗って戻ってきた。三人は苦労して槍を荷台に載せると、厳重に筵で包んだ。
「これからどうします?」
シャンテが訊いた。
「取り敢えず池の北側の森に隠れて機会を待とう」
ウェルドが北西を指差した。
まだ関所では戦闘が続いていた。その光と音を背に馬車が動き出した。
タムタムの関所に構築された防御陣地は、内戦始まって以来の最大級の法撃火力による攻撃を受けていた。第一波の突撃を撃退されたアルテラ軍は、攻撃方法を強襲から改めて徹底した遠距離法撃戦を挑んだ。後半夜から明け方にかけて法撃や石弾が次々に着弾し、壕を崩し、守備隊がかき集めてきた物資を吹き飛ばした。守備隊の指揮壕に、次々に法撃掩体や投石機、弩砲の沈黙が伝えられた。兵たちは番所跡付近の地下壕に逃げ込んで最後の一戦をしようとしていた。
輜重兵、関所の役人、陣夫、職人、築城作業に使役されていたククル族の捕虜たちに槍や剣が、足りない者には円匙や有り合せの棍棒が渡された。
「友軍はまだか?」
誰もがナージの町からの救援を待ち望んだが、返ってきたのは激励の念話だけだった。
救援要請への最初の返事は「国王命令により最後の一兵まで戦え」だった。次に「関所及び周辺一帯を死守せよ」「万難を排して現状を維持せよ」と繰り返された。口だけなら何とでも言えた。
この素人兵集団の中で、唯一組織的な反撃を行ったのが第一外人連隊の外国人傭兵だった。彼らは単独で敵陣後方に潜入し、関所の西側に布陣していた法撃陣地を急襲して法撃兵たちを殺傷し、投石機三門を破壊した。
傭兵たちも必死だった。ここで政府が崩壊すれば、彼らにはナージの住民より過酷な運命が待っている。帝国辺境の戦闘地域で名を売ってきた彼らが捕虜になれば嬲り殺しの道しか残されていないのだ。
だが、彼らの攻勢も後続のクル族部隊が動かないため先細りになり、傭兵たちは仲間の死骸を敵陣に放置して再び関所の地下壕に撤退した。
荒々しい足取りで壕内の作戦室にニドがスウと頭に包帯を巻いた小隊長と共に入ってきた。
「ここにしがみついていても何も解決しませんよ」
空気の淀んだ作戦室で机に広げた地図を睨んでいた守備隊指揮官の中佐が顔を上げた。中は守備隊の主だった者たちが詰めていたが、皆蒼ざめ石のように口をつぐんで下士官の非礼を咎めようともしない。
「日が昇れば法撃の精度も増します。このままじゃ撃たれっ放しで陣地ごと押し潰されますよ。撤収するしかありません」
「町へ?」
中佐が目を丸くしてダークエルフの曹長を見た。
「ニド」
内戦前は大学で数学を教えていた中佐がダークエルフの傭兵を階級ではなく名前で呼んだ。
「ここが陥落すれば町は完全に包囲される。少なくとも我々がここで頑張っていれば、敵軍は町に流れ込まず、ここで釘付けだ」
「エレク」
ニドが中佐を名前で呼んだ。
「守備隊の戦力が低下すれば、敵は部隊を割いて主力を町に向けるわよ」
「アバイユはそれほど賢くない」
中佐がずり下がった丸眼鏡を指でくいと上げた。
「アバイユが馬鹿でも側近には帝国の士官学校出の参謀もいるし、帝国の軍事顧問団もいるわ」
鈍い音とともに天井から土砂が流れ落ち、壕の中に詰め込まれた兵士たちが悲鳴を上げた。
「念話を。総司令部に許可を得なければ」
「何て言う積り?」
「撤退許可を」
「いい? ナージの町のクル族も大事だけどここで戦ってる千百人も同じクル族だって言うのよ。ここで死なせるより町の防衛戦に投入したほうがずっとましだって。今は町も矢の一本だって必要なはずだわ」
ニドの言葉に中佐は力なく笑顔を作ると、よろよろと念話兵の詰所に入って行った。
しばらくして出てきた中佐が椅子代わりの木箱に腰を落とした。
「総司令部は承認したよ」
力なく目の前のニドを見上げた。
「『敵の進出を阻止しつつ可能な限りの物資を持って市街地方向への撤収を認める』だそうだ。これでいいかね?」
「結構よ」
ニドが微かに微笑んだ。
「それじゃ東側の部隊から少しずつ順番に出して。包囲網はあそこが一番薄いから」
「君たちが最初じゃないのか?」
「私たち以外に殿をやれる部隊があるなら教えて欲しいくらいだわ。任せて。みんなが出るまではちゃんと踏み止まるから」
中佐が立ち上がってニドの手を取った。
「感謝する。国王陛下に代わって礼を言おう。そして君たちに運命の女神の加護があらんことを」
「よして、あなたのためよ」
「そういう誤解を招く発言は避けて欲しいと何度も」
「うふ」
生きる可能性が見えてきたことで作戦室は急に慌ただしくなった。伝令が走り、参謀が書類を焼くために大急ぎで隣の壕に駆け出した。
ニドが小隊長を見上げた。
