第4話 山から来た男

 秋深い山野を一人の男がとぼとぼ歩いていた。蓬髪に無精髭の貧相な男だった。背は五尺七寸、齢は三十半ば、色褪せた緑の上衣の上に袖無しの毛皮の胴衣、足元は革足袋と脚絆で固めている。腰の尻皮が歩調にあわせてわずかに揺れる。把手付きの弩が荒縄で左肩から吊るされ、右肩には若い牡鹿を担いでいた。

 やがて林の中に小道が見えてきた。道といっても大勢の足と荷車が踏み固めてできた道だ。男は相変わらず浮かぬ表情で小道に入る。四半刻もしないうちに道の両側に木柱が見えた。差し渡し五尺、高さ二丈を超える巨大な柱で、表面には様々な動物が彫刻されている。男は柱に目もくれず歩を進めて柱の間を抜けると、今度は巨大な櫓門が待ち構えていた。その前で立ち止まると今まで地面ばかり見ていた男の細い目が櫓を見上げた。首に提げた手形を掲げる。

「ワルダーだ。今帰った」

 声を掛ける。

「おお、無事だったか。しばし待て」

 櫓から声が返ってきた。

 やがて脇門が開き、三尺棒を持った若い男が顔を出した。礼を言って脇門を潜ると、そこはトランド市の猟友会が営む狩猟村だった。村といっても街ほども広い。様々な種族が往来していた。オークの道具屋が大声で商品を売り込む横でリザードマンの鍛冶職人が金槌を振るい、向こうではドワーフの商人がエルフの馬借と商談し、日も高いのに厚化粧の娼婦が露出の過ぎた服で客を誘う。

 もともとは数軒の掘立小屋が連なるだけの貧相な村だったらしい。だが今では東の森に棲む亜人たちが様々な品を持ち込んで巨大な交易所に発展していた。今では珍しい宝石や薬草、工芸品などの取引のほうが毛皮や骨や牙よりも多い。一方でこの村は東の森を抜けて平原に出ようとする魔獣を防ぐ防衛の要衝でもあった。交易の収益と魔獣からの防御という戦略的役割のおかげで、猟友会は一種独特の政治的地位を占めている。市政にほとんど関与しないかわりに、猟友会はこの村を独立国化していた。

 しかし渡りの猟師のワルダーにとってはどうでもいいことだった。この村の猟場は広く冬も雪が少ない。彼がこの村にいる理由はそれだけだ。やがて春になれば獲物を追って他の猟場に移ることになる。


 彼は相変わらずとぼとぼ足を進めて交換所に入った。カウンターで帳面をつけていたエルフが顔を上げる。

「獲物を持ってきた。換金してくれ」

「お久しぶりですね、ワルダーさん。春以来だ」

 エルフが笑顔で立ち上がった。

 交易所の土間に並べられた簀子の上に鹿を置き、弩を地面にそっと降ろすと丸椅子に座り込んだ。ほっとため息が出た。

 エルフが屈みこんで鹿を吟味している間に雑嚢からパイプを取り出し、煙草を詰めて火をつけた。魔銀製のパイプだ。数年前に熊に襲われている貴族を助けたときに礼として譲られたものだ。彼にとって唯一の贅沢品だった。

 しばらくしてエルフが顔を上げワルダーに顔を向けた。

「若いがいい鹿ですね。特に毛並みがいい。矢疵も首筋に一つだけ。相変わらずいい腕です」

 ワルダーがパイプをくわえたままにやりと笑った。自分の獲物を見極める眼力と弩の技量を褒められるのはいい気分だ。疲れも飛ぶ。

「では、銀二枚と銅五束でどうでしょう?」

 いい気分がどこかに消えた。

「去年はそれくらいの鹿なら銀三枚が相場だったはずだ」

「ええ、去年まではね。でも毛皮も骨も相場が下がってるんです」

「せめて銀二枚に銅八束は欲しい。山の中を一晩かけずり回ってやっと仕留めた鹿だ」

「ご自分で売っても銀二枚がせいぜいですよ」

 言い返せなかった。悔しかったので難しい顔を作ってワルダーは腕を組んだ。エルフが大仰に肩をすくめた。

「いいでしょう。私どももワルダーさんとは今後もいいお付き合いをしたい。勉強させて頂きます。銀二枚と銅七束。これ以上は出せませんよ」

「わかった、それでいい」

「それではお代をお持ちします」

 エルフが交換所の奥に消えた。火の消えたパイプをくわえたまま目を閉じる。

(他の猟場に移るか)

 しかしここほど条件のいい猟場はあまりない。結局はどこに行っても不景気なのだ。明日もまた山に入らなければ。弩を見下ろす。薄い鋼板を三枚重ね、弦はエルフしか編めない魔銀の糸を寄り合わせたものだ。先端は鐙ではなく、先を鋭く研いだ杭が取り付けられている。ワルダー自慢の一品だった。

(こいつの手入れもしなくては)

 弩は高度な工業製品だ。整備を欠かすと極端に精度が落ちる。

「お待たせしました」

 エルフが盆に代金を載せて出てきた。盆の上には王国公用銀貨が二枚と銅貨が七束。無言で受け取って懐に押し込んだ。

「こちらに署名を」

 エルフが書類を差し出した。筆を取り署名欄に丸を書く。

「読み書きできない俺が署名しても詮ないと思うがな」

「一応規則ですので」

 何度か二人の間で交わされたやり取りだ。

「それと」

 エルフがなおも話を続けた。

「前お話した件ですが」

 パイプをしまいならがワルダーが応えた。

「猟友会に入れという話か?」

「ええ、ワルダーさんは目利きだし腕もいい。うちの若い衆にも指南していただきたい」

「俺は一人働きの猟師だ。猟友会に居場所はない」

 トランドの猟友会は徹底した集団行動で有名だ。それぞれが役割を与えられ、軍隊のように統制された動きで獲物を狩る。ここ数年は魔獣すら組織的に狩って冒険者組合の仕事を奪っていた。狩猟村の中には魔獣の生態を研究する研究所や魔獣用の狩猟道具を作る専門の工房まであるという。

「だいたい俺は魔獣なんて狩ったことがない」

 ワルダーは自嘲して薄く笑った。

「それでもあなたの経験はとても貴重です。是非とも入会していただきたいと上の者も言ってます」

 ワルダーは椅子に乗せた尻を回してエルフに向き直った。エルフがわずかに緊張する。

「俺が猟友会に入ったとする。そしてある日、猿が俺の弩を担いでそこらを歩いていたとする。お前は俺が歩いていると思うだろう」

「わかりにくい例えですね」

「すまん、俺は学がないからうまく言えないんだ」

「でもお断りなのは理解できました」

「そういうことだ。また獲物を取ったら来る」

「ええ、お待ちしていますよ」

 弩を担ぐと片手を上げて交換所を後にした。


 報酬は期待したほどではなかったが、それでも懐が重いのは有難かった。腹が減った。狩猟村には猟師専用の食堂がある。安くてたらふく食える。取り敢えず飯と酒で腹を満たして宿に戻って寝よう。考えるのはそれからだ。足取りが軽くなった。

「ワルダー」

 後ろから声が飛んできた。水を差されたワルダーは眉をしかめて振り返った。背の低い丸顔の男が立っていた。齢は四十過ぎ、白いシャツに黒い長衣、足は革靴、どこから見ても商人の恰好だ。男はワルダーの険しい顔を見て慌てて両手を振る。

「怪しい者じゃない。ユーコウ商会の番頭のジェドという者だ。お前が風読みのワルダーか?」

「何か用か?」

 ジェドが満面に営業用の笑顔を作った。



 二日後の夜、ワルダーはトランド市外壁の中のある豪邸の一室で黒い革のソファに身を沈めていた。黒檀のテーブルを挟んで正面にいかにも身なりの良い中年の男、左に教会の高位の聖職者、右に派手な服を着た金髪の若者が座っている。先ほど老舗の大店ユーコウ商会の主人ユリアス、司教ヨゼス、侠家フラド一家を束ねるカイムという名だとジェドに紹介されたばかりだ。そのジェドはユリアスの後ろに畏まっている。

 ワルダーは目の前のテーブルに並べられた金貨二十枚をしばらく眺めていた。今まで見たこともない大金だ。やがてふいと横を向いて呟いた。

「人を殺めるのは嫌だね」

「何が望みだね?何なりと叶えてやるぞ」

 ヨゼスが口を開いた。

「まさか臆したのかな?」

 カイムが嘲るように笑った。

「断る」

 言い切るとソファから立ち上がった。

「待て」

 ジェドが慌てた。

「断るくらいなら何故ここまで来た?」

 言われてワルダーは右手を顎に当ててしばし考え込んだ。

「そうだな、久しぶりに街を見てみたかったからかな」

 自分の答えが気に入ったのか思わず含み笑った。

 ジェドが窺うように問う。

「上臈を抱かせてやろうか?」

「はっ、虚仮を言う。その手には乗らぬ」

 ワルダーがせせら笑った。

「さるやんごとない姫ならどうだ?」

 笑いを収めてジェドを睨む。

「本当だ。美しいぞ。しかも穢れなき処女だ。今から下見に連れて行ってもよい」

 ワルダーは答えない。しかし否でないのは商人の勘でわかった。してやったりとジェドがほくそ笑んだ。


 邸を出て四半刻ほど歩いた場所にその屋敷はあった。静かに門扉を開けるとジェドに導かれるまま庭に忍び込んだ。

「おい、いいのか?」

 不安になったワルダーがジェドに話しかけた。

「黙ってついてこい」

 そう釘を刺されては黙り込むしかなかった。足音を忍ばせ中腰で庭を進む。

(しかし荒れ放題だな)

 夜でも庭が手入れされていないことがわかる。あちこちに雑草が生い茂り、これなら身を潜めるのも容易い。

 やがてジェドが足を止め、その場に膝をついた。手で来るように合図されて隣に並ぶ。

 そこから屋敷の居間が見えた。灯りがついているが室内は薄暗い。しかし、こんな荒れ果てた屋敷に人が住んでいるとは思えなかった。

(狸にでも化かされているのではないか)

 こんな話に乗った自分が馬鹿らしく思えてきた。その時、ジェドが囁いた。

「来たぞ」

 女が一人、居間に入ってきた。背は五尺二寸か三寸、艶のある真っすぐな銀の長髪、やや丸みを帯びた細面、切れ長の憂いを秘めた眼の中の瞳は碧い。上品そうなドレスの肩にショールを掛けている。女は居間の机の前に座ると、燭台の灯りの下で何か書き物を始めた。その動きすら上品で気品に満ちている。こんな女が本当にいたとは。安女郎しか知らぬワルダーには信じられなかった。

「どうだ、美しかろう?」

 ジェドが女衒の下品を含んだ口調で訊いた。

「美しい……」

 呆然と呟いた。

 ジェドが袖を引いた。

「先ほどの件、承知か?」

「う、うむ」

 女から目が離せない。

 苛立ったジェドがワルダーの胸倉をつかんだ。いつの間にか手には小刀が握られワルダーの首筋に当てられていた。目が座っている。

「承知だな?」

「しょ、承知した」

 そう答えるしかなかった。


 次の日の朝、ユリアス邸の庭でワルダーは弩を提げて佇んでいた。一町先の杭に引っ掛けられた古兜を見つめている。後ろにはユリアスとヨゼス、カイムが椅子に座ってワルダーを眺めていた。ユリアスの横にはジェドが控えている。

 ユリアスがワルダーに訊いた。

「どうだ?」

 振り返ったワルダーが答えた。

「ああ、広い庭だな」

 カイムが苦笑した。

 慌ててジェドが口を挟んだ。

「あの兜を当てられるか聞いたのだ」

 横殴りの強い風が吹いている。遠矢にはいい条件ではない。

「ああ、そのことか」

 事も無げに答えると弩の把手を回して弦を引き、太矢を填め、無造作に構えると引き金を絞る。弦が鳴り矢が飛んで兜を串刺しにした。

「たいしたことではない」

 一堂に向き直った。

 カイルがゆっくり二度三度拍手して口を開いた。

「お前がその弩で撃つ相手は市の代官に着任するスクイール男爵だ」

「市に代官がいたとは知らなかった」

「長く空位になっていた。六十年ぶりの代官様だ。もうすぐこの市に来る」

 ヨゼフが口を挟んだ。

「見事な腕前だ。流石は風読みだな。だが仕損じたらどうする?」

「心配なら市軍の弩兵隊でも繰り出せばいい」

 ヨゼフが言葉を呑んだ。

「王都と戦したいならな」

 秋風の中、ワルダーの哄笑が響いた。


 午後、ワルダーはユリアス邸の浴室で風呂を使っていた。ジェドから今晩にも姫に逢わせるから支度しろと言われたのだ。こんなに広くて豪華な浴室を使うのは生まれて初めてだ。剃刀で髭を当たり、シャボンを贅沢に使って体を洗うと浴槽に入った。

 ふっと息をつく。商人と坊主と侠家、あまりにも奇妙な取り合わせだ。しかもその三者が結託して王都から来る代官を殺せときた。渡りの猟師にはよくわからない話だ。

 風呂の引き戸が開き、ジェドが顔を出した。

「姫は承知したぞ。お前を待っておられる。いいか、ワルダー、姫の名前を聞くな。姫様とお呼びせよ」

 それだけ言うとジェドは引き戸を閉めた。


 それから一刻半後、ワルダーとジェドは姫の屋敷の前に立っていた。秋の日はつるべ落としだ。もう周囲は暗い。風が冷たくなってきた。二人は思わず首をすくめた。ワルダーは布で巻いた弩を担いでいる。大事な商売道具を他人に触らせたくなかったからだ。

「儂はここで帰る」

 ジェドが言った。

(え? 帰るの?)

 ワルダーが心細げにジェドを見つめた。

「大丈夫だ。話はついてる。二階に上がったら右の廊下を進め。突き当りが寝所だ」

 ジェドがワルダーの肩に手を置いた。

「断っておくが姫は処女だ。男女の臍合わせは何も知らん。全てお前が指南するのだ」

 そう言って下卑た笑みを浮かべると踵を返して帰っていった。


 ワルダーは弩を大事に抱えて玄関を開けると屋敷に入った。庭も酷かったが中も酷い。一歩踏み出すごとに床板が軋み声を上げた。階段の手すりは緩み切っていて掴むのも躊躇われた。

(なんとも酷い。話には聞いていたが貧乏貴族の暮らしとはこういうものか)

 ようやく寝所に辿り着いた。中を見回す。寝台と丸テーブルに藤の椅子が二つ、燭台の灯りは弱く、それが逆に艶めかしい。

 ワルダーは椅子に座って気持ちを落ち着かせようとした。


 あれからもう半刻はたった。誰も来ない。そもそも屋敷に入ったときからおかしいと気づくべきだった。屋敷に入っても誰にも出会わなかった。

(やはり狸に化かされたか)

「まあ夢でもともと、糞を食わされたり肥溜めに落とされなかっただけでも良しとすべきか」

 そう独白すると、布を解いて弩を取り出した。鉄部を袖で拭い、把手のガタを確かめ、弦の張りを見る。構えて矢溝の歪みを確認する。いつしか作業に没頭して時がたつのを忘れていた。

 どれくらい経ったのだろう。ふと気配を感じて顔を上げた。小さい軋み音が聞こえる。誰かが廊下を歩いて近づいている。軋みは寝所の前で止まった。扉を叩く音がする。ワルダーは黙って扉を見つめていた。やがて、扉が開き、女が姿を見せた。ワルダーは目を見開いた。昨夜見た女がそこに立っていた。白い薄衣をまとい、眼は伏たままワルダーの顔を見ようともしない。ゆっくりと頭を下げた。

「いらっしゃいませ」

 か細い声だった。


(なんと美しい)

 ワルダーの心が呻いた。しかし、

(これは困った)

 姫は寝台に腰かけ、俯いたままワルダーと顔を合わせようともしない。膝は固く閉じ手は膝の上で爪が刺さるほど握られている。

 今まで生きてきてろくに色恋沙汰もない。自分から体を開く娼婦を抱いた経験しかない。ワルダーは今までこんな女には縁がなかった。きっかけが無い。風に揺れる木々の音がやけに耳につく。

 なんとなく頭を掻こうと頭に手をやった。姫の体がびくりと震える。

(これはいかん。脈がない)

 いつの間にか自分もうなだれていた。二人して仲良く床を見つめる。所在なく弩を手に取った。

 ふと姫が顔を上げる。

「それは……?」

「え?」

 突然の言葉にワルダーは狼狽えた。姫の視線に気づき、弩を持ち上げる。

「ああ、これはな、弩というものだ」

 動揺を悟られまいと無理やり歪んだ笑顔を作った。

「弩?」

「ああ、弩だ」

「何に使われるのです?」

 天井に狙いをつけて構える。

「猪を撃ち熊を撃ち、飛ぶ鳥を撃ち落とすものだ」

 姫が蒼ざめる。生き物を殺傷する道具を喜ぶ女は滅多にいない。

「怖がらなくてもよい。何が来てもこの弩で姫さまを守って差し上げる」

 今度は不敵に笑えた。

「ほれ、この鉤を弦に引っ掛けて、この把手をな、こうやってくるくる回すのだ」

 姫が眼を開く。

「それでな、弦をこの弦受に引っ掛ける」

 いつになく饒舌だった。

「それでこの矢をこの溝に乗せて矢挟みで押さえるのだ」

 腰の矢筒から鋼鉄製の太矢を一本つまみ出すと、矢溝に乗せる振りをした。

 空の弩を構える。

「後はこの引き金を引くだけだ」

 引き金を落とす。びんと弦鳴りが響いた。

 音に驚いて姫が身を竦ませる。

 姫の眼を見てにこりと笑った。


 姫が静かに立ち上がると、扉に向かって歩き出した。

(いかん、嫌われたか)

 落ち着いて考えれば自分がやったことは好かれるどころか嫌われることしかしていない。

 しかし、扉の前に立った姫は振り返ってワルダーを見つめ、

「こちらへ」

 その声に慌てて立ち上がり、弩を両手で抱えて姫の後に続いた。

 案内された部屋は寝所よりやや広い。姫が燭台を灯す。そこには様々な什器や大小様々な花瓶、新品の燭台などが並んでいる。どれも値打ちものであることはワルダーでもわかった。

「これは?」

 ワルダーの問いに答えず、姫が言った。

「撃ち砕いてください」

(え?)

