第5話後編 里に置き去ったもの

 冬も近い山嶺の谷風がやかましい。その中を、トランドの魔獣討伐隊は崖だか山径だかよくわからない斜面を這うように登っていた。内訳は冒険者組合八個パーティ四十二名に馬借六十四名。馬車から降りて歩き出してもう三日目だ。

 これ以上馬車で進めないとわかると、馬借たちは荷物を降ろすと馬車を手早く分解し、荷と馬車の部品を馬に駄載した。馬の背に乗せきれない荷は人の手で運ばなければならない。冒険者たちは自分の装備以外に天幕や食料、その他の道具を担いでいた。バートも十貫を軽く超える荷物を背負っている。

 既にバートは考えるのを止めていた。前を進む者の踵以外目に入らない。疲労と重荷と不安定な足場のせいで何度も転んだ。たまの小休止はあっというまに過ぎ、再び延々と死んだ目で歩き続ける。足を止めるともう二度と歩き出せなくなりそうだ。


 永遠に歩き続けている気がしてきた。そしてこれからも死すら許されず永遠に歩き続けるのだ。バートが悟りを開きかけたその時、後ろを進むシロが声を掛けた。

「見えたぞ」

「……」

 返事をする気力もなかった。苦労して顔を上げると尾根の向こうに石造りの建物が見えた。その周囲には天幕が幾つか寄り添っている。

「あそこが目的地だ。頑張れ」

 せめて笑おうとしたが失敗して顔が歪んだ。もう振り絞る元気なんて一滴も残ってない。仕方なくバートは無言で足を前に出した。


 そこは忘れられた神を祀る神殿の廃墟だった。これほどの人数が集ったのは何百年ぶりかに違いない。こんなところに神殿を作った往時の人々の信仰と努力には呆れるばかりだ。

 すでに他市の冒険者組合は到着して宿営地を構えていた。担いでいた荷物を放り出してへたり込んだバートたちに魔銀の板金鎧を着た金髪の娘が背筋を伸ばし大声で指示を飛ばした。

「皆さん! 食事が終わったら宿営の準備をお願いします!」

 トランドの討伐隊の隊長で「白銀の凶星」のリーダー「破軍の戦巫女」ヘルガだ。風に靡く漆黒のマント、手には五尺はありそうな大剣、腰に吊った六本の刺刀、その全てが高度な魔法がかけられた特注品だという。齢は二十そこそこだがその実力は王国冒険者の中でも五指に入る。


「凄いですね。全然疲れているように見えない」

 バートが硬くなったパンを齧りながら感心して呟いた。

「彼女は勇者だからな」

 隣でジョバンが干肉を齧りながら答えた。

 勇者は圧倒的な魔力を備え様々な魔法の装備を使いこなすだけでなく体力気力も桁が外れている。普通の人にとっては半神的存在なのだ。

「でもあんなに若いのに凄いですよね」

 それに物凄い美人だ。貴族の出自だけあってこんな場所でも気品に溢れている。

「勇者とは生来のものだからな。俺たちの物差しじゃ測れんよ」

「はあ」

 パンを咀嚼しながらヘルガの姿を呆けたように眺め続けた。あれが冒険者の頂点「勇者」か。

「さて、早く天幕を立てますよ。今夜も冷えますからね」

 そう言ってマンスルが立ち上がった。

「はい!」

 慌てて返事をするとパンを口に押し込んで立ち上がった。


 トランドの討伐隊が宿営地を構えるまで一刻もかからなかった。「白銀の凶星」の大きな天幕を中心に七つのパーティと馬借たちの天幕が一町半四方の方陣を組んで並んでいる。荷を下ろした馬たちは廃墟の中庭に設えられた急拵えの馬留めに繋がれた。雨に備えて排水溝を切ったり厠の穴を掘ったりと細かい仕事は残っていたが、それでも一息つける場所が確保できただけで有難い。


 自分が建てた天幕を満足そうに眺めて水筒の栓を抜いたその時、突然陽光が翳った。雲かと思って見上げると大きな影が目に入った。馬留めの馬の悲鳴が響き渡った。

 飛竜だ。バートはこれほど近くで飛竜を見たことがなかった。皆が見守る中、飛竜は宿営地の上空を一周すると廃墟の前庭に降り立った。前庭に立てられた本陣の大天幕が吹き飛ばされた。航空竜騎兵の騎竜よりずっと大きい。広げた翼は片翼だけで二十畳はありそうだ。数珠玉のような黒い目が遠巻きに取り囲む冒険者たちを睥睨した。


「長はいるか?」

 出し抜けに頭の中に声が飛び込んできた。念話だ。しかしバートのような魔法の心得のない者にまで聞こえるとは。

 冒険者の中から四人の人影が進み出た。各市の討伐隊の隊長たちだ。ヘルガの姿も見える。

「我は白尾の一族第三位のギガ、汝らを歓迎しよう」

 豊かな白髭を蓄えた司祭姿の老年の男が竜の前に立った。手には凝った造形の笏杖を持っている。

「ツヴォルクのアミルスだ。あの御老体も来ていたのか」

 隣でゴルトンが呟いた。バートもその名はよく知っている。その智謀と勇気、戦歴から王国最高と謳われる冒険者だ。先の大戦で魔軍の最後の攻勢を僅かな仲間とともに防いだ勇戦は吟遊詩人にうたわれ王国内で知らぬ者はいない。


「我らはツヴォルク、リンツ、トランド、ヘルティアの冒険者。国王陛下の命により北の山脈を跳梁する魔獣を退治すべくかく馳せ参じた」

 穏やかだがよく通る声だ。ギガが頭を垂れてアミルスと相対した。

「かたじけない。我が一族は天が落ち地が割れるまで汝らと汝らの国王に感謝を捧げよう」

「痛み入る。早速仕事の話をしたい。何があった?」

「一月ほど前だ。我らの卵が盗まれるようになった。最初の卵が消えた時点で壮竜たちが警戒に当たったが、仇は変幻自在に我らの目を欺き続け更に三つの卵が盗まれた」

「我らは卵は喰われたと聞いている。盗まれただけなのに何故喰われたと思うのだ?」

 ギガが唸り声を上げた。癇に障ったのはバートでもわかった。冒険者たちの間に動揺の波が広がった。

「つい二週間前の夜、養育巣の一つが襲われて幼竜六頭が喰い散らされた。仇はまだ幼い仔たちを喰ったのだ。卵を喰わない理由があるか?」

 どよめきが起こった。無抵抗な卵ならともかく生きた竜を喰う敵。

 アミルスが手を上げて静まるように合図した。

「何故幼竜が喰われたことを報せなかった?」

「誇り高き白尾の一族が戦うことなく喰われたなどと言えるものか」

「では何故敵と戦わなかった? 何故営巣地を移した? 誇り高き白尾の竜が」

「見えぬ敵とは戦えぬ」

 ギガが頭を上げアミルスを見下ろした。

「汝らには仇を探し出して欲しい。地を這う汝らならば憎き仇を見つけるのも容易かろう」

「仇が空を飛んできた可能性は?」

「最初の卵が喰わてから空は昼も夜も厳重に見張っている。空から侵入するのは不可能だ」

「捜索するだけでいいのか?」

「見つけてくれれば一族が総力を以って叩き潰す」

「わかった。見つけたら必ず念話で伝えよう」

「しかと頼み置いたぞ。汝らの言葉でこう言うのだったな。汝らに運命の女神の加護があらんことを」

 話はこれまでと言わんばかりにギガが翼を広げた。風の魔法が巻き起こり、巨体が宙に浮いたと思うや矢のように天空に駆け上った。強風に煽られた冒険者たちが小さく罵声を飛ばした。


 飛び去る竜を見送っていたアミルスが振り返った。

「各市の討伐隊の隊長は集まって欲しい。」

 それを合図に冒険者たちも馬借たちもぞろぞろと自分の天幕に戻っていった。

「馬借や他の討伐隊と宿営地の警備の段取りを相談してくる。天幕の手直しをしておいてくれ」

 エミルはそう言い残して足早に倒れた大天幕へ向かってしまった。

「行くぞ」

 飛竜が飛び去った空を呆けて見つめるバートにシロが声を飛ばした。


 竜が飛び去ってから半刻ほど後、

「どんな調子だ?」

「蒼き流星」のアースンが長柄の円匙を振るって厠穴を掘るバートに声をかけた。彼らもこの討伐行に参加していた。特級冒険者への昇格が近いアースンにとってこの魔獣退治は実績作りに絶好の機会なのだろう。

「順調です」

 バートが手を休めて答えた。幸いここの地盤は軟らかく石が少ない。面白いように穴が掘れた。もう三尺四方で深さ四尺の穴が出来上がってた。アースンが穴の傍に屈んで穴を覗き込んだ。

「もう一尺程掘ればいいだろう。板を持って来よう」

 穴に板を二枚差し掛ければ立派な厠になる。掘った土は穴の横で山になっている。用を足した後にこの土をかければ悪臭も抑えられる。

「いえ、自分がやりますから」

 バートが慌てて手を振った。こんな格上の冒険者に手伝わせる訳にはいかない。

「遠慮するな。厠ができるのを身を捩って待ち焦がれてる連中もいるだろう」

「ありがとうございます」

「気にするな。ところで」

「何ですか?」

「トランドの猟友会も来ると聞いていたが、まだ来ていないようだな」

「彼らの担当地区から離れていますから遅れているのでしょう」

「道に迷ってるかもしれないな。獣は縄張りから離れると気弱になるらしい」

「ははは、まさか」

「まあこれだけ冒険者が揃えば猟師の出る幕はないがな」

 笑いながらアースンが資材置場へ歩いていった。

 その後ろ姿を見送ってバートは穴掘りを再開した。いつの間にか穴を掘るのが楽しくなっていた。



 秋の日はつるべ落としだ。もう日は山の稜線へ没しつつあった。冒険者も馬借もそれぞれ焚火を囲んで忙しなく食事を準備していた。食事といっても干肉と近くで摘んだ野草に少しの麦を混ぜたごった煮だ。しかしこの寒空に暖かい食事は有難い。

 バートが掻きまわす鍋を見つめながらエミルが「鋼の烈風」の一同に告げた。

「今夜はリンツとヘルティアのパーティが不寝番に立つ。我らはツヴォルクのパーティと共に明日の夜だ。詳しい段取りは明日の昼に決める。今夜はゆっくり休めるぞ」

「馬借たちはどうするのだ?」

 ゴルトンが訊いた。この宿営地には四市あわせて三百近い馬借が起居している。宿営地に着いた今、魔獣退治に携わらない彼らは足手まといだ。

「馬借たちは明日の昼前には宿営地を発って西のハトリという麓町で待機することになった。西の山道は馬車が通れるそうだ。トランドの馬借も明朝馬車を組み立てて他市の馬借と行動を共にする」


 トランドの猟友会が到着したのは皆が夕食を終えて景気づけの酒盛りが始まった頃だった。人数は五人。全員が薄茶のマントを羽織り、目深に被ったフードのせいで顔は見えない。うち二人は明らかに異形だった。一人は子供のように背が低く、もう一人はフードから鱗に覆われた口吻が突き出ていた。

 全員の視線が注がれる中、五人はすたすたと本陣の大天幕まで進む。ひと際大きな焚火を車座に囲んで床几に座る各市の特級冒険者たちの前で立ち止まるとゆっくりとフードを取った。冒険者たちがどよめいた。

 半弓を背負った年老いたゴブリンの男が一人、槍を二本担いだ人間の若い女が一人、大斧を提げたリザードマンの男が一人、弩を担いだエルフの男が二人、全員が泥で汚れている。

「我が名はハギス。トランド市の猟友会から来た」

 ゴブリンが特級冒険者たちに向かって告げた。それだけ言えば十分だろうという態度だ。


「何故猟友会はゴブリンやリザードマンを寄越したんだい?」

「白銀の凶星」の一人、漆黒のヴィキニ鎧を纏った大柄な女戦士が不満げに酒臭い口を開いた。明らかに酔っている。

「やめなさい、サティラ」

 ヘルガが止めようとしたがサティラは更に続けた。

「私はこいつらと組むのは反対だね」

 冒険者の間から賛同のどよめきが上がった。

 かつて種族間戦争で人間側に与力して戦ったエルフとドワーフ以外の亜人を今も忌み嫌う人間は少なくない。特に亜人の難民問題に悩むトランド市はその傾向が強い。亜人を躊躇なく雇うという理由で猟友会に嫌悪感を隠さないトランド市民も多く、冒険者も例外ではなかった。