「小隊長ともここでお別れです」
「俺は君たちの指揮官だ」
「駄目よ。あなたはクル・エルフよ。私たち外国人と一緒だと巻き添えで酷い目に遭うわ」
「しかし」
「泣かれる前に言っておくけど、玉砕する気なんてないわよ。一戦して時間を稼いだら離脱して森に抜けるから」
「そんなこと出来る訳がない。死ぬ気なのか」
ニドが手を伸ばして小隊長の頭の包帯に優しく触れた。
「あなたは十分お国に尽くしたわ。戦争が終わったら会計士に戻るのよ。軍人稼業なんてさっさと足を洗って」
「ニド」
小隊長が泣きそうな顔になった。
「君に命を助けられたことは忘れない」
「いいのよ。それに」
作戦室の隅で半分死人のような顔で座り込んでいる金髪の青年を指さした。中隊長はアルテラ軍の攻撃が本格化した昨夕以来、一番安全なこの場所に逃げ込んでいた。
「中隊長をお願い。ちゃんと町まで連れて行ってあげて。今にも気絶しそうな勢いよ」
「わかった。任せてくれ。君に運命の女神の御加護があらんことを」
「ええ、ありがとう」
作戦室から出たニドとスウは空気の悪い交通壕を更に奥へと入っていった。
「ニド姉、小隊長たち大丈夫かな?」
スウが前を進むニドの背中に口を開いた。
「さあ、でもここに残るよりずっとましよ。中隊長もちゃんと親許に戻れたらいいわね」
「あたし、中隊長に口説かれたよ。愛人にならないかって」
「え? いつの間に?」
「確か首都が落ちてすぐの頃」
「聞いてないわよ」
「ロラ姉も口説かれたって。アイカも。グスタフたちは三人揃って口説かれたって」
ニドが足を止めて振り向いた。
「私は口説かれてないわよ」
「怖かったんじゃない? ほら、ニド姉って時々凄味のある笑い方するから」
「あの野郎、いっそ殺しておけば良かったわ」
守備隊がナージへと後退を始めたことでタムタムの関所を巡る攻防戦は大きく動いた。後退に気づいたアルテラ軍の一部が慌てて陣地に押し寄せ、残った少数の後衛部隊の激しい抵抗に遭って大損害を出した。しかし、その抵抗もアルテラ軍の法撃に散々に叩かれた末にアルテラ兵の波に呑み込まれて半刻後には沈黙し、タムタムの防御陣地は呆気なく陥落した。
その様をウェルドとシャンテは密林の窪地に身を潜めて灌木越しに呆然と見ていた。
「ニド……」
ダークエルフの女傭兵の面影が脳裏をよぎった。
「先生、どうします? ここにも敵が来ますよ」
落ち着きをなくしたシャンテがウェルドに尋ねた。
「慌てるな、ここは幹線道路から離れている。そう簡単には見つからない」
自分で言っていながら自信がなかった。
森番が使う小径をとぼとぼ辿って森の奥に繋いだ荷馬車まで戻った。ウェルドは関所の戦闘に敵の動甲冑が姿を現すと思ってその出現を待ち構えていた。しかし、予想より早く関所は彼の目の前で落ちてしまった。戦意は衰えていなかったが、何をすればいいのかわからない。シャンテには悟られまいとしていたが、内心ウェルドは途方に暮れた。
馬車に戻るとマースの姿が消えていた。大声で探すわけにもいかない。シャンテは狼狽していたが、ウェルドは冷静だった。
「仕方ない。俺たちに付き合う義理なんてあいつにはないんだ」
そう言って荷台に寝転がった。木々の間から陽光が降り注ぎ、ウェルドは思わず目を閉じた。何か知恵が出るかと思ったが何も思いつかなかった。
どれくらいそのままでいただろうか、遠くから枝を折る足音が聞こえてウェルドは上体を起こした。足音の方向に顔を向けると、マースが両手に何かを抱えて近づいてくるのが見えた。何故か目頭が熱くなった。
「栄養の補給だ」
マースが青みがかったバナナの房を三つ荷台に転がした。その横に淡緑色の上衣の束を放り投げた。
「これはどうしたんだ?」
思わずウェルドとシャンテがバナナを手に取った。
「昔、関所を作る人夫たちに食糧を供給するために開いたバナナ畑を思い出したんだ。ほとんど野生化していたが、食えそうなのを適当に見繕ってきた」
「それでこれは?」
淡緑色の上衣を指でつまんで持ち上げた。帝国がアルテラ軍に提供している熱帯用軍衣だ。長く洗ってないのだろう。微かに漂うアンモニア臭が鼻の奥に突き刺さった。
「途中の小径に落ちていたから拾ってきた」
上衣の山から一枚取り上げて二人に突き出した。
「見てくれ、ククル族の肩章だ。集団脱走した兵が脱ぎ捨てたんだろう。さっさと着替えろ。ここはもう敵地だぞ」
ざっと見て十着以上はあった。
「こんなにいらないのに」
シャンテが着替えながらこぼした。
「余った服は土を入れて土嚢代わりにするんだ」
バナナを頬張りながらマースが答えた。
「どういうことだ?」
