第5話前編 里に置き去ったもの

 あの朝のことは今でもよく憶えている。

 まだ子供だったバートは襤褸をまとった体を抱き締め、鼻を啜って冬の寒風に圧し潰される思いで道端にしゃがみこんでいた。周囲には彼と同じように大勢の男女が寒さに打ちのめされている。握った袋の中には銅貨が二十五枚。彼の全財産だった。両目は目の前の大きな屋台に注がれている。屋台から生木が燃えるようにもうもうと湯気が立ち上っていた。


 大きな女が無言で大鍋の蓋を取った。それを合図に皆が先を争って屋台に群がり、銅貨を一枚突き出して湯気の立った粥で満たされた木の丼を受け取る。

 この立喰い屋台は薄い芋粥しか出さないが安くて腹一杯食えることで知られていて、バートのような戦災孤児や貧乏人の間では有名だった。この街に流れてまだ三月とたたないバートだったが、この屋台で腹を満たしてから日雇いの列に並ぶのが日課になっていた。


 屋台に殺到する大人たちを避けながら屋台にたどり着いたバートは、袋の中からなけなしの銅貨を一枚つかんで屋台を囲む棚に置いた。優しく微笑んだ大女が杓子を使って丼に粥を注ぐ。差し出された丼の熱が有難かった。周囲では客たちが思い思いにしゃがんで粥を啜っている。

 丼を両手で持って歩きながら空いた地べたを探して左右を見回す。それがいけなかった。後ろを通り過ぎた女の腕がバートの背中を軽く押した。普段ならちょっとよろめくくらいだ。しかしその時のバートには致命的だった。両手の間から丼が滑り落ち、中身が宙を舞って酔っ払いの落とし物のように盛大にぶちまけられた。

 ぶつかった女に殴りかかるには当時のバートはまだ小さく弱く幼すぎた。バートはその場にしゃがみ込み、茫然と地面の粥を見つめる。空の丼と木匙を拾って泥を拭う。みじめすぎて泣きたくなった。覚悟を決めて泥に塗れた粥に手を伸ばした。掬って食う積りだった。


 湯気を立てた粥の丼が突き出されてその手を止めた。顔を上げると薄汚れた服を着た禿髪の少女がバートの目の前にしゃがんで丼を差し出していた。三白眼の赤い瞳がバートを見つめている。その顔に見覚えはあった。屋台の下働きの少女だ。少女はしゃがんだまま兎のようにぴょんと一歩前に出ると、木匙を使って自分の丼の中身をバートの空の丼に移しだした。半分程移し終わると再びバートを見てにっと笑う。そして自分の丼に目を落として無言で粥を食べ始めた。

 目頭が熱くなるのを止められない。涙がこぼれそうだ。バートも顔を伏せると涙を悟られまいと不乱に粥を啜った。


 それから毎朝、バートは少女と一緒に粥を啜るようになった。お互い無言だが、目が合うとどちらともなく笑顔になった。なんというささやかで幸福な時間。今日こそは話しかけよう。そう思うと粥を待つ間の寒さも気にならなかった。


 しかしバートが少女に話しかけることはなかった。あの日から五日後、治安局の浮浪狩りに捕まったバートは孤児院にぶち込まれたのだ。それ以来、少女とは会っていない。



 あれから六年、十六歳のバートは外街の大通りを歩いていた。五尺五寸と背はあまり高くはないが身のこなしに若鮎のような切れがある。腰の剣も革の鎧も少々草臥れてはいるが、薄茶の髪を風になびかせて歩く姿は颯爽に見えた。

 孤児院から出たバートは冒険者組合に駆け込んで三級冒険者になっていた。バート自身も知らなかったが魔法の才があったことが幸いした。魔導士を務めるほどの才はなかったが魔法の武器くらいは使える。軍に入る気はなかった。軍が彼の両親と妹を殺したからだ。下手人がどの軍でも関係なかった。


 魔法剣が使えるといっても駆け出しなのは変わらない。実際、魔法の武器が使えることより、知識や経験、体力や判断力のほうが冒険者にとって大事な資質だ。三箇月の訓練期間の後、バートは「鋼の烈風」という名のパーティに編入された。一級冒険者二人と二級冒険者三人で編成されたパーティだ。トランド市の冒険者組合では三級冒険者のみでパーティを組むことを許していない。新人だけで組んだパーティはすぐ死ぬ。ベテランの冒険者と組ませることで落伍率を少しでも下げる工夫だ。自分で好きにパーティを募ったり気に入った仲間と組めるようになるのは実績を積んで二級に昇進してからになる。それまで数年は丁稚奉公に甘んじなければならない。


 「鋼の烈風」に入って半年、彼の仕事は荷物運びや先輩冒険者の武具の手入れ、食事の準備、一番きつい寅の刻の不寝番等、あまり冒険者らしくはなかった。しかし「鋼の烈風」の先輩たちは何かにつけて親切にバートの面倒を見てくれる。いつか自分の背中を預けるかもしれない相手を奴隷のように扱うのは性格破綻者だけだ。

 「鋼の烈風」の仕事は主に農村の警備や要人の警護で、刃傷沙汰も何度か経験したがいつも後ろに下がらされて先輩たちの背中を眺めるだけだった。比較的安全な場所で修羅場に馴れさせる冒険者組合の計らいだが、血気盛んな若者にとってはやるかたない日々が続いていた。


 今日は仕事もなく先輩と剣の稽古も昼前に終わって午後は暇だった。久し振りの休みを貰ってバートは外壁を抜け外町に出ていた。二日前に旅の商人の護衛をやり遂げて貰った報酬で懐は暖かい。

 冒険者組合は冒険者が理由もなく外町を出歩くのを余り喜んでいないが、孤児院に入るまで外町を寝処にしたバートは気にしなかった。

 

 バートが休みの度に外町に出るのは理由があった。孤児院に放り込まれる前、芋粥を分けてくれた少女を探すためだ。あの三白眼の眼が笑って細まるのを何度夢に見ただろう。辛くてもあの少女を思い出して耐えられた。外町を歩き続けていたらいつか再会できるかもしれない。淡い期待なのは自分でもよくわかっている。それでも休みになるとバートは決まって外町を歩いた。屋台が出ていると聞けば必ず足を運んだ。


 未四つも過ぎた外町の大路をバートは壁に向かってのんびり歩いていた。南のはずれの屋台村からの帰りだ。目当ての屋台は見つからなかったがたらふく食って腹は膨れている。最初の目的を大きく外れて最近はただの食い歩きになっているという自覚はあった。

 名前を聞いたわけでもない。だいたい言葉を交わしてさえいない。憶えているのはあの笑顔だけだ。どうやって探そうというのか。もう六年も昔の話だ。少女の屋台がまだこの街にいると思うほうがどうかしてる。

 小さく自分を嘲笑った。でも次の休みもきっと自分は外町を歩くだろう。歩かざるを得ないのだ。


 急に暴れ雨が降り出したのはその時だった。通行人が悲鳴を上げて我先に軒先に駆け込む。その中をバートはわざと悠然と歩いた。冒険者の奇習の一つだ。冒険者は雨の中でも平然としていなければならない。

 寮に帰ったら濡れた鎧も剣も手入れしなければならないが、軒下に身を寄せ合う人々を横目にバートは道を独り占めした気分でちょっと嬉しかった。


 ふと路に面した大きな平屋の裏庭で女たちが足早に洗濯物を取り込むのが目に入った。慌てても雨からは逃げられない。背の高い女たちに混じって一人の少女が雨に打たれて走り回っている。ふんと鼻を鳴らして通り過ぎようとしたバートの足が止まった。夢にまで見た少女がそこにいた。昔見た襤褸とは違って短い麻色のケープに緑色のズボン、足は革足袋を履いていたが、見間違えようがなかった。あの寒い朝に向かい合って粥を啜ったあの少女だ。シーツの束を抱えて裏口から屋内に入ろうとする少女の三白眼とほんの一瞬目が合った。あの赤い瞳だ。


 雨の中に立ち尽くすバートをよそに洗濯物を取り込み終わった女たちは家の中に引っ込んだ。バートは足を速めて家の正面へ回り、奇怪な生物を彫った看板を見上げた。看板から夜間営業を示す箒が吊るされている。飲み屋だろうか。バートは見当をつけた。屋台には通を気取っていても酒を好まないバートは飲み屋にはあまり詳しくない。

 どうしようと思う暇もなかった。両手が両開きの扉を勢いよく押し放った。


 店内は無人だった。微かに埃っぽい空気が鼻を刺す。束の間の沈黙を破られて無言の抗議を上げるように不揃いのテーブルと椅子がバートを出迎えた。滴り落ちる雨滴が木の床を濡らす。何故か居心地が悪い。さっきまでの勢いが萎んだ。気を取り直しておずおずと声を上げる。

「すみません」

 返事はない。

「すみません!」

 腹を括って叫んだ。

「はーい」

 奥からかすかに声が聞こえた。木沓が床板を叩く音が聞こえる。六尺はありそうな長身の女が暖簾を分けて顔を見せた。カウンターを抜けてこちらに歩いてくる。豊かな長髪を後ろで束ね、純白の肌が薄暗い店内でやけに目立った。巨大な胸で張った暗緑色のシャツ、褪せた藍のズボン、茶色の革の前掛けと恰好は地味だが背を伸ばして落ち着いて歩く姿は涼しげでバードは不覚にも見惚れた。

 女は軽く微笑みながらバートを見下ろした。血のように赤い瞳がバートを優しく見下ろした。深紅の薔薇が散るように厚目の唇が開いた。

「いらっしゃいませ。何か御用でしょうか?」

「え……あの……いま、いますで……しょうか!?」

 こんな美女が出てくるとは思わなかったバートは動転していた。

「女ッ……女の子……ここに……」

 言葉がもつれる。

「アイカのことでしょうか?」

 あの少女はアイカというのか。人生で記念すべき新たな情報が更にバートを取り乱させた。

「はッ……はい! アイカさんに……」

 会わせてください、の言葉が出てこない。代わりに大きなくさめが飛び出した。くさめが止まらない。飛沫を飛ばすまいと身を屈めるのが精一杯だ。

 やっと収まって顔を上げた。女が心配そうにバートを覗き込んでいる。ばつが悪すぎて泣きたくなった。

「用件はだいたいわかりましたわ。アイカは今取り込み中ですの。待つ間にお風呂はいかがです? 丁度今沸いていますし」

「え、いや、そこまでしていただかなくても……」

「このままでは風邪を引いてしまいますよ」

 有無を言わさぬ笑顔で女は言い切った。


 バートは促されるままにカウンターの暖簾を潜り厨房を抜けて風呂場の前に立っていた。

「少し待ってくださいね」

 そう言って背の高い女が風呂場の戸を叩く。

「姉さん」

「なに、ロラ?」

 中から女の声がする。え? 女の人? バートは狼狽えた。

「お客さんが入りますよ。ずぶ濡れなんです」

「この時間にお客さんが来るなんて聞いてないわよ」

「アイカのお客さんです。出てもらえます?」

「一緒に入ってもらってもいいのよ」

「駄目です。アイカに怒られますよ」

「私を何だと思ってるの?」

 ロラがふっと吹き出した。バートの狼狽はまだ続いている。相手は女性だ。目を覆ったほうがいいのか、それとも背を向けたほうがいいのか、贅沢な難問にバートが戸惑う贅沢を味わう暇もなく、出し抜けに戸が開いて暗褐色の肌の小柄な娘が姿を見せた。

 耳が横に伸びている。ダークエルフだ。ダークエルフの女にしてはやや痩せぎすだが、湯が滴るしなやかで瑞々しい裸身にバートは目を奪われた。肌よりやや濃い色の乳首、濡れて体に吸いついた長い銀の髪、無毛の股間。まるで黒飴を練って捏ねて女の形に仕上げた体だ。バートも健康で銭もそこそこ持っていて性欲を持て余す男子だから今まで女の裸を見たことがないわけではなかったが、こんな美しい裸身は見たことがなかった。