「苦情は猟友会に合力を頼んだ冒険者組合に言うべきだな、冒険者殿」

 ハギスが平然と答えた。

「何を!」

 サティラが戦槌を取って立ち上がろうとする。

「やめて! サティラ!」

 ヘルガが叫んだ。

 リーダーの叱声にサティラは上げかけた腰を下ろした。その顔はまだ納得していない。敵意のこもる視線を猟師たちに向けたままだ。

「我らが不満というのがそちらの総意なら我らは帰る。我らも暇ではないのだ」

 ハギスが特級冒険者たちに言い放った。

「いえ、お見苦しいところを見せて申し訳ありませんでした。あなたたちを歓迎します」

 大いなる和解から百年、公式には種族差別は否定されている。トランドの冒険者組合を代表する立場のヘルガはそう答えるしかなかった。だが場の空気は最悪だ。誰もこの老ゴブリンに言い返せない。


 気まずい沈黙を破るようにアミルスが立ち上がった。

「トランドの猟友会の方々を歓迎しよう。よく来てくださった。しかし、何故に遅参したのだ?」

 四市の討伐隊を統帥する立場のアミルスにすればここで一つ猟師たちの瑕疵を挙げて穏便に窘めておく必要があった。

 アミルスの詰問に猟師たちが小さくせせら笑って一斉に唾を地に吐いた。明らかな侮蔑の仕草。特級冒険者たちに緊張が走った。最悪だった空気が更に悪くなる。殺し合いが始まっても文句は言えない。

「我らは四日前に山に入った。飛竜が捨てた営巣地の検分を終えてここに来たのだ」

 ハギスが呆れるように告げた。

「何! 営巣地に?」

 アミルスが驚きの声を上げた。営巣地の場所は秘とされていてアミルスすら知らされていない。飛竜は営巣地を知られるのを何よりも嫌う。

「捨てられた営巣地だ。問題はあるまい」

 ゴブリンが事も無げに続けた。

「何故我らに知らせなかった?」

「まだお前たちは山に入っていなかった。知らせようがあるまい」

「営巣地に立ち入るのは王国と飛竜の間で交わされた契約に対する重大な違背だ。飛竜の一族はこのことを知っているのか?」

 なおもアミルスが食い下がった。血圧を上げるアミルスにゴブリンが宥めるような口調で告げた。

「そろそろ仕事の話をしないか?」

 ゴブリンに諭されるとは。生きた伝説とまで讃えられる特級冒険者アミルスにとって屈辱の極みだ。

「ああ、伺おう」

 アミルスが何とか威厳を守りつつ床几に座って話を促した。


 一息置いて老ゴブリンが話し出した。

「営巣地の周囲を詳しく調べたが足跡は見つからなかった」

「なんだい、偉そうなことを言っておいてこの体たらくかい。当てにならない猟師だねえ」

 サティラがおかしそうに嘲った。つられて冒険者たちから湧き起こった嘲笑をアミルスが手を上げて黙らせた。

「では明日から足跡の捜索に人数を出す。各市は斥候の選出を頼む」

 猟師たちに向き直った。

「営巣地まで案内して欲しい」

「勘違いするな。我らが足跡を見つけられなかったということは足跡など最初からないということだ。恐らく空を飛んでいるのだ」

 ゴブリンの台詞にアミルスが鼻白んだ。

「心当たりがあるのか?」

「わからん。故にこうして来たのだ」

「どういう意味だ?」

 ハギスが馬留めに顎を向けた。馬たちが悠々と草を食んでいる。

「宿営地には馬が二百頭ばかりいるだろう。囮にして的の正体を見極める」


「馬鹿野郎! 馬を魔獣の餌にする気か!」

 怒声が響いた。馬借たちが騒ぎ出した。盗賊が跋扈する街道の往来を生業にしている連中だ。腕に覚えもあれば気も荒い。しかし猟師たちはつまらなそうに立ち尽くしていた。

「馬を大事にする気持ちはわかる。しかし人の命より高いものではあるまい」

 罵声が収まるのを待ってハギスが言った。

「一体どうしようというのです?」

 黙って聞いていたヘルガが口を開いた。

 ハギスが特級冒険者たちが囲んでいる焚火を指さした。

「この火の周囲に馬を繋ぐ。我らは闇に紛れ隠れて的が馬を喰いに現れるのを待つ。簡単な話だ」

「今夜魔獣が現れる保証はあるのですか?」

「竜の営巣地を襲う豪胆な的だ。人間の宿営地を襲わない理由はない。そう思わんかね、お嬢さん?」

 老いたゴブリンの兇悪な笑顔にヘルガは思わず後込んだ。


 再びアミルスが立ち上がった。

「馬を囮にすることは許さぬ。魔獣が襲ってくるのなら好都合。ここには特級十九名を筆頭に二百を超える冒険者がいる」

 大きく見得を切って手の笏杖を振りかぶった。

「魔獣など返り討ちにしてくれようぞ!」

 それを合図にあちこちから応の叫び声が上がった。どんどん声が大きくなる。やがて皆が拳や得物を振り上げ、宿営地が割れんばかりの鬨声を作った。

 どうだと言いたげにアミルスが猟師たちを見返す。

「いいだろう。我らも今夜はここで過ごす。冒険者が的を仕留めてくれればそれに越したことはない」

 言い捨てるとハギスは踵を返した。四人の猟師が後に続いて特級冒険者たちの輪から離れていった。


「今の話、本当なんですか? 魔獣が今夜現れるって」

 杓子で鍋の黒茶を湯呑に注ぎながらバートが呟くように言った。周囲の冒険者たちが酒を傾ける中、「鋼の烈風」だけは酒を飲んでいない。対人の依頼を専らとする彼らには仕事中に酒を飲むという習慣がなかった。

「わからん、我らは魔獣は専門の外だからな」

 エミルが黒茶を啜って答えた。

 バートから湯呑を受け取りながらシロが口を開いた。

「さっきの話だが、あのゴブリンの猟師は魔獣が空を飛んでいると言った。しかし空は飛竜が常に目を光らせている。おかしくないか?」

「不可視の魔法程度では飛竜を誤魔化せるとは思えぬしな」

 そう言ってゴルトンが焚火から燃えさしを取って紙巻に火をつけた。

「まあいい」

 エミルが一同を見回した。

「どうせ我らが考えても埒が明かぬ。そういうのは特級冒険者と猟友会に任せよう。しかし今夜は寝る時も装具を外すな」


「猟友会といえば、あの人たち大丈夫なんですか?」

 バートが自分の湯呑を両手で持って訊いた。

「えらく険悪そうでしたけど」

「猟友会め。よりによってゴブリンとリザードマンを寄越すとは」

 ゴルトンが吐き捨てた。ゴブリンやリザードマンを忌み嫌うというより猟友会の浅慮を責める口調だ。

 皆が首を巡らせて猟師たちに目を向けた。宿営地の隅で天幕も立てず小さい焚火を囲んでいる。何事か話し込んでいるようだ。

「猟友会が敢えて派遣したのだ。腕利きなのだろう」

「それにしてもあの態度はいただけませんね」

 マンスルが残念そうに呟いた。

「仕方ない。最初に喧嘩を売ったのはこっちだ」

 ジョバンが宥めるように言った。

「揉め事にならねばいいのですが」


 「鋼の烈風」の面々が何となく猟師たちを眺めていると、ふいに猟師の一人が立ち上がった。手に槍を提げ、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

「なんだ?」

 シロが全員の疑問を代表するように口に出した。人間の女だ。焚火を囲んで座る一同の前に立った。泥と埃で色褪せた金の蓬髪に小麦色の肌、猫のような眼に赤い瞳、マントの下に鎖鎧に胸甲、膝下まで伸びた草摺が見えた。手に槍を提げ足許は脚絆に革足袋で固めている。

 女が素っ気無く一同を見回す。空気が僅かに緊張した。

「お嬢さん、うちのパーティに何か用か?」

 エミルが油断なくゆっくりと訊いたエミルに女が口角を上げてにっと笑った。

「バートって子に用があるのよ」



「あんたがバートくんね?」

 小麦色の肌の女がバートを見つめて声をかけた。

「あ、はい」

 誰だこのお姉さんは? こんな知り合いはいない。

「わたしはスウ。アイカの姉だよ」

 アイカからスウという名の姉が猟友会にいるのは聞いていた。でもこんな美人なお姉さんとは聞いていなかった。バートの情人の姉と知って一同がほっと緊張を解いた。

 やっとスウの言葉を理解したバートが慌てて立ち上がって頭を下げた。

「どうも初めまして。バートです」

 スウが車座を回り込んでバートの目の前に立った。バートより背が高い。腰に手を当ててバートを睨みつけた。

「あんた、アイカに何してくれちゃってるの?」

「は、はい?」

 打って変わったスウの態度に狼狽えるバートを横目にスウがエミルたちに向き直って悪戯っぽく笑った。

「ちょっと二人でお話させてもらっていい?」

「ああ、どうぞ」

 エミルが答えた。皆がにやにや笑ってバートを見ている。

「しかし余り遠くに行かれると困る」

「大丈夫、ちょっと顔を貸してもらうだけだよ」

 そう言って顔を傾けてバートを促した。


「うん、この辺でいいか」

 宿営地から少し離れた草地でスウが立ち止まった。振り返ってバートの目を覗き込む。

「あの、何か?」

 バートの疑問を無視してすっと顔を寄せて犬のようにすんすん鼻を鳴らした。

「うん、アイカの匂いが残ってる」

 にやけた顔でバートを見つめた。

「え?」

「アイカの体を好き放題してるよね? 平たく言えばアイカの体中の穴を使って満たせぬ獣欲を満たそうとしてるでしょ?」

「してません! してませんよ、そんなこと!」

 本当はしています。

「アイカが言ったんですか?」

「違うよ。匂いでわかっただけ」

「まさか」

 必死で笑顔を作った。

「別にやっててもいいよ、アイカもバートのこと大好きって言ってたからね。それより」

 すっと人差し指を立ててバートの額に置いた。

「誓って」

「はい?」

「生涯アイカ以外の女と寝ないこと」

「どういうことです?」

 アイカの姉とはいえ何故ここでこんなことを? 理解できずバートは混乱した。

「平たく言うとね……」

「いえ、言わなくてもいいです。意味はわかってます」

「ついでに言うと相手が男や人間以外ならいいって訳でもないよ」

「わかってます」

「誓える?」

 初めて逢った日を思い出した。粥を分け合って微笑んだアイカの顔が脳裏を過った。あの時からあの三白眼に恋していたのだ。問われるまでもない。

「誓います」

 スウがにやりと微笑んだ。舌なめずりする大型の肉食獣のような笑顔。バートは心臓が冷えるのを感じた。

「おめでとう、今ギャサが結ばれたよ」

「何のことです?」

「気にしないで。このことを聞いたらアイカも下帯を濡らして喜ぶわ」

 スウがにこやかに笑った。さっきの獲物を見つめるような笑顔は錯覚だったのか。


「じゃあこれ」

 スウが手に持った槍を差し出した。穂先が布で何重も巻かれている。

「何です、これ?」

 さっきから質問してばかりだ。

「わたしたち姉妹からの贈り物。結構いいものだよ」

 ぐいとバートの手に押しつけた。

「あ、ありがとうございます」

 スウが小さくため息をついた。

「これでわたしの用事は済んだ」

「はあ」

 渡された槍は自分が使っている槍と寸法はほぼ同じ一間程だが異様に重い。

「まあ使うか使わないかはあなた次第だけどね」

 布の下から黒光りした平三角の穂先が現れた。形は変哲もない地味な直槍だが短槍にしては刃渡り一尺余りもある。表面に微かに細かい叢があった。

「凄いですね」

「鋼の芯が入ってるからね。簡単には折れないよ」

 得意そうにスウが説明した。

「こんな凄いものは受け取れません」

 バートは目利きではないが業物なのはわかる。駆け出しの三級冒険者には過ぎた代物だ。こんな代物を女に貢がせたと周囲に知られれば立場がない。

 途端にスウが真面目な顔を作った。

「ここから生きて帰ってアイカに逢いたいなら貰ったほうがいいよ」

「でも、こんな高そうなのは……」

「後で体で払ってくれればいいよ。主にアイカにね」

 そう言って槍を抱えて立ち尽くすバートににっと笑いかけた。

「それでは有難く頂きます」

 ここまで言われたら断れない。

「それじゃ私は戻るね。あ、そうそう、魔獣が今夜来るのは間違いないよ」

 その言葉にバートははっとしてスウを見た。

「本当ですか?」

「ハギスの爺ちゃんの勘は確かだからね。アイカのためにちゃんと生き残ってよ。死んだら殺すからね」

 そう言い残してスウは猟師たちの焚火へ跳ねるように歩いていった。


「どうだった?」

 思案気な顔で槍を抱えて戻ったバートにエミルが声をかけた。

「はい。槍を貰いました」

「うむ、それはこちらからも見えた。随分と話し込んでいたな」

「はい、アイカを大事にしろって言われました」

 そう言って槍を傍らに置いて元の場所に胡坐をかいた。

「いきなり槍を授かるとはまるで子供のお伽噺のような話だな」

 ゴルトンが呟いて小さく笑った。

「実は俺もよくわからないんです。強引に押しつけられたから」

「色男は得だな」

 ジョバンの戯言に皆が愉快そうに笑った。


「その槍を見せて貰っていいか?」

 ふいにシロが手を伸ばしてきた。思い詰めた顔色にバートは一瞬たじろいだ。

「は、はい、どうぞ」

 慌てて穂先の布を巻き取ってシロに手渡した。

「それでは拝見しよう」

 両手で受け取ると息を詰めて穂先をためつすがめつ眺めた。一同がシロを見つめる。やっとふうと息を吐いてシロが槍から顔を離した。

「形は古いが出来はいい。剣身に迷いがない」

「値打ちものなのか?」

 ジョバンが訊いた。

「いや、槍穂は剣に比べて安いからな。武器屋に持ち込んでも高くは売れまい」

「そうか、残念だったな」

 ジョバンがバートに笑いかけた。

「売りませんよ」

 即座にバートが答えた。これを売るなんてとんでもない。

「重いな」

 シロが槍を眺めながら呟いた。冒険者は重い装備を嫌う。得物を振るうのは冒険者の仕事のほんの一部でしかない。荷物は軽いに越したことはないからだ。

「柄に鋼の芯が入っていると言ってました」

「なるほどな。少し振ってみていいか?」

 バートの返事も待たずに立ち上がり、一同の輪から離れて立って中段に構えた。刺突から石突による打撃、袈裟への斬撃、最初にバートに教えた連続技の基本の形だ。一連の動作を数度繰り返すと満足げに頷いて戻ってきた。

