第6話前篇 外伝 帝国継承戦争カルフィール戦役編 約束の地
木々に取り囲まれて肩身が狭そうに立ち尽くす小さな褐色の丘の裾を河がゆったり流れていた。朝靄が吹き払われ、熱帯雨林特有の強い日差しが辺り一帯を灼き尽くす勢いで降り注いでいるというのに、河面にはいまだ乳白色の靄が立ち込めていた。
丘の裾を囲む低い灌木が岸辺の砂地と接し、河が大きく蛇行する辺りに黒い塊が大量に散らばり、盛んに白い煙を噴き上げているのだ。
男はそこまで確認すると、我慢できなくなって軍衣の襟元を寛げて汗疹だらけの胸を盛んに掻きむしった。やがて小さく舌打ちをくれてもう一度河に目を凝らした。
煙を噴いているのは鋭い舳先をこちらに向けた小舟の群れだった。ざっと三十はあるだろうか。あるものは河岸近くの茂みの中で、あるものは河の中州で、あるものは船首を水中に半分没して燃えていた。炎以外に動いているものはなかった。
小舟の周りに散らばった物体に目を向けた。
エルフの死体だった。
みすぼらしい襤褸を身にまとい、靴を履いている者も僅かだった。痩せ細った白い脛がやけに目立った。エルフは成年に達すると加齢による容姿の変化が止まるため、外見から年齢を推し量ることはできないが、目の前の死体は全員がまだ若く、中には子供と言っていい者もいた。
彼らは小舟を漕ぎ出してこちら側の岸に達着した瞬間に狙われたのだ。小舟の横に倒れている者たちは得物を構えた形跡もなかった。ある者は小舟の中で全身に征矢を何本も突き立てられて息絶えていた。死骸の中には女も少なくなかった。肋の浮いた胸に盛られたささやかな乳房が陽光の下に晒されている。エルフの莫迦野郎どもめ。女まで戦に駆り出すとは。風習の違いと頭で理解していても胸がむかついた。
「失礼します。ファルケン大尉」
後ろから声がした。
「うむ」
河面から目を離さずに男が答えた。
交通壕からファルケンと同じ淡緑色の熱帯用軍衣に身を包んだエルフが姿を見せた。軍衣の肩に下士官章を縫いつけたそのエルフの手には大きな湯呑が握られていた。
「茶が切れてしまったので……」
申し訳なさそうに湯呑を差し出した。
「気にするな。ありがとう、クーン軍曹」
微笑んで受け取った湯呑を覗き込むと中はいかにも不味そうな黒茶だった。口が小さく悲しそうに歪んだ。
「昨夜はひどい騒ぎでしたね」
クーン軍曹が棒杭の間から岸を眺めながら言った。
「連中も必死だからな」
ファルケンが湯呑の黒茶を一口啜った。本当に不味くて驚いた。その殺人的な黒茶を淹れた張本人のクーンはじっと河を窺ったまま身動きもしない。
そのまま二人は立ち上る煙を眺め続けた。
「鳥が来てますね」
クーンが口を開いた。奇妙な声が聞こえてきたがファルケンが気にも留めなかった。戦場で場数を踏んできたファルケンには、それが腐肉の臭いを嗅ぎつけた猛禽類の鳴き声だとわかっていたからだ。木々の枝に大量の鳥が羽を休めていた。煙が去るのを辛抱強く待っているのだ。煙が消えれば鳥たちは一斉に舞い降りてエルフの死肉を漁るはずだった。鳥たちはまず最初に死者の眼球を喰らい、次に肛門からはみ出した大腸を、そして開いた傷口に嘴を突っ込むのだ。鳥たちが枝から飛び立たず動かないのはいい徴候だ。それは樹上に敵が潜んでいないことを示しているからだ。樹木に潜む弓兵の狙撃は最も警戒すべきエルフの常用戦法の一つだった。
「地獄絵図だ」
クーンが悲し気に呻いた。
ファルケンはようやく自分の忠実な従卒が、岸に襤褸切れのように折り重なっているクル族と遠縁のククル族の出身だと思い出した。
「同情は無用だ」
言いかけてファルケンは口をつぐんで言葉を呑み込んだ。そんな事を言われなくても軍曹は百も承知の筈だ。
この地でこれから先も生き延びていくには、革命政府の無理難題を無条件で受け止めていくことこそ少数民族ククル・エルフの生き残る唯一の道だとファルケンに教えてくれたのはこの男だった。
アルテラ族の革命政権がクル族を叛徒と名指しして討ち滅ぼせと全土に命令を発した以上、例え遠戚関係のククル族といえども従わなければ我が身に災いが降りかかることは、クーン自身が一番よく知っていることだった。
ファルケンは湯呑に溜まった黒茶を喉に流し込んだ。相変わらず不味かった。
「それにしても本当にひどい騒ぎだったな」
ファルケンが顔をしかめた。
実際昨夜の戦闘は内戦始まって以来十指に入ろうかという激戦だった。
河の民ククル・エルフに下流の渡河点を抑えられて退路を断たれたクル・エルフは、昨夜、ファルケン大尉の監視陣地に対して大隊規模の渡河攻撃を仕掛けてきたのだ。エルフは近接戦闘に弱いという帝国軍人の常識に背いた行動にファルケン以下兵士たちは動揺した。クル・エルフは矢戦を挑まず、剣と槍を手に遠岸の前哨陣地を奇襲したのだ。
瞬時に前哨陣地を奪ったクル・エルフは数名の法撃兵による支援法撃の下で岸辺の茂みに隠していた小舟を運び出して対岸一帯に兵力を展開した。
だが、彼らの優位もそこまでだった。正確に渡河点を察知したファルケンは闇の中で弓兵や弩砲を陣地変換させて渡河点を射界に収めていた。
やがてクル族の小舟の最初の一隻が近岸に乗り上げた瞬間、ファルケン自らの手で火矢が射ち込まれ、それを目印に弓兵と弩砲が一斉に射撃を開始した。
一瞬にして河岸は阿鼻叫喚の地獄と化した。
クル・エルフの奇襲兵たちは左右から飛んでくる矢に次々と射ち倒された。
それでも数の優位を信じる彼らは怯まなかった。次々に喚声を上げて丘の裾に並んで植えられた柵に体当たりして押し倒そうとした。そこに長柄を構えた突撃兵の隊列が襲い掛かってクル・エルフの素人兵たちを押し返した。だがクル族も諦めなかった。彼らは態勢を立て直すと何度も波状攻撃を仕掛けてきた。
数刻の激闘の果てに東の空が白み始めて、クル・エルフたちはやっと我に返った。払暁の薄明りの中で自分たちが魔女の鍋で煮られていることに気づいた彼らは、口々に悲鳴を上げ、指揮官の制止も聞かず我先に森の奥へ壊走していった。
後には燃え上がる小舟と数百の引き裂かれた死体が川砂の上に残されていた。
「大尉!」
背後の物見櫓から声がした。
「大尉、こちらに来てください」
帝国陸軍に雇われた傭兵であることを示す黒線を袖につけたビーストマンが手を振っている。
ファルケンとクーンは梯子に足をかけた。
櫓には既に手の空いていたティグレとライノスが立って小手をかざしていた。
「大尉のおっしゃる通りでした。一里ほど上流で渡河が始まっています。すごい数です」
「やはり陽動だったか」
「はい、こいつらは囮です」
ビーストマンの指した方向にかすかに土煙が上がり、河を黒い帯が橋のように横切っていた。河を渡ろうとしている人の群れだ。
「まるで鼠の群れだな」
ティグレが面白くもなさそうに呟いた。
「二万、いや三万はいるな」
ファルケンが目を細めて言った。
「首都から来た連中か?」
「恐らくそうだろう」
「追撃しますか? 法撃兵も温存しています」
若いライノス少尉が口を開いた。
「やめておけ。陣地の位置が悟られる。あれだけの数が寄せてきたらひとたまりもないぞ」
ライノスが不満げに土煙を睨みつけた。
「ライノスは昨夜が初陣でまだ頭に血が昇っているのさ」
ティグレが苦笑いした。
「出番がなかったじゃないですか」
「俺たちは予備だ。防御戦闘の要は予備兵力だと学校で習わなかったのか?」
ティグレが宥めたがライノスはまだ不満げだ。
「わざわざ我らが手を下すことはない」
ファルケンは吐き捨てるように言った。
「奴らは自分から罠に逃げ込む鼠の群れだ」
太陽が中天に近づきつつあった。
突き抜けそうな濃い青空の下、カルフィール・エルフ王国領と帝国領の北の境界線から南に十里ほど下ったところにその山は屹立していた。この地に棲まうエルフたちの精霊信仰の象徴、ミクラス山だ。
クル・エルフの群衆はその聖なる山の麓、クル古族の故地に向かって土煙を巻きながらゆっくりと移動していた。誰もがこの高原に入ればこの理不尽な悲劇から逃れられると信じていた。
持てるだけの荷物を持ち、連れて行けるだけの家畜を連れた一部の遊牧民あがりを除いて、力が残っているのは数万人の敗走者の中でほんの一握りだけ、首都で馬付きの有蓋馬車を手に入れることができた政府の高級官吏たちだった。彼らは首都で接待や自らの遊興のために使用していた官有馬車に積めるだけの荷物と家族と使用人を満載して行列の中ほどを進んでいた。
しかし、人々を待ち受けていたのは失望と絶望だった。高原への道の途上にある家屋は全て先行したクル族の軍人たちによって徴発を受け、井戸には毒か糞尿が撒かれ、または反政府軍の空撃で破壊されていた。彼らの運命を予言するように道端には壊れた馬車と人馬の死骸が所狭しと横たわっていた。首都から高原へ至る数十里の山道に累々と並ぶ死者とその横を通り過ぎる生者の列は上空から見れば黒い帯のように見えるはずだった。
時折、アルテラ族を支援する帝国の航空竜騎兵がこの帯を目当てに飛んできて、暇潰し半分面白半分にブレスを吐いて去っていった。いつも真っ先に狙われたのは荷物を満載した高級馬車と巻き添えを食った足弱の老人や子供たちだった。
破壊された馬車と死骸は飛竜が飛び去ると道傍に押し出された。動かなくなった馬は死肉が切り取られてたちまち骨と皮だけになった。凄惨な退却行を強いられている後続の人々にとって、それらは同情の対象ではなく、単なる路上の障害物だった。
疲れきった男女があちこちで死者の隣に座り込んで諦めきった目で一点を見つめていた。一度足を止めて腰を落としてしまったらもう立ち上がることも歩き出すこともできなかった。誰も声をかけないし手を貸そうともしない。皆先を急ぐのに精一杯だった。空には死臭を嗅ぎつけた無数の鳥が弧を描いて飛び交っていた。
行列の先頭から中軍にかけてがこの有り様なのだから最後尾がどんな目に遭っているのか大体予想がついた。馬車など手に入らず、頼るものは自分の足だけの貧しい人々は、血に飢えたアバイユ将軍麾下の騎兵の蹄がいつ自分たちを踏み殺すかと怯えながら萎えた足を懸命に動かし続けていた。
彼らの多くが数日間何も口にしていなかった。ただでさえ乏しい水源地は先行する人々によって飲み尽くされ、たまに残っている水場には行き倒れた死体が浮かんでいた。渇きに勝てず喉を潤した者にはチフスや赤痢の運命が待ち構えていた。
逃避行も中盤に差し掛かると更なる苦難が彼らを襲った。長い敗走の果てに汚れ破れて襤褸になった彼らの衣服は、熱風の吹く平地ではまだ我慢できた。しかし、山道に入り高度が上がると、夜の冷気が彼らを苦しめ始めた。死んだ同胞の衣服を剥ぐことができた者は幸運だった。昼夜の寒暖の差によって感冒患者が続出し、飢えと強行軍で体力の尽きた者から次々と命が奪われていった。
こんな艱難に直面しながらも、クル族の都市生活者たちはひたすらに山を目指していた。キリアス・アバイユ将軍とその手下どもに掌を見せ慈悲を乞う積りは毛頭なかった。クル・エルフは老人から幼児に至るまで、アルテラ・エルフが捕虜をどう扱うかよく心得ていた。平原の遊牧民だったアルテラ族の残虐ぶりと好戦的な性格は帝国全土で有名で、その評判によって戦前は帝国軍の傭兵として重宝されていた。
アルテラ・エルフは勝利の美酒に酔わんがためにはどんな蛮行でもやってのけるのだ。首都に残ってアルテラ軍を迎えた同胞の末路の噂が逃避行の列に伝えられたときも、皆怒りも悲しみも示さなかった。
だから彼らクル族はひたすらに山を目指した。ミクラス山の麓、彼らの聖域に入り、この内乱が収まるまでじっと首を竦めていれば、いずれアルテラ族たちも熱病じみた戦争の興奮から醒めるだろう。それまでは高原の精霊、クルの祖神が守ってくださる。クルの民はその一点のみを信じ彼らの約束の地、山を目指した。
「先生、見てください。また来ましたよ」
誰かが呼ぶ声がしてウェルドは午睡から引き戻された。
日差し避けに顔に乗せた薄布を取って薄目を開けて顔を上げ、藤の寝椅子から上体を起こした。首筋に不快を感じて掻きむしった指先にべったり土が付いている。それも当然だった。彼は路上に寝ていたのだ。場所も悪い。大通りに建てられた緑門の交差点脇だ。ウェルドがこの粗末な軍用天幕に居を定めて二週間経っていた。
