海と空の戦い[1]

 レンは客間に向かう前に、大浴場へ向かっていた。

 これも先日使わせてもらったのと同じ大浴場だ。



 そこで湯を借り、知らず知らずの間に身体に溜まっていた疲れをとった。

 客間へ向かう途中で腕時計を見たら、夜の十二時を過ぎていた。

 再びユリシスの執務室の前を通り過ぎると、



「あっレン君! お湯加減はいかがでしたか?」



 執務室から、フィオナが紙の束を持って現れた。

 どうやら仕事をしていたらしい。



「すごく気持ちよかったです。それと、手伝いますよ」



 フィオナが重そうにしていたから提案すると、彼女は嬉しそうに頷く。

 半分ずつといわず全部受け取ったレンがフィオナと歩いて向かうのは、廊下を進んだ先にあるフィオナの執務室だった。



 彼女がエウペハイムにいる際は、自室ではなくそこで仕事をするそう。

 同じように、勉強も執務室を利用していると彼女は言う。



「ありがとうございます。じゃあえっと……ここに置いていただけますか?」


「わかりました」



 机の上に紙の束を置く。

 フィオナは特に重要な書類だけ別の場所に移したかったようで、紙の束の上のほうから数枚手に取った。



 そのとき、紙が指先に擦れて皮膚が軽く切れる。

 ぷつっ――――と深紅の血液が浮かんだ。



「いまの私、すっごく情けない姿を晒してる気がします……」


「……そんなことないので、きっと大丈夫ですって」



 レンはそう言い、懐からハンカチを取り出した。

 半ば強引にフィオナの手を取り、彼女の指先にハンカチを被せる。

 指先に浮かんでいた深紅の血液ほどではなくとも、頬を赤らめはじめたフィオナ。

 ハンカチは新しいものでお返しする、そういいつづけたフィオナと別れ、執務室を出て客間へ向かうレンが途中で、



「――――あれ?」



 なんとなく、体内の魔力にさっきよりも活力がある気がした。

 気が付かないうちに『黒の巫女』の力によりこうなっていたことを、レンはまだ知らない。




◇ ◇ ◇ ◇ 




 翌朝に。



「本当に理由がわからないな」



 朝食の席が設けられ、ユリシスにレン、フィオナが揃って食事をしていた。



「ユリシス様、何かあったんですか?」


「ああ、すまないね」



 意味深に独り言を漏らしたことに謝罪して、朝食をとりながらも片手に報告書を持っていたユリシスがつづける。



「君が前に来てくれた頃から、どうにも水路の調子がよくなくてね」


「確か貴族街も封鎖されていたことですよね」


「ああ。水路を流れる水の量が急に増えたり減ったり……そうそう、エウペハイムと通じている川とかもそうだね。一度は調子を取り戻したんだが、度々再発していてね」


「お父様、それって、外で調査してもはっきりとした答えがなかったのですよね?」



 こくりと頷いたユリシスが、珍しく困った様子で笑っていた。



「町中の水路を進む船にも影響がある。だからどうにか魔道具で無理やり整えているんだが、根本的な解決になっていないわけさ」


「それって、氷河渡りとかは関係ないんでしょうか」



 レンが尋ねた。

 ユリシスが首を横に振ってから、



「過去に似た現象はないかな。あっても数日でちゃんと直っていたから、類似性はないね」


「じゃあ、やっぱりよくわかりませんね」


「そう。よくわからないんだ。どうにか原因を探れたらとは思うんだが……」



 レンも思いつくことがなくて、協力することができなかった。



「こうなっちゃうと、お祈りするくらいしかありませんね」



 たはは、と笑ったフィオナ。

 彼女の父が小首をかしげて、



「お祈りだって?」


「ええ。沖の孤島に祠があるじゃないですか。水神様を祭っておいでだと聞きますし、そこで祈りを捧げてみたり……って思ったんです」



 七英雄の伝説ではいけなかった場所である。

 マップを見れば、一番隅の海域に存在を確認することができる程度の場所だった。

 朝食後に。



「主、ドレイク様、ヴェルリッヒ様のお二人がいらっしゃいました」



 フィオナも交え、客間で顔を揃えた。



「噂に違わぬ美しさであるな、フィオナ・イグナート」



 軽めの挨拶も交え、皆でソファに腰を下ろす。

 すると、客人の来訪とあってユリシスも遅れてやってきた。



「レン、エウペハイムは問題ないが、目的地は今日もあまり天気がよくなる様子はないらしい。行って帰ってきても時間の無駄だし、今日もエウペハイムでゆっくりしたほうがよさそうだ」