「あら、いい男じゃない」

 ダークエルフが左手の中指を下唇を当てて妖しく笑った。紅い瞳がバートを無遠慮に値踏みする。

「すみません!」

 我に返って踵を返して背を向けた。

「姉さん、早く部屋に戻ってください。お客さんがお困りですよ」

 ロラがバスタオルをダークエルフに押しつけた。

「はいはい、わかったわよ」

 ダークエルフの娘がバスタオルを受け取って体を包んだ。

「それじゃお客さん、後でね」

 そう言い残すと木沓を引っかけてあっさり出て行ってしまった。

 その背中をバートは呆けたように見送った。


 ロラがバートに向き直った。

「お待たせしました。どうぞお風呂をお召しください」

「いや、あの、やっぱりこのままでいいです」

「駄目です。風邪を引かれてはアイカに怒られてしまいます。さあ、鎧を脱いでください」

 優しげだが追剥の強い意志を感じた。言われるままに鎧を脱いだ。

「お召し物はこちらに入れてくださいね。着替えはここに置いておきますからどうぞごゆっくり」

 棚から引っ張り出した籠を置くと、ロラは鎧と剣を抱えて出て行った。

 雨に濡れた鎧下が気持ち悪い。意を決して脱いで下帯一つになった。また寒気が襲ってきて体が震える。下帯を解くと戸を開けた。湯の匂いがする。


 目に入ったのは大きな檜風呂だった。寮の共同の浴室ほどではないが自分の部屋より広い。寒さに我慢できずに取り敢えず湯に浸かった。冷えた五体に湯の熱が気持ちよく浸み込んできた。思わずため息を漏らす。

 落ち着いてやっと自分がとんでもないことを仕出かしてることに気づいた。いきなり他人の家に上がり込み、名乗りもせずに女の子はいるかと言い、挙句に風呂まで馳走されている。そもそも会ったと言っても六年も昔のことでしかも数日の間のことでしかない。アイカという名の少女が自分のことを憶えてると思うほうがどうかしている。今の俺は付きまといと罵られ、警邏を呼ばれても言い返せない。湯で温まった体と裏腹に心がどんどん冷えて重たくなってきた。なんたる無様。青春の光と影に弄ばれた不甲斐なさよ。

 風呂から上がったら名乗って謝って退散しよう、もう一生この街区は歩かない、帰りに娼婦を買って今日のことは忘れよう。美しい想い出は美しいまま大事に胸に鍵かけて仕舞っておくのだ。決心すると腹が据わった。肩まで湯に浸かって謝罪の口上を練った。古来より謝罪の必殺技と伝えられるドゲザの奥義を使う日が来たのだ。額を割っても構わない。

 風呂から出ると体を拭って籠を探った。いつの間にか鎧下も下帯も持ち去られ、かわりに麻のシャツと膝下までの短めのズボンが入っていた。ロラという名の女性が着替えを置いておくと言ったのを思い出した。謝る理由が一つ増えた。服を着てブーツに足を通すと、自分を励まし確かな足取りでホールに向かった。



 厨房ではちょうどロラが手鍋から急須に茶を移している最中だった。立ち尽くすバートに気づいて微笑んだ。

「あら、お風呂はどうでした?」

「はい、有難うございました」

 文句のつけようがないほど礼に則って頭を下げた。

「夕餉の準備ができてますよ。うちのお店は夜からなのでちょっと早いけど構いませんよね」

「いえ、そこまでしていただくわけには参りません」

「アイカも待ってます。どうぞこちらへ」

(待ってるのかー)

 心が僅かに揺らいだ。出来れば会わずに店を去りたかった。しかしそれも礼を失しているかもしれぬ。正々堂々誠意を尽くして謝らなければ。


 急須と湯呑が載った盆を運ぶロラに続いてホールに出た。

 テーブルの一つにさっきのダークエルフが黒のケープを羽織って何かを期待する笑顔で椅子についている。もう一つのテーブルには四人、三人は揃って銅色のたてがみのような髪に琥珀色の瞳の美女だが、三人とも同じ容姿で見分けがつかない。三人とも安物だがよく洗ってあるドレスを着て完璧な姿勢で椅子に座っている。バートを追って顔が僅かに動いてなければ彫像と間違えそうだ。

 もう一人はバートが六年間夢に見て起きても瞼の裏で見てきた少女だった。六年前の記憶が鮮明に蘇る。

 三白眼の赤い瞳がバートを見つめている。その眼から何の感情も読み取れない。

(やはり憶えているわけがないか)

 バートは圧倒的な現実の前に少し悲しくなった。でもいいんです。あの眼は六年前に俺に微笑んでくれた。それだけで十分です。それだけを支えに俺は一生生きていけます。ありがとう。


 深呼吸してバートは静かに頭を深く下げた。

「お騒がせして申し訳ありませんでした。自分の名はバートといいます。六年前、まだ子供だった頃にそこにいるアイカさんに屋台の粥を分けて頂いた者です。その御恩がいまだ忘れられず、本日たまたまアイカさんを見かけてこのような不作法を働いてしまいました。呆れたことを言っていると皆さんお思いなのは重ねて承知しています。もうこの辺りには近寄りません。申し訳ありませんでした」

 思い切って頭を上げる。少しでも詰られればこの身を大地に投げ出す覚悟だ。

 アイカはきょとんとした顔で辺りを見回した。

「六年前といえば確かに屋台を引いてた頃よね?」

 ダークエルフが口を開いた。

「ええ、このお店を始める前です」

 ロラが答えてアイカに顔を向ける。

「アイカ、バートさんを憶えてる?」

「うーん……、ごめんなさい。よくわからないよ」

 ですよね、六年前だしたった数日のことだし憶えてるほうがおかしいですよね。心の中でバートは自嘲した。


「確かにあの時の少年です」

 突然の声に全員の目が集まった。たてがみのような髪の女の一人が確かにそう言った。

「バートさんが六年間で成長していたので確認に時間がかかりました。間違いありません。六年前、西の通りで屋台を出していた時にアイカ様はバートさんに粥を分けています。正確な日時を申し上げましょうか?」

「あー、それはいいわ」

 ダークエルフが手を振って遮った。

「確かなのね、ドーラ、カール?」

「はい、ニド様」

 残り二人のたてがみの髪の女が揃って答えた。アイカが三白眼を大きく開いて問う。

「グスタフ、本当なのね?」

「はい、私は間違えません」

 アイカが席を立ってバートに歩み寄る。その手を取ってじっとバートを見上げた。バートの目とアイカの眼が交錯する。

 短い沈黙が流れた。

「思い出した!お粥をこぼしちゃって泣いてた子でしょ!? それから毎朝一緒にお粥を食べたよね?」

 ここまで激しく運命の女神に感謝したことはなかった。何かがこみ上げて目から溢れそうだ。

「この街に来て初めて友達ができたって嬉しかったんだよ! でも急にいなくなっちゃったから寂しかったんだよ! わあ! 久し振りだね!」

 バートの手を握り締めてアイカが言い募る。 

「ごめん、訳があって行けなくなったんだ」

 孤児院に叩き込まれてましたとは答えられない。

「まだあの時の礼を言ってなかった。あの時粥を分けてくれて本当にありがとう」


 バートとアイカは一つのテーブルに差し向かいで座っていた。

 二人の前にはかすかな湯気を立てる粥の深鉢が置かれている。

「六年前と同じだね」

 アイカが木匙で粥をすくいながら三白眼を細めて微笑んだ。

「ああ」

 ああそうだ、あの朝と同じだ。その笑顔も。この粥の味も。この店に入って初めて穏やかな気分だ。

 互いに無言で粥を口に運ぶ。

 視線が合う度にどちらかともなく笑顔になった。


「端で見てると喉を掻きむしりたくなるわね」

 隣のテーブルで金色のパイプをくわえたニドが二人を眺めて呟いた。

「微笑ましいじゃないですか」

 対面のロラが黒檀のパイプに火打石で火をつけながら答えた。

「微笑ましい程度じゃ済まないわよ」

「と言うと?」

「あのバートって子、冒険者よ」

「ええ、街中で鎧を着てましたからね」

 常に完全武装で歩き回るのも冒険者の奇習だ。結婚式も葬式も鎧姿で出ると言われている。

「二人の仲が進んだら組合と揉めるかもね」

「姉さんは反対なんですか?」

「まさか。楽しくなってくるじゃない?それに」

 ニドが湯呑の茶を啜ってにっこり笑った。

「アイカがこうと言い出して私たちで止められると思うの?」


「いろいろとお世話になりました」

 食事を終え、ロラから受け取った鎧を着て剣を吊ったバートは頭を下げて礼を言った。下帯も鎧下も乾いていたが革の鎧はまだ生乾きだ。

「もうすぐ開店ですし、鎧が乾くまでお店で待ってもいいのですよ?」

 申し訳なさそうにロラが言った。

「いえ、今日は十分ご厄介をおかけました。もう帰らなくては」

 会ったその日に朝帰りするわけにはいかなかった。寮には外泊申請も出していない。

「そうですか、また来てくださいね」

「ありがとうございます、またお邪魔します」

 ロラの横でアイカがにっと笑った。

「また来てね。待ってるね」

「うん、また来るよ」

 ロラに向かって頭を下げた。

「それではこれで失礼します」

 踵を返して店から出て行った。それを見送りながらロラがアイカに訊く。

「アイカ、バートさんが冒険者だって知ってる?」

「うん、さっき教えてもらったよ。まだ駆け出しなんだって」

 自分の答えに気づいて不安げにロラを見上げた。

「もしかして駄目だった?」

 ロラがしゃがんでアイカと目線を合わせると、包み込むようにアイカの両頬を両の掌で撫でた。

「そんな筈ないわよ。バートさんって誠実で正直でいい人そうだし。姉さんも応援してるって言ってたわ」

「うん」

 アイカがくすぐったそうに目を細める。

「でもグスタフたちが焼き餅焼かないようにしないとね」

「大丈夫だよ。グスタフたちも優しいもん」

「ええ、そうよね」

 アイカから手を離して立ち上がる。

「さあ。お店の準備をしましょうか」



 寮へ急ぐバートは幸福の絶頂にあった。足取りが異様に軽い。油断すると足が踊りだしそうだ。乾ききっていない革の鎧が軋り音を立てるのも何故か心地いい。六年の想いが通じた。アイカが俺のことを憶えていてくれた。おまけにダークエルフのお姉さんがきれいな裸を見せてくれた。あくまでおまけです。なんて今日はいい日なんだ。

 幸福のうちに寮の門をくぐり、幸福のうちに鎧を手入れし、幸福のうちに寝床に入った。その日はぐっすり寝た。夢の中でアイカとけしからんことをして下帯を汚した。


 翌朝早く、バートは幸福の余韻を引きずったまま訓練場で素振りをしていた。真剣に稽古しなければならないのに顔がにやつく。

「お早う。精が出るな」

 後ろから声がかかった。振り返ると三十がらみの痩せて強面な男が木剣片手に佇んでいた。肘までの鎖帷子の上に簡素だか丁寧な造りの胴鎧を着て、腰に片刃の湾曲した剣を佩いている。

「お早うございます。シロさん」

 深々と頭を下げた。「鋼の烈風」の先輩で一級冒険者のシロだ。冒険者組合でも上位に数えられる剣達者で暇を見つけてバートに剣術を仕込んでくれている。

「うむ、飯は食ったか?」

「はい」

 この先輩は顔を合わすたびに同じ質問をする。

「そうか、では構えてみろ」

 言われるまま正眼に構えた。その剣先をシロが木剣で二度三度と叩く。

「ふむ、剣先に芯が入っている。何かいいことがあったな?」

「いえ、特には……」

 アイカを思い出してバートは思わず赤面した。

「まあいい。剣の稽古はしばらく止めろ。今日は槍の稽古だ」

 シロが何を言っているのかわからずバートは戸惑った。

「初めての刀争では剣はかえって持て余して不覚を取る。槍を使ったほうがいい」

「と言いますと?」

 聞き返すバートの目を見てシロが厳かに答える。

「依頼だ。盗賊の隠れ家を突き止めた。明日の日が落ちたら出発して三日後に攻める。武器庫に行って槍を取ってこい。武器庫の担当には話をつけてある。柄は一間くらいがいい」


 その日は暗くなるまで槍の稽古に明け暮れ、晩飯も食わずに風呂に入って外町に出た。シロは剣より槍のほうが筋がいいと言ってくれたが、剣と勝手が違ってあちこち痛む。身体を動かしている間は考える暇もなかったが、稽古が終わると心が重い。あれ程待ち望んだはずの初陣なのに日取りが決まると怖い。冷静に考えれば生命の遣り取りなのだから当たり前だ。シロは腹一杯食って寝てしまえと言ったが、要はそれくらいしか手立てがないのだ。


 悩んでるうちに店の前に立っていた。下手くそに彫られた看板を見上げる。もう日も落ちて中から客の騒音が聞こえてくる。あしか亭という名だとアイカが教えてくれた。アイカに暗い顔を見せたくない。若者らしく顔を両手でぱんと叩くと自分を励まして扉を開けた。