ウェルドが怪訝な顔で尋ねた。
マースが筵を巻いた槍に顎をしゃくった。
「こいつの俯仰を整えるのに使うのさ。まさかこんな重い物を手で持って狙いをつける積りだったのか?」
「わかった。土を詰めたら様子を見て出発しよう」
ウェルドが二本目のバナナに手を伸ばした。
関所を完全に制圧したアルテラ軍は兵の半分と捕虜全てを投入し、ただちに戦場の清掃に取り掛かっていた。焼け焦げた死体は敵味方の区別なく泥濘地に掘られた穴に投げ棄てられ、将軍の親衛隊も自軍の法撃で穴だらけにした地面を平らに均すために奔走した。この丘は明日からのナージ攻めの本陣になるのだ。全ては日没までに終わらさなければならなかった。
この突貫工事が行われている最中、幹線道路を通って数十台の荷馬車隊が新たに到着した。様々な種類の荷馬車で構成された集団は丘の上に散開し、大量の兵員と豪華な家具を荷台から吐き出した。
彼らが巨大な円形天幕を建て終わったころを見計らって、鋼馬に跨った動甲冑兵に先導されて四頭立の高級馬車が現れた。馬車の扉が開き、キリアス・アバイユ将軍が姿を見せた。手を上げて兵たちの歓声に答えながら、将軍は天幕の中へ消えた。
動甲冑兵が面甲を上げて周囲を見回すと大きく息を吸った。焼けた死体の独特の臭いが鼻に突いたがファルケン大尉は気にしなかった。散々戦場で嗅いできたお馴染みの臭いだ。
「大尉」
クーン軍曹を先頭に数名の兵士たちが駆け寄ってきた。
「お疲れ様でした」
「ああ、そちらは異状なかったか?」
今朝早くから動甲冑を着用してアバイユの護衛に就いていたせいで、ファルケンは自分の中隊を留守にしていた。
「異状ありません。整備天幕に案内します。こちらへ」
「ライノス少尉の動甲冑が見つかったと聞いたが?」
鋼馬を進ませながら、ファルケンは先を行くクーンに尋ねた。
「はい。北側の落とし穴の中です。ライノス少尉の遺体もそこに。地盤が脆弱で回収は明日の予定です」
「単騎で突出するからだ」
動甲冑兵は決して無敵ではない。他の兵科と連携しなければ簡単に撃破されてしまうのだ。ティグレ大尉の時ほどの感慨は湧かなかった。将軍のお守りと長時間に渡る動甲冑の着用で神経が磨り減ってしまっていた。今は一刻も早く動甲冑を除装したかった。
「どんな状況だった?」
「焼死です」
「装備はどうだ?」
「擱座した鋼馬は確認しましたが、槍と盾は見当たりませんでした。恐らく水堀に沈んでいるものと思われます。そちらも明日明るくなってから捜索する予定です」
「わかった」
「大尉は今夜も将軍の護衛に?」
「いや、今夜は天幕に近づくなと言われている。護衛兵もだ」
「何かあったんですか?」
「昨夜、エルメダス王の娘が投降してきた」
驚いた顔でクーンがファルケンを見上げた。クーンはクル族と遠縁のククル族出身だ。かつて忠誠を誓った王族への敬慕の念はまだ完全に消え去っていないのだろう。それをわかっていながらファルケンは捨て鉢に言葉を続けた。
「それで今夜、将軍直々に捕虜になった『国民の敵』を個人的に尋問するそうだ」
吐き捨てるように言った。クーンが悲し気に目を伏せた。
つくづくこの仕事が嫌になった。自分で言っておきながら、ファルケンは反吐を吐いた気分になった。
ウェルドたちは池を大きく西に迂回して密林の中を移動していた。馬車の荷台にはウェルドが顔が見えないように筵を被って転がっていた。シャンテの包帯で顔を巻いて耳を隠せばというウェルドの提案はすぐさま二人に却下された。お前の顔はどうやってもエルフには見えない。マースが笑って言った。お前は負傷兵の振りをしていろと言われて余った筵を渡されたのだ。
これは楽でいいと冗談を言えたのは最初だけだった。車輪が拾う地面の凹凸の衝撃が底板を伝ってウェルドの後頭部を連打した。何度か身体を捻じって寝返りを打とうとしたが、そんな元気な病人がいるかと窘められた。
途中、二度ほど敵兵の集団に遭ったが、全てククル族の二線級の兵士だった。服装はだらしなく、武器を持たない者も少なくなかった。
「前線から戻る補充兵だろう。さもなくば集団脱走の兵だ」
マースは念の為に手綱を操ってわざと険しい小径を選び、遠回りして彼らをやり過ごした。関所の南西の森の端に辿り着いた頃にはもう夕暮れだった。
やっと怪我人の振りをしなくて済んだウェルドは大木の根本で大きく放尿した。それから灌木の若木を刻んで三人交代で口をつけて渇きを癒した。雨のおかげであちこちに水溜まりができていたが、三人は絶対にその水を飲まなかった。
灌木の陰でバナナを齧りながら三人は丘を見つめた。丘の上とそこに至る街道に煌々と篝火が焚かれている。
