二年になっても薬学の授業は大変らしい。
その日の朝、レンは夢の中にいた。
以前、ラグナの
夢だからなのか、霞混じりの淡い世界で繰り広げられていた。
『やっと、見つけた』
レン・アシュトンがどこかの町で、夜に。
町中に架かった大きな橋を歩いていた少女に言った。
『あなたは……』
振り向いた少女は、とても可憐だった。
銀髪に黒のメッシュ混じりの髪を、振り向きざまにふわりと揺らす。
少女はレンを見て、「あら」と楽しそうに笑った。これが初対面だったのに、少女はすべてわかっていると言わんばかりに、
『こんばんは、レン・アシュトン』
レン・アシュトンを歓迎した。
『よく私を見つけられたわね』
『無駄なことは話したくない。俺が聞いたことにだけ答えるんだ』
『あら、連れないひと』
少女とレン・アシュトンの間にある距離は10メイルほど。
二人とも一瞬で詰められるから、あってないような距離だった。
『でもいいのかしら。あなたほどのお尋ね者がこんなに堂々と歩いていたら、捕まっちゃうかも』
『そうかもしれないけど、お前と話しておきたい』
『ふぅん、そう』
少女は何か思いついた様子で、
『安心なさい。話を邪魔する人は誰でも殺してあげる』
レン・アシュトンは『そんなことは求めてない』と言うが、少女は笑うだけだった。
『そうだ。先に自己紹介をしてあげなくちゃ』
『必要ない。お前のことはもう知ってるんだ』
『ひどいことを言わないで。せっかく私が自分からしようと思ったんだから、素直に聞いてくれてもいいじゃない』
『……』
まるでどこかの令嬢のように。
少女は橋のほぼ真ん中で、レン・アシュトン以外誰もいない夜の橋上でカーテシーを披露。
洗練された所作で微笑みを浮かべ、
『私は――――』
しかし、レンが見る世界が強くぼやけていく。
少女の声もレンが聞く前にただの雑音に変わってしまうと、すべて遠ざかっていった。
最後は勢いよく後頭部を殴られたような衝撃により、目を覚ます。
「っ……!?」
目を覚ましたレンは、ひどい寝汗をかいていた。
それを気持ち悪く思いながらベッドの上で身体を起こし、壁に立てかけられていた時計を見た。
時刻はまだ朝の五時になったばかり。外はまだ薄暗い。
汗で気持ち悪いシャツを脱いで、ベッドから降りる。寝起きだからというわけでは絶対にない身体の重さを感じながらだった。
レンはセシル・アシュトンと蝕み姫が描かれた絵の前に立ち、
「……本当に、よくわかんないことだらけですよ。ご先祖様」
あの少女はいったい何者なのか。どうしてレン・アシュトンが会いに行ったのか。
随分と意味深な夢を見せられた気がしてならなかった。
しばらく気持ちを落ち着かせてから部屋を出たのは、朝の六時を過ぎた頃だった。
食堂に足を運ぶ途中、同じく身だしなみを整えたリシアが姿を見せ、レンの隣に軽い足取りで近づいた。
あんな夢を見た後だからか、レンはそんなリシアを見て嬉しそうにほほ笑む。
「リシア」
「レン、おは――――」
彼はリシアの手を取って、胸を撫で下ろした。
大丈夫。ここにいる彼女は何ともない。
「――――よう……?」
唐突すぎる振る舞いに驚いていたリシアがレンに握られた手を見た。
ああ、確かに手が繋がれている。
レンはリシアの体温を感じられたことに安堵して、リシアは朝から唐突にこんな幸せなことがあっていいものか、と半ば夢心地。まだ夢の中なのかと思ったが、自分の頬を軽くつねれば痛みを感じ、これが現実であることに喜ぶ。
この気持ちのまま、もうひと眠りしたらさぞ気持ちいいことだろう。
近くを通りかかった給仕が二人に聞こえない声で、
「あらら!」
嬉しそうに言っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
