朝霜に息を白くして。
あっさりと言われたレンは目を点にしてから、ユリシスと目と目を見合いながら話をする。
「いいんですか? 俺に許可を出して、ユリシス様に迷惑がかかりません?」
「私に迷惑? どうしてだい?」
「旧市街は立ち入るのに許可が要るはずです。ユリシス様が俺を気にしてくださるのは嬉しいんですが、それで迷惑が掛かるのは本意じゃありません」
「それなら安心したまえ。旧市街は関係者以外誰も入れないわけじゃなくてね。普段は条件付きだが――――」
重要な文化財として、実際に近くで見たいと思う者は少なくない。そこで、定期的に見学できる機会が設けられていた。
今回はその時期ではなかったものの、
「ついでに周りを見てきてもらうということにしよう」
話題に出た、警備周りの件で。
便宜を図ったともとれるが、仕事を頼まれたついでともとれる。
「君はクラウゼルでも似たような仕事をしていたそうだね。君なら旧市街に行っても大丈夫って確信してるから問題ない。半分仕事として見学してきてくれたまえ。頼みたい警備の仕事内容はあとで教えるよ」
◇ ◇ ◇ ◇
イグナート侯爵邸の中を歩くレンは、近くにいた給仕に話しかけた。
ユリシスたちとの話が終わり、二人と別れている。この空いた時間にリシアとフィオナが何をしているのか問うためだった。
「どうなさいましたか?」
「フィオナ様たちのところへ行きたいのですが、案内していただけますか?」
「かしこまりました。どうぞこちらへ。お二人はお嬢様のご自室にいらっしゃいますよ」
「へぇー……フィオナ様のお部屋に……」
とここで、レンが「自室?」と呟き立ち止まる。
給仕もすぐに足を止めて振り向いた。
「アシュトン様、どういたしましたか?」
「すみません。フィオナ様の部屋って言ってましたよね?」
「はい。クラウゼル様もご一緒に、お嬢様のご自室でご歓談されているようです。もうすぐご夕食の時間となりますので、そのとき改めてお呼びに参りますが……」
夕食の時間がどうとかではなく、場所が気になっている。
侯爵令嬢の部屋にリシアが行くこと自体はいい。子爵家の令嬢だ。
レンはと言えば騎士の倅。これは生まれた時から変わらない。それなのに、侯爵令嬢の自室に足を踏み入れることはまずい気がしたのだ。
「やっぱり俺は、俺にご用意いただいた客室に行こうと思います」
「おや? どうなさったのですか?」
「いえ、ご令嬢の部屋に異性が行くのもあれですし」
「ご安心ください。問題ないかと」
「……はぁ」
問題ない、そうなのか。
レンは恩人だからもてなしたい、それ自体は何度も彼自身耳にしてきたことだ。
そしてリシアが招待されているのなら、その傍付きのような立場で傍に行くことも不思議ではないのかも。
レンはいくつかのことを考えた結論として、
「いや、ないな」
けれど給仕が妙に「さぁさ」と背を押すように言うから、フィオナの部屋まで屋敷の中をしばらく歩いた。
何度も見てきた見事な調度品の数々が並ぶ廊下は、歩いていると少し緊張してしまう。幸いなことにフィオナの部屋の前に到着するも、それもそれで緊張した。
「それでは」
給仕はフィオナの部屋の前で立ち去ってしまう。
給仕が邪魔をしないようにとフィオナを気遣っているのだが、レンはそれを知ることがなかった。
残されたレンは思いもよらぬ状況でも、こんなものかと思ってドアをノックした。
「あっ、レン君!」
すぐに扉が開いて、ドアの隙間からフィオナが顔を覗かせた。
彼女に誘われるように部屋の中に入ると、彼女の人となりを現すかのように物がよく整理されていた。
歩くたびにフィオナの髪から漂う甘い花の香りが、落ち着く香りが漂っていた。
「あれ? リシアはいないんですか?」
いきなり自分のことも様を付けないで呼んでくれ、とは言えなかった。
フィオナは後れを取っていることに切なさを覚えるが、これからの自分次第だと自らを鼓舞する。
「リシア様なら、一度お部屋に行かれましたよ。宿から荷物届いたので、確認に行かれたみたいです」
道理でいないわけだ。
こうなると、部屋の中で二人だけ。