 中は予想以上の混乱ぶりだった。ありとあらゆる種族がげらげら笑いながら酒を酌み交わしている。賑やかに騒ぐ客全員に共通する濃厚な暴力の臭いを嗅いでバートは思わずたじろいだ。戦争で追われて以来、この手のことには鼻が利くようになっていた。この店の客は尋常じゃない。救いを求めるように周りを見回す。

 カウンターでパイプをくゆらせていたニドという名のダークエルフがバートに気づいて手招きした。救われた気分で足早に奥に進んだ。

「いらっしゃい。早速来たわね。アイカも喜ぶわ」

 ニドがによによ笑ってカウンターの椅子を勧めた。

「昨日はお世話になりました」

「ご注文はどうするの?」

「はい、エールと何か食べ物を」

「ええ、ちょっと待ってね」

 暖簾を潜って奥に消えた。バートは奥の棚に並ぶ酒瓶を眺めた。酒はあまり飲まないから安いか高いかもわからない。仕方なく首を回して振り向くと、たてがみの髪の女の一人が客と談笑していた。確かグスタフ、ドーラ、カールという名だったが、そのうちの誰かまではわからなかった。


「お待たせ」

 奥からニドがジョッキを手に姿を見せた。カウンターに設えられた樽からエールを注いでバートの前に置いた。

「はい、どうぞ。料理はもう少し待ってね」

「いただきます」

 くいとジョッキを傾けて一口飲んだ。

 ニドがカウンターに肘をついて身を乗り出した。

「あなた、お酒は得意じゃないでしょ?」

「え、あ、はい。まあ」

 見透かされてバートは慌てた。

「別に酒場じゃお酒を飲まなきゃ駄目って法はないわ。お茶もあるわよ」

「はい。ありがとうございます」

「うちの客にもお酒を好かない人は結構いるのよ」

 そう言って顔を少し傾けて上目遣いにバートの目を覗き込んだ。紅い瞳に見入られてバートが緊張する。

「あなた、何か悩み事を抱えてるでしょ?」

「い、いいえ、そんなことないですよ」

 うまく誤魔化せたとは思えなかった。

「昨日帰るときは仔犬みたいにうきうきしてたのに、今日は目の奥に何か重いものを感じるわ。何かあったでしょう?」

 控えている依頼の内容を他人に教えることは禁じられている。特に今回のような盗賊討伐は尚更だ。どう答えれたらいいのかわからずバートはジョッキを握って黙り込んだ。


「バート、いらっしゃい!」

 突然の声に顔を向けた。暖簾を分けて大皿を持ったアイカが顔を出したところだった。

 その笑顔に暗い思いが吹き飛んた。

「やあ、アイカ。来たよ」

「はい、お料理お待たせ!」

 アイカが注意深く大皿をバートの前に置いた。茹でた大海老が大きな菜葉の上に乗っている。

「すごい海老だね」

 こんな大きな海老は初めて見た。

「街の横を流れてる川の下流の海で獲れた海老だよ。蛇紋海老っていうの。尻尾に毒があるけど美味しくてたまにしか手に入らないんだよ。あ、ちゃんと毒抜きしてるから安心して」

 アイカがカウンターを回ってバートの左隣の椅子に座って答えた。

「素手て食べていいのか?」

「敷いてる葉で包んで食べるんだよ」

 なるほどと納得して菜葉で包むと一口食った。

「うまい」

「よかった」

 小首を傾げてこぼれるように笑った。三白眼が狐のように細くなる。

 バートが皿をアイカのほうに少し押した。

「一緒に食べよう」

「え、駄目だよ。お客さんに出したものを食べるわけには……」

 慌てた顔も可愛い。

「俺はアイカと一緒に食べたいんだ。六年前のあの日のように。それに一人で食べるより二人で食べたほうがうまい」

 アイカの照れ照れした赤面がバートを見上げた。


「あーもーこれ以上見てられない」

 傍で眺めていたニドがぼそっと呟いた。

「ちょっとお客さんたちと話してくるわ。アイカ、カウンターをお願い」

 そう言い残すとすたすた歩いてカウンターを抜けて客の中に入っていった。

 二人揃ってニドの後姿を見送っていたが、どちらともなく顔を合わせた。

「じゃあ一緒に食べよう」

 アイカはそう言うと菜葉を小さくちぎって海老の背をむしると口に入れた。眼はバートから外さない。

「おいしい」

 にこりと笑う。

 バートもアイカから目を離さず同じようにちぎった菜葉で海老をむしって口に運んでにこりと笑う。

 見る者が喉を掻きむしりたくなる恐るべき光景が場末の酒場のカウンターで展開した。



 海老一尾を平らげるのに四半刻かかった。

「まだ何か食べる?」

 アイカが訊く。

「いや、もう十分だ。体が熱くなってきた」

 鎧の首許を寛げた。

「ここ暑いね、裏庭に行こうか」

「カウンターはいいの?」

「大丈夫よ、ニド姉さんがいるし」

 ぴょんと椅子から降りたアイカがバートの手を取った。慌てて椅子から降りる。手を引かれるままカウンターを抜けて厨房に入った。

「あら、アイカ、どうしたの?」

 杓子を使って鍋を掻き回していたロラが声をかけた。

「ちょっとバートと夜風に当たってくる」

 ロラの後ろを通り過ぎながらアイカが答えた。

「すみません、すみません」

 アイカに引きずられて謝りながら通り過ぎた。

 無言で見送っていたロラは、二人が見えなくなると微笑んで再び鍋を掻き回しだした。


 夜空は生憎の曇りだった。二人は裏口の階段に座って雲にぼやけた月以外に何も見えない空を眺めていた。

「明日は雨かなあ」

 アイカがぽつりと言った。

「うん……」

 上の空で返事した。実際バートの心中は空模様どころではなかった。並んで座って初めてアイカの小ささを実感した。こんなに小さく細く薄かったのか。初めて会った時は自分より少し背が高かったはずだった。空を見上げて伸びた喉の白さを見つめた。

 ふいにアイカが首を巡らせバートを見た。

「ん?」

「あ、いや、何でもない」

 慌てて取り繕った。アイカがじっとこっちを見てる。ああ、このまま時間が止まればいいのに。


 バートの祈りをよそにアイカの眼が動いて三白眼の赤い瞳の焦点がバートの後ろに向けられた。アイカの顔に驚いたような困ったような表情が浮かぶ。

「?」

 振り向くと、安っぽいドレスを着たグスタフ、ドーラ、カールの三人がバートの背後に立っていた。

「え?」

 アイカに夢中だったとはいえ音も気配も感じなかった。美しく冷たい琥珀の瞳が六つバートを見下ろしている。主人を守る大型犬のように油断なく動いてバートを取り囲んだ。

「あの……何か……?」

 状況を理解できない。

「グスタフ、ドーラ、カール、お店のほうはいいの? ちゃんとニド姉さんやロラ姉さんに言った?」

 自分を棚に上げてアイカが尋ねた。

「アイカ様と私たちは一心同体。誰にも許しを請う必要はありません」

 一人が口を開いた。見分けがつかないから誰なのかわからない。

「ありがとうグスタフ、私は大丈夫だよ。みんなお店の手伝いをお願い」

 言い聞かせるようなアイカの言葉。

「しかし、夜の屋外は危険です」

 危険とはお前のことだ、と言わんばかりの厳しい視線がバートを射すくめる。

「バートがいるから大丈夫だよ、お願い、二人でお話させて」

「しかし……」

 三人が初めて戸惑った表情を作った。

「大丈夫、離れてても私たちは一心同体だから、ね?」

「わかりました。店の手伝いに戻ります」

 仕方ないという風にグスタフがアイカに頭を下げた。残り二人もそれに倣う。

 顔を上げたグスタフがバートに顔を向けた。さっきより心なしか表情が柔らかい。

「それではバートさん、アイカ様をよろしくお願いします。変なことにならないよう気をつけてください」

 にこりと笑った。憎悪と殺意を込めた笑顔があるとすれば多分この笑顔だ。バートは密かに恐怖した。

「は……い」

 怯えきったバートに軽く一礼して三人は揃って裏口から中に消えた。

「んもう、変なことって何よ」

 アイカが小声で呟いた。

 ごめんなさい、できれば変なことになりたいと思ってました。バートは心で密かに詫びた。


「ごめんね、グスタフたちが邪魔しちゃって」

「グスタフさんたちとはどういう関係?」

 三人は「アイカ様」と呼んでいた。もしかして落魄したお姫様なのか。

「昔ね、困ってるのを助けたことがあったの。それ以来ずっと一緒なんだ。お店の仕事も一緒」

「大変そうだね」

「そうでもないよ、お店が開いてる間はロラ姉さんのお手伝いにお客さんの相手、お店が終わった掃除して料理の残りや残飯の後始末、それが終わったら三日に一度はお洗濯して干して、それからグスタフたちと四人で寝て、起きたら洗濯ものを取り込んでお店の準備をして……」

 指折りながら説明した。

「あ、口で言うと結構大変だね」

 そう言ってにひひと笑った。

「でもね、私たちは四人だけど、ロラ姉さんは一人で厨房を切り盛りしてるし、ニド姉さんはお酒や食べ物の仕入れしたり、お金の計算したり、お役所とかの相手しなきゃならないからね、贅沢言ったら罰が当たっちゃうよね。それにね」

 アイカが尻をぽんとずらしてバートとの距離を縮める。アイカの体臭が快い。

「こんな暮らしも結構気に入ってるんだ。バートとも出会えたし」

 三白眼の小さく赤い瞳がバートを覗き込む。近い、距離が近い。かすかにアイカの呼吸を肌に感じる。健康な男子には危険な距離だ。


 その時、ロラが盆を片手に裏口から顔を出した。

「あら、お邪魔だった?」

 アイカが神速の迅さでバートと距離を取った。

「な、何、ロラ姉さん?!」

 顔を真っ赤にしたアイカの声が裏返った。

「お茶を持ってきたのよ」

 そういうと屈んで黒茶の湯呑を板床に置いた。

「ふふ、ごゆっくり」

 そう言ってそそくさと裏口に消えた。

「ごめんね、みんなお節介で」

「いや、うん、大丈夫だよ」


「ねえ、急にいなくなってからどうしてたの?」

 アイカが両手で湯呑を持ってふうふう息を吹く。その姿すら可愛い。

「実は六年前のあの後、役人に捕まって孤児院に放り込まれてたんだ。急にいなくなってしまってすまない。」

「そうなんだ、大変だったんだね。」

「でも辛いことばかりじゃなかった。読み書きを教ったし魔法の検査で俺にも魔力があるってわかったんだ。魔導士や医僧になれる程じゃなかったけどね。」

「へえ、すごいね」

「だから十五で孤児院を出てまっすぐ冒険者組合に入ったんだ。他に行く当てがなかったこともあるけど」

「すごいね、冒険者って」

 そう言われるとちょっと誇らしい。

「まだ駆け出しの三級だけどね」

「怪我しちゃ嫌だよ」

「うん、ああ、ありがとう。気をつけるよ」


 答えながらも怪我と言われて次の仕事を思い出した。心の奥に黒い雲のように不安がむくむく立ち上がった。萎れた朝顔のようにうなだれて黒茶に目を落とす。

「どうしたの?」

 アイカが小首を傾けてバートを怪訝に見つめる。

「いや、次の仕事のことを考えてたんだ」

「危ないの?」

「うん……、ちょっとね」

「本当に大丈夫?」

 心配そうにバートを見上げる。

「大丈夫だよ。心配しないで。パーティの先輩たちもいるし」

 再びアイカが距離を詰めた。さっきまでの甘えた子猫の気配はどこかに飛び去っていた。背筋を伸ばし、三白眼が真顔でバートを凝視した。

「いい? よく度胸付けにポーションを舐める人もいるけど真似しちゃ駄目だよ」

 母親が言い聞かせるような口調にバートは小さく驚いた。

「頭がぼっとして不覚を取るだけだよ。あと絶対に目を瞑らないように。怖くなくなるおまじないをしてあげる。ちょっと待ってね」

 そう言うと木沓を鳴らして家の中に駆け込んだ。

「え?」

 気抜けた顔でアイカを見送るバート。どう反応していいのかわからない。一人寂しく座り込むバートを夜風がなぶった。


「お待たせ!」

 実際バートが孤独に耐えた時間はそれほどでもなかった。アイカはすぐ戻ってきた。手には小さな飾り気のないギヤマンのインク瓶、コルクで栓されて中に黒い液体が溜まっている。

 アイカがコルクを抜くと鈍い刺激臭がした。黒いがインクじゃない。

「これは?」

 戸惑ってアイカに尋ねた。

「タールだよ。こう使うの」

 そう言うと上目遣いにバートを見た。

「目を閉じて」

 アイカの言葉に言われた通りにした。もしかしてキスですか? ちょっと期待してしまうのはバートが健康な男子だからだ。

 さりげない風を装って口を突き出したバートの目の下を右から左へアイカの小さく柔らかい指先がなぞった。その指先に湿りと粘りを感じる。え、いきなりそういうプレイなんですか?

