第6話中篇 外伝 帝国継承戦争カルフィール戦役編 約束の地
まだ薄暗い払暁の中、二本の樹木線に挟まれた草地に張り巡らされた塹壕の中は緊張に包まれていた。塹壕に張りついた兵士たちは、兜の庇越しに血走った両目を盛んに動かして前方の森の奥から何かを探し出そうとしていた。
いつもならやかましい鳥の声が聞こえない。それは森の奥に敵の不正規兵が充満していることを示していた。
「誰か紙巻を持ってないか?」
緊張に耐えられなくなったのか、ラーデンが間の抜けた声を上げて周りを見回した。
「なあ、持ってないか?」
ラーデンがもう一度訊いた。
「やかましい、手前の指でもしゃぶってろ」
誰かが苛立たし気に答えた。
ラーデンが弓を抱えて立ち上がった。
「今言ったのは誰だ! 壕の外に出ろ!」
「やめなよ」
隣のヴィリがラーデンの軍衣を掴んで無理矢理壕の底に引き戻した。黒髪の女エルフだ。うんざりした口調で言った。
「下らないことで喧嘩しないで」
小隊長が来たぞ、と誰かが小声で告げた。振り返ると交通豪から中腰の人影が二つ現れた。
ハイエルフの念話兵を連れた小隊長だ。
「今、騒いでいた莫迦は誰だ?」
少尉の階級章をつけた小隊長が苛立たしげに尋ねた。
「声が向こうの森まで筒抜けだぞ」
「小隊長、たいしたことじゃないんですよ、敵前で闘争心を再確認してただけです」
分隊長のバズウ伍長がとりなすように言った。
「ところで」
伍長が声を落とした。
「どんな具合なんです?」
「大隊司令部からは何も言ってきてない。前方の状況は?」
少尉が塹壕の側壁に体を預けて前方を睨んだ。
「森に入る小径が見えますか?」
「ああ」
「あの小径が森に入る所から指三本右手の奥でざわついてました」
「ざわついていた?」
「木の枝を踏み折る音です。アルテラの牛飼いどもも質が落ちてきてるようです。やけに景気よく音を出してました。それと牛飼いどもの声が少し」
「ふむ」
森から目を離さず少尉が答えた。
「いつもの潜伏斥候でしょうか?」
「わからん。伍長」
「はい」
「前方の堆土の陰まで斥候を出せ、さっき騒いでた奴だ」
「ひでえ」
ラーデンが悲鳴のような声を上げた。
「黙れ、こっちに来い」
伍長が有無を言わさぬ口調で命じた。ラーデンが嫌々立ち上がりかけたその時、前方の森から細い煙の筋が空中に走るのが見えた。
赤く光るそれは青空の中をぐんぐん上昇し、時折小爆発を起こして軌道を修正しながら樹木線に挟まれた無人地帯の上空を横切った。
「伏せろ!」
叫び声が上がった。直後に塹壕の底が持ち上がり、交通壕から空気の壁が押し寄せてラーデンを側壁に叩きつけた。
何が起こったのか理解できなかった。平衡を失った頭が混乱している。ラーデンはやっと頭の横に転がっている兜を見つけ、それにすがりつくように両膝をついて上体を起こすと、思い出したように兜を被った。体中泥まみれだ。
「何があったんだ?」
自分の声が聞こえないことに気づいた。
「何も聞こえないぞ」
もう一度確かめるように言ったがやはり何も聞こえなかった。
誰かがラーデンの腕を乱暴に掴んで側壁に押しつけた。
「法撃警報!」
退避壕に逃げ込む暇もなかった。兵士たちは壕の側壁にへばりつき、顔を泥に埋めた。正確な間隔で轟音と衝撃波が襲ってきた。しかし、壕内には一発の着弾もない。
「俺たちを狙っているんじゃない。平行壕の奥に撃ち込んでるんだ」
バズウ伍長が怒鳴った。平行壕の奥には中隊本部と包帯所がある。
「奴ら、中隊本部の位置を正確に掴んでやがる」
やがて後方からも赤い光球が煙を引きながら前方の森に吸い込まれて爆発した。味方の法撃兵が反撃を開始したのだ。
「いいぞ! やっちまえ!」
やっと聴覚が回復しかけたラーデンが叫んだ。
「黙って! 静かにして!」
ヴィリが怒鳴った。
小隊長が中腰になって前方を睨んでいた。
右手の森の奥から煙の帯が数条、急角度で頭上に伸びている。時折横殴りの土砂が少尉の兜を叩いた。
「少尉、伏せてください!」
伍長が叫んだが少尉は動こうとしない。仕方なく伍長も少尉の横に並んで顔を出した。
「敵の法撃兵はせいぜい三人だ。いずれこの法撃は収まる」
自分に言い聞かせるように少尉は呟いた。
「他にいなければですけどね」
伍長が叫ぶように応じた。
少尉はその点は心配しなかった。法撃兵に予備無しという言葉がある。アルテラ兵には妙に教条主義的なところがあった。他に法撃兵がいるならそいつらも撃っているはずだ。つまり敵の法撃兵力はこれが全力なのだ。
味方の法撃が次々に着弾し、爆発が起こり、木が砕け散るのが見えた。恐らく敵に防壁魔法を使える魔導兵はいないのだろう。着弾の爆発は全て地表で発生していた。しかし、敵の法撃は規則正しく続いている。
器用な連中だ。少尉は呻いた。
敵は法撃兵の少なさを隠すために少しずつ移動しながら法撃しているのだろう。法撃兵は不正規兵でも指揮しているのは手練れの法撃将校だ。
だが少尉は心の中で安堵していた。大丈夫、生き残れる。敵の狙いは中隊本部だ。我々のような最前線の雑魚じゃない。しかし安心はできなかった。速成訓練ででっち上げられたアルテラ族の法撃兵は腕が悪いことで有名だ。下手くそな法撃がこの壕を直撃しないとも限らない。その時は一貫の終わりだ。衝撃波で脳の血管が切れるか踏みつけられた蛙のように爆風で押し潰される。
敵の着弾が六十を数えたとき、味方の法撃が止んでいることに気づいた。敵の法撃は執拗に後方に着弾している。その事実に少尉は慄然とした。味方が法撃合戦に敗れたのだ。
少尉が百発まで着弾を数えたとき、唐突に敵の法撃が終わった。
兵たちはそのままの姿勢で伏せ続けている。鼓膜を貫く金属音を振り払おうと何度か頭を振った。
「兵隊ども!」
少尉が叫んだ。
「装具を確認しろ!」
半ば崩れた壕の中で兵たちが芋虫のように蠢き始めた。土砂に埋まった装備を搔き出しているのだ。その様を確認してから少尉は周囲を見回して状況を確認した。
いいぞ、壕は損壊しているが致命的ではない。柵もほとんどが健在だ。
「中隊本部を見てこい」
少尉の指示でハイエルフの念話兵が煙の籠った交通壕に消えた。
「全員いるか? 名前を言え」
バズウ伍長が叫んだ。
埃の中から次々に声がする。伍長が満足げに頷いて少尉に向き直った。
「小隊長、第一分隊人員装具異状なし」
「了解。伝令を出して第二分隊、第三分隊の壕に行って各分隊長に伝えろ、合戦準備、甲二号だ」
伍長が後ろを振り向いて新兵の女エルフの名を呼んだ。
「アルル、第二分隊と第三分隊に伝えろ、甲の二号だ」
「了解、甲の二号、伝えます」
アルルが復唱して平行壕を中腰で駆け出して行った。
「もうこれで終わりか?」
ラーデンが震える指で弓の泥を落としながら言った。
誰も答えなかった。遠くで衛生兵を呼ぶ声がする。
「聞こえる」
誰かが呟いた。
