旧市街への誘い。
イグナート侯爵邸の規模はまさにそれほどである。
普段は帝都で帝城も目の当たりにする機会に恵まれているも、屋敷としてみればこの邸宅は規格外すぎた。
実際に目の当たりにすると、それ以外の言葉が見つからない。
巨大な正門の前に、イグナート家の私兵たちが立っている姿が見えた。
レンが近づいてくるのを見て、彼らは密かに身構える。
もしかしたら、彼らはレンの特徴を聞いていたかもしれない。
それでも、確認を取る前に断定するような愚かな真似はしない。さすがの門番たち。
レンの双眸には、門番たちがにわかに浮足立ちはじめたようにも見えてきた。
彼が正門から十メイルも離れたところに立つと、一人の私兵が「もし」と。
「失礼ですが、お名前をお聞かせください」
「俺はイグナート侯爵にご招待いただいた、レン・ア――――」
そうは言うものの、所詮は口だけ。
考えてみればレンは今回、ガーディナイトに乗るため以外の招待状は受け取っていない。失礼のないよう身だしなみは整えているが、それだけではただの少年だ。
それか、どこかの貴族令息に見えるだけだろう。
……そう言えば。
レンは不意に思い出した。
こんなこともあろうかと懐にしまい込んでいたものがある。
彼が懐に手を入れたのを見て、彼の眼前に立つ複数人の私兵たちが喉を鳴らす。乾きでも空腹でもなく、このあと、レンが取り出すと思われるものを想像して。
懐から凶器を出すことは想定されていない。
身構えたのは、予想された展開への緊張によるもの。
「すみません。こちらを」
漆黒のカード、古い招待状。
何年も前のことだ。イグナート侯爵の名代としてクラウゼルを訪れたエドガーがレンに残したあの招待状だ。
イグナート侯爵家の私兵は古い招待状をレンから受け取り、確信。
周りの私兵たちも思わず立ち位置を変え、招待状を見に来てしまう。
「……間違いない」
「ああ。エドガー様がご用意したという」
「おお……これが噂に聞いていた……」
仰々しくも招待状を見て、いつしか冷静さを取り戻す。
◇ ◇ ◇ ◇
少女たちは互いに、レンの隣に立ちたいという想いがあった。
最近はリシアとレンの間で呼び方の変化が生じたことも影響して、特にフィオナがこのままではいけない、という感情に駆られている。
あれからしばらく経って、いまも庭園で話をしていた二人。
どこかに魔道具があるからか、この季節でも庭園は寒くなかった。
レザードは屋敷の中で歓待を受けているが、彼女たちにとってはこの時間も重要だった。
「お嬢様方、レン・アシュトン様がおいでになりました」
イグナート家の給仕が慌てて来て言った。
それを受けて、テラスの椅子に腰を下ろしていた二人が頷く。
給仕はさっと席を外し、二人は同時に席を立つ。
レンはエドガーに連れられてここに来ると思われた。そんな彼を出迎えるべく、席を立った二人がほぼ同時に右足を前に出した。
二人は互いに顔を向け合う。
「…………」
「…………」
もう何度も考えたから、互いの容姿のよさは言うまでもない。
いまは相手がどれほど魅力的なのか、再確認を済ませただけだ。
改めてそうした彼女たちは、ふぅ、と息を吐いた。
久しぶりの雰囲気だった。以前はきっと、二人が帝都のパーティではじめてあった日のことである。
あの夜と同じように白金の羽の髪飾りと、星瑪瑙のネックレスが揺れていた。
彼女たちは相手を見ながら立ち止まる。
一瞬、給仕はここに険吞は雰囲気を感じかけたのだが――――やはり二人は、互いの立場と感情を尊重し合うことも忘れていない。
前に女子寮で話した、リシアとフィオナという関係性。
彼女たちはそれを忘れていなかった
「今日は譲っていただ――――」
フィオナが何かを言いかけるも、
「譲りませんからね」
「――――ま、まだ最後まで言ってません!」
別にレンを譲れ、などと彼をものみたいに扱うわけではない。
そんな愚かな物言いをこの二人がするはずもない。リシアは
「レン君にお礼をさせてもらうことです! ずっと前から、この屋敷でお茶を振る舞わせてくださいって約束してたので……っ!」
「ご、ごめんなさい! そのことね!」
思わず二人の身体から気が抜けていく。
立ち止まっていた足も動かして、レンを迎えに行く。
もう、とフィオナが年相応の態度でため息。
恨み節でない、可愛らしくすねるような態度で。
驚いたリシアがつい砕けた態度で接してしまったが、二人ともそれに気が付いてない。逆にいまのほうが自然体に接し合うことができることにも、まだ気が付くことがなかった。
席を外した給仕は様子を窺っていた。一言、微笑ましいと思いながら。
少女たちは一呼吸おき、この場を収める最後の言葉を交わす。
「私、負けないんだからね」
普段と違ったリシアの強気で心を打つような本心の吐露と。
「私も、絶対に負けません」
相手に合わせることが多く、控えめなフィオナも退かずに言い切った。
数年前の夜を改めての宣戦布告? あるいはただの意思表示?