「もう目を開けていいよ。」

 恐る恐る目を開ける。タールの臭いが僅かに目に染みた。

 アイカがケープから取り出した手鏡をバートに向ける。燭台の小さい明かりを頼りに自分の顔を映した。目の下でタールの線が顔を一文字に横切っている。

「これは?」

「おまじないだよ。テイレ族の部族戦士の戦化粧だってニド姉さんが言ってたんだ。」

 はるか昔、大陸を荒らし回ったと古い神話が語る蛮族の名だ。多くの魔法の都市を滅ぼしたと伝えられる半裸の狂戦士たち。神話の存在で実在したかも怪しい。この戦化粧も眉唾ものだ。でもアイカが自分を案じて掛けてくれたまじないだと思うと嬉しかった。


「元気出た?」

「ああ、ありがとう」

 闇の中に小さい炎を見つけた旅人のように両手でインク瓶を受け取り、腰の胴乱に押し込んだ。

「はい、これで拭いて」

 アイカが布を取り出して差し出した。汚れを落とすためか微かに安酒の匂いがする。受け取ってひとしきり顔を拭った。

「どう? タールは落ちた?」

 アイカに顔を突き出した。

「やだ、全然落ちてないじゃない」

 アイカがころころと笑った。

「もう、貸して!」

 そう言うと布を引ったくる。座ったバートの膝に跨ると、真剣な表情で顔を拭き始めた。

 アイカの温もりと軽い体重を膝に感じる。細い腰に手を回したいのを何とかこらえた。嗚呼、ずっとこのままでいたい。

「仕事はいつから?」

 熱心にバートの顔を拭きながらアイカが訊いた。

「ああ、予定では明日の夜出発して一週間くらいで帰ってくる」

「帰ったらまたお店に来てね」

「うん、約束する」

「絶対だよ」

「絶対の絶対だ」

「絶対の絶対の絶対に来てね」

 そう言ってアイカは優しく笑った。



 次の日の朝、バートは「鋼の烈風」の面々と共に組合の一室で机を囲んでいた。

 リーダーで戦士の「紺碧の刃」エミル、同じく戦士の「神速剣」シロ、斥候の「暗黒の旋風」ジョバン、魔導士の「封魂」ゴルトン、司祭の「聖なる鉄壁」マンスル、皆経験を積んだベテランだ。

 冒険者組合では二級になると二つ名を授かる。自分もいずれ恥辱に満ちた二つ名を名乗ることになると思うと戦慄を禁じ得ない。もっと恐ろしいのは先輩たちが自身の二つ名を恥じるどころか誇らしげなことだ。冒険者として過ごす年月が羞恥心を殺すのか。バートは改めて冒険者として生きていくことの厳しさを知り畏怖を覚えずにはいられなかった。


「これから盗賊討伐の作戦を令下する」

 エミルの言葉にバートを除く全員が不敵に笑う。

「昨年来、コルティ街道沿いのエシュー峠で盗賊が跋扈して旅人を襲っている。被害者を隠れ家に連れ去って痕跡を残さない手口のため発覚まで時間がかかった」

 ジョバンが手を上げた。エミルが話を止めて頷いた。

「あの峠の切所にはワーテンの関があり兵も詰めている。そんな場所で盗賊働きは考えにくいのだが」

「どうやら盗賊どもから関守に金が流れているようだ」

「なるほど、それなら納得だ」

 ジョバンが軽く笑って腕組みしたまま椅子の背板に体を預けた。昔は関所が賄賂を受けて盗賊を見逃すことは珍しくなかった。中には襲撃の手引きまでする関所もあったと言われている。内戦も終わって流通の立て直しに熱心な王国はこうした癒着を根絶しようと躍起になっているが、それでも今回のような出来事はたまにある。


「そちらは治安局の目付が内偵を進めている。我らの相手は盗賊だ。先日、商工会議所の依頼で動いていた『闇夜の黒薔薇』が連中の隠れ家を突き止めた。大昔に遺棄された山砦だ」

 「闇夜の黒薔薇」は手練れの斥候のみで編成され、捜索と索敵に特化したパーティとして知られている。メンバー全員が筋肉質の大男だ。バートも一度見たことがあったが、あんな目立つ風体でよく斥候が務まると感心したことを覚えている。


「敵の数は約三十、魔導士が少なくとも三人、弓と弩が五人以上、人種は人間が約半数、他はドワーフとゴブリンだ。会議所の依頼を受けて冒険者組合は盗賊の隠れ家を攻撃、一挙に盗賊を一網打尽して街道の通行の安全を確保する」

 エミルが念を入れるように全員を見回す。

「作戦には我らの他に『蒼き流星』『影剣』『黒の猟兵』が参加する」

 一同の口からほうという感句が出た。どれも痛々しい名前に相応しい実力派のパーティだ。

「我らは今夜馬車に分乗して出発、明後日の後夜に現地に到着し、『闇夜の黒薔薇』の誘導で攻撃開始位置について払暁に隠れ家を攻める。主攻は『蒼き流星』、我ら『鋼の烈風』と『影剣』が助攻、後詰は『黒の猟兵』だ」


「隊形はいつも通りだが……」

 エミルがバートに顔を向ける。

「バート、お前は俺とシロの後ろにつけ。背後は任せた。ジョバン、バートをよく見てやってくれ」

「応」

 ジョバンが即答した。既にエミルから予令されていたのだろう。

「俺の背中を突くなよ。教えた通り敵が間合いに入るまで穂先は下げておけ」

 シロが横目でバートを睨んだ。皆が軽く笑い声を上げる。しかし実際に乱戦で味方を誤って傷つける例は多い。バートは初めて前衛を務める緊張に身を震わせ黙って頷いた。

「出発は巳二つ、それまでに武装を整えて厩に集合、それまで組合の敷地から出ることも外部との連絡も禁止だ。質問は?」

「山砦の構造は?」

 シロが訊いた。

「詳しくはわからぬが、石垣の上に天幕を張っているらしい。出入口は正面の階だけだ。そこは『蒼き流星』が担当する」

「面倒だな、石垣を越えられないか?」

「すでに梯子を用意させている。高さ一間半でそれぞれのパーティに一挺だ。ほかに質問は?」

 全員が無言で応えた。バートも何を聞けばいいのかわからなかったから口を閉ざした。

「では解散、俺は飯と風呂と厠以外は一階の控室にいるから何かあれば来てくれ」

 そう言い残すとエミルが席を立った。


 エミルが退室するのを待ってシロが口を開いた。

「バートよ、心配するな、とは言わぬ。どうせ無理だからな。初陣は誰でもそうだ」

「はい……」

 何とか答えた。声がもつれる。

「敵は俺とエミルが引き受ける。お前を我らの後に置いたのは相手を我らの後ろに抜けさせぬ工夫だ」

 前衛を重畳に配すれば敵は迂闊に突破を試みないという算段だろう。しかし果たしてそううまくいくのか。

 ゴルトンがシロの後を継いでバートに語りかける。

「万が一敵が来たら寸前で伏せろ。我の魔法とジョバンの半弓で何とかしてやる」

「おう、任せろ」

 ジョバンが手を振って笑った。

 シロが再び声をかける。

「いざとなればマンスルに督戦魔法をかけてもらえ」

「督戦魔法は正常な判断力を失わせます。あれは最後の手段ですよ」

 マンスルが異議を唱えた。

「それにバート君には必要ないでしょう。私が初めての時はもっと酷かった」

「ほう、聖壁マンスルにもそんな頃があったのか」

 ゴルトンが面白そうに笑った。

「もう十年以上前ですが……」

 取り留めのない会話が続く。それを黙って聞きながら、自分を励まそうとしてくれている気持ちが伝わってきてバートは少し嬉しかった。



 馬車に乗ってからはほとんど寝て過ごした。後から聞いたが乗り込んですぐマンスルが勧めた焼菓子に眠り薬が仕込まれていた。バートの懊悩を見兼ねて気を使ってくれたのか鬱陶しかったのかはわからない。とにかく、揺り起こされた時にはもう現地についていた。慌てて得物の槍と自分の背嚢を抱えて馬車から降りる。音を出すのも光を出すのも厳禁だ。凄まじい尿意に耐え切れず道端で草摺を持ち上げて放尿した。長い至福の後、下衣のあわせを閉じていると馬車の横でシロが無言で手招きしていた。黙って駆け寄るとシロを手伝って馬車の天蓋に縛りつけていた梯子を降ろし、やっと周囲を見回す余裕ができた。


 まだ寅の刻くらいだろうか辺りは冥い。見上げると星が瞬いている。アイカもこの星空を見上げているだろうか? 多感な少年らしく考えた。あの禿髪に三白眼の瞳、バートに微笑んだ唇を呆然と思い描く。だから不意に目の前の草むらから大きな影が起き上がったときは心臓を握り潰されるかと思った。悲鳴を上げなかっただけで上出来だ。

「『闇夜の黒薔薇』のサムルです」

 影が声を出したので相手が人間だとわかった。六尺五寸はありそうな男だ。こんな大男が傍に寄るまで気づかなかったとは。己の迂闊を恥じた。汚れた平服の下に仕込んだ鎖帷子が分厚い筋肉で盛り上がっている。黒い蓬髪髭面の奥にぬいぐるみの熊のような優しい目が座っていた。

「お迎えに参りました」

 囁く声まで優しげだ。

「『鋼の烈風』のエミルです。よろしく頼む」

 エミルが小声で返した。

「待機する場所は選んでいます。そこまでご案内を。払暁までには着きます」

「かたじけない。他のパーティは?」

「誘導を出しています」

 それで十分だろうと言わんばかりだ。

 今回の作戦は関所に悟られないよう、それぞれのパーティが違う経路を進む分進合撃だ。戦闘までパーティ間で連絡も連携もできない。高練度パーティのみに可能な作戦だった。


 エミルが全員を振り返った。

「準備はいいな? 行くぞ」

 返事を待たずに歩き出した。エミルを先頭に、ゴルトン、マンスル、その後ろに梯子を担いだシロとバート、最後尾は斥候のジョバンだ。

 一行は道もない山中を難儀しながら進んだ。夜の戦の作法通り全員がむっつり押し黙っている。所々に光石が置かれ星の光で微かに瞬いている。決まって滑りやすい岩場や躓きそうな木の根などに置かれていた。サムルの気配りだろう。熊のような外見に似合わない繊細な男だ。バートは内心感心した。


 半刻も歩いただろうか、ようやくサムルが小さな窪地で足を止めて片膝をついた。

「着きました。ここが待機場所です。山砦はこの方向に四町ほど、隠れて進めるのは二町ほどで、そこから山砦まで草まで刈られて身を隠すところはありません」

 エミルが汗を拭って全員に告げた。

「小休止だ。背嚢その他の荷物はここに置く。もう一度装備を点検しろ」

 その言葉に全員が背嚢を降ろして座り込んだ。微かなため息が漏れる。

 バートは留め紐を解いて鞘を外す。穂先が鈍い光沢を放った。ふと思い出して雑嚢を探って小瓶を取り出した。

「なかなか洒落たものを持っているな」

 目ざとく見つけたジョバンが水の入った革袋を手に声をかけてきた。

「ええ、貰い物です」

 答えながら栓を抜き、右の人差し指と中指を挿し、タールをつけて一息に目の下に一線塗った。

「何だそれ?」

 ジョバンの声に一同の視線が集まり、バートは少し慌てた。

「あ、いや、知り合いに武運のまじないと聞いたので……」

 しどろもどろに答えた。急いで瓶を雑嚢に仕舞う。

「なるほど、そうか。脳乱したかと思ったぞ」

 シロの声に皆が声を出さずに笑った。

 冒険者稼業を続けていれば、他人から見れば役にも立たぬお守りやまじないに頼る気持ちは誰しも理解できる。

「しかしこうして見るとなかなか強そうに見えるな」

 バートの顔を覗き込んだエミルが感心したように呟いた。

「ですね、バート君は顔が優しいから丁度よいかもしれません」

 マンスルが和した。

 バートはちょっと照れて赤面した。 


「そろそろ時間です」

 サムルの声に空を見上げた。星の光が弱まっている。東の空が明るくなる予兆だ。

「いくぞ」

 エミルの声に一同が静かに立ち上がる。もう誰も笑わない。僅かな休息だったが体力も気力も回復している。

「それでは御武運を」

 サムルの声に送られ「鋼の烈風」は腰を落とし足音を殺して歩き出した。



 サムルの言った通りだった。砦の周囲二町はきれいに草が刈られ、見つからずに接近することはできない。その向こうに盗賊の隠れ家が見えた。もとは烽火台を守る哨所だったのだろう。木造部分は既に朽ち果てているが、低い石垣の上に大楯が並べられ、奥にいくつか天幕が建っている。ここからでも弓を持った立哨が二人見えた。