「やっぱり、そうなっちゃいましたか」



 にこにこ笑うユリシスが、「ゆっくりしていってくれたまえ」と。



「私はこの後、水路の調査で屋敷を出なければならないのだが」


「む……」



 それを聞き、エステルが眉を揺らす。



「イグナート侯爵、水路にて先の不調が再び発生しているのか?」


「ええ。時折ですが」


「そなたほどの男が対処して、これほど時間がかかるとは珍しい。ああいや! これは嫌味ではなく、本心から私も気になっただけでな!」


「わかっておりますよ。ただまぁ、私もさっぱりでして」



 この後、ユリシスはエドガーを連れて旧市街付近の川や水源、水路を確認に行くという。



「フィオナは皆様のお側にいなさい」



 レンやフィオナをもてなすよう言いつけられて、フィオナが頷く。

 ユリシスは忙しそうに屋敷を出て行ってしまった。



「俺たちはどうします?」


「私には行きたいところがある」


「ならそこに行きましょうか。どこです?」


「冬の市だ」



 それを聞き、レンもフィオナも、ヴェルリッヒでさえ理解した。

 冬の市、それはエウペハイムの港で冬の間、毎日のように開かれる市場のことだ。

 串に刺された海産をはじめ、評判の味を出す屋台を巡ることができる。

 ついでに、朝から外で酒を飲むことだってできてしまうのだ。



「……ほどほどにしてくださいよ?」


「わ、わかっている! フィオナ・イグナートもいるのだ! 六杯……い、いや! 五杯で我慢するから!」



 果たしてそれで我慢できているのかと思ったが、とやかく言うまい。

 レンはフィオナと顔を見合わせ、



「すみません。案内していただいていいですか?」


「もちろんです。私に任せてくださいね」



 予定になかった機会に彼女は喜んだ。

 