 姫は構わず促した。

「どうぞ」

「いいのか?」

「困る者は一人もおりません」

「おひとり暮らしか?」

 姫が顔を伏せた。

「父も母も病で死に、使用人たちは出ていきました。この屋敷には私の他に誰もいません」

「それは不用心な。悪い男にでも嗅ぎつけられたら……」

 自分がその悪い男だと気づいて口をつぐむ。

「どうやって暮らしておられるのだ?」

「父と付き合いのあったユーコウ商会の商品の品書きをしております」

 幼いころから書に親しんできた貴族は達筆が多い。このため品書きは貧乏貴族の内職として珍しくなかった。しかし単価は安くそれだけでは生きていけまい。

「それに商会の番頭のジェドなる者が食べ物を持ってきてくれます」

 まるで物乞いではないか。こんな美しい姫が。ワルダーは言葉もなかった。

「この部屋にあるものはいつか私が嫁ぐときに生活に不自由しないよう、父と母が口に糊し爪を灯して買い求めてくれたもの。でももう嫁ぐ日など来ないのですから不要のものです」

 姫の眼が潤み、涙がひと筋流れた。すがるようにワルダーの手を取った。

「お願い、砕いてください。私の夢を。苦しいから砕いて……」

「承知した」

 弩の把手を回す。矢を填めると一番大きい皿に狙いをつけて放った。

 至近距離の弩の威力は凄まじい。派手な音とともに皿が砕け、巻き添えで後ろの皿や湯呑が割れて破片が床に散った。ワルダーはさらにもう一射、二射と繰り返した。そのたびに姫の夢が砕け散る。姫は床に座り込み濡れた眼で黙って見つめていた。

 やがてワルダーは姫の前に膝をつき、姫に弩を差し出した。

「自分の夢は自分で砕くもの」

 弦は引き絞られ太矢が填められている。

 姫の背に回ると手を取って構えさせ、大きな花瓶に狙いをつける。姫の耳許で囁く。

「引鉄はゆっくりと静かに、夜の霜が下りるように……」

 弦が鳴り花瓶が砕かれた。

 弩を床に置くと姫がワルダーの首にわっとしがみついた。その勢いに驚いてワルダーは尻で餅を突いた。

「こうして人と話すのも二ヶ月ぶりなのです」

 ワルダーの胸に顔を埋める。

「ジェドもほとんど口をきかず、食べ物を置いて逃げるように立ち去るのです」

 姫の涙がワルダーの胸を濡らす。思わず腕を回して姫を抱き締めた。

「一緒に暮らすか?」

 ワルダーの言葉に絡みつく姫の腕が力を込めた。

「一緒に暮らそう、そのときまで」



 四日後、ワルダーと姫は隊商の荷馬車の座席に座っていた。姫は道中笠をかぶり、駱駝色の鹿革の上衣に藍染のズボン、茶のブーツで固めている。わざわざワルダーが古着屋で購い揃えたものだ。ワルダーは気鬱な姫を元気づけようと半ば強引に引っ張り出ししていた。

「見よ、着いたぞ」

 座席から身を乗り出したワルダーが姫に声をかけた。

 姫が笠に手を当ててワルダーが指さす方を見やる。彼方に壁に囲まれた背の高い家並みが見えた。

「あれが狩猟村じゃ」

 まるで自分の家のように自慢気に言った。


 狩猟村の道は相変わらずの混雑ぶりだった。様々な種族の男女が行き交っている。ワルダーは不安げな姫の袖を引いてその中をずんずん進む。顔見知りの老いたゴブリンの猟師が手を上げて笑いかけた。半弓をぶっちがいに背負っている。

「ワルダーよ、いかい別嬪なおなごを連れてどうした?」

「からかうな、ハギスよ。この方はさる有徳人のご息女じゃ。お忍びで野遊びのお供に雇われたのよ」

 身分を明かすのはまずい。あらかじめ姫に言い含めておいた嘘だ。

「そうか、これはこれは失礼した、娘さんよ」

 姫に向かって丁寧に頭を下げた。

「ハギス、そろそろ隠居したと思っていたぞ」

「うむ、寄る年波には勝てぬ。今は猟友会で若子に弓を教えて食っておる」

 老ゴブリンが寂しげに笑った。

「あの弓のハギスと呼ばれた射手がのう」

 十歩の距離から突進する猪に六本の矢を外さず射当てて仕留めた話は今も語り草だ。

「ぬしも猟友会に誘われているのだろ?」

「徒党を組むのは好かぬ。去年のクエンテルで懲りた」

「あれは騎士と冒険者が仕切っておったからよ。あいつらは狩をわかっとらん」

「まあな、俺は一人が気楽でよい」

 黙って二人のやり取りを眺めている姫に気づいてワルダーは慌てて話を切り上げた。

「早く宿を取らねばならぬ。またな、ハギスよ」

「娘さん、こやつには気をつけねばならぬ。こう見えて相当な女好きじゃ」

「抜かせ」

「娘さん、あんたに運命の女神の御加護がありますように」

 ハギスはそう言うとからから笑いながら人混みに消えた。

「すまんな、口の減らぬ爺いなのだ」

「いえ……」

 消え入りそうな声で姫が答えた。

(山に連れ出したのは失敗だったかもしれぬ)

 実際姫は一度も笑顔を見せない。心の中で首を振ってその考えを打ち消す。

「さあ宿に急ごう。もうすぐ日暮れだ。早くせねばいい部屋が埋まってしまう」


 ワルダーが常宿にしている宿の受付が目を丸くして二人を迎えた。顔の下半分が髭で覆われた禿頭のゴブリンだ。

「どうした、ワルダー、かどわかしたのか?」

「人聞きの悪いことを抜かすな。二人分の部屋を頼む」

「うちは連れ込み宿ではないぞ」

「こんな薄い壁の宿で連れ込み宿とは嗤わせる。それにこのお方は大事な客だ。しばらく秋の山を案内するのだ」

「お嬢さん、気をつけよ。こやつは見境なしじゃ」

「それを言うのはあんたで二人目だ」

「十五番だ。壁を蹴破るなよ」

「やかましい」

 部屋は寝台が二つ、その間に簡素な机と椅子が二つ置かれている。ワルダーに促されて寝台に姫が腰かける。ワルダーも弩と背嚢を下ろしてもう一方の寝台に腰を落とすと一息ついた。姫と目が合った。姫が目を伏せる。

「お疲れか?」

 ワルダーが労わるように訊いた。

「いいえ……」

 相変わらず口数が少ない。

「では夕餉を食いに行こう。見た目はともかくここの飯はうまい。明日は山に行くから精をつけねばな」

 ワルダーが立ち上がって姫に手を伸ばす。

 姫がためらいながらその手を取った。


 秋空の下、数羽の兎が一心不乱に草を食んでいた。寒くなる前に肥え太るのに忙しい。ふいに一羽が頭を上げ耳を立てるとしきりに辺りを見回しはじめた。他の兎も不安げに耳を立てる。

 その時、弦音が鳴り一羽が太矢で地面に縫いつけられた。平和な食事時は一瞬で血の惨劇に染まる。他の兎たちがぱっと散った。

 しばらくして、中天を過ぎた陽を背に受けて二つの影が現れた。一つが兎の死骸に近寄って矢を抜き、丁寧に血を拭うと矢筒に戻す。

 膝をついて小刀を抜くと尻尾を切り落とし、頸を切って近くの木に逆さに吊るす。滴る血を茶碗に受けながらワルダーが説くように呟いた。

「多くは殺さぬ。俺が生きていけるだけの生命を貰う」

 数歩離れたところで口に手を当てて蒼ざめていた姫がその言葉を聞いてよろよろとワルダーの傍にしゃがんだ。

「生命を貰うとは?」

「麦を食えば麦の生命を貰う。野菜を食っても果物を食っても同じこと」

 血が固まらぬよう茶碗をゆっくりと揺らしながらワルダーは続けた。

「魚を食えば魚の生命、鳥を食えば鳥の生命、人はそういうものたちの生命を貰って生きている」

 姫はワルダーから眼を離さず話に耳を傾ける。

「人だけではない。およそ生命あるものは他の生命あるものの生命を貰って生きておる。それが自然の摂理、神の意思だ」

 兎の血の溜まった茶碗を掲げる。

「ゆえに貰った生命は無駄にしてはならぬ。血の一滴もな」

 そう言ってぐいと呑むと、茶碗を姫に差し出した。

 姫の目に困惑と怯えが走る。

「飲んでやることが兎への愛情だ。飲んで精がつき元気になれば兎も喜ぶ」

 ワルダーの据わった眼を見て姫は覚悟を決めた。両手でそっと茶碗を受け取り、しばらく血を見つめていたが、目を閉じて一気に呷った。濃い血が喉に絡んでむせた。ごくりと喉が動いてなんとか飲み込んだ。紅を差したように唇が血に濡れる。

 ワルダーがそっと差し出した手拭を受けようと手を伸ばしてはっとした。この人はこんな優しい笑顔もできるのか。

「兎は体の割に肉が多い。それに毛皮も暖かい。いずれ姫に何か作って差し上げよう」

 そう言いながら兎を背嚢の背に括った。

「そうだ、この先に野湯がある。湯浴みしていこう」

 姫の手を取って立ち上がらせた。


 山の中に分け入って半刻も歩くと、山肌に小さな池が現れた。微かに硫黄の臭いがする。

「ここだ。この池は湯が湧いているのだ」

 池面には落ち葉や小枝が漂い、正直言ってあまり清潔そうには見えない。ためらう姫をよそにワルダーはいそいそと服を脱ぐと、さっと池に入ると姫に声をかけた。

「ここを知る者は少ない。滅多に人の来ぬ秘湯だ。背を向けているから姫も入られよ」

 言ってしまってから狼狽えた。山の中の温泉に男女が二人きりという事実に気づいたのだ。

 後ろで衣擦れの音がして、とぷんと水音がした。振り向きたいが振り向けない。ワルダーは懊悩した。突然、背に何かが触れた。背筋に雷が走る。姫の掌を感じた。姫が上体をワルダーの背中に預ける。高まる圧力にワルダーの理性はぎりぎりだ。

「姫……!」

 振り返ろうとした刹那、出し抜けに雰囲気を抜けた声がぶち壊した。

「あー、先客がいたんだー」

 姫が慌てて体を離す。

「あら、ワルダーじゃない?久し振りね」

 見ると金髪の女が立っていた。丈の短い傷だらけの黒革の上衣、色の褪せた深緑のズボンに革足袋、帆布の背嚢を背負い、腰に山刀、手には鉤のついた槍を持っている。肩先で切り揃えた金髪で小麦色の肌、大きな釣り目がちの眼の紅い瞳が二人を見つめている。

「スウか」

「あら、お邪魔だった?」

「いや……」

 正直に邪魔だと言えるわけがない。

「私も入っていい?」

 そう言いながら荷を置いて服を脱ぎ始めた。

「猟師仲間のスウだ」

 驚く姫にワルダーが説明した。

 スウが恥じらいも見せず全裸になる。引き締まった腹の上で大きな形のいい乳房が揺れた。

「お邪魔しまーすよー」

 抜けた声とともにどぼんと池に飛び込んだ。水音までがさつだ。


「ねえ、こんな綺麗な人と何してるの?」

 顔を横に向けたままワルダーが答えた。

「山遊びの介添を頼まれただけだ」

「へえ、あんたにしては珍しいね」

「お前こそ何しにここに来た」

「冬に備えて猟場の下見に来たのよ。それでちょっとお湯に入ろうかなって」

 そう言うと姫に向き直った。

「初めまして。スウっていいます。よろしくね」

 にかっと笑った。つられて姫も笑顔になる。

「ええ……、よろしくお願いします」

「ワルダーとはよく猟場で会うのよ。いい腕なのに人見知りでね、それがこんな美人さんと一緒なんてびっくり」

 それからスウは喋り通しだった。おいしい果物の話、綺麗な羽の鳥の話、へんてこな形の樹の話、毒茸の見分け方、蛇の正しい調理法等々。

 ひとしきり喋り終えると満足気にため息をついた。

「では俺たちは行くぞ」

 頃合いを見てワルダーが切り出した。このままでは一晩中長話に付き合う羽目になる。

「うん、わたしはもう少し浸かってるわ」

 湯から上がり体を拭う。服を着て荷物を背負い、姫が服を着るのを待った。

「ではな」

 スウに声をかけた。

「うん。またね」

 姫を伴って歩き出そうとしたとき、スウが声をかけた。

「あ、ワルダー」

「何だ?」

「困ったことがあったらいつでも言ってね。お邪魔したお詫びよ」

「抜かせ」

 思わず苦笑が漏れた。



 日が落ちてから雲が出てきたらしい。星も見えぬ暗闇のなか、星が生まれたような小さい灯りが揺れていた。ワルダーと姫が焚火を挟んで差し向いに座っている。姫は太さ一尺ばかりの倒木に腰掛け、じっと焚火を見つめていた。尻の下にはワルダーの尻皮を敷いている。ワルダーは背嚢に腰を落とし、捌いた兎の肉を串にして焚火の周りの地面に刺した。

「兎を食うのは初めてかな?」

 肉の焙り具合を見ながらワルダーが聞いた。

「子供の頃に兎料理をいただいたことがあります」

 姫が焚火から眼を離さず静かに答えた。

「美味かったか?」

「子供でしたからあまり覚えていません」

「では食ったら思い出すかもしれぬな」

 串を回しながら笑った。

「後であの肉が可愛い兎と知って泣いたことは覚えています」

「なんと、では兎を撃つのではなかったか」

「いいえ、今はお腹が減って何でも食べれそう」

 姫が微笑んだ。なんと儚げな笑顔。見ているこちらが泣いてしまいそうな眼をしている。

 串を一本抜いて姫に差し出した。

「熱いゆえ気をつけられよ」

 姫は両手で受け取るとふうふう息を吹きかけ、肉片をそっと齧った。

「美味しい」

 初めて明るい笑顔を見せた。

「そうか、どんどん召されよ」

 ワルダーは嬉しくなってしきりに串を回した。


 ふいに串を回すワルダーの手が止まった。

 背後の気配を伺う。そっと弩に手が伸びた。ワルダーの挙動が変わったを感じて姫に緊張が走る。

 やけに低く籠る声が聞こえた。

「久しぶりだな、ワルダー」

 たどたどしい公用語だ。振り返るとリザードマンが五人、闇の中から現れた。

「ヘゲラスか」

 弩から手を離し、ワルダーが笑った。

「姫さま、安心されよ。こいつらは顔馴染みだ」

 斧が三人、槍と弓が一人ずつ。いずれも簡素だが頑丈そうな革鎧に身を固め、毒々しい戦化粧で身を飾っている。

「ワルダーよ、こんな夜中に何をしている?」

「それはこちらのセリフよ。物々しい恰好でどこへ行くのだ?」

「三日前に銀熊の巣穴を見つけてな。やつが夜明け前に巣穴に入るときに仕掛けるのだ」

「それでこんな夜中に出張ってきたのか」

「うむ、それで歩いていたらこんな野原に火を見つけてな。おまけにうまそうな匂いまでする。故に寄ってみたのだ」

「すまんが兎一羽だ。分けてやれるほどないぞ」

「構わぬ。腹満ちれば武運減ると言うからな。それより」

 リザードマンがワルダーの隣にしゃがみこんだ。

「ぬしも一枚噛まぬか?ぬしの弩があれば心強い。分け前は相応に払うぞ」

「有り難い話だが無理だな。連れがいる」

「そこにいる牝か?」

 ヘゲラスの目が姫を値踏みする。

「うむ、すまんな」

「そうか、ついにぬしも番うか」

 後ろの四人が尾で地面を叩きながら笑った。

「そんな色な話ではない」

 ワルダーが即座に否定した。

「まあよい」

 ヘゲラスが立ち上がった。

「人の牝よ、油断するな。この男は奥手に見えて滅法界な色好みだ」

「その台詞は聞き飽きた」

「では邪魔をしたな」

 そう言ってリザードマンたちは歩き出した。その背中にワルダーが声を投げた。

「ああ、気をつけてな。おぬしたちに運命の女神の御加護があらんことを」

 リザードマンたちは尻尾を振りながら闇に消えた。


「リザードマンをこんなに近くで見たのは初めてです」

 姫が呟いた。

「亜人は街の中には滅多に入ってこないからな」

 ワルダーが焚火に枯れ枝をくべながら答えた。トランドでも亜人はたいてい外町に住む。滅多に外壁の中には入らない。

「怖かったか?」

「いいえ、何が来てもあなたが守ってくださるのでしょう?」

(嗚呼……)

 ワルダーの心が揺れる。こんな女を守って生きる。素晴らしい人生に違いない。

「猟師にも色々な暮らしがある」

 唐突なワルダーの言葉に姫が首をかしげる。構わずワルダーは続けた。

「村の畑や植林を荒らす猪や鹿を追い払う仕事だ。渡りのように猟場を伝って歩くのではなく、村に居着いて暮らすのだ」

 姫の顔をじっと見つめる。

「稼ぎはあまり良くない。しかし手が空けば百姓仕事もできる。贅沢しなければ二人で生きていくくらいの稼ぎはある」

 炎を挟んで目と眼が合った。

「どうだ?」と言いかけたワルダーの口が止まった。足音が聞こえる。

(今日は邪魔者が多い)

 ワルダーは運命の女神を呪った。


 リザードマンの誰かが引き返してきたと思った。だが、焚火の炎に照らされて現れたのはユーコウ商会のジェドだった。こんな山中なのに最初に会ったときと同じ格好で商売向けの笑顔を浮かべている。こいつは戦場のど真ん中でもこの格好に違いない。

「探したぞ、ワルダー」

 しゃがんで火に両手をかざしながら口を開いた。

「まさかこんな所に来るとはな」

 驚きを悟られまいとぞんざいに答えた。

「仕事を受けたお前を放し飼いすると思ったか?」

 ジェドがせせら笑った。

「だが姫を連れて山に入って暗くなっても下りてこないのは肝が冷えたぞ」

 串を取って兎肉の口に入れる。熱さに慌てながらなんとか呑み込んだ。

「リザードマンの猟師どもに会えて助かった」

「そんなことを言いに来たのか?」

「違う」

 ジェドが更に串に手を伸ばす。

「標的の日取りが決まった。代官は十二日後、蠍月の二日に市に来る。市門に入る前に殺せ」

 まるで大安売りの日取りを説明するような口調で言った。

 姫の貌に驚きが走る。

 構わずジェドが続けた。

「代官には軽騎兵八騎と歩兵八十がついている。他に代官が乗る四頭立ての馬車の中にも護衛が二人」

「厄介だな」

「だが不惑橋を通るときは護衛は分断される。馬車が橋を渡りきる直前にフラド家の手引きで乞胸どもが馬車に群がる。そこを狙え」

 確かにいい手だ。貧者に施すのは貴人の義務とされている。代官は馬車を止めざるをえない。

「わかった」

 火の様子を見ながらワルダーが呟いた。姫が不安を抱き締めるように胸を両手を押さえてワルダーを見る。

「ところで」

 ジェドがにたりと笑みを作ってワルダーに横目をくれた。

「まだその調子だと姫にはまだ手も触れてないようだな」

 ワルダーは答えない。

「惚れたか?」

 ワルダーがジェドを睨む。

「ワルダーよ、心を残すな。ここで姫を犯して殺せ」

 姫の息が止まった。

「代官を討つことを姫は知ってしまった。生かしておけぬ」

 ワルダーが懐からパイプを出し、煙草を詰めると小枝を拾って焚火の火をパイプに移した。その様を眺めながらジェドは念押しするように言葉を続ける。

「だから殺せと言ったのだ。だがお前はまだ姫に手を出していない様子。だから心残りのないよう犯して殺せ」

 姫の悲しげな眼がワルダーにすがりつく。

「どうせ貧乏貴族のファランダル家、しかも両の親もわるい病で死に絶え、使用人も逃げ出し、その姫が一人きりだ。殺したところで誰も気づかぬ、誰も騒がぬ」

 そう言われて姫は眼を伏せた。

「だいたい渡り猟師のお前がおなごに惚れるなど似合わぬ。さっさと犯せ」

「ジェド、やるならお前が犯して殺せ」

「断る。誰もわからなくても神は見ている。地獄に堕ちたくない」

「俺ならいいと言うのか?」

「どうせ地獄行きの身だろうが。生き物を殺して飯の種にしているくせに」

「ふん」

 ワルダーが鼻で笑った。

「どうせ姫を高く売るつもりで養ってきたくせにほざきよる」

 ふっと笑おうとしたジェドの顔が驚きに歪む。

 いつの間にかワルダーの右手に握られていた鋼の太矢が顎の下から頭蓋に突き刺さっていた。

「かっ……、はっ……」

 言葉にならない。血泡を噴きながらゆっくりと横に倒れる。ワルダーを目で追う。パイプを懐に仕舞いながら冷たく見下ろすワルダーと目が合った。

 頭が地面に落ちるころにはジェドは脳死していた。あまりのことに姫が小さく悲鳴を上げる。死体から眼が離せない。

 ワルダーは静かに太矢を引き抜いて矢筒に収め、姫に手を差し伸べた。

「さあ、行こう」

 その声でやっと姫の眼がワルダーを捉えた。ワルダーの手を両手で握って立ち上がろうとした。だが立てない。腰が抜けていた。腕の力が抜け落ちてワルダーの手を握れない。眼がワルダーに救いを求めた。

 ワルダーは姫に背を向けると腰を落とした。掌を後ろに向けて両手を広げる。

「さあ」

 いざり寄ってワルダーの背中にしがみついた。


 姫を背負ったワルダーは闇の中を歩く。弩と背嚢を体の前に回し、ゆっくりと歩を進める。姫はワルダーの首筋に顔を押し付け押し黙ったままだ。微かな震えが背中越しに伝わってくる。

「安心されよ。姫さまは俺が生命にかえて守る。そう約束したであろう」

 その言葉に震えが収まった。

「俺が怖いか?」

「いえ……」

 囁くような小さな声。

「人が殺されるのを初めて見ました……」

「殺さなければ殺されていた」

 姫がまた黙り込む。気まずい。

 ワルダーが沈黙を払うように口を切った。

「俺も一人きりだ。生まれてからずっと一人っきりなのだ。姫も一人きりだから、ふたりで二人っきりだ。一人っきりよりずっといい」

 その言葉に姫が静かに泣いた。

「あと四半刻も歩けば猟師の山小屋がある。今夜はそこで過ごそう」

 元気づけるようにワルダーが囁いた。


 山小屋でワルダーはようやく腰を落としてそっと姫を下した。荷物を置き、ほうっとため息を漏らして姫に向き直った。

「立てるか?」

「ええ……」

 ワルダーに抱えられるようにして立ち上がった。

「火を起こす。少し待っててくれ」

 囲炉裏に山小屋備え付けの炭を並べ、火打石で火をつける。火の爆ぜる音を見ながら姫に声をかけた。

「さあ、火に当たられよ」

 しかし、姫は火の傍ではなくワルダーに体を寄せた。ワルダーの胸に顔を預け、ワルダーの背中に両の手を回す。ワルダーが姫の背中を守るように抱き締め、姫の髪に鼻先を埋めた。

「……クロアです……」

 漏れるような小さな声。

「クロア・ファランダルどのか」

 姫がゆっくりと顔を起こす。濡れた儚げな碧い眼がワルダーの目を射貫く。湿った唇から声が零れる。

「ただのクロアです」

 どちらかとなく唇を合わせた。



 舌を絡めながらクロアの服を一枚一枚引き剥がす。クロアは抵抗しなかった。服が堕ち白く手折れそうな腰が炭火の明かりを受けて薄紅に染まる。床に散らばる服の上にそっと女を仰向けに置いた。クロアの両手がそっとワルダーの頭に巻きついた。二人の鼻先が触れあい、唇が触れあい、ゆっくりと互いの舌を貪る。

 猟師の武骨な右掌が細い頸をなぞり、そのまま白く緩やかに盛り上がった右の乳房に触れる。ふくよかな呼吸を感じた。クロアの熱い温もり。息にあわせてクロアが弱々しく喘ぐ。錆びついた指が盛り上がった胸を這い、握り、捏ねる。クロアの上体が小さく跳ねた。


 糸を引いて唇を離す。クロアの濡れた瞳を見つめ、

「クロア……」

 小さいがしっかりと名を呼んだ。

「はい……」

 再び呼ぶ。

「クロア」

「はい」

 クロアの潤んだ碧い瞳が優しく歪んだ。目尻から涙がひと筋流れた。

 ワルダーの右手の中指が控え目な乳首に触れる。

「あ……」

 クロアの唇から声が漏れた。指の腹で輪を描くように回し、摘まんでくねる。

 ワルダーの指の動きに合わせてクロアの肢体が弾む。声にならない小さい呻きが零れ、乳首が固く勃った。

 ワルダーの口が左の乳首をとらえる。優しく含んで舌先で触れた。ワルダーの頭を抱える姫の手にわずかに力が入り、ワルダーを自分の胸に圧しつけた。

 ワルダーの中指が乳頭をくじる。

「くッ……」

 こらえきれない小さい悲鳴。

「痛かったか?」

「いえ……、もっと……、もっといじって……」

 指に力を込めた。

「あ……」

 クロアの唇から声が漏れる。

「ああ……、もっといじめて…強くいじめて……」

 乳首に爪を立てた。

「あうッ……」

「感じてるのか?感じてるのだな?」

「はい……、もっと……」

 左の乳首をそっと噛んだ。

「あんッ」

 歯に力を入れる。

「だめェ……」

 しかしクロアはワルダーの頭を抱き締めて離さない。

「クロアは乳が弱いのか」

「はい……、いじめて……、もっといじめてぇ……」

 声が蕩ける。爪と歯の動きに応えるように何度もクロアがすすり泣くような声を上げ、体が跳ねて弾んだ。小屋の床板が軋み声を上げる。

「ああ……あなた……」

 乳首から口を離しクロアの唇を吸う。右の乳をいたぶりながら左の腕を姫の背に回して引き寄せた。

 クロアの腕がワルダーの広い背にしがみつく。姫の指先に力がこもる。白く細くしなやかな体が弓のように反り返り、塞がった唇の間から声にならない叫びが漏れた。


「気をやったか」

 荒い息の下でクロアの胸が上下する。

「これで気をやるとはクロアは淫らよな」

 クロアが顔を赤らめた。

「あなた……だけです……」

 小さく消えそうな声で答えた。

 どう答えたらいいのかわからない。クロアを黙って抱き締め、クロアの息が整うのも待たず右手を臍から小股へすっと滑らせた。脚をよじるのも構わず陰丘のわずかな膨らみに触れる。指先に柔らかい弾力を感じる。満ち足りた呻き。さらに指を滑らせる。指先が濡れるのを感じた。クロアの汗ばんだ肢体がうねる。背に回された腕が優しくワルダーを締め上げる。

「もらって……」

 姫が呟いた。

「わたしの生命……もらってください……」

 ワルダーが囁くように答えた。

「クロアも俺の生命をもらうのだ」

「はい……」

 ワルダーの胸に顔を押しつけた。クロアの脚を押し開いて中に割って入った。

「くぅ…!」

 閉じた唇から思わず声が滑り出る。

「だいじょうぶか?」

 ワルダーがいたわるように訊いた。

「うれしい……」

 濡れそぼった碧い瞳が眩し気にワルダーを見上げた。


 ワルダーは床に仰向けになって屋根板を眺めていた。

「やめて……」

 ワルダーの胸に頭を預けていたクロアがぽつりと呟いた。

 クロアに目を移した。

「代官を撃つなんて怖いことはやめて……やめてください」

 答えずクロアの髪を愛おしく撫でた。一度承知してしまった。逃げれば契約を破ることになる。何より姫に追手がかかることは絶対に避けねばならない。

 悲しみをためた碧い瞳がワルダーの心の中を見通す。

(ああ、このひとは代官を撃つのだ。)

「あなたと二人っきりで暮らせたら……」

 クロアの手を取った。互いの指を絡ませる。

「一月前にそなたと逢いたかった」

 クロアが指を震わせ静かに哭いた。ワルダーは慌ててあやすように慰めた。

「泣いてはならぬ。そなたは俺が必ず守る。だからせめて笑ってくれ」



 日が昇り、晴れた秋の空の下、ワルダーとクロアが草原を歩いていた。秋の冷たい空気が心地いい。

 ワルダーが小高い丘を指さした。

「あと一刻ほど歩けば狩猟村と街を結ぶ道に出る。道に出て村に戻ろう。運が良ければ荷馬車に拾ってもらえる」

 クロアが笠に手をかざして丘を見つめ、小さく頷いた。

「大丈夫かな?」

「ええ、胸と腰がひりひりしますけど」

「俺もクロアの爪で背中がひりひりしている」

「それはあなたが何度も……」

 思わずワルダーは声を上げて笑った。つられてクロアもくすくす笑う。

「村に帰ったら宿替えだ。壁の厚い宿で膏薬を塗って差し上げよう」

 頬を赤らめたクロアに手を伸ばした。

「さあ、行こう」

「はい」

 クロアが差し出された手を握った。


 結局道に出るのに一刻半かかった。途中で無花果の実った木を見つけたからだ。無花果がこぼれ落ちそうな背嚢を下ろし、道端に座ったクロアの前に片膝をついた。

「ブーツを脱がすぞ」

 有無を言わせずブーツに手をかけた。そのまま丁寧に引っ張り脱がすと足布を解いた。蒸れた素足に秋風が気持ちいい。ワルダーはクロアの素足を両手で包むと、ゆっくりと揉みほぐした。心地よい痛みが走る。思わず目を閉じてなんとか声を抑えた。

「疲れたであろう?」

 ぽつりと訊いた。

「はい、でも来て良かったです」

「そうか、山に連れ出した甲斐があったというもの」

 破顔したワルダーにクロアも微笑んだ。

「しばらくここで無花果でも齧りながら荷馬車を待とう。なに、昼過ぎには定期の馬借が通る。それまで待ってもよいのだ」

「ええ。あなた」

 その言葉にワルダーの目頭が熱くなった。


「見せつけてくれちゃうね」

 どこからか声が飛んできた。

「スウか」

 この女はいつも突然現れる。

 山の野湯で出会ったときと同じ格好で金髪の女が立っていた。

「やあお嬢さん、久しぶりだね!」

 クロアがつられて挨拶を返す。

「スウさん、お久しぶりです」

「昨夜会ったばかりではないか」

「そこはほら、一期一会って言うでしょ。出会いは大切にしなきゃ」

 からからと笑ってクロアの隣に座る。

「ここに座ったらワルダーが足を揉んでくれるんでしょ?」

 顔を朱に染めたクロアが足を引っ込め、そそくさと足布を取って巻き始めた。

「はいこれお土産」

 背嚢から青林檎を二つ取り出して二人の前に置いた。自分の分を取り出すと大きく口を開けて齧り取った。

 栗鼠のように目を細めて咀嚼して一息に呑み込下した。落ち着いたのかふっとため息が出た。

「ところで」

 二人を見回す。

「厄介ごと抱えてるでしょ?」

 クロアが緊張するのがわかった。

「何のことだ?」

「あなたたちが湯を出てからしばらく寝ちゃってたの。仕方ないから湯を出て山を降りたんだ。そしたら新しい焚火の跡があって死体が転がってたの」

 滴り落ちる果汁を舐めながらスウが事も無げに言った。

「あの焚火ってあんたたちよね?」

 猫科の肉食獣の眼がワルダーを見つめる。

「知らんな」

「嘘は駄目よ。あの死体の分とリザードマン五人分の他に足跡が二人分、あんたたちの足とぴったり同じだったよ。ワルダー、お嬢さんを背負って立ち去ったでしょ」

 クロエの眼が怯えて曇る。ワルダーは答えない。

「まあどうでもよかったんだけどね。それで私も寝ようと思って山小屋に行ったの」

「なん……だと……?」

「山湯でお邪魔しちゃったから気にしてたのよね。おめでとう、クロアさん!」

 親指を立てた拳をクロアに突き出した。クロアが両手で顔を覆ってうなだれる。

「聞いてたのか?」

「うん! 軒下で!」

 林檎を齧りながら元気一杯に答える。

「いつからだ?」

「えっとね、弄るとか虐めてとかくらいから二人がくたびれて寝入るまで」

 隣のクロアに顔を向けた。

「おっぱい感じるんでしょ、クロアさん?」

 なんというがさつな言葉に顔を覆ったクロアの手がぷるぷる震えた。


「山小屋にいたなら何故声をかけなかった?」

 狼狽を悟られまいとワルダーが語気を強めた。

「だって邪魔したら悪いし。それに山小屋の板壁だよ?聞きたくなくても聞こえちゃうよ」

 最後に林檎の芯を噛み砕き、手についた果汁を舐めながら無神経にクロアに林檎を差し出す。

「この林檎ちょっと酸っぱいけど美味しいよ? クロアさんも食べて」

 ワルダーは頭を抱えた。

 山小屋は山を生業にする者たち全ての物だ。そこを睦事に使ったワルダーたちに落ち度がある。聞き耳を立てられても文句は言えない。しかしこの俺が気配すら感じなかったとは。クロアで頭がいっぱいだったのか。