宿屋の二人部屋を軍の野戦衛生隊に追い出されたウェルドは、現地雇いの助手のシャンテと共に宿の中庭で三日間ごろ寝した末に宿から一町ほど離れたこの場所に移った。野宿であることには変わりなかったが、シャンテのおかげで不自由しなかった。この天幕もシャンテが軍に掛け合って手に入れてくれたものだ。更にどこから調達してきたのか、鍋、薬缶、燭台、顔を洗うための湯桶、銀の皿まで揃っていた。この寝椅子もそうだ。一番有難がったのは洗濯物を干すための細引だった。
ウェルドは立ち上がって町の外れを眺めた。防御陣地の向こう側にたくさんの人影が見えた。誰もがうなだれて力なく座り込んでいる。
「一万、いや二万以上いるな」
「すごい数ですね。町に入れたら大変ですよ」
「すぐには入れないだろうさ」
町には彼らを受け入れるだけの余地がない。既に宿屋、役所、病院、学校、教会、果ては屋根すらない広場まで難民で溢れている。
「あれだけ大勢だと伝染病を抱えた者もいるだろうし反政府側の工作員も混じっているはずだ。いくらエルメダス王がお人よしでもそこまで馬鹿じゃないさ」
「これでまた食糧が不足しますね」
三週間前から戦時体制に移行したせいで食糧は全て配給制になっていた。
「安心しろ。俺達には外国人特権がある」
特権を享受しているとはウェルドも信じていない。シャンテがどこからか調達してくれる食糧がなければ飢えていただろう。今も午睡を楽しんでいたのは体力の消耗を少しでも防ぐためだ。
「水を貰ってきます」
そう言うとシャンテは桶を手に出かけてしまい、一人残されたウェルドは突き抜けそうな空を見上げた。もう一度寝ようとも思ったが寝れそうにない。こんな状況になって初めてウェルドは寝るにも体力が要ると知った。
所在なげに通りを見回した。通りのあちこちに難民がうずくまっている。皆体一つでこの町に逃れてきた人たちだ。飢餓が進行した街角には子供が遊ぶ声すらしない。日に一度食料配給所に並ぶ以外はずっと一つ所に座り込んだまま動かない。ウェルドと同じように寝ている者も多かった。絶望的だな、そう思ったがウェルドはどこか楽天的だった。自分が帝国籍でしかも帝国政府に奉職する人間であるからだ。しかしそれも人々の間で膾炙される話を聞くにつれて怪しくなっていた。首都を攻略された際に帝国教会の修道院がアルテラ軍に略奪され、修道士の首級が蹴戯の球がわりにされ、修道女が寄ってたかって慰み者にされた上に吊るされたという噂はどうやら事実らしかった。それでもウェルドがまだ事態を他人事のように軽く見ているのは、彼もまた窮地にあって楽観論にしがみつく人間の心理から逃れられないことを示していた。
数人のクル・エルフの兵士が歩いてくるのが見えた。今や戦時体制のこの町では珍しいことではないが、このご時世なのにやけに装備が整っている。軍衣の上に簡素な胴鎧を引っ掛け、よく磨かれた半球形の兜は帝国軍歩兵用兜の複製品だろう。王室の警備隊か官庁付の部隊だと見当をつけた。彼らはウェルドの姿を認めるや一直線にこちらを目指してきた。訝しむ顔で出迎えたウェルドに指揮官らしい兵士が声をかけた。
「帝国外務省普請技術指南役ウェルド・サキ様、ですね」
「ああ、私だが、何か?」
「外務大臣ザール・ロコルから召喚状です」
差し出された書状に目を落とすと確かに外務省公用文書の書式だ。
「悪い話なのかな?」
「間者の連行にいちいち大臣が署名したりしません」
クル族の兵士が面白くなさそうに笑った。
「いつ行けばいいのかな?」
「今すぐです」
「わかった。支度するから少し待っていてくれ」
大きく伸びをすると小屋の奥の行李から紺色の上着を引っ張り出して袖を通した。帝国の文官を示す制服だ。これもシャンテがエゴノキの実を籠一杯に見つけてきてくれたおかげだ。貧乏人がエゴノキの実を石鹸の代用品にしていることをウェルドはその時まで知らなかった。皺だらけなのは我慢しなければならない。流石に茅葺小屋では寝敷きできない。
「先生、どちらへ行かれるのですか?」
水で満ちた桶を両手に戻ってきたシャンテが上着の釦を留めようと悪戦しているウェルドに訊いた。
「聖堂に行ってくる」
町の奥へ目を向けた。クルの祖霊を祀りクル族の精神的支柱である聖堂は今では臨時王国政庁になっていた。その向こうに冠雪したミクラスの霊峰が見えた。
「お供しましょうか?」
「いや、それより留守番を頼む。この前のようなことがないように気をつけてくれ」
この前のこととはシャンテが物資調達に出かけていた間にウェルドが宿屋に水を分けてもらいに行ったときのことだ。僅かな間に大鍋と燭台と毛布が盗まれ、なけなしの干魚が食い散らかされていた。
残された足跡は裸足の子供のもので、どうやら下手人は近所に住み着いた難民家族の子供たちらしかった。しかし、その家族と顔見知りになっていたウェルドは深く追求することができなかった。何より困窮した人々の目の前に餌をぶら下げたウェルドに落ち度があったのだ。
「では後を頼む」
そう言って襟元の釦を留めると背筋を伸ばして大股で聖堂に向かって歩き出した。その周囲を兵士たちが守るように進む。まるで要人扱いだ。思わず苦笑が漏れた。下半身は膝までの下衣に革草履を引っ掛けただけのいかにも滑稽な恰好だが仕方ない。この町は戦時下にあるのだ。
大臣執務室の前の椅子に座ってどれくらい経ったか。ウェルドは壁の染みを数えることに飽きてきていた。案内してくれた兵士はここで待つよう言い残してどこかへ行ってしまった。周囲を見回すと書類の束を抱えた下級官吏たちが忙しく立ち働いている。彼らの衣服が埃まみれ皺だらけなのを除けば小さな町の役所と変わりない風景だ。もうすぐ敵が攻めてくるというのに何たる官僚組織の強靭さ、いや愚直さだろうか。彼らを眺めながらウェルドは一種の感動を覚えた。
唯一の例外は控室の前で屯ろしている二人の傭兵だった。
二人とも洗濯が行き届いた灰色がかった濃緑の軍衣の上に革の胴鎧を着込んでいる。政情不安な小国にはお馴染みの連中だ。
一人は幅広の剣を腰に吊るした背の高い金髪の若者、もう一人は短杖を馬手差にした小柄で長い銀髪のダークエルフの女だった。エルフの土地にダークエルフがいるのは珍しい。多くのエルフはダークエルフに対して種族的嫌悪を隠そうとしない。そんなダークエルフを雇わなければならない程にこの政府は追い詰められているのだろう。ダークエルフの女にしては貧相だ。一般にダークエルフの女性はもっと豊満だ。
やがてダークエルフの女傭兵が控室の中から手渡された紙面を読み上げた。
「帝国外務省普請技術指南役ウェルド・サキ殿、どうぞ」
声がかかった。
立ち上がって控室に入るとダークエルフが近寄って手早く服の上から手を当てて検査した。
「結構です。何もお持ちじゃありませんね、指南役殿?」
「帝都仕込みの破城槌以外は何も」
自分の腰を指さして片目を瞑った。調子に乗って下品な冗談を飛ばしてから後悔した。そっとダークエルフの顔色を窺った。
さっきまで事務的だったダークエルフの顔が和らいだのでそっと安堵した。ダークエルフはその性淫蕩にして多情という噂は本当だったらしい。
「プラウの色街で鍛えたの?」
急にダークエルフの態度が親しげになった。
「十一番街通り専門でね」
帝都の中級娼婦が集まる通りの名だ。
「上品なのね。でも」
ダークエルフがにっこり笑って続けた。
「初対面の女の子にそんなこと言ったら足首を砕かれても文句言えないわよ」
ダークエルフの女傭兵が執務室の扉を叩いた。
「帝国の技術指南役サキ殿です」
クルの聖堂の紋章が彫り込まれた分厚い扉が開かれて、小柄なエルフが顔を出した。
「どうぞ、こちらへ」
部屋の中には高位の聖職者が使っていたであろう大理石の机が鎮座し、その上に書類が山をなしている。
エルフの役人が文箱が乱暴に積み上げられた部屋の奥にウェルドを案内した。
「大臣閣下が直接お会いになられます」
そう言うと奥の扉を開けた。
窓帷が閉められた薄暗い部屋だった。奈落の底に踏み出すように足を前に出した。革の草履が深々と沈んだ。高級な絨毯を敷いているのだろう。金がかかっている。しかし何故かウェルドは十一番街の遊郭の廊下を進んでいる錯覚に襲われていた。
部屋の中央に精緻な細工が施された鋼木製の執務机が置かれていた。部屋の主が変わるまではもっと窓の近くに置かれていたのだろう。絨毯に重い机を移動させた跡があった。石弾や太矢の狙撃を避けるためだとウェルドは見当をつけた。
執務机から歩いてきた軍衣のエルフがウェルドの手を握った。弱々しい握手だった。ウェルドより背が高い。エルフ特有の整った顔が満面の笑みを浮かべてウェルドを見下ろした。
「やあ、ウェルドさん、首都での一別以来ですね。ようこそ新庁舎へ」
内戦が始まる直前、ウェルドは街道の補修に必要な資材搬入の説明に大臣を訪れたことがあった。その街道も今はアバイユ将軍と彼の軍隊の進撃を支援するために帝国から送られた物資の輸送に使われているはずだ。
「いい建物ですね」
ウェルドは世辞を使った。
「造りもしっかりしているし何より眺めがいい」
言ってしまってからしくじったと思った。眺めがいいということは四方八方から狙われるということではないか。
「前に比べれば手狭ですけどね。取柄は屋上に高射弩砲を置けるくらいだ」
大臣はウェルドに革張りのソファに座るよう促した。
「一杯いかがですか? 地下の貯蔵庫からワイン樽が見つかりましてね。破戒坊主どもの置き土産です」
造り付けの棚からワインの瓶を取り出した。
「いえ、結構です」
「では葉巻はいかがですかな? 帝国のペリカナ製ですよ。二日前夜襲に出かけた我が軍の部隊がアルテラの段列から持ち帰ったものです」
「いただきましょう」
ペリカナ社の足長鳥の紋章が描かれた木箱から二本抜き取って一本を上着の懐に入れた。シャンテへの土産だ。あいつはどんな顔でこの葉巻を吸うのだろうか。そう考えただけで少し愉快になった。シャンテのことだから早速食い物に替えてしまうかもしれないが。
大臣から切出を受け取って吸口を切り、テーブルの燭台で火をつけた。ソファに身を沈めて優雅に紫煙を吐いた大臣が口を開いた。
「今日はお願いがあってお呼びしました」
「何でしょうか?」
「明日、この町の帝国教会の修道士たちをアルテラ軍に引き渡します」
「首都の修道院は虐殺されたと聞きましたが」
「その噂は私も聞きました。しかしそれは根拠のない流言です。彼らは帝国の軍事顧問団の保護下で無事です」
「その情報をどこで?」
「当の修道士たちから念話を通じてです」
「なるほど」
人は悪い話ほど他人に吹聴したがるものだ。特に悪い状況に置かれているときは尚更だ。例えば残虐な敵の軍隊が迫っているときは。
「首都修道院の修道院長からこの町の同胞たちを引き渡して欲しいと要請があったのです」
「お返しは何です?」
彼らは帝国国籍だ。帝国政府と交渉する際の人質としての価値もある。それをみすみす手離すには何か見返りがあるはずだ。
「アバイユとの和平交渉の斡旋です」
大臣が窓に近寄り、手で窓帷に隙間を作って外を眺めた。
「それで私に何をしろと?」
大臣の背中を見ながらウェルドが訊いた。
小さく空気を切り裂く高い咆哮が聞こえてきた。廊下から人が駆ける足音と怒号がする。
「アルテラを支援するあなたの国の航空竜騎兵の空襲ですよ。折角眺めがいいのにそれを楽しむ時間をくれない」
大臣は小さく舌打ちをくれると窓帷を閉じてソファに戻った。葉巻を咥えた歯の間からゆっくり煙が立ち上った。
「送還される彼らに随行して欲しい。そして和平交渉の手助けも。あなたは帝国政府の文官だ。アルテラ族もあなたには手出しできないし、少なくとも帝国の軍事顧問団に働きかけることができるはずだ」
「お言葉ですが、私は技術指南役の木っ端役人にしか過ぎません。そんな大役は引き受けかねます」
「あなたもこの国を見捨てるのですか?」
ウェルドは慌てた。
「私はこの国が大好きです。エルメダス王も尊敬していますし、あなたがた政府が帝国へ誠実に対応していたこともよく知っています。今はこんな状態ですが、帝国政府内にもあなたたちに同情している者は多いと聞いています。アバイユは狂人だ。いずれきっと帝国は貴国への方針を大きく転換するはずです」
自分で言っていて虚しくなってきた。それでも不愉快さを感じながら喋り続けた。そうしなければいたたまれない気がしたからだ。
誰がクル・エルフの境遇に同情しているって?