「重いが重心の釣り合いがよく取れている。振っても気にならなかった。ゴルトン、マンスル、鑑てくれ」

 そう言って槍をゴルトンに手渡した。


「むう」

 受け取った槍の穂先を凝視したままゴルトンが一言唸って黙り込んだ。

「微かだが魔法がかかっていますね」

 横から顔を寄せて覗き込んでいたマンスルが言った。その言葉にバートの心がざわついた。

「しかし、呪文を彫っていないのに変ですね」

 ゴルトンがやっと口を開いた。

「これは呪文を彫っているのではない。槍穂を鍛える際に呪を直接仕込んでいるのだ」

 剣身の叢を指さした。

「この模様を見てくれ。呪が鋼に染み込んでいる印だ」

「なるほど」

 マンスルが感心したように見入った。

「かなり古いやり方だ。今はこんな効率の悪いことはしない。魔法を填めた呪文を直接彫り込んだほうが手間もかからず魔法の効果も高いからな。おそらくお前に懸想している娘が古道具屋で掘り出して購ったのだろう。魔法の武器としては格は低いが決して安い買い物ではなかっただろう」

 その言葉でバートの脳裏にアイカの笑顔が蘇った。心配する素振りを隠していつも明るく振舞おうとする健気な少女。しかし時折思い詰めた三白眼の赤い瞳が自分を見つめていることにバートは気づいていた。あの細く小さい手がバートのためにあの槍を手に取ったと思うとゴルトンの手の中の槍から目が離せなかった。目頭が熱くなる。


 バートが落胆したと誤解したゴルドンが周章てて慰めるように続けた。

「相当な業物なのは事実だ。魔法もかかっているし並の槍より使いやすかろう。お前は果報者だぞ。こんな槍を譲られるとは」

「はい」

「あとは魔法を込める時機を誤らぬよう心掛けることだ」

 そう言ってゴルトンが槍を返した。

 バートが穂先に布を巻きつけるのを眺めながらジョバンが話しかけた。

「帰ったら鞘を都合しないとな」

 その言葉にシロが続けた。

「鞘師を紹介してやろう。剣と同じでいい槍にはいい鞘が要る」

「ありがとうございます」

 巻き終えた槍を傍らに置いてバートは礼を言った。


「ところで」

 エミルが口を挟んだ。

「魔獣について何か言っていたか?」

「特に目新しいことは言ってませんでした。でも間違いなく今夜来ると言ってました」

「ふむ」

 腕を組んで宿営地を眺め回した。そこらじゅうで冒険者たちと馬借たちが酒を酌み交わしている。

「よくこれだけの酒を持ち込める余裕があったな」

 感心するように呟いた。

「ヘルティアの馬借どもが持ち込んだそうだ。相場より高い値札で売っていた」

 ジョバンが応じて答えた。

「ふむ、逞しいな。しかし酔い潰れて魔獣に襲われたらどうする気なのだ」

「酔い潰れるほど呑まないだろうさ。皆ここが敵地なのは承知している」

「ならいいが」

 エミルが無理矢理納得するように言った。


「よう、調子はどうだ?」

 陽気な声に一同が振り返ると「蒼き流星」のアースンが立っていた。

「『流星』か、どうした?」

 エミルが片手を上げて答えた。

「どうしたとはご挨拶だな。歓迎しろとは言わぬがもう少し物言いがあるだろう」

 そう言ってエミルの隣に座った。

「酒は飲んでいないのか?」

「最初は飲んでいたがな、猟師の話を聞いて止めた」

 バートから湯呑を受け取って黒茶を啜った。

「ほう、それは感心だな。魔獣が今夜来ると信じているのか?」

「ハギス老がそう言ったからな」

「随分あのゴブリンを買っているな」

「弓のハギスは猟友会で三本に入る勢子頭だ。猟友会はこの仕事に最高の人材を寄越した」

「詳しいな」

「前に魔獣退治の指南を受けたことがある」

「ふむ、亜人嫌いなお前が珍しい」

 そう言ってエミルが紙巻をくわえた。

「俺が嫌うのは悪党の亜人だけだ」

「そこまで知っているなら何故ヘルガたちに進言しない?」

「一級の俺が特級たちに意見できるわけがない。おまけにゴブリンが言ってることだぞ。言って通じるならどんなに嫌がられても言うが、言っても叶わぬなら言わぬほうがましだ」

 そう言ってアースンは黒茶を一気に呷った。


「それで魔獣が現れたらどうすればいい? うちのパーティは魔獣相手は素人も同然だ」

 紙巻をくわえたエミルがアースンに訊いた。

「そのことだがな、アミルスが言ったように今宿営地には特級四個パーティを筆頭に冒険者が二百以上いる。今夜魔獣が現れれば討てる公算が高い。だからハギスもここに留まったのだろう」

 二杯目の黒茶を手に取った。

「とにかく邪魔しないことだな。夜戦で厄介なのが馬の面倒だ。暴れて逃げ出さぬよう馬借たちの手助けをしてやってくれ」

「馬借たちに貸しも作れるというわけか」

「そういうことだ。逸って怪我するなよ」

 二杯目の黒茶を一息に飲み干すと立ち上がった。

「邪魔したな。そろそろ天幕に戻るとしよう」

 軽く片手を上げると踵を返して去っていった。

「さて、我らもそろそろ寝るか」

 エミルが飲み止しの黒茶を焚火に掛けた。

 周囲を見回すと他の天幕の冒険者たちが酒盛りをやめて天幕に戻っていくのが見えた。


 やがて二十人程の冒険者が宿営地を歩き回って焚火を消し、なおも呑み続けている馬借たちに天幕に戻るよう告げ、篝火の薪を抜いて炎を小さく弱くしていった。逆に中央の大天幕の前の篝火には更に薪が加えられた。

「あれは何をしているのですか?」

 バートはシロに問わずにはいられなかった。シロはバートの疑問に答えず天幕に入り剣を抱いて寝転がって一言だけ告げた。

「寝るなよ」

 天幕の中を見回すと全員が同じように天を睨んで仰臥している。バートもそれに倣って槍を抱えて音を立てないように横たわった。



 ほんのしばらくの間バートは眠っていたらしい。突然はっとして目が覚めた。眠気が霧散し、緊張して辺りに気を配った。天幕の入り口の隙間から見える篝火は燃え尽きそうに暗く、吹き抜ける秋の夜風が黄色い炎を揺らしていた。

 ふいに微風に乗って一月もたって腐った死体のようなひどい悪臭が漂ってきた。馬留めの馬が騒ぎ出した。恐怖に駆られたバートが片肘をついて起き上がった。早鐘を打つ心臓が煩くて仕方がない。天幕の中を見回した。寝ている冒険者は誰も身動きする者はなく、隣のシロも横たわったまま目をいっぱいに見開いていた。そのむこうではジョバンも目を見開いていびきの音を立てていた。バートも再び寝転がると槍を抱えなおし、注意深くゆっくりと穂先の布を解いた。それからどれだけ待ったかわからない。悪臭はどんどん酷くなり吐き気を催すほどだ。それでもまだ冒険者たちは微動だにしない。


 やがて最も恐ろしい瞬間が来た。音が全て止まった。馬も黙り込んだ。全くの静寂の中、篝火の弾ける低い音だけが響いた。バートはわけもなく寒くなり静かに震えた。

「懸かれ!」

 突然、血も凍る大音声が宿営地に響き渡った。全員が一斉に跳ね起きた。天幕の入口から一番近い場所に寝ていたバートが入口の覆いを跳ね上げて真っ先に外に転がり出た。

 

 ありきたりな表現だが信じられない光景だった。バートは宙を蛇行する巨大な蛇の胴体を見た。差し渡し六尺はありそうな胴体が地面から数尺の高さに浮いていた。宙を浮く巨大な蛇が宿営地をゆっくりと横断している。既に全ての冒険者たちが飛び出していた。魔導士たちの放つ炎が、雷撃が、石礫が、光弾が巨大な蛇身を彩った。バートは宿営地の冒険者たちが敵の襲来を待ち構えていたのを知った。馬が一斉に騒ぎ出した。


 呆けたように立ち尽くすバートの肩を誰かが掴んだ。

「早く! こちらへ!」

 マンスルだ。慌ててマンスルの背を追って地隙に飛び込んだ。既にエミルとシロが屈んで戦いを見守っている。ジョバンとゴルトンの姿は見当たらなかった。

「何ですか、あれは?」

 声を落として訊いた。

「知らん。俺に訊くな」

 エミルは巨大な敵から目を離さずそれだけ答えると口をつぐんだ。


 それは蛇ではなかった。頭から尾まで三十丈はありそうだ。頭に鹿角のように枝分かれした二本の角、頭部を覆う涅色のたてがみが黒光りする胴体の背まで延びている。翼も足もない。どうやって宙を飛んでいるのかバートにはわからなかった。ここまで大きいとは思っていなかった。冒険者たちの魔法と矢を受けながら平然と遊弋し、僅かに頭を振りながら獲物を見定める両の巨眼が辺りを睥睨した。


「馬借たちを誘導するぞ!」

 エミルが小さく叫んで逃げ惑う馬借たちへ駆け出した。

「お前はここにいろ。馬借たちが来たら後ろに逃がせ」

 そう言い捨ててシロが後に続く。続いてマンスルも飛び出した。

 一人残されたバートは身を潜めて眺めているしかなかった。


 やがて怪物は鎌首を持ち上げて冒険者たちを見下ろした。冒険者たちの動きが止まった。一瞬時間が止まったかと思った。しかしそれは間違いだ。やにわに怪物は顎を大きく開けて冒険者たちに突っ込んだ。さっきまでの緩慢な動きとは打って変わって凄まじい速さだった。無数の悲鳴が上がり、人間の手足が撒き散らされた。太い筆で引いたように地面に血と臓物の線ができた。宿営地を通り過ぎた怪物は頭を巡らせると再び突っ込んできた。

「防壁魔法を!」

 誰かが叫んだ。その言葉を嘲笑うように怪物の巨体が二度三度と高速で宿営地を貫き太い尾を振る度に死者が増えた。

 バートは見た。若い女戦士が怪物の胴体に押し潰され、その身体が平たく潰れ、耳から血がほとばしり出るのを。中年の司祭の首が玩具のように転がり、まだその舌がべらべら忙しなく動いているのを見た。倒れた天幕が燃え上がった。火のついた馬が泡を吹き狂乱して走り回っている。宿営地は炎と血の地獄と化した。

 目の前で馬借が逃げ惑っている。バートは地隙から飛び出して大声で叫んだ。

「こっちへ!」

 その声に十人ばかりが一団になって駆けてくる。それに気づいた怪物が頭を翻し大口を開けて迫ってきた。声をかけたのは失敗だった。こいつは群れた獲物を狙っている。分散させるべきだった。自分の間抜けを罵った。口吻に並ぶ灰色の牙がはっきり見えた。馬借たちとすれ違うように前に出て槍を構えて走り出して気づいた。このまま立ち向かっても何も出来ずに喰われる。距離はもう半町もない。僅かな時間に必死で考えを巡らせた。