「ああ、聞こえるぜ、足を吹っ飛ばされた奴の泣き声がな」
ラーデンが泥混じりの唾を吐いた。
「本当だ」
ヴィリが答えた。
「聞こえる」
「聞こえるって何が」
言いかけたラーデンにもやっとそれが聞こえてきた。
大勢が灌木を掻き分ける音だ。もう敵は意図を隠そうともしていない。アルテラ族の攻撃部隊が戦闘展開しているのだ。
「来る……」
バズウ伍長の低い声が聞こえた。
「小隊長、来ます!」
伍長はもう一度大きい声で少尉に告げた。
「わかってる」
少尉が答えた。続いて伍長に負けない大声で叫んだ。
「全員配置につけ! 敵が来るぞ!」
少尉が軍衣の懐から紙巻を探そうとしたとき、背後から物音がした。全員が反射的に得物を向けようとしたが、それは味方だった。
「キール伍長です。副中隊長をお連れしました」
念話兵の声がした。背の高い将校が入ってきた。
「シルバ少尉、状況は?」
「現在確認中です。塹壕の一部が崩れました。中隊本部はどうですか?」
「本部壕は真っ平らだ。観測所も法撃小隊も掩体ごと吹き飛ばされた」
「中隊長は?」
「大尉は行方不明だ」
副中隊長のカミル中尉が苦笑いした。
「不幸中の幸いは直射掩体の魔導兵分隊が無事だということだな。畜生め、奴らを甘く見すぎた」
その間にも第二分隊と第三分隊が装備を担いで壕に滑り込んできた。
「敵は前面の森を突破する気です」
「魔導分隊は射点につかせた。突撃小隊も退避壕から出して待機中だ」
「小隊には甲二号を下令しました。甲の二号でよろしいですね?」
陣地固守を指す符丁だ。中隊は第一平行壕に戦力を集中して敵の攻撃を阻止する。
「ああ、甲二号だ」
中尉が答えた。
「ではそのように」
「私は前方指揮所に入る。ここを頼むぞ」
そう言って中尉は平行壕の奥に消えた。
壕の中では小隊の兵たちが決められた配置につき、矢筒から征矢を抜いて足許に並べて刺し、白兵戦闘に備えて槍を側壁に立てかけて敵の攻撃に備えた。
「いいか、訓練通りやれ!」
バズウ伍長が声を嗄らして壕内を歩き回り指示を飛ばした。
乾いた風切り音が響き、棒杭が宙を舞い壕の堆土が吹き飛んだ。魔導兵の直協法撃だ。敵の矢が塹壕に降り注いできた。征矢が立った数人の兵が声も立てずに倒れた。
少尉がキール念話兵の肩に手を置いた。
「『両替商』に伝達、座標五二の三八に五発撃ち込め、わかったか?」
あの茂みに敵の突撃兵が潜んで突撃の機会を窺っているはずだ。
「五二の三八に五発、了解しました」
念話兵が目を閉じて念を込めた。
「来やがった」
誰かが呟いた。そっと頭を出すと、弓や槍を手にした人影が森の奥から次々と姿を現した。
「牛飼いどもめ、あの程度の数で俺たちがやられるとでも思ってるのか!」
側壁に身を寄せて矢を避けていたラーデンが喚いた。
「黙れ! 全員合図したら射点につけ。十斉射だ!」
少尉が叫んだ。
アルテラ兵たちは時折立ち止まって矢を放ちながら小走りに駆けてくる。いいぞ、奴ら統制が取れていない。少尉は内心ほくそ笑んだ。
「まだ射つな、まだ射つな!」
壕内を歩きながら少尉は兵たちに声をかけた。
「小隊長! 副中隊長から連絡です! 突撃小隊を出すかと」
念話兵の叫び声。
「まだだと伝えろ!」
やがてアルテラ兵の先頭が地面に刺さった小さな黒い標旗の線を越えた。
「射てェ!」
少尉の号令とともに兵たちが一斉に弓を引き絞り定められた角度で空中に放った。壕から矢の塊が湧き上った。
矢の雨がアルテラの突撃部隊を包んだ。隣の小隊も射撃を開始したようだ。次々に矢が降り注いだ。そこに魔導兵たちの光箭が加わった。アルテラ族の不正規兵たちは次々に地に打ち倒され、直接法撃を受けて吹き飛ばされた。樹木線の間の空間はたちまち阿鼻叫喚の地獄と化した。生き残った者たちが悲鳴を上げながら後退していく。
「やったぞ!」
壕の中で歓声が沸いた。
「アルテラの野蛮人どもめ、あの程度で俺たちを潰せると思ったのか」
ラーデンが身を乗り出して口笛を吹いた。
その瞬間。
壕の縁が白く輝き、ラーデンの意識が消えた。
突然の衝撃に少尉は呆然と立ち尽くした。何だ今のは? 敵の法撃兵が法撃を再開したのか? いや、弾道が低すぎる。それに独特の飛来音も聞こえなかった。
「小隊長! 『両替商』が今の法撃は何だと聞いてます!」
キール念話兵が少尉の腕を掴んだ。
「森の奥、小径の西側の奥に何か隠れている」
「座標を伝えろと言ってます」
少尉は敵の正体を見極めようと首を巡らせた。視界の端にラーデンの死体が転がっていた。正確に言えば、ラーデンの弓を握った左手首と白い脂肪の塊が崩れた壕の底に転がっていた。
「『両替商』が座標を伝えろと……」
言いかけたキール念話兵の肩を掴んだ。
「今座標を言う。五〇いや四九の……」
「少尉!」
バズウ伍長が前方を指さして叫んだ。
「あれを!」
地面に転がるアルテラ兵の向こうに何かが佇んでいた。
「騎兵?」
確かに騎兵だった。蹄から兜の先まで鉄一色の巨大な重装騎兵。詰め物をしているように不自然な輪郭。動甲冑兵だ。噂は本当だったのか。他の兵も動きを止めて鉄の怪物を凝視した。
いつの間にか森の前面に大勢のアルテラ兵が姿を見せていた。
「すげえ数だ」
兵士たちが浮足立った。
「さっきの十倍はいるぞ」
「黙れ!」
気を取り直した少尉が叫んだ。
「人海戦術が何だ。動甲冑の一騎くらいどうとでもなる。後方の魔導分隊が……」
少尉が言い終わらないうちに、聖騎士の槍先が鈍く光り、低くけたたましい轟音とともに光の箭が迸った。壕の一部が吹き飛び柵と大量の土砂が悲鳴と共に空中高く舞い上がった。あの方向には魔導分隊の掩体がある。
「『両替商』を呼び出せ!」
念話兵に指示を飛ばした。
「駄目です、応答ありません!」
敵は先ほどの攻撃で魔導分隊の位置を正確に把握していたのだ。
「魔導兵がやられた、もう駄目だ」
壕の兵たちに動揺が走った。壕の外に逃げ出そうとする兵の一人をバズウ伍長が乱暴に引き戻した。
「戻れ、兵隊ども! 配置を離れた奴はその場で殺すぞ!」
そうしている間にも動甲冑兵は平行壕の奥を縦射し続けた。
「前方指揮所に伝えろ! 突撃小隊を前に出せと!」
「応答ありません……」
状況の深刻さに念話兵の顔が蒼ざめた。
「敵が前進を開始しました」
バズウ伍長が少尉の横に立って伝えた。動甲冑兵と随伴の歩兵たちがゆっくりと進み始めたのが見えた。兵たちが号令も待たずに弓を射始めた。何人ものアルテラ兵が矢を受けて倒れた。それでも敵兵は速足で前進をやめない。
「近接戦闘準備!」
兵士たちはついに弓を捨てて槍を取った。動甲冑兵が速度を上げ、敵兵も全速で走り出した。敵兵の間から鯨波が上がった。矢が壕の縁に浅い角度で刺さり始めた。もうその矢が敵のものか味方のものかわからない。
兵たちは壕から飛び出して狂ったように柵の間から槍を突き出し、柵の切れ目から壕内に押し出してきたアルテラ兵を叩き出そうと槍を振り上げた。