現在、帝国政府は皇帝の座を簒奪した先帝の弟ログルス帝の掌中にある。反皇帝派の諸侯や属州が先帝の忘れ形見サバル皇太子を担ぎ出して辺境で叛旗を翻したのが二年前、今や帝国全土が先帝の弟と息子の争いで二分されて内紛状態にあった。帝国は政治的混乱の極みにある。版図の隅っこの小国に誰が関心を払うというのだ。
「私の祖父はハイエルフでした。このナージの町がまだ帝国の植民地になる以前にここに小さな祭壇つきの家を建てて部族の宗教儀式を司っていました。儀式といっても人々の小さな悩みの相談をしたり、ささやかな神託裁判を取り仕切ったりがほとんどでしたけどね。でも、先見の明があった祖父は父を教会に通わせて公用語の読み書きを覚えさせ、それから帝国の商家に丁稚奉公に出して帝国の商売を実地に学ばせました。私は宗教儀式者である祖父と商売人である父の両方の血を受け継いでいるのです。おまけにあなたより何倍も生きている」
ソファに身を沈めて盛大に煙を吐いた。
「ですから人を見る目には自信があるのです」
大臣が立ち上がって執務机に戻って筆を取った。
「我々は今や瀬戸際です。クルの民が生き残れるか、この高原で露と消えるかの。ですから私たちを助けてください」
庭のほうで轟音がして床が僅かに揺れた。誰かの甲高い悲鳴が聞こえた。
大臣は机の燭台の火で封蝋の先を溶かして文書に落とし印を押した。
「これはあなたのクル軍作戦地域での通行許可証と私からの委任状です。少なくともクル軍と帝国の軍事顧問団には通じるはずだ。あなたを信じています」
断り切れなかった。仕方なく両手で押し頂いて懐に入れた。
「ひとつ質問をお許し願えますか?」
「何でしょう?」
「このことを国王陛下はご存知なのですか?」
大臣が悲しげに微笑んだ。
「こんなことで宸襟を騒がせることはありません」
つまり大臣以下の独断行為ということか。ならこれ以上何を聞いても無駄だろう。
大臣が沈痛な面持ちで続けた。
「今はまだクル族が幹線道沿いの町をかろうじて確保しています。しかしいずれ帝国からの補給態勢が整ってアルテラ族の戦力が充実すれば戦局は一気に傾きます。難民の数は現状の数倍に膨れ上がるでしょう。半年もしないうちにこの町はローライと同じ道を辿ります」
ローライはかつての帝国の主要都市の名だ。先の大戦で魔軍の名将ガープの執拗な包囲攻撃を受けて大量の餓死者を出したことで知られている。この都市を巡る戦いはローライの三段崩れと呼ばれて今でも有名だ。
「一つだけお願いがあります」
「何でしょう?」
「助手のシャンテを連れて行くことをお許しください。彼もクル・エルフですが、有能な男です。この度の仕事にも力になってくれます」
「それくらい造作もありません」
大臣がにっこり笑った。
「それでは微力ながら精一杯務めさせていただきます」
深々と頭を下げた。やむを得なかった。この町に残ってエルフ同士の部族抗争に巻き込まれて死ぬより目はありそうだ。
「出発は明日の明け方。護衛が付きます」
大臣が手を差し出したのでウェルドも慌てて手を差し出した。最初のときより力強い握手だった。
「ウェルドさん、あなたに運命の女神の御加護があらんことを」
「閣下も」
ウェルドは大急ぎで葉巻を揉み消して懐に仕舞うと大臣執務室の扉を開けた。扉を閉めようと振り返ると、大臣が苛立たし気に葉巻を押し消しているのが見えた。
役人の案内で廊下に出ると、官吏たちが両手で頭を押さえて息を殺して床に伏せている中で、さっきのダークエルフの傭兵だけが金色の長いパイプを咥えて窓から身を乗り出して外を眺めていた。ちょっと薄いが抱き心地のよさそうな尻だ。ダークエルフの後ろ姿を眺めながらそんなことを考えた。こんな聖堂より十一番街のほうが似合う尻なのは間違いない。
「あら、ウェルドさん、首尾はどうだった?」
気配に気づいたのかダークエルフが振り返ってウェルドに笑いかけた。
「まあまあさ。それより空撃のほうは大丈夫なのか?」
「こっちもまあまあね。ウルメニから越境してきた帝国の航空竜騎士が裏の民家を吹き飛ばしただけ。高射弩砲の射高より上から撃ってるから狙いも被害もたいしたことないわ」
「対空法撃はしないのか?」
「そんな凄腕の魔導兵がいるわけないでしょ。この建物は帝国の帝都防空師団の戦闘指揮所じゃないのよ」
「そうなのか」
「そうなのよ」
所詮ウェルドは軍事には素人の文官だ。早々に話題を変えることにした。
「ところで君の友人はどうした?」
ダークエルフの紅い瞳が束の間憎々しげに歪む。
「あんなのお友達でも仲間でもないわ。一山当てに来た冒険者崩れよ。どこかの裏通りで匕首を振り回すのが関の山な連中だわ。飛竜が飛んで来たらあっという間に退避壕に逃げ込んだわよ」
盛大にパイプの煙をふかした。
「あんたは止めなかったのか?」
「だって指揮系統が違うもの。あっちは国王警備隊、こっちは外務省経由で雇われてるの」
ウェルドは崩壊寸前の政府でまだそんな縦割り構造が機能していることに驚愕を禁じえなかった。
「それは大変だな」
「そうでもないわよ、あんな連中と並んで戦うなんてこっちから真っ平御免よ」
ダークエルフがそう言って微笑んだ。こんな場所と時でなければ口説いていただろう。そう思って唇を見つめた。襟元に曹長を示す階級章が見えた。
「これはお見それした。曹長殿だったか」
長命のエルフ種の年齢は見た目ではわからない。このダークエルフは小娘に見えて百戦の古強者だ。
「やめてよ、まるで強面のおばさんみたいじゃない」
「でも俺よりずっと長生きなんだろ?」
「女に齢を訊くのって物凄く失礼よ」
そう言ってころころ笑った。
飛竜が防空警戒圏の外に出たのだろう。口々に警報解除が伝えられ、役人たちが立ち上がって日常業務を再開し始めた。
「そろそろ出るよ」
もっと話をしていたかったが早く帰らねばシャンテが心配するだろう。
「追剥には気をつけるのよ」
難民の一部が暴徒化している噂はウェルドも耳にしていた。野戦憲兵が見つけ次第吊るしているがそれでも僅かな食糧を目当てに他人を襲う不届き者は後を絶っていない。
ウェルドが歩き出そうとした足を止めて振り返った。
「どうしたの?」
「名前を訊いていなかった」
ダークエルフが煙を吐くと首を傾けて微笑んだ。暗褐色の肌に白い歯がやけに目立った。
「私の名はニド、ヌのミのニドよ」
建物を出て聖堂の敷地を見回した。礼拝堂を挟んで二つの方形の建物が建っている。一つはさっきウェルドが出てきたばかりの新庁舎だ。政府が引っ越してくる前は神官たちの子弟のための学校だった。もう一つは施療院で、ここも前線から後送されてくる負傷兵のための病院になっている。もっとも治療士も医薬品も足りていないという話はウェルドも聞いていた。
礼拝堂と正門の間の広場にも多くの難民が押し寄せて天幕を、あるいは伝統的な茅葺小屋を建てて身を寄せ合っている。威厳も荘厳もあったもんじゃないな。そう思いながら礼拝堂に足を向けた。
中央の礼拝堂はいまや官庁で勤務する官吏と高級軍人の家族、そして逃げ遅れた外国人たちのための仮の宿舎になっていた。天井と床と壁があるおかげで外の連中よりは幾分ましな恰好をしているが、誰もが消耗しきった目をしている。
「こんな所に珍しいな。どうした、めかしこんで?」
後ろから声をかけられて振り返った。波打った長い銀髪を総髪に撫でつけて後ろで束ねたエルフが祭壇の長椅子に腰かけて手を振っている。建設省で渉外役を務めているマースだ。
マースの隣に腰を下ろして上着の釦を外した。ほっと息が出た。
「こんなところで何をしているんだ、仕事しなくていいのか?」
横目でマースを見やって訊いた。エルフにしては野性的な顔立ちが酒で朱色に染まっている。息が酒臭い。足許に蜂蜜酒の瓶が何本も転がっていた。
「馘首になったんだ。政府も追い詰められて戦争に無関係な部署を次々切り離しているのさ。そのほうが金も配給品も節約できるからな。この酒は退職金のかわりだ」
「それは大変だな」
「槍を渡されて城壁に並ばされるよりマシさ。それよりお前はどうなんだ?」
「外務大臣に呼ばれてたのさ。帝国教会の修道士たちの送還が決まってその付き添いをしてくれと言われた」
「ほう、引き受けたのか?」
「大臣閣下の頼みだ。断れなかった」
「ここから出て行けるだけでもいいじゃないか」
「そうとも限らないさ、戦争してるど真ん中を突っ切っるんだからな」
戦場では何が起こっても不思議ではない。逆上した兵士が無分別な残虐行為に走ることも珍しくないのだ。
「ここに残るよりまだ望みがある。アバイユは原理的なエルフ至上主義者だ。クル側についた外国人はとんでもない目に遭わされるぞ。あの手のエルフの振りをした大猿を俺は何人も見てきた」
「噂は噂だ。キリアス・アバイユと彼の革命政府はそこまで考え無しじゃない。多少狡猾なだけだ。首都を攻略したときもわざと北西には部隊を置かずクル族を逃がした。この聖地に追い込むためにだ。完全に包囲したら中のクル族は腹を括って決死の覚悟で戦う。そうなったらいくら勇猛なアルテラでも大損害は避けられない」
懐を探って新しい葉巻をマースに差し出した。シャンテに土産にするつもりだったが仕方ない。自分も喫い止しの葉巻をくわえた。
「帝国製の上物じゃないか。こんなものをどうしたんだ?」
言いながらマースが吸い口を噛みちぎった。
「拾ったのさ」
そう言って火打石で火をつけてマースに分けた。
深々と吸って煙を吐いた。
「うまい」
目を細めてマースが感慨深く呟いた。
「鼠を知っているだろう?」
葉巻を見つめながらウェルドが口を開いた。
「何のことだ?」
「鼠は逃げ場のない場所に閉じ込められると猫にすら立ち向かう。しかし逃げ道の穴を用意してやるとその先が行き止まりだとわかっていても飛び込んじまうのさ」
「俺たちは鼠か」
「そしてナージの町は鼠の穴だ。それでも他に逃げ場のない鼠はこの町にやってくる。アルテラはこの穴に鼠を詰め込めるだけ詰め込む積りなんだ」
「包囲して自滅するのを待つ気か」
「そこまではいかないだろう。アバイユ将軍には帝国の有能な軍事顧問団が与力しているらしい。アルテラ・エルフがクルや外国人を虐殺しようとしたら軍事顧問団が止めるだろう。帝国も今内紛の真っ最中だ。日和見してる諸侯の評判もあるからな」
自分の言葉が上滑りしてることは十分承知していた。最初の難民と共にナージの町に流れてきたウェルドには、情況が日ごとに悪くなっていることをよくわかっていた。だんだん気が重くなって黙り込んだ。
そんな気持ちを知ってか知らずか、隣でマースが無表情に葉巻をくゆらせた。
ふいに礼拝堂のあちこちからどよめきが起こった。
「なんだ?」
頭を上げて礼拝所を見回した。抜けるような白金の長髪をなびかせたエルフの女性が長椅子の列の間を颯爽と歩いていた。丈の長いスカートに双球で盛り上がった絹のシャツ、歩く度に深紅の耳飾りが輝いた。時折立ち止まって腰をかがめて難民たちに何事か話しかけている。
「誰だあの女は?」
ウェルドの悠長な問いにマースが眉を顰めた。
「知らんのか、あれはエルメダス王の娘のエルメイア姫様だ」
声を落として囁くように答えた。
「物凄い美人だな。だがあのスカートだけはいただけない。脚を隠しすぎる」
「ああして時折難民たちを勇気づけようとなさっているのだ」
「たいしたものだな」
難民の家族の手を取って微笑むエルメイア姫を眺めながら呟いた。
「だがそんなことで王室の失政は消し去れないがな」
マースがせせら笑いながら言った。
「そもそもこの戦争もエルメダス王が原因なんだよ」
マースは新しい蜂蜜酒の栓を抜くと話し始めた。
今から八十年ほど前、この地がまだ帝国領カルフィール自治領と呼ばれていた頃、帝国は種族間戦争における約定と、新たに発見された魔銀鉱を波風立てないように採掘して帝国本土に供給するという理由から、この土地を半ば強引に独立国に仕立て上げた。
帝国はまず帝国の大学出身のクル族を送り込んでクル族だけの政府を組織させた。クル族は昔から高地地方に住む部族で、農業に向かない土地故に植民地時代は都市部に出向いて商人や職人といった非農耕生活を送っていた。彼らに目を付けた帝国は植民地時代から彼らを傭兵として雇い入れて他国との国境紛争に送り込んでいた。いわばクル族は帝国にとって使い勝手のいい部族だったのだ。
帝国はクル族に全幅の信頼を置いていたが、問題は彼らが少数民族であることと、彼らが王に推戴したエルメダスが折り紙つきの理想主義者なことだった。
クル族の支配に反乱を起こしたのが草原地帯で遊牧生活を送るアルテラ族だった。人口の約七割を占めるアルテラ・エルフはこの土地を植民地化しようとした帝国に最後まで抵抗した誇り高き部族であり、植民地時代に帝国植民地政府の優遇政策で富を築いたクル族が独立後も自分たちに君臨することに我慢できなかったのだ。
アルテラ族にとって幸運だったのは、三年前の春に先の皇帝だったロクス帝が崩御したのを機にエルメダス王が帝国企業との採掘権期限切れの更新契約に調印せず、国内の魔銀鉱を全て国有化したことだった。
新たに帝国皇帝の位に就いたログルス帝はこの仕打ちに怒り狂った。新帝はカルフィール王国を経済封鎖すべく近隣諸侯に勅命を出し、カルフィール国内にあった帝国系企業を総撤退させた。
カルフィール王国に後ろ盾がなくなったことを知って狂喜乱舞したのが、エルメダス王の治世下で国境線の警備任務という不遇を託っていたアルテラ族出身の軍人たちだった。彼らは自分たちの指導者としてウルメニに亡命していたキリアス・アバイユを密かに呼び戻した。
アバイユはカルフィール独立の際にクル族に対して無差別殺戮と略奪を繰り返し、帝国各地を逃げ回る亡命生活を送っていた狂信者だったが、アルテラ族の間では部族の英雄として祭り上げられていた。
帰国したアバイユはまず最初に反乱を計画したアルテラの将校たちを極秘裏に粛清して軍の実権を握り、帝都に飛んで大量の武器と軍事顧問団と兵站支援を要請した。もともと帝国政府はこのような政治的な狂人に対しては慎重に対応していたのだが、この時は皇太子派との対立で少しでも多くの味方が欲しいという事情があった。
こうしてアバイユ率いるアルテラ・エルフ軍は圧倒的な兵力でウルメニから侵攻を開始した。アバイユが勝手に自分を将軍と名乗り出したのもこの頃だ。帝国の補給と航空支援を受けたアルテラ軍は電撃的に数ヶ所から攻め寄せて僅か一週間でカルフィールの首都を占領したのだ。
マースが蜜蜂酒を呷った。傍をクルの高級軍人が通り過ぎたが彼は素知らぬ顔で話し続けた。