 怪物と交錯する刹那、咄嗟に投げるように身を伏せた。頭上を蛇腹が通り過ぎる。凄まじい悪臭。半身を起こして片膝をつき、石突を踏みしめて穂先を上げた。体がばらばらになりそうな衝撃とともに鱗を削る確かな手応えが撓った柄から伝わる。穂先が蛇腹を切り裂き血飛沫が顔を濡らして思わず目を閉じた。いけるか。そう思った次の一瞬、耐え切れなかった槍の柄が跳ねてバートの顔面を強打し、同時に巨大な蛇腹に撥ね飛ばされた体が飛んで地面に叩きつけられた。時間が物凄く長く感じる。自分の体が水切石のように何度も跳ねているのがわかった。息ができない。意識が飛びそうだ。

 倒れたバートの視界の奥でアミルスが笏杖を振り上げて防壁を展開していた。後ろに特級冒険者たちが武器を手に腰を下ろして身構えている。アースンの青い鎧も見えた。そこに怪物は真正面から無造作に突っ込んだ。激突。鋭い閃光に目が眩み、そのままバートは失神した。


 怪物との戦いはどれくらい続いたかわからなかったが、ある瞬間に極めて唐突に終わった。怪物は悪臭を残して突然去ってしまった。払暁が訪れてようやく人々は破壊と死を目の当たりにした。

 

 視界一杯に広がる青空に気づいてバートは自分が今まで失神していたことをやっと自覚した。

「大丈夫ですか?」

 どこかでマンスルの声がした。

「動かないで」

 頭を動かそうとして止められた。目を動かしてマンスルの姿を探した。すぐ見つかった。右腰の傍に跪いて手を鳩尾の辺りに乗せている。治癒魔法だ。胴鎧が脱がされていることを知った。周りを見回したい誘惑に駆られたが動くわけにはいかない。そのせいで舌が余計に回った。

「傷はどうですか?」

「骨を何本かやられています。あとは打ち身と裂傷だけですよ」

「あの怪物はどうなりました?」

「消えました」

「どこに行ったんです?」

「わかりません」

「皆はどうなりました?」

「もう喋らないで。念が散ります」

 それきりマンスルは黙り込んだ。悪い予感がしたがこれ以上訊くわけにもいかない。仕方なくバートは突き抜けそうな朝の青空を見つめることにした。

 マンスルの大きな手の温かさが気持ちよくて目を閉じた。


 四半刻ほどしてようやくマンスルが声をかけた。

「もういいでしょう。立てますか?」

 マンスルの助けを借りて起き上がった。足が地につかない。よろける体をマンスルが支えてくれた。

「もう大丈夫です。ありがとうございます」

 そう言って膝に力を込めた。体中に鋭い痛みと鈍い痛みが走った。背を丸め凍える人のように自分の体を抱き締めて周囲を見回した。地面は雨が降ったように血に濡れ、あちこちに血溜まりがあった。至る所に死体が転がっていた。その多くが巨大な力でばらばらに引き裂かれて散乱していた。人の部品に交じって馬の死体が転がっている。

 呆然と立ち尽くすバートの胸にマンスルが無言で槍と胴鎧を押しつけて廃墟の前庭を指さした。

「あの奥の石畳の広場が包帯所になっています。そこまで歩けますか?」

「は、はい」

 なんとか返事をした。

「では私は他の怪我人の手当てがありますので」

 それだけ言ってマンスルは他の怪我人を探して行ってしまった。


 ここで立ち止まっていても始まらない。仕方なくバートは槍を杖にして包帯所を目指してよろめきながら歩きだした。死体を踏まないように下を向いて歩かなければならなかった。それほど死体は一面に広がっていた。やっと前庭に差しかかったとき、包帯所で手伝いをしている魔導士姿の女冒険者がバートに気づいて駆け寄ってきた。

「あなた、大丈夫?」

「ええ、なんとか」

 バートが抱える胴鎧を取り上げてバートに肩を貸してくれた。

「こっちよ」

 案内されるまま崩れた石壁を背に座った。女魔導士が側に鎧と槍を置いてくれた。

「ちょっと待っててね。ポーションを取ってくるから」

 そう言ってどこかに駆けていった。やっと一息つけた。周囲を見回すと怪我人ばかりだ。皆バートより重症そうだ。目の前で司祭が二人掛かりで斥候の切断された足を接ごうと念を込めていた。

 女魔導士はすぐ手にポーションを握りしめて戻ってきた。バートの前で屈んで手を伸ばし、そっとバートの首の後ろに掌を当てた。

「うん、回生紋はちゃんと回ってるね」

 そう言って微笑んだ。自分より幾つか年上だ。よく見ると長衣に血痕がいくつも飛んでいる。気丈に微笑む顔に乾いた涙の跡があった。女魔導士はポーションをバートの手に握らせ、その手を両の掌で包み込んだ。

「これ飲んで。すぐ良くなるからね」

 母親が子供に言い聞かすような口調だった。

 バートが頷くのを見て手を離すと雑嚢から紙袋を出して膝に置いた。

「干肉と干芋が入ってるわ。ポーションを使ったら体力が落ちるから落ち着いたら食べてね」

「ありがとうございます」

 礼を言うバートに女魔導士はにこりと笑うと踵を返し、包帯所の奥に去っていき、バートは一人残された。負傷のせいで気弱になっていたからだろうか、もう少しお話していたかった。



 立ち去った女魔導士が見えなくなるとバートは急に孤独を感じた。皆はどうなったのか。不安が頭をもたげた。周囲から呻き声や治癒の呪文を唱える司祭たちの呟きが聞こえてくる。

 引きつる腕を何とか使ってポーションの封を切り一息に飲み込んだ。体の奥から心地よい暖かさが広がって多幸感が全身を支配し、痛みが引いていくのがわかった。しばらく痺れるような快感に身を委ねていたが、猛烈な空腹感を感じて紙袋を取って口を開けた。中には干肉が三片と干芋が十片ほど。芋を一つ摘まんで一口齧った。味も感じない。周りの血の臭いももう気にならなかった。

 包帯所の更に奥には天幕の布で間に合わせで作った死体袋が並んでいる。少しでも蘇生の可能性がある者たちだ。宿営地の隅に穴が掘られ、蘇生が無理と判断された死体はそこに置かれた。


「無事だったか」

 死んだ魚の目で干肉を咀嚼するバートに誰かが声をかけた。顔を上げるとエミルが立っていた。顔は疲れ切ってはいるが声に張りがあった。手も鎧も血と泥でべっとり汚れている。

「エミルさん!」

 思わず立ち上がろうとしたバートをエミルが手で制した。

「そのままでいい」

「傷は痛むか?」

「いえ、もう随分よくなりました」

「そうか、運がよかったな」

 そう言って隣に座った。

「酷くやられましたね」

「ああ、数えてる最中だが冒険者六十に馬借が百二十、特級冒険者も八人死んだ。馬は半分やられて残りは逃げ散った」

「そんなに……」

「それとな」

 バートに顔を向けた。

「シロとジョバンが死んだぞ」

「え?」

 最後に見たシロとジョバンの顔が脳裏に浮かんだ。

「あそこにいるんですか?」

 死体袋の列を指さしたバートにエミルが首を振った。

「シロは俺の目の前で化け物に喰われて指一本残らなかった。ジョバンは暴走した馬の蹄に頭を踏み砕かれた。蘇生は無理だそうだ」


「冗談ですよね……?」

「俺はこんな事で虚仮は言わぬ」

 突然吐き気が込み上げてきた。思わず口を押える。

「馬鹿! ここで吐くな」

 乱暴に体を引きずられて包帯所の外の草地に転がさ、その場に跪いて盛大に吐いた。溢れる涙が止まらない。


 胃液まで吐ききってようやく落ち着いた。立ち上がってエミルに向き直った。

「お見苦しいところをお見せしました」

 深々と頭を下げた。

「気にするな。初めて仲間を喪ったのだから無理もない。特にシロはお前の師匠だったからな」

 涸れたはずの涙がまた溢れてそうになった。


「おう、ここにいたか」

 目を向けるとゴルトンとマンスルが歩いてこちらに向かって歩いていた。

「伝えたのか?」

 バートの顔を見てゴルトンがエミルに訊いた。

「ああ」

「そうか、大丈夫か、バート?」

「はい」

 空元気を振るって何とか気丈に返事した。

「それより何かあったのか?」

 エミルが二人に尋ねた。

「皆が本陣に集まってます」

 マンスルが答えた。

「そうか、これからの話もあるしな。我らも行ってみよう。その前に」

 エミルがバートにあごをしゃくった。

「顔を洗って口を漱いでこい。小間物臭いぞ」


 宿営地の片付けもあらかた終わり、手空きの者が本陣の周りに三々五々集まっていた。皆不安げに本陣の大天幕を見つめている。中で各市の特級冒険者と馬借頭が鳩首して会議しているのだ。「鋼の烈風」の四人も烏合の群れに加わった。

「アースンも死んだぞ」

 大天幕を見つめながらエミルがぼそりと呟いた。

「そうですか」

「ローアが教えてくれた。両足の膝から下しか残らなかったそうだ」

 便所の板を運んできてくれた時の笑顔を思い出した。

「いい人でしたね」

 胃袋の中身と一緒に感情も全部流してしまったようだ。精神が消耗しきってもう自分が死んでも驚かない。

「ああ、もうすぐ昇格だと張り切ってたからな」

 それだけ言ってエミルが黙り込んだ。


 やがて大天幕の入口の幕が開き、特級冒険者たちが姿を見せた。全員が悄然としている。憔悴したヘルガの姿が見えた。常に手にしていた大剣が見えない。サティラという名の女戦士はいなかった。死体袋の中か大穴の底なのだろう。

 アミルスが威厳を正して人々に話を始めた。

「皆、昨夜はよく戦ってくれた。敵の正体は龍だ」

 その場の全員がどよめいた。竜の眷属にして竜に非ず。竜の天敵と伝説が語る神話級の怪物だ。翼も脚もなく、蛇のような細長い胴をくねらせて泳ぐように空を飛ぶ。速さは竜に劣るが運動性と加速力に優れ、その鱗は竜の爪でもブレスでも貫けず、その顎は竜の頭骨を容易く噛み砕き、その力は易々と竜を絞め殺す。先の大戦でも数頭が魔軍に組して連合軍を散々に悩ませたという。

「残念だが今の戦力では勝てぬ相手だ。夜に動かれては飛竜も手が出せぬ。故に態勢を立て直す。国王陛下に許しを得て王国各市に檄を飛ばす。今は一刻も早くここから離れるのが肝要だ。歩けぬ者と蘇生する死者のために担架を作ってもらいたい。準備ができ次第下山する」

 人々の間から安堵のため息が漏れた。皆これ以上ここに留まっていたくないのだ。


「逃げるのかな?」

 人々の背後から声が飛んできた。全員が一斉に声の元に首を巡らせた。猟友会の猟師が四人、本陣を囲む輪から離れて立っていた。

 スウさんがいない。まさかスウさんも殺されたのか? バートは昨夜のスウの笑顔を思い出した。

 四人はゆっくりと人の群れを掻き分けてアミルスの前に立った。

「逃げるわけではない! 十全の態勢を整えて土を捲いて帰ってくるのだ!」

 アミルスが叫んだ。

「それより猟友会は昨夜何をしていたのだ」

 笏杖を振りかざした。返答によってはただでは済まさない気だ。

 それでも老いたゴブリンは平然としていた。

「昨日も言ったはずだ。的を見極めると」

「それでどう見極めたのだ?」

「あれは龍だ」 

 アミルスが失笑した。

「それくらいは我らも知っている」

「あれが黒龍であることもか?」

 その言葉を聞いてアミルスが途端に笑いを引っ込めた。驚愕に目が開いた。

「まさかあれがか……?」

 黒龍は龍の中でも最も年経た個体とされている。古い神話でしか語られたことのない存在。実在を疑う学者も多い。先の大戦でも確認されたのも青龍までだ。

「顎広く二本の鞭髭、角に五つの又、たてがみは尾の先まで延び、尾の先に七本の棘、八王国年代記の記述の通りだ」

 アミルスが絶句した。ゴブリン風情が古文書に通じていようとは。


「なら尚のこと早く下山して国王に奏上せねば……」

 アミルスが譫言のように呟いた。

「それで何時ここに戻ってくるのだ?一週間後か? 一月後か?」

 ゴブリンが訊いた。

「答えられる訳がない。これはもはや王国全体の問題なのだ」

「では飛竜の一族は冬を越せぬな。白尾の一族は卵と幼竜を守るためにこの地を捨てねばならない」

「やむを得ぬ犠牲だ」

「それだけで済むまい」

 ハギスがせせら笑った。

「御老人、どういう意味なのです?」

 ヘルガが口を開いた。

「あれは山に敵がいないと知れば確実に山を下りて町や村を襲うからだ」

「何故そう言い切れるのです?」

「先の大戦で魔軍があれを埋めたからさ、お嬢さん」


「埋伏か!」

 アミルスが叫んだ。彼も大戦を戦い抜いた古強者だ。

 大戦で撤退した土地の地中に魔物を埋設するのは魔軍の常套戦術だった。魔物は再び友軍が攻め寄せるまで地中で眠り続け、攻撃に呼応して覚醒して暴れ出すのだ。年経て食を必要としなくなった竜の眷属は埋伏に打ってつけだった。