「敵の主力があの辺りに広がっています」
シャンテが指さした。シャンテの眼には丘の周りで動く人影が見えるらしい。
「今からあそこに乗り込むのか」
マースがバナナを咀嚼しながら言った。
「大丈夫だ。奴らは明日にもナージに入城できると思って油断している。戦利品で頭が一杯なのさ」
「動甲冑兵はいますかね?」
シャンテが不安そうに訊いた。
「それをこれから確かめに行くのさ」
「見つけたらどうする?」
マースが横目でウェルドに訊いた。
「何箇所かで火事を起こす。野営地だから燃えるものには不自由しない筈だ。火事に注意を向けている隙に槍の光箭を奴にぶち込む」
「その後は?」
「奴が死んだのを見届けた後は脇目も振らずに逃げる」
「大した作戦だな」
マースが苦笑した。
「代案があるなら聞こう」
「いや、それで行こう。それではウェルド・サキ技術指南役殿」
マースが悪戯っぽく笑った。
「もう一度傷痍兵になっていただきましょう」
「おい、ここを通るのか?」
マースが低く呻いた。元は関所だった丘に至る道路は荷馬車とアルテラ兵の列で一杯だった。
「おどおどするな。規律の弛んだククル族の顔をしろ」
荷台からウェルドが声を掛けた。
「負傷兵が喋るな」
「もうすぐ関所の門を過ぎます」
シャンテが囁いた。門といってもクル軍が築城資材を得るために解体したために折れて焼け焦げた本柱しか残っていない。歩哨が槍を立てて仁王立ちしていた。マースは素早く歩哨を値踏みした。装備が良く背筋が伸びた姿勢は高い規律を窺わせた。
「歩哨が二人いる。喋るなよ。気を失った振りをしてろ」
マースが小声で警告した。
歩哨が停まるよう手を上げた。
「どこに行く?」
歩哨が手綱を握るマースに声を掛けた。
「救護所はどこです? 重傷なんだ」
思い詰めた顔でマースがまくし立てた。
歩哨が荷台を覗き込んだ。筵を頭から被ったウェルドが仰向けに横たわっている。
「こいつか?」
「クルの山賊どもにやられちまった。顔が焼けちまってる」
「待て」
歩哨が身を乗り出して筵を捲った。血膿と油と泥で汚れた包帯でぐるぐる巻きにされたウェルドの顔が現れた。歩哨の顔が悲しそうに歪んだ。
「右奥の灰色の天幕だ。早く軍医に診せてやれ。ポーションを貰える」
「かっちけねえ」
「いいから早く連れて行ってやれ」
歩哨がもういいというふうに手を振った。
マースとシャンテは頭を下げると馬車を進ませた。
歩哨の同情の眼差しを背にシャンテが肩を震わせ、必死で笑いを堪えた。
「笑うなよ」
マースが肩でシャンテを小突いた。
「でも……」
上半身が細かく痙攣している。緊張で神経が極度に昂ると些細なことで笑いの発作が起きることがある。シャンテはまさにそういう状況だった。
「もういい、頭を下げてろ」
シャンテが頭を両手で抱えて両膝の間に押し込むように身を屈めた。
「いいぞ、収まるまでそのままでいろ」
「おい、まだか? 臭くてたまらない。頭が痛くなってきた」
荷台のウェルドが能天気に声を上げた。
こんな奴らと組んで敵中ど真ん中までのこのこ入り込むとは。俺も人付き合いがいい奴だ、マースは自分に呆れ返った。
丘の上は随所に篝火が立ち、まるで昼のようだった。中央に古風な円筒形の巨大な天幕が立っていた。白っぽい幕の色のせいでひどく目立った。その白い円筒天幕を中心に数十歩ほど距離を開けて大小さまざまな軍用天幕が取り巻くように並び、天幕の間を兵士たちが往来している。馬車馬の嘶きが夜空に響いた。
だが誰一人として円筒天幕の周囲には近寄らない。その空間だけが周囲の喧騒を拒むように浮き上がっていた。
「あれは何だ?」
マースもシャンテもその大天幕の主がアバイユ将軍だとは知らない。
マースは荷馬車の溜まりの隅に馬車を乗り入れ、そこで馬を停めた。ウェルドが周囲をはばかるようにそっと身を起こした。用心のために包帯は取らなかった。指で包帯をずらし、その隙間から目だけ動かして周囲を見回した。
「本当に動甲冑兵はいるのか?」
マースが不安そうに声を上げた。
「向こうを見てみろ」
ウェルドが歩いている兵士を小さく指さした。
「あの兵隊はエルフじゃない。きっと軍事顧問団の傭兵だ」
「では動甲冑はここにいるんだな」
マースの言葉を聞いてシャンテの喉からごくりと唾を飲む音がした。
三人は馬車の荷台で顔を突き合わせた。
「俺とシャンテで野営地を見回って探してくる。恐らく奴は軍事顧問団の宿営地にいるはずだ。お前はここにいてくれ」
マースが声を潜めて囁いた。
「わかった」
ウェイドが答えた。