「厄介だな、奴ら心得がいい」

 林縁で片膝をついたエミルが呻いた。

 石垣の高さは一丈ほど、用意した梯子ならたやすく越えられるが大楯の後ろに敵が潜んでいるのは確実だ。危険すぎる。

「見た限りここから石垣まで罠の類は見当たらない」

 ジョバンが小声で告げた。

 エミルがバートを手招きした。這ってきたバートにエミルが訊く。

「バート、一人で梯子を持って走れるか?」

「はい、大丈夫です」

「よし、頼むぞ。槍はシロに預けて梯子を持って待て。俺とシロで突っ込む。ゴルトン、掩護を頼む」

「心得た」

 ゴルトンが応じた。

「お願いします」

「後で返してやる。心配するな。俺が槍仕としても凄腕なのを見せてやろう」

 槍を受け取ったシロが不敵に微笑んだ。

「バート、合図したら一直線に走って石垣に梯子を立てろ。ジョバンはバートを直掩、マンスルは現在地で全般支援、機を見て躍進しろ」

 ジョバンとマンスルが小さく頷いた。

「よし、行くぞ!」


 エミルとシロが飛び出した。気づいた立哨が何事か叫んで矢を番え弓を引き絞った。そこをゴルトンの光箭が襲う。間一髪で大楯に身を隠した。その隙に二人は更に進む。大楯の間を抜けて鎧姿が三人飛び降りたのが見えた。三人とも剣を抜いている。


 槍を構えたシロが前に出る。槍の間合いを警戒した盗賊が速度を緩める。しかし、シロはそのまま歩を進めて間合いを詰めた。誘いに乗った賊が振り下ろす剣を体を捌いて避け、同時に石突が賊の脛を砕いた。そのまま返した穂先が賊の首筋に入る。賊は悲鳴を上げる間もなく絶命した。


 エミルは剣を下段に構えて突進していた。目の前に賊が立ちはだかる。上半身の隙を突いてきた賊の剣先を身を伏せて避けると、跳ね上げた剣が賊の鳩尾から心臓を貫いていた。


 仲間二人が瞬時に斃されたのを目撃し踵を返して逃げようとした最後の一人の背中にシロの刺突が突き刺さる。それを見届けたエミルが後ろを振り返って叫んだ。

「来い!」

 ジョバンが起き上がった。

「行くぞ!尾いてこい!」

「はい!」

 叫ぶように返事して梯子を担いで勢いよく飛び出したが、数歩も行かぬうちにバランスを崩してよろめいた。思ったより梯子は一人で担ぐには重く長かった。うまく走れない。僅か二町の距離が遠い。周囲から金属音と怒号と悲鳴の戦闘音楽が聞こえる。他のパーティも攻撃を始めたようだ。

 林縁と石垣のちょうど中間でジョバンが弓を構えて盛んに矢を放っている。石垣の上の弓手と射ち合っているのだ。手間取っているバートから敵の目を逸らすための囮だ。だが、大楯に身を隠した賊相手に草地の真ん中で足を止めての弓合戦は分が悪い。たちまちジョバンの周りに征矢が立ち、うち一本が左膝を射抜いた。

 目の前で崩れ落ちたジョバンにバートの足が止まった。助けを求めて後ろを振り返る。ゴルトンとマンスルは賊の魔導士と魔法戦で手を離せない。

 石垣の手前でエミルとシロが何事か叫んでいる。どうすればいいのかわからなくて涙が出てきた。何とか上体を起こして弓を構えようとしたジョバンの右肩に矢が立った。矢の勢いでジョバンの体が回転して地面に打ち倒れた。

「ジョバンさん!」

 梯子を投げ捨ててジョバンに近寄ろうとした。


「構うな!行け!」

 呻きながら仰向けになったジョバンが怒鳴った。バートは瞬時に理解した。俺が早く石垣に梯子を掛けないとジョバンさんが死ぬ。

 怒号とも嗚咽ともつかぬおめきを上げてバートは走った。


 エミルのすぐ横に駆け込んで梯子を立てた。石垣の真下はちょうど頭上の敵から死角になっている。

「よくやった!」

 シロが槍を投げ寄越した。槍を受け取ったバートは吠えながら猛然と梯子を駆け上った。

「馬鹿! 待て!」

 エミルが叫んだ。

「いかん、血狂いしたかもしれぬ」

 シロが呻いた。戦闘熱ともいう。敵への憎悪、手柄や名声の渇望、恐怖を克服しようとする葛藤、任務や仲間への義務感等が高じて正常な判断を失い、眼前の敵に集中して自らの危険を顧みず戦う兵士や冒険者は大抵これだ。かつてシロも片手を吹き飛ばされ自分の体が燃えているのも構わず斧を振るって竜に挑んだ冒険者を見たことがある。

「どうする?」

 シロがエミルに判断を仰いだ。

 エミルは逡巡した。バートを追って梯子を上って敵が待ち構えていたら犬死だ。しかしこのままではバートは確実に死ぬ。最初はエミル、続いてシロ、最後にバートの順に一気に上って敵の逆襲を散らす予定だったのに。

「まあ二人なら何とかなるか」

 シロに問うているのか独り言なのか、曖昧な口調で呟いた。

「他のパーティもそろそろ石垣に取りついているだろう」

 シロが励ますように言った。

 その一言でエミルは決めた。

「追うぞ。上がったら俺は右、お前は左の敵を頼む」

「心得た」

 エミルとシロが梯子に取りついた。


 石垣に立った二人は信じられない光景を見た。大楯の後ろに賊の死体が四つ転がっている。どれも急所を一撃されて事切れている。バートの姿を探した。すぐ見つかった。二十歩ほど離れた所に死体が三つ。うち二体は杖を握りしめている。魔導士だ。その中に返り血を浴びて赤黒く染まったバートが槍を手に提げて立ち尽くしていた。賊の生き残りが十人ほど、一つ所に寄り添うように固まっている。皆恐怖で顔を引き攣らせていた。


 エミルがすかさず剣を構えたが、もう賊に戦意がないのは一目でわかった。

「おい、バート……」

 シロが間合いを取って慎重にバートの背に声をかけた。万が一にも狂戦士化していたら俺がバートの息の根を止めねばらない。生かしたまま取り押さえるのは無理だ。


 血まみれの顔がゆっくり振り返った。

「あ、シロさん! ジョバンさん……ジョバンさんは大丈夫ですか?」

 いつものバートだ。返り血で真っ赤なのに普段のバートなのが逆に不気味だった。悪鬼の形相で吠えてくれたほうがまだ自然だ。

 草地に目を向けた。林から飛び出したゴルトンとマンスルがジョバンに駆け寄るのが見えた。

「ああ、大丈夫だ。大怪我だが命は大事ない」

「そうですか、よかった。俺のせいで死んだらどうしようかと……」

「一体何をした?」

「ジョバンさんが死ぬかもと思って夢中でした」

 答えになっていないがここは刺激してはならない。

「そうか、よくやったな……」

 よくやったどころじゃない。シロは弟子と思っていた少年に密かに慄然した。


 その頃には他のパーティも続々と石垣を上ってきた。急に賊の応戦が止んだため不審に思って恐る恐る上ってきたのだ。

「『烈風』よ、何があった?」

 「蒼き流星」のリーダー「流星剣」アースンが声をかけた。齢は二十半ば、艶やかな青色の鎧を着て片手に薄青く光る魔法剣を提げている。特級冒険者の名簿に名を連ねるのも時間の問題と噂されている若き逸材だ。

「『流星』か、どうやら終わったらしい。盗賊の生き残りはそこだ」

 冒険者たちが生き残りを取り囲み、武装解除して縛り上げている。

「一体どうやったのだ?」

「実は俺もよくわからんのだ。後で調べて報告書に書くさ」

 「蒼き流星」のメンバーが二人の前に来て報告した。確かローアという名だったか。

「アースン、こちらの損害は軽傷三、重傷一、戦果は盗賊二十一を殺害、捕虜は十二、内訳は人間が七とドワーフが二、ゴブリンが三だ」

「そうか、もう少し手こずると思っていたが案外楽な仕事だったな。捕虜のうちゴブリンは殺せ。残りは連行して司直に引き渡す」

「了解」

 ローアが捕虜のほうに歩み去った。

「ところで、あれは大丈夫なのか?」

 アースンがジョバンに向かって駆けるバートを指差した。

「ああ、まだ駆け出しだが化けるかもしれん。立て続けに賊を七人仕留めた。うち二人は魔導士だ」

「ほう、一番手柄を取られたか」

「手放しで喜べぬがな」

「と言うと?」

 アースンが怪訝な顔で訊いた。

「性根に危ういところがある」

「初陣で手柄を立てた駆け出しが次の戦いで逸って死ぬのはよくあることだからな」

「うむ」

「なら大事に育てることだ」

「言われるまでもない」

 手当を受けるジョバンの傍らに跪いたバートを眺めながらエミルが答えた。



 帰りの馬車の中でバートは肘を膝につけ、うなだれて床板を見つめたまま黙って座っていた。初めて人を殺めた衝撃で混乱しているのだ。盗賊の山砦から撤収するまでは何かと仕事を言いつけられ忙しくて考える暇もなかったが、こうして馬車に乗って何もすることがなくなると、槍の柄を伝った人の腹肉の手応えが生々しく蘇ってくる。

「どうした、大丈夫か? いや大丈夫ではないな」

 対面に座ったシロが声をかけた。

 バートが血の気の失せた顔を上げた。顔に塗ったタールも返り血もきれいに拭い取られて余計に青白く見える。

「初めて人を殺せば誰でもそうなる。いずれ慣れる。俺も十一の時に村を襲った流匪と戦って初めて人を殺めた」

 身を乗り出して声を落とした。

「ここだけの話だがな、腰が抜けて小便を漏らした。漏らさなかっただけお前のほうがましだ」

 バートを励ますようににやりと笑った。つられてバートも力なく笑った。隣で聞いていたエミルが口を開いた。

「明日の朝方にはトランドに着く。後始末が終わったら明後日まで休みをやる。うまいものを食って女でも買って今日のことはさっさと忘れてしまえ」


 次の日の昼下がり、バートは外町の南大路をとぼとぼ歩いていた。麻のシャツに綿のズボン、革のサンダルを引っかけた姿は冒険者には見えない。鎧は寮に置いてきた。一通り手入れはしたが血の臭いが取れない気がしたからだ。トランドに帰って後片付けしている間はよかった。しかし、仕事が終わってすることがなくなると、殺しの感覚が掌に思い出された。どうしてこんな因果な稼業を選んだのか。そんな後悔まで頭をもたげてきた。


 気がつくとあしか亭の前に立っていた。看板に彫られた不気味な生物を見上げる。どんなに努力してもアシカには見えない。バートもアシカは絵で見ただけで実物を見たことはないのだが。

 まだ日が高い。店はやっていないだろう。もしかしたら洗濯物を取り込んでいるかもしれない。裏庭に回ったが誰もいない。小さな厩で秣を食む馬の尻がバートを出迎えた。結局正面に戻って両開きの扉を叩いた。

 返事はない。今度はやや力を込めて叩いた。

「あーい」

 中から声が聞こえた。からんからん木沓の音がする。扉が開いてニドという名のダークエルフが顔を出した。

「あら、おかえりなさい。無事そうで何よりだわ」

 ニドがにこりと微笑んだ。

「あの……」

 ニドが手を上げてバートの言葉を遮った。

「アイカでしょ? ちょっと待っててね」

 後ろを振り返った。

「アイカー! バートくんが来たわよ」

 奥からぱたぱた足音がする。

「アイカね、ずっとあなたが来るのを待ってたのよ」

 ニドがによによした笑顔で告げた。

「バート! お帰り!」

 アイカの満面の笑みが眩しい。涙が出そうだ。


「中は取り込んでるの。こっち来て」

 扉から出てバートの手を取ると、アイカはバートを裏庭に引っ張った。綱をまたいで裏口の階段に並んで腰を下ろした。この前と同じだ。

「おかえりなさい。大丈夫だった?」

「ああ、うん」

 努めて明るく返事をした。

「あのおまじないが役に立ったよ」

「そう、よかった」

 笑って三白眼が細くなった。

「ごめん、忙しくてお土産を買う暇もなかったんだ」

「何言ってるの。お仕事だったんでしょう?」

 猫が擦り寄るようにもたれかかってきた。


 ふとアイカが顔を上げてバートの目を見つめた。

「元気ないね。何かあったの?」

「いや、別に……」

 アイカが顔を突き出した。両手でバートの右手を握る。

「わたしを心配させまいと嘘をついてるでしょ? それで私が嬉しいと思う?」

「え……、いや」

 心の内を見透かされて慌てた。返事がもつれる。

「それに悩み事は誰かに話すとちょっとだけ楽になるんだよ」

 じっとバートを見る三白眼が微かに潤む。

「わかった。ごめんよ」

 バートは観念して話し出した。盗賊の隠れ家を襲撃したこと、自分の不手際を庇って先輩が死にかけたこと、そして自身の手で人を殺めたこと、その恐怖と悔悟の感覚がいつまでも頭から離れないこと。

 黙って聞いていたアイカがそっと立ち上がった。そっと両手でバートの頭を抱きかかえた。バートの頭がアイカのなだらかな鳩尾に押し付けられる形になった。

「怖かったんだね。頑張ったんだね。お疲れ様。こういうときは泣いていいんだよ」

 アイカの言葉を聞いて堰を切ったように涙が溢れ、バートは体を震わせて静かに泣いた。


 涙が尽きてようやく顔を離した。アイカが慈しむように微笑んだ。

「ごめん、服を汚してしまった」

「気にしないで。落ち着いた?」

「ああ」

 返事をしてはっとした。アイカが三白眼に涙を溜めて見下ろしている。

「よかった。本当によかったよ、無事で帰ってきてくれて」

 アイカを泣くほど心配させていたことにやっと気づいた。

「ごめん、心配してくれてたんだ」

 気づいてやれなくて本当にすまない。心の中で謝った。

 小さい肩に手を回して抱き締めた。アイカの細い腕を背中に感じる。

 やがてバートの耳許でアイカが囁いた。

「ねえ、こっち来て」

 そっと体を離してバートの腕を取った。



「ここは?」

 アイカに引かれて連れてこられたのは四畳半ほどの部屋だった。中央に背の低い寝台、壁に小さな箪笥が並んで狭苦しい。小さい燭台が一つ。奥の壁には鎧戸が嵌められて中は薄暗い。

「お客さん用の部屋だよ。うちは宿屋はやってないけど遠くから来たお客さん用なの」


 他に座る場所がないので寝台に腰を下ろした。

「いい部屋だね」

 努めて冷静を装って隣に座ったアイカに顔を向ける。目の前にアイカの思い詰めた顔。桃のような甘い体臭に薄っぺらな落ち着いた振りなんて消し飛んだ。じゃれあう仔犬のようにそっと二人の鼻先が触れ合い、それから唇が触れ合い、続いて互いの前歯がぶつかった。

「あ、ごめん」

 顔を離してバートが詫びた。バートには初めての口づけだった。なんという失態。

「ふふ」

 アイカが微笑んで再び唇を重ねる。今度は上手くいった。二人の舌が緩やかにうねり合う。アイカの手がバートの頭に回される。ゆっくり優しく惜しむように寝台に押し倒した。折れそうな細い肢体にそっと体重を預けた。

「ねえ」

 唇を合わせたままアイカが切なげに囁いた。

「脱がせて」

 そうだ、服を脱がせなければ。一瞬我に返って唇を離す。互いの唇が糸を引く。ケープを脱がせ、木の釦を外してそっとシャツを剥ぎ取った。木綿の晒に覆われた薄い胸が現れた。続いて緑のズボンの帯紐を解く。指が触れたアイカの薄く柔らかい腹がびくんと震えた。はっとしてアイカの顔を見る。顔を真っ赤にした三白眼がじっとバートを見ている。手際が悪くてごめんなさい。女の子の服を脱がすなんて初めてなんです。


 なんとかズボンを脱がすと、手を這わせて晒に指を掛けた。解いた晒の端を引くごとにアイカの上体がびくびく小さく跳ねる。僅かに、本当に僅かにささやかに膨らんだ胸が現れた。薄い桜色の小さな乳首に目を奪われる。

「ごめんね……」

 アイカの消え入りそうな小さい声。

 アイカの眼を見た。どうして謝る? 何を謝るんだ?

「ちっちゃくてごめんね……」

「そんなことはない、きれいだ」

 心の底から真剣に真面目に赤心を込めて答えた。だからそんな悲しい眼をしないでくれ。

「でも……」

 やめろ、これ以上喋るんじゃない。そんなことを言う口はこうしてやる。

 有無を言わさず唇で唇を塞いだ。アイカの細腕が首筋を這って巻きつく。もう優しく扱う余裕は霧散していた。右手が下帯を乱暴に解いた。


 やっとアイカを剥くのに夢中で自分が服を着たままだと気づいた。唇を合わせながら手早く脱ごうとシャツのボタンに手を掛ける。

「待って」

 ボタンを毟り取る勢いのバートの手をアイカの小さい掌が止めた。

「脱がせてあげる」

 上体を起こしてシーツの上にぺたんと座った。

「立って」

 言われるままベッドから降りてアイカの正面に立った。小さい手がまとわりついてシャツの釦を外していく。

 アイカの手がするするとシャツを脱がせ、ズボンを落とす。怒張を必死で覆い隠していた下帯が無慈悲な細い指に剥ぎ取られた。

 そして濡れた三白眼がバートを見上げ、救いを求めるように両手が差し出された。

「来て……」



 鎧戸の隙間から差し込む光で目が醒めた。身動きできない。首を横に向けるとアイカが左腕にしがみついてすうすう寝息を立てている。息に合わせて上下するアイカの薄い胸が目に入った。二人の体液を吸って湿ったシーツが生温かい。のけ反り弾み絡みつく薄く細い肢体、バートの体を這う細い指、押し殺した喜悦の喘ぎ、汗ばんだ滑らかな肌、甘い体臭、ぬめった無毛の割れ目、濡れた舌から滴る唾液、寝顔を眺めながら昨日のことを思い出した。愛おしさが止まらない。起こさないようにそっと鼻先を近づけて髪の匂いを堪能した。


 気がつくと三白眼の小さい赤い瞳がバートをじっと見つめていた。

「あ、起きてた?」

「だって鼻息が凄いんだもん」

 にっと笑って裸の上体を持ち上げてバートの胸に細く丸い顎を乗せた。

「もう朝だね」

「ああ」

 もうそんな時間なのか。アイカに溺れすぎた。でも後悔していません。いつまでも溺れたい。


「ね、朝ごはん食べようか?」

 アイカが上目遣いに訊いた。

「その前に服を着て厠に行こう」

 膀胱が決壊しそうだ。

「うん、わたしも」

 アイカがくすくす笑いながら体を起こし寝台を降りて服を拾い集めた。


 厠小屋に設えられた手水を使いながら周りを見回した。もう陽も昇りきってすっかり朝だ。昼過ぎからずっとアイカと媾合っていたという事実を改めて確認した。昨夜も店は開いていた。その同じ屋根の下で半日以上も二人で乱れあっていたのだ。若気の至りではすまされない。ニドさんやロラさんやグスタフさんたちにどんな顔で会えばいいのか。恐るべき現実が心を重くする。


「お待たせ」

 アイカが厠小屋から出てきた。柄杓を取って水をアイカの手に注ぐ。

「ありがとう」

 アイカが無邪気ににっこり微笑んだ。昨夜の妖艶な面影はどこにも見えない。

「きっと厨房に何かあるから作ってあげるね。こう見えても料理は得意なんだよ」

 手拭で手を拭きながら言った。

「アイカ、その前にニドさんたちに筋を通さないと」

 これ以上ないくらい真面目な顔でアイカに告げた。

「どういうこと?」

「順番は逆になったけどお付き合いさせてくださいって……」

「誰が?」

 え? 遊びだったんですか? 不安が頭をよぎった。

「それはアイカと俺が」

「みんなもう私たちが付き合ってるって思ってるよ」

 事もなげなアイカの言葉に少し心が軽くなった。公認なら罪は少し減る。

「でも昨日からずっとだったのはちょっとやり過ぎちゃったかも」

 アイカがばつが悪そうに顔を伏せた。

 うん、俺もそれが言いたかったんだ。バートは心の中で大きく頷いた。一緒にニドさんたちに謝ろう。

「お店が忙しいのに全然手伝わなかったのは駄目だよね」

 違う、そうじゃない。

「いや、ずっと愛し合っていたことだよ」

 きょとんとした顔でアイカが顔を上げた。三白眼がまじまじとバートの顔を覗き込む。一瞬の沈黙。ぼうっと火を噴いたようにアイカの顔が朱くなった。

「え、あ、うん、そうだね」

 取り乱すアイカも可愛い。そんなことを考えた。

「そうだ! 一晩中お喋りに夢中でそのまま疲れて寝てたことにしよう! きっと大丈夫!」

 両手でバートの手を取った。

「さあ、朝ごはん食べよ!」

 アイカに引っ張られながらもバートの心は暗かった。

 絶対大丈夫じゃない。そんな話は犬だって信じない。


「馬ッ鹿じゃないの? そんな話犬だって信じないわよ」

 呆れ返った顔でニドが盛大に煙を吐いた。

 ですよね。自分もそう思ってました。うなだれた顔を真っ赤にしてバートは心の底から同意した。隣でアイカも同じように突っ立っている。

「二人して生臭い匂いがぷんぷんしてるわよ」

「ごめんなさい、ニド姉さん……」

「いいのよ、二人とも若いんだから」

「怒ってないの?」

 アイカがちらりと視線を上げた。

「まさか、怒るわけないじゃない。こんな素敵なこと」

 にっこり笑ってパイプを吸い、

「でも」

すっと煙を吐いた。

「ずっと店に出なかったのは問題よ。お店じゃグスタフたちは上の空だし、お客はアイカちゃんはどこ行ったってしょっちゅう聞いてくるしで大変だったんだから」

 すみません、本当にすみません、アイカを独占して本当にすみませんでした、お客さんの皆さん。バートは混乱していた。

「まさか奥の部屋で昼からずっと男とぎっこんばっこんしてます、なんて言えるわけないし」

「うん……」

 アイカが消え入りそうな声で答えた。

「だから、今度から逢うのは昼間にしてね。ちゃんと開店時間までには店に出ること。それまでは部屋で幾らでも乳繰り合っていいわよ」

 にやりと笑って親指を立てた。恥ずかしさが極まって顔面が破裂しそうだ。


「まあまあ、姉さんもその辺で」

 ロラが女神の慈愛に満ちた笑顔で盆を手に置くから現れた。

「さあ、朝ご飯ですよ」

 テーブルに芋粥の深鉢を二つ並べた。その隣に焼いた小魚を三尾ずつ、水の湯呑が二つ。

 並べ終わると二人に向き直って微笑んだ。

「さあ、どうぞ。昨夜はお疲れ様でしたね」

 悪気のない余計な一言が容赦なく心に刺さった。居たたまれなくて顔も上げられない。嫌な汗が出て失神しそうだ。

「あの……、ロラ姉さん、グスタフたちは?」

 アイカが小さい声で訊いた。

「昨夜の残りを教会に持って行ってるわ」

 今この場にグスタフたちがいないことをバートは真剣に運命の女神に感謝した。あの三人がここに居合わせたら冷たい視線に刺し殺されかねない。

「さあ、温かいうちに召し上がれ」

 そう言ってロラは奥に消えた。

「私も帳簿つけないと」

 ニドも腰を上げて奥に向かった。

 ふと足を止めて二人を振り返る。

「アイカ、食べ終わったらすぐ湯浴みしなさい。水珠をいくら使ってもいいから。匂いが凄いわよ」

 言い残すと木沓を鳴らして暖簾をくぐって消えた。

「はい……」

 真っ赤なアイカが力なく頷いた。


 しばらくの沈黙。

「さあ、食べよう」

 努めて明るくアイカを励ました。

「うん」

 向かい合って黙って粥を啜る。なんとかこの沈黙を破らなければ。バートは必死で思案を巡らせた。

「昨夜は……」

「ん?」

 アイカが怪訝そうに顔を上げた。

「とても良かったよ。」

 莫迦か俺は。もう少し気の利いたことは言えないのか。バートは自分を責めた。

「うん、私も」

 アイカがにっこり笑った。三白眼が糸のように細くなった。

「凄かったね、バート」

 悪戯っぽい笑顔がバートの心を締めつける。

「アイカも凄かったよ」

「えへへ」

 アイカが何故か得意そうににんまりした。

 本当に凄かった。搾り尽くされるかと思った。バートの脳裏に昨夜の激闘が甦る。

「ねえ、ごはん食べたら一緒に湯浴みする?」

 アイカが木匙を使いながら訊いた。バートの動きが止まった。ほんの一瞬の懊悩。

「やめておこう、我慢できなくにゃりゅ」

 努めて冷静に答えたつもりだったが口が裏切って声が裏返った。アイカがこらえきれず吹き出した。

「そうだね、また今度ね」

「ああ、今度にしよう」

「また来てね」

「うん、約束する」

「絶対だよ」

「絶対の絶対だ」

「絶対の絶対の絶対に来てね」

 アイカがはっとした表情でバートを見つめた。

「前も同じこと言ったよね」

 目を合わせてくすくす笑い合った。



 バートは朝の訓練場で槍の型稽古で汗を流していた。初陣から数カ月経っていた。あれ以来バートは槍を使い続けている。シロは槍の師匠としても優秀だった。刺突のみならず石突を使った打撃や穂先による斬撃の連携技も仕込まれた。幾つも依頼をこなし、荒事も何度かあったが何とか切り抜けてきた。バートが前衛に組み込まれたことで「鋼の烈風」の安定感は格段に向上していた。


 訓練所に入ってきたシロを認めて手を止めた。

「お早うございます。」

「うむ、飯は食ったか?」

「はい」

「では構えろ」

 木剣をだらりと提げて半身に構えた。バートが間合いを取って木槍を中段に構える。日課の掛かり稽古だ。

「掛かってこい」

 その声を合図にバートはシロに突きかかった。


「うむ、今日はここまで」

 一刻後、シロが満足そうに声を掛けた。その声を合図にバートはへたりこんた。気息を整えようと釣り上げられた魚のように喘ぐ。腕は上がったとはいえシロにはとても敵わない。いいようにあしらわれ転がされ続けた。

「上達したな」

「ありがとうございます」

 なんとかもつれる声で返した。しかしとても上達したとは思えない。

「お前は昂ると軸がずれる癖がある。常に芯を保つことを忘れるな」

「はい」

 なんとか立ち上がって頭を下げた。

「では今日はここまでにしよう。さっさと風呂に入って遊びに行ってこい。明日から仕事だ」

 郊外の農場の警備だ。複数のパーティが交代で務めていて、明日から一週間は「鋼の烈風」の当番だった。実入りは些か少ないが安定した収入源だ。

「はい」

「どうせおなごの元に通うのだろう?」

 シロがにやりと笑顔を作った。本人は優しく笑ったつもりだろうが強面なせいで女子供なら泣き出しかねない迫力がある。

「はい」

 照れて頭を掻きながら返事をした。バートが外町の娘と恋仲になったことは程なく周囲に知られていた。

「悪いことではない。惚れたおなごがいれば仕事にも張りが出よう。だが……」

 言いかけて周囲を見回した。二十人程の熱心な冒険者の男女がめいめいに稽古している。

「ここは邪魔になる。ちょっとこっちに来い」

 訓練場の隅に設えてある長椅子に座ると顎をしゃくってバートも座るように促した。

 シロは瞑目して大きく深呼吸すると、シロに顔を向けた。


「お前と懇ろになっている娘のことだ」

 真面目な眼差しがバートを睨む。

「はい……」

 実はアイカは俺の妹だなんて言われたらどうしよう? 義兄上と呼ばなければいけなくなるのか? シロの前でアイカと二人で頭を下げている風景が浮かんだ。義兄上、アイカさんを嫁にください! お前に義兄上などと呼ばれる義理はないわ! 激高したシロが片刃剣を抜く。兄さん! やめて! バートの妄想は禿鷹ように翼を広げどこまでも飛んでいく。

「あしか亭の娘だそうだな?」

「え? は、はい」

 急に妄想から引き戻されて狼狽えた。

「あしか亭がどういう店なのか知っているのか?」

「ただの酒場です。それが何か?」

 バートの答えにシロは深くため息をついた。

「お前はまだ三級故に知らぬのも無理はないか」

 腕を組んで難しい顔をした。

「あの店が無頼を大勢囲っているのは知っているか?」

 あしか亭の客を思い浮かべた。彼らから漂う暴力の臭いが鼻の奥に蘇った。

「客のことですか?」

「うむ、連中のほとんどは兵隊崩れだ。あの店の女将は連中に仕事の斡旋をしている。主に荒事だ」

「まさか、あの店は侠家なんですか?」

 侠家が酒場や娼宿を営む例は珍しくない。しかしニドが侠家の身内とはとても想像できなかった。

「いや、それなら問題ないのだ。大手を振って潰せるからな。あの店が斡旋してる仕事は法に触れぬ。それ故に厄介なのだ」

「と言いますと?」

「連中の主な仕事は隊商や要人の護衛、邸宅や農園の警備、時には山賊退治もやるらしい」

「それは……」

 バートは絶句した。冒険者組合の商売敵ではないか。確かにあの店の客たちは堅気ではなかった。

「理解したか?」

「はい」

「しかもあの店は仕事の仲介料を取らない。この意味も分かるか?」

「つまり依頼料が安いってことですよね」

「そうだ、あの店は組合の仕事を奪っている。奪われる仕事の数自体はたいしたことはない。連中の数は多くても百を超えぬからな。しかし組合の沽券に関わるのも事実だ」

 冒険者組合が見捨てた貧者をあの店が救ったという話が広まれば組合の評判に大打撃だ。


「でも仲介料も取らずにやっていけるのですか?」

 冒険者組合が仲介料を取るのはただの搾取ではない。荒事を稼業とする冒険者が晒される有象無象の危険を少しでも減らすための銭だ。それ故に客の払う依頼料から少なからぬ額が仲介料として取られる。それはバートも納得していた。

「うむ、その点については徴税局が動いている。しかしまだ尻尾は掴めていないようだ」


 あんな場末の酒場にそんな裏稼業があったとは。あのニドさんがそんな遣り手だったとは。バートには信じ難い話だ。

「それでだ、お前が情を交わしている娘のことだがな」

 はっとしてシロを見つめた。そんな直截な言い方はしないでください。事実ですけど。

「確かアイカという名だったか」

「はい。まさかもうアイカと付き合うなということですか?」

「うむ、けしからんという声もあったがな」

 首筋を掻きながらシロが続けた。

「まあ若い者同士いいのではないかという所で落ち着いた」

 そう言ってにたりと笑った。若者に理解ある年長者の爽やかな笑顔のつもりだろうが相変わらず怖い。

「しかし、手放しというわけではないぞ」

「と言いますと?」

「平たく言えば密偵せよということだ。あの店の女たちと馴染みになれば組合に役に立つ情報が得られるだろう。上手くすれば穏便に店ごと取り込めるかもしれんしな」

「はあ」

 気の抜けた返事。そんなの絶対無理です。バートは心の中で力無く反論した。

「まあ深く考えるな。無理に首を突っ込む必要もない。お前はアイカちゃんといちゃついていればいいのだ。さっさと風呂に入って逢いに行け」

 そう言い残すとすたすた歩いて訓練場から出て行った。

 シロの背中を見送ってからバートはゆっくり頭を抱えた。「鋼の疾風」の面々にアイカとの付き合いを知られているのは承知していたが、まさか組合中に知られていたとは。しかも公認とは。バートの心中は複雑だった。


「という話があったんだ」

 寝台で仰向けになって胸に抱いたアイカの髪を撫でながらシロとの会話のあらましを語り終えた。密偵云々は伏せた。

「アイカは知ってた?」

「うん、知ってるよ」

 え? 知らなかったのは俺だけ? 軽い驚きとともに自分の世間知らずを責めた。

 俯伏せでバートの胸に頭を預けたアイカの小さい掌がゆるりとバートの肩の辺りを撫で回す。

「うちのお客さんって何故か元兵隊さんが多いんだ。あ、ごめん。バートって軍隊の話は嫌いだったよね」

「いや、もう気にしちゃいないよ」

 冒険者にも元軍人は少なくない。いちいち忌避してはやっていけない。

「そう、よかった」

 掌がバートの首筋に優しく伸びた。甘い匂いが鼻孔をくすぐる。

「それでね、みんな仕事がなくて困ってたからニド姉さんが仕事の世話をするようになったんだ。ただそれだけだよ」

「そうなんだ」

「そうなの。別に冒険者組合と喧嘩しようって訳じゃないよ」

 一方的に張り合ってたのは組合のほうだったか。犬猿の仲というわけではないと知って少し安心した。


「ニドさんやロラさんは俺が冒険者なのを何か言ってる?」

「うんとね……、若いっていいわねって言ってる」

 違うそうじゃない。いや店を訪れるたびにこうして媾合ってるから仰ってる通りなんですが。

「いや、冒険者組合の俺がアイカと付き合ってることだよ」

「バートが出世したら店も鼻が高いってさ」

「それだけ?」

「それだけだよ」

 アイカの掌が止まった。訝しんで顔を向ける。

「アイカ?」

 いきなりアイカが上体を起こした。

「わっ!」

 思い詰めた三白眼がバートの目を見つめる。

「ごめん、嘘」

 切羽詰まったアイカの態度にバートは身構えた。

「ほんとはね、バートが出世したら店への風当たりも減るかもなんて言ってるの。ごめんね」

 一瞬の間の沈黙。バートはこらえきれず笑い出した。笑いながらアイカを抱き締める。考えてることはみんな一緒じゃないか。

「組合でも同じようなこと言われたよ。俺たちが因で店と仲良くなればいいってさ」

 きょとんとしたアイカに告げた。だから気にしないで。

「そうなんだ。よかった」

 アイカがにっこりと笑った。そのまま抱き締め合ってシーツの上を転がった。


「ねえ、湯浴みする?」

 抱き合ったままアイカが訊いた。

 バートは首を巡らして鎧戸から差し込む陽光で日の高さを測った。

「いや、まだだ。明日から一週間はご無沙汰だからね」

「んもー。やらしいんだから」

 バートは忍び笑うアイカに挑むように圧し掛かった。



 農場の望楼でバートは寒さに凍えながら遠くを動く松明の火を見ていた。松明の主は騎乗して歩哨についているシロとジョバンだ。二人の松明を見守り、異状があれば半鐘を鳴らすのがバートに与えられた任務だった。

 それにしても寒い。冬も近い。容赦なく冷たい秋風が叩きつけてくる。白い息を吐きながらバートは足踏みを続けていた。帰ったらアイカにどれだけ寒かったか教えなければ。そうだ、この農場ではチーズを作ってる。幾つか土産に買って帰ろう。寒さを紛らわそうと益体もないことばかり考えが巡る。


 階段の踏板が軋む音がした。バートは慌てて背筋を伸ばし、直立不動で遠くの松明を凝視した。

「どうだ?」

 上がってきたエミルが声をかけた。

「異状ありません」

 松明から目を離さずバートが答えた。

「うむ、ご苦労」

 そう言ったきりエミルは黙り込んだ。松明から視線を外せないので死角にエミルに居続けられるのは居心地が悪い。何か話しかけたほうがいいのか? いや、立哨が無駄口を叩くのはまずいのでは。様々な考えが頭を巡った。


 やがてエミルがぼそりと口を開いた。

「まあ楽にしろ」

「はいっ」

 ほっとして姿勢を崩した。

「うちのパーティに入ってもうすぐ一年だな。どうだ、この稼業も慣れたか?」

「はい。なんとか」

「そうか」

 気まずい沈黙。

 答えが気に入らなかったのか? バートは緊張した。やがて床板が軋んでエミルが隣に並んだ。

「実は次の仕事の話が来ている」

「はい」

 いつものことだ。仕事が多いのは歓迎すべきだった。

「魔獣退治だ」

「はい?」

 声が裏返った。冒険者組合にとって魔獣退治も重要な仕事の一つだが、「鋼の烈風」は人や亜人絡みの依頼を専らとするパーティで魔獣退治は専門外だ。バートも訓練生の頃に座学で魔獣について一通り習っただけだ。

「あの……、魔獣相手には専門のパーティがいますよね?」

「ああ、しかし手が足りぬらしい」

 それにしても乱暴な。専門外のパーティを投入しても足手まといにしかならないはずだ。

「北の山脈の飛竜の一族から王国に依頼が来たのだ。営巣地の近くに魔獣が現れたらしい」

 王国の航空竜騎士に騎竜を供給している飛竜の部族だ。

「自分たちで対処できないのですか?」

 誇り高い竜が助けを求めるのは余程のことだ。

「うむ、既に卵が幾つか喰われたらしい。竜たちは営巣地を更に高所に移して難を逃れているが、卵や幼竜はこのままでは冬を越せぬそうだ。放置すればいずれ王国航空竜騎士の戦力は痩せ衰えて地に墜ちる」

「つまり冬が来る前にその魔獣を討伐せよと?」

「察しがいいな。王国政府は平原八州の冒険者組合に依頼状を回し、トランドを含め四市の冒険者組合が参加する」

 大作戦だ。バートは緊張した。

「トランドからは特級冒険者パーティ『白銀の凶星』以下八個パーティだ」

「猟友会は参加しないのですか?」

 トランドの猟友会は王国でも指折りの魔獣駆除の専門家集団だ。魔獣相手なら彼らが主力を担うべきではないのか。

「ダウドの黒森の魔獣駆除で手が離せぬらしい。それに奴らの縄張りから離れすぎている。それでも一応何人か人数を送るそうだが当てにはできぬ」

「でも何故『鋼の烈風』が参加するのです?」

「うちはもともと対魔獣のパーティが少ないから駆り出されたのさ。仕事は輜重や宿営地の護衛だ。魔獣と直接やり合うことはまずないから心配するな」

「はい……」

「不安か?」

「生きている魔獣は見たこともないので……」

「ふむ、そうだな。万が一にも魔獣と戦う羽目にならなんとも限らん。お前はまだ三級だ。参加を拒んでも誰も責めぬ」

「いえ、参加させてください」

 ここで断ったら見限られるかもしれない。最初から選択肢など無いのだ。それにエミルの言う通りなら危険は低いはずだ。


 農場警備から帰ったときにはもう日も遅く、あしか亭の前に立ったのは夜になってからだった。店内の喧騒を抜けてカウンターの椅子に座る。

「あら、いらっしゃい」

 ニドがにんまり笑ってバートを出迎えた。

「今日は遅かったわね」

「ええ、帰りが遅かったもので」

 背嚢を足許に置き、愛用の槍をカウンターに立て掛けるとニドに向き直った。

「大変ねえ。ちょっと待っててね」

 黒茶の湯呑をバートの前に置くと、木沓を鳴らしながら奥に入っていった。ほとんど待つ間もなくアイカが暖簾を潜って姿を見せた。

「バート! お帰りなさい!」

 お帰りと言われると通い夫になった気分だ。実際やってることは通い夫なんですけど。

「もう立派に夫婦気取りねえ」

 後ろでニドが苦笑しながらパイプをくわえた。

「ねえ、何か食べる?」

「いや、その前に」

 足許に置いていた背嚢を隣の空いた席に置いて布に包まれた分厚い円盤をカウンターに並べた。

「これお土産です。警備した農場で作ったチーズです。一つ一斤半で四つあります」

 ニドが嬉しそうに目を丸くした。

「あらあら、嬉しいわ。バートくん、部屋でアイカを嬲っていいわよ」

「ニド姉さん、やめて」

 真っ赤な顔のアイカがニドのケープを引いた。

「うふふ」

 アイカの言う通りです。ニドさん、お願いですからその話はやめてください。バートは心の中で念じた。

「アイカ、それよりチーズを厨房に持って行ってちょうだい。それにバートくんの料理もね」

「うん」

 火が吹きそうな顔のアイカがチーズを抱えて兎のように厨房へ消えた。


 アイカが見えなくなるとニドがパイプをくわえた。

「あのチーズ、ロラが喜ぶわ。結構高かったでしょ?」

 火打石で器用に火をつける。

「いえ、安く譲ってもらいましたので」

「そう……」

 そう言ったきりバートを眺めながらパイプをふかした。

 気まずい沈黙。こういう沈黙を楽しむにはバートはまだ若すぎた。

「あの」

「うん、何?」

 ニドが首を傾げた。

「毎度毎度、お世話になって申し訳ないです」

「何言ってるのよ。お礼を言うのはこっちよ。彩りと潤いがある生活って素敵じゃない」

「そうなんですか?」

「そうよ。グスタフたちもアイカが幸せそうだって喜んでるわ。顔には出さないけどね」

 確かに最近はグスタフたちの視線から殺気は感じない。表情は相変わらず乏しいままだが。

「最初の頃はあなたたちの部屋の前でじっと立ってたりしたのよ」

 そんな怖いことになっていたとは露も知らなかった。ホールではグスタフたちが甘ったるい笑顔を大盤振る舞いで客の相手をしている。

「今はもうそんなことしてないから安心して」

「そうですか」

「そうよ、だから気兼ねなく来てくれていいのよ」

 にんまり笑うニドにつられてバートも照れ笑った。


「お待たせ!」

 勢いよく暖簾を潜ってアイカが入ってきた。両手の盆に湯気の立った深鉢が乗っている。

「今日は煮込みだよ」

 言いながらそっとバートの前に置いた。野菜や肉をぶち込んだごった煮だがうまそうだ。

「いい匂いだ」

「えへへ、私も手伝ったんだよ」

 アイカが得意そうに笑った。

「さ、食べてみて」

 アイカに急かされるように木匙を取った。


「ふうん、今度は魔獣退治なんだ」

 カウンターに両手で頬杖をついてアイカが呟いた。カウンターが高いせいで手首から肘までぴったりカウンターに乗って、両手で顔を挟んでるようにしか見えない。

 畜生、かわいいなあ。バートの心が呻き声を上げた。

「いつ出発するの?」

「五日後。でも準備に忙しいから毎日は店に来れないし、来れても夜になってからだよ」

「むー」

「ごめんね」

「あら、アイカの体が火照って火を噴いちゃうわ」

 ニドが口を挟んだ。

「ニド姉さん、お願いだから黙って……」


「でも飛竜の卵を狙う魔獣って珍しいわね。正体は割れてるの?」

 ニドがパイプに煙草を詰めながら言った。

「いえ、竜も正体は掴んでいないそうです」

 湯呑を取って黒茶を啜る。

「ふうん、ねえアイカ、ロラを呼んできてちょうだい。あの子は竜に詳しいから」

「うん……。わっ!」

 顔を上げようとしたアイカの動きが止まった。

 誰が呼んだわけでもないのにロラが後ろに立っていた。

「びっくりした。ロラ姉さん、いつからそこにいたの?」

 バートもびっくりした。音も気配も感じなかった。

「ひどいわ。あんな美しい生き物の卵を食べるなんて」

 眉を顰めたロラが悲しげに口を開いた。憂いの表情も美人だ。バートはいらん考えを慌てて振り払った。

「ねえ、竜の卵を食べる獣って聞いたことある?」

 ニドが訊いた。ロラがパイプを取り出した。

「常食してる例は聞いたことないですわ。でも、知恵に長けた魔獣なら……」

 顎に手を添えて考え込んだ。

「考えたくはないのですが」

 ロラが火打石でパイプに火をつける。ゆっくり吸い込んで煙を吐いた。

「竜……かもしれません。同じ竜なら可能ですわ」

「ロラ姉さん、竜が竜を襲うなんてあるの?」

「普通はないわね。でも、知恵が回って大胆なはぐれの個体なら決して不可能じゃないですわ」

「つまり下手人は竜かもしれないってことですか?」

 バートが訊いた。

「その可能性もあるって話ですよ、バートさん」

 ロラが安心させるようににこりと笑いかけた。

 バートは全然安心できなかった。


「それより得物はそこの槍なの? あなた魔法の武器が使えたわよね?」

 ニドが顎を振ってカウンターに立てかけた槍を示した。初陣以来使っている槍だ。

「はい。でも俺にはまだ買えません。」

 まだ一年に満たぬ駆け出しだ。今の蓄えで買えるわけがない。

「高いものねえ」

「二級に上がる頃には安いのを買いたいと思っているのですが」

「魔獣相手にその槍じゃ心細いわね」

 並みの武器で魔獣の毛皮や鱗を貫き致命傷を与えることは不可能ではないが難しい。

「それに先輩たちからは腕を磨かないと魔法の武器を持っても意味がないって言われてますし」

「気をつけてね」

 アイカが心配そうにバートの手に小さい手を置いた。

「ああ、ありがとう」

 その気持ちだけでとっても十分です。



 結局バートが店に顔を出せたのは出発の前日だった。それまでは準備や段取りに忙しく、とてもそんな暇はなかったのだ。

 アイカは火こそ噴いてはいなかったが、バートは物凄い勢いで手を引かれて寝室に引きずり込まれた。そのまま体当りされて寝台に押し倒され抱き締められた。

「んもー。待ってたのに」

 アイカは不満たらたらだ。

「ごめんよ、俺も逢いたかったんだ。ほんとだよ」

 バートを睨んでいた三白眼が微笑んで細まった。

「なら許してあげる」

 軽く唇を重ねた。

「それとね」

 まだ何かあるのか?

「なに?」

 怪訝な顔でバートが訊いた。

「鎧を抱き締めても全然気持ちよくないです」

 その意見には全面的に大賛成です。くすくす笑いながらバートは鎧を脱ぎ始めた。


「明日出発なんだね」

 仰向けのアイカが天井を見つめて呟いた。

「ああ、正午に北の通りを抜けて街を出るんだ。特級冒険者の出陣だからちょっとした祭りの行列になるよ」

 アイカの隣で同じように仰向けのバートが答えた。バートの手を握るアイカの小さい手に力がこもった。

「見送りに行くね」

「ありがとう。楽しみにしてる」

「無事に帰ってきてよね」

 初めて結ばれた日のアイカの涙を思い出した。

「ああ、ちゃんと帰ってくるよ」

 ぐいとアイカの軽い肢体を引き寄せた。

「きゃッ」

 小さい嬌声。

 大丈夫だ。きっと帰ってくる。バートはアイカを抱き締めながら心の中で念じた。


 ホールでは椅子に座ったニドが難しい顔でパイプをくわえていた。周囲ではグスタフたちが開店の準備に忙しく立ち働いている。

「吸い過ぎですよ」

 顔を上げるとロラが立っていた。盆から湯呑を二つテーブルに置いてニドの向かいに座った。

「ねえ、見当ついてるのよね、ロラ?」

「何がです?」

「飛竜の巣を襲った奴の正体よ」

「ええ、大戦の頃に読んだ戦闘記録を思い出したんです」

 ロラがパイプをくわえて火をつけた。

「流石ね。『特技軍曹』殿」

「その呼び方はやめてください、『参謀曹長』殿。あの営巣地のあった戦区は一時期魔軍に占領されてます」

「その呼び方もやめて。確か最初の年だったわね?」

「はい。三年後の反攻作戦で奪い返すまで魔軍の占領下にありました」

「つまり?」

「魔軍が撤退した土地に何をしたかご存知でしょう?」

 ニドが細く煙を吐いた。

「討伐隊は地獄を見るわね」

「はい」

 すまし顔のロラが湯呑の黒茶をすすった。

「落ち着いてるわね。アイカが泣くわよ」

「大丈夫です。手は打ちました」

 ニドが身を乗り出してロラを見つめた。

「まさかスウを呼んだんじゃないでしょうね?」

「ええ、三日前に手紙を出しました。いざとなればあの子が何とかします」

「下手したらこの店を畳まなくちゃならなくなるわよ」

「ええ、アイカのためです」

 煙を吐きながらにっこり笑った。ニドが上体を起こして椅子の背板に身を預けた。

「そうよね、その時はその時だわ。次は何処に行こうかしらね……」

 湯呑を取ってくいと一口呑んだ。

「あ、そうだ」

 ニドが呟いた。

「ねえ、ロラ、スウは明日の夜にはトランドに来るわよね」

「はい、経路上ですから寄るはずですよ」

「じゃあ私もスウにお使いを頼もうかしら」

 漂う紫煙を巻いてニドがにたりと笑った。

「その笑いはやめたほうがいいですよ。悪いことを考えてるみたいですから」

「いいのよ。悪いことを考えてるのだから」

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