レンはそのことを自覚して、
「え」
果たしてそれは許されるのかと唖然とした。
しかし、フィオナには気にした様子がなかったから、自分が気にしすぎなのかと頬を掻く。
そしてフィオナは顔に出していないだけで、実際は胸が破裂するのかと思ってしまうほどばくばく鼓動を繰り返していた。窓際の席に通されたレンの隣で、フィオナが豊かな胸に手を当て自らを律する。
緊張したり、照れるだけの自分ではいられない。
「レ、レン君!」
「はい、なんでしょうか」
いつもより気合の入ったフィオナの声に、レンはなるべく落ち着いた声で返事をするよう心掛けていた。
「バルドル山脈を断つ前に約束したお礼、いまからさせていただけますか……?」
宝石より煌めく双眸を涙で潤わせ、声を震わせた懸命な言葉。
その真に迫る声にレンは驚かされながら、あのことかと過去を思い出す。
バルドル山脈で、彼女と一夜を過ごしたときのことを。
テーブルには、すでに茶器一式が用意されていた。
レンが頷いたところでフィオナは動きはじめ、やや緊張した手つきで茶を淹れていく。
この日のために頑張ってきた。
帝都でも、学院でもレンに茶を振る舞おうと思えば何度でも振る舞えた。
しかし今日のため、フィオナは苦手でも諦めず努力をした。ティーポットから漂う湯気の香りは、バルドル山脈のときと比較にならない。
……いい香りがしてきた。
レンは声に出すことなくフィオナを見守り、何も言わずに待った。
こぽ、こぽ――――湯を注ぐ音がする。ティーカップに注がれた茶の色は、茶色ともオレンジ色ともとれる鮮やかな色で澄んでいる。
ソーサーに乗せられたカップが、そっとレンの前に差し出された。
「美味しくなかったら無理しないでください……っ!」
レンはその声を聞いて笑った。
不安そうにしていたフィオナの顔に驚きが宿る。
「あの夜と同じことを言ってますよ、フィオナ様」
「だって……心配なんですもん……」
「俺はあのときのお茶も好きだって言いましたからね。なので心配しないでいただきたいと思ってるんですが……ええと、いただいてもいいですか?」
そう言えば、フィオナが意を決した様子で――――
「はい!」
再び胸の前に手を当てて、胸の鼓動を感じながら頷いた。
レンがティーカップを持ち上げるとき、ソーサーと擦れる小さな音が鳴る。
彼が口元にティーカップを運ぶまでは数秒とかかっていないことは明白なのに、数分、それとも数時間にも感じるほど長かった。
「――――」
レンの喉仏が持ち上げられて一口嚥下した。
彼は喉から吐息を吐いてから、優しそうに微笑み、
「こんなにおいしいお茶、はじめて飲みました」
気を遣ったわけではなく、心の底からそう思った。
フィオナにレンの気持ちが伝わったのか、彼女も本当か、と問いかけることはしない。
ただ、嬉しかった。
うるさいくらい鼓動を繰り返していた胸はいま、レンに抱いた恋心による、他に言いようのない暖かな気持である。
全身から力が抜けていく。
フィオナはそのまま、絨毯の上にぺたりと腰を落とした。
「フィオナ様!?」
心配したレンが立ち上がり、彼女の前でしゃがんだ。
スカートから伸びた彼女の細くしなやかな足は、左右の膝がぴたっと密着していた。
「……あはは」
フィオナが笑い、目を細める。
「その……うれしすぎて、力が抜けちゃいました」
黒い髪を揺らして、彼女はそう言った。
何分か経ってリシアが戻り、三人が一つのテーブルを囲む。
フィオナの部屋に来る前に話していた、旧市街のことわが話題に上がる。
二人の少女はレンが想像していたよりも積極的に、自分たちも一緒に行きたい! と声を揃えた。
「あとでユリシス様たちに聞いておきますね」
夕食の席で尋ねたところ、ユリシスとレザードはいつもの調子で「いいよ」と言った。
◇ ◇ ◇ ◇
フィオナにとって、特別な夜だった。
夜遅くまでレンがいるという事実だけで頭がどうにかなってしまいそうなくらい緊張し、嬉しくもあった。
これが夢ではなかったと思いたくて、寝る前に声が聞きたくて彼がいる客間を思い浮かべた。
普段のレンはまだまだ寝るような時間じゃない。