「俺はここで付け火する手立てを見繕っておく。詳しい段取りは奴の居場所を突き止めてからだ。頼むぞ」
マースとシャンテが同時に頷いた。
「よし、行こう」
そう言ってマースが腰を浮かしかけたとき、誰かの大声が聞こえた。
「火事だ!」
その声に思わず三人は立ち上がった。
天幕の列の向こうに炎が見えた。
「事故か?」
じっと遠くの炎を見つめていたマースが口を開いた。
「違う、見ろ」
ウェイドが答えた。火の手があちこちから上がっている。風に煽られて無数の火の粉が夜空に飛んだ。
「先生、これは放火です。しかもやり方が手慣れている」
シャンテの言う通りだった。火勢が目に見えて増しているのが放火は素人のウェルドにもわかった。
「どういうことだ?」
マースが譫言のようにかすれた声で呟いた。
「簡単なことだ」
ウェルドが悔しそうに呻いた。
「誰かが俺たちの段取りを無視しておっ始めやがったんだ」
ウェルドたちの段取りをぶち壊したのは、守備隊の後退を掩護するために残った外国人傭兵の生き残りたちだった。
彼らはアルテラ軍の制圧法撃の中、湧水で未完成のまま放棄されていた地下壕に潜り、入口を崩して偽装し夜を待っていたのだ。
吐き気を催す草根の腐敗臭と息が詰まりそうな湿気と悪化する空気の中、傭兵たちは半日をかけて壁を掘り進めて再び地上に出た。彼らは少人数に分かれ、闇に紛れて野営地の随所に潜み一斉に火をつけ、消火に右往左往するアルテラ兵を殺傷し始めた。
後にこの襲撃は、「エルメダス王傳」にこう記されることになる。
「深夜、関ノ本陣、周囲ノ
火事の声を聞いたとき、ファルケン大尉は中隊の整備天幕でクーン軍曹が淹れてくれた黒茶を悲し気に眺めていた。
ファルケンはこれがただの火事ではないと直感した。これ幸いと湯呑をクーンに押しつけ、立ち上がってドワーフの技術下士官に声を掛けた。
「出るぞ。動甲冑と鋼馬の準備を」
「何故です?」
ギズム伍長が怪訝な顔でファルケンを見た。
「わからんか。これは敵の夜襲だ」
ウェルドたち三人は馬車の荷台の下に伏せて火事の様子を見つめていた。火に怯えた馬は既に解き放ってしまっていた。
「先生、どうします?」
周囲の混乱に不安を隠せないシャンテが訊いた。
「騒ぐな」
ウェルドは周囲に注意を集中しながら助手を窘めた。
「おい、火に巻かれるぞ」
マースが上擦った声を上げた。
「これはクル軍の夜襲だ。動甲冑兵が出てくるかもしれない」
そう言ってウェルドは顔に巻いた包帯を剥ぎ取った。
アルテラ軍は最初の衝撃から立ち直りつつあった。彼らは
「夜討ちだ。迎え討て」
「弓だ、槍だ」
と口々に叫びながら武器を手に天幕を飛び出した。それを傭兵たちが三名一組で襲う。一人の敵を複数で襲うのは夜討の必勝法だ。しかしやがて多勢に無勢、アルテラ兵に圧迫されたためか、事前の打合せなのか、傭兵たちは一団を形成し始めた。
ニドが構えた短杖の魔法輪が唸りを上げ、杖頭から長く細い炎の舌が伸びて弓を放とうとしていた数名のアルテラ兵が火達磨になって悲鳴を上げた。ニドの両側にロラとスウが並んで歩いていた。スウの槍が蛇のように伸びて、天幕の陰から飛び出してきたアルテラ兵の喉を貫いた。
ニドたちの後ろを進むアイカの指示でグスタフたちが防壁を張り、飛来する矢が地に落ちた。彼女たちの周囲に次々と傭兵たちが集まり、彼らは緩やかな楔の隊形を組んで丘の中央を目指した。
「先生、あれを!」
シャンテの声に目を向けると、燃える天幕の間を進むニドたちが見えた。
「ニド、生きて……」
しかし、目の前の光景に続く言葉を呑み込んだ。彼はニドが杖を振る度に火炎が迸り、悲鳴が上がり、燃え上がるアルテラ兵が転げ回るのを見た。ロラがアルテラ族の魔導兵に飛び掛かって長剣で両断するのを見た。繰り出された槍の穂先を掻い潜ったアイカの戦鉤に足首を砕かれたアルテラ兵が、泣き声を上げて転倒し、後続の傭兵の槍に止めを刺されるを見た。先頭を進むニドの顔が炎の照り返しで情欲に上気しているように見えた。
やはりあの女は魔女か、昨夜の戦慄が脳裏に蘇った。
「あそこか」
逃げ惑うアルテラ兵を掻き分けながら進んでいたファルケンは敵の位置を知った。鋼の馬を駆る聖騎士の勇姿を見て勇んだアルテラ兵たちが彼の周囲に集まり始めた。将軍の天幕が近い。夜襲とはいえここまで押し込まれるとは。ファルケンはクル族の夜襲部隊がアバイユを殺してくれることを心の片隅で願ったが、彼の中の大部分を占める帝国軍人がそれを許さなかった。
「あそこだ! 進め!」
彼は周囲の兵を励ましながらアイアンゴーレムの鋼馬を進めた。
「ウェルド、あれを見ろ」