 ◇ ◇ ◇ ◇




 これはヴェインとセーラの二人がずっと幼いとき、リオハルド家の面々がヴェインの村に足を運んだとき。

 父に隠れ、護衛の目を盗んで一人で森に入ったときだった。



『……だからお嬢様、無茶しすぎなんですよ』



 森の木の下でしゃがんだセーラの前で、まだ幼かったヴェインが言う。

 これもまた、レンが知る七英雄の伝説での出来事だった。



『なによ……あんたもあたしを馬鹿にするの? あたしはまだ弱いって。魔物一匹倒せないって思ってるんでしょ?』


『どうしたんですか急に。いきなり外の森に行ったと思ったら……』


『……だって、村長が言ってたじゃない。最近、魔物の被害で食料が減ってるって。あたしがその魔物を倒せたら、お父様だってあたしのことを認めてくれるはずなんだから!』



 幼いころのセーラは、いま以上に自分の力を示したいと考えていた時期がある。

 ガジル・リオハルドという偉大な先祖を持つ少女には焦りもあった。



『頑張らないと、ずっとあの子に置いて行かれるだけだわ』


『あの子、ですか?』


『……うん。前に帝都に来た女の子で、すごく強かった。いつもたくさん頑張ってたのに、一度も勝てないまま負けちゃったの』



 ヴェインは幼くも、セーラが強いことを知っていた。

 そんなセーラより強い少女と聞いて驚いたが、いまはそんなことを気にしている場合じゃない。

 セーラに手を差し伸べたヴェインが言う。



『帰りますよ。お嬢様』


『いやって言ったら……?』


『お嬢様はリトルボアの群れに怯えて隠れてたんじゃないですか』


『そ、そんなことないもん!』


『えっと……そんなことはないかもしれませんが、そのご様子では満足に戦えないでしょう』



 なるべくセーラを刺激しないように言い、差し出した手を揺らす。

 すると、ようやく手を取ったセーラが息をついた。



 ヴェインにとってはじめてのボスが現れたのは、それから間もなくのことである。

 熾烈な戦いだった。

 けれど、二人は力を合わせて懸命に戦った。

 戦いの終盤には、もう駄目かと思うほど追い詰められてしまうのだが、



『はぁ……はぁ……こんなとこで――――』



 懸命に息を整えながら、錆びた鉄の剣を手にセーラを守った少年。

 意識が朦朧とするも、彼は力を振り絞って剣を振り上げた。

 


 すると――――そのときである。



 なんてことのない錆びた鉄剣が、眩い閃光を纏った。

 膝をつき、震えるセーラの前で勇者の力の一端を見せつけたヴェインが、最後には勝利を収めたのである。



『いまの光はなんだ! 神聖魔法ではないようだが――――ッ!』



 やがて訪れたリオハルド英爵が見たのは、まさかと目を疑う聖なる力。

 それっきり、すぐに閃光が消えてしまったから断定はできなかったのだが、リオハルド英爵はある予想をし、ヴェインを帝都に誘うことを決める。



 そんなことは知る由もなく、セーラは情けない自分を命がけで守ったヴェインに心を寄せるようになった。



 ヴェインはいまでも当時のことを思い返せる。

 どうしてかわからないが、今日、彼はそのときのことを夢に見た。



「ふわぁ……」



 眠そうな目元をこすりながらベッドの上で身体を起こし、身だしなみを整えて部屋を出る。すると右隣の部屋からカイトが姿を見せ、つづけて左隣の部屋からシャーロットも現れた。



「ヴェイン、昨日はちゃんと寝られたか?」


「おかげさまで。でも遅くまでみんなで騒いでいたからか、まだ眠いですね」



 するとシャーロットがニヤニヤしながら、



「じゃあお姉さんが膝枕でもしてあげようかしら」


「……いろいろと勘弁してください」



 朝からシャーロットの本気かわからない誘いをはねのけ、ヴェインはうんと背を伸ばした。

 立ち話をしながら三人で歩いて、昨日もみんなで話をしたホールへ向かった。そこで朝食を楽しんでいると、遅れてセーラとネムの二人が訪れる。

 彼女たちも朝食をとりはじめてから、少し経ったところで、



「カイト、この魔導船って訓練場があるって本当?」



 セーラが尋ねた。



「おう! 学院の訓練場と同じくらいのがあるぜ!」


「じゃあ後で行きましょうよ。みんなで運動しない?」



 一年に一度の冬休みだというのに、誰もその提案に反対しなかった。

 昼になる前にはレオナール家の領地に到着するが、その前に軽く運動をして、身体に残る若干の緊張をほぐしたい気持ちもある。

 色艶のいい唇に指先を押し当てていたシャーロットがここで思いつく。



「午後からは学院の課題ね」


「待て待て! シャロ! 昼にはうちの領地に到着してるんだぜ!? 馬車で街を移動しながら屋敷に向かうってのに!」


「だから、その途中で勉強もしておきましょうって言ってるの。私たちはパーティとかであまり余裕がないんだし、できるときにしておかないと」


「く、くぅ……わかってんだけどよ……頼むぜシャロ、気が滅入るからギリギリまでその言葉を言わないでくれ……」


「あーはいはい。わかったわ」



 軽めの食休みもとってから、魔導船の下部に設けられた訓練場へ。

 学院の訓練場に似たそこに足を踏み入れ、ヴェインが一言。



「魔導船の中に訓練場があるのって、なんでですか?」


「先代が訓練は何が何でも毎日するべきだって考えだったらしいぜ。だから、領地を移動するときも体を動かせるように特注で用意したらしい」



 ここで彼らは総当たりで武を競ったり、二人一組になって戦う技を磨きあった。

 


 昼目前という時間まで身体を動かした。

 石畳が敷かれた訓練場にカイトが大の字に倒れこむ。

 カイトが大の字に倒れんだ数秒後、魔導船が僅かに揺れた。



「俺は休むぜ。みんなはつづけ…おっ、そろそろか」



 立っていたヴェインが近くの窓から外を見る。



「魔導船乗り場が近づいてきましたね。高度を下げてるのはだからでしたか」


「そういうこった」



 レオナール英爵領でもっとも大きな魔導船乗り場は、元々、岬だった地形にできた珍しい姿だった。



 漁船や戦艦などの船は、海がつづく岬の中にある空洞に向かう。

 空洞といってもかなりの広さで、たとえばレンの村なら余裕で収まるくらいだ。

 天井もかなり高い空洞の内部が港になり、地上へ通じる建物がいくつもあった。その地上部分に、数階建ての魔導船乗り場が設けられている。

 徐々に高度が下がりつづけていく。この訓練の時間も終わりが近づいていた。



「シャロ先輩」


「うん? どうしたのー?」


「最後に俺と、一対一でいいですか?」


「いいわよ。お姉さんが優しく相手してあげる」



 一対一といっても、二人の武器の特性が違いすぎる。

 さっきまでセーラと武を競い合っていたヴェインは呼吸を整えながら、どう競い合うか迷うシャーロットを見ていた。



「距離はどのくらいではじめる?」


「……でしたら」



 距離が開くほど、シャーロットが有利だ。

 弓の名手であるシャーロットと距離があるまま戦いはじめても、たとえカイトであろうと距離を詰めるのは至難。基本的に敗北する。

 なのにヴェインは、



「離れた距離からでお願いします」



 圧倒的に不利であることを知りながら、そう言い放って見せたのだ。

 すると、シャーロットの眉が揺れた。



 艶美な顔立ちに微笑を浮かべたままに、彼女は本当にいいのかと念を押す。

 ヴェインより疲れて地べたに腰を下ろしていたセーラも、もうかなり前から疲れて座っていたネムも、無理がある気がしつつも見守っていた。



「本気?」


「本気です。前にも言ったと思うんですが、本当に何かを掴めそうな感じなんです」


「……お姉さんにもう少しわかりやすく教えてくれる? ヴェイン君は何を掴めそうなのかしら」


「わかりません。けど、俺にとってすごく大事な事な気がして……」



 誰よりもヴェインとともに過ごしてきた少女、セーラ。

 今日、彼女もまた、何故か昔のことを夢に見た。

 だから、だった。



「ヴェイン」



 彼女は想い人の名を呼んで、



「頑張れ。応援してる」


「……ああ! 見ていてくれ!」



 圧倒的に不利な立ち合いがはじまった。

 優勢なのはやはり、圧倒的にシャーロットだった。



 背負った矢筒から矢を抜く速度も、それを構えて放つ速度もシャーロットは特級だ。一本の矢を防いでも、次々と矢が放たれる。

 それに、彼女が放つ矢には限界がなかった。

 たとえ物理的な矢が数を減らそうとも、



「ヴェイン君! 今日は随分と雄々しいのね!」



 数歩、ようやく数歩詰めた彼を称える声につづき、今度は魔法で生み出された矢が放たれる。



「くっ……!」



 苦しみながらも、風のように疾い矢を剣で防ぐ。

 まだ、矢の実物が放たれていたときのほうが楽だった。

 いま届くのは、風魔法の使い手であるシャーロットが生み出す強力な矢。弾いても強力な風が全身を襲うしで、距離を詰めるための難易度が増すばかり。



「……ヴェイン、頑張って!」



 セーラの応援を受け、ヴェインがより一層力強く踏み込んだ。



 迫りくる風の矢を彼は、剣で横なぎ。

 もしかしたら……そんな期待を抱かせるヴェインの強みに皆が注目して、間もなくのことだった。



 ぐらっと唐突に、魔導船が違和感のある揺れ方をしたのである。

 皆を驚かせていたヴェインが立ち止まり、シャーロットも魔法を消した。

 座っていた者たちも一斉に立ち上がり、皆で顔を見合わせる。



「何かあったのかもしれないな」



 カイトの声に皆が頷き、駆け足で訓練場を出た。


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