少尉の槍は最初の敵兵の胸を突いたときに口金から折れた。彼は穂先を失った槍を投げ捨て、足許の死体から槍を拾おうと身を屈めた。その鼻先に敵の姿があった。そいつは甲高い奇声を発して手槍を少尉の頭目がけて突き出した。少尉は腰を落とし、拾い上げた槍の石突を敵の首筋に叩き込んだ。骨が折れる音がしてそいつが壕の踏み台に崩れ落ちた。すかさず槍を構えなおして敵兵に止めを刺した。擦り切れた軍衣を着た女だった。安心する間もなく二人目の敵が壕に飛び込んできた。弓を構えて少尉を狙う。
「少尉、横へ!」
バズウ伍長が少尉を乱暴に横に突き飛ばして手の槍を投げた。槍は胸板を貫き、敵兵は悲鳴を上げながら倒れた。壕の中は今や完全な混戦に陥っていた。両軍のエルフ兵が狭い塹壕の中で揉み合っている。
しかしその状態も長くは続かなかった。
「退避! 退避!」
誰かの叫び声。兵たちが悲鳴を上げながら壕から飛び出した。
「兵隊ども!」
少尉は両手を拡げて兵士たちを止めようとした。
「最後まで戦え! 持ち場を離れるな! 押し戻せ!」
衝撃が脇腹を襲った。思わず槍を取り落した。見下ろすと赤錆びた槍の穂先が深々と突き刺さっていた。槍のけら首を掴み、その持ち主を見た。兜もかぶっていない少女だった。
少女は槍を引き抜こうともがいて尻もちをついた。
「この糞餓鬼が」
少尉は少女の顔を蹴り飛ばし、腹の槍を引き抜くと振り上げた穂先で少女の頭蓋を叩き割った。振り下ろした槍の勢いを受け止めきれず、少尉はそのまま仰向けに倒れた。どこかでバズウ伍長の声が聞こえた。
倒れた少尉の眼前に巨大な影が迫ってきた。巨大な鉄の馬に跨った動甲冑兵だ。
「畜生め」
血泡を噴きながら少尉は静かに瞑目した。
やがて鋼馬の巨大な蹄がゆっくりと少尉の体を踏み砕いた。
いまや名実ともにクル族の聖都となったナージの町からかつての首都を結ぶ幹線道路沿いの左右を密林や丘に挟まれた幅半里、深さ二里半ほどの縦深地帯は、この日、早朝から混乱をきたしていた。ナージのクル族政権はここを最終防衛地帯に定めていたが、未明以降、前方地域では法撃音が響き続けていた。回廊へ集約する街道を瞰制していた四つの前哨陣地のうち二つが連絡不能になり、一つが戦闘中。守備隊司令部のあるエイレンとの後方連絡線は辛うじて確保されていたが、路上には近隣住民の姿はおろか犬一匹すら見えない。
卯の三つ頃、雨が降り始めた。雨はたちまち猛烈な豪雨になり、半町先も見えなくなった。
「危険な徴候だ」
隘路口を防御するクル族指揮官ラメル少佐が呻いた。
「外郭防衛線を縮小してここに兵力を集中させなければ取り返しのつかないことになるぞ」
ラメルは種族間戦争を戦い抜いた歴戦の古強者だった。戦後も反クル族政権の武装勢力と戦い続け、大戦では連合軍に従軍して帝国各地を転戦し、これを好機とばかりにウルメニから長駆侵攻してきたイグニア騎行団と干戈を交えた経験もある。
彼の強みは、部下のほとんどが強制動員された召集兵や難民から引き抜いてきた不正規兵ではなく、十分な装備と訓練を享け、彼とともに長年戦い抜いて経験を積んできた古参兵ばかりということだった。
しばらく地図を睨んでいたラメルは本部に控える当番の念話兵に声をかけた。
「バーサを呼び出せ」
連絡が途絶えた二つの陣地の間に構築された陣地の名だ。僅かな沈黙の後、念話兵が口を開いた。
「応答ありました。中隊長を呼び出しています」
再び沈黙が流れた。時間の流れがもどかしい。
「中隊長出ました」
「状況を報告するように伝えろ」
「『規模不明な敵部隊の行動音を確認。ただし現在は雨で聞き取れず』だそうです」
「伝えろ、行動命令乙四号だ」
「乙四号ですか?」
念話兵が驚いた顔で聞き返した。乙四号とは、人員と最低限の装備のみで速やかに主陣地であるアンテに配置変換せよという意味だ。今の陣地を捨てろと言っているのに等しい。無条件の即時後退命令だ。
「そうだ、乙四号だ」
「わかりました」
念話兵が目を閉じた。
「バーサが理由を聞いています。この雨の中をか、とも」
苛立ちを懸命に抑えながらラメルが念話兵の肩を掴んだ。
「いいか、ちゃんと伝えろ。既にガンガとクビルの連絡が絶えた、と」
バーサの指揮官は馬鹿ではない。この意味が理解できるはずだ。
「『了解、直ちに離脱する』とのことです」
半地下壕に張られた天幕を叩く雨音を聞きながらラメルは満足げに頷いた。大丈夫だ。きっとこの雨がバーサの離脱を助けてくれる。
もう一度ラメルは地図に目を落とした。
「メキラの状況は?」
「散発的な法撃を受けていますが損害は軽微とのことです」
作戦参謀の大尉が答えた。
「そのまま固守するように伝えろ」
メキラは小高い丘に建てられた小砦に立て籠もっている。敵が今までと同じように浸透突破を目論んでいるなら無理攻めはしないだろう。持ち堪えられるはずだ。
心を落ち着かせるために従卒を呼んだ。
「茶を淹れてくれ」
言い終わらないうちに本部要員の軍曹が飛び込んできた。
「大隊長、後方で難民の乗った荷馬車が攻撃されました。死傷者多数」
「敵の遊撃活動か?」
「恐らく」
作戦参謀に声をかけた。
「路上に出した斥候は戻ってきたか?」
「まだ一人も帰って来ていません」
「わかった、連隊本部に現状を報告しろ」
作戦参謀の大尉が念話兵に渡す伝達票に筆を走らせ始めた。
ラメルは背筋を伸ばすと本部に詰めている全員に聞こえるように声を上げた。
「敵の攻撃が近い。全員本部壕に移れ。軍曹、小隊長以上と本部中隊の分隊長以上を隣の会議用天幕に集めろ」
従卒から湯呑を受け取ると茶を一口啜った。次々に報告が入ってくる。
どうやら包囲されてしまったようだ。地図を眺めながらラメルはそう結論を出した。
「全員集合しました」
軍曹の声が聞こえた。
ラメルはわざと余裕のある足取りで隣の天幕に向かった。雨はもうほとんど止みかけ、雲の切れ間から青空が見えた。
天幕の覆い幕を上げたラメルを中にいた男女の目が出迎えた。この齢になっても大勢に注目されることには慣れない。ラメルは内心苦笑しつつ気取られないように落ち着いた仕草で中に入った。大隊の主だった者たちが注視する中、床几に腰を下ろすと全員をゆっくり見回した。全員がひどく緊張している。
「メキラはどうなってますか?」
ラメルの言葉を待たずに下士官の階級章をつけた大柄なエルフが口を開いた。彼はメキラから大隊段列に築城資材を受領するために昨夜遅く荷馬車でここに着いたばかりだった。
「自分をすぐ中隊陣地に戻して下さい」
「駄目だ。路上は敵の遊撃部隊が跳梁している。それにメキラはまだ持ち堪えている。安心しろ」
「本当ですか?」
「監視所からの報告ではメキラの法撃兵はまだ健在だ」
「戦闘中なのですか? それなら尚更……」
「落ち着け。メキラは守り抜ける」