マースに言われなくてもウェルドたちにも見えていた。花道を行く花形役者のように、左手から帝国製聖騎士が傭兵たちへ向かって進んでいくのが見えた。その後ろに弓や槍を手にしたアルテラ兵たちが付き従っていた。
まるで悪鬼の群れに立ち向かう騎士だ。ウェルドは呆然とその様を眺めていたが、我に返って二人に囁いた。
「急ごう、槍の準備だ」
三人は馬車の下から這い出ると、荷台に上がって槍を巻いた筵を乱暴に剥ぎ取り、土嚢代わりに土を詰めた上衣を並べだした。その時、三人の背を閃光と轟音が襲った。
動甲冑兵が傭兵たちに槍の穂先を向けて発法したのだ。
魚鱗の陣形を組んで進む傭兵たちを望見したファルケンは鋼馬の脚を停めた。うまいやり方だ。ファルケンは敵ながら感心した。クル・エルフの不正規兵とは思えないくらい動きがいい。どうしてここまで付け込まれたのかわからなかったが、敵の意図はわかった。敵味方が混交しているせいで味方は迂闊に法撃できないのだ。
「奴ら、エルフじゃありません」
横を進むアルテラ兵の一人が馬上のファルケンに聞こえるように大声を上げた。
そうか、奴らが悪名高い外国人傭兵か。こんな異郷の地までわざわざ人殺しのためにやって来た呪われた兵隊。俺と同じだ。なら遠慮はいらない。多くの呪詛を背負う者同士殺し合おうじゃないか。
「発法する。退がれ」
周囲の兵に告げると無造作に槍を構えた。高速回転する魔法輪の振動が鉄籠手越しに伝わって来た。兵たちが退避したか確認することなく、ファルケンは躊躇なく掃射を始めた。
最初に気づいたのはアイカだった。
「防壁前方!」
数人の傭兵とその数倍のアルテラ兵がもろに直撃を喰らって消し飛ぶのと、アイカが叫ぶのと、グスタフたちが防壁を張ったのはほとんど同時だった。太い光箭の束が防壁の表面で炸裂し、凄まじい閃光で周囲が白く輝いた。
発法された時間はそれほど長くはなかった。それでも傭兵たちの前進を止めるには十分だった。傭兵たちは狼に襲われた羊の群れのように固まった。
「素敵だわ、まさか平気で味方ごと撃ってくるなんて」
身奥から込み上げる昂りを押さえきれない顔でニドが呟いた。濡れた唇が炎で光った。
「姉さん、このままでは釘付けですよ。包囲されます」
ロラがニドに顔を寄せて言った。
「あいつは私が相手をするわ」
ニドが一歩前に出た。
「私が殺られたら、ロラとスウであいつを仕留めて。やり方は任せるから」
身を屈めたニドが動甲冑兵目掛けて一直線に駆けた。
撃ち始めてすぐ、光箭の不自然な炸裂からファルケンは敵が防壁を張ったのがわかった。反応がいい。腕のいい防壁魔導兵がいる。ファルケンはすぐさま掃射を止めた。これは埒が明かない。敵は腹を空かせたクルの不正規兵じゃない。選りすぐりの精鋭だ。やはりこうでなくては。兜の下の顔が不敵な笑みを浮かべた。なら突進して防壁を掻い潜り敵の陣形を崩す。鋼馬に跨った動甲冑兵の質量はそれだけで武器だ。隊形が崩れたら手練れの防壁魔導兵でも手の施しようがない。
そう考えて盾を上げた。その瞬間、彼は敵兵の中から人影が飛び出すのを見た。何だあいつは。恐怖に発狂して飛び出したのか? ファルケンは兜の中で眉を顰めた。
「狙いは大丈夫か?」
マースが急拵えの土嚢に乗せた騎槍に覆い被さっていたウェルドに訊いた。
「大丈夫だ」
ウェルドが上体を起こした。幸い動甲冑兵が槍を発法したおかげで随伴兵たちが動甲冑から距離を取っている。今なら奴の油断に付け込める。
「よし、撃つぞ」
ウェルドとマースとシャンテは動甲冑兵用の騎槍の握りに手を乗せて魔力を填めた。
マースは精々三発と言ったが、イーリたち教会の犠牲者の仇を討つという三人の執念が奇跡を起こしたのかもしれない。槍は八発の光箭を発法し、その内三発が動甲冑兵に命中した。一発は右の肩甲に斜めに当たって弾かれ、二発が背板に命中した。魔鉄の装甲を貫通するには至らなかったが、駆けてくるニドに注意を向けていたファルケンの不意を衝くには十分だった。
突然の衝撃にファルケンは唸り声を上げた。彼はすぐ魔法の矢で撃たれたことを理解した。歴戦を重ねたファルケンは狼狽えなかった。鋼馬の向きを変えながら横目で彼を撃った敵を探した。すぐ見つかった。右斜め後ろの荷車の荷台に膝をついた三人の男がこちらを睨んでいる。敵意と殺意のこもった視線。商売柄ファルケンはそんな目で見られることには慣れていた。貴様らか。流れるように槍の狙いをつけ短く一連射送り込んだ。彼を後ろから撃った敵兵は荷車ごと引き裂され、血飛沫と木片がばらばらと撒き散らされた。
それを見届ける前にファルケンは注意を正面の敵に向けていた。さっきの駆けてきた敵兵はどこだ?