「だいたい初期の政治構造を八十年も放置し続けていたエルメダス王に問題がある。少数のクル族に高度な教育を施して多数の無教養なアルテラ族を管理させる。こんなやり方じゃ不満を持つアルテラが反乱を起こすことは独立前から言われていたんだ」
「何をお話ししているのですか?」
二人の後ろから声がかかった。首を巡らせたマースが急に黙り込んで小さく口を開けた。振り返るとエルメイア姫が立っていた。かすかに揺れる小さく赤い耳飾りがやけに目立った。
「坐ってもよろしいかしら?」
返事も待たずに椅子に腰を下ろした。姫とマースに挟まれて居心地が悪い。思わず体を小さく竦めたウェルドの目の前を姫の細い腕が横切った。
「私にも一口頂けます?」
「杯はありませんが」
マースが新しい蜂蜜酒の封を抜いて差し出した。
「構いませんわ。こんなご時世ですから」
そう言って瓶を受け取ると一口呷った。伸びた白い喉首に見惚れた。姫が満足げに長く細く息を吐いた。
「お酒はお止めになったなったと聞いていましたが」
「別に神様に誓ったわけではありませんわ」
瓶を返しながら切れ長の青い瞳を細めて微笑んだ。
「ウェルドさん」
姫がウェルドに顔を向けた。
「はい」
「明日、修道院の人たちと向こうに行かれるのでしょう?」
「ご存知でしたか」
「籠の鳥じゃありませんから」
いつの間にか目つきの厳しいエルフの娘が二人、三人を挟むように立っている。着の身着のままの人が大半なのに着衣に汚れがない。恐らく姫を護衛する蔭供だろう。国王の娘がたった一人で出歩くわけがないか、ウェルドは頭の中で納得した。
「よろしくお願いしますね」
姫がウェルドの目を見て言った。藁にもすがる眼があるならきっとこの眼だ。
「どこまでやれるかわかりません。私は帝国の役人ではあるが現場回りの平役人です」
「それでも私たちには他に頼るものがないのです」
そう言って両手でウェルドの手を握った。その柔らかさに一瞬はっとした。
「お願いします。クル・エルフを助けてください」
そう言うと立ち上がって他の難民を励ますために歩いていった。
「結構気さくな姫様なんだな」
姫の背中を見ながらウェルドが呟いた。
「やっと自分が追い詰められてることに気づいたのさ。それで今更になって下々の人気取りに出たんだろうよ」
マースが笑いながら蜂蜜酒を呷った。
明け方、聖堂を出発した二輌の有蓋馬車は、前後を軽騎兵小隊に守られて一路軍事境界線への道をひた走っていた。騎兵は装備もよく馬も肥えていてウェルドは感心していたが、騎手が馬に慣れていないのか、その足並みは乱れがちで時折立ち止まって辺りを見回したりと随分心細い護衛ぶりだった。
しかし、沿道を警備する兵たちは流石に手慣れていた。路上の分岐点や屈曲点ごとに数人の歩兵が散開し、馬車が来ると手を振って異常の無いことを知らせ、道幅の広い場所では小隊単位で道の両側に立って警備する手堅さだった。
クル・エルフたちも必死だった。馬車を無事送り届けることができたら、この絶望的な戦争を終わらせることができるかもしれないからだ。
それまで密林に囲まれていた道が急に開けた場所に出た。急拵えの砦がウェルドたちを出迎えた。門櫓の左右に柵が張り巡らされ、弓槍を持った兵士が張り付ている。
「やあ、皆さん」
軍衣に青い頭巾を被った男がどこからか現れて馬車の扉を叩いた。
「ここで降りてください」
馬車から降りた二十人ほどの修道士と修道女が不安げに辺りを見回した。
「先生、本当に大丈夫なのですか?」
重そうな荷物を担いだシャンテがそっとウェルドに声をかけた。大きな荷物から細い手足が生えたようなその格好はまるで天道虫のようだ。
交差点横の住処を引き払う際、シャンテは天幕その他の持てるもの全てを担いできていた。ウェルドは置いていけと言ったがシャンテは肯んじなかった。逆に先生は楽観に過ぎますとシャンテに窘められた。
「大丈夫だろう。俺たちを殺す積りならこんな手の込んだことはしない」
頭巾の男が皆に注目するように手を上げた。
「さて、皆さん。これからこの橋を渡ってもらいます」
男が門を指さした。その向こうに橋があるのだ。
「あと四半刻もすれば橋の向こうから狼煙が上がります。それを合図に出発してください」
戦前は聖堂で参拝客の案内役でもしていたのだろうか。身振り手振りを交えて楽しそうに説明した。
「そこで皆さんにお約束していただきたいのですが」
案内人が指を立てた。
「橋では決して走らないこと。ばらばらに渡るのではなく全員ひと固まりになって渡ること。決して慌ててはいけません」
「アルテラ軍の攻撃は?」
初老の修道士が尋ねた。
「大丈夫だとは思いますが、万が一の場合はここまで逃げてください。我々は皆さんが橋を渡りきるまでここを動きません」
ウェルドは所在なく砦を見回した。大量の木箱が積み上げられている。縦一尺横三尺ほどの薄っぺらな箱が目に入ったので、蓋を開けてみると征矢が隙間なく並べられていた。
「そういうのに興味あるの?」
振り返ると外務省で出会ったダークエルフの女傭兵が立っていた。目深に被った兜の庇越しに紅い瞳が涼しげに微笑んだ。
「アメリの武器商人が小遣い稼ぎに送って寄越したものよ」
「ニド曹長殿か、どうしてここに?」
「その呼び方はやめて。大臣の直命で来たのよ。あなたたちがちゃんと橋を渡り切れるのを見届けるように」
「そうか、大変だな」
「おめでとう、これでやっと帰れるわね、けッ」
ニドが形のいい眉を顰めた。
ウェルドはニドが自分に毒づいたと思って一瞬狼狽いだが、後ろを振り返って彼女の突然の怒りが自分に向けられたものでないことを知って安堵した。
男女十人ばかりの傭兵たちが門に向かって歩いてくるのが見えた。ニドの憎々しげな視線は彼らに向けられていた。
「あれは?」
「国王警備隊の傭兵たちよ。変ねえ、いつも王様の傍から離れないのに」
「彼らも大臣の命令を受けたんじゃないのか?」
「まさか、あの子たちは国王直属だもの、大臣でも命令できないのよ」
ニドが苛立たし気に革足袋の先で土を蹴った。
「皆さん、狼煙が上がりました。急いで集まってください」
案内人が手を振り回した。
「これでお別れね」
ニドがにこりと微笑んで両手を伸ばしてウェルドの顔を撫でた。
「十一番街のかわい子ちゃんたちにもよろしく言っておいて」
「ああ、伝えよう」
「そちらのお連れの人もお達者でね」
ニドがシャンテの首筋を優しく撫でた。
「あなたたちに運命の女神の御加護がありますように」
それだけ言うと踵を返して歩いて行った。
「美人でしたね」
シャンテが呆けたように呟いた。
「エルフはダークエルフが嫌いだと思っていたが」
「あんな美しい人は別です」
兵たちが門に取りついて一間ばかり隙間を作った。
ウェルドとシャンテは修道士たちの最後尾について門を潜った。向こう岸まで八十間ほど、木製の橋のあちこちに矢が立っている。向こう岸にアルテラ軍の兵士が鈴生りに並んでいて、所々に弩砲が見えた。きっと背後には投石機も控えている筈だ。修道士たちが渡り切ったら戦闘再開なのだろう。
両軍が注視する中を一行が中ほどまで渡り切ったころに背後で怒鳴りあう声が聞こえた。
振り向くと数人がこちらに駆けてくるのが見えた。ニドが言っていた国王警備隊の傭兵たちだ。
「先生」
シャンテが不安げに訊いた。
「何かあったようだ。妄動するな」
ウェルドにも何が何だかわからない。
やがて傭兵たちは修道士たちの間で足を止めた。
「俺たちは帝国人民だ! 亡命を希望する!」
傭兵の一人が声を上げた。外務大臣執務室の前にいた妙に小綺麗な金髪の男だった。
「俺たちの身元は確かだ! カレイアの冒険者組合に問い合わせてくれ!」
「雲行きが怪しい。距離を取ろう」
ウェルドはシャンテに目配せして小声で告げ、油断なく後退りした。
金髪の傭兵の口上はまだ続いている。
「我々は王国政府内部の事情にも通じている! 情報と引き換えにそれなりの待遇を希望する! 我らの要求が受け入れなければ」
腰の剣を抜いて高々と掲げた。
「走れ!」
ウェルドが叫んだのと対岸から矢の束が飛んできたのはほとんど同時だった。
エルフの弓の腕は確かだ。橋の中央に寄り固まっていた修道士たちと国王警備隊の傭兵たちは一瞬で矢の雨に包まれて次々に倒れた。クル側へ駆け出したウェルドとシャンテはエルフの曲射の高い集弾性に救われたといってよかった。
「走れ!走れ!」
叫び続けながらウェルドは駆けた。
重い荷物を担ぐシャンテの足が僅かに遅れた。
「そんなもの捨ててしまえ!」
ウェルドが怒鳴った。
「先生……!」
シャンテの泣きそうな顔がウェルドを見た。
思わず伸ばした手にシャンテがしがみついた。
二人を追って次々に矢が風を切り裂いて飛び、橋板に征矢が何本も突き立ち、その震動が足裏から伝わってくる。
「こっちよ! 早く!」
門の隙間からニドが手を振っている。
「ひッ!」
悲鳴とともにシャンテの膝が落ちた。背の荷物に矢が立っている。呻きとも怒号ともつかないおめきを上げながらシャンテを引きずった。矢の狙いがだんだん正確になっていく。矢がもう一本シャンテの背に立った。
救いを求めるように上げた目にニドが兵を二人連れてこちらに駆けてくるのが見えた。
二人とすれ違ったニドが短杖を振って魔法の防壁を張った。矢が空中で次々に弾き飛ばされる。その背後でエルフ兵が二人を乱暴に門に引きずり込み、その後を追ってニドが躍り込んだ。
「閉門!」
誰かの叫びを待っていたかのように門が閉められた。後方で投石機が唸りを上げているのが聞こえた。橋を落とそうとしているのだろう。喘ぎながらウェルドはそう見当をつけた。
「大丈夫? 危なかったわね」
汗に濡れたニドの微笑みがウェルドを見下ろした。
「お連れさんも大丈夫よ。おっきな荷物を担いでて正解だったわね。裏を掻いたのは一本だけだし鏃は内臓まで届いてないわ」
顔を回すと俯せになったシャンテが荒々しく包帯を巻かれているのが見えた。出血が酷くてとても大丈夫には見えなかった。
「でも後方の病院に連れていかないとね。ここは治療兵もポーションも不足しているのよ」
立ち上がろうとして足がもつれた。疲労より恐怖と緊張で膝が笑っている。
「立てる?」
「ああ、大丈夫だ」
女の手を借りるわけにはいかない。何とか立ち上がって見回した。死体が三つ転がっている。国王警備隊の男二人に女一人。
「まさかあんな馬鹿な真似をするとは思わなかったわ」
ニドが吐き捨てるように言った。
「どこからか修道士の送還を聞きつけて渡りに船って思いついたんでしょうね」
「いきなりやってきて剣を抜いたんだ」
「裏切者に相応しい死に様よ。こんなことなら手近にいるときに全員殺っておけば良かったわ。あなたも」
兜の短い庇を指で弾いた。
「とんだ貧乏籤だったわね」
背の低い樽のような傭兵が弩を肩に担いでやって来た。ドワーフだ。暑苦しい髭面がにやりと笑った。
「ニドの姐さん、お見事でしたね」
「やめてよ、もうあんな真似しないからね」
「これからどうします?」
「帰るわよ。大臣閣下に復命しなきゃいけないから」
「気が進みませんね」
「ほんと、悪い報せを伝えなきゃならないなんて滅入っちゃうわ」
「馬車の準備は出来てますぜ」
「それじゃあなたたちは怪我人を病院に運んでから帰ってきて。私はもう一輌で大臣に報告に行かなきゃ」
「了解しやした」
ドワーフは両手を膝につけて頭を下げるとシャンテのほうに歩いていった。
「これからどうするの?」
ニドがパイプを取り出しながらウェルドに訊いた。
「取り敢えず礼拝所にでも潜り込むさ」
「お金あるの?」
「実はあまり無い」
「食料の配給も減らされるって話よ」
「そうなったら」
これ以上ないくらい真面目な顔でニドの眼を見つめた。
「雇ってくれないか?」
「何それ、口説いてるの?」
火打石でパイプに火をつけながらニドが面白そうに笑った。
「違うよ、君の隊に雇ってくれって言ってるのさ」
「軍隊の経験は?」
「実はまるでないんだ」
「今うちで必要なのは暗号教育を受けた念話兵と第二段階以上の攻撃魔法を使える魔導兵よ」
「どちらも無理だ」
「なら駄目ね。うちも食糧が足りてなくて居候を飼える余裕はないの」
煙を吐きながらニドが片目を瞑って微笑んだ。
「馬車が出るわよ」
見るとシャンテが馬車に担ぎ込まれていた。
「それじゃ。シャンテに付き添わないと」
「じゃあね。この騒ぎが終わったら口説かれてあげる」
病院に着いたのはもう日が落ちてからだった。そこはナージの町から一里ほど離れた秩序の光教の教会で、白い塔と壁に囲まれた広い敷地を持っていた。平和な時なら休日ごとに人が集い、貧しい人々のために慈善市が開かれていた手入れの良い庭も、今では病人や怪我人で足の踏み場もなかった。その多くが首都から逃げてきた人たちだ。ほとんどの者が担架ごと地面に寝かされている。この季節は朝夕に激しい驟雨が降るのにこの人たちはどうするのだろうか、ウェルドは顔を曇らせた。
「毎日とはいかないが様子を見に来る。どうせ暇だからな」
壁際に寝かされたシャンテに屈みこんで話しかけた。
「先生、すみません」
苦しいのだろう。息を詰めた声でシャンテが呻くように言った。
「謝るな。お前の責任じゃない」
そう言って毛布をかけてやった。
「痛むか?」
痛くない訳がない。鏃は腹腔を貫いていた。内臓は傷つけられていないが重傷だ。
額に白い三角巾を巻いた少女と言っていいエルフの娘が小走りに駆けてきた。
「傷を見ますね」
さっきかけた毛布を剥がして慣れた手つきで包帯を取る。
「化膿しないよう消毒しますね」
そう言うと傷口に安酒臭い消毒用の香油を塗った。
シャンテの喰い縛った歯の間から嗚咽のような呻きが漏れた。
「ごめんなさい。治療魔法が使える人もポーションも全部軍隊に取られちゃったんです」
何度も言った台詞なのだろう。淡々とした口調で事務的に少女が告げた。
「だからこんな原始的な治療しかできないんです」
「こんなことなら回生紋を入れておけば良かったですね」
泣き笑いながらシャンテがこぼした。
無理だろう、ウェルドは思ったが敢えて答えなかった。回生紋は本人の魔力を消費して負傷を治すが、回すには相応の魔力が要る。飢えて気力が衰えていては回生紋もまともに働かないものだ。
「それでは」
少女が血膿で汚れた前掛けのおとしから湾曲した太い針と糸を取り出した。
「今から縫います」
燭台の明りを反射して針が凶悪に光った。
「すみません、ええと……」
ウェルドのほうを向いた。
「ウェルドだ」
「ウェルドさん、患者さんの両手を押さえてください」