なおも何か言いかけた下士官を手で制して立ち上がった。
中央の地図盤に近づくと、指揮棒を軽く振った。地図には自分たちの陣地を示す兵棋用の駒が乗っている。全員の目が地図に集まった。
「状況を説明しておく。いい報せと悪い報せだ」
軽く深呼吸してから話を続けた。
「まず悪い報せからだ。バーサは現在陣地を捨てて後退中だ。ガンガとクビルは陥落した。メキラはさっき言ったように現在交戦中だ。エイレンとの連絡も敵の遊撃活動により遮断された」
一気に喋り終わって全員を見回した。
「続いていい報せだ。我の後背地に進出しているのはほんの一握りの別動隊だ。現在法撃が行われているのは前方からだけだ」
「では」
小隊長の一人が口を挟んだ。
「この攻撃は威力偵察なのですか?」
「違う」
ラメルは指揮棒を振って即座に否定した。
「奴らにそんな余力はない」
老練なラメルは歯を見せて不敵に笑った。
「情報部の報告によると、アルテラ兵の大半はウルメニ領内で速成訓練を受けただけの連中だ。更に我が領内から流れ出た革命分子の難民まで抱え込んで頭数だけは膨れ上がった。急速に膨張した大所帯なうえに指揮系統も曖昧な軍隊に緻密な作戦行動ができると思うか?」
わざとらしく肩を聳やかして見得を切った。
「アバイユは追い詰められて暴発したんだ。我々が行った焦土作戦で食料も欠乏し、ここで輝かしい軍事的成果を上げないと内部分裂だ。これは断じて威力偵察じゃない。無秩序な浸透突破による攻勢作戦だ」
ここでラメルは自信たっぷりに背筋を伸ばした。
「これは我が守備隊にとっても好機といえる。統制の取れないアルテラ軍の攻勢を支え切れれば奴らは自壊する。我々を苦しめてきた牛飼いどもとの戦争に終止符が打たれるのだ」
指揮棒が地図の中央部に振り下ろされた。
「具体的な作戦を伝える」
全員が身を乗り出した。
「外郭防衛線を縮小する。前進陣地を放棄し防御正面幅を緊縮するのだ。敵の進攻速度からいって本格的な攻勢は夜になってからだろう。例の動甲冑もその時に出てくるはずだ」
皆に軽く動揺が走った。帝国製の聖騎士の噂を知らない者はいない。
「安心しろ。動甲冑兵はその重量のせいで行動可能な場所は限られる。対処は可能だ。魔導兵を集成して魔導予備隊を編成し、陣前及び陣内に火集点を設定してそこで叩く」
地図に指揮棒を叩きつけた。
「連中は人海戦術しか知らぬ牛飼いどもだ。あの怪物を前面に押し立てて大人数の力押しで来るだろう。そんな奴らに我々の半自動防御陣地が落とせるものか」
太陽が中天を過ぎた頃、バーサの最後尾の本部要員がアンテの主陣地地帯に入って来た。工兵が進入路に障害物を並べて閉塞作業を開始したのを眺めながら、ラメルは懐から紙巻を取り出して火打石で火をつけた。
前進陣地の撤収とバーサ守備隊の収容は可能な限りの迅速さと静謐さをもって行われたのだ。この間、部隊への敵の攻撃は皆無だった。ラメルは自分の部下たちの仕事ぶりに満足感を覚えた。
「大隊長」
バーサの指揮官だった中尉が近づいてきた。
「中隊に異状ありません」
ラメルがくわえている紙巻を見て中尉も自分の雑嚢から紙巻を取り出した。
「ご苦労、計画通り部隊を予備陣地に入れて準備させろ、ところで」
中尉に自分の紙巻を差し出した。
「矢はどれくらい持ってきた? ざっとでいい」
「矢は一人当たり三十六です」
中尉は自分の紙巻に火を移してラメルに紙巻を返しながら答えた。
「一会戦分としてぎりぎりの数だな」
「予備の矢はバーサ放棄の際に全て焼却しました」
僅かに心外だという表情を浮かべて中尉が答えた。
「そうだったな」
命令したのはラメル自身だ。
「補給には話をつけてある。必要なものを持っていけ」
「ありがとうございます」
「ところであれは何だ?」
ラメルがバーサの兵たちの列を指さした。
兵士の列の中に一人だけ変な奴がいる。その兵士はダークエルフほどではないが肌の色が褐色に近く、耳が短い。弓を持たず突撃兵の使う槍を担いでいる。軍装はクル軍のものだが。
「エルフではないな」
「ああ、彼女ですか。傭兵ですよ」
中尉が煙を吐いた。
「上が送り込んでいた長距離偵察兵です。敵軍の前衛に合わせて移動していたうちに、たまたま昨日うちの陣地に立ち寄っていたのでそのまま連れてきました」
ラメルは総司令部が遊撃隊とは別にアルテラ軍の後方地域に多数の潜伏斥候を投入していたことを思い出した。しかし、そのほとんどが未帰還になったはずだ。
「偵察兵としての腕はどうだ?」
「凄腕でしょう。中隊の警戒線を抜けて配食所の列に並ぶまで誰も気づかなかった」
中尉がおかしそうに笑った。
「そうか」
面白そうな女だ。今は腕のいい斥候が一人でも欲しい。ラメルはその姿を頭の隅に記憶した。
「それで」
中尉が歯についた煙草の葉を指で取りながら尋ねた。
「メキラはどうなりました?」
「相変わらず散発的な法撃だけだ」
「やはりここが本命ですか」
「ああ、今夜来る」
「来ますか?」
「来なければ奴らはすこぶるつきの間抜けだ」
「わかりました。防御準備に入ります」
紙巻の煙をくゆらせながら中尉が去っていった。周囲では兵士たちが円匙を振るって退避壕を掘り進めている。戦の前に必ず襲ってくる恐怖や不安を紛らわすために兵士たちは不乱に体を動かしているのだ。ラメルは一人一人に声をかけて励ましながら待機壕に足を向けた。
待機壕には二等及び三等魔導兵からなる魔導予備隊が集まっていた。彼らはラメルが動甲冑兵対策に思いつき、大急ぎで編成した部隊だった。大隊直轄の魔導小隊に各中隊の魔導兵を集成した強力な直接法撃戦部隊だ。当然ながらこの引き抜きは各中隊長からの猛烈な反対を受けたが、彼は強引に押し切った。神出鬼没の動甲冑兵に対して即応性を持たせるにはこれが最善とラメルは信じていた。幸い魔導小隊長は手練れの魔導兵指揮官だ。彼女は大戦の頃に重防御の大型魔族と数度の戦闘経験があった。
「大隊長」
待機壕に入って来たラメルを認めて全員が姿勢を正そうとした。それを手で制してラメルは手近の木箱に腰かけた。
「楽にしろ」
魔導兵たちを見回した。全員がハイエルフだ。彼らは魔力の消耗を抑えるために陣地の補強作業も免除され、ここで待機しているのだ。
「調子はどうだ?」
「問題ありません。しかし」
魔導小隊長が居心地が悪そうに顔を顰めた。
「我々だけ待機は些か心苦しいですね」
「気にするな、お前たちは切り札だ。敵の動甲冑兵が出てきたらお前たちだけが頼りだ」
「わかりました」
「準備は大丈夫か?」
「はい、工兵小隊長と一緒に陣前六箇所、陣内三箇所の火集点を確認しました。全員が射点も射向も掌握しています」