しかし客人に対し、フィオナはこの時間の来訪はよくないと思いながら止められず、廊下を歩く。
すると、
「――――あ」
「――――あ」
二人の少女の声が重なる。
レンの客間へつづく道の左右から現れたフィオナとリシア、彼女たちが同時に声を漏らした。
彼女たちは客間の前で立ち止り、見つめ合ってから指先で自分の髪を弄んでみたり、わざとらしく乾いた笑みを漏らしてみる。
これは抜け駆け? 別に協定はないが態度は硬くなる。
結局、二人の頭の中に妥協案が浮かんだ。
「……今日のところは、三人で話すってことでどう?」
日中のように砕けた態度を取ってしまったリシアと、
「……ええ。そういうことにした方がよさそうですね」
フィオナが応じ、休戦となる。
レンの部屋をノックしたのはフィオナだ。イグナート侯爵家の者だからという理由があっただけ。
しかし返事が届かず、眠ってしまったのかと二人が思った。
――――ユリシスの厚意で大浴場を借りた帰りのレンが、廊下の曲がり角を進んでいた。
「何してんだろ、二人とも」
彼は自分の部屋の前に立つ二人を見て、小首をかしげる。
湯上りの彼は額を伝う一筋の汗を拭った。
◇ ◇ ◇ ◇
朝霜が多く見られる朝だった。
当然のように息が白く、首元から入り込む冷たい風に、少女たちがマフラーを巻いておけばよかったと少しだけ後悔している。
しかし、日が昇ればすぐに暖かくなる。
出発する前に、エドガーがそう言っていた。
「それでも、寒いものは寒いんですよね……」
このエウペハイムで生まれ、気候にも慣れっこのフィオナも苦笑せざるを得ない。
幸いなことに、歩いていると少しずつ身体が温まってきた。心なしか三人の背筋もよりぴんと伸びたように見える。
エウペハイムの早朝は、エレンディルと同じく賑わっていた。
「帝都やエレンディルと比べて、魔物が引く馬車が多いですね」
レンが町の様子を眺めていたら気が付いた。
「港に届く荷物の移動が多いので、魔物に引いてもらったほうがいいみたいです」
「ああ、エウペハイムはレオメル最大の臨海都市ですもんね」
白い王冠と呼ばれ、水の都とも称される雅かな町の通りを進む。
目的の旧市街までの道のりは遠いが、長い散歩とでも思えば悪くない。
フィオナは町の案内も交えながら町の外へ向かい、二人を連れて歩きつづける。バルドル山脈での騒動を乗り越えられるくらいなのだから、心配はなかった。
「――――まだ、調子が悪いようです」
途中、フィオナが足を止めて水路を見た。
エウペハイムには古くから多くの水路があるのだが、昨日から水の流れが悪く、町の各所で調査が行われていた
リシアがフィオナの隣に立ち、
「どうしたんですか?」
「水の出が悪い場所がいくつかあるみたいで、昨日からずっと調べてるんです」
「確か昨日も、貴族街で一部の道が塞がれてましたっけ」
水道などの生活インフラを取り扱う公的機関がある。そこに所属する者たちが、昨日から魔道具も駆使して調査にあたっていた。
三人は水路沿いの端の縁に立って、様子を窺った。
しかし三人にできることは何もなくて、ただ見ていることしかできない。
「行きましょうか」
数十秒ほど様子を見てからレンが言えば、少女たちは止めていた足を動かしはじめた。
一足先に歩き出したレンが水路を挟んだ先の道を進む、セーラにヴェイン、カイトとネム、シャーロットという英爵家組の姿を見た。
彼らも町の外に行くのだろうかと思ったレンが、昨日のことを思い返した。
「リシア、ヴェインたちはまた岬に行くんですか?」
「うん。もしかしたら何日か行くかもって言ってたから、たぶん」
「なるほど……まぁ、確かいい物が眠ってたはずですしね」
レンの呟きはリシアの耳に届かなかった。
確か、と言ったのは彼の中でも七英雄の伝説の知識が大分薄くなってしまっているからで、自信を持てていないことに起因する。
岬の影に隠れた洞窟、その奥に眠るのはとある装備。
いわゆる、英雄装備と呼ばれる特別な品だ。
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