「え、ちょっと、まだ心の準備が……」
虚しい抗議を黙殺して両膝を使ってシャンテの両腕を押さえ込んだ。
「助かりました。ありがとうございます」
半分気絶したシャンテに手早く包帯を巻いて、少女はウェルドに礼を言った。
「ここで働いているのかい?」
「ええ、手が足りなくて」
「僕の名はウェルドという。帝国から来たんだ。君の名は?」
「イーリです」
「君の家族は?」
聞いてから自分の迂闊を呪った。この町に逃げてきた人たちは誰もがその途上で肉親や縁者を失った者ばかりだった。ウェルドは少女の顔が曇るのを恐れた。
「みんな元気です」
予想に反して少女が明るい声を上げた。
「神父様も兄弟も姉妹も家族全員ここで働いています」
見回すとまだ年端もいかない少年少女が患者の列の中で忙しく立ち働いている。
「神父様も?」
「私たちは皆この教会の孤児院で育ったの」
「そうか、大変だね」
「いいえ、これも神様のお与えになった試しですから」
にっこり笑った。帝国国教がこの地に根付いて二百年近く経つ。この教会は秩序の光教がこの地のエルフの精霊信仰とうまく共存している実例だった。
「それじゃ、馬車を待たしているので行かないと」
「私も弟や妹に食事を作らないと」
そう言ってぺこりと頭を下げて去っていった。その後ろ姿に何故か目頭が熱くなった。
「それは大変だったな」
マースが礼拝所の椅子に踏ん反りかえりながら笑った。
ここに着いたのはもう子の刻も回った頃だったのにこの呑んだくれのエルフはまだ起きていた。
「これで和睦の目は潰れたということか」
マースが天井の桟を見上げながら呟いた。
「他にも手は考えているだろうさ。これで終わりな訳はないと思うぞ」
「大臣閣下の手腕に期待というところか」
そう言って毛布を掻き抱いた。
「また明日見舞いに行くんだろう?」
「ああ、どうせ何もやることはないからな」
「どれ、俺もお前の助手殿を見舞ってやるとするか」
「ひどいな」
病院に着いてマースが最初に言った言葉がこれだった。
ひどい。
この言葉をナージに来てから何度聞かされたことだろう。もう少し気の利いた言葉はないのか。ウェルドは内心憤然とそう思った。
しかし確かにひどかった。夜のうちに着いたのでわからなかったが、ここにも飢餓の影は確実に忍び寄っていた。
飢餓は真っ先に子供たちに襲いかかっていた。庭でじっとしている子供たちの中には蛋白質の深刻な不足による皮膚の弛み、疥癬、更には大きな膿瘍、腹部の異常な膨張など、どれもが深刻な症状を呈していた。
マースは彼に笑いかけた一人を抱き上げてその軽さに驚いた。
「俺が子供の頃はこんな子が出ると村中総出で腹一杯の乳粥と腸詰を振舞ったもんだが」
やりきれない顔でマースが呻くように言った。
「ここには乳粥なんてないんだよな」
シャンテは昨夜と同じ姿勢のまま寝かされていた。
「どうだ、まだ痛むか?」
「昨日の今日ですよ。痛くないわけがありません」
減らず口を叩いているが顔が青白い。馬車に揺られて血を流しすぎたのだ。
「今度来るときは何か滋養のつくものを持って来よう」
「私よりもっと食糧の必要な人が大勢います。まずその人たちに」
「お前の助手は殊勝だな」
マースがからかうように言った。しかし確かにシャンテの言う通りだ。負傷者の傷口から流れ出る粘液に蠅が黒山のように群がり、人々の呻声が耳を聾さんばかりだ。
「あら、ウェルドさん、お見舞いですか?」
湯桶を持ったイーリが声をかけてきた。
「やあ、イーリ」
軽く手を上げた。
「ちょっと頼みがあるのだけど」
「何です?」
イーリが首を傾げた。
「鶴嘴と円匙を二本ずつ貸してくれないか?」
平和な頃は庭の園芸用に使われていただろう鶴嘴と円匙を担いだウェルドとマースは、汚水が溜まった溜桝を見下ろしていた。雨が降る度に溢れて辺り一面の土を汚すのだろう。深刻な悪臭で鼻が痛くなってきた。
「一体何をするんだ?」
怪訝そうにマースが訊いた。
「この溜桝は底に泥が溜まって本来の役目を果たせていない。おまけに病院の汚物を全部ここに捨ててるから蚊と蠅の発生源になってる。本来は掻い掘りしなきゃならないがこのご時世にそうも言ってられないからな。だから水の道を作って溢れる雨水をあちらの窪地に流す。これで雨が降っても水が流れて蚊と蠅の発生は抑えられるはずだ」
自分の専門分野だけあってウェルドは饒舌だった。
「それを俺とお前の二人でやるのか?」
「たいした仕事じゃない。昼前には終わる。普請の仕事の中では初歩の初歩だ」
「お前は専門だからいいかもしれんが俺は力仕事とは無縁の渉外役だぞ」
「病院で飯を食わせて貰えるかもしれんぞ」
「仕方ないな、では何をすればいいのか教えて貰えるかね、指南役殿」
「ご飯ができましたよ」
イーリの声がした。
「やれやれ、労働の対価をいただくとしようか」
出されたのは椀の底が見える麦粥だった。
「あれだけの重労働の報酬がこれでは引き合わないな」
マースが不満げにこぼした。
「黙って食え」
ウェルドが小さく叱声を飛ばした。
手術用の天幕から出てきた大柄なエルフが血に染まった手を前掛けで拭きながら歩み寄ってきた。ウェルドは教会の神父だろうと見当をつけた。
「ありがとう。あそこは何とかしなければと思っていたけど人手が足りなくてね」
「いえ、この程度のことならいつでもお手伝いしますよ」
先ほどの不平はどこへいったのか、マースが愛想よく答えた。
「これで蚊も蠅も大分ましになるはずです。臭いも」
ウェルドの言葉に神父の横でイーリが嬉しそうに笑った。
「神父」
いつの間にか帝国風の将校帽を被った高級軍人が後ろに立っていた。水晶を削り出した眼鏡をかけた女だ。紫がかった短い銀髪、この暑い中で乗馬用のブーツを履いている。肩に情報将校の記章が見えた。
「先日の命令がまだ実行されていないようですね」
「病院移転の件ですか?」
神父がそっけない口調で答えた。
「そうです。敵はすぐそこまで迫っています。情報によればこの病院も敵の攻撃目標の一つです」
細い顎を庭に向けてしゃくった。
「敵の目標になっている場所に怪我人を置いておくこともないでしょう。重傷者には馬車を提供します。至急移動してください」
「教会の中にいる人たちは皆動かすこともできない大怪我の人たちよ。馬車に乗せるなんてとんでもない」
イーリが強い口調で情報将校を睨みつけた。
「あなたたちが何を考えてるのかわかってるわ。この教会の鐘楼を見張り場所にする積りでしょう?」
イーリが拳を握りしめた。その顔は怒りに染まっていた。情報将校の形のいい太眉が困惑に歪んだ。
「あなたたちのことを思って言っているのよ。現実にこの辺りまで敵の斥候が潜り込んでるわ。昨夜も歩哨が一人喉を掻き切られているの。ここは危険なのよ」
「でも……」
居たたまれなくなったウェルドは二人の会話を背に鶴嘴と円匙を片すとマースを促して病院を後にした。
ウェルドとマースが肩を落として病院を後にしていた頃、灌木の密生した斜面を二つの人影が下りていた。裸足に半ズボン、寸法の大きな帝国製軍衣の上衣だけを羽織った二人は慣れた足取りで渓谷の窪地に向かって危なげなく崖を駆け降りていった。
「エトとクシが戻ってきた」
窪地に潜んだ一人が小声で囁いた。
「射つなと伝えろ」
もう一人が答えると中腰になって手を振った。
崖を降りてきた二人が茂みを走り大きく枝を広げた木の根元で膝をついた。
「少尉、ハン少尉」
小声で呼びかけた。
「ここだ」
木の傍の灌木を掻き分けて二十人ほどの人影が這い出てきた。どれもが襤褸を纏った浮浪のような恰好だが、浮浪と違うのは皆が兜を被り得物を手にしていることだった。
「エト、上の様子は?」
浮浪の一人が二人の前に出て低い声で言った。
エトと呼ばれた少年が上衣のおとしから木枝と小石を取り出して地面に並べた。
「枝が入っていった荷馬車、小石が出て行った荷馬車です。騎兵は通りませんでした、少尉」
「そうか、よくやった」
ハン少尉が少年たちの肩を叩いて屈みこみ、枝と石を慎重に数えた。やがて立ち上がると皆を見回した。
「半日で四十輌余りの荷車が出入りしている」
首筋まで深緑の顔料を塗りたくった顔を歪めて小さく笑った。
「大きな陣地に少ない守備隊、しかも荷駄の出入りが多い。何だか解るか?」
「段列です。それも大規模な。恐らく連隊段列以上」
弓を抱えた少年が答えた。
「正解だ、セイル」
少年が得意げに小さく笑みを浮かべた。
「次の質問だ」
太い枝を拾って地面に絵を描き始めた。
「前は川、三方を丘に囲まれた農園、橋は落とされ架舟橋が一本、両岸にはそれぞれ警戒厳重な監視哨、どう攻める?」
いたずらっぽい笑顔で全員を見回した。全員の目が少尉の描いた下手くそな絵に注がれた。
ハン少尉が率いている小隊は後方攪乱と情報収集を兼ねてアルテラ軍占領地域に送り込まれた遊撃隊の一つだった。クル軍はこのような小部隊を敵の後方地域に大量に潜入させていた。ただし、彼の率いている隊はそこらの難民から引き抜いてきた只の少年兵ではなかった。彼ら全員が軍幼年学校の生徒で、将来のカルフィール王国軍の将校として国防を担うべく教育された筋金入りの少年少女たちだった。彼らの先輩や同期の多くが国王の首都脱出の盾となって宮殿に立て籠もって絶望的な防御戦の末に全滅している。彼らの多くが官僚や軍人の子弟で、この国が崩壊すれば行き倒れるしかない運命にあった。
少尉は思案を巡らす教え子たちを見て満足げに微笑んだ。彼は実戦場で少年たちに教育を施そうとしていた。実地での教育こそ最大の効果を上げるというのが彼の持論だった。
やがて三尺の杖を携えた少女がおずおずと手を上げた。
少尉が顎をしゃくると少女が訥々と話し始めた。
「夜まで待ち、川上に迂回して農園の背後に迂回します」
「それで?」
「監視哨を破壊して橋を焼きます。その後は指揮所を襲って作戦図や書類を奪い持てるだけの食糧を持って川上に逃げます」
「それから?」
「同じ渡河点を渡って離脱します」
自信なさげな目で少尉を見上げた。
「半分正解だ、ネレイ」
少尉が口角を上げてネレイを見下ろした。ネレイがほっとした顔で微笑んで仲間たちを見回した。
「夜襲という案は悪くない。橋を焼いて増援を断ち、段列の機能を麻痺させる考えも間違ってはいない。だが、徒歩では捕獲品の量は限られるし捕捉される危険性も高い。それに敵も馬鹿じゃない。後背のほうがむしろ警戒してる筈だ」
全員が真剣な眼差しで少尉を見ている。
「俺なら昼に襲う。堂々と架舟橋を渡って、だ」
「無茶です。出来るわけがない」
ネレイが声を上げた。
「敵の荷馬車を奪う。荷駄隊を装えば正面から乗り込める」
「無理です。お芝居のカルタスじゃないんですよ」
仲間と共にワイン樽に隠れて敵城に乗り込んだ勇士カルタスの冒険譚を知らない子供はいない。でもあれは子供向けの冒険活劇だ。
少尉が兜の庇を親指で持ち上げて皆を見回した。
「忘れたのか? 俺達には秘密兵器があることを」
やがて彼らは崖を上り、斜面の灌木を搔き分けて幹線道路に出た。二間足らずの道は荷馬車の深い轍が二本平行に走っている。轍に溜まった雨が所々で細長い水溜まりを作っていた。
ハン少尉の小隊は茂みを抜け、注意深く道路沿いの窪地に身を潜めた。前方で道路は緩やかに湾曲し、傍に白檀の老木が立ちはだかるように立っていた。
少尉は弓を持った兵二人と布の背嚢を背負った兵を連れて路上に出た。弓兵二人が椰子の根元に膝をついて弓を構えた。背嚢を担いだ兵が少尉に続いて白檀の木に近づいた。
「軍曹、この木とあそこの木だ。高さは八尺、いや九尺だ」
背嚢を担いだ軍曹は何度も歩測で距離を測ると、背嚢を下ろして中から木製の大きな糸巻を取り出した。巻かれているのはただの糸ではない。首都の工房で編まれた魔銀の糸だ。首都が陥落した際にこれを作った工房は燃やされ職人は散り散りになっていた。魔銀特有の輝く銀の色は黒緑色の塗料のせいで見る影もない。
軍曹は糸巻を腰に差すと慣れた動きで木を登って糸の一端を結び、道路の反対側に移って椰子の木に登ってその端を結んだ。指で弾いて弾力を確かめた後、少尉に手を振った。
「正確に水平に張ったか?」
「はい、まあ大体は」
椰子の根元に穴を掘って糸巻を隠しながら軍曹が答えた。
少尉は数歩下がると目を細めて糸を注視しようとしたがそれは無理な話だった。道路に張られた魔銀の糸は余りに細く、もう誰の目にも見えないのだ。
「後は待つだけだな。来るのが帝国軍規格の荷馬車であることを祈ろう」
「大丈夫ですよ。昨日からそれしか通ってません」
三人を連れて窪地に戻った少尉は皆と同じように腹這いになった。
彼らはそれから半刻ほどその姿勢のまま待ち続けた。待つことは苦ではなかった。全員がじっと動かないことに慣れきっていた。ほとんどの兵が軽度の栄養失調と下痢で激しい動きができなくなっていた。
「来たぞ」
誰かが呟くように言った。蹄と車輪が回る耳障りな音が聞こえた。全員が道路に目を凝らした。じりじりと時間が過ぎ、やがて風をはらんで大きく膨れた幌を揺らして二頭立ての馬車が視界に入った。
「いいぞ」
少尉が舌を舐めた。
「奴ら自分の尻に自分の頭を突っ込むことになるぞ」
槍を持った兵が吐き捨てるように言った。
馬車の御者台に座っているのは二人。どちらも典型的な遊牧民面のアルテラ・エルフだった。空の荷車を牽いているからだろう、馬の足取りは軽い。速歩の速度で近づいてくる。
もう少し、もう少しだ。時間が止まったように誰もが動かない。
一瞬、弦鳴りのように空気が震え、アルテラ兵の身体が撓って御者台から転げ落ちた。馬車が大きく方向を変え、茂みに突っ込んだ。幌が大きく撓み、馬が悲鳴を上げた。
「静かにさせろ!」
少尉の声に全員が一斉に馬車に取りついた。二人の兵が馬の手綱を取って宥めた。馬はすぐ落ち着きを取り戻し、林の中に静寂が戻った。数人が荷車に乗り込んで死体を引きずり出した。手綱を握っていた兵の千切れた首が荷台の隅に転がっていた。
これが少尉の「秘密兵器」の威力だった。この残虐な殺害方法は時と場所を得れば絶大な効果を発揮する。種族間戦争のさ中、ダラム河畔の田園地帯で盟約軍ゴブリン兵部隊が考案したといわれているこの殺害法は、各地の戦場で「人とエルフとドワーフの神聖連合軍」の颯爽と馬を駆る騎兵の血を吸い続けた。連合軍の騎兵はこの攻撃が広く知られるようになると先を争って頑丈で大型の喉輪を購ったという。
アルテラ族の兵の大半はウルメニ領内で部族単位で雇われて戦闘訓練を受けた現地傭兵だったため、このような不正規戦にはほとんど無防備と言ってよかった。
「こいつはまだ生きてます」
兵たちが失神して伸びたアルテラ兵を路上に投げ出した。御者の隣に座っていたこの男は槍を立てていたお陰で即死を免れていた。槍が彼の首の身代わりになったのだ。
「その男の服を剥げ。残りは馬車の血糊を拭き取って幌を直すんだ」
少尉は大事な秘密兵器を回収している軍曹に歩み寄り、耳許で何事か告げた。
しばらくして全裸のアルテラ兵は軍曹と二人の兵に引き摺られるように茂みの中へ消えていった。
深刻な兵糧不足に悩むクル軍部隊では捕虜を作らないことを基本方針にしているのだ。
一刻後、死んだアルテラ兵の服を着たハン少尉と軍曹は御者台に座って荷馬車をゆっくりと進めていた。荷台の底板には小隊の少年兵たちが蛇穴の蛇のように折り重なって張りついている。ふいにネレイが顔を出していたずらっぽい笑顔で少尉を見上げた。
「少尉、さっきは凄かったですね」
「何がだ?」
「ほら、あの……」
「あの糸のことかい?」
少女は大きく頷いた。慢性的な栄養失調で蒼ざめた顔色が多い小隊の中で珍しく血色がいい。彼女は小隊唯一のハイエルフすなわち魔導兵なので魔力の維持のために食糧も優先的に与えられていた。いざというときは彼女の第二段階攻撃魔法が頼りなのだ。
「あれは図書館の本に出てきたんだ。大戦を扱った話に書かれてたリザードマンのやり方なんだよ」
「本?」
「そうさ、私は子供の頃から本が好きでね。よく図書館に通ってたものさ」
手を伸ばしてネレイの茶髪の頭をごしごし撫でた。
「私は正規の軍人じゃない。戦前はナージの森番だった。たまに君たちくらいの齢の子供たちに森での暮らしを教えたりしてたんだ。正規の軍隊教育なんて三日しか受けてない。全ては昔読んだ本と自分の経験とそこの軍曹の助言だ」
無表情で手綱を操る軍曹を指さした。
「へえ」
少女が軍曹を見上げた。尊敬する少尉に助言できる軍曹を改めて見直した。
「軍曹だって元々は軍人じゃない。ミクラス山の麓で猟師をしていたんだよ。密猟専門の」
「少尉の管理する森に入ってよく追いかけられた」
軍曹が不敵に笑って少女を見下ろした。
「そろそろ橋が見えます」
「ネレイ、頭を下げろ」
少尉の声が震えていた。
「飛ばすなよ、ゆっくりだ、ゆっくり行ってくれ」
軽弩砲の掩体から一人のアルテラ兵が立ち上がって手を高く上げて近づいてきた。そこで止まれと合図しているのだ。
「止まれ」
橋の手前十間の位置で荷馬車が止まった。
御者台から歩哨を見下ろした。泥に汚れているが目に力がある。段列の歩哨にしては姿勢がいい。後方地域に配される兵隊は二線級が殆どの筈だ。少尉は嫌な予感を無理に抑え込んで奪った書類を差し出した。
「第六大隊だ」
「今日はいつもと違いますね」
差し出された書類に目を通した歩哨が書類を返しながら言った。
「熱を出してぶっ倒れやがった。急に駆り出されてこっちも迷惑だ」
「そうですか、大変ですね」
笑って言うと背後を振り返って手を大きく振った。
「どうぞ」
「ありがとう」
その言葉を待っていたかのように荷馬車が動き出した。
ハン少尉の奇襲隊員を満載した荷馬車は、数間おきに夜間用の白色標識が塗られた橋板の上をがたがた音をさせながら進んでいった。
橋を渡りきると、中は予想した通り巨大な物資に集積所だった。畑は踏みにじられて積み上げられた木箱が山をなしている。あちこちに巨大な箱型の天幕が見える。雨に濡らしたくない補給品を保管するためものだろう。多くがアルテラの兵たちに喰わせるための兵糧だ。それに医薬品。どの箱にも帝国軍の管理下にあったことを示す刻印が打たれている。クル軍の徹底した焦土戦によって食糧の現地調達が不可能になったアルテラ軍のために帝国から大量の兵糧が送られているのだ。
「これ全部燃やしちまうんですか?」
「俺たちの喰う分を除いてな」
荷台で誰かが含み笑いした。
「皆騒ぐなよ。軍曹、荷馬車を停める場所を探そう。目立たない場所をな」
アルテラ軍の急進撃のせいで大慌てで構築された段列は乱雑の極みにあった。補給品を詰めた箱は枕材すらなく直に地面に置かれ、空いた地積に追送されてきた補給品を無秩序に詰め込んだせいで通路の幅は不規則で、中には人ひとり通れるだけの隙間しかなく、あちこちに袋小路ができていた。膨大な集積量に対して管理要員が極端に足りていないのだろう。外に出ている兵は少数だった。
「どうします?」
「外側を回ってあの丘の陰に入ろう」
少尉が農園の側面にある丘を指さした。
「了解」
軍曹が馬首を巡らせた。丘の頂上には哨所があり、土嚢積みの軽弩砲が一つ居座っている。
丘の陰に入った少尉は馬車を停め、全員に短く指示を与えて小隊を二つに分けた。七人が突入班に選ばれ、ネレイと栄養失調と下痢が重い十人が軍曹に指揮されて丘を登った。軍曹は兵たちの数歩前を行き、茂みの中をゆっくりと哨所に歩み寄った。
警備兵は二人いた。古い型式の帝国製兜を被ってフード付きの茶色い上衣を着ている。一人は弩砲の後ろに座り、もう一人は砲架に肩肘をついてぼんやり遠くの山嶺を眺めていた。座っている兵はぴくりとも動かない。どうやら眠りこけているようだった。
軍曹は背後の兵たちに目で合図すると背嚢からお得意の魔銀の糸を取り出し、端をくわえて砲座の後ろに忍び寄った。
軍曹はやにわに土嚢に身を乗り出し、山を眺めていた敵兵の首に素早く糸を巻きつけた。そのまま体を半回転させて背中合わせになると上体を屈め、敵兵を背負って二度、三度と体を揺すった。そのアルテラ兵は悲鳴も上げずに絶命したが、引き攣って暴れた軍靴が寝入っていた兵の兜に当たった。その兵が何事かと立ち上がった時、周囲から人影が起き上って短剣が煌めき、その男を四方から串刺しにした。
軍曹がフード付きの上衣に袖を通して兜を被り、掩体の上に立って、何事もなかったかのように弓を構えた。
「よし、うまくいった」
茂みの中から軍曹の率いる支援班の首尾を見届けた少尉は後ろに控えている突入班を振り返った。
「行くぞ」
少尉たちが駆け出した。
少尉は班を二人ずつに分かれて散開した。迷路のような物資の列の間を抜け、風上を目指した。ちょうど補給品の山が尽きたところで膝をついた。手近な木箱を山刀でこじ開けた。
中は紙に包まれた干肉だった。少尉と行動を共にしていたセイルの目が輝いた。ひと掴み取り出してセイルに手渡した。
「全部食うなよ」
セイルは一切れだけ口に押し込むと、残りを大事そうに雑嚢に仕舞った。少尉は自分も一切れ頬張ると、セイルにむかってにっと笑った。
「さあ、始めようか」
アルテラ軍の段列でほとんど同時に四ケ所同時に煙が上がった。直後に丘の上から雷光が走り、正門の監視陣地を吹き飛ばして詰めていた警備兵の引き裂かれた体が地面に降り注いだ。少尉が農園の屋敷に焙烙を放り込んだ。
数ケ所で同時に騒ぎを起こし、更にこの段列の最大の脅威である正面の陣地を初撃で叩く。更に次々に放火することで恐怖を煽る。これが少尉の立てた作戦だった。
ようやくアルテラ兵たちが騒ぎ出した。屋敷から慌てて駆け出た彼らはあちこちで燃え上がる炎とネレイの雷撃魔法で吹き飛ばされる補給品の山と、派手に舞い上がる木箱を見た。丘から飛来した弩砲の太矢とクル・エルフの征矢が彼らの周囲に降り注いだ。矢の本数はたいしたことがなかったが、恐慌状態に陥りかけていた後方勤務の輜重兵たちにはそれで十分過ぎた。恐怖が農園中に伝染し、攻撃を受けてない兵まで動揺しだした。右往左往するアルテラ兵たちのど真ん中にネレイの雷撃が炸裂した。それを引き金に彼らは甲高い悲鳴を上げて一斉に壊れた正門を乗り越え、橋を渡って逃げ始めた。
その姿を見て少尉は満足げに微笑んだ。信じられないくらい完璧な奇襲。少尉自身ですら信じられなかった。
だが急がなくてはならない。少尉は気を引き締めた。やがて煙を見た近傍のアルテラ軍の増援がやってくる。それまでに物資を搔き集めて離脱できなければ全滅なのだ。
「少尉! ハン少尉!」
悲鳴のような声に振り向くと、クシたち四人が駆けてくるのが見えた。
「どうした?」
「エトとライナが殺られました、騎兵です」
「騎兵だと?」
「はい、奴ら煙の中からいきなり現れて、あっという間でした。何とか箱の隙間に潜って逃げてきました」
こんな後方の段列に騎兵が配置されているとは予想もしていなかった。半日張りついて監視してきたのに何故わからなかったのか。しかし迷っている暇はない。少尉はかつて大戦でアルテラ軽槍騎兵が馳せた驍名を思い出した。
「わかった」
息を詰めて見つめる五人を素早く見回した。指揮官は兵を不安にさせてはならない。
「あの手を使おう」
「少尉! 来ました!」
補給品の山に登って見張っていたマノが叫んだ。
「よし、降りてこい!」
全員に手を振った。
「補給品の陰に隠れるんだ。セイル、弓を貸せ。矢は一本でいい」
乱雑に置かれた物資のおかげで身を隠す場所には事欠かない。兵たちが身を潜めるのを確認すると、少尉は通路の真ん中で腰の剣を抜いて足許の地面に刺した。
ほとんど待つ間もなく、煙の向こうの補給品の列で出来た丁字路にアルテラ騎兵が見えた。その姿は挿絵で見たそのままだ。一間半の騎槍を提げ、輪乗りしながらこちらを指さして何事か叫んでいる。こちらが逃げ場のない袋小路を背にしているのを知って侮っているのだ。
少尉は無言で弓を構えると息を止めて無造作に放った。矢は狙いは過たず騎兵の胸元に吸い込まれたかに見えた。しかし、その騎兵は槍を振るとその矢を簡単に弾いた。やはりこいつは精鋭だ。こんな後方地域にいていい連中じゃない。
やがて騎兵は四名に増え、轡を並べて襲歩に移った。距離は一町ほど。槍の穂先が煌めく。弓を捨て剣を構えて腰を落とした。騎兵の無表情な目に射抜かれている気がした。
少尉と穂先の距離が十間を切った時、だしぬけに馬が高く前転して騎手を放り出した。四頭とも前肢が綺麗に切断されていた。少尉が張った魔銀の糸にやられたのだ。悲鳴も上げずに騎手が玩具の人形のように地を跳ねて転がった。物陰から飛び出した五人が騎手の首筋に短剣の刃を入れ、それから馬の止めを刺していく。
「少尉、やりましたね!」
返り血に染まった手を舐めながら息を弾ませたセイルが笑った。塩分が不足しているのだ。
「ああ、しかしまだ居るかもしれない。戦利品をかき集めて早く逃げよう」
食糧さえ得られれば小隊の栄養事情も好転するはずだ。医薬品、特にポーションも探さなければ。
「少尉!」
メイムの叫び声。顔を上げるともう一騎が丁字路に佇んでいた。
「慌てるな。同じ手で行くぞ」
まだ魔銀の糸は張ったままだ。
「セイル、アロイ、ランド、騎兵の槍を持ってこっちへ来るんだ」
少尉は自分も槍を拾い上げると、自分を中心に三人を横一列に並ばせた。
「石突を地面に踏みつけてこう構えろ」
重槍兵の対騎兵防御の構えだ。たったこれだけの人数で騎兵の突撃を防げる訳がないが、あの騎兵を魔銀の糸までおびき寄せなければならない。
ささやかな槍衾を認めた騎兵がこちらに突撃を開始したのが見えた。
「あいつ、そのまま地獄にまっしぐらだぞ」
アロイが震える声で軽口を叩いた。
少尉は突進してくる騎兵から目を離さない。こんな土地には似合わない重装備だ。全身被甲鎧に方形の盾、さっきの軽騎兵の槍とは比べ物にならない太く長い騎槍、馬も蹄から頭の先まで馬鎧に覆われている。重騎兵だ。少尉は小さく呻いた。会戦における最強の攻撃兵科。それがなぜ単騎でこんな土地に。だが大丈夫だ。あの勢いなら魔銀の糸は馬の脚甲すら切り裂く。
すぐ少尉は自分の考えの間違いを悟った。青黒く光る鎧がやけに大きい。大男かと思ったが違う。あれは鎧自体が巨大なのだ。そしてあの馬。あれは馬じゃない。馬の動きを模した何かだ。あれはただの重騎兵ではない。あれは聖騎士だ。しかも帝国の。昔本で読んだ。着用者の魔力を動力に常人を遥かに凌駕する膂力を備え、圧倒的な装甲防御と魔法防御を誇り、大出力の魔法の武器を振るう超絶の存在、大戦における魔軍への最終回答、連合軍の決戦兵器。
「駄目だ! 散れ!」
少尉の叫びはしかし、魔銀の糸が切れて弾ける鋭い音に掻き消された。直後の衝撃に突き倒されるように地に転がった。馬を象ったアイアンゴーレムの巨きな蹄がセイルの体を巻き込み攪拌するのが見えた。
袋小路の行き止まりでそいつはようやく突進を停めた。槍穂の先にランドが串に刺した肉団子のようにぶら下がっていた。
槍を無造作に振ってランドの体を投げ捨てると、そいつはゆっくり振り返って少尉たちを値踏みするように動きを止めた。
その時、数本の矢がそいつの周囲に降り注いだ。丘から様子を見ていた軍曹たちの支援射撃だ。弩の太矢がそいつの肩甲に当たり、弾かれて補給品の木箱に突き刺さった。駄目か。少尉は歯噛みした。そこにネレイの最大出力の電撃が走った。そいつを中心に閃光が炸裂し、周囲の木箱が吹き飛んだ。轟音と土埃が少尉を襲った。
「やったぞ!」
そいつが魔法の防壁を張った気配はなかった。少なくとも深手を負わせたはずだ。少尉が拳で地面を叩いた。
しかし、土埃が収まってそいつが無傷で姿を見せたとき、少尉の快哉は絶望に変わった。そいつは緩慢な動きで槍を振ると穂先を丘に向けた。こいつが何を企んでいるのか少尉にもわかった。
「やめろ!」
少尉が思わず叫んだ。穂先に光が集まる。
滝のような高い音の轟音。
地面が盛り上がるような感覚と空気の壁が少尉を襲う。穂先から放たれた光の箭が丘の監視哨に次々に何本も着弾した。千切れた人間の体が着弾点から高々と跳ね上がるのが少尉にも見えた。それでもそいつは光箭を射ち続けるのを止めない。
やめろ、この化け物め。
少尉は剣を抜くと帝国製動甲冑の怪物を目指して駆け出した。
礼拝所の椅子でマースと並んで空きっ腹を抱えて寝ていたウェルドが揺り起こされたのは午二つの頃だった。
「こんにちは、ウェルド・サキさん」
見上げると昨日教会で出会った女情報将校が見下ろしていた。
「ウェルド・サキは私ですが」
情報将校は目を擦りながら立ち上がったウェルドの鼻先に触れそうなくらい距離を詰めた。眼鏡の奥の紫色の瞳が値踏みするようにウェルドの顔を覗き込んだ。ウェルドよりやや背が高い。五尺六寸ほどだろうか。このエルフの国に来てから美男美女は厭きるほど見てきたウェルドだったが、こいつはすこぶるつきだ。甘い体臭がどんな香水より心地良い。赤紫に塗った唇がいかにも食欲をそそる。畜生、歯を磨いておけばよかった。伏せそうになる目を励まして必死で見返した。視線を外したら負けだ。ところで負けって何だ?
どれくらいそうしていただろうか。
「いいでしょう」
情報将校が一歩下がって無表情に言った。
「私はエベル中佐。情報部の情報将校です」
「間諜容疑で尋問ですか? あなたのような美人に個人的に尋問されるなら悪くない。金を払ってもいい。持ってないけど」
一瞬見開いた目を細めて中佐が微笑んだ。
「聞いてた通り面白い人ね。悪い話じゃありませんよ、ウェルドさん。あなたにお願いがあって来たのです。ここでは話せませんから外に来てください」
「おい! 俺の相棒をどこに連れて行く気だ?」
マースが立ち上がって抗議の声を上げた。
「どなたかしら?」
「マースです。言っておくが相棒じゃありません」
ウェルドが紹介した。
「マースさん」
中佐がマースに顔を向けた。
「よろしければあなたもどうぞ。人手は多いほどいい。食糧の特配もつきますよ」
「行きます」
即答したマースがウェルドに向いてにやりと笑った。
案内されたのは一頭立ての無蓋馬車だった。座席は二つ、後ろに小さな荷台が備えられていた。
「ウェルドさんは左の席に、マースさんは荷台にどうぞ」
二人が席についたのを見届けると中佐が自ら手綱を取って馬車を出した。道沿いに座り込んだ人たちが羨望とも諦観ともつかぬ視線を投げてくる。居心地の悪さを紛らわそうと話のきっかけを探した。
「御者はいないのですか?」
将校が自ら手綱を取るのは珍しい。滅多にないと言っていい。
「どこも人手不足なんです」
「ところで私のことを誰に聞きました?」
「外務省付のニド魔導曹長です。ご存知でしょう?」
紅い瞳のダークエルフの微笑む顔が脳裏をよぎった。
「はい、二度ほど顔を合わせただけですが」
「彼女が言い出したんです。あなたが役に立つと」
「役に立つ? どういうことです?」
中佐が前方から目を離さずに話し始めた。
「昨夜、遊撃隊の一つが前線から敵の輜重兵を連れ帰りました。その兵はアルテラに使われているククル族だったおかげで殺されずに捕虜になったのですが、我が軍に多くの有益な情報をもたらしました。その中の一つに、敵の中に複数の聖騎士つまり動甲冑兵がいる、という情報があったのです」
「聖騎士! アルテラ軍に聖騎士がいるのか?」
荷台から身を乗り出してマースが走行音に負けないよう大声で尋ねた。
「敵の軍事顧問が持ち込んだようです」
「こんな沼沢の多い土地で重い聖騎士が役に立つのですか?」
今度はウェルドが訊いた。
「ええ、この地方は堅固な地盤が少なく、聖騎士が行動可能な場所は極端に限られます。ですから我々も聖騎士の投入を疑問視していたのですが」
そう言って中佐が紙巻をくわえ、ウェルドとマースにも勧めた。
ウェルドが馬車の揺れの中で器用に火打石を使って中佐の紙巻に、続いて自分の紙巻に火をつけた。ゆっくりと煙を吐くと中佐は続けた。
「実は未確認ながら聖騎士の存在を窺わせる情報は前からあったのです。でも、どれも信用性の低いものばかりでした。首都から脱出した軽騎兵中隊が全滅したのも聖騎士の仕業という噂でしたが確証は得られていません。しかし今回の捕虜の証言で聖騎士の存在は決定的になりました。今朝から総司令部は大騒ぎですよ」
「それで自分にどうしろと?」
「防御陣地に大規模な対聖騎士用の機動障害を作ることになりましたが、技術指導できる者が足りません」
中佐が横目でちらりとウェルドを見た。
「そこでニド曹長があなたを思い出したのです。帝国の普請技術指南役のウェルドさん」
「私は帝国籍の人間ですよ。いいのですか?」
「構いません。今や我が軍は猫の手も借りたい状況なのです。それにあなたは帝国籍といっても皇帝派ではなく皇太子派でしょう?」
眼鏡が陽光を受けてぎらりと光った。
「誤解だ。私はたまたまこの戦争に巻き込まれて逃げ遅れたただの小役人です」
「どちらでも構いません。お手伝いしていただければお礼はしますよ」
そう言って中佐がにこりと笑顔を見せた。
そこは左右を密林と丘に挟まれた街道が平野に出る隘路口に設けられた関所だった。内戦前はタムタムの関と呼ばれ、聖地ナージの正面玄関として風雅な木造建築物で有名だったが、クル軍はここに大規模な工事を施して野戦陣地に造り変えていた。柵が何重にも張り巡らされ、外側の柵の列から二歩ほど先に掘られた堀は深くはなく、人の膝までかせいぜい腰までの深さで、しばしばそれより浅かった。一様に平坦ではなく、所によっては浅かったり深かったり、小さな穴があったり、短い槍が穂先を上に埋められたりしていた。
ウェルドたちが案内されたのは、関所の番所の前に建てられた屋根型の日避けの下だった。一畳ほどもある図盤を数人が取り囲んで何事か話し合っていた。
「ウェルドさんを連れて来たわ」
エベル中佐が声をかけた。一人が顔を上げてウェルドを見た。
灰色がかった深緑の軍衣を着た背の高い女だ。エルフではない。ということは傭兵だ。背は六尺はありそうだ。この炎天下なのに透き通るような白い肌、切れ長で二重の涼し気な眼、瞳は血のように赤い。艶のある黒髪が無造作に後ろで束ねられ、胸はエベル中佐すら凌駕している。軍衣の釦が二つ外れた襟元からのぞく汗に濡れた谷間に目を奪われた。
「ようこそ、お待ちしてました。外務省付のロラ軍曹です。ロラと呼んでください。民間の方に階級で呼ばれるのは苦手なので」
にっこり笑って右手を差し出した。慌てて握った彼女の掌の柔らかさにぎくりとした。
「ウェルドだ」
すかさずマースが手を突き出した。奪うようにロラの手を握り真面目くさった顔を作った。
「マースです」
ロラはマースにも笑いかけてからウェルドに向いて口を開いた。
「ニド曹長から聞いています。普請の指南役ですよね」
「ああ、しかし野戦築城は専門外だよ」
「構いませんよ。こちらへ」
麦藁を編んだ笠を被ると鏃を外した矢柄を取って歩き出そうとした。
「ニドはいないのか?」
「ニド姉さ、いえニド曹長は軍事裁判所に収監されました。国王警備隊の兵士殺害の嫌疑で」
昨日の件だ。警備隊の傭兵三人の死体を思い出した。しかし、こんな非常時にそんなことをしてる余裕があるのか。
「ニド曹長は裏切ろうとした警備隊の傭兵と争っただけだ。彼女に罪はない」
「それで了簡してくれるような手合いなら野戦憲兵なんて仕事をしてないでしょうね。あいつらは金貨を数えるより人の罪の数を数えるのが好きなのよ」
横で聞いていたエベル中佐が吐き捨てるように言った。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。ああ見えて海千山千弥勒三千の古狐ですから」
まるで他人事のようにロラが微笑んだ。
「さあ、陣内を案内します」
ウェルドとマースを連れたロラは矢柄であれこれ指し示しながら、あそこは弩砲の掩体、あれが退避壕と説明してくれた。観光案内してくれている訳ではないことはわかっている。防御陣地の編成を頭に入れておけということだろう。ロラの話を聞きながらウェルドは周囲の地形を頭に収めようと目を走らせた。
やがて柵の列の間に来るとロラはそこで足を停めた。数百もの人々が腰を屈めてあちこちで穴を掘っている。駆り出された難民も少なくないのだろう。
ロラがウェルドを振り返った。
「聖騎士が出たのをご存知ですよね?」
「ああ、ここに来る道すがらエベル中佐に聞いた」
穴を掘っている人々を矢柄で指し示した。
「今掘っているのが動甲冑用の落し穴です」
「落し穴?」
聖騎士にそんな子供騙しの罠が通用するのか? ウェルドは訝しんだ。
「聖騎士の体が入るぎりぎりの穴です。狭すぎても広すぎても駄目です」
「すまない、よく理解できないのだが。落し穴に落ちてもすぐ這い出てくるんじゃないのか?」
動甲冑の強化された膂力なら飛び出すのも容易なはずだ。
ロラは少し困った風に首を傾けていたが、すぐ何かを思いついた顔をしてウェルドに歩み寄った。そのまま両手をウェルドの背中に巻きつけて優しく緩やかに抱き締めた。片足がそっとウェルドの両足に搦まった。
「な、何を」
豊か過ぎて柔らか過ぎる乳房を押し付けられてウェルドは軽く脳乱した。エベル中佐より軟らかな体臭がウェルドの鼻孔を刺激する。まるで柔らかい肉の布団に簀巻きにされたような幸せな気分だ。
「抜け出してみてください。飛び上がってみてもいいですよ」
「いいのか?」
腰を前後に動かせという意味ではないことは分かった。控え目に手足を動かそうとした。動けない。思い切って動かそうとしても無理だった。跳ねようとしても膝が伸びたままでは飛び上がれない。
ひとしきり芋虫のようにじたばたした後でウェルドがやっと口を開いた。
「わかった、勘弁してくれ」
「はい」
ロラがゆっくり手を拡げた。
「つまり、自分の体にぴったりの穴に嵌れば聖騎士でも簡単には抜け出せないということか」
やっとロラの柔らかくていい匂いの縛めから抜け出したウェルドが言った。
「そうです。これは種族間戦争の頃に蟲人が使った戦法です」
「そんな大昔の……」
「問題はたくさん掘らないといけないことなんですよね」
困り顔で辺りを見回した。
「それで朝から掘っているのですけど、エルフの皆さんは土工が苦手みたいで、穴が大きすぎたり小さすぎたり、土壁が斜めになったりでうまくいってないのです」
「それで?」
「ウェルドさんには工事の品質管理をお願いします。現場を回って作業を指導してもらいたいのです。できれば工程管理にも助言を」
ようは普請の現場監督をしろと言っているのだ。エルフがこういう普請仕事を嫌うことをウェルドは身をもって思い知らされていた。
「穴の諸元は?」
「差し渡し五尺、深さ一丈以上。掘った後は戸板を渡して土を掛けて偽装します。」
「穴の数は?」
「約五百」
「期限は?」
「できれば二日後の日の出までに」
頭の中で素早く計算した。
「わかった、引き受けよう」
どうせ他にやることはない。
「ありがとうございます。よろしくお願いしますね」
ロラが嬉しそうに微笑んだ。
「俺は?」
マースが口を挟んだ。
「俺の助手の代わりを頼む。俺の助手は教会で寝ているからな」
「いや、次は俺が抱き締められる番だと言ったんだが」
帝国軍事顧問団のファルケン大尉は、朝露に下衣を濡らしながら雑草だらけの道を歩いていた。戦線からおよそ三里ほど離れた湿地帯の集結地は虻や蚊が群れて舞っていたが、数多の戦場を渡り歩いてきた彼には苦にならなかった。大戦の北部戦線では高さ一丈の蚊柱が無数に立った。あれに比べれば極楽だ。
ファルケン大尉は紙巻をくわえたまま満足そうに煙を吐いた。早朝の風は冷たく、軍衣の上にもう一枚羽織りたいくらいだが、おかげで煙草がうまい。この冷気もあと半刻もすれば猛暑に変わる。陽が昇れば辺り一面が鍋の底と化し、炒豆の気分を満喫できる。
目の前に灰緑色の大きな覆いが現れた。近づくとアルテラ人の歩哨が彼の姿を認めてだらしなく踵を合わせた。軽く手を上げてすれ違ったファルケンは、歩哨の目が軽く泳いでいるのを見逃さなかった。軽度のポーション酔い特有の目だ。
また持ち物検査をする必要があるな。気づかれないよう小さく舌打ちをくれた。
隊内に蔓延るポーション濫用の風潮は罰しても罰しても後を絶たない。秩序の光教徒が多いアルテラ族は酒や麻薬にはそれほど関心を示さないが、多幸感と万能感を味わえるポーションには目がなかった。
何度検査して員数外のポーションを取り上げても、隊に出入りする商人から手に入れてしまうのだ。見せしめに商人を吊るしたこともあったが、その程度ではアルテラ兵のポーション熱は収まらなかった。彼らはどこからか材料と道具を工面すると、自分たちで低純度のポーションを自作することまでやってのけた。
このままでは兵の戦意は下がる一方だ。苦々しい思いと一緒に短くなった紙巻を勢いよく吹き捨てると、野戦整備用天幕の覆いを捲って中に入った。
「大尉」
黒線をつけた袖で汗を拭いながらドワーフが振り返った。
「ギズム、どんな調子だ?」
手近な木箱に腰を降ろしながらファルケンが訊いた。
七尺を軽く超える鉄の巨人とそれ以上に巨大な馬を見上げた。
「動甲冑は三体とも問題ありません。しかし、ライノス少尉の鋼馬がよくありませんな」
ギズム伍長が困った顔で鋼馬の右の前肢を撫でた。
「膝を交換しました。溶けた増加装甲も幾つか替えました。クルの斬込隊の電撃がもろに直撃しましたからね。鎧は魔鉄製でもこいつはただのアイアンゴーレムです。ちゃんと防壁魔法を張っていただかないと」
二日前のハン少尉率いる遊撃隊との交戦のことだ。
あれ以来、ファルケンは当てにならない警備のアルテラ軍後方拠点に間借りすることを諦め、人目につかない低湿地に独自に中隊の宿営地を構えることにしたのだ。
「ライノス少尉に言っておいてください。もう予備の在庫も少なくなってます。このままでは少尉殿は鋼馬を担いで走り回る羽目になると」
動力を着用者の魔力に依存する動甲冑は魔力の消費も激しい。立っているだけでも魔力を消耗してしまう。ゴーレムの鋼馬はその消費を抑える重要な移動手段だ。
「わかった、伝えよう」
ファルケンが苦笑しながら答えた。
「大尉、どうぞ」
どこから現れたのか、従卒のクーン軍曹が湯気の立った湯呑を差し出した。受け取って中を見ると黒茶だ。こいつはこの糞不味い黒い泥を俺に飲ませることを生き甲斐にしているのか? ファルケンは訝しがりながらも礼を言って一口啜った。やっぱりびっくりするくらい不味い。
「伍長」
湯呑の黒茶を持て余しながらファルケンが改めて声をかけた。
「我々の存在が敵に発覚した以上、これからは夜間行動を主とする。夜戦塗装はできるか?」
「黒灰色の塗料でいいなら今日中に塗れますが」
「頼む。これからは夜戦専用だ」
そう言って立ち上がるとクーンに向き直った。
「俺はこれから首都に行ってくる」
隊を離れたくはなかったが、わざわざ彼一人の往復のために航空竜騎兵を飛ばすとまで言われたら断れない。
「お気をつけて」
ファルケンは黒茶を決死の覚悟で飲み干して湯呑をクーンに押しつけると天幕の覆いを持ち上げて外に出た。
数刻後、ファルケンの乗った黒塗りの高級馬車は、前後を軽騎兵に守られてアルテラ軍の手に落ちた首都の大通りを走っていた。人通りは皆無に近かった。時折戦利品を漁るアルテラ兵が建物を出入りする他に動くものはなかった。
「昨日」
ファルケンの隣に座った初老の男がしきりに額の汗を拭いながら口を開いた。
「帝都から遠距離念話で問い合わせがあった。君のことでだ」
滂沱の勢いで流れる汗が鷲のように精悍な顔立ちを台無しにしている。
「暑いですか? 礼服なんて脱げばよろしいのに」
ファルケンは冷ややかにネルダース軍事顧問団長を見返した。
「そうもいかんだろうが」
絹の手巾をしきりに動かしながらネルダースが睨み返した。
「帝都は君の独断専行を憂慮している」
「独断専行?」
ファルケンが目を見開いた。
「私がいつ独断専行を?」
馬車は本通りに入った。かつてはエルメダス通りと呼ばれていたこの通りは六日前にアバイユ将軍通りに改称されたばかりだった。
「派手に動き過ぎている」
「派手、とは?」
「我らは軍事顧問であってアルテラ族の傭兵ではない。我らの任務はキリアス・アバイユの政治及び軍事活動に有効な助言を与えることと彼の身辺警備だ」
「護衛ならそれこそ掃いて捨てるほどいるでしょう。帝国本土から流れてきたエルフの無宿人やら壮士気取りやらがね。わざわざ私やあなたが剣を帯びて将軍のお側に侍する必要はないと思いますが」
「私はわざわざ君たちを帝都から呼び寄せた。動甲冑と野戦整備小隊付きでな」
「それは恐縮です」
「あれはアバイユ将軍の力と軍事的優位をクル族に見せつけるための道具であり、事あらば将軍を守るための最後の盾でもある。私は君が動甲冑をそのように使ってくれると期待していた。しかし君は前線で大暴れだ。皇帝陛下の聖騎士がこんなところでエルフを虐殺していると広く知られれば諸侯たちはどう思うか」
「そんなに派手に動いているとは思いませんが」
ネルダースが一枚の紙をファルケンの鼻面に突き出した。
「読んでみろ。カルフィールの修道士が帝都大修道院に送った報告書の写しだ」
ファルケンは手汗で湿った報告書を手にした。
「お前たちのことが書かれている。どうだ、誇らしいか?」
ファルケンは丹念に報告書を読むと丁寧にネルダースの手に返した。
「ここに書かれているのは全て憶測です。帝国の聖騎士が政府軍の軽騎兵中隊を全滅させたとか敗走するクル族部隊を殲滅したとか書かれていますけど、その殆どは難民の根拠のない噂話から拾い上げたものです。団長殿も御存知の通り、クル族軽騎兵中隊の撃破はウルメニに展開した航空竜騎兵支隊の功績です」
「そんな言い訳は書いた本人に直接言え」
顧問団長は無表情に言い返した。
「皇帝派の諸侯の間でも非難の声が上がり始めている。皇帝陛下は肉を切り分けるのに斬首剣を使っているとな。斬首剣とは大戦時代に帝国第三造兵廠で作られた三体の時代遅れの動甲冑のことだ」
「我々の評判ならあのエルフの恰好をした手長猿を支援すると決めたときにとっくに地に落ちてましたよ」
「もういい」
議論はもう十分だというふうにネルダースが手を上げてファルケンの言葉を遮った。
「とにかく動甲冑はすぐ前線から引き揚げてもらうぞ。万が一にもあれが敵に撃破されて残骸を奪われたらと思うと夜も寝られん」
「せめて一週間待っていただけないですか? 熱帯雨林での動甲冑の運用実績の蓄積のために」
「駄目だ。明日すぐ君の隊に撤収命令を出せ」
「しかし」
「頼む。ただでさえ私には問題が山積みなんだ」
濡れた手巾を仕舞ったネルダースが初めて気弱そうな目でファルケンを見た。
「これ以上私を苦しめないでくれ。言うことを聞かないなら私は君の本国送還手続きを取らねばならん」
キリアス・アバイユ将軍と彼の幕僚たちは、首都占領の際に徹底的に破壊された王宮から数町ほど南にある三階建ての石造りの建物に臨時革命政府の旗を掲げていた。元は造幣局だったというその建物は、正面玄関に張り出した庇が石弾で吹き飛ばされ、壁にもいくつか穴が開いていたが、それでも首都中心部の建物の中で一番原型を保っていた。
「アバイユ将軍に呼ばれたのだ」
玄関の立哨に告げると待ち構えていたように将校が飛び出してきた。歩哨の控所で待機していたのだろう。
「どうぞ、こちらへ」
エルフにしては珍しく慇懃な態度で将校が二人を中へと促した。
「今日はどのような用件で呼ばれたのかね?」
ネルダースが汗を拭いながら訊いた。
「昨夜、閣下に精霊のお告げがあったのです。お二人をお呼びせよと」
それで十分だと言わんばかりに将校は口を閉じた。
アバイユの行き過ぎた精霊信仰は広く知られていたが、ここまで膏肓に入っていたのか。ファルケンはあまりの薄気味悪さに唾を吐きたくなった。栄光ある帝国がこんな神秘主義者に肩入れしているとは。そしてそんな戯言に帝国軍人である自分が左右されている事実に情けなくなった。
流石に臨時政府の将軍府なだけあって掃除は行き届いていて塵ひとつ見当たらない。どこからか微かな嬌声が聞こえてくる。それが将軍の後宮にいる女たちの声であることをネルダースもファルケンも噂に聞いていた。
「将軍は戦場にまで寵妃たちを連れてきているのかね?」
「この解放戦争を指導し全軍の指揮を執る閣下の重責を少しでも和らげるためには彼女たちの愛が必要なのです」
案内の将校がさも当然のように答えた。
「まさか全員連れてきているのか?」
「はい。二階と三階の部屋は全て彼女たちに割り当てられています」
「それはまた健啖なことだな」
ネルダースの皮肉を将校は鼻で笑った。
「帝国にも戦陣に美姫を引き連れた皇帝がいたと聞いています」
ファルケンは思わず噴き出した。確かにこいつの言う通りだ。だが後宮の女たちを丸ごと全員連れてくるとは。
「それに彼女たちと共にいる時ほど精霊のお告げがあるのです」
「これは少し待たされるかもしれませんな」
ファルケンが冗談めかしてネルダースに言った。
少しではなかった。大理石に囲まれた廊下の一番奥まった小部屋で二人はたっぷり一刻ほど待たされた。前は造幣局長室だったという部屋は殺風景だったが、どの調度品にも金がかかっていることだけはファルケンにもわかった。今座っている椅子だけでも彼の給金一年分はするだろう。ネルダースは頻りに汗を拭いながら、ファルケンは腕組みしながら、仲良く並んで黙然と前方を見つめていた。
やがて、入室を告げる鐘の音が響き、数人の男が部屋に入ってきた。
「やあ、ネルダース卿」
煌びやかな服を着た先頭の男が微かに笑みを浮かべて両手を差し伸べ、立ち上がったネルダースが差し出した両手を自分の掌で包んだ。エルフの古い作法だ。
この時初めてファルケンはアルテラ族の独裁者を間近で見た。彼は大通りや街角の布告板に貼られた肖像画ほど美男子ではなかったが、その眼光は鋭く、まるで大型の冷血動物に睨まれているようだ。
「将軍閣下、軍事顧問団の戦闘部隊の責任者であるファルケン大尉です」
「やあ、大尉。確か開戦前の作戦会議で会ったことがあるね。君の戦術理論は大いに参考になった」
あの時確かにファルケンはカルフィール軍の対応能力を麻痺させるために複数地域での突破攻撃を提案した。しかしあれは参謀級の調整会議でこの男はいなかったはずだ。
「憶えていただき光栄です、将軍閣下」
女物の香水と複数の甘ったるい体臭がファルケンの嗅覚を刺激した。こいつは俺たちを待たせて女と寝ていたのだ。しかも複数の。しかしそんなことよりもファルケンは包まれた手の甲の感覚に戦慄した。将軍の手は氷のように冷たかった。
中央の椅子に座ったアバイユは二人に座るように促した。
「君たちを呼んだのは他でもない。ナージに対する総攻撃の件だ」
独裁者の将軍は単刀直入に言った。
「国家の敵であるエルメダス僭王と奴を奉ずるクル族の反逆者どもを滅し去る時が来たのだ」
「お待ちください」
ネルダースが声を上げた。
「このまま圧迫を続けてエルメダス政権の無条件降伏を引き出す計画だったはずです」
「そんな悠長なことは言っていられないのだ、ネルダース卿」
「理由をお聞かせ願いますか」
「精霊の啓示があったのだ」
また精霊か。ファルケンは心の中で呆れ返った。
「速やかにクル族をナージごとこの地から消し去れとね」
「唐突ですな。しかしまだそこまでの準備は整ってません」
なおもネルダースは抗った。いつの間にか汗が引いている。
「幹線道路の一部はいまだクル族の占領下にあり、路上はクル族の難民が充満していてとても通れるものではありません」
「貴国の航空竜騎兵の空中偵察によれば」
帝国式の参謀肩章をつけた細身のアルテラ・エルフが口を挟み、鮮やかな手つきで持っていた地図を拡げた。
「敵は街道沿いの回廊地帯に縦深に複数の陣地を準備中ですが、その大半はまだ殆ど手付かずの状態で警戒線程度の強度しかありません」
ファルケンは地図を覗き込んだ。ナージに至る幹線道路を横切るように数本の太い線が引かれている。
「現在、陣地としてそれなりの水準に達しているのは回廊の入口と出口の二線」
一番手前の線と一番奥の線を手にした指揮棒で指した。
「今なら第一線陣地を突破すれば奥の陣地線まで一気に戦線を推進できます」
「敵が準備未完の今こそ好機ということだよ」
アバイユが得意げに言った。
「しかし、現有戦力で第一線陣地を突破できるのですか?」
アルテラ軍は自らの急進撃とクル軍の焦土作戦による兵站の混乱からまだ立ち直っていない。組織的な攻勢作戦など不可能だ。今は兵站の再構築と部隊の再編成が急務のはずだ。
「それは問題ない」
アバイユが自信たっぷりに言い放った。
「君の三騎の聖騎士がいるじゃないか」
アバイユの後ろに並んだ幕僚たちが力強く頷いた。
ファルケンは慄いた。冗談じゃない。将軍は俺たち動甲冑兵を破城槌の衝角にしようとしている。
思わずファルケンが身を乗り出した。
「閣下、確かに動甲冑は強力な攻防力を備えていますが、稼働時間その他の制約も多く、他の兵科との緊密な連携が」
アバイユが手を上げてファルケンの言葉を遮った。
「大丈夫だ。この件に関しては精霊も承認している」
アバイユが不敵に笑った。
「私の精霊がその力で君の動甲冑を守るだろう」
「将軍閣下……」
なおも言い募ろうとするファルケンの腕をネルダースが掴み、小さく首を振った。
「これは私の精霊の力を示す絶好の機会なのだ。クルの裏切者どもはその身で精霊の威力を思い知ることになるだろう」
芝居がかった動きでアバイユが大きく手を振り拡げた。
帰りの馬車に乗り込んだ二人は苦々しげに窓を開いた。
「まいったな。あの精霊気違いめ」
そう吐き捨てるとネルダースは礼服を脱ぎ捨てた。
「だが君は望み通りこれで前線に留まれることになった訳だ」
上衣の釦を引きむしるように外しながら苦笑した。
「帝都への言い訳を考えなきゃならんな」
しかし、その言葉はファルケンの耳には入らなかった。
ファルケンは参謀から渡された地図の写しを一心に眺めながら歯を食い縛っていた。その額には汗が滝のように流れていた。
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