魔導兵全員が自信たっぷりに頷いた。その様をラメルは満足げに眺めた。圧倒的な防御力を誇る聖騎士といえども無敵ではない。法撃の集中射を受ければ魔法の防壁も装着者の魔力も消耗し、その装甲も破られる。機動障害で足を止め、側背から集中攻撃を受ければ動甲冑といえども撃破は可能だ。種族間戦争以来、彼は多くの戦場でそうやって仕留められた動甲冑兵を何人も見てきた。戦闘は段取り八分というのが彼の実戦経験に裏打ちされた持論だった。
「しかし」
小隊長がなおも続けた。
「何だ?」
「陣地の側背は大丈夫なのでしょうか? 敵は後背まで浸透していると聞きました」
「大丈夫だ。左右は低湿地帯だ。重い動甲冑兵は自重が仇になって行動できない。湿原を渡って後ろまで迂回するなんてことは不可能だ」
左右を迷路のような低湿地帯に挟まれた橋のような地形。だからこそこの場所を戦闘陣地に選んだのだ
安心させようと笑顔を作った。
「今は休め。夜は忙しくなるぞ」
小隊長の肩を叩くとラメルは立ち上がって壕を後にした。
それから数刻後、ラメルは本部壕の隅に置かれた組立式の簡易寝台に寝転がっていた。神経が疲労して思考が鈍ると、彼は躊躇せずに横たわって目を閉じることにしていた。落ち着け。アルテラ軍は人海戦術中心の戦闘を基本姿勢にしている。それに対してこの陣地は半自動防御だ。相手がよほどの馬鹿か素人でもないかぎり、白昼に強襲してくることはないはずだ。まずは落ち着かなくては。それが指揮の柔軟性を保持する基本だ。
「大隊長!」
本部要員の曹長の悲鳴がラメルの瞑想を破った。
「起きてください!」
いつの間にか寝ていたようだ。轟音が彼の鼓膜を叩いた。寝台が僅かに震動している。
「前進陣地に大規模な法撃です」
曹長が入り口を指さした。耳を澄ますまでもない。老婆の悲鳴のような飛翔音が絶え間なく続いている。ラメルは受け取った兜を頭に乗せると本部壕から外に出た。
周囲はすっかり暗くなっている。しかし目の前は法撃特有の光の渦に包まれていた。
「敵の法撃です!」
監視壕の兵が報告してきた。
「距離は?」
「約二里です」
赤い光の軌跡が密林の中から天空に駆け昇り、鋭い唸りとともに軌道を修正しながら落ちてくる。
落下地点は前進陣地のあった地点だ。着弾のたびに橙色の炎の柱が吹き上がった。
「誰もいない場所に撃ち込んでやがる」
誰かが嘲るように呟いたがその声は震えていた。
「法撃中隊が報復法撃を行います」
駆けてきた法撃参謀が伝えた。
後方で赤い光が輝き、密林の彼方に突き刺さって爆発音が轟いた。ラメルの足許の地面が細かく震えた。
「大隊長、壕の中へ!」
曹長が叫んだ。本部壕は掩蓋構築物だ。法撃の直撃にも耐えられる。
「いや、このままでいい」
ラメルは曹長を手で制すると密林を凝視した。
「駄目です。奴ら、移動しながら撃ってます」
監視兵が悔しそうに伝えた。
「連隊法撃群に支援法撃を要請しますか?」
法撃参謀が横に並んで言った。
「わかった。念話兵、エイレンの連隊本部を呼び出せ」
「駄目です。通じません」
念話兵が不安そうな目で告げた。彼女は定期的に連隊本部の念話兵と交信していたはずだ。それが通じないとはどういうことだ?
「どういうことだ?」
「わかりません。実はさっきから呼びかけても応答がないのです」
「まさか連隊本部が……」
法撃参謀が呻いた。
「滅多なことを言うな。後方の敵は軽装備の遊撃隊だけだ」
「伝令を出してみますか?」
曹長が口を挟んだ。しかし、アンテからエイレンまでの間には敵兵が充満している。
「適任者はいるか?」
「うちの隊に二人」
「試してみよう」
思いついたように付け加えた。
「総司令部が偵察に出していた傭兵がいただろう。あの女も連れてこい」
早速壕内から二人の兵士が呼び出された。
二人とも帝国製の墨色の上衣をまとい、背に弩を背負っている。夜戦に慣れた少数民ベベル族の狙撃兵だ。二人とも背が高く夜戦用に墨を塗った顔は双子のように無表情だ。ラメルは二人を品定めするように眺めまわした。
「いいだろう、これならいけそうだ」
満足げに頷いた。
「もう一人はまだか?」
「連れてきました」
曹長が傭兵を連れて駆けてきた。
背丈は五尺七寸ほど、小麦色の顔も短めの金髪も墨で汚しているせいで、赤い瞳だけがやけに目立った。兜の代わりに頭には濃緑色の三角巾を巻いている。ラメルは女の眼を覗き込んだ。石のような眼をしている。長い軍人稼業でこういう目つきの兵士は何人か見てきた。この女なら大丈夫だ。
「所属と名前は?」
「第一外人連隊のスウ軍曹です」
「総司令部直属の長距離斥候だと聞いたが」
「はい」
「今は緊急時だ、指揮系統は違うが力を貸して欲しい」
「はい、わかりました」
ぶっきらぼうな返事だがそれが逆に頼もしかった。曹長が三人に地図を渡した。普段は一般兵には支給されない貴重品だ。もっとも将校以外で地図を読める人間は十人といない。
「お前たちは連隊本部に行って法撃支援と兵員の増援を要請するんだ」
曹長が三人に言った。
「歩哨用の通路を開けておく。すぐそこから出ろ。後は個人の裁量に任せる」
三人の身柄は直ちに警戒陣地を守る兵士たちの手に引き渡され、防御陣地の外に放り出された。闇の中、三人が乗った小舟の櫂が水を掻く音だけが水面から伝わっていたが、やがてそれも消えた。
伝令がエイレンに向かった頃から急に敵の法撃は激しさを増した。一部はエイレンのほうに飛んで行って火柱を立てた。
「法撃中隊に至近弾!」
法撃参謀が報告してきた。
「被害は?」
「軽微です。死傷者なし。予備掩体に移動させます」
ラメルは法撃参謀の腕を掴んだ。
「移動したらそのまま待機させろ。指示するまで撃たせるな」
これ以上効果の薄い敵法撃兵との撃ち合いで消耗させるわけにはいかない。
「それでは……」
敵の法撃が陣地に降り注ぐことになる。ラメルは手を上げて黙らせた。法撃参謀の言いたいことはわかっている。だが主要施設の大半は掩蓋陣地だ。僅かの時間なら堪えられる。
「これは命令だ。急げ」
「了解」
法撃参謀が走り去った。
「すぐに奴らが寄せて来るぞ」
剣の柄を握りしめた。
「各中隊に伝達、全員配置につけ」
急げ、と言いかけた瞬間、黄色い光が輝き、土砂が勢いよく頭上に降りかかってきた。
「何だ!?」
耳が鳴っている。土埃で息ができない。振り返ると本部壕の入口が崩れ、中で火災が発生していた。
「大隊長! 大丈夫ですか!」
曹長が怒鳴っている。その顔は赤黒い血で濡れていた。
「ああ……」
何とか返事をして兜を被り直した。
「他に被害は?」
「一発だけです。運が悪かったんですよ」
「運か」
見上げると悲鳴に似た飛翔音は聞こえなかった。代わりに本物の負傷者の悲鳴が細く長く続いている。
「右の耳が聞こえない」
「え?」
「どうやら鼓膜が破れたようだ」
弱々しく笑った。
「だがまだ左は大丈夫だ」
陣地の外側に法撃が次々に着弾していた。
「平射だな」
敵兵の上げる喚声が聞こえてきた。
「驚いたな。奴ら、正面から直接攻撃を仕掛けてくる気だ」
やっと動揺から立ち直ったラメルは手で千切れた右耳を押さえた。
「我々も舐められたものだな、曹長」
本部壕に直撃を受けたことで、ラメルは戦闘指揮所を法撃中隊の指揮掩体に移動させていた。伝令が慌ただしく走り回る最中も敵の法撃は容赦なく降り注いでいた。主要施設の大半が掩蓋陣地なので被害はたいしたことはない。しかしついにラメルは法撃中隊に法撃を命じた。法撃兵の曲射法撃は敵の報復法撃を誘発する危険性があったが、これ以上何もしなければ味方の士気に関わる。既に本部壕の放棄は他の陣地にも伝わり、兵の間で動揺が走っていた。
法撃兵が念を込めて法撃を開始した。光の軌跡が軌道を修正しながらほとんど垂直に陣地の前方、敵の前衛が潜んでいる辺りに落下し、火柱が立て続けに立った。敵味方の法撃が入り乱れる中、念話兵の叫び声が上がった。
「第二中隊陣地前面に敵兵!」
とうとう来かた。ラメルは交通壕に向かった。その後を念話兵が転げるように走った。
「大隊長、こちらです!」
中隊指揮所の壕の前で第二中隊長が手を上げている。
法撃の飛翔音と着弾音に混じって微かに薄気味の悪い唄が聞こえてくる。アルテラ兵の突撃唱歌だ。内戦が始まって以来何度も聞かされてきた唄だ。
「どこだ?」
「左の柵の後方の斜面に二個中隊はいます」
「よく見えないな」
「火矢を射ちますか?」
「駄目だ。射てば敵の攻撃を誘発する」
背後に控える念話兵に声をかけた。
「魔導予備に伝えろ。三号発動準備だ」
第二中隊陣地前縁に設定した火集点への直接法撃指示だ。
「既に展開中とのことです」
念話兵の答えにラメルは満足げに微笑んだ。あの魔導小隊長らしい素早い反応だ。
「来るぞ!」
誰かの大声。壕の前面にいくつもの法撃が着弾し、爆風で兵士たちが薙ぎ倒された。
「まだ射つな!」
ラメルが叫んだ。四方からアルテラ兵の唄声が巻き起こり、柵の陰から一斉に黒い塊が起き上がった。突撃が始まったのだ。
「射撃用意!」
敵兵は柵を押し倒し、次々に陣地目指して進入してくる。しかし、乱杭に張り巡らされた綱に足を取られ逆茂木に阻まれて先頭の突撃速度が鈍る。続いて突っ込んできた後続の連中と混交し、行き足が止まった。ラメルはその瞬間を見逃さない。
「射ェ!」
待ち侘びていたように一斉に矢の束が次々に中空に飛んだ。敵兵が悲鳴を上げてばたばたと倒れた。しかし、敵の勢いは一向に衰えない。
「畜生、一個大隊どころかその倍はいやがる」
若い中隊長が泣き出しそうな声で呻いた。
矢の雨の中、幽鬼と化した男女の群れは次々に無人地帯を突破し、陣地前面の柵に取りつき始めた。ついに兵たちは弓を平射し始めた。
「侵入してくるぞ!」
「魔導予備に連絡! 三号発動!」
ラメルが念話兵に叫んだ。
ほとんど間髪を入れずに射点についた予備隊の魔導兵が四方八方から水平に法撃を加えた。炎と電と光弾がアルテラの突撃兵の集団を縦横に切り裂く。千切れた人体の部品が飛び交い怒号と悲鳴が交差した。ラメルが目の前で繰り広げられる光と音の地獄を呆然と見つめていた中隊長の腕を掴んだ。
「中隊長! 突撃兵を前に出せ!」
我に返った中隊長が後方に控えていた突撃小隊に手を振った。
突撃兵たちが壕を飛び出し、柵にしがみついている敵兵を次々に刺殺していく。
やがて敵兵の群れは浮足立ち、ばらばらに逃げ始めた。
「敵は後退するぞ! 射ち方やめ! 突撃小隊を下がらせろ!」
なおも矢を射ようとする兵の右手を掴んだ。
「やめろ! 聞こえんのか!」
中止命令で昂奮から醒めた兵たちは、目の前の空間に広がる凄惨な光景に息を呑んだ。法撃の炎に照らされてそこら中に黒い塊が転がっている。柵に引っ掛かっている黒っぽいいびつな塊は引き裂かれた体の一部だ。第一線陣地全縁から最前列の柵の間に遺棄死体がばら撒かれている。法撃の着弾で掘り返された無人地帯はゴミ溜めの様相を呈していた。鉄錆に似た濃い血の臭いと焼肉の臭いが混じりあい風に乗って漂ってくる。
両軍の法撃も止み、取り残された負傷者の呻きと泣き声を除けば何も聞こえない。ここにいる生者全員が自分たちが作り出した地獄に黙然とする中、ラメルは念話兵の肩に手を乗せた。
「各中隊長と魔導小隊長を大至急ここに集めろ、大至急だ」
「いたか?」
湿原の澱みの中で囁くような小さな声がした。
「いや、何も見えない」
もう一人が答えた。
遠くで法撃の爆発音が響いている。時折太い光の筋が夜空に走った。
「ねえ、早く上がろうよ。このままじゃ危ないよ」
女の声がした。
「そうだな」
三つの人影は水草の中に小舟を隠すと、静かに上陸した。三人はそのまま慎重に茂みを搔き分けながらゆっくりと歩き出した。
しばらくして、ふいに最後尾を進む女が声をかけた。
「待って」
「どうした?」
「聞こえる」
その言葉に前を行く二人が反射的にその場に伏せた。夜戦の作法だ。夜の音は地表のほうが遠くまで届く。
「うむ、聞こえるな」
「櫂が水を叩く音だ」
やがて櫂の音が水面を伝わって大きくなり、荒い息遣いまで聞こえてきた。
三人はじっと伏せたまま音の方向を向いて待ち構えた。
舟が二艘、こちらに近づいてくる。
「まさか……」
一人が小さく呻いた。
先頭を行く小舟は武装兵を満載していた。問題は後ろの一艘だ。二本の太い腕木で連結された大型の双胴舟。普通ならこんな湿原で使うような舟ではない。舟体の間に狩りの獲物のように吊り下げられた巨人が見えた。聖騎士だ。槍と盾を持って浴槽に漬かるような気の抜けた恰好で下半身を水面下に沈めている。胸甲の周りに縛りつけられているのは浮力を稼ぐための動物の内臓か何かで作った浮袋だろう。それでも喫水はぎりぎりのようだ。垢取りを使って盛んに水を掻き出している。
「どうするの?」
女が訊いた。
「奴らは後ろに回り込む積りだ、見逃せない」
「やるか」
弩を担いだ二人が頷きあった。
「掩護を頼む」
女にそう言い残すと、二人は手近な木に登り始めた。二人はそれぞれ太い枝に腹這いになると、弩の把手を静かにゆっくりと回し始めた。
女が槍を手に木の手前の茂みの中に静かに這って潜っていった。
やがて鉄の巨人の輪郭がはっきりしてきた。そいつがガンガを蹂躙してシルバ少尉を踏み殺した聖騎士であることを三人は知らなかった。面甲を上げた動甲冑兵が櫂を漕ぐ者たちを低い声でしきりに励ましている。三人は石像のように動かない。ゆっくりと刻が流れた。
やけに大きな風切り音が鳴った。僅かに遅れてもう一つ。
「!」
声にならない悲鳴。急に闇の中が沸き返った。動甲冑の騎槍を握った右手が大きく動き、穂先が吼え始めた。けたたましい発射音とともに吐き出された馬鹿でかい光の箭が次々に周囲の茂みに撃ち込まれた。運悪く射線にいた漕ぎ手の体が血飛沫を撒いて砕け散った。着弾の列の後を追うように矢が飛んだ。