その敵兵は予想外のところにいた。鋼馬の前肢の間にそいつは蹲っていた。背筋を冷気が落ちるのを感じた。こいつは何を企んでいるんだ? しかし考えるより先に彼の本能が鋼馬の右の前肢を上げ、鋼の蹄を叩きつけた。
敵兵は立ち上がりながら体を捌いて蹄を避けると、ファルケンを見上げた。
その時、ファルケンは炎の明かりの中で初めて敵兵の姿をはっきりと見た。
ダークエルフの娘の紅い瞳が兜の庇の奥から真っ直ぐ彼を見上げている。唇が歪んだ。笑ったのだと気づくまで一瞬だけ時間がかかった。
アイカがグスタフたちを振り返って戦鉤を握った手を上げた。グスタフ、ドーラ、カールが同時に無言で頷いた。既に彼女たちの杖の魔法輪は高速回転している。ほとんど間髪を入れず展開した防壁が聖騎士を取り囲んだ。
ファルケンはすぐ自分が三角柱のように展開した防壁にダークエルフの女傭兵と一緒に囲まれたことを悟った。
ダークエルフに槍を振り下ろそうとしたが防壁に阻まれた。こいつは何をしようとしているんだ。敵の意図はわからないが、危険なのは本能でわかった。
貌に妖しい微笑みを乗せたダークエルフが目深に被った兜を脱ぎ捨て、抱擁するように両手を拡げた。その唇が艶めかしく動いたが、何を言ったのかファルケンには聞き取れなかった。娘の眼が一瞬閉じ、開かれた瞬間、突然その全身が炎に包まれた。
最初は娘の身体が燃え上がったと思った。違う、焔を纏っているのだとファルケンは悟った。本能的に装甲表面に魔法の防壁を張った。娘の軍衣と革の胴鎧が吹き散らされる塵のように燃え尽きた。大戦の頃に目にした光景が甦った。一度だけ戦場で目撃した火炎魔神。この小娘はあの巨人と同じくらい危険な敵だ。ライノス少尉の死因を思い出した。焼死ですとクーンは言った。
「お前か、お前がやったのか」
ファルケンの憎悪に満ちた目が炎の娘を睨んだ。
キリアス・アバイユ将軍が動甲冑兵の騎槍独特の発法音を聞いのは、お気に入りの高級寝台の柱に両手首を縛りつけられたエルメイアに跨っているときだった。
「何をやっているんだ」
身体を起こしながら苛立ちまぎれにエルメイアの裸の腹を拳で撲った。エルメイアの紫に腫れ上がった唇から小さく呻き声が漏れたのを満足げに見下ろすと、下衣を履き豪勢な刺繍が施された長衣を羽織った。
更に二度、短い発法音が聞こえた。
「こんな時に誤射を起こすとは」
さっきの火事騒ぎといい、兵士たちは明日の勝利に浮足立っている。何人か見せしめに吊るさなければ。アバイユは乗馬ブーツに足を通しながら考えた。
クル族を舐め切っている彼は、これが敵の襲撃とは思いつきもしなかった。
「誰か、誰かいないのか?」
大声を上げながら天幕を出たアバイユの目が凍りついた。
辺り一面が火の海だった。アルテラ兵の死体が散乱し、発狂者だけが上げることができる意味不明の甲高い悲鳴が聞こえた。
目の前に天高く立ち昇る炎の柱が見えた。
アバイユは瞬時に理解した。彼の勝利を祝福するために精霊が顕現したのだ。柱の中に微かに揺らめく人影を見てアバイユは確信を深めた。
「おお、ついに、ついに……」
感極まって言葉に詰まった。歓喜の余り両目から滂沱の涙が流れた。彼は両手を大きく拡げ、炎の柱に向かって歩み寄った。精霊の加護の下、この地にエルフの王国を打ち樹てるのだ。エルメダスのような紛い物の国ではない。帝国すら凌ぐ真に偉大なエルフの国。アバイユの脳裏に自分が精霊に戴冠される光景が鮮やかに浮かび上がった。
軽い衝撃とともに、アバイユに約束された栄光の将来は突然断ち切られた。
「え?」
見下ろすと、どこからか飛んできた槍が腹に斜めに突き刺さっていた。
「え?」
もう一度同じ台詞を吐くと、アバイユは己の腹から生えた柄を両手で握り締めてそのまま跪くように地面に転がった。貫かれた肝臓の赤黒い血がどろりと流れて地に浸み込んだ。激痛で声も出ず、何も理解できず、何も納得できないままアバイユはゆっくりと死んだ。
「何あれ?」
槍を投げたスウが小さく首を傾げた。
日が昇り、政府軍の先遣部隊がようやく恐る恐るタムタムの丘に前進してきた。丘は叛乱軍の人馬の死体で埋め尽くされ、焼け焦げた天幕や馬車が陽光に無惨な姿を晒していた。
アルテラ兵が遺棄した武器や装具が散乱し、鍋には食べかけの食糧が残されていた。国王警備隊の少年兵たちは、上官の制止も聞かず争って鍋に手を伸ばして飢えた胃を満たした。
地面を縦横に走る轍を子細に検分したエベル情報中佐は、アルテラ族の兵士たちが夜のうちに全て撤退したことを確認した。