「ここは大戦で魔軍に奪われていた間を除いて昔から王国航空戦力の唯一の策源地だ。大物を埋伏しないほうがおかしい。龍は竜の天敵だしな。しかしよりによって黒龍とは」

 ハギスが呆れたように苦笑した。

「しかし何故今更になって目醒めたのだ?」

「何故覚醒したかは知らぬ。休戦後、魔軍が埋伏した魔物は全て引き上げたはずだが、あれは何らかの事情で忘れられたのだろう。しかしあれはもう目醒めてしまった。あれは命じられた通り遊撃戦を遂行しているのだ」

「なら交渉の余地があるのではないですか? もう和議が成って戦が終わったことを知らせれば……」

 思わず口を挟んだヘルガをアミルスが手を上げて制した。

「無駄だ、ヘルガ。あの戦争を知らぬおぬしには判らんだろう。あれは敵中を独りで戦い抜けと命じられた勇士だ。命令が無ければ戦いを止めまい。そもそも同胞を喰われた飛竜の一族が納得するものか。勇士として遇してやらねばならぬ」

 先ほどまで疲れ切った老人に過ぎなかったアミルスの顔に生気が蘇り不敵な笑みが浮かんだ。王国最高位の冒険者の威厳も風格もどこかに消し飛んだ。アミルスの顔色を窺っていたヘルガは慄いた。この老人にこんな血生臭い笑顔ができるとは。



「策はあるのか?」

 アミルスがハギスに向き直った。

「大物を仕留めるには定則がある」

 落ち着き払ってハギスが答えた。

「ふむ、それは?」

「足を止めて袋叩きだ」

「どうやって足を止める?」

「昔に青龍を仕留めた時は弩砲で鎖付きの銛を何本も撃った」

「ここには弩砲などないぞ」

「魔法で防壁を張れるだろう?」

「無理だ。昨夜も我が防壁は龍を止めきれなかった」

「仕留めるまででいい。どうせ龍に魔法は効かぬ。魔導士も司祭も総出で何重にも防壁を張るのだ。龍の習性上奴は後に退がれない。楔の形に防壁を張れば時間を稼げる」

「それでも止めきれなければ?」

「ここにいる全員が死ぬ」

「この手しかないのか?」

「他に思いつかん」

「ならやむを得ぬな」

 アルミスが剣呑な笑顔を浮かべた。


「それでどうやって仕留めるのだ?」

「塹壕を掘って防壁で足が止まった黒龍を下から突く。龍の巨体では塹壕に潜む者は攻撃できない。五間おきに二線いや三線は要る。幅半間、深さは三尺半でいい」

 後ろに控える三人の猟師にあごをしゃくった。

「詳しくはうちの者に指図させる」

「人手が足りぬぞ」

「馬借たちもいるだろう。動ける者全員で死ぬ気で掘るのだ。掘らねば死ぬまでだ」


「冗談じゃない! 俺たちは山を下りるぞ!」

 馬借たちから騒ぎ出した。冒険者と違い彼ら馬借にここに留まる義理はない。

「馬を失い荷車もここに捨てねばならぬ。この上更に命まで捨てろと言うのか」

「俺の兄は昨夜ばらばらに引き裂かれて死んだ。首はとうとう見つからなかった」

 馬借たちが口々に叫んだ。龍と戦う前に仲間割れが起こりそうだった。


「黙れ!」

 アルミスが一喝した。この老人のどこにこれだけの大音を出せる力があったのか。宿営地は水を打ったように鎮まり返った。

「山を下りてどうなる? 襲われれば身を隠す場所もない狭い山道を下りる気か? 覚悟を決めよ」

 後ろを向いて各市の馬借頭を一瞥した。

「異存はないな?」

 異存は許さない、そういう口ぶりだった。


「それで」

 アミルスが再びハギスに向き直った。

「我らが待ち構えるところに龍が来なければ意味がないぞ」

「その点については心配しなくていい」

「と言うと?」

「一人走らせて後を尾けさている。囮になって今夜龍を誘い出す手筈になっている。がさつで気配りもできなくて知恵も足りぬが相手を怒らせることにかけては滅法向いている娘だ」


「やれやれ、今度は土方仕事か」

 隣で苦笑するエミルの声を聞きながらバートは悲しげに老ゴブリンを見つめていた。スウさん、酷いことを言われています。


 すぐに防備の準備が始まった。最初から段取りは決まっていたのだろう。ハギスの仲間の猟師たちが慣れた手つきで短い木杭を打ち、細紐を渡して手際よく三線分の塹壕の経始を進めていった。その後から鍬や円匙を手にした冒険者と馬借が掘開に取り掛かった。バートもヘゲラスという名のリザードマンの指図で塹壕掘りに駆り出された。 

 塹壕は四間ごとに几帳面に鋭角に折れ曲がっていた。バートには屈曲部の意味がわからなかった。作業が手間なだけでなく、壕に入った者の往来を妨げるだけにしか思えなかった。

 バートはこのことをヘゲラスに訊いてみたが、ヘゲラスは間抜けな人間めと答えただけだった。ヘゲラスは機嫌が悪かった。

 周囲では土を掘る者と土を遠くに捨てる者が忙しく交錯していた。ヘルガが作業を督励しているのが見えた。やはりあの大剣は持っていなかった。かわりに黒光りする戦槌を背負っていた。確かサティラという特級の女戦士の得物だ。あの大剣を折るか失くすかして、死んだ仲間の武器を拝借したのだろうとバートは見当をつけた。


 陽が中天を随分過ぎてようやく塹壕掘りがひと段落ついた。バートたちは忙しなく食事を取り、今度は防柵作りに回された。塹壕の周辺全体に槍と先端を尖らせた杭が植えられた。これらは人の肩よりも高くなく、その先端は鋭く威圧的ではあったが、バートにはその価値がわからなかった。しかしヘゲラスの機嫌の悪さを知っていたので尋ねることはしなかった。

 そんなことよりもバートは作業に没頭することに夢中になっていた。夜戦の興奮と仲間の死がバートをひどく精力的にしていた。

 日が進むにつれ、この築城工事が日暮れまでには終わらないであろうことがバートにもわかってきた。塹壕も杭もだ。アミルスはハギスを本陣に呼び寄せ、何事かを相談しはじめた。ヘルガら主だった者たちが二人の周囲に集まり出した。

 本陣前で話し込んでいるアミルスたちを皆が手を休めて見守っていた。口やかましく作業を指図していたヘゲラスも同様だった。


 日暮れ前に作業は停止させられ、暖かい食事が配られた。昨夜死んだ馬の肉の煮込みが振舞われ、全員が腹一杯食った。食事が終わると場定めが決められた。

 本陣の前でアミルスと特級の魔導士と司祭が篝火を背に陣取り、残りの魔導士と司祭は塹壕の両の翼に配された。飛び道具を持つ者は一番目の塹壕に入れられ、一番奥の三番目の塹壕にはヘルガたち特級冒険者と一級冒険者が、その他の者は中間の二番目の塹壕に入った。

 やがて山羊皮の袋で水が運ばれてきて塹壕に入った冒険者たちに次々に水がかけられた。やがてバートの番が来てヘゲラスがバートを頭から足の先までずぶ濡れにした。水の冷たさに思わず悲鳴を上げて皆にひどく笑われた。

「龍は体の熱を視るのだ」

 屈みこんだヘゲラスが珍しく笑って尾で地を叩いた。


 やがて宿営地に薄暮が訪れた。霧が山々から這うように降りてきて木々の間をするすると通り、宿営地の地面にじわじわと広がり、待ち構える冒険者たちのほうへと忍び寄ってきた。

 光源は本陣の篝火だけ。全ての目が前方の山々に向けられていたが、もうそれは夜霧の中に姿を消していた。

 ヘルガが大股で塹壕の間を歩き回って低い声で皆に激励の言葉をかけていた。全員が静かにその時を待っていた。


 待機の姿勢に入って神経が弛緩したのだろう。バートはようやく疲れを覚えた。まだ戦いも始まっていないのにもうひと戦したように疲れてしまっていた。同じ壕に並ぶ冒険者たちは全然疲れているように見えない。バートは頑張って前方を睨みつけた。

 しばらくして、バートは隣の冒険者に乱暴に起こされた。いつの間にか寝入ってしまったようだ。周りはすっかり暗くなっていた。

「来るぞ」

 その冒険者は前に目を向けたまま小さくささやいた。慌ててバートは腰の胴乱に手を伸ばした。アイカに贈られたインク瓶を取り出すと手早くコルク栓を開けて中のタールをべったり目の下に塗りつけた。

「何だそれ?」

 バートを叩き起こした冒険者が小声で囁いた。

「おまじないです」

 バートも声を落として答えた。

「そうか」

 それだけ答えると冒険者は興味をなくして視線を前方に移して黙り込んだ。


「ホーッ! ホーッホッ!」

 微かに猿か梟のような高い啼き声が木々を抜け、宿営地の草地を通り過ぎて本陣まで届いた。

 鎧の金属音が塹壕のあちこちで響いた。

 啼き声は次第に大きくなり、猿ではなく人の声なのだとバートも気づいた。奇声は猟師が使う掛け声だと後から教えられた。

 間も無く霧の中から草を踏む足音とともに特徴的な鉤槍を持った人影が現れた。兜を被り面頬をつけていて顔は見えないがスウなのはわかった。一目散に駆けてくる。その後ろを巨大な物体が追っている。木々の枝が折れる音がここまで聞こえてくる。バートは震える手で槍を握りしめた。



「爺ちゃん! 来た来た来た来た! 怒ってる! 怒ってるう!」

 スウの叫びが宿営地の闇を切り裂いた。

「やかましい! 溝に入れ!」

 ハギスの大音が響いた。最初の壕の冒険者たちが矢を放った。征矢が何本も鱗に立ったが黒龍の勢いは止まらない。

 矢の雨を掻い潜り杭の列を抜けたスウが軽々と最初の壕を飛び越し二本目の塹壕に飛び込んだ。直後に黒龍の巨大な顎と黒い胴体とひどい悪臭が通り過ぎ、篝火を背に立つ人々へ殺到した。

 瞬息の間、アミルスたちが展開した防壁が突進を抑え込んだ。勢いを殺されて龍の胴体が撓む。雷鳴のような音が聞こえた。低くて太い鳴動のような音。霧の中ではどんな音も大きく聞こえるように、この音も霧に包まれて大きく膨らんで聞こえた。後で気づいたが、その音は龍の咆哮だった。


「懸かれ!」

 誰かが叫んだ。

 おめき声を上げた冒険者たちが一斉に壕から躍り出て龍の胴体に突きかかった。射手たちが飛び道具を捨てて剣を抜いた。特級冒険者たちが魔法の武器を振るって龍の頭部に斬りかかるのが見えた。バートも龍の腹に槍を突き立てたが硬い鱗に阻まれて深い傷を与えることができない。そのうちに群がる小さい敵を圧し潰そうと龍の胴体が畝りだした。その度に冒険者たちは塹壕に飛び込み、再び飛び出して戦った。


 黒龍が顎を閉じるのを見て、口中を攻撃されるのを嫌ったのだとバートは思った。バートは間違っていた。龍の喉が低く唸り、続いて何かが振動するような高音が耳を刺した。

 槍を構えなおして飛びかかろうとしたその時、誰かに足を掴まれて凄い力で壕に引きずり込まれた。

「!」

 叫びそうになったバートの口を柔らかい手が塞ぎ、そのまま側壁に押しつけられた。相手を睨もうとしてはっとした。スウだ。

「頭下げて」

 そう言ってスウがバートの頭を壕の底に押し込んだ。藻掻きながら何とか見上げた視界を強烈な光が強く輝く流星のように横切った。


 塹壕の土を嘗めさせられていたバートには見えなかったが、見えなくて幸いだった。再び顎を開いた龍の喉の奥から細く輝く金色の光線が吐き出された。光線は土を灼きながら走り回り、杭を切り倒し、塹壕を舐めて通り道にいた冒険者たちを吹き飛ばし、防壁の隙間を抜けてたまたまそこにいた魔導士を切り裂いた。塹壕に逃げ込もうとした冒険者たちが光線に足を払われて次々に転倒した。

 龍が光線を吐いた時間はそれほど長くなかったが、それでも被害は甚大だった。たちまち夜の大気は運悪く即死できなかった者の恐ろしい叫び声と苦悶の悲鳴に満ちた。

「立ち上がれ! 立ち上がって戦え!」

 悲鳴のような叫びが上がったが誰もその声に応えようとしなかった。運よく塹壕で光線を避けることができた者は土にかじりついて動けない。


 そっと塹壕の縁から顔を上げた。黒龍は何度も防壁に頭を打ちつけているのが見えた。その度に防壁がじりじりと押されている。アミルスたちは渾身の念を込めて防壁を張っているが押し破られるのは時間の問題に思われた。


「くっ!」

 バートの隣に飛び込んでいた人影が呻いて壕から飛び出そうとしてスウに首筋を掴まえられて引き倒された。

「今出たら駄目」

 スウが小さく囁いた。

 星の光で蛙のように引っくり返った人影の顔を見たバートは息を呑んだ。ヘルガだった。白銀の鎧も輝く金髪も泥にまみれ、端正な美貌は泥と血と屈辱で歪んでいた。

「何をするの!」

 上体を起こしたヘルガが涙目で抗議の声を上げた。

「自棄になっちゃ駄目。一人じゃ無駄死ぬだけだよ。黙って聞いて」

 スウが人差し指をヘルガの唇に当てた。

「今から縦一列に突っ込んで三段攻撃。狙いはあいつのここ」

 ヘルガの唇から指を離して自分の眉間に当てた。

「先頭は私、その次はバート、最後は、ええっと、何て名前だっけ?」

「ヘルガです」

 むっとしてヘルガが名乗った。

「じゃあ最後はヘルガちゃんね。じゃあ」

 ちゃん付けされて鼻白んだヘルガとバートに目配せして不敵に笑った。

「行くよ!」

 言い終わらないうちに跳ねて飛び出した。覚悟する暇もない。慌ててバートが後に続いた。



「ショーブ! ショーブ!」

 スウの叫びが木霊し、気づいた黒龍が頭を巡らせた。

 何故叫んだりしたんだ。バートは心の中でそっとスウに抗議したが今更手遅れだ。

 龍の顎がゆっくりと開こうとしている。またあの高音が響いてきた。

 その時、スウが数歩の距離を一息に跳んで龍の鼻先に槍の鉤を叩き込んだ。高音が止み一瞬龍の動きが止まる。その隙にスウがヤモリのように龍の長い鼻面に取りついた。光線を吐こうとした龍の口腔にバートがすかさず渾身の突きを入れた。


 平三角の槍の穂先は拍子抜けするくらい簡単に龍の口蓋を貫いて龍の後頭部に抜けた。

 龍が咆哮しながら激しく頭を振る。視界の片隅で龍の鼻面にしがみついていたスウが防壁に叩きつけられた。バートは振り払われまいと必死に柄にしがみついた。

「頑張って! 後は私が!」

 後ろから駆け寄るヘルガの声が聞こえた。龍の口中から二股の舌が見えた。嫌な予感がした。

(危ない!)

 思わず柄を離してヘルガを押しのけた。龍の舌が突き出されたのとほとんど同じだった。


 身の丈三十丈の龍の舌だ。杭ほどの太さがある。その舌が胴鎧をやすやすと貫いてバートを串刺しにしていた。

「え?」

 最初は何がどうなったのか理解できなかった。やっと冷静になって自分が田楽刺しになっていることを把握したのでここは叫ぶべきなのだが声が出ない。不思議と痛みはなかった。力が急に抜けて膝をついた。倒れまいとして思わず自分を貫いた舌を両手で掴んだ。血の塊が口から零れた。


「あああああああ!」

 悲鳴のような雄叫びを上げてヘルガが高く跳躍した。常人には不可能な跳躍力だ。

 飛び上がったヘルガと黒龍の視線が一瞬交錯した。

「必殺!」

 ヘルガが空中で戦友の忘れ形見の戦槌を大上段に振りかぶった。

「飛燕一文字五段蹴り!」

 黒龍の両目の間に戦槌を叩き込んだ。教会の大鐘のような低く響く音がした。

 鼻面に降り立ったヘルガが仁王立ちしてもう一度振り下ろした。

「真空急降下直角三段蹴り!」

 さらにもう一撃。

「稲妻胡蝶肘撃ち三段返し!」

 何かが割れる鈍く重い音がした。バートには握りしめた龍の舌から力が抜けていくのがわかった。もう体を支えていられない。ゆっくり横倒しに倒れた。なんとか息を継ごうと消えそうな意識をかき集めた。いつの間にか誰かに頭を抱き締められていた。

「大丈夫?! 気をしっかり持って!」

 最初は誰の声かわからなかった。物凄くいい匂いがする。目の焦点が合わなくなってきた。視界がぼやけてきた。ようやくこれは自分は死ぬと思い至った。思考がまとまらない。やっと特級冒険者のヘルガという娘の声だと思い出した。

「司祭を! 治癒魔法を早く! 早く来て!」

 跪いてバートの頭を掻き抱いたヘルガの悲鳴がやかましい。

(蹴ってないし返してないし……)

 その思考を最後にバートの意識がぶつりと切れた。



 やがて太陽が霧を通してにわかに現れ、夜がいっぱいに明け、霧が消え去った。生き残った者たちはそこら中に散らばる死体の中に黒龍に死体を見た。遠くで戦いを見ていた馬借たちが宿営地に集まってきて、黒龍の姿がむき出しに人目に晒され、二度と自分たちを襲うことができなくなったと知って喜んだ。

 冒険者たちはそこまで意気揚々とはしていなかった。彼らは仲間の死体の間を歩き回り、死者と生者の名を呼び、まだ息のある者を見つけては司祭を呼び、または包帯所に連れて行った。蘇生の可能性のある死体は死体袋に入れられたが、その数はひどく少なかった。黒龍の光線が死者の体を縦横に何度も切り裂いたからだった。

 皆が疲労困憊していた。その様を見た馬借たちは我に返って無言で手助けするために歩き出した。


 黒龍の巨大な頭の傍にバートの体が仰向けに横たわっていた。集まった者たちが暗い顔でバートを見下ろしている。龍舌に貫かれた腹の傷は治癒魔法で塞がっていたが意識は戻らず息は止まったままだ。治療に当たったマンスルにもわからなかった。龍の呪いかもしれぬ。誰かが呟いた。

 バートの手を握っていたヘルガの顔が蒼ざめた。

「たまにいるのですよ。治癒しても蘇生しても目覚めぬ者が」

 マンスルがぽつりと言った。

「このまま葬るしかないのか」

 後ろで見守っていたエミルが訊いたが、マンスルは無念そうに顔を歪めるだけだった。


「ちょっとごめんね!」

 場違いに能天気な声が上がった。

 陰鬱な人の輪をかき分けて鉤槍を担いだ小麦色の娘がバートの側に屈み込んだ。

「まだ目覚めないの?」

 槍を置いてヘルガに訊いた。

 無神経な言葉にヘルガが涙目でスウを睨みつけた。

「どれどれ」

 両手でバートの顔を持ち上げてまじまじと覗き込んだ。

「何を……」

「んもー、死んだら殺すって言ったのに」

 ヘルガの抗議を無視してスウがバートの物言わぬ唇に唇を重ねた。

「ち、ちょっとあなた!」

 ちうううう……

 唇を吸う下品な音にヘルガが思わず赤面した。


 存分に吸い尽くしたスウが唇を離し、大きな血の塊を吐き出した。突然バートが咳き込み始めて口から細かい血が散った。

「気管に血が詰まってたんだね。ほっといたら死んでたよ」

 口の血を拭いもせずに呆然とする一同に向かってにっと笑った。


 溺れるような息苦しさに目が醒めた。喉がたまった水を吐き出そうとして咳が止まらない。地面に手をついて咳が収まるのを待った。目を開けると水ではなく血だった。バートにはそれが何を意味しているか考える余裕もなかった。やっと咳が収まり、顔を上げると涙に滲んだ視界の真ん中にスウがいた。べっとり血に濡れた口に微笑まれて一瞬気が遠くなった。


 意識は取り戻したがまだ立つこともできなかった。バートはそのまま包帯所に運ばれて即席の担架ごと地面に降ろされた。担架の乗り心地は控え目にいって最悪だったので地面の安定感が有難かった。目だけを動かして見下ろしている人たちを数えた。エミル、ゴルトン、マンスル、良かった三人とも無事だ。ここがあの世でなければだが。

「どうなりました?」

 そっと頭を動かしてエミルを見上げて訊いた。

「わからん、大損害だ。半分は殺られた。ほとんどがあの光線だ。蘇生できる者も僅かだろう」

「そうですか……」

 黒龍のことを聞いたつもりだったが聞き直すのも億劫で黙り込んだ。

「ゆっくり休んでいろ。後始末が残っている。我らは行くぞ。何かあったらあそこのかわい娘ちゃんに頼め」

 ゴルトンがバートの横に屈みこんで言った。

 苦労してゴルトンが指さす先に首を回すと負傷者の治療を手伝うヘルガが見えた。

 顔を赤らめる余裕もなかったから仕方なく情けない笑顔を作った。


 何もすることがなかった。バートのような若者には耐えがたいことだったが動こうとすると怒られた。鎧下の上衣は脱がされ、下衣は自分の血でべっとりだ。乾いた血でごわついて動かすとどうにも気持ちが悪い。仕方なく遠くの黒龍を眺めて時間を潰した。アミルスたち主だった者が死骸を検分している。あんな巨大な怪物をよく仕留められたものだ。やがて上半身裸のバートを気遣ったのだろう。着替えと毛布を持ってきてもらえた。昨日世話してくれた女魔導士だった。あなた、よく怪我するわね。でも生きててよかったわ。女魔導士がくすくす笑った。龍が死んだからだろうか、昨日より少し明るそうに見えた。毛布の温かさが心地よくていつの間にか眠ってしまった。


 どれくらい眠っていたかわからない。突然バートは肩を揺すられて目が覚めた。

「はい?」

 間抜けな返事をしてしまった。エミルが深刻そうな顔でバートを見つめている。手には黒龍の死体から抜いたバートの槍を持っている。空気を察してバートが上体を起こそうとした。

「起きれるか?」

「はい、何かありましたか?」

 上体を起こして担架の上に胡坐をかいた。

「仕留めた龍のことだ」

 話しにくそうにエミルが切り出した。

「お前の槍の穂先は龍の脳を貫いていた」

 そう言って担架の横に槍を置いた。血は綺麗に拭われていたがまだ黒龍の悪臭が残っている気がした。

 エミルの言ったことがわからなかった。

「どういうことです?」

「龍はお前の刺突で脳死していたんだ」

 エミルの言葉が理解できなかった。同じ質問を繰り返すのも馬鹿になったみたいなので取り敢えず怪訝な顔をした。

「つまり龍を仕留めたのはお前かもしれんということだ」

 全然実感が湧かないのでどう答えていいのかわからない。怪訝な顔のままでいることにした。エミルはバートに理解させることを諦めたようだった。

「まあいい。そのことでアミルスから話がある。跪け」

 首を伸ばしてエミルの背後を窺うとアミルスたち特級冒険者たちがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


「まだ子供ではないか。黒龍の頭蓋を貫いたというのはこの者かね?」

 バートの顔を見下ろしたアミルスがエミルに訊いた。

「はい」

 直立不動でエミルが答えた。相手は王国冒険者の頂点だ。エミルが緊張するのも無理ないことだった。

「どう鑑る?」

「魔力は水準以上ですが、それ程とは」

 横に控えた三十がらみの魔導士が答えた。

「ふむ」

 アミルスがバートの目を覗き込んだが、すぐその目に失望の色が浮かんだ。

「君は三級と聞いたが?」

「はい、組合に登録してからまだ一年です」

 恐る恐るバートが答えた。相手は雲上人だ。機嫌を損ねてはまずい。

「なるほど、読めた」

 一人合点がいったふうにアミルスが呟いた。

「これは君の技ではないな。得物の業と見た。その槍を見せてくれないか?」

「はい」

 槍を両手で捧げ持ってアミルスに手渡した。

 隣の魔導士に笏杖を預け、アミルスは手に取った槍を熱心に見入った。

「ずいぶん古式な槍のように見えますが」

 特級の司祭が横から口を出した。

「これは妖剣の類だ。数打ちの剣槍の中から時折こういう凄まじい斬れ味を示すものが出てくることがある。市井にはこの手の妖剣妖槍が人知れず眠っているというが」

 アミルスが魅入られたように穂先を眺めながら答えた。


「バート君と言ったな。これを譲らないか? 無論相応の代価は支払おう」

 アミルスの言葉に全員が驚いた。最高峰の冒険者が三級冒険者の得物を求めるとは。

「そこまでのものなのですか?」

 特級の魔導士が尋ねた。

「この槍は国庫に蔵されるに値するものだ。どうかね、バート君?」

「お断りします」

 バートの言葉に全員がもう一度驚いた。国王に予約抜きで謁見できる唯一の冒険者の頼みをこの若僧は断ったのだ。世間知らずで済まされないなんたる不敬。

「すみません! こいつはまだ駆け出しなもので……」

 エミルが慌てて言い繕った。

「バート君、駄目かね? こう言っては何だが君が持つより高い技量を持つ特級冒険者なり英雄なりが持つべきとは思わないか?」

「はい、この槍は誰にも譲れません。これは私に惚れた女が呉れた槍です」

 空気が凍りついた。皆が身の程知らずな若者を睨みつけた。エミルが泣きそうな顔でこっちを見ている。

 

 突然アルミスが哄笑した。

「そうか、それはすまなかったな。いや、失敬した」

 おかしくてたまらないふうに笑いこけた。周囲に安堵の波が広がった。

「その娘さんに伝えておいてくれ。いつかこの老体にも一振り見繕ってくれとな。頼んだぞ」

 そう言い残すとバートに槍を返して笏杖を受け取ると、取り巻きの特級冒険者たちを引き連れて本陣に戻っていった。

 槍を杖に立ち上がってその後姿を見送るバートにエミルが声をかけた。

「莫迦野郎め、千遇の出世の糸口をふいにしたぞ」

「いいんです。槍を渡してたら殺されてました」

「誰にだ?」

「惚れた女の涙にです」

「自分で言ってて恥ずかしくないのか?」

「ちょっと恥ずかしかったです」



 誰かが念話で伝えたのか上空から見ていたのかバートは知る由もなかった。いつの間にか宿営地の上空を飛竜が飛んでいた。やがて飛竜の数が増えていき、半刻もしないうちに数十頭の飛竜が飛び交っていた。敵ではないとわかっていてもどうにも不気味だった。よく衝突しないものだとバートは感心した。

 やがて飛竜たちは次々に黒龍の周りに降り立ち、微動だにせずに死骸を見下ろした。やがて一番大きな飛竜とその次に大きな飛竜が死骸に屈みこむと、悪臭を放つ肉を齧り取った。それを合図に飛竜たちが一斉に黒龍の屍肉を啄みはじめた。

 しばらくして一頭の飛竜が食事を中断してゆったりと人々の前に進み出てアミルスを見下ろした。一族第三位のギガだ。念話が人々の脳裏に響いた。

「白尾の一族を代表して礼を言う。天が落ち地が割れるまで盟約を守って国王に定められた数の騎竜を差し出すことを約束しよう」

 アミルスが前に出た。

「それは重畳。ところで、後学のために龍の死骸の一部を残してほしいのだが」

「それは無理だ。仇は一族の卵と幼竜を喰らって血肉にした。一族は仇を我らの血肉にして卵を産まねばならぬ。喰われた分の十の卵を産まねば復仇は成就しない」

「しかし……」

「汝らの言い分も理解できる。だがこればかりは譲ること能わず」

 体の向きを変えて死骸を喰いに戻っていった。


 人々は凄惨な午餐を遠巻きに眺めるしかできなかった。悪臭がもっとひどく立ち込め、何人も嘔吐した。黒龍の内臓が破れて喰われた冒険者の折り畳まれた剣や捻じくれた鎧が地に転がり落ちた。どれもが強い酸で溶けかかっていた。飛竜たちは肉と内臓を平らげると執拗に黒龍の骨を砕き、鱗一枚、骨一片すら残そうとしなかった。

「あんな臭い肉を喰ったら腹を壊すぞ」

 誰かが小さく呟いた。


 黒龍の死骸を綺麗に喰い尽くした飛竜たちは来たときと同じような唐突さで次々に飛び立った。飛竜たちの風の魔法で凄まじい旋風が巻き起こって人々を震わせた。風が収まってやっと目を開けた人々は飛竜たちが飛び去って行くのを見た。やがて飛竜たちは視界から消え、夜の闇が宿営地へ降りてきた。天幕の多くが燃えるか死体袋に使われていたので、バートたちは焚火を囲んで野宿する羽目になった。


 人々はそれぞれに寄り集まって夕食を囲んでいた。死者を悼んで誰も騒がなかった。

「これからどうやって帰るんですか?」

 桜鍋をつつきながらバートが訊いた。頭数が減ったことと馬の死体のおかげで糧食だけは不自由しなかった。

「組合が雇った荷駄がハトリの町から次々こちらに向かっているそうだ。第一陣は明日の朝に着く。最初は死体袋と蘇生技術を持った司祭、次いで馬借、俺たちは一番最後だ」

 鍋の野草を掬って碗に入れながらエミルが答えた。

「遠回りだが歩かないで済むだけマシだ」

 ゴルトンが黒茶をすすってため息をついた。

「そういえばマンスルはどこに行った?」

「薬草を摘んでくるって言って林に入っていきましたけど」

「早く呼んで来い。肉がなくなるぞと言ってやれ」

 言われてバートは渋々立ち上がった。


 松明を持ってくればよかった。バートは後悔した。

「マンスルさん?」

 時々声を掛けながら林の中を歩き回った。宿営地からそれ程離れてはいないはずだ。そう楽観していたがここまで見つからないと不安になってくる。何度も振り返って宿営地の明かりを確認した。

 やがて木々の間から差し込む月光の下にマンスルの大きな背中が見えた。声をかけようとして口をつぐんだ。

 マンスルは大きな木に向かって何事か唱えていた。時折嗚咽が混じった。死んだ仲間たちに祈りを捧げているのだと思った。

 マンスルの肩が小刻みに震えている。悲しみに打ちひしがれているのだろう。バートはマンスルの背中に慈愛を見た。後ろから声をかけるのは不作法だ。そう思って足音を殺してゆっくり正面に回り込んだ。


 バートの思いは僅か数歩で裏切られた。事もあろうにマンスルは女と抱き合って互いの唇を貪っている最中だった。女のはだけた襟元に突っ込まれたマンスルの手が荒々しく動く。月明かりで波打つ乳房が浮かび上がった。嗚咽と思ったのは女の唇から漏れた喘ぎだった。マンスルへの尊敬の念が急速に萎えてやり場のない憤りか湧いた。


「何やってるんですか、マンスルさん?」

 マンスルの背骨が鉄棒を挿し込まれたように跳ねた。ばつの悪そうな顔が振り返った。

「バートくん、いつからそこに……?」

「ついさっきです、口から涎が垂れてますよ」

 これ以上ないくらいの仏頂面を作って答えた。


「あれ、バートじゃない」

 マンスルの陰から顔を出した女が場違いな声を上げた。

「スウさん……」

 見慣れた鎧姿ではなく地味な平服のせいで顔を見るまでわからなかった。

「もう体も大丈夫みたいだね」

 そう言ってにっと笑った。

「二人とも何やってるんです……」

「いや、ほら、今朝君を助けた処置の方法をね、スウさんに実演してもらってたのです」

 マンスルは両手を振って何とか取り繕おうと必死だ。

「はあそうでしたか」

 ちっとも納得できなかったので棒を呑んだ口調て答えた。


「気分じゃなくなったからこれで戻るね。明日早いからもう寝なきゃ」

 襟を直しながらスウが言った。

「荷馬車を待たないんですか?」

「うん、もうここでの用は済んだからね」

「もう少しゆっくりすれば……」

「じゃあ三人でする?」

「お断りします」

「それじゃアイカによろしくね」

 そう言い残して軽々と足を運んで宿営地へ去っていった。


「いいなあ、私も組合を辞めて猟友会に転職しようかな」

 マンスルがスウの小気味よく動く尻を見送りながらぼそりと言った。

「何言ってるんですか。奥さんと娘さんが泣きますよ」

「家内は娘を連れて三ヶ月前に男と駆け落ちしました」

「え?」

 初めて聞いた。驚いてマンスルを見上げた。

 マンスルは相変わらずスウの尻から目を離さない。

「私が冒険者をしてるのが嫌だったんですよ。堅気の人から見ればやくざな商売ですからね」

 マンスルの目から一筋涙が流れた。

 バートは言葉が見つからなかった。こんな話聞きたくなかった。仕方ないので二人してスウの尻を見えなくなるまで眺め続けた。



「おめでとう。バート君、二級冒険者に昇格だ」

「昇格、ですか……?」

 黒龍討ちから帰った翌日の昼過ぎに人事係に呼び出されたバートはそう言い渡されて困惑した。バートのような三級冒険者が二級に昇格するには早くて三年と相場が決まっている。

「先の黒龍退治で死人が特級から二級まで合わせて十九。久々の大損害だ。穴を埋めなくてはならない。そこで特例として大量昇格が決まったのだ。今回漏れた者も近いうちに昇格させる」

 さあ喜べと言わんばかりの笑顔だ。バートの顔が強張ったのはまだ馴染んでない新品の鎧のせいだけではなかった。

「でも私はまだ登録して一年ですが……」

 いきなり言われても困る。まだ二級冒険者を務める自信なんて逆さに振っても出ない。

「君の実績は報告書で承知している。報告書の内容が真実なら、の話だが」

 丸眼鏡をくいと上げた。この男もかつて一級冒険者だった。胴回りは往時を全く忍ばせないが眼光だけは鋭い。

「今回の黒龍退治でも大いに働いたそうじゃないか」

「私は刺されて死にかけてただけです。あれはヘルガさんの手柄で……」

 結局黒龍を仕留めたのはヘルガの手柄になっていた。誰が見ても龍に止めを刺したのはヘルガだったし、バートも別に不満に思わなかった。バートが頭蓋を貫いた時点で死んでいたとは誰も信じないしバートも信じていなかった。


 戸惑うバートに人事係の顔色が曇った。全く最近の若者は、という顔だ。

「とにかく昇格だ。リーダーのエミルにも伝達済みだ」

 そう言って二級の認票と書類を差し出した。

「書類はエミルに渡したまえ。二つ名の申請書だ」

 バートは心の底で戦慄した。ついに自分も恥ずかしい二つ名を名乗る時が来たのだ。


 控室でエミルたちが待ち構えていた。

「昇格おめでとう」

 皆が祝福の言葉をかけた。

「有難うございます。まだ実感が湧かないのですが」

 戸惑い気味に答えた。

「最初は誰でもそうですよ」

 マンスルがバートの肩を叩いた。

「俺とマンスルも一級に昇格が決まった。大勢死んだからと思うと素直に喜べないがな」

 ゴルトンが沈鬱な面持ちで言った。

「そう言うな。人死にはこの稼業では避けて通れぬ」

「そうだな、すまなかった」

 エミルに言われてゴルトンが力なく笑った。

 バートも本当は辞退したかったですなんて思いは心の奥に仕舞った。

「それでどうする? 二級になればパーティを移ることも自由だ」

 エミルがバートに向き直って問いかけた。三人の真面目な視線がバートを見つめている。もうシロもジョバンもいないのだと改めて実感して目頭が微かに熱くなった。

「いえ、ずっと御厄介になりたいと思います」

 即答した。このパーティを抜けるなんてとんでもない。

「そうか」

 エミルが喜色を隠さず笑った。ゴルトンとマンスルも笑っている。

「お前が抜けると言ったらどうしようと思っていたところだ」

 ゴルトンが嬉しそうに言った。

「今夜は俺が奢ろう」

 エミルは本当に嬉しそうだ。つられてバートも笑った。

 ごめん。今夜も逢いに行けそうにない。バートは心の中でアイカに詫びた。


 壁の内側にある繁華街の一隅にある酒場でバートたち五人はテーブルを囲んでいた。あしか亭に比べたら随分上品だ。何せ床に絨毯が敷かれているし客は騒いでいないしホールの中央ではエルフのお姉さんが色っぽいドレスを着て竪琴を奏でている。

「それで何故あんたがここにいる?」

 怪訝な顔でゴルトンが五人目に尋ねた。

 確かローアという名だったか、アースンの率いる「蒼き流星」にいた一級冒険者だ。

「俺が呼んだ」

 エミルがエールを呷って言った。

「はい、この度『鋼の烈風』でお世話になることになりました」

 銀髪を撫でつけたローアが端正な顔に笑みを浮かべて頭を下げた。まだ若いのにやけに落ち着いている。

「『蒼き流星』が解散したのでうちで面倒を見ることになった」

「解散とは本当なのですか?」

 マンスルが問い返した。

「ええ、もともとアースンのためのパーティでしたからね。彼が死んだ以上解散しない理由はありませんでした」

 澄まし顔でジョッキをつかんだ。

「『蒼き流星』の副リーダーがうちに来るなんて信じられませんね」

 マンスルが呟いた。

「うむ、あんたは自分でパーティを組んでもおかしくない器量だ。何故うちに来たんだ?」

 ゴルトンがローアを見据えて訊いた。

「一つは私は自分がリーダーの器じゃないと思っていること。そしてもう一つは」

 ぐいとジョッキを呷った。

「『鋼の烈風』がいいパーティだと思ったからです」

 ゴルトンとマンスルが目を見合わせた。

「そこまで言われると悪い気はしないな」

 ゴルトンが照れたように笑った。

「バート君」

 ローアがバートに顔を向けた。

「アースンが言ってましたよ。若いけど将来いい冒険者になると」

 酒も飲んでいないのにバートの顔が朱くなった。

「それでは改めて」

 エミルが皆の顔を見回した。

「まずバートの二つ名を考えないとな」

 皆がにやりと笑った。まるで悪魔の笑みだ。

「あの、出来るだけ地味なのをお願いします」

 バートの哀願が通じる望みは薄かった。


「それで今後のことはどうなるのだ?」

 ひとしきり飲んで食って座が落ち着いたのを待ってゴルトンが冷めた羹を匙で玩びながら訊いた。

「そのことなのだが」

 言い難そうにエミルが紙巻をくわえた。

「ヘルティアに出向だ。『鋼の烈風』は明後日正午にヘルティアに向けて出発する」

「そんな……」

 思わずバートが呻いた。

「本当だ。我らはヘルティア市冒険者組合の幕下に入る」

「どういうことです?」

 マンスルが真顔で尋ねた。

「ヘルティアの組合は今回一番死人を出したからな。態勢を立て直すまで各市の組合に増援を頼んできたのだ」

 飛竜の巣から一番近いこともあってヘルティアからは多くの冒険者が参加していた。特にヘルティアの特級冒険者が全滅したことが痛手になっていた。

「しかし、うちだって人数が減って大変なのは同じではないですか」

 マンスルは尚も食い下がった。

「今回はうちの損害が一番少ない。組合としても出さないわけにはいかなかったのだろう」

 特例の昇格とはいえ一級四名二級一名のパーティならトランドの冒険者組合の面子は立つ。

「ローア、お前は知ってたのか?」

 ゴルトンが上品にワインを傾けるローアを横目で睨んだ。

「噂だけは聞いていました」

 ローアは嫌味なくらい涼しげな男だった。

「出向なので特別手当てもつく。報酬的には悪い話ではあるまい」

 エミルが言い訳するように言葉を継いだ。


 バートはそれどころではなかった。黒茶の湯呑を握る両手に力がこもり顔がみるみる青ざめた。アイカの顔が脳裏を占めた。三白眼の赤い瞳が悲しく歪んでバートを見つめている。

「お前には『あしか』の娘がいたな。気になるか?」

 エミルがバートに訊いた。

「向こうにはどれくらいいるのですか?」

「五年、早ければ三年で帰ってこれる」

 長すぎる。心が悲鳴を上げた。

「家族は連れて行けるのだろうな?」

 ゴルトンが確かめるように尋ねた。

「家族であれば帯同が認められる。その分手当も付くし、向こうで安い借家を借りることもできるだろう」

 エミルの答えを聞いてゴルトンがバートに顔を向けてにやりと笑った。

 なんで笑ってるのこの人? 俺はアイカと何年も逢えなくなるからこんなに落ち込んでるのに。

「バート君は気づいてないようですよ」

 マンスルが小声でゴルトンに告げた。

 マンスルさん静かにしてください。俺は落ち込むのに忙しいんです。その太い指でスウさんのおっぱいを弄り回してたくせに。スウさんの乳首に爪を立ててたくせに。

「本当にお前は鈍いな」

 呆れ返ったエミルがジョッキの底のエールを呷った。

「アイカちゃんを嫁に迎えて来いって言ってるのですよ、バート君」

 マンスルがわざと皆に聞こえるように耳打ちした。

 頭の中で何かが弾けた。

「え?」

 一瞬で理解した。思わず立ち上がって椅子が場違いに大きい音を立てた。四人が面白そうにバートを眺めている。他のテーブルの客が何事かと目を剥いた。竪琴のエルフのお姉さんの手が止まった。

「俺、行ってきます!」

 そう叫んで慌てて深く頭を下げるとバートは烈風のように飛び出していった。


「彼、面白いですね」

 バートが店を走り出たのを見届けてローアがくすくす笑った。

「そう言うな。若い頃は誰だってあんな感じだっただろ?」

 苦笑しながらエミルが答えた。

「若いっていいですねえ」

 マンスルが眩しそうに呟いた。

「俺もあんな頃があったな」

 昔を懐かしがるゴルトンの台詞に一同が顔を見合わせて哄笑した。


 星明りに照らされた夜道をバートは一心に走っていた。警邏に見られなかったのは幸いだった。槍を担いで血相を変えて走る姿は鬼気迫るものがあった。あしか亭の異様な生き物を掘りつけた看板が見えた。店の中から客たちの騒音が聞こえる。息を整える暇も惜しくて勢いよく扉を開けた。

 店の音が止まった。客も流しの娼婦も全員が肩で息をするバートを見つめている。バートは素早く店内を見回した。いた。盆を持ったアイカが突っ立って驚いた顔でバートを見つめている。バートは大股で店内に足を踏み出した。その顔には鬼相が浮かんでいる。バートの視界にはアイカしか映ってなかった。ずんずん進んでアイカの手を握るとそのまま店の奥に引いていった。

「バート、どうしたの?」

 アイカの声に答える余裕もなかった。口をきいたら覚悟が崩れそうだ。途中でニドとロラがかけた声も耳に入らなかった。裏口を抜け、裏庭の真ん中でアイカに向き直った。

 アイカの両手を握り、不安そうに見上げるアイカの三白眼を見つめてバートはようやく口を開いた。

「アイカ、結婚しよう」

 一瞬のそして那由他の沈黙。

 厩に繋がれた馬の間の抜けた嘶きが夜空に響き渡った。



 やあお待ちしていましたよ。どうぞお掛けください。

 最近は孫も小遣をせびる以外では相手にしてくれませんでな。貴方のように年寄りの相手をしてくださる御仁は大歓迎ですよ。

 おおい、早くお客さんにお茶をお出しして。

 すみませんね。連れ合いも年を取って随分草臥れてましてな。

 しかし貴方もお若いのに大変ですな。冒険者組合の社史の編纂とは。すみません、今ではトランド民間軍事探偵社という名前でしたか。

 しかし私のような下っ端の者の昔話などお役に立てますでしょうか。

 ほう、「鋼の烈風」は今でも語り草になっていますか。それは有難いことでございます。


 いえね、最近、孫を連れて「女勇者ヘルガの大冒険」という芝居を見に行きましてね。ヘルガが暗黒竜グライアスを退治する一幕で、爺もあすこにいてヘルガと一緒に戦ったんだよと孫に教えてやったのですよ。ところが脇役の冒険者たちは竜の炎に焼かれて皆引っくり返ってしまいましたものですから、お爺ちゃん弱かったんだねって孫にがっかりされる始末でしてな。今度機会があればお嬢のお爺ちゃんは凄い冒険者だったんだよって言ってやってください。

 おっと失礼しました。年寄りのいらぬ愚痴を聞かせてしまいましたな。


 さて、先日はどこまでお話ししましたか。最近は物忘れがひどくなっていまして。

 そうでした。「鋼の烈風」の面々のその後の話でしたね。


 エミルはそちら様のほうがお詳しいでしょう。なにせ三代前の社長ですからね。社長になったと聞いたときは私も鼻が高かったですな。そのころはもう組合を辞めて今の水珠作りの店を開いていましたけどね。あいつは「紺碧の刃」なんて二つ名を名乗っていて、気風が良くてそれはもう莫連な女たちにもててましたよ。いつもむすっと不機嫌そうな顔をしているのですが、ここぞというときに物凄くいい笑顔を作るものですから、女はみんな一発で落ちてましたな。どこに行っても必ず馴染みの女を作るものですから、マンスルなんて随分羨ましがってましたよ。


 そのマンスルはへルティアの冒険者組合にいた女魔導士と懇ろになりましたよ。どうも黒龍討ちのときの顔見知りだったみたいで、へルティアで再会して火がついたのでしょうな。赤毛でころころとよく笑う明るい娘でした。マンスルが引退して田舎で療養所を始めたときに追いかけて押し掛け女房になったと聞いています。最近は便りも絶えてどうしているのかわかりません。確かハマル村と言いましたか。あの辺りは大きな戦争がありましたでしょう? 今も息災ならいいのですが。


 ローアは黒龍討ちの後に入ってきた男です。若くて役者みたいに整った顔立ちでいつも涼し気な澄まし顔をしてましたからこいつも女にもててましたな。こちらはエミルと違って若い娘たちに大いに人気でした。腕も確かで新入りなのにすぐ副頭目に収まりましてな。まあ私もマンスルも皆を指図する器ではなかったから不満はありませんでした。


 ローアについてはこういうことがありました。

 ある時、盗賊退治の仕事に出かけたのですが、その盗賊の頭が落ちぶれた貴族の娘でしてね。ようは落魄した貴族の主従がそのまま追剥になった手合いです。その娘がローアに一目惚れしまして一味を率いて降参したのはよかったのですが、どう始末をつけたものか往生しました。結局、丸ごと冒険者組合で身柄を引き受けることで決着しました。連中が人を殺めていなかったのが幸いしました。それが「キャシリア挺身隊」です。貴方も名前だけはご存知でしょう? 捕まえた盗賊をそのまま雇うような真似が許された大らかな時代でしたな。

 ローアはエミルが引退した後に「鋼の烈風」を率いて大いに名を上げたと聞いていますが、その頃には私ももう組合を辞めていましたのでよくわかりません。あれも今はどうしていますでしょう。


 バートは確か黒龍討ちの一年ほど前に入ってきた若者です。黒龍討ちで死んだシロが随分目をかけてましたな。鉄砲玉で向こう見ずでしたが、素直で見どころのある男でした。外町にあった酒場の娘と恋仲で、休みの度に逢引に出かけていて皆によくからかわれてました。

 その娘は何度か見かけたことがあります。背が低くて痩せっぽちで一見して童子のようでしたが、妙に愛嬌があって笑顔がとても可愛らしい娘でした。

 とにかくバートはその娘一筋でしたので、へルティアに出向して離れ離れになって随分落ち込んでいましたものですから、気の毒に思ったエミルがトランド行きの隊商の護衛をよく請け負っていたことを覚えています。将来夫婦になると思ってしましたけど結局そうはなりませんでした。それなのに暇さえあれば店に通って仲睦まじく逢っているものですから、今思えば不思議な仲でしたな。


 その娘のいた店も焼き鳥大火で焼けてしまいました。貴方はご存知ないでしょうが、外町の南半分を焼いた大火事でしてね。あの頃は今と違って道も狭く曲がりくねっていて、おまけにあばら家が寄り集まって建っていましたものですから、あっという間に炎があちこち走り回って手の付けようがなかったそうです。何千人だか何万人だか大勢焼け死んでしまったと後から聞きました。

 というのも、私も火事のときは仕事で他所にいたものですから、直接火事を目にしてはいないのですよ。バートがいなくなったのもその時でした。娘を探しに行ったのでしょうな。結局、それきり行方知れずです。

 特級にはなれなくても一級としてひと門の冒険者になれたでしょう。全く惜しいことです。


 そうそう、バートには面白い話がありました。

 あのヘルガがバートに岡惚れしましてね、その小娘との間でひと悶着あったのですよ。こんな話はヘルガのどんな物語にも書かれてませんでしょう?

 おっとしまった、その前に茶菓子をお出しするのを忘れていました。うちの水珠の水で手慰みに作った水菓子ですが、これが美味いと近所で評判でしてね。息子夫婦が菓子屋を始めようと言い出す出来なのですよ。

 おい、お前、あれをお出しして。あれだよ、あれ。何ていったかな? いつもの所にあるあれだよ。あれじゃわからないって? もういい。私が出すよ。お前はお茶のお代わりをお出ししておくれ。ちょっとすみませんね。すぐお持ちしますからお待ちください。

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