「それでね、日の出前に起きて二人をお祝いしなきゃと思って林檎を取りに行ってたの。そしたらさっさと小屋を出ちゃうんだもの。慌てて追いかけてきたんだよ」

 できればそっとしておいて欲しかった。


「あ、無花果貰っていい?」

 ワルダーの背嚢から無花果を一つ摘まみ出し皮も剥かずにそのまま口に放り込んだ。

「それでね、話の一部始終を聞いちゃったんだ。代官を撃つんでしょ? どうするつもり?」

 ワルダーは無言で林檎を取って一口齧った。やっと顔を上げたクロアが心細げにワルダーを見た。

「猟友会に入る。ここの寮でクロアに待ってもらう。代官を撃ったらクロアを迎えに行く」

「甘いね」

 スウがコーンパイプを取り出して煙草を詰めながら呟いた。

「なに?」

「ワルダー、あんた浮世離れした猟師だからこの手の稼業を全然わかってないよね。代官を首尾よく仕留めても口封じに殺されるよ?」

「そういうものなのか?」

「そういうものなのよ」

「しかし逃げたら追われる。どうすればいいのだ?」

 林檎を見つめながらワルダーは呻いた。

「だいたいおかしいよね?大商人と司教と侠家がつるんでるんでしょ? そんな連中が、いくら腕が立つからって猟師ごときに人殺しを頼む?」

「うむ、言われてみれば……」

「きっとこの話には裏があるよ」

「ではどうすれば……?」

 紫煙をくゆらせながらスウが答えた。

「クロアさんをどこかに匿うのは賛成だよ。でも猟友会の寮は危ない。その手の稼業の連中が仕掛けてきたら護り切れないね」

「心当たりがあるのか?」

「うん、トランドの外町にあしか亭って店があるの。わたしの姉さんたちがやってるお店」

 そういえば前にスウの姉妹が飲み屋をやっている話を聞いたことがあった。

「用心棒がいるのか?」

「あの店はお客さんが全員用心棒だよ」

 煙を吐いて不敵に微笑んだ。

「信用していいのか?」

「あたしはあんたたちの逢瀬の生き証人だよ、信用しなくてどうするの?」

「もう……もうその話はやめてください……」

 クロアが小さく呟いた。



 王国直轄都市トランド市の内壁と外壁の間の一画には豪邸の立ち並ぶ閑静な区画がある。ここは市場の喧騒とも外町の混乱とも無縁な空間だった。この区画の空は航空竜騎士すら飛ぶことを許されない。この区画はかつてトランド市が戦闘要塞だった頃、鍛冶場が建ち並び東の戦線に兵器を供給する巨大な兵廠だった。今はその面影は全て拭い去られ贅沢と格式と上品が支配している。ユーコウ商会のユリアス邸はその豪邸の中でもひと際大きく、宮殿のような威容を誇っていた。

 今、その門の前にこの上品な空間にはそぐわないダスターコート姿の六人の男が佇んでいる。旅の埃に汚れているが、全員が背筋を伸ばし、無言で静かに、面白くもなさそうな顔で館に見つめていた。こんな建物に一切の価値を認めない目だ。静かな秋の朝に男たちが乗ってきた馬が小さく嘶いた。全員が剣を佩き大きな布袋を背負っている。凶々しい形のおかげで袋の中身は子供でもわかる。弩だ。

 やがて中央の男が落ち着いた動きで帽子を取る。四十がらみで髪を総髪に撫でつけ整った鼻髭の紳士然とした男だった。だが目がいけなかった。剃刀のような鋭い目のせいで全然紳士らしく見えない。

 男は勿体ぶった仕草で手袋を脱ぎながら門に駆け寄った使用人に伝えた。

「ハーベルクからエリントが来たと伝えてくれ」

 踵を返した使用人は兎のように館に駆け戻った。

 すぐ数人の使用人を従えた執事らしい男が早足で門に歩み寄ると優雅に深く頭を下げた。

「ようこそお越しくださいました、エリント様。どうぞ中へ」

「馬を頼む」

 そう言い残すと男たちはずかずかと歩を進めた。


 一刻後、応接間でエリントはソファにくつろいでこの館の主人ユリアス、司教ヨゼス、侠家のカイム・フラドと差し向っていた。エリントの後ろには五人の男が足を肩幅に広げ、地につけた弩の台尻を体の前で組んだ両手で支え、横に並んで立っている。人が三人にエルフが二人、人種も顔も背丈も年齢も髪の色形も違うのに見分けがつかない。冷たく乾いた目のせいだ。

 フラド一家をまとめるカイムはその目に見覚えがあった。数年前に雇った殺し屋の目だ。よく笑う男だったがその目だけは決して笑わなかった。感情の感じさせない孔のような目だった。あいつはさっさと仕事を済ませると金を受け取って出て行った。それ以来会っていない。目の前のこいつらはあいつと同じ目をしている。

「ようこそ来てくれた、エリント殿」

 ユリアスの挨拶をエリントは手で遮った。

「前置きはいい。話は手紙で読んだ。他に変わったことは?」

「いや、ない……」

 ユリアスが黙り込んだ。

 ヨゼズがゆるやかに口を開いた。

「お主たちの腕を見たい。的を用意しよう」

 ヨゼスの言葉にエリントがふっと息を吐いた。苦笑したのだ。

「試す……、だと? 我らを試す?」

 後ろの五人の気配が動いた。僅かに踵を浮かせ腰を落としたのだ。

 慌てたカイムが身を乗り出して司教を手で制した。

「すまない。司教様はこういうことには疎いんだよ。後でよく言い聞かせておくから許して欲しい」

 エリントが軽く右手を上げた。五人の気配が止まった。

 ほっとため息をついてフラドがソファに身を沈めた。

「どういうことだ?」

 ヨゼスがフラドに顔を寄せて訊く。

「まったく、あなたが腕試しの的になるところだったのですよ」

 カイムが憮然と答えた。


 エリントが腕を組んで言った。

「代官撃ちはまず先手の射手のみが撃ち、その後に後詰の我らが撃つ」

 エリントの目が三人をゆるりを見渡した。

「まず囮の先手が相手の全ての注意を引くのが肝要だ」

「その囮はもう用意してある。風読みのワルダーという者だ」

 ユリアスが答えた。

「今は東の狩猟村にいる。繋ぎに店から人数を出している。代官が来る前に連れてこよう」

「それは重畳」

 エリントが満足げに呟いた。



 猟友会の食堂は一度に二百人は食事ができるくらい広い。飯時は暴動のような騒ぎだがもう昼も過ぎ中は閑散としていた。隅のテーブルでワルダーとクロアは薄い黒茶を啜っていた。

「どうするのです?」

 クロアが訊いた。

「クロアはスウと一緒にスウの姉妹が営むあしか亭に行ってくれ」

「あなたはどうなさるのです?」

「俺は山に入る。行方知れずになれば奴らも諦めるだろう。怯えて逃げだと思うかもしれん。もし追手がかかっても山伝いに常に動き続ければ捕まるまい」

「私も一緒に……」

 クロアがワルダーの右手に自分の手を置いた。その手に更にワルダーが左手を重ねた。

「駄目だ。もうすぐ冬だ。冬の山は厳しい。そなたを連れてはいけぬ」

「もう一人きりは嫌……」

「案ずるな、暖かくなるまでには必ずそなたを迎えに行く」

「いつまで待てばよいのです?」

「代官が来るのは蠍月の二日だが、ほとぼりが冷めるまで一月か二月か……」

 不安を隠せないクロアを元気づけようと重ねた手に力を込めた。

「心配しないでくれ。決して一人きりにはさせない」

「はい。お待ちしています」

「不自由かもしれぬ。屋敷にも戻れぬだろう。我慢してくれるか?」

「あの屋敷には帰りたくありません」

 クロアにとってあの屋敷は悲しみの詰まった廃屋に過ぎない。

「必ず迎えに行く。それからは二人っきりで過ごそう」

「はい」

 クロアがはっきりと、にっこりと答えた。


「今戻ったよう」

 食堂の出入り口からスウが入ってきた。ワルダーに片手を軽く振った。そのままカウンターに向かう。食堂では椅子に座るためには何かを注文しなければならない。

「黒茶ひとつ。濃くして砂糖たっぷりね」

 カウンターに銅貨を並べた。

 受け取った湯呑にふうふう息を吹きかけながらクロアの隣にどかっと座る。

「逓伝所で姉さんたちに伝言送ったよ。念話で送ったからすぐ知らせはいくと思う」

「この村には念話魔導士がいるのか?」

「うん、最近雇われたんだって。私も頼んだのは初めて」

「他人に話を知られるのはまずい」

「平気よ、ちゃんと符丁使ったから他人にはただの借金の無心にしか見えないよ」

「そんな知恵が回るとは思わなかった。それにあんたの姉さんたちにちゃんと伝わるのか?」

「姉さんたちもちゃんと弁えてるわ。軍隊には相手の念話を盗み聞きする専門の念話士がいるの。だから盗み聞きされても大丈夫なように符丁を使うのよ」

 そう言ってぐいと黒茶を飲んだ。

「軍にいたとは知らなかった」

「うん、昔ちょっとね。それより明日の準備はいい?」

「ああ、クロアは明日のトランド行きの隊商に相乗りしてトランドに向かう。付き添いを頼む」

「いいよ、わたしも姉さんたちに会いたいから」

「世話をかける」

「お願いします」

 クロアが頭を下げた。

「いいのよ。任せといて、クロアさん。それより明日の隊商は日の出に出るから遅れないでね」

「ああ、わかった」

「それでワルダーはどうするの?」

「獲物を狩りながら山を伝ってメイヴ山脈を越えてクエンテルの森に入る。あそこらは俺の庭だ。勝手はわかってる。時々は村に下りて物を買ったり情報を仕入れねばならないがな」

「魔獣が出たらどうするの?クエンテルじゃ去年も魔獣騒ぎがあったよ。魔獣は専門外でしょ?」

 魔獣と聞いてクロアが眉をひそめてワルダーを見つめた。

「ああいうはぐれは滅多に出ない。あの辺りの魔獣の縄張りは心得てる。ちゃんと避けるさ。それに」

 矢筒から一本の太矢を取り出した。普通の太矢と違って表面に螺旋が刻まれ、螺旋に沿うように細かな彫金が施されている。

「魔法の矢だ。二本ある」

 スウが身を乗り出して矢をじっと見つめた。

「凄いの持ってるのね」

「ああ、俺の魔力では一本撃つのがせいぜいだがな」

「あんたがこんな物騒なの持ってたとは知らなかったよ」

 矢を仕舞いながらワルダーが答えた。

「誰にも言うなよ、隠し技だ」

「でも二本じゃ仕留めるのは無理だよ」

「無茶はしない。ちゃんと逃げるさ」


 黙って聞いていたクロアが口を開いた。

「あの……。どうして私たちのためにここまでしてくれるのです?」

「え?困ったことがあった言ってねって言ったよね?」

「ええ、でもご迷惑がかかるかも……」

 下手をすれば命に係わる揉め事だ。

「こういう話って大好物なのよ。わたしも姉さんたちも。だから気にしないで」

 スウが眉をひそめてにやりと小さく笑った。一瞬その凄味にワルダーは慄然としが、すぐスウは人懐っこい笑顔に戻った。

「今日はこれからどうするの?」

「念を入れて宿を替える。定宿は危ないからな」

「うん、そうだね、出来れば隣に声が聞こえない丈夫な壁の宿がいいよ」

 クロアが顔を赤らめて俯く横で、スウが黒茶の残りを飲み干した。



 次の日のまだ薄暗い朝、伝馬所の待合でワルダーとクロアとスウが壁際に座っていた。もう秋も深まりこの時刻はかなり寒い。クロアはワルダーに持たれかかるように座り、じっと目を閉じている。ワルダーもクロアの手を大事そうに握り、無言で動かない。待合所には三人と同じように隊商に相乗りする客が何人かいたが、みんなむっつり黙りこくっている。


 沈黙に耐えかねたようにスウが立ち上がった。

「隊商の様子を見てくるね。ついでに何か食べ物あったら買ってくる」

 そう言うとすたすた歩いて待合所を出ていった。

 スウが消えるのを待ちかねたようにクロアが目を開けた。

「無事でいてくださいね」

 ワルダーの手を握り返した。

「ああ、待っていてくれ」

「はい」

 クロアの上気した顔がわずかに微笑んだ。

 このまま時間が止まればいいのに。クロアを見つめながらワルダーは思った。


 その時、揃いの黒いフロックコートに革靴の男が五人、待合所に入ってきた。静かな秋の朝の空気を両断するように迷いのない歩調でワルダーたちに歩いてくる。

 クロアの手が緊張で強張るのがわかった。

 五人は壁際の二人を取り囲むように立った。

「風読みのワルダーさんですね?」

 中の一人が小さいがよく届く声で言った。秘密の商談向きの声だ。

「ああ」

「我らはユーコウ商会の手代です。あなたとの繋ぎに派遣された者です」

「それはご苦労だな」

「実は昨日あなたを探しに山に入った者が死体で見つかりました」

 動揺させまいと姫の手をしっかり握った。

「そんな奴とは会ってないな」

「死体はひどく食い荒らされて死因もわかりません」

 冬ごもりに備える山の仲間の犠牲になったのだ。

「それで?」

 ゆっくり五人を値踏みする。全員が懐に得物を呑んでるのがわかった。敵意は見えないが油断もしていない。荒事に馴れた連中だ。ここではクロアを守れない。

「この村に我らに敵する連中がいるかもしれない。ここは危険です。一刻も早く我らの所に来ていただきたいのです」

「話はわかった。ちょうど今トランド行きの隊商を待ってるところだ」

 嘘だ。乗るのはクロアとスウだけでワルダーは見送りに来ただけだ。しかし銭をはずめば乗せてくれるだろう。

「いえ、馬車を二輌用意しています」

「有難いがもう隊商に銭を払ってる」

 視界の端で紙袋を持ったスウが待合所に入ってくるのが見えた。スウはワルダーたちをちらと一瞥するとそのまま離れた椅子に座った。

「こちら馬車のほうが隊商より早く着く。それに安全です」

 ワルダーはしばらく考え込んでいたが、意を決して顔を上げた。

「わかった。世話になろう」

「そちらのお嬢さんもご一緒に」


「この娘は関係ない。俺が行けば十分だろ?」

 手代がクロアに顔を向けた。

「ファランダル家の姫さまですよね。あなたにも累が及ぶかもしれない。一緒に来ていただきます」

「……」

 姫は答えない。

「我らの仲間を殺した連中があなたを人質にワルダーさんを脅すかもしれない。危険は少しでも除けたいのです」

 再び考える振りをして目の端でスウを追った。紙袋から取り出した揚げ芋を満面の笑みで食っている。

「姫さまを丁重に扱えよ」

「もちろん、事が済んだら会わせて差し上げます」

「どういうことだ?」

「あなたと姫さまは別の場所で待機していただきます」

「おい」

 ワルダーの口調が怒気を含んだ。手代たちがわずかに身構える。

「申し訳ありませんがこれは保険です。我々もあなたに全幅の信頼を置いているわけではない。馬車も別々に乗っていただきます」

 当然だろうという口調だ。

「嫌……」

 クロアがワルダーにしがみついた。

「案ずるな。俺はただの猟師だ。仕事が終われば帰れる。待っていてくれ」

 クロアの腕を優しくほどきながら言い聞かせた。

「それではこちらにどうぞ」

 促されるまま立ち上がった。スウが幸せな顔で二個目の揚げ芋に取り掛かっていた。



 馬車がトランドに着いたその日の夜、未の刻を過ぎた頃だった。普通なら二日かかる行程を走りに走ってたどり着いたのだ。クロアの乗った馬車は途中で別れたためどこに向かったかわからない。着いた先はユリアスの邸宅ではなくユーコウ商会の営む商家の一つ。促されるまま離れ座敷に案内され、ここで時を待つよう言い渡された。

 それから三日、相変わらずワルダーは離れの寝台に寝転がって天井を眺めていた。待遇は悪くない。部屋はきちんと掃除されている。ちゃんと三度の飯も出るし寝具も贅沢だ。刻限は決まっていたが母屋の風呂にだって入れる。離れの中を歩き回るのも自由だ。しかし、離れから出るときは常に三人の手代がついた。体のいい押し込めだった。

 クロアのことが頭から離れない。すがるような碧い瞳、形よくささやかに盛り上がった胸、折れそうな細い腰、今どこでどうしているのか?しかし今は待つしかなかった。幸い猟師は待つことには慣れている。


 音がしたのはその時だった。板を叩く音がする。体を起こして音を探った。床下からだ。足音を殺して寝台から降りると、そっとしゃがみ込んで床を軽く拳で叩いた。

「やっほう」

 間の抜けた囁き声が聞こえた。

「スウか?」

「うん、ちょっと待っててね」

 幅一尺の床板がそっと持ち上がった。ワルダーは床板を両手で支え、静かに外した。続いて隣の床板が浮いた。

 金髪に蜘蛛の巣を引っかけたスウが顔を出した。

「結構いい暮らししてるね」

「それよりどうやってここまで入った?まだ昼間だぞ」

「蛇の道は蛇だよ。そんなことよりクロアさんの居所がわかったよ」

 ワルダーの目が開いた。

「どこだ?」

「フラドの屋形だよ。周りからはフラド城って呼ばれてる」

「無事なのか?」

「今はね。代官撃ちの日まではきっと酷いことはされないと思う」

「助けに行く」

「駄目だよ。この家から出る前に見つかっちゃう。それにフラド城には兵隊が八十人は詰めてる」

「どうすればいいんだ……」

 吐き捨てるように呻いた。

「クロアさんは任せて。こっちで助け出すから」

「できるのか?」

「まーかせて」

 スウがにっと笑った。


「それより問題はそっちよ。ユーコウ商会は弩の使い手を六人雇ったわ。ワルダー、あんた囮役を押し付けられたね」

「どんな連中だ?」

「内戦で戦った連中だって。戦争が終わって御役御免になってこの稼業に入ったみたいね。筋金入りって話よ」

「そうか、相手は人撃ちの専門家か」

「それでどうするの? 代官を撃っちゃうの?」

「クロアが無事と聞いて考えが固まった。任せてくれ。奴らの好きにはさせない」

 ワルダーの顔を見てスウは安心したように微笑んだ。

「んじゃ帰るね」

 身を潜めようとしたスウの動きが止まった。

「あ、そうそう、これ」

 革袋を取り出してワルダーに差し出した。五寸ほどの小さい打ち根が五本、丁寧に鞘が鏃にはめ込まれている。

「これは?」

「鏃に毒を仕込んでるの。早差蛇の神経毒。死にはしないけど即効性だから気をつけてね」

 そう言い残すと身を沈めた。ワルダーは袋の中をじっと見つめながら思った。覚悟を決めなければならない。クロアを守ると、一人にさせないと約束したのだ。

 ワルダーの決意を蹴り飛ばすように苛立たし気な声が床下から聞こえた。

「んもう、早く床板を渡して。来たのがバレちゃうよ」

 慌ててワルダーは床板を手に取った。


 しばらくしてワルダーは離れの玄関に立っていた。三人の手代が寄ってくる。

「ワルダーさん、どちらへ?」

「下見だ。不惑橋に行く。付き合ってくれ」

 革足袋を履きながら答えた。

「今からですか?」

「お前は俺に仕損じて欲しいのか?」

「いえ……、わかりました。お供しましょう」


 四半刻後、ワルダーは飯屋の二階から通行人でごった返す不惑橋を眺めていた。橋のたもとから歩測で測って五十間、高さは二間半だ。

「狙うにはいい場所だ」

 ワルダーが呟いた。本当なら一階から狙うべきだが敢えて口に出さない。

「そうですか」

 手代の一人が安堵の声を漏らした。

「それよりこの店の主人はどうした?」

「大金を払って店ごと買い取りました」

 ワルダーがふんと鼻を鳴らして中を見回す。

「当てられますか?」

「止まった的なら二町先でも造作ない。ところで」

 手代に顔を向ける。

「問題は撃った後だ。ここは角地でおまけに逃げ道が一階正面の出入り口だけだ」

 手代たちが顔を見合わせる。

「明日までに壁を抜いて出入りできるようにしろ。こことここだ。明後日もう一度確認する」

 指を上げて指し示した。

 手代たちが無言で頷いた。

「撃ったらその穴を抜けて飛び降りる。下は幸い裏小路だ。裏道を抜けて逃げる。行先はあの店でいいのだな?」

「はい」

「もう一度橋に立って周りを確かめる」

「またですか?」

「風の道を確認したい」

 返事も待たずに階段を降り始めた。慌てて手代たちが後を追う。

「ああ、それと」

 階段を降りながらワルダーが続けた。

「弩の手入れをする。今から言う道具を揃えてくれ。俺の道具は狩猟村の宿に置いてきてしまったからな。それと新しい矢も要る」



「みんな、よく集まってくれたわ」

 カウンターを背に長い銀髪をなびかせてダークエルフの娘がホールを見渡した。ダークエルフの女にしては細身だ。

 ホールのテーブルには男達が座っている。ざっと四十七人。テーブルの間を縫って黒い禿髪に三白眼の小柄な少女とたてがみのような赤銅色の髪の三人の女が盆に乗せた黒茶を配っている。

 カウンターの後ろに二人の女が立っていた。一人はスウ。スウの左に立つのは六尺を超える背の高い娘だ。真っ白な肌に後ろで束ねた艶な黒髪。切れ長な二重の眼がじっと前を見て動かない。

 テーブルについた男達は種族も年齢も様々だが、堅気でないことだけは共通していた。みんな押し黙ってダークエルフ娘を見ている。

 やがて黒茶を配り終わった少女と三人のたてがみ女がカウンターに入ってスウの右に並んだ。


「話は聞いてるわね? うちで世話するはずだった娘さんがかどわかされたの」

 男たちが頷いた。 

「相手はフラド一家よ。つくづく女をさらうのが好きな連中よね」

 いくつかのテーブルで小さく笑い声が上がった。

「話は簡単。フラドの屋形に攻め寄って悪い奴らをやっつけて囚われのお姫様を助け出すの。今時吟遊詩人だってネタにしない話だわ」

 どっと笑い声が上がった。笑いが収まるのを待ってダークエルフ娘が続けた。

「攻撃開始は蠍月の二日の正午、みんな巳の刻までには配置について。中から合図するからそれを見たら行動開始。正門を突破して一気に突入よ。第一分隊とロラは正門の確保。第二分隊とスウは正門の門櫓の制圧と第一分隊の掩護。第三分隊、第四分隊は第一分隊を超越して庭を制圧。第五分隊は屋内への進入路の確保よ。分隊ごと仕寄道具を忘れずにね」

「応」

 男達の小さな相槌があちこちで起こった。

「庭の制圧が終わったら分隊ごと突入して屋内を制圧。かどわかされた娘さん以外は全員殺して。娘さんの名前はクロア、背はだいたい五尺三寸で重さは十一貫にちょっと足りないくらい、長い銀髪に乳白い肌、眼は碧、絶対に傷つけたら駄目よ。ここまでで質問は?」

 白髭のドワーフが手を上げた。

「どうやってあの門を破る?あれは厄介だ。背は一丈半、厚さは八寸、閂は一尺半の樫だ」

「私が閂を外します」

 背の高い娘が口を開いた。

「ロラさんのことは信頼している。しかし危険すぎないか」

「案じていただいて嬉しいですわ」

 落ち着き払ってにっこり微笑んだ。

「でも大丈夫です」

 左に顔を向ける。

「アイカ、グスタフ、ドーラ、カール、背中をお願いね」

「うん、任せて」

 少女が右手を上げて答えた。

 ダークエルフ娘が先を続ける。

「相手の数は少なく見積もってざっと八十人。捕虜は作らない。死体は置き捨てて。首を取るのも耳を削ぐのも鼻を削ぐのも駄目ですからね」

 皆が愉快そうに笑った。

「ポーションは一人五本、二日の朝に配るから遅れないでね。それと突入後はアイカたちが庭に包帯所を作るから大怪我したら包帯所に来て。もし死んだ人が出たらちゃんと分隊が責任もって死体を回収して包帯所に引きずってくること。忘れないでね」

 ダークエルフ娘が一息ついてカウンターに置かれた瓶の水をくいと呷る。思い出したように付け足した。

「それとうちの武器庫を開くから必要な人は好きに持って行って頂戴。お代は取らないわ」

 男達の間でどよめきが拡がった。

「いいのか?」

 髪を短く切り揃えた中年の男が訊いた。

「いいのよ」

「姉さん、大赤字ですよ」

 ロラがそっと身を乗り出してダークエルフ娘の耳もとで静かに告げた。

 ダークエルフ娘がひらりと体を返してロラに向き合った。紅い瞳が据わっている。

「わたしはね、前々からあの屋形の連中を綺麗さっぱり消し去りたいって思ってたのよ。あの金髪の孺子が当主になってから色々嫌がらせしてきてるし。それに」

 再び踵をを回して男達に向き直り、大きく手を拡げた。

「誰のおかげでこの町でやくざな稼業をやってられるのか教えてあげないとね」

 男達が一様に含み笑った。

「報酬は金貨五枚よ。みんな年季を積んだ古狸だから心配してないわ。でも心細い人は後でこっそり聞いてね。細かいことは任せるから好きにやっていいわよ」



 商家の離れでワルダーは胡坐をかいて熱心に鋼の太矢を研いでいた。三日前にこの離れから手代を走らせて鍛冶屋に注文した新品の矢だ。周囲には三人の手代が取り囲むように見つめている。

 手代の一人が口を開いた。

「変わった矢を使うのですね。鍛冶屋も首を傾げてましたよ」

 囚人と看守の間柄だが、日を重ねて互いに気安く話すようになっていた。

 確かに普通の矢と違って短く太く、鏃から矢筈まで鋼。しかも矢羽根がなかった。

 研ぎ具合を確かめながらワルダーが答えた。

「北の氷原で使われる矢だ。向こうは年中風が強いから矢羽根は風に流されて十間離れたら当たらない。矢羽根がなくて重くて短い矢じゃないと当たらないのさ」

「細くて長いほうが遠くまで届くのではないですか?」

 ワルダーが顔を上げた。

「矢が飛んでるのを見たことがあるか?」

 手代たちが黙り込んだ。

「長い矢は空中でびよんびよん揺れて撓りながら飛ぶから逆に遠くまで飛ばないし、遠当てしても威力がない。その点こいつは二間先の一寸の杉の板を射貫く」

「でも矢羽根がないのに二間向こうの的に当たるとは思えませんよ」

「だからこうやって新品を丁寧に研ぎ直してるのさ。弩も心を込めて手入れしなければならない。弩ってのは繊細なんだ」

 指の腹で矢の具合を確かめながらワルダーは呟いた。


 ユリアス邸の食堂では夕食が始まろうとしていた。給仕が引いた椅子にエリントがゆっくりと腰を下ろすのを合図に残りの五人も椅子に座った。給仕頭が忍び寄って、牡蠣と海老は河口の港から櫂十六挺の早舟で運んだ新鮮なもの、白甘鯛は近くの海では滅多に獲れない貴重なもの、牛はユリアス邸御用達の牧場が手塩にかけた最高級品、と囁いた。そのあと更に声を潜め、料理人は王宮から引き抜いた超一流とつけ加えた。ユリアス邸の食事にケチはつけさせないと言いたげだった。

 エリントの正面に座るユリアスは正装して、もう手にワインを持っていた。給仕がエリントたちのグラスにワインを注ぐ。精巧な細工が施されたギヤマン製だ。

「いよいよ明日だな。成功を祈って」

 グラスを高く掲げた。

 エリントが形だけグラスを上げると口につけた。ナプキンを片膝に掛けると牛肉を切り分け始めた。

「囮役の猟師の具合は?」

 肉から目を離さず口を開いた。ユリアスが慌てて答える。

「大人しいものだ。事が終われば殺されるのも知らず、毎日熱心に道具の手入れをしているそうだ」

「ふむ……」

 肉を切り終わったエリントはナイフを置いてユリアスに顔を向けた。

「猟をしたことは?」

 何の話だ? ユリアスは怪訝な顔をした。

「私は商人だ。血生臭いことは無縁だ」

「私はある。若い頃だがね」

 肉を口に運びながらエリントが話を続ける。

「ある日、友人数人と馬を駆って鹿猟に出かけた。周りは人が隠れそうなくらいの背の高い草が生い茂っていてね。そこに狼が一頭、じっと蹲っていた。気づいた時には遅かった。馬は竿立ちで落ちないようしがみつくのが精一杯。狼のナイフのような牙が並んだ口が視界一杯に広がった」

 一息ついてワインを一口含んだ。

「その時、ぎゃんと叫んで狼が横倒しになった。両目を一本の矢が貫いていた。見回すと小汚い格好の痩せっぽちな猟師が弩を担いでこちらに向かって歩いていた。その男は一町半先から狼の目を正確に射抜いたんだ」

 じっとユリアスの目を覗き込んだ。

「教訓を含んでいると思わないか?」

 何を答えたらいいのかわからない。さざ波が広がるように主人の当惑が給仕たちに伝染した。

 エリントが短く息を吐いて軽く笑った。

「ワインに酔って喋りすぎたようだ。さあ諸君、食事を楽しもうじゃないか」



「前にも同じようなことを訊いたことがあると思うけど」

 高級な黒革のソファに沈んだダークエルフ娘が気怠そうに言った。

「ほんとうにクロアって娘を知らないのね?」

「前にも同じことを言ったが、そんな娘知らないな」

 向かいに座るカイム・フラドが答えた。

「ま、期待してなかったけどね」

 ダークエルフ娘は懐から取り出した金色の長いパイプに煙草を詰めて火打石で火をつけた。

 ゆっくりと長く煙を吐き出してカイムの背後に目をやった。数人の若衆に混じって侠家らしくない若い男女が立っている。

「見慣れない連れね」

 男は緩やかに波打った銀の髪に丸眼鏡の美形で、裏にビロードを贅沢に使った黒い長衣をゆったりと羽織り、手に魔法輪が並んだ燻し銀の杖を持っている。

 女はつばの広い三角帽、柳腰に乗った巨乳をやたらと胸ぐりの深い黒いドレスで無理に抑え込み、手にはこちらも魔法輪が並ぶ魔法樹の杖。どぎつい口紅が妖艶な笑みに似合う美女だ。

 二人とも絵に描いたような冒険者の魔導士だ。油断なくダークエルフ娘から目を離さない。

「こちらも色々と調べさせてもらった」

 カイムが余裕たっぷりに爽やかに笑った。

「魔導士なんだろう? 別荘を焼いてうちの薬師を殺したのも君だ、ニド。ただの飲み屋の女将じゃないと思ってたよ」

 ニドが興味なさそうに応じた。

「別に宣伝してるわけじゃないわ」

「しかも冒険者組合に入っているとは知らなかった」

「会費も払ってない幽霊会員よ。話すと長いから訳は言わないわよ」

「冒険者組合に問い合わせたよ。君たち姉妹は二級冒険者なんだってね」

「冒険者組合って守秘義務を何だと思ってるのかしら?」

 ニドの愚痴を聞き流してカイムが続けた。

「別荘の焼け具合も調べさせた。君は第一段階の魔法しか使えない」

 後ろの二人を一瞥した。

「この二人はわざわざ冒険者組合から来てもらった一級冒険者だ。第三段階の魔法を使いこなす。しかも君は杖も持ってない。丸腰だ」

 どうだと言わんばかりに両手を軽く広げた。


「銀影のアーシュといいます」「雷姫モニクよ。よろしくね」

 一級冒険者二人がニドを見下ろして名乗った。

「あなたたち自分で名乗ってて恥ずかしくないの?」

「はじめましてニドさん、あなたのことは聞いていますよ。組合の人助けの仕事を色々と邪魔してるそうですね」

 ニドの言葉を無視してアーシュが会釈して切り出した。歯が光ってもおかしくないいい男だ。長衣にはところどころ銀糸の刺繍が入っている。魔法がかかっているのがわかった。

「あら、わたしは荒事で困ってる人を助けてるだけよ」

「それは私たち冒険者組合の仕事よ。けちな兵隊崩れや亜人がやることじゃないわ」

 モニクが口を挟んだ。たわわに実った胸が揺れる。余裕たっぷりにソファのニドを見下した。

 亜人を含む二級市民の跳梁がトランド市政の悩みの種なのは事実だ。それ故に種族間戦争の大いなる和解から百年経った今でも外壁の内側では亜人への蔑視は根強い。

「その台詞はうちに頼みに来る人に言うべきね。それにその話はわたしたち姉妹が組合に冒険者登録することで手打ちしたはずよ」

「しかし報酬の一部を組合に納めていませんよね?」

 アーシュが丸眼鏡をくいと粋に上げた。

「明らかな契約不履行ですよ。ニドさん」

「わたしは人を紹介してるだけよ。冒険者組合みたいに莫迦みたいな値札の手数料とか取ってないもの」

 パイプを弄びながらニドが続ける。

「無報酬なのに上納金なんて払えるわけないじゃない。あなたたちって侠家より阿漕ね」

 黙って聞いていたカイムが思わず噴き出した。アーシュの目がぴくりと震える。もう一度丸眼鏡を上げ直した。

「どちらにせよ組合はあなたたちが組合を約定との破ったと判断しています。つまり敵ということです。ここで殺しても構わないのですよ」

 モニクがニドに微笑みを投げた。

「丸腰のあなたに勝ち目はないわ。杖があっても第一段階魔法しか使えないのに」


「だから?」

 ニドがつまらなさそうに煙を吐き出す。カイムがアーシュとモニクを手で制して割って入った。

「まあ二人とも待て」

 改めてニドに視線を移す。

「この間のようにはいかないよ、ニド。君に勝ち目はない」

「何が言いたいのかしら?」

 カイムが身を乗り出した。

「僕の女になれ。そうすれば冒険者組合とも話をつけてあげるし、君の妹たちの面倒も見てあげよう。店も安泰だ」

「こんな大勢の前で口説くなんて馬鹿じゃないの?」

 ニドがせせら笑った。

「それにその台詞は四度目よ。もう少し捻りの利いた口説き文句はないの?」

「残念だよ。このまま屋形から出すわけにはいかなくなった」

 顔を横に向けた。

「取り押さえろ。殺しても構わない」

 カイムの声を合図に一級冒険者二人が杖を構えて一歩前に出る。

「運よく生きていればゆっくり時間をかけて口説くことにしよう。この屋形はそのための道具に事欠かない」


「あなたたち、いくらで雇われたのか知らないけど赤字よ」

 ニドが二人を見据えてつまらなそうに言った。

「おとなしくしなさい」

 アーシュが杖を掲げる。魔銀の杖の魔法輪が回り、魔力の圧を受けて銀髪がたなびいた。ニドとの間に不可視の壁が展開した。初動で守りを固めるのは魔法戦の基本だ。

「諦めなさい。第三段階の対魔法防御です。第一段階の火魔法では貫けませんよ」

 モニクが余裕の微笑みでニドに声をかける。

「降参しなさい。さもないと酷い目に遭うわよ。誰も私の雷からは逃げられないわ」

 モニクの杖の魔法輪が高速で回り出した。杖の先端に放電が走る。小動物をいたぶり殺す幼児の残虐性を思わせる笑みが浮かぶ。言葉とは裏腹に初手から殺す気だ。


 ニドが右手をすっと上げて人差し指を立てた。次の瞬間、西瓜を割る音がして透き通るようなカイムの笑顔に骨片と肉片と半煮えの脳組織がぶち撒けられた。眼球と鼻梁と丸眼鏡の破片が見えない防壁にぶつかり潰れ赤い筋を引いた。

 血で赤黒く染まったカイムが笑顔のまま凍りつく。あまりの高温にアーシュの頭蓋が弾けたのだ。

 フラド一家始まって以来の切れ者と噂の高いカイムの思考が停止した。

 モニクには笑いを収めるだけの余裕はあった。横を向いて目を見開いて情人の首無しの体が踊るように崩れ落ちる様を見送った。魔法輪が失速する。

「え……?」

 真っ赤な唇から漏れた声がかすれた。振り返るとニドと目が合った。目を合わすのでなかった。ソファに身を沈めたニドの紅い瞳が女魔導士を射貫す。このダークエルフは何か危険な術を使っている。動かなければ。でもどう動けばいいの? モニクの逡巡を見離すようにニドの眼が細く笑った。一呼吸の間もなく雷姫の豊満な体が破裂して笑顔のカイムは頭から臓物をかぶった。高い調度品が血泥で台無しになった。

「まったく、杖とか第三段階の魔法とか、そんなのに頼るようじゃまだまだね」

 パイプをくわえて悠然と呟いた。

「それに喋りすぎ」

 カイムににっこり微笑んだ。でも眼は笑ってない。

「仕掛けるときは黙って仕掛けないと、ね?」

 同意を求める口調にカイムは我に返った。

「待て! 何をした!?」

 ようやく笑顔が消えたカイムが絶叫した。腰が抜けて立てない。惨劇を目にした若衆たちも逃げ腰だ。

「カイム、あなたって色男で頭も切れる。野心も人望もあるし惚れ惚れするくらい貪欲だわ」

 ニドの右の掌に小さな赤い点が浮かび上がる。そのまま掌を上に向ける。細い火柱が一直線に伸びて天井に穴が開いた。

「でもね、顔が嫌いなの」



 ユーコウ商会が買い取った飯屋の二階の片隅でワルダーは弩を抱いて時を待っていた。もう二刻も不惑橋から目を離さない。三人の手代が胡坐をかいて手持無沙汰にワルダーを眺めている。

「よく飽きませんね」

 手代の一人が口を開いた。

「猟師だからな。待つのは得意だ」

「代官が橋を通るまでまだ半刻はありますよ。もう少し寛いだらどうです?」

「寛いでるさ」

 小さく笑った。

「とてもそうは見えませんけどね」

「獲物の通り道も通る時間もわかってる。これで寛がないほうが無理だ」

「せめて何か食べませんか?不知火亭の弁当を持ってきてます」

 ワルダーの前に桐の弁当箱を置いた。

「腹が膨れたら運が痩せる」

「でも朝から何も食べてないじゃないですか」

 少し考え込んだワルダーが橋から目を離して手代たちに顔を向けた。

「そうだな。いただこう」

 その言葉を待っていたように手代たちが自分の弁当箱を広げた。豪華な幕の内だ。結構な値段だろう。


 ワルダーは腰の胴乱から革袋を取り出した。

「何ですか?」

 怪訝そうな顔で手代が訊いた。袋に右手を突っ込みながらワルダーが答える。

「秘蔵の木の実だ。うまいぞ。皆も試すといい」

「へえ」

 小さく歓声が上がった。

「一人でうまいものを食うより皆でうまいものを食ったほうがうまいと言うからな」

 そう言いながら右手を一閃させた。

 胸に打根を立てて手代の一人がゆっくりと後ろに転ぶ。

「何を……」

 立ち上がろうとしたもう一人の胸にも打根が突き刺さる。

「え……?」

 最後の一人は弁当箱を手にしたまま硬直していた。何が起こったのか理解するのに時間がかかった。

 弁当箱を投げ捨てたワルダーがゆっくり立ち上がった。

「大丈夫だ。死にはしない、らしい」

 懐の得物を探る手代の手が止まった。猟師の目に射すくめられて動けない。こんな目をする男だったのか。

「すまない、本当にすまない。こんなことで無ければ仲良くやれたのにな」

 猟師の右手が跳ねるように撓り、最後の手代が泡を吹いて倒れた。


「さて……」

 把手を回して弦を弦受に引っ掛ける。螺旋が切られた遠間用の太矢を填めて弩を構えた。風の匂いを嗅ぐ。

 何度も下見して狙撃点は把握している。

 さあ、仕事を始めよう。



 すっかり冷たくなった秋風の中、大勢の襤褸をまとった男女がカイム・フラドの屋形周りの路上に座り込んでいた。有徳人の施行を当てに食に窮した浮浪が邸宅の前で群れるのは外町では珍しいことではない。むしろ浮浪の数は邸宅の主の高徳を示す物差しでもあった。しかし、今日のフラド城の周囲に屯している浮浪はいつもよりやけに数が多かった。


「合図だよ、ロラ姉さん」

 フラド城の屋根からかすれるような細い火柱が天に上ったのを見てアイカが声をかけた。

「ええ、行きましょう」

 襤褸を投げ捨てて、艶めかしい女体を象った胴の全身被甲鎧に猛禽のような兜をかぶった装甲兵が起き上がった。背負った五尺の大剣の柄に手をかけて櫓門に向かって歩き出す。その後ろを鎖帷子で顔を覆ったケトル兜に板金で補強された鎖鎧、丸盾と戦鎚を持った子供のように小柄な兵、更に無表情な鉄面をはめた頭形兜に小札を縅した黒い魔獣の革鎧を着て杖を持った三人が続く。

 それを合図に幾つもの人影が襤褸の間から立ち上がった。全員が鎧兜に身を固め、めいめいに得物を手にしている。


 櫓の見張りが色めきだった。

「止まれ! 何だお前たちは!」

 大音の若衆が叫んだ。しかし五人は歩みを止めない。まるで死を告げる天使の列だ。櫓の屋根柱に吊るされた半鐘が連打された。

 次の瞬間、空を切り裂く音とともに矢の束が櫓に注ぎ込まれた。櫓の男たちが慌てて頭を下げる。半鐘を打っていた男が征矢を突き立てられ、悲鳴も上げず転げ落ちた。

 矢を追うようにサレットをかぶった装甲兵が駆け出した。黒い面頬をつけて顔はわからない。鎖鎧の上に胸甲に大げさな草摺、手には接舷兵が使うような鉤槍を持っている。スウだ。五人を追い抜くと門柱に向かって跳躍し、二間の高さを駆け上がって櫓に取りついた。ヤモリのように櫓に滑り込む。

 スウが無言で鉤槍を構える。ちらと見下ろすと半鐘を聞いて若衆が剣や槍を手にばらばらと飛び出すのが見えた。相手が一人だと気づいて勢いづいた見張りたちを再び矢が襲う。慌てて見張りたちは板楯の陰に身を竦めた。そこを横薙ぎの鉤槍が襲った。


 ロラが大剣を手にして正門の前に立った。その後ろをアイカとグスタフ、ドーラ、カールが固める。ロラが大剣を上段に構え、無造作に左右の門扉の隙間に打ち下ろした。硬く鈍い音がした。ロラが後ろを振り向いて左手を上げる。門扉の向こうで一尺半の閂が両断されていた。


 二人のオークが地響きを立てて走り寄って左右の門扉に両手を突いた。唸り声を上げ渾身の力で門扉を押す。やや遅れて第一分隊がオークたちの背後で突入の機を伺った。

 門が半ば開いたところで数本の矢がオークを目掛けて飛んだが、魔法の防壁に阻まれて地に落ちた。直後に第一分隊が門の内側に躍り込んだ。

「整列!」

 短い号令とともに瞬く間に楯壁が並んだ。

 後ろでは第二分隊が梯子を掛けて櫓門に取りついていた。弓を背負い、剣を抜いて櫓に飛び込む。しかし既に櫓の中は血の海だった。生者はスウ一人だけ。

「おそーい」

 返り血に染まったスウが不平を鳴らした。第二分隊の男達はスウを無視して再び弓を構え庭の人影を狙う。


 下では第三分隊と第四分隊が楯壁の翼から庭に雪崩れ込んでいた。掛矢を手にした第五分隊がロラたちと共に楯壁の後ろで待機している。ロラが屋形に目をやった。三階建ての豪邸で情報通り一階の窓という窓に鉄格子が嵌められている。流石に喧嘩慣れした侠家の邸宅だ。窓からの突入は無理だ。二階からの突入や裏口を探していては時間がかかりすぎる。

 全員が突入したのを確認したロラが告げる。

「門を閉めてください。その後五分隊は玄関口を確保。一分隊は五分隊を掩護してください」

 アイカに振り返る。

「アイカたちは玄関口の前の広場で包帯所を開いて」

「うん」

 アイカが頷いた。


 庭は一方的な殺戮だった。平服の侠家と完全武装の装甲兵では勝負にならない。たちまち侠家たちは庭の隅に追い詰められ、そこに無慈悲な剣槍が襲い掛かった。悲鳴と怒号が飛び交った。突入から庭に出た侠家全員が殺されるまで四半刻もかからなかった。



 不惑橋では行軍の軍則通り先触れの軽騎兵が軽装の歩兵十ばかりを率いて到着していた。橋を渡った騎兵が音声を発して通行人たちを散らす。矛槍を手にした歩兵たちが立哨のように周囲を警戒している。

 あえて高い射点を占めたから見晴らしはいい。少し離れた裏通りには随所に薦を被った人影が幾つも蹲っている。フラド一家が手配した乞胸たちだ。ワルダーは視線を動かしてユーコウ商会が雇ったという射手を探した。予想通りだった。射手は自分が狙撃されるとは予想しない。鐘楼に一人、左の平屋の屋根に一人、右の厩の影に一人、向こうの建屋の窓に一人、ワルダーの一の矢を待っているのだろう。残り二人はわからない。死角にいるのか後方で備えているのか。仕方ない。最初から全ての射手を捕捉できるとは思っていなかった。

 撃つ順番を決める。高い位置にいる射手からだ。射手が標的に気を集めている隙に一人ずつ殺す。


 やがて大きな輓馬四頭に牽かれた黒塗りの豪勢な馬車がやってきた。馬車の前に騎兵が三騎、後ろに四騎、その後ろに歩兵隊が続く。最後尾の数台の荷馬車は輜重だろう。

 代官が乗った馬車が騎兵に先導されて橋をゆっくりと渡る。重量級の馬車の重みで橋が軋み声を上げた。後ろの騎兵の一人が右手を上げて兵たちを止める。全員で渡れば橋が落ちかねない。

 ようやく馬車が橋を渡り切った瞬間、辻々から掛け声が沸き上がった。

「お頼み申す! お頼み申す!」

 大勢の乞胸たちが裏通りから湧き出てきた。薦を深くかぶり、上半身が水平になるまで腰を折り曲げ、地面から目を離さず膝を曲げた摺り足の歩法で哀訴しながら馬車に歩み寄る。兵たちは逡巡した。これは軍旅ではない。喫緊の事情でもない限り、作法に則って哀願する物乞いを拒むのは無法とされている。

 乞胸たちは戸惑う兵たちの間をすり抜けて馬車を取り囲むと、跪いて薦を丸めて左に置き、両の拳でほたほたと胸を叩いて馬車を見上げた。

「お頼み申す! お頼み申す!」

 馬車の扉が開き、礼服を着た中年の男が顔を出した。顔を見せねば後々物笑いの種になる。乞胸たちが歓声を上げ一斉に平伏した。代官がゆっくりと右手を上げて慈愛に満ちた眼差しを乞胸たちに向ける。


 代官が顔を晒す直前にワルダーは最初の矢を放っていた。距離は二町。螺旋を切った遠間用の太矢が鐘楼の射手の首を射抜いた。射手が弩を構えたままうなだれる。ワルダーは弩を構えたまま右手で把手を握った。十分に油を差した把手が滑らかに回る。急いてはならぬ。息を乱せば獲物に気取られる。この獲物は逃がすわけにはいかない。

 平屋の屋根の射手に狙いをつける。まだ気づかれていない。息を止めてゆっくり引鉄を絞った。こめかみを射貫かれて屋根の射手が即死した。しかし死の間際に右手が本能に従って引鉄を握り、手にした弩から矢が飛んで馬車の御者台に深々と突き刺さった。刹那の沈黙の後、車内の護衛の手が伸び代官が引きずり込まれるように馬車の中に消えた。直後に四本の矢が馬車に突き刺さる。見物していた通行人と乞胸たちが悲鳴を上げて逃げ散った。

 先触れの騎兵が叫ぶ。御者が鞭をくれ馬車が逃げる乞胸たちを押しのけて飛び出した。後を追って歩兵たちが駆け出した。向う岸で待機していた騎兵が異変を察して駆け出し、遅れじと歩兵たちが橋を駆け抜けようとしている。


 その頃には飯屋の二階にワルダーの姿はなかった。仕損じたと悟った次の瞬間にはもう弩を担いで立ち上がり、壁に空いた大穴に飛び込んだ。しかし飛び降りなかった。下の裏道にはフラド一家の若衆が十人は待ち構えている。穴から跳躍したワルダーは隣家の二階の窓にしがみつき、そのまま中に転げ込んだ。逃げ道は確保している。



 エリントは裏辻で不機嫌そうに佇んでいた。その後ろに三人の部下が無言で立っている。

「つまり、猟師が裏切ったということか?」

 目の前に立つフラド一家の若衆頭に訊いた。

「恐らく。ユーコウ商会の三人は伸びてました。死んではいません。猟師は消えました」

 エリントがゆっくりと若衆頭を値踏みした。フラド一家の前線指揮官だけあって若いが貫禄がある。後ろには伝令役の若衆が何人か控えている。

「失敗です。代官の生死は不明。我々は撤収します。護衛を出しますのでエリントさんはユーコウ商会にお戻りを」

「馬鹿かお前?」

 エリントが若衆頭を睨め上げた。

「猟師はこちらの事情を知ってる。恐れながらと駆け込まれたらどうする?」

「しかしこの状況で探すのは無理です」

「今ここに兵隊は何人いる?」

「地回りも含めて三十人です」

「全員走らせろ。顔も服も割れてる。おまけに弩を担いでる。その気になればすぐ見つかるはずだ」

「弩は目立ちます。途中で捨てるのでは?」

「お前は射手という生き物をわかってない。死ぬまで手離せるものか」

「なるほど、得心しました」

「奴はこの街に詳しくない。しかも追われてる。細かい裏道など知らんだろう。この騒ぎで大通りには警邏が出張ってる。人通りが少なく広い道路を探せ」

 若衆頭が頷いた。

「急げ、侠家の情報網の真価を見せろ。邪魔なら警邏も殺せ。猟師を見つけないと我々全員が縛り首だぞ」

「へえ」

 若衆頭が手を膝につけて頭を下げた。

 その頭を無表情に見下ろしたエリントはふいに踵を返して歩き出した。

部下たちが後に続く。

「どちらへ?」

 若衆頭がエリントの背中に声をかけた。

「少し心当たりがある。貴様も十人ほど連れてついてこい」


 橋の騒ぎから一刻半、ワルダーは立ち並ぶあばら家の間の道をとぼとぼ歩いていた。背中に吊った弩は布で包んでいる。あの後、迂回に迂回を重ねてやっとこの区画に入り込んだのだ。この区画は二年前に疫病が流行って住民が逃げ出し、今は野良犬か薬の売人くらいしか近寄らない。あしか亭のだいたいの位置はわかっている。外壁の南門に通じる大路沿いにあるとスウから聞いていた。時間はかかるがこの経路が一番安全なはずだ。店に辿り着けばなんとかなる。


 ふとワルダーの足が止まった。前方に気配を感じた。弩を担って布を解いて左側のあばら家に身を寄せた。ばらばらと人影が現れた。距離は四町。

 なんという迂闊。慎重に動きすぎたせいで先回りされたのだ。来た道を引き返すかこのまま迎え撃つか迷った。駄目だ。こうして捕捉された上は逃げられない。ワルダーは矢筒から太矢を取り出した。


 大当たりだ。エリントがほくそ笑んだ。左手を上げて前に倒す。部下が歩調を上げてエリントの横に並んだ。四人が悠々と歩きながら弩の把手を回し矢を番える。フラド一家の若衆頭たちが一瞬躊躇して足を止めた。

「安心しろ。この距離では当たらん。黙ってついてこい」

 後ろに声をかけた直後に部下の一人が跳ねるように後ろに倒れた。

 眉間に矢羽根のない異様な矢が立っていた。

 咄嗟にあばら家の戸を体当たりで破って転がり込んだ。目測でまだ三町半はある。フラド一家の若衆たちが悲鳴を上げて軒下に逃げ込んだ。

 なんだあの矢は? エリントは心の中で呻いた。魔法もかかっていない普通の矢がここまで届くとは。



「負傷者は?」

 固く閉ざされた玄関に掛矢を使う第五分隊から目を離さずロラが訊いた。周囲にそれぞれの分隊長とスウとアイカが集まっている。

「三人、全員軽傷でポーションで回復してるよ」

 アイカが答えた。

「ここまでは順調ね」

「でも変だよ。二階や三階の窓から射かけてこない」

「きっと門でグスタフたちが防壁を張ったから無駄だと思ってるのね。敵にも分別があるのがいるみたい。室内戦に備えて温存してるはずよ」

 つまりまだ敵は組織的な戦闘力を喪っていないのね。厄介だわ。

 振り返ると兜の面甲を上げて全員を見渡した。

「突入口は一本しかありません。仕寄りの手順を修正します。二分隊は櫓に三人立てて残りは包帯所の警護、外に出てきた敵の対処もお願いします」

「応」

 第二分隊長のエルフが応じた。

「残りは突入します。順番は建制順、途中の部屋の制圧は各分隊毎交代。まず一階を抑えてから地下室、二階の順番に制圧。分岐点の確保はその都度指示します。囚われている娘さんを確保したら包帯所に収容。先頭は私が立ちます」

「待ってくれ、ロラさん」

 第一分隊長のドワーフが口を挟んだ。

「女のロラさんに先頭を任せるわけにはいかない。俺たちに恥をかかせる気か?」

 ロラの涼しげな眼がにっこり笑う。

「大丈夫です。こういうことは慣れてますので。でも危ないときは助けてくださいね?」

 なおも抗議しようとする第一分隊長をロラが手で制した。

「ごめんなさい。でも相手は弓を持ってます。頑丈な鎧の私が先頭じゃないと駄目なんです。わかってください」

 第一分隊長が黙り込んだ。

 もう一度全員を見回した。

「言うまでもないことですけど、各分隊は楯を持った人を先頭に、魔導士を二番目に立ててください。あと、長柄の人は短い得物に持ち替えてくださいね」

「あの、わたしは?」

 スウが手を挙げた。

「あなたは後詰よ、アイカたちと一緒に包帯所で待ってて。必要なら呼ぶから」

「えー」

 スウが抗議の声を上げる。その口をロラが人差し指を立てて塞いだ。

「あなたにはまだ仕事が残ってるでしょう? おとなしくここで待ってて」

「むー」

 ロラがアイカに顔を向ける。

「アイカ、スウの面倒をよろしくね」

「うん」

「それではみなさん、掛かってください」

 分隊長が分散して待機しているそれぞれの分隊のもとに駆け出した。

 ロラと第五分隊長が玄関に向かって歩き出した。


「どうです?」

 玄関にやってきたロラが掛矢を振るうビーストマンに訊いた。

 ビーストマンが手を休めて振り返った。

「この扉は手強いぜ、ロラの姐さん。鉄板仕込みで蝶番が内側にある。鉄の閂を掛けて、おまけに大勢で押してるみたいだ。もう少し時間がかかる」

「いっそ魔法で吹き飛ばすか?」

 第五分隊長のリザードマンが提案した。

「それも難しいぞ、どうやら対魔法防御が掛かってる。跳ね返されてこちらに怪我人が出るかも」

 後ろには用意が整った分隊が集まってきていた。

 ロラは黙って玄関の前に立った。

「姐さん……」

 ビーストマンが声を掛けようとして途中で止めた。その声に第五分隊の面々が手を止めてロラを見つめる。

 ロラは右足を大きく上げると鉄靴の靴底で扉を蹴りつけた。金属特有の甲高い破壊音がして扉が吹き飛ばされるように開いた。閂鎹が外れ、扉を押さえていた家具と数人の若衆が弾き飛ばされて廊下に転がる。

「え……」

 リザードマンとビーストマンが呆気にとられてロラを見つめた。

 二人に顔を向けてロラが恥ずかしそうに微笑んだ。

「ごめんなさい……、一度こういうことをやってみたかったんです……」

 面甲を下して大剣を右肩に担ぐとロラが敷居を大きく跨いだ。

 すかさず奥から矢が三本飛んできた。

 ロラが左手の分厚い鉄籠手で一本を弾き飛ばす。残り二本は鎧の装甲に浅い角度で当たって金属音を残して弾かれた。ロラが背を屈めて左手を床に突く。そのすぐ上を短い光箭が二本、奥に伸びた。第一分隊の魔導士が放った魔法矢だ。奥から悲鳴が届いた。

「一気に距離を詰めます」

 立ち上がったロラが小走りに駆け出した。男達がその後を追って玄関口から突入した。



「元締め! 大変です!」

 中年の侠家が扉を開けてニドとカイムが座る奥座敷に飛び込んできて言葉を呑んだ。

 奥座敷の血の海を見て目を見開いた。言葉が続かない。

 扉が開いたことで、中の若衆たちが我慢していた悲鳴を上げて我先に逃げ出そうと扉に向かって駆け出した。

 ニドが左手をかざす。指先から何本も細く赤い光の線が伸びた。扉に殺到した侠家たちが縦横に切り裂かれ、巻き添えで扉が灼き切られた。

 カイムがその光景を茫然と見つめた。

「貴様……」

 ようやく精神が回復したのか、血まみれのカイムがニドを睨みつけた。流石は百年の伝統を背負うフラド一家を束ねる男だ。頭から血をかぶった間抜けな恰好なのに大層な凄味だ。


「あなた、わたしをこのまま出すわけにはいかないって言ったわよね」

 ソファの感触に身を預けながらニドが優しく笑った。

「わたしもあなたたちをここから出すわけにはいかないの」

 やがて庭の剣戟と怒号はニドとカイムが座る二階の奥座敷にも聞こえてきた。

「なんだ?」

「抗議団体よ」

 ニドがパイプを吹かしながら答えた。カイムは頭の中で様々な思惑を必死に巡らす。どうすればこの局面を切り抜けられる?この女はまだ自分を殺してない。殺せない事情があるのだ。ならまだ交渉の余地はある。うまくやればこの女を出し抜けるかもしれない。

「何が望みだ?」

「最初に言ったでしょ?クロアって娘を出して」

「あんな娘一人のためにここまでするのか?」

「ここまでするのよ」

「気が狂ってるのか?」

「失礼ね。うちに手を出すなって先代から言われてたでしょう?」

 カイムは答えない。必死でニドの思考の隙を窺う。

「あなたのお父さんは下品で欲張りだったけど、ちゃんと弁えてたわよ」

「これには事情がある」

「へえ……」

 興味を示した。カイムは心の中でほくそ笑んだ。舌技には自信がある。丸め込んでやる。

「今日、代官がやってくる。六十年も空席だったのにだ。何故だかわかるかい?」

「続けて」

 ニドは答えず先を促した。答えないのは知らないからだ。馬鹿女め。カイムは僅かに優位を感じた。

「王宮は商人が治めるこの街を支配しようとしているんだ。商売は制限され、重い税が課せられる。帝国を見ろ。帝国では皇帝が貴族や都市の権利を奪おうとして国中で相争っている。ここがそうなってもいいのかい?」

 もういいわ、と言うようにニドが退屈そうに煙を吐き出した。

「あなたってお役人によくいる頭の切れる馬鹿ね」

「え」

 予想外の反応にカイムは戸惑った。

「要は利権を守りたいだけでしょう?」

「君たちも圧政の犠牲になるんだぞ。店を続けらなくなるかも……」

「そんなの女の子を泣かせていい理由にはならないわ」

 カイムを見据えた瞳が冷たい。

「娘さんはどこにいるの?」

 剣騒の音が大きくなってきた。屋内で斬り合いが始まったようだった。

「二階の客間だ! 指一本触れてない! 外の連中を止めてくれ!」

 カイムが絶叫した。

「地下の拷問室じゃなくてよかった。前に一人責め殺されてるから気が気じゃなかったのよ。運がよかったわね」

 開け放たれた扉の向こうから大勢の足音と金属の触れ合う音が聞こえてきた。

「でも遅かったわ」


 全身被甲の板金鎧を先頭に二十名程の装甲兵が姿を現した。全員が返り血で朱に染まっている。

 扉の死体の山を器用に避けながら奥座敷に入ってくると、先頭の板金鎧の装甲兵が面甲を上げた。白い肌に切れ長で涼やかな二重の眼の娘の顔が現れた。血まみれの死体をつまらなそうに一瞥してニドに声をかけた。

「お待たせしました、姉さん。クロアさんは確保しました。無事です。護衛をつけて包帯所にお送りしてます。こちらの損害は八、全員軽傷で治療も済んでます。後遺症も無し」

「ご苦労様」

 ニドがロラを見上げて微笑んだ。

「派手にやりましたね」

 部屋の死体を見回して呆れたように言った。

「私は知らないわよ。仲間割れでもしたんじゃないの?」

「ええ、そうでしょうとも」

 ロラが苦笑した。

「敵は?」

「はい、全員殺しました」

 カイムが立ち上がった。

「全員殺しただと!?」

「はい。あなた以外は全員」

 ロラが澄ました顔で平然と答えた。

 カイムが絶句する。怒りで言葉が出ない。

「前に言ったでしょ? 潰すのは一日で十分って」

「貴様ら……、貴様ら……」

 装甲兵たちがカイムを取り囲む。

「あーもう殺っちゃって」

 ニドの言葉に周囲の装甲兵が無言でカイムに剣を突き立てた。滅多刺しされたカイムが天を仰いで絶叫を上げ、そのまま崩れ落ちて死者の列に加わった。

「あ、そうそう、そこに杖が二本転がってるから拾っておいて。値打ちものみたいよ」



「みんな無事でよかったわ」

 庭に出たニドが男達に声をかけた。

「たった一人で中で待ってたから本当に心細かったのよ」

 一同から笑い声が上がった。

「みんなの力添えのお陰でクロアさんも無事だし、たいした怪我人も出なかったし、本当に感謝してるわ」

 アイカたちに付き添われたクロアが皆に向かって深々と頭を下げた。

 ニドは戦いの後始末をする男達の間を歩きながら声をかけたり返り血も気にせず抱き着いたり忙しい。

 一通り回ってからニドがもう一度皆を見回した。

「お店に帰りましょうか。お風呂も食事も用意するからゆっくりしていってね」

 すっとロラがニドの横に歩み寄って耳打ちした。

「姉さん、櫓に立てた見張りから報告です。門の外に武装した集団がいます。数は八十程」

「おとなしく帰してくれないわけね」

「どうします?」

「任せて、察しはついてるわ。見張りも降ろして」


 一行がフラド城の正門を開けたとき、大勢の男女が門の外で待ち構えていた。全員が武装している。顔見知りは一人もいないが一目でわかった。冒険者だ。

 門を挟んで二つの集団が三十歩の間合いで対峙する。遠巻きに野次馬が大勢見つめている。

「ニド姉、あいつら……」

 舌なめずりしたスウがニドの横に寄った。

「黙って」

 ニドが冒険者から目を離さず呟いた。冒険者たちの敵意を感じて男達が僅かに緊張する。


 冒険者たちの中から男が前に出た。ハリネズミのような赤い髪に赤光りした刺々しい造りの派手な鎧を着た若い男だ。お手本のような一枚目な顔。腰の剣の柄も鞘も無駄に装飾が激しい。魔法の鎧に魔法の剣だろう。他にも呪符やら魔法の護符やら仕込んでるはずだ。

「俺はトランド市冒険者組合所属のパーティ『天駆ける狼』のリーダー、特級冒険者の『紅蓮の炎』マグロードだ!」

 大声で名乗りを上げた。

「ほんとうに自分で言ってて恥ずかしくないのかしら?」

 独白しながらニドが一歩前に出る。左右をロラとスウが固めた。

「わたしたちは……」

 ニドの言葉を遮るようにマグロードが機先を制した。

「お前たちのことは知っている。冒険者パーティ『ニド以下七名』の二級冒険者ニド、横の二人は同じくロラとスウだな」

「むー」

 言葉を遮られてニドが小さく唸る。

「初めて聞きました。手続きはお任せしましたけど、何ですかそのやる気のない名前は? もう少し気の利いた名前はなかったのですか?」

 眉を顰めたロラが落胆した口調で詰った。

「わたしも常々ニド姉には文学的な感性が足りないって思ってたよ」

 スウが仏頂面でこぼした。

「いいじゃない……、どうせ使わない名前なんだし……」

 ニドが目を伏せて力なく弁解した。


「何をごちゃごちゃ相談してる! この有様は何だ! 説明しろ!」

 マグロードの怒声にニドが勢い込んで更に二歩大股で前に出た。

「あ、逃げた」

「後でちゃんと説明して貰いますからね」

 ロラが釘を刺した。

 二人の抗議を背に受けてニドは手を腰に当ててマグロードと対峙する。

「わたしたちはかどわかされた娘さんを助けただけよ」

 アイカたちに守られるように蒼ざめたクロアが立ち、その周りで男達が守りを固めている。

「その娘の身柄はこちらで引き取る。お前たちは武装を解除して事情を聞かせてもらおう」

「いつから冒険者組合にそんな真似が許されるようになったのかしら?」

「黙れ! 人々の日々の暮らしを脅かす悪行を糺すのも冒険者の役目だ」

「でも警邏の一人も現れてないわよ?」

「今日着任した代官が狙撃されて治安局は対応に手一杯だ。故に俺たちが押し出したのだ」

 ニドが鼻で笑う。

「本当にお馬鹿さんね。治安局が来ない理由は、ちゃんと話がついてるからよ」

「そんなはずは……」

「治安局の局長さんに聞いてみなさい。街の掃除になるから大いにやってくれって言ってたわよ」

「虚仮を言うな! 白昼人を殺しておいて認められる筈がない!」

 ニドはマグロードの後ろの冒険者に目をやった。敵意は見えるが戦意は感じられない。フラド城の異変を察した組合が慌てて手空きの冒険者を緊急招集した寄せ集めだろう。

 ニドが右手を高く挙げた。開いた掌が拳を作る。

 男達の中から鋭い声が上がった。

「整列!」

 楯を持った男達が楯壁を組み、両翼に魔導士と弓兵が、さらにその外側に長柄を持った男達が並んだ。一番後ろでアイカとグスタフたちがクロアを守って半円陣を組んだ。


 冒険者の間に動揺が走るのが目に見えてわかった。個人や少人数の戦闘には慣れていても集団戦闘の経験を持つ者はほとんどいない。

「なッ……!」

 マグロードが腰の剣に手をかける。

「あなた、人々の日々の暮らしを守るのも冒険者の役目って言ったわね」

 ニドの紅い瞳ががマグロードを見据える。

「フラド一家の猖獗を知らなかったというの? 違法な薬を売り、女をさらって薬漬けにして女郎に堕としてるのを知らなかったと?」

 アイカたちに囲まれたクロアを指さした。

「あの娘さんがさらわれたのを知らなかったと?」

 ロラに振り返った。

「さっきの杖を持ってきて」

 ロラが左手を上げて後ろに合図する。アイカが杖を二本抱えて走り寄ってきた。

「ありがとう、アイカ」

 礼を言って受け取ると、その二本をマグロードの前に投げ捨てた。二本ともまだ血がこびりついている。

「その二本の持ち主は娘さんを助けようとした私たちを邪魔した一級冒険者よ。あなたたちの中にも見覚えのある人がいるでしょ?」

 ニドが冒険者たちを睨回した。

「役目というならフラド一家の悪行を断罪するのが務め。そんなあなたたちとこれ以上話すことはないわ」

 腰に手を当ててマグロードに向き直って一喝した。

「そこ、どきなさい!」

 マグロードの返事を待たず後ろを振り返る。

「行くわよ」

 その声を受けて号令が飛んだ。

「行進隊形!」

 クロアとアイカ達を中央に置いて四列縦隊が組み上がる。後ろを振り向くことなくニドが黙って歩き出した。同時に縦隊が歩調を合わせて動き出す。思わずマグロードがたたらを踏んで道を譲った。それを合図のように冒険者の集団が二つに割れた。その中を縦隊が無言で通り過ぎた。


 しばらくしてスウがニドに声をかけた。

「うまくいったね、ニド姉」

「本当にハッタリだけは得意なんですね、姉さん」

 ロラが澄まし顔で呟く。

「あら、私は本気だったわよ? 今日はあいつらも皆殺しにして構わない気分だったんだから」

 ロラが呆れてため息をついた。

 ニドがスウに顔を向ける。

「そんなことより、スウ、ワルダーさんを迎えに行かなくていいの?」

「うん、もう行っていい?」

「早く行きなさい。場所わかってるの?」

「ワルダーの匂いはよく知ってるから大丈夫」

 面頬をつけながらスウが答えた。

「なら急いで。ワルダーさんに何かあったら私たちの努力が水の泡よ」

「わかった、いざとなったら脱いでいい?」

「それは最後の手段だから、ちゃんと人目のないところでするのよ。野次馬が見てたら駄目。いざとなったらワルダーさんを担いで店まで走りなさい」

「大丈夫、任せて」

 そう言い残すと列を離れて跳ね飛ぶように走り去った。その後ろ姿を眺めながらニドがげんなりした顔で言った。

「やれやれ、帰ったらお風呂の準備とか食事の用意とか大変だわ。ロラ、食材の買い置きって大丈夫だった?」

「大丈夫ですよ、姉さんは皆さんのお相手しててください。それに」

 ロラがにっこり笑った。

「私はそっちのほうが楽しいんです」



 このままでは埒が明かない。エリントは苛ついていた。

 路上には部下の一人の他にフラド一家の若衆三人の死体が転がっている。

 この距離では撃ててもせいぜい二本、こっちは十一人いる。そう励まして送り出した。板壁を剥がした即席の楯は用をなさなかった。楯を貫いた太矢はそれを持っていた若衆の頭を貫通して後ろを続く若衆の首に突き立った。あれを見て侠家たちは完全に怯えてしまっている。仲間を呼びに行こうと飛び出した若衆は背中を射られてさっきまで路上で呻いていた。今はもうおとなしくなっている。増援は当てに出来ない。


 猟師のほうを見やった。物陰に隠れているのだろう。姿は見えないが視線は感じる。狼を仕留めた猟師の乾いた目を思い出した。

「もう一度やるぞ」

 道路の反対側に蹲る若衆頭に声をかけた。

「無理です! あいつの腕を見たでしょう?」

 悲鳴のような拒絶の声。

「このままでは釘付けだ。次は我らも駆ける。二町まで近づけば射止めてやる」

 若衆頭が黙り込んだ。

「それでも侠を稼業にしている男か? 覚悟を決めろ! それともここで撃たれたいか?」

 一喝されて若衆たちがのろのろ動き出す。這うように路上に出てきた。

「楯は持つな。足が遅くなるだけだ。横一列になって駆けろ」

 エリントが指示を飛ばす。

「走れ!」

 エリントの怒声とともに侠家たちが喚きながら駆け出した。その後ろをエリントたち三人が続く。


 侠家たちが突撃を始めたのはワルダーからもよく見えた。数は十一。さっきと違って横一列になって全速力で駆けてくる。これは助からないかもしれない。自分の頭のどこかで冷静な声が響いた。しかし撃たないわけにはいかない。迷わず引鉄を落とす。狙い違わず鋼の太矢が中央を走っていた侠家の喉元に吸い込まれた。それを見届ける前に次の矢のために右手が猟師の本能に従って機械的に把手を回していた。


「今だ! 走れ! 走れ!」

 若衆頭が高転びに倒れたのを見たエリントは侠家たちを励ました。ちらと視界の端で若衆頭を見やる。即死だ。侠家にしては惜しい男だった。しかし今は感傷に浸っている暇はない。猟師を殺してからやればいい。あと三町足らず。もう少しだ。時間が泥のように重い。


 もうすぐ距離を二町に詰めようとしたとき、猟師が弩に矢を番えようとしているのが見えた。素晴らしい速さと動きだ。殺すのは惜しい。しかし殺す。

「伏せろ!」

 エリントの叫びとともに全員が地面に頭から滑り込んだ。猟師の狼狽が手に取るようにわかった。

 エリントと三人の伏せたまま弩を構えた。上がった息を上半身の筋肉で抑え込む。猟師が弩を構えるのが見えた。ほとんど同時に三人が必殺の矢を送り込んだ。


 エリントたちのほうが一瞬早かった。三人が放った三本の矢のうち、一本は猟師の頭上を飛び去り、一本は猟師の手前の地面で跳ねてどこかに行った。最後の一本は猟師の右肩を深々と貫き、血に濡れた凶悪な平根鏃が肩甲骨を割って背中から突き出した。その衝撃で猟師の撃った矢は狙いを大きく外れてあばら家の柱に突き刺さった。 


 エリントが立ち上がり、部下が立ち上がり、若衆たちが恐る恐る立ち上がった。エリントは満足げに微笑んだ。もう矢は必要ない。あとは侠家たちが猟師を嬲り殺す。血の復讐への期待から若衆たちが凶悪な笑みを浮かべて猟師に向かって歩き出した。猟師は肩を抑えて横倒しに倒れたまま動かない。耳に心地よいかすれた悲鳴。エリントは我慢しきれず声を上げて笑おうとした。


 その時、大きな影が秋風に煽られるように降りてきた。庇が後ろに長く伸びた兜を被り、鎖帷子の上に胸甲、腰から膝下まで大きく張り出した草摺で覆った装甲兵が鉤のついた槍を右手に構え、腰を落としてエリントたちと猟師の間に立った。

 侠家たちの動きが止まる。

 返り血で汚れた装甲兵は見得を切るようにゆっくりと首を回し、猟師を認めると左手で面頬を毟り取って投げ捨てた。くいと左の親指で兜の前を上げる。小麦色の女の貌が現れた。

「ワルダー、大丈夫? じゃないよね」

「スウか……? なんて恰好をしてやがる……」

 荒い息の下でワルダーが答えた。

「頑張ったね。後は任せて」

「やめろ……、逃げろ……」

 相手は十人だ。しかも鎧を簡単に貫く弩の射手が三人。分が悪すぎる。

「傷に触るから黙ってて」

 そう言い捨てると侠家たちに向き直り、右手で槍を構えながら左手で胸甲の留め金を外し、油断なく鎧を脱ぎ始めた。


 エリントはしばらく状況を理解できなかった。部下たちも侠家たちもそうだったろう。猟師に止めを刺す寸前に完全武装の若い女が屋根から飛び降りてきて、何故か鎧を脱ぎ始めたのだ。気が触れているのか?

「お嬢さん、どういう積りだ?」

 からかうように問い掛けた。莫迦々々しくて笑いが込み上げてきた。しかし右手は把手を回して弦を引くのを忘れなかった。部下たちも同じだ。想定外の事態に本能が次の矢の用意を促していた。

 小麦色の肌の女は鎧を脱ぎ捨て、兜を脱ぎ、ブーツを脱いで裸足で鎧下だけになった。それでも女は脱ぐのをやめない。槍を捨てて鎧下を脱ぎ、最後に下着まで脱ぎ捨てた。突き抜けそうな秋空の下、見事に盛り上がった乳房が転がり出た。引き締まった腰からしなやかに伸びる筋肉質の脚、無毛の股間が秋の風に晒される。金髪が風を受けてかすかに揺れた。

 侠家たちが好色な笑いを浮かべた。

「まさかこんなところで裸踊りを拝めるとはね」

 エリントが我慢しきれず笑い出した。伝染して全員が笑い出す。

 ワルダーも理解できない光景に痛みも忘れた。ただ呆然とスウの形のいい尻を眺めていた。

「着たままだとロラ姉に怒られるからね」

 スウが事も無げに呟いた。すっと眼を閉じて顎を軽く引く。

 そして、スウの体が膨張した。


 小麦色の娘の体が膨れ上がった。体中から噴き出るように生えた体毛はまるで橙色の棘だ。肩が拡がりそこから破城槌のような腕が伸び、指先から牛刀のような爪が滑り出た。ゆっくりとスウが顔を上げた。その顔は人間のそれではなかった。一対の突き出た耳、吊り上がり耳の下まで拡がった巨眼、金床のような顎、引き裂かれたように大きい口吻の中で巨大な牙が墓石のように並ぶ。前屈みの姿勢なのに背は十尺を超える。その姿はまるで二本足の橙色の虎。いや、もっとおぞましく凶悪だった。どす黒く濁った赤い眼がエリントたちを睥睨した。毛むくじゃらの貌の真ん中で口か歪んだ。多分笑ったのだ。エリントの笑いが消し飛んだ。


「……ライカンスロープ……か?」

 エリントが呻いた。先の大戦で絶滅したとされている呪われた伝説の魔獣。その眼光に射すくめられて若衆たちは動けない。

「うーん、ちょっと違うけどね」

 魔獣がスウの声で答えた。三尺はありそうな尻尾をくるくる回す。

「ワルダー、ちょっと待ってて。すぐ片付けるから」

 エリントたちから眼を離さずワルダーに声をかけた。

「はい……」

 ワルダーはそう答えるのが精一杯。

 魔獣が隙を作ったと思ったエリントの部下が弩の引鉄を引いた。至近距離だ。外しようがない。矢は見事に魔獣の眉間に当たってぽとりと落ちた。

「無駄だよ」

「目だ! 目を狙え!」

 エリントの叫びに急かされるようにもう一人の部下が撃った。どんなに靭強な魔獣でも目は弱点だ。

 しかし矢は魔獣の眼球に弾かれて明後日に飛んで行った。

「もう一度言うね? 無駄だって。そういうのは対策済みなんだ」

 魔獣が一歩前に出た。

「貴様……、何者なんだ……?」

 エリントが弩を構えて立ち尽くした。どこを狙えばこいつは死ぬんだ?

「全員殺すね」

 質問を無視して魔獣が宣言した。

「逃げちゃ駄目だよ、逃げたら殺すからね」

 言い終わらないうちに魔獣が跳躍した。逃げる暇も泣き叫ぶ間もなかった。十数えないうちにエリントたち三人とフラド一家の若衆七人は皆殺しにされた。


「ぷう」

 血と人間の体の部品が散らばる中で魔獣が殺戮に堪能したようにため息をついた。その体がみるみる縮む。ワルダーを振り返ったときはもうそこに立っているのはスウだった。橙色の針金のような体毛が抜け落ち、刈り取られた麦藁のように積み上がった。全裸のスウが血溜まりをぺたぺた歩いてワルダーの目の前で尻を落として屈みこんだ。助かった安堵より先に目のやり場に困った。

「大丈夫?今から矢を抜いてあげる」

「いや、その前に何か着てくれないか」

 思い出した痛みに顔をしかめながらワルダーが答えた。

「んもー、山の湯でも見たくせに」

 それとこれとは話が違う。せめて脚は閉じて。

 スウは手をワルダーの背中に回して突き出た鏃を根元から折ると、もう片方の手で無頓着に矢を引き抜いた。

 覚悟する猶予も許されなかった。

 肉を引きずられる激痛に体がのけ反る。あまりの痛みに声も出ない。物凄い勢いで血が噴き出した。苦痛を食い縛る口に無造作に封を切ったポーションの瓶が押し付けられた。

「飲める?」

 がさつに問う。痛みで文句も言えない。

「無理なら優しく口移しで飲ませてあげようか? 裸の娘に抱き締められて口移しなんて滅多にない経験だよ。後でクロアさんにも教えてあげよう」

 この女はやりかねない。クロアの顔を思い出した。あの顔を泣かせてはならない。そう思い込んで死ぬ思いで飲み下した。



 二刻ほど後、外町の通りをワルダーとスウが夕日を浴びて歩いていた。スウの鉤槍を二人でもっこ担ぎにして大きな袋を運んでいる。スウがどこかから手に入れてきた袋だ。中身はスウの鎧とワルダーの弩。槍の穂先はボロ布で何重も巻かれている。

 鎧姿だと目立つからとスウが言い張ったからだ。

「クロアさんはもうあしか亭に着いてるはずだよ」

 先を歩く鎧下姿のスウが口を開いた。

「そうか」

 ポーションは矢傷は回復したもののまだ痛みは引いていない。それにポーションで体力が削られて足元が覚束なかった。でもスウには気配りなんてできない。だから槍の石突にしがみついて引き摺られるように歩く羽目になった。

「すまんがもう少しゆっくり歩いてくれ」

 もう何度哀願しただろうか。

「うん」

 答えも同じだ。でもスウが歩みを遅らせることは絶対になかった。 


「スウ」

「ん、なに?」

「さっきの姿は……」

 瞬きする間に十人を殺戮した光景が頭から離れない。

「あー、誰にも言っちゃ駄目よ。知ってるのはうちの姉妹だけだから」

「誰にも言わない。約束する」

「まあ言っても誰も信じないけどね。わたしみたいなか弱い女の子があんな化け物に変身しちゃうなんて」

 からから笑った。

「ああ……」

 反論するのも空しい。

「あんなだからあたしも昔は一人ぼっちだったんだよ」

 一しきり笑った後でスウがぽつりと言った。

「そうか」

「でも今はニド姉もロラ姉もアイカもいるし、グスタフもドーラもカールもいるから一人ぼっちじゃないよ」

 ワルダーがスウの背中をじっと見つめた。

「ワルダーも一人ぼっちだったでしょ。クロアさんも」

「ああ」

「だからワルダーには見せてもいいと思ったの。わたしのもう一つの姿をね」

「そうだったのか。すまない、ありがとう」

 心の奥で一度でも恐怖したことを恥じた。

「でももうワルダーもクロアさんも二人ぼっちだから寂しくないよね」

 言葉に詰まった。涙腺が熱い。こんながさつな娘の言葉が心に刺さる。

「これからどうするの?」

「そうだな、狩猟村に腰を落ち着けるか、猟場を渡り歩くか、どこか鄙な村で畑を耕して生きるか、どこに行っても二人っきりで生きていくさ」

「ふーん、でもすぐ三人になるかもね。あんなに激しかったし」

「そのことは忘れてくれ……」

「いいよ、あたしも誰にも言わない。約束ね」


「あしか亭が見えたよ。おーい!」

 スウが声を上げた。手をぶんぶん振る。

 ワルダーが首を伸ばして前を見た。

 大きな平屋の酒場の前に数人の人影が見える。

 猟師の眼力はその中に佇むクロアの姿を見た。

「クロア!」

 思わず叫んだ。槍を放り出して駆け出した。地に落ちた袋がやかましく金属音を上げる。

「んもー」

 スウが抗議の声を上げる。しかしワルダーはよろめきながら走る。

「クロア!」

 クロアがワルダーの姿を認めた。碧い眼に涙が溢れる。

 クロアも駆け出した。少女のように駆ける。

「あなた!」

 クロアが絶叫した。

 何事かと通行人が振り返る。

 路上で二人はぶつかるように抱き締めあった。

 クロアが号泣した。涙がワルダーの肩を胸を濡らす。

「迎えに来たぞ。約束通り」

 ワルダーがクロアの背中に腕を回して優しく呟いた。

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