背筋を伸ばして周囲を見回した彼女は、第一外国連隊のニド曹長が悄然と立ち尽くしている後姿を見つけた。裸足に軍用毛布を引っ掛けただけのニドの恰好は、まるで故郷を追われた戦災難民に見えた。
「ニド曹長」
歩きながら名前を呼んだ。振り向いたニドが中佐を認めて微かに笑った。毛布の下には何も着ていなかった。
「すごい恰好ね。大丈夫?」
「ええ」
ニドが答えた。大丈夫そうには見えない。中佐はニドの顔に浮かんだ憔悴を見逃さなかった。しかしこれ以上詮索しても詮無いことだ。少なくとも外傷の類は見えない。
「状況を報告して」
「真夜中で錯綜してたからよくわからないわ。勝手に同士討ちでも始めたんでしょうね」
「それで納得すると思ってるの?」
「納得して貰わないと困るわ」
力なくにっと笑ったニドを見て、中佐は指で眼鏡を押さえて紫銀色の太眉を僅かに寄せた。これ以上尋いても無駄だと諦めたのだ。
「他の者は?」
「戦利品を漁ってるわ。当然の権利だもの。それより」
白い円筒形の大天幕を指さした。
「アルテラ軍の捕虜になってた娘さんを助けたわ。寝台に縛られて酷い目に遭ってたけど命は無事よ。ポーションを飲ませて負傷兵と一緒に休ませてる」
その天幕だけが周囲の惨状から無関心を装うように無傷で立っていた。入口に傭兵が二人、門番のように立っている。
「様子を見てきて」
中佐が近くで半ば焼け焦げた天幕を調べていた部下の一人に声を掛けた。
「あれは何?」
地面に屹立する捻じくれた金属の塊を指さした。そこだけ地面がひどく黒く焼け焦げ、高温で溶融した土が微かに日光を反射している。
「だからよくわからないって言ったでしょう」
ニドがつまらなそうに答えた。
「まるで帝国ケイドリック朝時代の前衛芸術みたいね」
中佐の感慨深げな言葉にニドが目を丸くした。
「中佐殿が芸術に造詣があるなんて知らなかったわ」
「あら、戦争が始まる前は大学で美術史を講義してたのよ」
「それはお見逸れしたわ」
そう言ってニドは小さく笑った。
「他に何か報告することは?」
「あるわよ」
「何?」
中佐の眼鏡がぎらりと光った。
「煙草持ってない? お気に入りのパイプをなくしちゃったの」
苦笑しながら中佐が懐から油紙に包んだ紙巻を取り出した。
「ところで貴方たちはこれからどうするの?」
二人並んで丘の上の地獄の中で紙巻を吹かしながら、中佐が世間話のように訊いた。
「出て行くわ。アバイユ将軍の死体は見たでしょ。どうしてここにいたのか知らないけど、これでこの国での戦争は終わったも同然よ。俸給分の仕事はしたし、ここはエルフの国で私はダークエルフだもの」
「なら第一外人連隊も解隊ね」
「連隊長代理が残ってるでしょう」
「あの子が?」
中佐が思わず鼻孔から盛大に煙を噴き出して噎せた。
「失礼ね。あれでも私の上官なのよ」
「まあ人を見る目はあるわね」
目の涙を拭いながら満更でもないふうに中佐が言った。
「だってあの子私を口説いたのよ」
「何よそれ、私は口説かれてないわよ」
「だから人を見る目があるのよ」
「あの野郎、今からでも殺してやろうかしら」
中佐が肩を震わせて押し殺すように笑い出した。
「それでどこに行くの?」
ひとしきり笑った後で中佐が口を開いた。
「これから皆で相談して決めるわ。こんな稼業から足を洗って小さなお店をやるのもいいわね。ロラが料理屋をやりたがってるのよ」
「その前に帝国に帰るんでしょう? 北のほうに。もう雪が降ってるかしらね」
ほんの一瞬、ニドの銀の眉が痙攣したのを中佐は見逃さなかった。
「外務大臣の要請で皇太子側の諸侯が貴方たちを送り込んだのは知ってるわ」
「一応秘密のはずだったんだけど」
「これでも私は情報将校なんですからね」
中佐が得意げに小さく微笑んだ。
短くなった紙巻を投げ捨て、ニドがもう一度振り返って地面を見つめた。
中佐がニドの見つめている地面を見た。木片と人体の破片が飛び散っている。この丘の上ではありふれた光景だ。ここにはありとあらゆる方法で殺された死体が転がっている。
「どうしたの? 知ってる人?」
「ええ、知り合いよ」
死体は徹底的に引き千切られていて中佐には判別がつかなかった。
「それはお気の毒に……。じゃあ行くわ」
それだけ言って中佐は部下に指示するために歩み去った。
ニド一人が残された。しばらくしてニドの唇が小さく悲しく開いた。
「もう、どうして逃げなかったの? 口説かれてあげるって言ったのに」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます