第3話 暁にさようなら
春の初めの昼過ぎのことだった。新芽の華やいだ匂いが王宮の廊下まで満ちている。優雅に廊下を往来する人々の間を縫うように、二人の男が歩いていた。先頭の男は六十を越そうかという老人だ。背は五尺八寸ほど、灰色の髪を短めに刈り揃え、恰幅のいい体を正装で着飾っている。杖に頼ってわずかに跛行する姿が痛々しい。
老人の名はガストン・ロウ・ウィラード子爵、王国内戦で一軍を率いて勇名を馳せた古強者だ。今は家督を嫡男に譲り、郊外の小さな屋敷で余生を過ごす隠居の身だが、こうしてたびたび宮殿に上って王子たちに昔の戦語りをするのが習慣になっている。
老人の背中を守るように歩いている無表情な男はナーゲルといった。七尺の幅の広い筋肉の塊のような体が黒いフロックコートの上からもよくわかる。緑色の肌からわかるように、彼はオークだった。ウィラード子爵に従卒として長く仕えてきた男で、老人が軍籍を離れて隠居してもまだ従卒のつもりでいる。跛行する老人に手を貸さないのは、この緑の大男がいまだに老人を戦士と見なしているからだ。
宮殿内の要所で立哨している衛兵が通り過ぎるウィラード子爵に軽く目礼をする。この老人とオークの取り合わせは、王宮内ではお馴染みの光景だった。
やがて、謁見室の入り口で足を止めたウィラード子爵は、ナーゲルを振り返った。
「ここで待て。私に何かあれば娘を頼む」
そう言い残すと、入口で頭を下げる受付の若い文官に軽く手を振り、杖を突いて謁見室に入っていった。謁見室は広さ八十畳ほど、床に赤絨毯が敷かれ、奥に国王の玉座が置かれている。窓から降り注ぐ春の日差しが暖かい。国王陛下が入室するまでまだ時間がある。今日の謁見者たちがあちこちで談笑していた。老人は、その中から六人の男たちが談笑している輪に歩み寄った。
「おお、ウィラード子爵」
男たちの一人が声を上げる。皆が社交的な笑いを作って老人を迎えた。しかし、老人の思いつめた表情に一同は笑顔を凍らせる。
「子爵、何か……」
男たちの中で一番若いフォーグ男爵が前に出て老人に尋ねようとした。しかし、老人は男爵を押しのけると、仕込み杖を抜いた。
老人は白刃を振り上げると、抜刀突撃する歩兵隊の隊長のように駆け出した。しかし、膝が言うことを聞かない。平衡が崩れて体がよろめく。三歩も行かぬうちに背後からフォーグ男爵が老人に体当たりしてそのまま赤絨毯に押し倒した。
そのころには、謁見室の皆も異変に気づいた。その多くが今も軍に籍を置く現役だ。彼らは狼狽からすぐ立ち直った。老人を取り押さえようと駆け寄ってくる。
老人は素早く上体を起こすと、仕込み杖を振り回した。人々が後ずさる。王宮では帯剣は許されていない。衛士を除いては。
その衛士たちが、槍を構えて駆けつけてきた。立ちすくむ老人を槍の穂先が取り囲む。荒い息をつきながら、老人は周囲を見回した。
そして、左手を伸ばして目の前の穂先を手繰り寄せた。槍を持った衛士が握る手に力を込める。ウィラード子爵は仕込み杖を放し、両手で穂先を握ると、ゆっくりと自分の喉笛に押し込んだ。
ナーゲルはその一部始終を入口の近くで見ていた。老人が血飛沫を上げてステップを踏むように床に倒れこむのを見た。ナーゲルは笑うときもウィラード子爵が命令してはじめて笑う男だった。今日も老人から狼狽しろとの命令は受けていない。ならばやるべきことは決まっている。ナーゲルは巨体を翻すと廊下を駆け出した。老人の最後の命令を遂行するために。
冬が去ったとはいえまだ夜は寒い。ぬかるんだ夜道を男が歩いていた。齢は四十半ばを越えた程度、顔はお世辞にも二枚目とは言えない。撫でつけられた白髪交じりの黒髪、四角い顔には裂け目のような皺が走る。落ちくぼんだ老いた闘犬のような眼が座り、木の瘤のような鼻と真一文字に結んだ口の間に薄い鼻髭が乗っている。茶色の牛革の上着にカーキ色のズボン、焦げ茶色のブーツ、腰には刃渡り一尺六寸の細身の剣がぶら下がっていた。日が落ちて市場は一斉に店を閉め、昼間の喧騒が幻のように町は静まり返っている。男は水たまりを踏んでブーツが泥をかぶるのも構わず歩き続けた。店々が閉めた板戸の列がガントレットの兵士のように男を見下ろしている。
やがて、夜の海の灯台のように一軒の飲み屋が見えてきた。魚とも獣ともつかない生き物が彫られた看板に箒が吊るされている。店の前で立ち止まり、軽く息を吐いて両手で髪を撫でつけた。中から賑やかな騒音が聞こえてくる。
両開きの扉を押して中に入ると、中はとてもお上品とは言えない雰囲気だった。オークが涙ながらに恋愛哲学を吠える横で、ドワーフが流しの娼婦を膝に乗せて大笑いしている。店の隅で蟲人がスイカに頭を突っ込んだまま眠りこけ、向こうでは高そうな服のハイエルフがテーブルの上でわしゃ遣り手音頭を踊っていた。ラミレルは顔見知りの客と挨拶を交わしながら奥へ進み、空いたカウンターの席に座った。
「あら、戻ったのね。ラミレル」
カウンター越しにダークエルフ娘が声をかけてきた。この店の女主人で、名をニドという。ダークエルフの女にしてはやや小柄で貧相だが、ふるいつきたくなる体の線をしている。もっとも今は色褪せた黒いケープを羽織っているのでその線を堪能することはできない。
「お仕事どうだった?」
エールの注がれたジョッキをラミレルに差し出しながら、ニドが訊いた。
ラミレルはここ三週間ばかり南の沃地に入植するゴブリンの部族を護衛して、ついさっき町に帰ってきたばかりだった。いまだに東の森を抜けてトランド市に移住してくる亜人の数は多い。難民として外町に住みつかれる前に彼らに安住の地を世話することはトランド市政の重要な課題の一つだ。市の移民局は地図一枚と土地の保証書と三年間の租税免除証を渡してゴブリンの部族を放り出した。困ったのはゴブリンたちだ。未知の土地に放り出され、しかも道中は賊が跳梁しているという。部族の大半は公用語を話せない。部族にも何人か戦士はいたが、土地に明るく腕の立つ者がいなければ無事辿り着けるとは思えなかった。しかし、種族差別の根強いトランドの冒険者組合は亜人の依頼を嫌う。それに何より冒険者組合の依頼料は高くて故郷を捨てたゴブリンの部族には払えない。それで軍人崩れで食い詰めのラミレルがこの仕事を引き受ける羽目になったのだ。
「悪くなかった」
「あなたいつも言うことは同じね。『悪くなかった』って」
ニドはしかめっ面を作ってラミレルの口調を真似た。
「いや、実際悪くなかった。ゴブリンは見かけによらず勤勉だ。それにあの族長は若いし頭が切れる。五年もすれば立派な村になるだろう」
ニドの吊り目がちの眼がにっこり笑う。
「そう、じゃあこれが報酬ね」
ラミレルの目の前に布袋を置く。中には銀貨が五十枚、これはゴブリンたちが部族の宝を売って作った金だ。いわばゴブリンの血涙が生んだ金だった。
「普通、報酬はゴブリンの部族から割符が届いてからじゃないのか?」
「いいのよ、あなたを信用してるから」
「恩に着る」
布袋を両手で受け取って懐に入れる。このあしか亭という店は、ラミレルのような無宿人に仕事を斡旋することで知られていた。冒険者組合と違うのは、依頼をえり好みしないこと、そして手数料や仲介料を店が一切取らないことだ。依頼料が冒険者組合より格安なせいで、最近では冒険者組合の深刻な商売敵になっていた。冒険者組合はこの店を目の敵にして手を変え品を変えて嫌がらせを続けていたが、まだ表立った行動を取っていない。組合と店の間で秘密の手打ちがあったという噂もあるが、ラミレルには真相はわからない。
「あ、ラミレルさん、いらっしゃいませ」
カウンターの奥から出てきた禿髪の少女がぺこりとお辞儀をした。黄色のセーターの上に浅黄色のエプロン。三白眼の小さい赤い瞳がラミレルを見上げた。
「やあ、アイカ、元気にしてたか?」
「はい」
「そうか、何か食い物を頼む。それと、これは土産だ」
にやりと笑って腰の巾着から紙包みを取り出しアイカに渡す。アイカが紙包みを開けると中には芋飴が入っていた。道中の町で贖ったものだ。
ぱっとアイカが破顔した。
「ありがとうございます!」
アイカは振り返ってリザードマンと談笑している赤銅色の髪のウェイトレスに手を振った。
「グスタフー!ラミレルさんからお土産貰ったよ!後でみんなで食べよう!」
アイカの大声に客がどっと笑う。グスタフと呼ばれたウェイトレスが微かに微笑んでラミレルに頭を下げた。
ニドが金色のパイプを手に尋ねた。
「私には?」
「甘味が好きな齢には見えなかった」
「あら、女の子は幾つになっても甘いものが好きなのよ、覚えといてね」
「そういえば、逓伝所から伝言を預かっているわよ」
カウンターの下から四つ折りの紙を出すと、ラミレルの前に置いた。
「ねえ、うちの店を連絡先にするのは止めてって言ったわよね?」
紅い瞳がにらみつけたが、それを無視してラミレルは紙を広げた。
「昔の知り合いが勤労通りの大鴉屋という宿にいる。会いにきてくれと書かれている」
勤労通りは市当局が二年前に外町の再開発の一環として手掛けた街区だ。外町の中では比較的治安がいい。だが、あしか亭から歩いて半刻はかかる。
「いつ届いた?」
「二日前の夕方よ」
「出る。料理はいい。アイカに謝っておいてくれ」
「今日はもう遅いわよ」
「あいつはどんな時も人に助けを求めなかった。その男が助けを求めている。こいつは尋常じゃない」
そう言い残すと、ラミレルは店を後にした。
「あなたに運命の女神の御加護がありますように」
紫煙を吐きながらニドが呟いた。
大鴉屋の店番は長髪に眼鏡の若い男だった。受付室でこの町の住人には似合わない豪華な装丁本を読んでいる。ラミレルが扉を開けると、驚いたように顔を上げた。構わずラミレルが声をかける。
「すまない。戸を叩いても返事がなかったものでね」
店番は銀縁の眼鏡をくいと上げ、首を伸ばしてラミレルの背後を伺う。ラミレルに連れがいないことを認めると、丁寧な口調で答える。
「すいませんね、うちはお一人様のお客さんはお断りしてるんですよ」
逢引き宿の店番としては模範回答だ。
「いや、ここの客に呼ばれたんだ。オークの客が泊ってるはずだ」
店番の態度が変わった。
「あんた、新手の美人局か? うちをそういう稼ぎに使うのはお断りしてるんだよ。ちゃんとフラドさんの一家に金も払ってる」
脅すような口調だ。フラド一家とはこの辺りを縄張りにしている侠家だろう。手堅く商売している連中だと聞いていたが、ラミレルはあまり詳しくなかった。
「大丈夫だ、あんたに迷惑はかけない」
銀貨を一枚机の上に置く。しかし店番は手を伸ばさない。
「駄目だね、こんな連れ込み宿でも客の信用は大事なんだよ。汗だくで揉み合ってる最中にいきなり知らない誰かが入ってくる宿なんて誰も泊まらなくなっちまう」
「頼むよ、古い馴染みが遠くからやってきてね、ここに泊ってるから会いたいって伝言を寄越したんだ」
「古い馴染みか。いいね、俺にはもうそういうのはいなくなっちまった」
ラミレルは机に置いた分厚い本に目を向けた。
「難しそうな本を読んでるな。あんた学生さんだったのかい?」
「まあね。あんた解るか? 学問をすると世俗の出世なんて馬鹿らしくなるんだ」
だからこんなところで連れ込み宿の店番をしているのだと言わんばかりだ。
ラミレルはもう一枚銀貨を置いた。
「俺は『あしか亭』の者だ。フラドさんのところと揉めるような真似をするはずがないだろう?」
はったりだった。あしか亭はどの一家にもみかじめ料を払っていない。外町の侠家と手打ちしているからだという噂はラミレルも耳にしていた。誰も真相を確かめたことがない噂だ。しかし、店番には効いた。
「それならそう最初に言ってくれればいいのに」
安心したように作り笑いを浮かべて店番が答えた。鉄火場が苦手なのだろう。たいていの人間は暴力沙汰を嫌う。
「しかし、今日はオークの客も何人かいるんだ。一部屋ずつ聞くわけにもいかない」
「二日前から居続けの客がいるはずだ」
「そういえばそんな客がいたな。八番の部屋に泊ってるオークと浮浪みたいな恰好のガキだ。たまに外に飯を買いに出る以外はモグラみたいにずっと部屋に籠りっぱなしだよ。お盛んなことだ。新しい趣向にあんたを呼んだのかもしれないぜ」
八番の札がかかった部屋はすぐ見つかった。部屋の前に立って三拍子のリズムで二度扉を叩く。仲間内だけに通じる合図だ。
そっと扉が開いて隙間から緑色の巨人がラミレルを見下ろした。麻のシャツに綿のズボン、くたびれた革の胴衣を着ている。まるで農夫だ。
「久しぶりだな、ナーゲル」
「待っていたぞ。ラミレル倍給兵」
「その名で呼ぶな。今はただのラミレルだ」
「尾けられてないか?」
「尾行されるような話なのか?」
「他にこの場所を知っている者はいるか?」
「俺と本好きの店番以外は知らない筈だ。店番が他に吹聴してたらわからない」
「わかった。入ってくれ」
ドアを開けたナーゲルに促されて部屋に入る。中はよくある連れ込み宿だった。六畳ほどの部屋の真ん中に簡素だが大きな寝台が置かれ、部屋の壁に押し付けられるように小さな丸テーブルと椅子が二つ。部屋の隅の屑入れに軽食の包みらしい紙袋がいくつも押し込まれている。テーブルの上の小さな燭台が唯一の光源だ。
ドアを閉めたナーゲルが声をかけた。
「お嬢様、この男は味方です。出てきて大丈夫です」
寝台の陰から少女が立ち上がった。年は十五か六、黒い髪をショートカットにし、安物の灰色のシャツと綿のズボンは継ぎはぎだらけ。足だけは頑丈そうな革足袋で固めている。浮浪の少年のような恰好だが、落ち着いた大きな目と小さな顎を見れば誰だって女だとわかる。額に一筋の文様のような縦の線が入っている。入れ墨だ。
「お嬢様、こちらにお座りください」
少女に椅子を勧めると、もう一つの椅子を黙ってラミレルのほうに押した。ラミレルも黙って椅子に座った。
ナーゲルは部屋備え付けの湯呑を二つテーブルに置くと、まるで執事のような姿勢で急須からダージリンティーを注ぐ。その匂いにラミレルは子爵が戦場もダージリンティーを欠かさなかったのを思い出した。ラミレルも何度か勧められたが、石鹸のような味がしてうまいとは思わなかった。注ぎ終わって急須をテーブルの中央に置くと、ナーゲルは寝台に腰を下ろす。
ナーゲルがラミレルに首を向けて口を開いた。
「このお方は子爵のご息女だ」
少女が頭を下げた。父親に似合わない整った顔立ちをしている。
「マーニャと申します。よろしくお願いします」
なんて達観した眼をしているんだ。
「ラミレルだ、よろしく。子爵にこんな若い娘さんがいたとは知らなかった」
「養女です。私はサギン族の出身です。戦争で家族を全て亡くした私はお養父さまの家に養女として迎えられました」
サギン族は王国北西の山脈に棲む山岳民族だ。ラミレルもその名だけは聞いたことがあった。しかし養女とは。内戦でマメルス支隊を率いて敵に悪鬼と忌み嫌われた子爵には似合わない徳心だ。
「それで、何故俺に伝言をよこした?」
ラミレルはマーニャから視線を外すと、ナーゲルに訊いた。
「子爵が死んだ。十日前だ」
高齢だがまだ死ぬような齢ではない。
「病か?」
「戦死だ。王宮で衛士の槍に掛かった。道中の噂で聞いたが王宮は乱心で片付けたそうだ」
ゴブリンを護衛して旅していたラミレルには知る由もない話だった。
「俺も謁見室に入って子爵の背中を守っていたら、あんな最期にはならなかった」
「どういうことだ? 俺たち抜きで反乱でも企んでたのか?」
「わからん、子爵は俺にお嬢様を頼むと命じられた」
屋敷に駆け戻ったナーゲルは、手持ち金庫とお嬢様を馬車に押し込むと、駆け落ちのように王都から逃げ出した。途中で馬車を捨て、服を替え、少年に変装するために長い髪を切り落とした。そして、隊商に紛れてやっとここまで辿り着いたのだ。
「何故俺を頼った?」
「支隊の生き残りの中であんたが一番頼りになるからだ」
ナーゲルはラミレルを見据えて答えた。
「俺はしがないその日暮らしの傭兵稼業だ。頼られても困る」
「すまない、しかし他に思いつかなかった」
ラミレルは深くため息をついた。
「何をすればいいんだ?」
「お嬢様が安心して暮らせるように手伝って欲しい」
「心当たりはあるのか?」
「ここからダウドの黒森に入り八十里ほど東に進んだところに俺の部族が町を作っている。ミクマという名の町だ。そこならお嬢様は安らかに暮らせる」
「人間がオークの町で暮らせるのか?」
「大丈夫だ。町には他の種族の住人も多い。もちろん人間も大勢いる」
王国の領域外にそんな町があるとは知らなかった。
「八十里となれば長行軍だ。人手が要る」
「集められるか?」
「伝手はある、幾ら出せる?」
あしか亭が脳裏に浮かんだ。
ナーゲルは寝台の下から革張りのトランクを引っ張り出すと、中から大きな帆布の袋を取り出してテーブルにずしりと載せた。
「金貨が二十一枚ある。他に銀貨百三十二枚と銅貨が二束と十七枚」
「全部出して大丈夫なのか?」
「構わない。どうせミクマでは公用貨幣は使えない」
「わかった、話を詰めよう」
黙って話を聞いていたマーニャが静かに立ち上がった。
「ラミレル様、よろしくお願いします」
「ああ、お嬢さん、あんたをミクマまで守ろう」
マーニャが微笑んで頭を下げた。
湯呑に手を伸ばしたラミレルの手がぴたりと止まった。目を上げてゆっくり息を吸う。ナーゲルも気づいた。
マーニャが二人の挙動に戸惑った。
「なにか……」
その言葉をナーゲルが手を上げて制する。
「お嬢様、お静かに。寝台の陰にお隠れください。決してお声を上げぬよう」
マーニャは無駄口を叩かなかった。足音を殺して寝台の裏にうずくまる。
宿の周りに誰かいる。他の部屋の逢瀬の気配とは別のものだ。息を殺し、わずかに踵を浮かした男の気配、それも一人や二人じゃない。ざっと数えて一個分隊はいる。夜明けの攻撃命令を待つ兵士のようにじっと身を潜めて動かない。その気配が宿の壁越しに伝わってくる。店番が呼んだ侠家かと思ったが筋者にしては静かすぎる。政府からの追手か。だとしたらよほどの精鋭だ。
「すまん、尾けられたのかもしれん」
椅子に座ったままラミレルが小声で呟いた。
「仕方ない。危険は承知だった」
ナーゲルが小声で答える。
しばらくしてずかずかと廊下を歩く二人分の足音が聞こえてきた。それと同時に潜んでいた男たちの気配が動く。
扉の外で足音が止まった。ラミレルが椅子から湯呑を手に立ち上がると、ナーゲルと目を合わせて反対側の板戸が嵌められた窓を指さす。ナーゲルが頷いて音もなく窓の傍に立った。そのままラミレルは扉の前に立った。外から声がした。
「宿改めだ。扉を開けろ」
半身になって扉を開ける。鋼の薄板を張った錣のない革兜に革の上下、足は革の地下足袋、顔は布で隠れていて目しか見えない。異様なのは頭の先からつま先まで真っ黒なことだ。とても警邏には見えなかった。だいたい剣を背負った警邏なんていない。それが二人並んで立っていた。左の男が口を開く。
「ウィラード子爵の娘、マーニャがいるはずだ。我らと同道願おう」
「無粋だな。ここは連れ込み宿だぜ」
「頼む、死人を出したくないのだ」
そう言い終わらないうちに拳を突き出してきた。手には七寸ほどの両刃の短剣が握られている。すかさず鼻面に湯呑を投げつける。冷めてはいたが石鹸味のダージリンティーは隙を作るのに十分だった。その時、背後で板が割れる音がした。振り返る余裕はない。前に出て腰の一尺六寸を抜き打ちに胴に斬り込んだ。何かを擦るような手応え。相手は革衣の下に鎖帷子を仕込んでいる。用意がいい連中だ。右の男が背の剣を抜いた。すかさず左に体を捌いて左の男を盾にし、そのまま男の横腹に突きを入れる。今度は確かな手応えがあった。左の男が呻きながら膝をつく。ラミレルの剣が鍔元から折れた。畜生、数打ちの安物を買うんじゃなかった。さらに距離を詰め、突きを入れようとする右の男の腕を左手で押さえ、柄を握ったままの右拳を顎に叩き込んだ。右の男が崩れ落ちる。窓に目を向けると、ナーゲルが二人を相手に格闘していた。足許には黒装束が二人倒れている。加勢するために足を動かそうとしたが、誰かが腰に組み付いてきた。突きを入れた男が腹に剣身を残したまま渾身の力でしがみついている。怪力だ。そいつを振り払おうとしたとき、声が聞こえた。
「閃」
次の瞬間、閃光と衝撃が襲ってきた。鎮圧用の閃光魔法だ。わかっていてもどうしようもなかった。壁に叩きつけられたラミレルはそのまま気を失った。
気を失っていたのはそれほど長くなかった。ラミレルは頭を抱えながら立ち上がり、室内を見回した。窓の下の床にオークが座り込んでいる。腹が血塗れだ。歩み寄って屈みこんだ。数ヶ所刺されている。
ナーゲルは死ぬときも無表情だった。首にかかった紐を手繰ると、真鍮の円板と木片が出てきた。真鍮板に小鳥の絵が彫られている。マメルス支隊の認票だ。こいつは今でもマメルス支隊の兵士なのだ。木片は血で汚れていた。細長い木の板で、幅も深さも不規則な溝が彫られている。ズボンのおとしに押し込んだ。
マーニャの姿が見えない。
「お嬢さん、いるか?」
やはり返事はない。拐かされたのだ。逃げ出した可能性はほとんどないだろう。もうすぐ人が集まってくる。それまでに手掛かりを探さなければならない。足許に両刃の短剣が転がっている。細長い三角形の剣身で、柄頭は円環になっている。シーツを適当に裂いて短剣を包むと懐に入れた。そして、テーブルの上の帆布袋を取った。もう一度ナーゲルに目を向ける。その姿を記憶に留めると、扉を抜けて廊下に出た。出口に向かって進む。受付室を覗くと店番が椅子に座っていたので声をかけようとしてやめた。彼は喉を切り裂かれて事切れていた。
宿の客が誰も廊下に出ていないのは幸運だった。ラミレルは集まった野次馬にまぎれて大鴉屋を後にした。安住の地まで守るとお嬢さんと約束した。約束は果たされなくてはならない。
あしか亭に辿り着いたときはもう払暁だった。長身の娘が店の出入口を箒を掃いていた。店の厨房を任せられているロラという娘だ。背はラミレルより高い。艶やかな黒髪を後ろで束ね、純白の肌と豊満な胸を色気のない緑のシャツに仕舞い込んでいる。ロラは無心に箒を使っていたが、やがて切れ長の眼の中の赤い瞳が歩いてくるラミレルを認めた。
「あら、ラミレルさん、おはようございます。お知り合いに会えました?」
しかし、すぐラミレルの様子がただ事でないと察した。
「どうかなさったんですか?」
箒を地に置いて駆け寄ってくる。赤い瞳を見据えてラミレルは口を開いた。
「仕事を依頼したい」
「こちらに」
言われるままにロラがすすめる椅子に腰を下ろした。店内はまだ昨夜の酒と煙草の匂いが残っている。
「すみませんね、今お出しできるのはこれくらいです」
ロラが湯呑と灰皿をテーブルに置く。湯呑には薄い黒茶が入っていた。一口啜ると紙巻をくわえた。火打石で火を起こそうとしたが、瘧のように手が震えてうまく扱えない。ロラが前掛けのおとしから火打石と火縄を取り出し、切出の背で擦ってさっと火縄を点けると小さい熾火を両手で守るようにラミレルに差し出した。
「すまない」
紙巻に火をつけ、一息に吸い込ってゆっくりと煙を吐いた。黒茶と紙巻のおかげで行き場もなく昂揚していた心が少し落ち着いた。
「お怪我は大丈夫です?」
「いや、たいしかことはない」
打ち身と擦り傷だけだ。この程度なら首筋の回生紋がすぐ治す。
「わたしにも火をいただけないかしら」
ロラは黒檀のパイプを取り出す。
「ああ」
そう言って紙巻を差し出そうとするのをロラが手で制した。パイプをくわえ、身を乗り出してラミレルの体に両手を添えると、ラミレルがくわえた紙巻に自分のパイプを重ねる。果物のような甘い体臭にラミレルは年甲斐もなく少し慌てた。
「ありがとうごさいます」
ロラが礼を言ってラミレルの隣に座る。
「こんな大胆な女だとは知らなかった」
「ふふっ」
ロラは答えず、微笑で返した。パイプを吸って細く煙を吹くとラミレルに向き直った。
「何があったんです?」
「ニドはまだ寝てるのか?呼んできてくれ。仕事の話をしたい」
あしか亭ではこういう仕事の仕切りは全部ニドがやっていた。
「姉さんはまだ寝てますわ。朝が弱いから今からだと四半刻はかかります。それにアイカたちも昨夜の料理の残りを配りに行っています」
「ニドを起こしてくれ。水桶に頭を突っ込んでいいから」
「代わりに私がお話を伺いますわ」
「いや、それは……」
「私、いつも厨房にいますから、お客様とお話する機会って滅多にないんです。ラミレルさんのこともアイカからよく聞かされてましたから、一度こうやってゆっくりお話ししたかったんです」
微笑んでいるが有無を言わせぬ口調だ。
「そんな色気のある話じゃない」
「私もそちらの仕事についてはちゃんと存じていますわ。それとも」
赤い瞳がラミレルを射抜く。
「背の高い女はお嫌いかしら?」
そこまで言われては仕方なかった。
「昨夜、俺が知り合いに会いに行ったことは知ってるか?」
「はい、アイカが残念がってましたよ。急に出て行ったって」
「そいつの名はナーゲル。俺の昔の上官の従卒をしていた男だ。上官の名はウィラード子爵。その子爵が王宮で殺された。ナーゲルは子爵に娘を託された。マーニャという名の養女でサギン族の出身だ。
奴はマーニャを連れてこの町まで逃げて俺に便りを寄越してきた」
一息ついて黒茶を啜る。
「勤労通りの大鴉屋という安宿だ。会いに行くと、娘をダウドの黒い森にあるミクマという町に連れて行ってくれと頼まれた。オークが造った町らしい。ミクマという町を聞いたことは?」
「ダウドの森の中に亜人の町や村がいくつかあるという話は聞いたことがあります。でも、ミクマという名の町は初耳ですわ」
「その直後に黒装束の連中に襲われた。俺は閃光魔法で気を失い、気がついたら従卒は殺され、恐らく娘はさらわれた」
「夜中に雷のような物凄く大きな音がしましたけど、その魔法だったんでしょうか?」
「いや、俺が覚えているのは光と衝撃だけだ。とすると、音の前に気を失ったのか」
自嘲気味にラミレルが呟いた。
「閃光魔法は取り籠もりによく使われる魔法ですわ。仕方ありません」
昔から「立て籠もりに八分の利」と言われるように、室内戦は防御側に圧倒的な優位がある。特に室内の人間を生かして捕らえる必要がある場合はなおさらだ。このため昨今では寄せ手すなわち取り籠もり方が、光と音と衝撃で室内の人間を一時的に無力化する閃光魔法を使うようになっていた。今ではどの街の治安局にも閃光魔法を使う魔導士が必ず配属されているという。
「とにかく、俺は娘を救い出してミクマまで連れて行かなくてなならない。マーニャと約束した。それにもう金を受け取ってしまった」
ラミレルは腰の胴乱から大きな帆布の袋を取り出すとテーブルに置いた。
「それがご依頼の内容ですか?」
「ああ、手を貸して欲しい」
ロラは深呼吸すると、
「承りました。お任せください」
と言ってにこりと笑った。
「ニドに訊かなくていいのか?」
「問題ありませんわ。姉さんには私から説明します」
「すまない、恩に着る」
「問題は襲ってきた連中ですね。心当たりはありまして?」
「いや、少なくとも警邏や治安局の役人じゃない。全員黒ずくめだった。俺が見たのは六人だが、もっと多かったはずだ」
懐から布の包みを取り出すとテーブルに置く。
「連中の持っていた短剣だ」
「失礼しますね」
ロラが包みを開くと黒い短剣が出てきた。それを両手で取り上げ、しばらく眺めていたが、ふいに口許に近づけると舌の先ですいと舐めた。
「おい」
ラミレルが声をかける。
「毒の類は塗られてませんね」
落ち着いた声で言うと短剣をテーブルに戻した。
「これはクナイと呼ばれる短剣ですわ」
「クナイ?あのニンジャが使っていた得物か」
「よくご存じで」
「いや、実物は初めて見る」
かつて東方の島国から海を越えてこの地にやってきた戦士の集団の中にニンジャと呼ばれる者たちがいた。非正規戦闘の専門家で、先の大戦でおおいに活躍したという。大戦が終わってその多くが故国に帰還したが、一部が残って秘かにその技を伝えているという噂はラミレルも聞いたことがあった。
「うちのお客様が代金代わりに置いていったものの中にも似たようなものがあります」
「王国軍がそんな連中を飼ってるという話は聞いたことがない。いたとしても、たかが乱心者の娘を捕えるために使うとは考えにくい」
「ええ、その人たちは政府のお役人じゃありませんわね。恐らく政府とは別にマーニャさんの身柄を押さえたい誰かの差し金でしょう」
「となると、もう町を離れている公算が高いか」
「それは調べてみないとわかりませんわ」
「調べる術があるのか?」
「町中で刀傷沙汰や派手な魔法を使った人たちです。きっと地元の侠家に筋を通しているはずです。もしかしたらお世話になってるかも」
連れ込み宿の店番の言葉を思い出した。
「あの辺りはフラド一家の縄張りだと聞いた」
「なら人を手配しますわ。それと情報屋さんたちにも」
さあ忙しくなるわとでも言いそうな勢いでロラが立ち上がった。
「俺は何をすればいい?」
「今はありませんわ。それよりお腰のものをどうにかしないといけませんね」
確かに空の鞘をぶら下げているのは締まらない。剣身が折れた柄は途中で捨てていた。
「うちの倉庫から見繕いましょうか?」
「いや、いい。当てはある。少し出てくる」
「お昼前にはお戻りください。それと、尾行には注意してください」
「俺に尾行?」
「ラミレルさんを襲った人たちがもう来ないとは限りません。昼間は襲ってこないと思いますけど、十分注意してくださいね。それと、もし尾行された場合は撒こうとしないでそのまま真っ直ぐうちまでお越しください」
「いいのか?」
「そのほうが手掛かりが増えます」
そう言ってロラは笑みを浮かべた。この娘がこんな凄味のある笑顔ができるなんて知らなかった。
「では少し出てくる」
「あ、少し待ってください」
ロラが奥の厨房に小走りに入る。やがて紙包みを手に戻ってきた。
「こんなものしかありませんけど、途中で召し上がってください」
中を覗くと茹でたジャガイモが二つ入っていた。
「塩で味付けしてますからそのままで大丈夫ですよ。まだ熱いから気をつけてください」
昨夜から何も食べていないことを思い出した。
「かたじけない、ありがたくいただく」
「気をつけてくださいね。ラミレルさんに何かあったら泣いちゃいますよ」
「大丈夫だ、ロラ、あんたを泣かすようなことはしない」
そう言って片手を上げると、紙包みを提げてラミレルは店を出た。
ジャガイモをかじりながら、ラミレルは外町の市場通りを城門に向かってゆっくり歩いていた。もう通りの店は開店の準備で大忙しだ。気の早い客が通りを往来している。こう人が多くては尾行がいてもわからない。だいたい俺は密偵なんて柄じゃない。竜が尾行してもわかるわけがない。一人納得して苦笑した。ジャガイモを頬張りながらにたにた笑う様を見て通行人が目を剥くのも気にせず、ラミレルは歩調を上げた。
そのまますたすたと通りを抜け、城門の衛兵に手形を見せると外壁の中に入る。薄汚れたラミレルに不審の目を向ける一級市民たちを無視して、立ち並ぶ建物の一つの前に立った。質屋の看板が掛かっている。空になった紙包みを適当に折り畳んでズボンのおとしに押し込むと、高級そうな扉を開けて中に入った。
「主人、無沙汰をした」
カウンターの奥の机で帳簿を繰っていた上品そうな初老の店主に声をかけた。
「これはこれは、『狢』のラミレル様、すっかり暖かくなりましたな」
「その二つ名はやめてくれ」
「今日はいかほどご入用でしょうか?」
「今日はそうじゃない。剣を出してくれ」
銀貨三十枚をカウンターに並べた。
「左様ですか、はい、ただいま」
ぽんと手を叩くと奥に呼び掛けた。
「おい、ラミレル様のお預かり物を出してくれ」
「質札はなくしてしまったんだが」
「どうかお気になさらずに」
店の丁稚が桐の箱を拝むように運んできた。主人が箱を開け、中から錦の袋を取り出すとそっとカウンターの上に置いた。
「どうぞ、お改めください」
口紐をほどき、剣を抜き出す。拵は至って普通だ。鞘を払うと黒光りした二尺五寸の剣身が現れた。剣身に細かな紋様が彫金されている。魔法剣だ。店の者たちが息を呑む。
鞘に戻して腰に吊し、先ほどまで吊るしていた空の鞘をカウンターに置く。
「手間をかけるが処分しておいてくれ」
「かしこまりました」
「忘れていた。利息は?」
「いえ、結構ですとも。こちらこそ眼福でございました」
「また来る」
そう言い残して踵を返し、店の外に出ていった。
異変に気づいたのは城門を抜けて外町の市場通りを歩いているときだった。十歩ほど後ろに二人、前に一人、随分暖かくなったのに律義にマントを羽織ってご丁寧にフードを目深にかぶっている。あまりにもあからさますぎた。まあいい、あしか亭に向かうまでだ。しかしそうは問屋が下ろさなかった。人ごみの中、マントの三人がするすると間合いを詰め、ラミレルを取り囲もうとする。
間合いを切るように薄暗い裏小路に飛び込んだ。しかし、裏小路の奥にも一人いた。小路の幅は一間もない。完全に包囲されたことを悟った。
「二人からの預かりものを出してもらおう」
「何の話だ?」
「とぼけるな、手荒なことはしたくない」
四人の男は懐からクナイを抜いた。腰だめに構えたクナイは手に馴染んでいたが今は果物ナイフのように頼りなく見えた。
「わかった。少し待て」
そう言いながらズボンのおとしから畳んだ紙包みを取り出した。ロラから手渡されたジャガイモが入っていた紙包みだ。ゆっくり広げて口を近づける。息を吹き込んで軽く捻じると勢いよく両の平手で叩いた。
自分でも驚くくらい大きな破裂音がした。
音に驚いた通りの人たちの目が何事かとラミレルたちに向けられた。男たちが慌ててクナイを懐に収める。ラミレルはにこやかに笑いながら片手を軽く上げ、男たちの間を縫って通りに歩いて行った。
「このまま済むと思うな」
マントの男の一人が呟くように言った。
「もう少し気の利いた台詞を言え」
そう言い残すと、ラミレルは裏小路を抜けて通りに出た。
あしか亭に着いたのはまだ巳の刻も終わらない頃だった。両開きの扉を開けると、あして亭の女たちが揃い踏みでラミレルを出迎えた。ロラだけでなく、ニド、アイカ、そしてグスタフ、ドーラ、カールという名の三つ子までいる。
「これは絶景だな」
ラミレルが感心したように呟いた。まるで高級娼館の顔見世だ、とは間違っても口に出してはいけない。
ニドが軽く片手をあげて声をかけた。
「あら、おかえりなさい」
続いてアイカが声を上げた。
「おかえりなさい! ラミレルさん!」
笑顔でアイカに向かって軽く手を振る。
ニドが目ざとくラミレルの腰を一瞥する。
「剣を新調したのね?」
「ああ、質草以外の使い道ができた」
柄頭を軽く撫ぜる。
「話はロラから聞いたわ」
「引き受けてくれるのか?」
「その質問は失礼ね。ロラが引き受けるって言ったのよ」
「すまない」
「いいのよ」
ニドが笑ってゆっくり足を組み替える。
「尾けられませんでしたか?」
ロラが口を挟んだ。
「ああ、尾けられた。間抜けな尾行だと思ったが裏小路に追い詰められた。かなりの遣り手だ」
「大丈夫でしたか?」
「白昼堂々斬り合うわけにもいかない。なんとか切り抜けた。ロラのジャガイモのおかげだ」
何のことかわからず小首をかしげるロラに向かってにやりと笑う。
「連中、何か言ってた?」
パイプをくわえてニドが訊く。そのまま火打石で火をつけた。つられてラミレルも紙巻をくわえた。
「ナーゲルとマーニャから預かったものを出せと言われた」
「何か預かったの?」
「その袋だけだ」
テーブルの上の帆布袋を指さした。
「お金しか入ってませんでしたし、袋にも細工はありませんでした」
袋を手に取ってロラが答える。
「本当に心当たりはないの?」
煙を吐きながらニドが念を押した。ニドから火を分けてもらい、ゆっくりと吸う。
「他にあるとすれば、この認票くらいだ」
ズボンのおとしから真鍮の認票を引っ張り出した。ニドがふくれっ面を作る。
「んもー。あるじゃない」
斃れた戦友から認票を回収するのは戦場の習いだ。ナーゲルは兵士として死んだ。しかし連中がこれを欲しがるとは思えなかった。
「その木の板はなに?」
認票と一緒に紐に通されていた木片だ。血が乾いて黒ずんでいる。認票と一緒にテーブルに置いた。
「わからん。護符の類だろう」
こういう他愛のないものをお守りにする兵士は少なくない。傍目には下らないがらくたでも、兵士には戦争から生還を約束する貴重な護符だ。
「何かしら」
木片を弄びながらロラに顔を向けるが、ロラも顔を横に振った。
「アイカ、これ何だかわかる?」
アイカがテーブルに手を伸ばし、木片を手に取る。しばらく眺めていたが、振り返って三つ子に木片をかざした。
「ねえ、これ知ってる?」
それまで無表情に座っていた三つ子の一人が口を開いた。
「よろしいでしょうか?」
「ドーラ、わかるの?」
アイカが木片を手渡す。よくわかるものだと感心する。ラミレルはいまだに三つ子の見分けがつかない。
ドーラはゆっくりと木片を撫でていたが、ふと顔を上げてアイカを見つめた。
「アイカ様、これは鍵です」
「扉や金庫の?」
「いいえ、アイカ様、これはサギン族が使う記憶を呼び覚ますための鍵です」
ドーラは木片をテーブルに置いた。
「この溝をご覧ください。サギン族の巫女はこの溝を指でなぞることで封印された記憶を呼び起こすといわれています。木片は何種類もあって、主に口伝のために用いられます。巫女は暗示と薬物で膨大な情報を無意識のうちに記憶し、このような木片を使って任意に記憶した情報を取り出されるのです」
ニドが口を挟む。
「『図書館』の金属板のようなものなの?」
「原理は違いますが似たようなものです。あの金属板は一種の記憶装置ですが、サギン族では巫女自身が記憶装置なのです」
図書館?記憶装置?何の話をしているんだ。ラミレルにはわからなかった。そんなラミレルの混乱をドーラの声が断ち切った。
「ラミレル様」
ドーラがラミレルを無表情に見据える。
「マーニャ様にはここに模様が描かれていませんでしたか?」
自分の形のいい額を指さした。
「ああ、何か文様か文字のような入れ墨を入れていた」
ドーラが軽く頷いた。
「アイカ様、間違いありません。マーニャ様は巫女です。そしてこの木片はマーニャ様のある記憶を呼び出す鍵です。どんな記憶かわかりませんが、敵の狙いはマーニャ様の頭の中の記憶でしょう」
ドーラが断言した。
子爵は身寄りのない戦災孤児を哀れに思って引き取ったのではなかった。マーニャを秘密を収めた歩く金庫にするために養女に迎えたのだ。内戦を思い出す。戦場で子爵は手段を選ばない男だった。子爵は敵にとって都合の悪い情報をマーニャの頭の中に隠し、その鍵を最も信頼できる従卒に託したのだ。恐らくナーゲルも木片が何なのか知らなかったに違いない。畜生、日なたで孫をあやすのが楽しみな好々爺でないことはわかっていたはずなのに。あの爺いは隠居しても戦っていたのだ。
「大丈夫ですか?」
俯いたラミレルにロラが声をかけた。
「ああ」
力無く答える。まるで惚れた年増の秘密を知った少年の気分だ。
「それで、どうする?」
ニドが訊く。
「俺はマーニャに約束した。安住できる地まで守ると」
「ええ」
励ますようにロラが明るく声を掛けた。
ニドが紫煙を吐いて呟いた。
「これでマーニャちゃんがまだこの町にいる可能性は高くなったわね」
「ああ、しかし場所は皆目見当がつかない。そして恐らく連中はもうこの店に気づいてる」
「大丈夫よ、もううちの客からそういうのが得意なのを選んでフラド一家を張ってもらってるの。あなたから預かったお金で報酬は払ったわよ」
「誰だ?」
アイカが指を折りながら答えた。
「フラドの屋形にメザロドさんとゲルベンさん、そしてフラドの隠し別荘にガルバ二十八號さん。つなぎにカブラスさんとジョーガンさん」
メザロドは気取った服を着たハイエルフ、ゲルベンは酔うと誰彼構わず哲学問答を仕掛けるゴブリンだ。何度か組んで仕事をした。二人の能力は信頼できる。カブラスもジョーガンも若いが信用できる男たちだ。しかし、
「ガルバ二十八號?」
聞いたことのない名だ。ラミレルの疑問にニドが答える。
「蟲人よ、昨夜も店にいたでしょ?」
「あのスイカに頭を突っ込んでた奴か?」
「ああ見えて指が切れそうな折り紙つきよ。私は隠し別荘が本命と思ってるの」
「しかし、よく隠し別荘を知っていたな」
「こう見えて海千山千弥勒三千の古狐ですからね」
ニドが楽しそうに笑った。
その屋敷はもともとトランド市が駐留軍の高級将校用に作った別荘の一つだった。花の植え込みと白樺の木に囲まれ、一階には広い庇付きの玄関があり、二階には露台のついた広い窓がある。二十年ほど前まではトランド市郊外の景色のいい小高い丘にはこんな小洒落た別荘が立ち並んでいたものだ。やがて駐留軍が去ると主を失った別荘は競売に出され、化粧を直して娼館になり、一時は好事家の間で知らぬ者のない秘密の穴場として評判になった。しかしそれも昔の話だ。膨張する外町に飲み込まれ、商売が立ち行かなくなった娼館の主人は屋敷をある商人に売り払った。商人がこの屋敷を別宅に改装して少数の使用人と移り住んだのは数年前のことだ。今ではあばら家の群れに包囲された深窓の令嬢のように孤塁を守っている。
ガルバ二十八號は少し離れた廃屋の屋根裏で腹ばいになって屋敷を見つめていた。朝早く橋の橋板の下で休眠してたところをアイカというあしか亭の牝に揺り起こされ、頼まれたままこの屋敷を探っているのだ。
あの屋敷に人間の娘が囚えられているか確かめてほしい、とアイカは言った。報酬として銀貨五枚を渡された。正直こんな金属板には興味はないが、市場で新鮮な果物や砂糖と交換できるのは有難かった。特に人間の作る砂糖は素晴らしい。
何故娘が囚われているのかは興味はなかった。そもそも人間のことはよく判らない。利害関係が複雑すぎて理解できない。
待つのは苦ではなかった。複眼と副腕の聴覚器官を家に集中したまま彼は瞑想する。今頃も彼の大いなる一族の船は星の海を渡っているだろう。数千周期前、この地に辿り着いた彼の先祖たちは、数十世代にわたって試行錯誤を繰り返した末にこの地に適合した種に進化した。
この地の知的種族と時に協調し、時に争い、次の目的地へ旅立つための研究を積み重ね、船と発射台を世代を越えて作り続けた。何度も破壊され何度も挫折を味わったが一族は諦めなかった。それが一族の存在理由だったから。そして遂に知的種族同士の抗争に加担した見返りに、やっと安全に船と発射台を建造できる土地を確保できたのだ。彼の一族は再び船に乗り、新たな目的地に向かって天空に旅立った。九十八周期前のことだ。
彼と同胞たちは取り残された。この地に適合した個体は船には乗れない。船に乗ったのは新しい女王と数万の有精卵だけだ。古い女王は船が長い炎の尾を引いて飛び立つのを見届けて枯れるように死んだ。それから三十七周期後、ガルバ二十八號は営巣地を離れて一人旅立った。見果てぬ天空を目指す一族の習性に倣って、自らの約束の地を目指す個体が出現することは一族ではよくあることだった。
やがて、ガルバ二十八號は腰の袋に鉤爪を差し込むと、器用に紙巻と火打石を取り出した。顎を開いて紙巻をくわえると、火打石を使って紙巻に火をつけて一息に吸う。紫煙が体側の排気孔から漏れた。この酩酊は癖になる。彼は人が作る煙草が果物と砂糖の次にお気に入りだった。
黒ずくめの男が狭い階段を降りて廊下を滑るように抜けて茶の間に入った。革の足袋は音を立てない。茶の間に仕立てられたカウンターはこの屋敷が娼館だった名残だ。壁際の机に目をとめた。ポーションの空瓶が数本転がっている。茶の間にいた同じ格好の男たちが跪いた。
男の名は影縫いのグレン・ハーデル、剣術家の長子としてノストリア県マズダで生まれた。王都に出て文官試験に上位で合格した時は十五歳、高級官僚としての将来は約束されたも同然だった。
しかし、王国内戦が運命を変えた。暴徒化した革命軍が彼の生家を焼き払い、一族のことごとくを殺害したのだ。帰省したグレンは茫然と故郷の惨状を見た。農地は荒れ果て、小川は干上がり、骸の山が風に曝されていた。
同郷のスペイサー侯爵の軍に加わったのは十八歳。彼はスペイサー侯の鉄籠手の軍旗の下で革命軍と戦った。各地を転戦して敵を叩き、その後も残党狩りで各地を奔走した。
戦後、与えられた地位は宮廷の徒目付組頭並、ひらたく言えば王国政府の間者だった。
かつての戦友は宮廷に着々と地位を築いていたが彼は気にしなかった。彼は政府内に養成所を作り、部下の養成と殺人技術の向上に努めた。特に力を注いだのが王国の伝統的な剣術と東方のニンジャ技術の結合、カラテを用いた暗殺術だ。
いまや国王の相談役に出世したスペイサー侯の命じるまま、グレンは反王国活動を続ける要人や有力者を次々に暗殺した。その数は十数件に及ぶ。
今回も同じだ。詳しいことは知らない。宮中で死んだウィラード子爵が王国から盗み出した機密が養女の頭の中にある。それを確保せよ。適わぬなら娘を殺せ。受けた指令はそれだけだったが、グレンには十分だった。
「娘の具合はどうだ?」
グレンの問いに男たちの一人が答える。
「フラドが寄越した薬師が薬を使って暗示を試みていますが、一向に埒が明きません。鍵があればた易きことなのでしょうが」
「やはり鍵はあの男が所持している可能性が高いか」
「鍵を持っているのはあの男でしょう」
先ほどはうまく逃げられたが、男があしか亭という店に入ったのは確認済みだ。
「今夜あの店に仕掛けますか?」
「待て、フラドから手を出すなと言われている」
グレンたちはトランド市で活動するにあたってフラド一家に身を寄せていた。フラド一家を選んだのは娘が潜伏していた宿がフラドの縄張りだったからに過ぎない。フラドに仁義を通し、その夜のうちに襲撃した。
従者を殺し娘をさらうだけの簡単な仕事の筈だった。誤算だったのは、娘の記憶が特殊な術で封印されていたことだ。まさかサギンの巫女だったとは。
大金を積んだからかフラドは協力的だった。この隠れ家だけでなく若衆まで貸してくれ、今も封印を解くためにもぐりの薬師を送ってきている。そのフラドがわざわざ朝早く駆けつけて、あしか亭にだけは手を出すなと念を押してきたのだ。弱みでも握られているのか? 股を蹴り上げられてもへらへら笑わなければならないくらいの弱みを。そう邪推するほどの慌てぶりだった。
「では男が店を離れてから仕掛けるのですか?」
「店の周囲に結界を張れ。男が穴熊を決め込んでも寅の刻を過ぎたら仕掛ける。焙烙を用意せよ」
店の者を全員殺して店も焼き払えばフラドも文句はあるまい。
「ほんとうにマーニャって娘を知らないのね?」
奥座敷の革のソファに身を沈めたニドがパイプ片手に訊いた。
ここはフラドの屋形だ。もともとは種族間戦争の頃にトランド市の外周に配された外城の一つだった。廃された後にフラド一家が住居に改装したもので、まるで海に浮かぶ軍艦のような威容を誇っている。フラド一家がこの城を根城にしたのは今から四代前、以来、この屋形はフラド一家の象徴になっている。
「知らないね」
ニドと向かい合って座る金髪の青年がにこやかに答える。齢は二十歳そこそこ、錦の服を小粋に着こなす姿は優面の男妾にしか見えないが、フラド一家の元締め、カイム・フラドだ。切れ者との噂も高く、外町の住民の人気も高い。背後にはその筋と一目でわかる若衆が二人。上着の上からでも段平を落とし差しにしてるのがわかる。
「娘をさらった連中はあなたの縄張にはいないのね?」
「うちはまっとうな侠家だよ。縄張で人さらいなんて非道な真似はさせないさ」
「まっとうな侠家って悪い冗談ね」
「それは誤解だよ」
「じゃあ人さらいの連中があなたの縄張にいたら、好きにしていいわね?」
「いないのにそんなことは請け合えないね」
ニドはパイプの煙を吐くと、立ち上がった。
「あなたの言い分はわかったわ。こっちも好きにさせてもらう」
「先代の言いつけであしか亭と事を構えるなって言われてるから今までは大人しくしてたけど、そんな年寄の繰言にいつまでも縛られる僕じゃない」
優男に見えるが一家を束ねる男だ。その顔に凄味が浮かぶ。
「うちは百年続く老舗の一家だ。あまり舐めないほうがいい」
「あら、でも潰すのは一日で十分よ」
すかさず後ろの若衆二人が懐に手を入れて前に出る。次の瞬間、ニドの左手が跳ねる。小さな打根が数本飛んで若衆たちの顔面に突き刺さった。出刃のような短剣を握りしめたまま膝から落ちる。
「何をした!」
カイムの顔が強張った。
「早差蛇の神経毒よ。泡を吹いてるから大丈夫。半日もすれば起きるわ」
引っくり返った若衆の顔を覗き込みなからニドが答える。
「飼い犬の躾がなってないわね。じゃあ、用も済んだから帰るわね」
出ていこうとしてもう一度振り返った。
「いいソファだったわ」
がらんとした店内でラミレルは椅子に座っていた。剣を抜き剣身を仔細に調べる。疵は見えない。もう二度と振るうことはないと思っていたが。振り返らないと決めた過去が蘇る。
その時、
「立派な剣ですね」
ロラが盆を二つ両手に持って入ってきた。
「姉さんたち遅くなりそうですから先にお昼にしましょう」
一つをラミレルの前に置き、隣に座った。盆には麦粥と小魚三尾。
剣を鞘に納めて隣のテーブルに置く。木匙を取り、粥をすくって口に運ぶ。
「お口に合います?」
心配そうな顔で訊いてくる。
「ああ、旨い。いいお嫁さんになるな」
何を言っているんだ俺は。まるで下世話な狒々爺だ。
「まあ嬉しい」
両手を合わせて破顔する。こんなに表情が変わる娘だとは思わなかった。
「それでは私もいただきます」
そう言ってラミレルの隣で食事を始めた。こんな場末の酒場でこんな質素な食事なのになんて品のある食べ方をするんだ。ラミレルは不覚にもその姿に見とれた。
「いつかその剣のこととかラミレルさんのこととか色々聞かせてくださいね」
見つめられていることに気づいたロラがはにかむようににこりと笑った。
夜に入って異変が起きたことは三つの単眼に頼らなくてもわかった。灯火が落ちたのに家の根太が沈んでいない。ガルバ二十八號はいぶかしんだ。人は暗くなると寝る習性があるのにあの家の人間たちは起きている。意識を単眼に集中する。もう一刻もしないうちに伝令役のジョーガンがやってくる。それまでに娘がいるか確かめなくてはならない。
家の中ではグレンたちが襲撃の準備に余念がなかった。既に日暮れ前に四人の部下を送り出している。昨夜の襲撃で負傷した部下たちもポーションのおかげで全快していた。戦力に不安はない。店の間取りも人数もわかっている。しくじる要素はなかった。屋敷の全員を集める。
「あまり時間はない。仕掛けの手筈を整える」
部下たちを見回した。手塩にかけた選りすぐりだ。
「男が店から出たら人通りの途切れたところで全員で仕掛ける。ウィードの閃光で足を止め、クナイで仕留める。そして鍵を探って見つかればこの屋敷に戻る。馬車の準備は終わっているな?」
「いつでも」
部下の一人が答える。
「鍵が見つからなければ?」
別の部下の一人が尋ねる。
「娘を殺して帰還する。問題は男が店に居続けたときだ。ラグナル」
副官の名を呼ぶ。
「店の客は前半夜で帰る。お前はウィードと共に結界の四人と合流して正面から仕掛けよ。中の全員を殺せ。時間は最後の客が出てから四半刻後だ」
ラグナルが肯く。
「残り三名は俺と共に閃光を合図に裏口から仕掛ける。中の者を全員殺したら鍵を探す。見つからなくても半刻後には店を焼いてここにに戻る」
「薬師はどうしますか?」
娘を責め疲れた薬師は今は客間の一つでいぎたなく眠りこけている。
「我らが出払った後に目覚めて騒がれても面倒だ。たっぷり薬をやっておけ」
動いた。ガルバ二十八號の単眼は屋敷から忍び出るの六つの影を捉えた。この暗闇の中にしては静かで統制が取れている。人間にしてはなかなかの動きだ。それに比べてこいつは、と内心毒づいた。ジョーガンが後ろから近づいてきていた。動きが喧しく粗雑で繊細さを全く欠いている。人間には芸術性に欠けるというのがガルバ二十八號の持論だが、この若い牡はその中でも最低だ。
「どうですか?」
ジョーガンは這ってガルバ二十八號の隣に並ぶと、屋敷から目を離さずに深刻そうに小声で聞いてくる。
なんという耳障りな声だ。しかし態度には出さない。人間の社会の中で長く生きてきたおかげでこの蟲人にもそれなりの社交性が育っていた。
「お前はここにいろ。我は店に報せてくる」
「何かあったんですか?」
それに答えずガルバ二十八號は続ける。
「お前は斥候だったな?」
「はい、まだ駆け出しですけど」
「転職を勧める」
「え?」
ジョーガンが聞き返したときはもう既にガルバ二十八號の姿はなかった。
「もう少し落ち着きなさいな」
ジョッキにエールを注ぎながらニドがたしなめた。
店の中は客と娼婦でごった返している。喧騒を背にラミレルはエールを舐めながら答えた。
「待つのは性に合わない」
「マーニャって娘がそんなに気になる?」
「マーニャと約束した。安住の地に連れて行くと」
「あなたって女の前で他の女の話をするのね」
「それだけじゃない。あの娘の頭の中には子爵の死の真相が入っているかもしれない」
「今時昔のお知り合いの仇討ち?」
「古いか?」
「古風な男って好きよ」
ニドがにんまり笑う。
「やめろ、老いぼれをからかうな」
「あら、試してもいいのよ。赤ん坊みたいに泣いてみたくない?」
その時、扉が開いてガルバ二十八號が店に入ってきた。つかつかと進んでラミレルの背後で立ち止まる。体側の排気孔が微妙に歪んだ。蟲人の発声器官はそこにある。
「娘を見つけた」
蟲人ははっきりとそう言った。
その声にラミレルが振り返った。ガルバ二十八號を見つめる。
「確認したのか」
蟲人は触覚をニドに向けた。
「よいのか?」
「この件の依頼主よ。構わないわ」
ガルバ二十八號はラミレルに顔を向けた。
「我の単眼が見た。屋敷の地下に小さい生命の光が一つ。屋敷の者どもの光は無秩序に動き回っていたが、その光だけはその場に留まっていた。恐らく監禁されているのだろう。死ぬほどではないがひどく弱っている」
「屋敷には何人いる?」
「今は娘の他に一人だ。そいつは二階で寝入っている。他に厩に馬車が一輌、馬が二頭つながれている。番犬の類はいなかった」
「忍び込めるか?」
「その前にすることがある」
「何かあったの?」
ニドが口を挟む。
「屋敷には他にニンジャらしき者どもが十名。二波に分かれて全員が一刻半程前に屋敷を出た。ここに戻る途中で身を潜めて店を見張る斥候を二人確認した」
「つまり……」
ニドが呟く。ガルバ二十八號が頷いた。
「間違いない、ニンジャどもはこの店を狙っている」
そう言うとカウンターの左隅の椅子に座ってニドに訊いた。
「今日のおすすめの果物は何だ?」
「狙いは俺だ。店を出る」
剣を取って立ち上がろうとするラミレルの袖をカウンターから身を乗り出したニドが掴む。
「待って、一人じゃ危ないわ」
「店に迷惑がかかる」
ニドの紅い瞳がラミレルを見上げる。
「そんなことを言われて男を引き止めない女はいないわよ」
「しかし……」
ラミレルの言葉をニドは眼で制した。
「ここがどんな店なのか忘れたの?」
微笑むとニドはそのまま体を押し上げてカウンターに仁王立った。
店の喧騒が急速に引いていく。客の視線がニドに集まる。
店が鎮まるのを待ってニドが口を切った。
「呼んでないお客が来るの。人数は十人ほどで役人じゃない。歓迎パーティの参加者を募るわ。銀貨二十枚で八人よ」
静かだがよく通る声だ。カウンター席に座ったガルバ二十八號が片方の前腕を上げた。
「一人は我だ」
やがて次々に七人の男たちが立ち上がり、ニドに相対した。人間が二人、エルフが一人、ドワーフが二人、オークが一人、ゴブリンが一人だ。ニドは満足そうに頷く。
「ご参加ありがとう。とっても嬉しいわ。今の人たちは後で話を詰めるから帰っちゃだめよ。今日はみんは店の奢りよ」
これで終わりと言わんばかりにカウンターから身を翻す。歓声が上がり喧騒が戻る。その騒音を背にニドがラミレルの右に座った。
「ほらね?」
「俺を入れても九人、少なくないか?」
「あら、私たちも勘定に入れたら十六人よ」
「アイカまで巻き込むのか?」
グスタフたちに混ざって料理を捧げ持ってテーブルの間を駆け回るアイカを見やる。あんな少女を鉄火場に巻き込むのは正気とは思えない。
「大丈夫よ。あの子も自分の身は自分で守れるわ」
その時、ロラが盆を持って出てきた。ガルバ二十八號の前に料理を置く。巨大な鉢に入った果物の盛り合わせと果実酒の瓶だ。
「ガルバ二十八號さん、お疲れ様でした。店の奢りですからどんどん召し上がってくださいね」
蟲人に向かってにこりと笑った。
「ロラ殿に礼を言う。しかしこれで十分だ。今日はまだ仕事が残っている」
そう言うと瓶を逆さにして果物の鉢に注ぎ、勢いよく頭を突っ込んだ。
ロラがラミレルの前までやってくる。
「姉さん、お話のほうは終わりました?」
「ええ、マーニャちゃんをさらった連中をここで迎え撃って、その後でマーニャちゃんを助け出すわ」
「あの閃光魔法は厄介だぞ」
光の洪水と衝撃を思い出した。
「大丈夫よ、閃光は私が何とかする」
ラミレルが軽く眼を剥いた。
「できるのか?」
「これでも昔は魔導兵で鳴らしたんですからね」
「三等魔導兵でしたけどね」
ロラが口を挟んだ。
「何よ、そんなの関係ないわよ。大丈夫、閃光は封じてあげるから」
「ええ、ラミレルさん、姉はこういうことは確かです。安心してください」
「じゃあ私は客と話をしてくるわ。カウンターをお願い」
ニドはそう言い残すとテーブルの客たちに向って歩き去った。
「お昼の続きがまだでしたね?」
あの後アイカたちが帰ってきてロラは昼食の準備に忙殺されたせいで、ろくに話もせずに終わっていた。カウンター越しにロラの切れ長で二重の眼がラミレルを真っ直ぐ見据える。瞳は血のように赤い。カウンターにロラの双球が載っている。なんたる巨きな乳。
ラミレルは紙巻をくわえると火打石で火をつけ、軽く煙を吐いた。
「もうすぐここは修羅場になる。どうして平気なんだ?」
「ラミレルさんがいますから」
「俺は娘を目の前で攫われた愚か者だ」
襤褸を着て髪を切って俺に助けを求めに逃げてきた娘を俺は救えなかった。
ロラの腕が上がり、人差し指がラミレルの口に触れた。
「マーニャさんのことは心配しないで。きっと大丈夫ですわ。それに」
白磁の肌の長身の娘は優しく微笑んだ。
「女の前で他の女の話をするのは失礼ですよ」
「同じことをニドにも言われた」
「それも失礼ですわ」
そう言ってパイプを取り出す。火打石を擦って火をつけるとそっと紫煙を吐いた。
「その剣はどうされたんです?かなりの業物と見ましたけど」
「これは内戦の時に使ったものだ」
カウンターに立てかけた剣の柄に手を置く。
「高かったでしょう?」
「いや、これは支給されたものだ。俺には魔法剣を使える程度の魔力があったからな」
戦場では魔法武器を使える兵士は重宝される。隊列の最前列に立ったり、敵城の城門に最初に突っ込むのは魔法武器を持った兵士の役目だ。危険な仕事なので給料だけはいい。倍給兵と呼ばれる由縁だ。
「あんたは内戦の頃はどこにいた?」
「私たちはちょうど帝国にいたんです」
「同じ頃に帝国も戦争だったはずだ。確か皇位を争った継承戦争とか」
「はい、私たち姉妹は帝国の北のほうにいたんです」
「軍にいたのか?」
ニドが魔導兵だったと言っていた。
「ええ、バレル傭兵団ってところにいたんです。聞いたことあります?」
「もう十年も前の話だ」
ダークエルフのニドはともかく、その頃のロラはまだ年端もいかぬ子供だったはずだ。軍が少年少女を補助兵として使うのはよくあることだ。子供は小柄で目立ちにくく狭所にも入れるので伝令に向いているとされていた。マメルス支隊でもそういう子供たちは珍しくなかった。
「大変だったんだな」
「ええ、ニド姉さんに守られて毎日雛みたいにぴいぴい泣いてましたわ」
「今の姿からは想像できないな」
「ふふ」
「ロラも苦労してきたんだな」
「でもおかげでこうして店を持ててラミレルさんとお話できるのですから」
そっとラミレルの左手に手を添える。
「捨てたものではありませんね」
そう言って目を細めて微笑んだ。ラミレルにゆっくりと顔を寄せる。艶の入った厚めの形のいい唇が目に入った。ロラの体臭が甘い。
「こんな大胆な女だとは知らなかった」
「さっきも聞きました」
「厨房はいいのか?」
「アイカがいますわ」
互いの唇が触れるまでもう一寸もなかった。
「はいそこまで」
いつの間にか後ろに立ったニドが二人を睨む。
「そろそろ店仕舞いよ。呼んでないお客が来るわ」
振り返るといつの間にか客の数が減っていた。残っているのは先ほど銀二十枚でニドの募集に応じた八人だけだ。皆めいめいの席についているが、それぞれに得物を手にし、気配を殺して石像のように動かない。確かゼベルという名のゴブリンが視線だけラミレスに向けて好色に笑った。
「ロラ、みんなに酔い覚ましの黒茶を淹れてあげて、思いっ切り苦いのをね」
赤面したロラが足早に厨房に駆け入った。
「見せつけてくれるじゃない。ロラを泣かせたら許さないわよ」
楽しそうにからかうようにニドが詰る。
「あんたはロラのママじゃない」
「でも大切な妹よ」
「いい娘だ。こんな店には惜しい」
「やめてよ、料理人がいなくなったらこの店閉めなきゃならなくなるわ」
「アイカたちがいるだろう? それに他所から料理人を雇えばいい」
「この店をやりたいって言い出したのはロラなのよ」
知らなかった。話題を変えようと店内を見回す。アイカとグスタフたち四人がモップや雑巾で忙しく掃除していた。とても敵の襲撃を待ち構えているとは思えない光景だ。
「客に比べてあんたの妹たちは緊張感がないな」
「あら、息を潜めてたら仕掛けてこないでしょ。普段通りにしないとね。あれは誘ってるのよ」
「アイカにそんな危ない真似を……」
ニドが手を上げてラミレルの言葉を遮った。アイカたちが掃除をやめて静かに四方に散る。アイカがラミレルの横に滑り込んだ。
「ニド姉さん、気配が動いた」
アイカが唇を動かさずに小声で告げた。
「ええ、来るわね」
戸口に眼を向けたままニドが応える。いつの間にか左手に短杖を握っている。
「あなた、ここで死なないでよ」
ニドが横目でラミレルを見やると唇を歪めた。笑ったのだ。
だしぬけに部屋の真ん中、床から一間程の中空に光球が浮かんだ。小さく揺れながら膨張しようとした矢先、ニドが短杖を振った。杖の魔法輪が高速回転している。一陣の突風。店の隅の胴鍋が飛び、丁半博打の壺皿のように光球を呑むと床に伏せた。
「耳を塞いで!」
ニドの短い叫び。両手を耳に当てて一拍もしないうちに凄まじい轟音が響いた。床の震動が収まるのを待って掌を耳から離す。
「任せろ」
声がした。ネザルという名のエルフが転げ出ると膝立ちになり半弓をひょうと放つ。矢は戸口を抜けて闇の中に消えた。
「手応えはあった」
ネザルが告げたのとほぼ同時に戸口から五つの影が飛び込んだ。常人にはありえない跳躍で店の中に散る。全員が頭から足の先まで黒装束、布で隠れた顔は目しか見えない。全員が背の直刀を音もなく抜いた。
「気をつけろ。鎖帷子を仕込んでる」
ラミレルが声を掛けた。
ザークリフという名のオークが前に出ると鋼の六尺棒を横に薙いだ。ニンジャの一人の刀が弾け飛ぶ。しかし、刀を失ったニンジャはそのまま前に踏み出すと掌をザークリフの腹にとんと置いた。ザークリフががくりと膝をつく。驚いて目を見張った。分厚い腹筋の下で臓物が灼けるように熱い。握り潰されるような痛み。寸勁という技だと後から聞いた。覆面の隙間からニンジャの目が笑う。敵に嗤われるとは。なんたる屈辱。部族の名を唱えて立ち上がると六尺棒を捨てて手を拡げた。捕まえればこちらのものだ。太い左腕が唸りを上げる。しかし敵の姿はそこにはなかった。左後ろから後頭部に激痛。意識が遠のく。しかし、一発は喰らうものと覚悟していた。そのまま斜め左後ろに跳ぶ。右足を軸に体を回転させる。体の回転は速い。ニンジャを正面に捕らえた。突き出した左の掌が僅かにニンジャの肩先を掠める。それだけで十分だった。ニンジャの体がのけぞる。すぐに態勢を立て直そうとしたが間に合わなかった。オークの巨大な掌がニンジャの頭を握り込む。太い指の間からオークの笑顔が見える。石を割るような音が鳴ってニンジャの意識が暗転した。
ドワーフのスベンとヘギヌは戦斧を振るってニンジャの一人を追い詰めていた。背が五尺に満たず、執拗に脛を狙うドワーフは厄介な相手だ。しかしニンジャの跳躍力の前では相手にならない。ニンジャは内心ほくそ笑む。跳躍して戦斧を避け、頭上から懐の十字手裏剣を打った。ドワーフの一人が右肩と背中に手裏剣を受けて膝をつく。豹紋蛸の神経毒を塗ってある。致死性は低いが即効性だ。同胞を倒されたドワーフが唸る。戦斧を大上段から振り下ろしてきた。頭に血が上って隙だらけだ。短慮なドワーフめ。再び跳躍した瞬間、小さな影がドワーフの背を蹴って飛び込んできた。フードを目深に被ったゴブリンだった。ゴブリンは奇声を上げながらニンジャに組み付いてきた。懐に入れた左手を抑えられた。組み合ったまま床に落ちる。落下の衝撃で右肘が痺れ、刀が落ちた。不覚、大上段の構えは背後のゴブリンを隠すためか。ゴブリンの首に手を掛けようとした刹那、左脇に衝撃がきた。こいつは小具足術の達人だ。何とかしなければ。しかし、左手は押さえられ右手は動かない。せめて相手の顔を見ようとしたが目が霞んできた。
ラグナルは混乱していた。店の中には男一人と女七人のはずだった。まさかこれだけの数が潜んでいたとは。ウィードは肩を射抜かれて重傷だ。部下の二人はオークとドワーフ二人と斬り結んでいる。こんなはずではなかった。店の奥に目を向ける。カウンターの手前に標的の男がいた。その手前に剣を構えた男が二人。標的さえ倒して裏口の四人と合流すれば後は何とかなる。一瞬で段取りを決めた。部下の二人に声をかける。
「手前の二人は任せろ。標的を殺れ」
返事も待たずに前に出る。右の男に斬りかかり、返す刀で左の男を襲う。その頭上を二人のニンジャが飛び越えた。しかし、右から鉤爪が唸りを上げてニンジャを襲う。着地した瞬間に横に跳んで間一髪で避けた。
「素晴らしい動きだ」
床板から引き抜いた鉤爪を舐めながら蟲人が立っていた。もう片方の手には鎚鉾が握られている。今までどこにいたのか?一瞬迷ったがすぐ合点がいった。こいつは今まで天井に張り付いて機を窺っていたのだ。蟲人に向かって一人が刀を構えた。わずかに肩で合図をする。もう一人が標的に向かって跳ねた。
ラミレルはニンジャが迫ってくるのを認めると、ニドとアイカを庇うように前に出た。剣を抜き上段に構えた。やや左肩に隙を作る。ニンジャは奇襲や暗殺は得意だが真正面から戦えば戦士の敵ではない。揃いの異装も敵を威嚇するためだ。
ニンジャが脇構えから横薙ぎに斬りかかった。ラミレルの刀が一閃した。一瞬早くラミレルの剣がニンジャの両手を斬り落とす。刀を握ったままの両手首が床に跳ね落ちた。
標的に襲い掛かった部下が斃れたのをラグナルは信じられない気持ちで見ていた。既に二人が斃されている。ウィードも使い物にならない。搦手の四人はまだ現れない。いったい何をしているのか。既に戦えるのは自分を含めて二人だけだ。敵はじりじりとこちらを包囲しようとしている。退き時だった。鋭く口笛を吹くと手近の灯火に煙玉を投げた。ランプが割れ、火が移った煙玉が猛烈な煙を噴き上げる。その隙に、ニンジャは戸口に向かって跳躍した。ネザルとゼベルが後を追う。
「待って!」
ニドの声に二人の足が止まる。
「どうせ行先はわかってるわ」
グスタフたちが煙玉を濡れたモップで押し消していた。店内は窓がない。煙はなかなか薄まらなかった。
「おかしい」
ラミレルが呟いた。
「ガルバは敵が十名だと言った。しかし今の敵は六名だ。勘定が合わない」
「ああ、きっと残りは裏口から入ったんでしょうね」
ニドが答えた。この店の出入り口は正面と裏口に二つしかない。
「裏口から真っ直ぐ厨房だぞ。ロラが危ない」
「大丈夫よ。あの子は厨房じゃ負けないから」
「相手は四人だ。心配じゃないのか?」
「私はロラのママじゃないわ」
まだ濃く立ちこめる煙の中をラミレルは厨房に駆け出した。
合図の閃光魔法の轟音は聞こえた。しかしいつもの閃光と衝撃波は確認できなかった。何かあったのか。しかし逡巡は一呼吸だけだった。グレンが足を進める。部下三人が黙って続いた。荒縄を越え裏口をそっと開けると一列で足音も立てずに短い廊下を小走りに抜ける。すぐに厨房だ。扉を蹴った。中は狭く林立した厨房道具がグレンたちを出迎えた。女が一人、急須で茶碗に茶を注ぐ姿勢のまま凍って闖入者を見つめている。白肌黒髪のひどく背の高い娘。部下の下調べ通りだった。
グレンが顎をしゃくる。打合せ通りに二人の部下が前に出た。懐のクナイを抜くと歩調を落とさず女に近づく。
女が急須を置いて口を開いた。
「もう店仕舞いなんですけど」
状況を理解できていないのか、呑気な声にグレンは微かに苛立った。
先頭の部下が短く息を吐くとクナイを突き出す。終わりだ、とグレンは思った。胃を刺されたら激痛で声を出すことなく絶命する。
次の瞬間、グレンは自分の目を疑った。クナイが女に届く寸前、女はいつの間にか右手に持った俎板でニンジャの左側頭部を強打したのだ。幅一尺、長さ一尺半の俎板の威力は強烈だった。雲鑼のような騒音とともにニンジャの体が調理道具の列に頭から突っ込んだ。
すかさず二人目のニンジャが突きを入れる。女が右手を返してクナイを弾き飛ばした。女の体が開く。クナイは誘いだ。そのままニンジャの左拳が上段の突きを放った。女の奔放すぎる乳房が波打つのが服の上からでもわかった。しかし、女は平然と、
「乱暴は」
俎板を捨て、突っ込んできたニンジャの肩を抱き込むと、ぐいと手前に抱き込んだ。女のしなやかな両腕が蛇のようにニンジャの腕に巻きついた。
「何を……」
ニンジャの声が途切れる。顔は女のわがままな胸に押しつけられ、両腕は女の腕に極められた。息もできず身動きもできない。背筋が伸びた。
「いけませんわ」
悲鳴と同時に嫌な音がして両腕がだらりと落ちた。ニンジャの両腕をへし折ったのは閂という。失われた古代の格闘術の禁じ手だ。
なんだこの女は。グレンは信じられなかった。腕利きのニンジャ二人が数瞬で無力化されたのだ。間合いを切って女と対峙する。その時、退き笛が聞こえた。正面の六人に何があったのかわからないが、ラグナルたちが退いたのはわかった。簡単な仕掛けのはずだったのに。どうしてこうなった。しかし長居が無用なのは理解した。
「退くぞ」
グレンが脱兎のごとく裏口に向けて身を翻す。残った部下が後に続いた。
ラミレルが厨房に駆け込んだとき、ニンジャの一人は気を失って床に伸び、もう一人は激痛に身を捩っていた。
「ロラがやったのか?」
ニンジャを見下ろしながらラミレルが訊く。佇んでいたロラが振り返る。ラミレルを認めた顔に微笑が浮かぶ。
「危ないところでしたわ。運がよかったんです」
とても危なかったようには見えない。
「皆のところに戻ろう」
ロラがすっと右手を上げる。
「手を引いていただけません?」
手の甲の向こうにはにかんだロラの貌が浮かぶ。
ラミレルは黙ってロラの手を取ると厨房を後にした。
ホールに戻ると煙は随分薄まっていた。煤がひどい。床が血でべっとり濡れている。
「掃除が大変だわ」
ロラが嬉しそうに呟いた。
床にはニンジャの死体が二つ転がっている。それともうすぐ死体になるニンジャが一人。
こちらは手負いが一人。まだ痺れが取れないのかスベンが力なく椅子に座っている。髭面がラミレルに向いて不敵に笑ったがまだ辛そうだ。
ラミレルがニドに声をかけた。
「厨房に二人転がっている。死んではいない」
「アイカ、グスタフとカールを連れて拾ってきて」
両手首を失ってうずくまっているニンジャを吸いかけのパイプで指す。
「ドーラはそこの死にかけを手当てして、ポーションをいくら使ってもいいから」
「助けるのか?」
ラミレルが訊く。
「そうよ、もうここでの決着はついたし。生命ってのはとても大事なものなのよ」
ドーラは無表情にドレスの裾を裂くとニンジャの血溜まりに膝をついた。落ちた手首を拾って前腕に縛りつける。ニンジャが低く呻いた。血を失いすぎて意識も消えかけている。ドーラがニンジャの頭を片手で抱え、空いた手でポーション瓶を開け口に含むとニンジャの血まみれの口に重ねた。ニンジャの喉が力なく動く。それを二度三度繰り返した。
「大丈夫、助かります」
ドーラが血に汚れた顔を上げ、ニドに告げた。
「てっきり殺すと思っていた」
「まさか」
ニドが吹き出すように笑う。
「私たちは冒険者じゃないのよ」
ラミレルに向き直る。
「戦いってのは交渉よ。交渉が終わったら無用な殺生なんてしないわ」
厨房からニンジャを抱えたグスタフとカールを連れてアイカが戻ってきた。
「ニド姉さん、厨房散らかってるよ。とっても」
「今夜は大掃除にいい日ね」
「連中の逃げた先はわかってると言ったな」
ラミレルが聞いた。
「それは我が案内しよう」
静かに佇んでいたガルバ二十八號が口を挟んだ。
「アイカとグスタフたち三人は後始末とニンジャの怪我人の手当てをお願い。逃げ出さないようにちゃんと縛っておくのよ」
「ハリー、クライン」
人間の戦士二人に声をかけた。
「死体の始末をお願い。ちゃんと身ぐるみ剥いで共同墓地に放り込んで」
ハリーとクラインが軽く手を上げて頷く。
「スベンとザークリフは残って休んでて。残りはニンジャのアジトに仕掛けるわよ。マーニャちゃんを助けないとね」
ザークリフが抗議の声を上げた。
「俺も行く。俺はまだやれる」
「あなた結構痛そうよ? 無理しちゃだめ」
オークの戦士に禁句は幾つもあるが、無理をするなは最たるものだ。ザークリフが怒りの表情でニドの前に立った。割って入ろうとするラミレルを手で制すると、ニドは右手を伸ばしてオークの緑色の腹を愛おしくなぞった。オークを見上げる。
「駄目よ。万が一あなたに何かあったら私泣いちゃうわよ? お願いだから残って」
オークの表情が和らぐ。
「お主がそう言うなら仕方ない」
「痛みが引いたらアイカたちを手伝ってあげて。あの子、この間もザークリフさんに肩車されちゃったってはしゃいでたわ」
仕方ないというふうにザークリフが苦笑した。
「やむをえん。留守は任せろ」
「さて、準備がいいかしら?」
ニドが一同を振り返った。
「ロラ、お前も行くのか?」
「ええ、人手が足りませんから」
にっこり笑う。どこから引っ張り出したのか、五尺はありそうな大剣を背負っている。緑のシャツに藍染のズボン、茶革の前掛といういつもの厨房の格好にはあまりにも不釣り合いだ。
「駄目だ、ロラは残ってくれ。まだ敵は五人残ってる。下手をするとフラドの手下どもも駆けつけてくる」
「心配してくれて嬉しいですわ」
嬉しそうな表情だが梃子でも動きそうになう。
「しかし」
なおも続けようとするラミレルをニドの叱声が遮った。
「はいそこ痴話喧嘩しないで」
笑い声が上がった。
「では行くぞ。ここから一里もない」
ガルバ二十八號が声をかけると走り出し、続いて六つの影が夜の町に飛び出した。
やはり煙草はやめるべきだ。走り出してすぐラミレルは後悔した。一里の道程はラミレルにとってたいした距離ではないはずだった。しかし、途中で顔をしかめた。息切れしてることに気づいたのだ。まさか自分が老いるとは。皆は夜の道を跳ねるように走っている。自分の年齢を思い出す。つい弱音を吐きそうになってラミレルは奥歯を噛んだ。
もう一年も走り続けているような気がする。長い夜だ。これほど体力の衰えを感じたことはなかった。だが走るしかない。マーニャとの約束を果たすために。自分の息がやかましい。心臓が途方もなく荒い。土砂降りのように汗が顔を濡らす。腰で跳ねる剣がうるさい。やがて廃屋の陰に仲間たちがうずくまっているのが見えた。最後の力を振り絞って駆け込んだ。
解放感も安堵もなかった。上体を折り曲げて息を整えようと喘ぐ。膝を突かなかっただけでも自分を褒めてやりたい。見張りのジョーガンが差し出した革袋を引ったくり、口を開けて饐えた水を呑み込んでようやく息が落ち着いた。
「大丈夫ですか?」
ロラが心配そうに小声でささやく。
「ああ」
精一杯虚勢を張った。ニドが面白そうに声をかけてきた。
「齢なんだから無理しないでよね」
「大丈夫だ。心配するな」
気の利いた台詞も思いつかない。
「それだけ元気なら大丈夫ね。じゃあこっち来て」
傾いた柱を伝って屋根裏に上がるともう既に皆が蹲って屋敷を見つめていた。門から大通まであばら家の群れを割るように曲がりくねった小道が見えた。
「どう攻める?」
ネザルが誰にともなく口を利いた。ガルバ二十八號の体側の排気孔が動いた。
「屋敷には七人、娘はまだ地下室だ。他に一階に一人動かない者。恐らくネザルの矢で負傷したニンジャだ」
「確かなのか?」
疑わしい顔でヘギヌが訊いた。
「我が単眼は嘘を言わぬ」
ヘギヌがつまらなそうに鼻を鳴らした。
「他の五人は活発に動き回っている」
それだけはラミレルにもわかった。屋敷は灯を落としているが気配は伝わってくる。まるで撤収する陣地のようだ。
「奴ら、馬車で逃げるつもりなんですか?」
ジョーガンが呟いた。
「もしそうなら厄介だな」
大通りに出られたら止める術がない。
「時間がないぞ」
ネザルが苛立たし気に言う。
「一気に突入するか?」
ヘギヌが問う。
「駄目だ。人質が危ない」
ラミレルが否定した。
一瞬の沈黙の後、
「火ね」「火だ」
ニドとゼベルが同時に口を開いた。
短く小さい動揺が一同に走った。
「正気か?」
ネザルが呻いた。屋敷の周囲はあばら家だ。熟れた未亡人より簡単に燃え上がる。
「夜に家を攻めるときは火を使うのが一番だ。あの白樺の木はよく燃える」
ゼベルが得意気に答えた。
「火をつけて四方八方から攻めるのさ」
「誰が付け火する? 火矢は持ってないぞ」
「それは私がやるわ。火魔法は得意中の得意なの」
ニドが楽しそうに答える。
「俺も放火の用意はある。ゴブリンの嗜みだ」
ゼベルが腰の胴乱を揺すった。
「大火事になるぞ」
ネザルが食い下がった。
「コツがあるのさ。安心しろ。屋敷の外は枯れ葉一枚焦がさないさ」
ゼベルがせせら笑った。
「じゃあ決まりね」
「北からヘギヌ、東からネザルとジョーガン、西からガルバ二十八號、正面の南からラミレルとロラで責めて。目標は地下室。ゼベルは庭に赤猫したら正門を固めて。私は屋敷を燃やす。みんな、危ないと思ったら正門に来て」
全員が小さく頷いた。ニドが軽く笑った。
「昔を思い出すわね」
いったいどこで間違えた。グレンは自問した。店の中の標的の男と女たちを殺し、鍵を探すだけの簡単な仕掛けの筈だった。仕損じたどころか手勢の半数を喪って逃げる羽目になるとは。こんなはずではなかった。信じられない大失策だ。王都に帰還するにしても何か手土産がなければスペイサー侯爵は納得すまい。
「娘を連れてこい」
部下の一人に命じる。
「殺すので?」
「娘を連れて撤収する」
その時、階段から黒い長衣を引っかけた長い銀髪の優男が降りてきた。
「まだ途中なんだけどねえ」
階段の手すりに寄りかかって階下を見渡した。
「一服盛ったのではなかったのか?」
グレンが部下に質す。
「ぼくは生まれつき薬が効きにくい体質なのさ」
薬師が髪を気取った手つきで梳き上げた。
(虚仮を言う。薬のやりすぎで耐性がついただけだ)
グレンは内心毒づいた。フラドに頼んで来てもらったがこいつはただの薬中だ。いやそれ以下の畜生だ。この男はただの娘を一晩で重度のポーション中毒者に仕立て上げたのだ。
「それより我らはただちに出立する。貴様も帰れ」
「もうすぐ封印が解けそうなんだけどねえ」
「黙れ、お前は娘をポーション漬けにして玩具にしただけだ」
反吐が出そうな光景が脳裏に蘇った。娘の悲鳴と薬師の嘲笑を思い出す。そんなグレンの思いも知らず、薬師は優雅にグレンに近づく。濃い香水の匂いがグレンを更にむかつかせる。
「そんなこと言わずに……」
言葉が途切れた。薬師の媚びるような笑顔が停止した。後ろに回った部下がクナイを右脇腹に深く突き立てたのだ。そのままゆっくりと抉る。激痛に薬師は崩れ落ち、海から捕れた魚のように身をよじらせた。床に広がる血が黒い。四半刻で血を失って死ぬだろう。
「すみません。我慢できませんでした」
部下が詫びた。
「いや、謝ることはない。俺も殺すつもりだった」
瀕死の薬師を冷たく見下ろすと、その背を蹴った。
「それより馬車の支度を急げ」
この屋敷も知られているかもしれない。
ふと窓に目をやったグレンの動きが止まった。遮光布が引かれた窓の隙間から光が見える。かすかに何かが弾ける音と焦げた臭い。
(なんだ?)
窓に近づいて隙間を覗く。信じられない光景だった。庭の木が炎上している。それも何本も。何が起こっているんだ。部下の叫び声が上がった。
「二階が火事です!」
奴らが攻めてきたのだ。一瞬で理解した。
「残った荷物は置いていけ! 娘を早く引っ張ってこい!」
こんな貧民窟で火攻めとは。気狂いどもめ。やはりこうでなくては。
グレンは覆面の下でふてぶてしく笑った。
ニドが振る短杖の頭から炎が伸びる。火魔法の中でも最も低位の魔法だ。ただし炎の量が尋常ではない。巨大な火炎の舌が屋敷を嘗め回していた。フラドが遠くの街から役者を雇ってまでして手に入れた屋敷が松明のように燃え上がった。炎に照らされたニドの顔は艶めかしい歓喜に染まっている。
「少し派手じゃないか?これではマーニャが焼け死ぬぞ」
呆れたようにラミレルが呟いた。
「大丈夫、姉さんはちゃんと手加減してます」
ロラが答えた。
「あれでか?」
「ちゃんと皆の進入口は確保してます」
確かに戸口の周りの壁は焦げてもいない。
「他の人たちはみんな屋敷に入ったみたいですね。私たちも行きましょう」
「ああ」
ロラに促されてラミレルは正面玄関に向けて駆け出した。玄関に辿り着いたのと厩の扉が開いたのはほとんど同時だった。二頭立の馬車が飛び出した。
ラミレルの足が止まる。作戦が失敗したことを悟った。敵の反応が早い。ニンジャたちは火に混乱することなく、一点突破で離脱しようとしている。
軽騎兵用の一級軍馬二頭に牽かれた馬車は砂塵を巻いて燃える白樺の列を抜けようとしていた。ラミレルとロラが踵を返して追うが距離は開くばかり。正門にいるゼベル一人では防げない。ニドが杖を向ける。ラミレルが叫んだ。
「やめろ! マーニャが乗っている!」
確かめたわけではない。直観だった。
馬車は速度を上げて正門に殺到していた。ゼベルの姿を捜す。すぐ見つかった。馬車と正門の間に揃えた両膝を地につけた奇妙な恰好で座っている。恐怖で動けないのか、ゴブリンは微動だにしない。
「ゼベル! 逃げろ!」
荷台から前を見ていたグレンもラミレルと同じことを考えた。迫る馬車に腰が抜けて座り込んだ哀れなゴブリンだ。
「そのまま踏み潰せ!」
御者台の部下に短く指示を飛ばす。その時、グレンはゴブリンの姿勢が妙なことに気づいた。両膝を地につき、両の手を膝に置き、背筋を真っ直ぐ伸ばした姿勢。まさかあれはサムライの奥義のひとつセイザの構え……。
馬車が通り過ぎたとき、砂塵に隠れてラミレルからはゼベルが見えなかった。だからゼベルが何をしたのかわからなかった。ようやく砂塵が薄れ、ゼベルが手斧を手に立っているのが見えた。一瞬の安堵。直後、馬車が右膝をつくように傾いだ。馬の悲鳴と轟音。馬車はそのまま一回転して地面に倒れこんだ。
ゼベルの手斧が車輪を留める小さなピンを正確に叩き割ったのだ。馬車の車輪がひとつ、砂塵の中をごろごろ転がって正門の門柱に当たって倒れた。
馬車から飛び出した影は五つ。駆けつけたラミレルとロラを認めると静かに背の忍刀を抜き、三人が前に出て横列を組んだ。後ろのニンジャの片方が左手を掲げる。短杖の杖頭が見える。あいつが閃光使いだ。魔法を使われると危ない。前列の三人が突進した。
ラミレルが小声でロラに告げる。
「前の三人は任せろ。後ろの魔法使いを頼む」
ロラが無言で右に跳び、大きく迂回して閃光使いに向かって疾走した。
ニンジャの前衛三人はロラを無視してラミレルに向かって突っ込んできた。サムライやニンジャが好んで使う三位一体の必殺戦法だ。
ラミレルが足を止め、剣を霞に構えた。
突進するラグナルはほくそ笑んだ。三位一体陣に対して足を止めて迎え撃つのは最大の愚行だ。
「いくぞ」
左右の部下に合図するとラグナルは跳躍した。左右と上空からの同時攻撃。全ての攻撃を避けるのは無理だ。
ラミレルの上体が沈んだ。
無駄なことだ。ラグナルは勝利を確信した。
その瞬間、黒い影が視界に入った。刀を上げてその影を弾き飛ばす。手斧だった。いつの間にかラミレルの背後に回り込んでいたゴブリンが投擲したのだ。ニンジャの反射神経がなければ脳天を直撃していただろう。
着地してラミレルに向かい合った。既に二人の部下は斬り伏せられ、地面に転がっている。血剣を提げたラミレルが向き直った。体の奥から怒りが湧き上がる。
刀を振りかぶって斬りかかった。しかし、その刹那にラミレルの剣が喉笛を突き破っていた。笛の音を聞いたような気がしてラグナルの意識が途絶えた。
ウィードを狙って女が駆けてくるのを見たグレンは、前に出て女の前に立ちはだかった。女が立ち止まる。厨房にいた背の高い女だ。こいつに部下を二人やられた。油断ならない。しかしこちらは抜刀しているのに女はまだ剣を抜いていない。迂闊な女だ。今度こそ仕留める。
女が右手を左肩に回し、背に吊った大剣の柄に手をかけた。大剣を鞘から抜くのは一苦労だ。そんな暇は与えない。グレンは一気に間合いを詰めると、女のがら空きの胴に向かって必殺の斬撃を繰り出した。
その時、影縫いのグレンは稲妻を見た。大きく鈍い音と口中に広がる鉄の味。女が大剣を鞘ごと振り下ろしグレンの脳天を革兜ごと砕いていた。振った刀の勢いに引かれてグレンの体は一度大きく回ると、その場にへたり込むように崩れ落ちた。
ロラが無表情に最後の一人に向き直った。追い詰められたニンジャが短杖をロラに向ける。しかしその腰は逃げたがっていた。
ロラが静かに語りかける。
「もう終わりです。降参していただけます?」
ロラの言葉は耳に入らなかった。ニンジャが短杖を振り上げる。しかしロラに向かって振ることはできなかった。頭にクナイが二本突き刺さっていた。ゼベルがニンジャの懐から奪って投げたのだ。小さく呻くとニンジャはその場に倒れた。
マーニャは白い簡素な寝衣を着て馬車の残骸の中にいた。ロラとゼベルの手を借りて引っ張り出す。地面に仰臥されたマーニャの胸がかすかに上下しているが、気を失っているのか眠っているのか、揺すっても反応はない。
その頃には屋敷に突入した面々がマーニャとラミレルの周りに集まってきていた。
「ああ……」
ニドが小さく呻いた。
「なんだ?」
「ポーション漬けよ。侠家が女を言いなりにするときによく使う手だわ」
「治るのか?」
「わからないわ。かなり乱暴にやったみたい」
ニドがマーニャの首筋に手を当てる。
「限界をはるかに超えたポーションを過剰摂取させられてる」
ニドが顔を上げてラミレルに囁いた。
「生命力がひどく弱ってるわ。摂取したポーションが今もどんどん生命力を削ってるの。命が危ないわ」
マーニャの顔は青ざめ、息がか細い。
「家の中に薬の売人らしい死体があった。恐らくそいつが下手人だ」
ヘギルが口を挟んだ。
ラミレルはただマーニャの顔を見つめた。戦場で瀕死の戦友をこうやって見送ったことは何度も経験していた。しかしこの娘は違う。死ぬ思いをしてラミレルに助けを求めてきたのだ。そんな娘との約束を俺は守れなかった。
ズボンのおとしを探り、引っ張り出した木片をマーニャの手に握らせた。
その時奇跡が起こった。と誰もが思った。
マーニャがかっと目を見開いたのだ。
「マーニャ」
ラミレルが声をかけた。しかし、マーニャの眼は夜の星を見つめたまま動かない。やがて唇が開き、朗々と謡いだした。
「親愛なる五つの大陸の統治者にして帝国の正統後継者、民の守護者であるサバル皇太子殿下に文を奉じます。
殿下のお力添えにより七つの州で叛乱計画は着々と進んでおります。
特に殿下のお送りくださった者たちと資金により、多数の要人や商人、各地の豪族どもを叛乱側に組み入れることができました。
更に、伝道師や講釈師、吟遊詩人など数多雇い入れ、汚らわしい王室に対する怨嗟の念が民の間で満ち満ちております」
「何なんです?」
ジョーガンの間の抜けた声を苛立たし気にガルバ二十八號が手で遮った。
ニドが小声で告げる。
「黙って。この子に封印されてた記憶よ」
全員が黙り込んだ。その間もマーニャの謡は続く。
「いまやこの腐り果てた王国は腐敗と汚職と飢餓が猖獗を極めております。この叛乱で王国の力は益々減じることでしょう。近いうちに殿下がこの落魄した王国を併合され、その慈悲深き治世で民を平安に導かれることをお祈りいたします。
神聖暦二五三年水瓶月十五日、殿下の真の忠臣たるファーゴ・ハギンド・スペイサー侯爵より」
終わった。
やにわにマーニャの瞳が動いた。ラミレルの姿を認める。
「ああ、ラミレル様、助けにきてくれたのですね」
弱々しく手を伸ばす。それをラミレルは両手で受け止めた。マーニャの両目から涙が溢れる。
「ずっとラミレル様とナーゲルが助けに来てくれると信じてました」
「ああ、遅くなって本当にすまない」
「ナーゲルはどこです?」
「あいつも元気だ。もうすぐこっちに来る」
マーニャが周囲を見渡す。
「この方たちが私たちをミクマに連れて行ってくださるのですね」
誰もが立ちすくんだ。何と答えていいのか。ゴブリンすら目を伏せた。
「本当に私のような者のためにありがとうございます。みなさん。でも少し休ませてください。目が覚めたらミクマに……」
息が消えた。消えた瞬間がはっきりとわかった。だがラミレルの頭の中の誰かがわからないふりをした。だからラミレルはそのままじっと動かなかった。
「さあ、撤収よ。さっさと帰らないと野次馬に取り囲まれちゃうわ」
わざとさばさばした口調でニドが指示を飛ばす。
「ラミレル、行くわよ」
ラミレルはマーニャの肩に置いた手にそっと力を込めた。あと一刻もしないうちに朝日が昇る。
夜が明けて再び陽が沈み、あしか亭は客の賑わいに溢れていた。
カウンターの暖簾を割ってラミレルが店内に姿を現した。回り込んでカウンターの席に座る。
「よく眠れた?」
ニドが訊く。あの後あしか亭に戻ったラミレルは朝食を済ませると今まで店の寝室で寝ていたのだ。どんなに落ち込んでも寝れるときは寝てしまうのは兵士の呪われた習性の一つだ。
紙巻をくわえる。ニドが火打石で火を起こして差し出した。黙って火を受け取って一息吸う。
ロラがカウンターに入ってきた。エールが注がれたジョッキをそっとラミレルの前に置く。
「まさか内戦の黒幕がスペイサー侯爵だったなんてねえ」
ニドが煙をくゆらせながら呟いた。あの日付は内戦の始まる一年前のものだった。
「内戦の最初の年には侯爵の領地も戦火で壊滅的な被害を受けている。誰も侯爵が黒幕だったなんて信じない」
「叛乱を焚きつけてそれを叩き潰した手柄で出世なんて笑えないわね」
「あれは侯爵が帝国に送った非公式な手紙の中身だ。当時の帝国は継承戦争の真っ最中だった。王国に付け込まれることを恐れた皇太子派は、王国内で内乱を起こすことで国境の守りを万全にしようとしたのだろう」
サバル皇太子はいまや帝国に皇帝として君臨している。
「そしてそれに侯爵が一枚噛んだのね」
「どうやってあの手紙を子爵が手に入れたのかはわからない。だが子爵は手紙の中身を娘の頭の中に移した。手紙を失ったときの予備のために。そして恐らく手紙は失われた」
「でも口伝じゃ証拠にはならないわよ」
「ああ、だから子爵は宮中でスペイサー侯爵を殺そうとしたんだ。王国の逆賊を討つために。あの爺いは死ぬ時まで戦争をしてたのさ」
「捕まえたニンジャもスペイサー侯爵の命令だったって白状してたわよ」
ラミレルが驚いたように顔を上げた。
「拷問でもしたのか?」
「私を官憲と勘違いしてない? 怪我の手当てをしてご飯を食べさせてあげただけよ。それとちょっと身の上話に付き合ってあげたわ。ね?」
「ええ、みなさんおいしいおいしいって言ってくださいました」
ロラがにっこり笑った。
「それからどうしたんだ?」
「路銀を持たせて送り出したわ。もう王都には帰れないんですって。だから食い詰めたらうちに来なさいって言っておいたわ」
「この店を襲った連中だぞ。それでいいのか?」
「いいのよ」「はい」
ニドとロラが同時に答えた。
「さて、からくりも分かったしこれからどうするの?」
紫煙をさっと吐くとニドが尋ねた。
「落とし前をつけなければならない」
「子爵のほう? それとも娘のほう?」
「自分に、だ」
「どうせやることは一緒なのに」
「動機はとても大事だ。明日の日の出前には出る」
「じゃあ今晩はたくさん食べてたくさん飲んで精をつけないとね」
ロラに顔を向ける。
「ロラ、あの大きくて悪趣味な海老を仕入れてたわよね。あれ茹でてちょうだい」
「はい」
ロラが厨房に消えた。
「お腹一杯にしてお寝坊させてあげるわ」
まだ霧が残る仄暗い中、ラミレルは厩から引き出した馬に鞍を乗せていた。それをニドとロラが見守る。鐙にブーツを掛けて飛び乗ると、ゆっくりと二人の前に馬を進めた。
「本当にいいのか? この馬を貰って」
ニンジャの馬車を牽いていた馬だ。小柄だがかなり質はいい。
「いいのよ。餞別よ。それと」
ケープの中から帆布の袋を取り出してラミレルに差し出した。
「金はそっちで貰ってくれ」
「駄目よ。こっちも依頼にしくじったんだから。全額入ってるわ」
「店の修繕とか何かと入用だろう」
「んもう、こんな重い袋をいつまで女の細腕に引っ掛けておく気なの?」
「わかった。かたじけない」
苦笑しなから袋を受け取り、鞍の行李に放り込んだ。
「あの」
ロラが紙袋を差し出した。
「茹でたジャガイモが入ってます。よかったら食べてください」
「ああ、有難くいただこう」
優しく笑って紙袋を受け取り、行李に入れた。
「では世話になった」
「ええ、あなたに運命の女神の御加護がありますように」
ニドが答えた。
馬を進ませようとしたとき、ロラが黙って手を伸ばしてラミレルの左手に触れた。短く長い間、二人の指が絡み合う。やがて二人の指が離れた。ラミレルは黙って馬を進め、やがて霧の中に消えた。
ニドはパイプに火をつけて軽く吸うと口を開いた。
「あなたも厄介なのに惚れるわよね」
「いいえ、あんな人に惚れるもんですか」
「そうなの?」
「ええ、あの人、私との約束も破ったんですよ」
「どんな約束したの?」
「決して私を泣かさないって約束したんです」
霧を見つめるロラの眼からすいとひと筋涙が落ちた。
それから三ヶ月後、王国の重鎮ファーゴ・ハギンド・スペイサー侯爵が屋敷で殺害されたという報せがトランドのあしか亭まで届いた。下手人は大勢の護衛を斬り抜けて侯爵を殺害し、切断した首級を持ち去ったという。下手人の行方は杳として知れない。
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