二人が目を覚ましてから二時間も経っていない朝の時間。
「ねぇってば!」
隣を歩くレンが答えようとしなかったから、リシアは何度も問いかけた。
朝のエレンディル、通学途中に。制服姿のレンとリシアが大通りを歩きながらだった。
「……はい」
「もう、返事をしてくれるまで長すぎよ」
レンは居心地が悪そうに笑った。
彼を見上げるリシアが、帝国士官学院の鞄を手に持ったまま、
「聞いてる?」
「はい。聞いてますよ」
「だったら教えてってば。朝のこと! どうしていきなり私の手を握ってきたの?」
「ですから、寝ぼけてたんですってば」
「……寝ぼけてたら、誰にでもあんなことをするの?」
寝起きのレンが他の女性と一緒にいたことなんてないが、聞きたかった。
「しないですね」
ほっとしたリシアが、目を合わせようとしないレンの前に回った。
するとレンはもう一度別の方角に顔を向けてしまい、リシアが今度はそちらへ身体を動かす。
くるくると回るような二人のやり取りが、大通りを歩く民を微笑ましく思わせた。
リシアの手には、まだあのときの感触が残されていた。
はっきりしない態度のレンから答えを引き出すことを諦めた彼女は、妄想した。
朝から、それも通学途中に歩きながら自分は何を考えているのだろうと思ったが、たとえば今朝のように手を重ね、いつもの見慣れた道を歩いたらどんな気持ちになるだろうか。
「…………っ」
急激に頬が赤くなったので考えるのをやめた。
「リシア?」
「な、なーに!?」
「いえ、急に明後日の方向を向いてたので」
「……気にしないで。気分の問題だから」
初々しさを、幾人かの民が見ていた。
空中庭園は空と地上の移動手段の複合駅で、地上階には帝都に限らず、別の地方へ向かう魔導列車が停まるホームもある。中には帝都発、エウペハイムへ向かうあのガーディナイト号がやってくるところもある。
レンとリシアが向かうのは帝都に向かう魔導列車が止まるホームだ。ここは他のホーム以上に朝の人で賑わっている。
二人はその一角に並んで立ち、あと数分後にやってくるはずの魔導列車を待つ。
「……ふわぁ」
隣に立つレンが欠伸をしていた。
リシアが彼の目元を見上げると、彼はまだ少し眠そうにしている。
「昨日はあんまり寝られなかったの?」
「いつも通りの睡眠時間だったんですが、夢見が悪かったんですよね」
「怖い夢?」
「うーん……不思議な夢ですかねー……」
要領を得ない返事だが、夢の内容なんてそんなものだろう。
夢なんて多くが目を覚ますと覚えていないはずだから、いまの返事も無理はない。
リシアは人差し指を伸ばし、レンの肘あたりに軽く押し当てた。
心地よい暖かさをレンに届けた彼女は、満足げに笑っていた。
「ありがとうございます。でも、たかが夢見が悪かったからって神聖魔法を使ってもらうのは、さすがに贅沢すぎますね」
「別にいいじゃない。私の力を私がどう使おうと自由でしょ」
◇ ◇ ◇ ◇
朝のホームルームがはじまるまでの時間を教室でゆっくり過ごし、朝一の授業のために教室を移動した。
「レン、大丈夫か?」
朝一の授業中、薬草の束を手にしたヴェインが話しかけてきた。
二年次でも引きつづき行われている薬草学の授業は、普段の教室と違い専用の教室で行われていた。はじめは席に座っていても席を立ち、薬草の加工に各机や壁際の棚を往復することが多かった。
棚のガラス戸に映る自分を見ていたレンが、ヴェインの声を聞いて振り向く。
「ごめん。ちょっと考え事してて」
主に魔王教の動きについて、水の女神の指輪を持ち出そうとしていた理由のことを考えていた。
それと、司祭の動きなど色々なことを。
また、今朝みた夢も関係して、いつもより気が抜けていたようだ。
「じゃあ、体調が悪いとかじゃないんだよな?」
「平気平気。それじゃ、えっと……」
薬草学の教員に指示された薬草や器具を集め、机に戻る。
レンがいる机は隣にリシアがいて、反対側にセーラとヴェインが。ネムはその四人に挟まれるように立っていた。
「二年次になった諸君にとって、薬草学は引きつづき悩みの種になっているそうじゃな。しかし、今年も張り切って学んでいってもらいたい。さて今回は教科書の56ページから」
教員が生徒たちに背を向け、黒板に文字を書き出すと、
「……朝も言ったけど、無理したらダメだからね」
リシアがレンに耳打ち。
ほかの男子生徒が羨むような距離。
「大丈夫ですよ。色々と多感な年ごろなもので――――嘘です。本当に夢見が悪かっただけですから」
「もう……変なごまかし方をしないの」
下手な冗談を口にしていたらリシアにじろっとした目で見られたから、訂正した。
すぐに教員が「では、はじめ」と言い、各机で薬草の調合がはじまった。
この授業は比較的緩い雰囲気で、生徒たちが雑談しながら調合していても平気。求められているのは結果だった。
レンも周りの生徒たちと同じように薬草の調合に取り掛かった。
リシアと協力して薬草を切り、潰し、蒸留窯へ入れて様子を見る。
「ちょっと! ヴェイン、そっちじゃないってば!」
「ごめんごめん!」
「あのさ、セーラちゃんも間違ってるよ?」
「うそ!?」
正面で友人たちが繰り広げる光景も目の当たりにしながら、レンとリシアは笑い、順調に授業をこなしていく。あとは蒸留窯の中でどうにかするだけの段階になったから、二人は手を止めた。
リシアはレンと一緒にセーラたちの様子を見ていた。
「くっ……今年もあたしの敵になるのね……薬草学!」
「セーラ、そんなに歯を食いしばらなくても」
「いいえリシア! あたしにとって薬草学は天敵なんだから、一瞬でも気を抜いたらダメなの!」
それ見たことかと言わんばかりに、蒸留窯から黒々とした煙がもくもくと上がってくる。
慌てて火を止め、前の段階からやり直すことになったセーラが「……」と何も言わずに天井を仰いでいた。瞳から光が消えていた。
「さっすがセーラちゃん! 期待を裏切らないよね!」
「……問題ないわ。まだ余裕はあるから」
これでもセーラたちが薬草学の成績が悪いわけではなく、苦手意識によるもの。特に実験は難易度が高いから、失敗することが前提。仮に失敗しても成績に影響は出ないから、ここで好きなだけ失敗しておいたほうがいいのかもしれない。
やり直したときはセーラたちもコツを掴めてきたのか、先ほどよりスムーズに蒸留窯へ放り込むところまで進み、今度は煙は出てこなかった。
一安心したところで、セーラとヴェインが額にうっすら浮かんだ汗を拭った。
引きつづき実験をこなしていきながら、雑談も交えた。
「もうすぐ帝城会議ね」
セーラが思い出したように。
先日、シャーロットたちと話していたときも話題に出た催し。
レオメル貴族の多くが帝都に足を運び、帝城で様々なことを話し合い、情報を共有する貴重な機会だ。
七英雄の伝説ではユリシス・イグナートとの戦闘の果てに用いた力を、それ以降はウィンデアで確認したことを元に、ヴェインは勇者ルインの末裔として貴族の前で挨拶をした。
時系列は七英雄の伝説Ⅱ、一章の締めくくりへ向かう流れの中。
いま、帝城会議と聞いてヴェインが緊張した面持ちを浮かべていた。
「ね、ヴェイン」
「ああ……もうすぐだな……」
ため息交じりの声だった。
七英雄の伝説では、一般クラスに所属するレン・アシュトンはこの場にいなかった。
代わりに、残る四人が話していたわけだが。
いまはレンがここにいて会話に交じっている。
「緊張してるんだ。ヴェインたちも参加するって聞いたけど、大人たちの前であいさつでもするの?」
「ど、どうしてわかったんだ!?」
「なんとなく。ヴェインが緊張してるのを見たらそんな感じかなって」
「ああ……レンの予想通りだよ。大勢の前で話すことが得意ってわけじゃないのに、帝国中の貴族が集まる場所で話すことになるなんて」
勇者ルインの末裔として、ヴェインの声を届けたい。
これは英爵家たっての願いというわけではなく、中立派にも、皇族派の中にも彼の声を聞きたいというものが何人かいたからだ。
ヴェインはひどく緊張しているが、話を持ち掛けられたときは快諾していた。羽ばたこうとしている友人の姿がレンの目に誇らしく見えた。
水を差すわけではなったけれど、レンが少し話題を変える。
「魔王教がまた何かしようとしてるって。ヴェインたちも気を付けたほうがいい」
「レンも知ってたのか。でも、大丈夫。何かあれば俺たちも戦うから」
「そうね。あたしたちも黙ってるつもりはないわ」
最後にネムが、
「英爵家は魔王との戦いが終わってからも、レオメル国内外で戦ってきたんだもん。ネムたちも変わらないよ」
それは英爵家の義務のようなものだった。
魔王討伐を成し遂げた七英雄を称えて作られた英爵という位だが、常に勇敢であることが存在意義の一つとして知られている。
ただでさえ、貴族でも軍属の者が少なくないレオメルなのだ。
貴族だからと言って、安全な場所に隠れるような者たちでは決してない。
特に現在は魔王教という脅威に対して、民衆はヴェインたちを心のよりどころにしていることもあった。
……ヴェインたちなら、大丈夫。
最近、魔王教が活発に動いていることもそうだが、それとは別に、レンがついさっき思い出したここでの物語の終わりが近かった。
七英雄の伝説Ⅱ・一章『勇者の血脈』
レンは近いうちに訪れるはずの出来事を頭に浮かべていた。
同時にレンの頭の中を、銀髪の少女との意味深なやりとりが。
授業終了の時間を知らせるベルが、数分後に響いた。
「おや、今日はここまでのようじゃな。皆、後片付けをしてから戻るんじゃぞ」
壮年の教員が言うと、後片付けを終えた生徒たちから順番に、いつもより賑やかに話をしながら教室を後にしていく。レンとリシアは教科書とノートをまとめながら話していた。
ヴェインがセーラと話しながら立ち去ろうとしたのを見て、
「あのさ」
「うん? レン、どうした?」
「魔王教の話。あいつらがまた何かしでかしたとして、レオメルのどこかで牙をむくかもしれないじゃん」
「わかってるよ。俺たちもそのことはずっと考えてる」
「……それでさ――――」
これは、
ヴェインたちが道に迷うことがないように、レンがヴェインの心に残るように
話が終わるとヴェインはセーラと一緒にこの教室を後にした。
残るレンとリシアが話していた。
「午後からどうする?」
「今日は午前中で終わりですしね」
周りの生徒たちがにぎわっている理由だ。
教員の都合で、午後はすべての学年で授業がない。いつもなら獅子聖庁に寄って帰るところなのだが、二人が午後の予定を考えていると、
「レン君! リシアちゃん!」
この教室の扉から顔と身体を覗かせたクロノアの声に、二人はどうしたのだろうと彼女の傍へ向かった。
急にやってきたクロノアには頼みごとがあった。
校舎の片隅にある倉庫で探しているものがあるらしく、その探し物の手伝いをしてほしいというものだ。
「フィオナちゃんにもお願いしてるんだけど、二人にも力を借りたくて……」
クロノアの頼みを断るはずもない。
二人は示し合わせたように頷き「いいですよ」と言った。
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