しかしそれも長くは続かなかった。平衡を崩した動甲冑兵は自らを吊るしていた腕木をへし折り、沈黙した槍を空に向けて双胴舟を道連れにゆっくりと沈んでいった。浮袋から空気が抜ける間抜けな音が響いたが、それもやがて止んだ。沈みゆく双胴舟から飛び降りた漕ぎ手たちが悲鳴を上げながら前を行く小舟に泳ぎ寄った。
突然しゃがれ声が上がり、小舟がゆっくりと後退していった。後退命令が不服なのか、依然として弓を射る者もいたが、しかしすぐにそれも止み、小舟は闇の中に消えた。
光箭で引火した枯れ草が燃えている。ベベル・エルフの狙撃手二人がよじ登った太い木は光箭に引き裂かれて根元近くで真横に折れ曲がっていた。
遠くで法撃の着弾音が聞こえる以外は時間が凍ったように動かない。しばらくしてよろよろと人影が起ち上がった。頭上の法撃の軌跡が発する微かな光を受けて輪郭が浮かび上がった。女だ。引き裂かれた軍衣が襤褸切れのように体に纏わりついている。
「ぷう」
女は溜息をついて自分の体を両手で撫で回して異状を確かめながら軍衣の切れ端をむしり取った。頭に巻いた三角巾と革足袋を履いただけの裸身が露になった。枯れ草の火を反射して胸に提げた認票が鈍く光った。女はその格好のまま身を屈めて崩れ折れた木に近づいた。上半身をずたずたにされた死体が草むらに飛び散っている。もう一人を探して女が周囲を見回した。血の臭いが強くて鼻が利かない。
闇の中で微かに押し殺した呻き声が上がった。
「どこ?」
身を屈めて女が小声で呼びかけた。返事はない。しかしすぐ見つかった。折れた枝の下に倒れていた。
「しっかり」
抱き起こして傷を確かめた。腹に大穴が開いて腸が引き千切られている。ポーションでも助からない。
「聖騎士……どうなった……?」
狙撃手が縋るように女の手を握って抑えた声で訊いた。
「沈んだよ」
「私……聖騎士殺した……手応え……あった……」
血の泡を吹きながら微笑んだ。
「うん、やったよ」
片方の手で狙撃手の頭を掻き抱いた。
「隊長に……伝えてくれ……」
「うん、伝える」
狙撃手は安心したように目を閉じた。
「他に何か言いたいことある?」
女は優しく囁いた。
「ナージ……聖堂の……巫女……名はコナ……」
目を閉じたまま狙撃手が呟いた。
「伝えてくれ……謝っていたと……」
「うん、伝える。どんな人?」
「子供を……産ませて……しまった……」
笑おうと顔を歪ませたまま狙撃手は事切れた。
「絶対に伝えるよ」
思わず眼を閉じて狙撃手の頭を両手で抱き締め、形のいい豊かな胸に押しつけた。静かな時間が流れた。やがてそっと地面に降ろすと傍らの弩を拾い上げた。台座が真っ二つに折れて弓部も捻じ曲がっている。黙って投げ棄ててて矢筒を探したが見当たらなかった。
諦めた女はさっき剥ぎ棄てた軍衣の端を拾い集めると腰と胸に巻きつけ、ちょっと考えてから認票を胸の谷間に押し込んだ。雑嚢を拾い上げ中を確かめる。中身は短い山刀と渡された地図それにポーション。ポーションの瓶が割れて大事な地図が濡れていた。
「むー」
小さくぶうたれると、割れた瓶を棄てて背嚢を肩から提げた。それから槍を拾い上げ、折れた大木を振り返った。
「埋めてあげられなくてごめんね」
そう言い残して女は闇に溶けた。
中隊長たちが集まったのを確かめたラメルは、集合の報告も聞かずに話し始めた。
「よく聞いてくれ。敵は今の反撃で相当な損害を受けた」
損害、という言葉が周囲に聞こえるようにわざと大きな声で言った。
「しかし次はもっと大勢で寄せてくるだろう。柵も陣地も強度がかなり低下している。さっきの連中は障害を除去し、こちらの配置を探るための自殺部隊だ。次はもっと強力な連中がやってくる。そこで」
周りを見回した。全員が息を詰めてラメルを見つめている。
「第二中隊を後方の第二陣地線まで下げる。第二陣地線は柵も壕もまだ健在だ。こんなこともあろうかと陣内にも火集点を設定しておいた」
魔導小隊長が静かに頷いた。
「動甲冑が出てくるのですか?」
中隊長の一人がおずおずと尋ねた。
「十中八九出てくる」
ラメルは断言した。
「奴らも必死だ。しかし朝には後方から連隊の増援が来る」
「しかし第二陣地線の背後は湿原です。縦深が足りません」
作戦参謀が口を挟んだ。
「動甲冑兵が湿原を渡れると思うか?」
「いえ……」
「沼と泥濘地を重い動甲冑が移動しようとしても沈むだけだ。動甲冑兵が出てくるとすれば正面からだ。つまりここの前面に出てくる」
「わかりました」
作戦参謀が俯いた。
「魔導予備隊は第二陣地線後方の緊急集合地点で待機だ。第二中隊が下がるために第一中隊は突角になる。第四中隊は一個小隊を抽出して第一中隊の西の予備陣地に入れろ。第一中隊は第二中隊に寄せる敵を側射できるように射点を準備しろ」
「了解」
「いいな、次の攻撃を防ぎ切れば我らの勝ちだ」
それからラメルは全員に陣地変換の手順を伝えるとただちに行動を開始した。
各壕に伝令を出し、三名一組で後方に脱出させる。後送品の優先順位は矢、医薬品、食糧。兵たちは担げるだけの荷物を担いで息を殺して順番に壕を放棄していった。
潮が引くように第一陣地線から人影が消え去った直後、再び密林の中から法撃の飛翔音が響いた。着弾の爆発の向こうから再びあの唄が低く聞こえ始めた。
「第一中隊前面に敵影!」
「第一中隊より報告。壕内に直撃、損害軽微」
監視壕の中に伝令の声が響いた。
「奴ら、一人前に両翼から時間差攻撃する積りだ」
ラメルは片頬を歪めた。
監視壕の傍の弩砲の掩体の入り口で声をかけた。
「大隊長」
弩砲長が顔を出した。
狭い掩蓋掩体の中で弩砲に砲手と装填手二名が取りついている。
「東側を監視しろ。敵が進出してきている。敵影を確認したら叩き込め」
「了解」
高く間の抜けた音が響いた。狐狩りに使う古風な鏑矢の音だとラメルは思った。唐突に四方から唄声が沸き起り、法撃音を圧して戦場にこだました。
「凄い数だ!」
第一次攻撃の数倍の人数が無人地帯に姿を現した。
堪え切れなくなった少数の兵が弓を射始めた。
「やめさせろ! 我々の後退を悟られるぞ!」
伝令が連絡壕の奥に走り去った。
敵の法撃が飛翔音とともに飛来した。そのうちの数発が壕内に着弾し、兵の悲鳴が上がった。
「いいぞ、奴ら魔力切れを起こしてる」
法撃の間隔が広くなっていることに気づいてラメルは小さく笑った。
「敵が第一陣地線の柵に取りつきました!」
その声にラメルは立ち上がった。黒い塊が柵の列を飲み込み、第一平行壕まで溢れ出そうとしている。
後ろの念話兵を振り返った。
「法撃中隊に伝達。第一陣地線に全力法撃だ」
数瞬の後、後方から頼もしい飛翔音とともに次々に赤光の軌跡が中空を翔け、そのまま垂直に近い角度で着弾した。悲鳴とともに吹き飛ばされたアルテラ兵の体の一部が壕の前縁に降り注がれた。
「その調子だ。着弾点に合わせて各自弾幕を張れ」
待ち構えていた兵たちが弓を構え、次々に矢を放った。
それでも黒山のような人の波は止まらない。
「魔導予備に連絡。射点に進出して法撃しろ」
もう動甲冑兵が出てくるのを待っていられなかった。ここを突破されるわけにはいかない。
「警戒線に敵が進出しました!」
作戦参謀が悲鳴を上げた。
「落ち着け」
ラメルの言葉に応えるように法撃中隊の法撃が次々にアルテラ族の突撃部隊を吹き飛ばした。
やがて魔導予備隊の直接法撃が加わり、敵の進撃速度が鈍った。大根おろしに頭から突っ込んでいく大根のようだ。ただしこの大根の中身は赤い。
「いいぞ、支え切れる」
ラメルはほくそ笑んだ。
「第二中隊左翼が突破されそうです」
「本部要員、すぐ穴を塞げ」
気がつくとラメルは監視壕で一人ぼっちになっていた。頭上を怒号と絶叫の戦闘騒音が交錯している。何故か急に孤独を感じた。名状し難い恐怖が足許から這い上がり、思わず両手で自分を抱き締めた。恐怖から逃れるために監視壕から出ようとしたその時、悲鳴の中で誰かの声がした。
「後方に敵動甲冑兵!」
そんなはずは。
さっきまでの得体の知れない恐怖は霧散していた。周りを見回した。念話兵がいない。突破されかかった壕へ本部要員全員を増援に送り出したのを思い出した。自分がそう命じたのだ。法撃中隊の掩体に向かって走り出した。大丈夫だ、あそこは掩蓋陣地だ。防壁魔導兵も配置している。
法撃掩体の手前で足が止まった。ラメルは信じられない光景を目撃した。
動甲冑兵が二体、柵を押し倒しながらゆっくりと土手を這い上がってくる。後方陣地から矢が飛ぶが、そんな小さな抵抗には無関心な様子で歩みを止めない。その後方には一個中隊ほどの随伴兵が続いていた。無駄と知りつつ兵たちは矢を射続けている。
やがて法撃中隊が直接法撃を開始した。爆発が動甲冑兵を包む。しかし魔法の防壁を崩すには火力が足りない。盾を構えた動甲冑兵は微動だにしなかった。ようやく土煙の中で動甲冑兵が足を止め、槍を法撃中隊の掩体に向けた。
駄目だ、危ない。
ラメルの危惧を察したのか、掩体の正面に魔法の防壁が展開するのが見えた。
二本の騎槍の先から光の洪水が迸った。凄まじい轟音が続いて辺りを支配した。防壁が持ち堪えられたのはほんの僅かな時間だった。光の箭の束はそのまま法撃中隊の掩体壕に注ぎ込まれ、それが完全に撃ち砕かれると、今度は周囲の壕を舐めるように掃射しはじめた。光箭の集中射撃で塹壕が崩れ、甲高い悲鳴が上がった。
「畜生」
ラメルは交通壕を駆け、手近な退避壕に飛び込んだ。法撃の直撃を受けたのだろう。中は死体とゴミの山だ。
突然、ゴミの中からゴミの塊のような得体のしれぬ何かが起き上がった。喚声を上げて彼に飛びかかってきた。槍の穂先が見えた。ラメルは危うくそいつを躱して壕の側壁を背に身構えた。
こいつは敵か!
腰の剣を抜く。錆びた穂先が再び襲ってきた。左に体をさばいて受け流した。穂先が土壁に突き刺さる。慌てて槍を引き抜こうと腰を引いた敵兵の背中に深々と剣を突き刺した。
剣を抜こうと敵兵の背中に足をかけたとき、壕の縁から第二の敵が現れた。そいつは声も上げずにラメルの胸に向かって穂先を突き出そうとした。駄目だ。間に合わない。そう思った瞬間に風切り音がして敵兵が前のめりに倒れた。背に矢が立っていた。
「大隊長!」
血塗れの小隊長が弓を構えたまま叫んだ。第四中隊の小隊長だ。
「有難う、少尉、助かった」
少尉が駆け寄ってくる。
「陣地後方に動甲冑兵が二体侵入した!」
悔しそうに怒鳴った。
「まさか……」
顔の血を拭う手を止めて少尉が絶句した。
「側面は低湿地帯です。一体どうやって」
「わからん、法撃中隊がやられた。魔導予備の集中法撃が必要だ。こうしている間にも奴らは後方陣地を蹂躙している」
「駄目です。魔導小隊は敵の人海の波に呑まれました。生き残りの魔導兵も敵を支えるのに精一杯です」
「第四中隊長は?」
「中隊長は戦死されました」
壕の外で大きな歓声が聞こえた。
「何だ」
「陣地正面です」
壕をよじ登った二人が見たのは断末魔に喘ぐ正面陣地だった。
悪鬼のようなアルテラ兵の群れが最後の柵を突破して防衛線正面を駆け抜け、あちこちで守備兵たちと揉み合いを始めている。アルテラ兵の波は第一平行壕を呑み込み、第二壕の胸壁に取りついていた。
乱戦の中で弓を構えている者は僅かだった。誰もが槍、円匙、鶴嘴その他様々な道具を振るって血みどろになって戦っていた。
ラメルは呆然とその光景を見ていた。彼は自分の陣地が組織的防衛力を喪ったことを悟った。
やがて敵の中央部が雪崩を打って第三壕に侵入してきた。それに押されて守備兵はじりじりと退き始める。後退の列に取り残された兵士が四方八方から突き出される槍に引き裂かれて宙に放り出されるのが見えた。
守備兵の後退は自然発生的なものだった。指揮官は存在しなかった。兵たちは兜を捨て、装具を捨て、ついに武器まで捨て始めた。組織的な後退など望むべくもなかった。
「引くな! 戻って戦え!」
少尉が大声で叫び、そのまま敵味方の真ん中に駆け入った。
止める間も無かった。
胸壁の上から数名の敵兵が弓を構えた。
蛮声を上げて白兵戦のど真ん中に飛び込んだ少尉は、額と頸部を至近距離から射ち抜かれてそのまま泥の中に頭から突っ込んだ。
この高所からの射撃が守備兵の現場放棄に拍車をかけた。
大部分の兵が身一つになって後方に走り出す。その群れに向かって容赦なく矢が射ち込まれた。
もはや壊滅的な敗北を蒙ったことは明白だった。
「朝まで」
彼は呻いた。朝まで持ち堪えれば日が昇り、連隊主力が救援にやってくる筈だったのに。
ラメルは老練な将校らしく単身脱出を決意した。彼は駆けながら兜を捨て、階級章を毟り取った。他の兵士たちと同じように後方には向かわなかった。後方には敵の浸透兵が充満している。それに何よりあの動甲冑兵が待ち受けている。右翼だ。湿原を泳いで抜けるしかない。彼は走った。
両軍の死体で充満した警戒陣地を抜けたラメルはそこで足を止めた。湿原までの泥濘地にクル族の兵士の死体が転がっている。全員がばらばらに引き裂かれていた。
「貴様か!」
ラメルが叫び声を上げた。泥地の奥に巨大な甲虫が蹲っている。方形の盾と槍を構えたその姿は、昔芝居で見た橋の騎士のようだ。敗走する味方を守るために橋に残ってたった一人で殿を務めた騎士の話だ。悪い冗談だ。ラメルは苦笑した。背後にアルテラ兵の一団が迫っているのが見えた。絶体絶命だ。歴戦の将校であるラメルはこういう時の対処法をよく心得ていた。正々堂々、胸を張って、せめて笑って正面から死を受け入れるのだ。今がその時だった。ラメルは剣を抜き、ゆっくりと聖騎士に向かって歩き始めた。動甲冑兵が半身になって槍を突き出しゆっくり狙いを定める。だしぬけに穂先が鈍く光ってそれがラメルが最後に見た光景になった。
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