いずれにせよ、彼女たちの気持ちはずっと前から変わることなく、少しずつ、ゆっくりでも進みつづけたからいまがある。
するとそんな彼女たちの耳に届く、想い人の声。
「すみません。遅れまし――――あれ?」
エドガーに連れられてきたレンが二人の顔を見て、気が付く。
普段と違い、彼女たちの頬が赤かった。
心なしか落ち着きもないように見えた。
「お二人とも赤いですけど、大丈夫ですか?」
二人はレンに気が付いてもらえていないことを複雑に思いつつ、でも、不平は抱かずそれも仕方のないことだと割り切って……
遅れてやってきた彼に近づき、
「何でもないわよ」
「ええ。なんでもありません」
声を重ねてため息を吐いた二人。
ため息に込められているのは、消極的な自分たちに対しての情けなさと、それでも気づいてほしいと言う乙女心だろうか。
◇ ◇ ◇ ◇
場所を変え、ユリシスが用意した歓待の場へ。
フィオナが言うには、この屋敷でパーティが開かれた記憶はないそうだ。
昔は体調の悪い彼女を気遣ったユリシスが別の場所を設けていたし、それからも、ユリシスはあまり他者を屋敷に招くことを好まなかった。
なので、専用の施設が敷地内に屋敷とは別に設けられている。
この屋敷でパーティのような催し事が開かれるのは、
「はっはっは! 私が父から屋敷を受け継ぐ前以来ですね!」
ユリシスが満面の笑みを浮かべて言った。
「主、もったいぶってきた甲斐がございますね」
「そうとも! 自宅でパーティなんて面倒だったが、今日はわけがわからないくらい楽しいじゃないか!」
いまだ下級貴族に属するクラウゼル家にはそれなりに重くのしかかる、それなりに重要な話である。
幸いなことといえば、彼らがユリシスと接することに慣れてきたことくらいだ。
豪奢に彩られたパーティ会場のホールにて――――
希少な調度品に彩られたこの場は、これまでのどのパーティ会場よりも格式高く、使用人たちの振る舞いも比べ物にならない。
レザードが言う。
「イグナート侯爵にご招待いただき光栄です」
「ははっ! まったく、クラウゼル子爵は相変わらずだね」
このもてなしの場はしばらくつづいた。
何せ、ユリシスとフィオナ、それにエドガーに限らず、この屋敷の者たちも楽しみにしていた特別な場だ。
クラウゼル家の二人とレンは緊張したが、途中からそれも和らぐ。
イグナート家の者たちと交わす話を楽しむこと、それからさらに数時間。
時間が経つのが、本当に早かった。
大きな窓から差し込む光が、すでに夕方の西日をすぎ徐々に薄暗くなりはじめていた。
「クラウゼル子爵」
この席が終わろうとしていたその前に、
「いかがです? このあと、よければ前に話していた事業について、少し相談でも」
「よろしいのですか? ありがたいのですが……もう日が暮れて参りましたが」
「ああいや、当家の方はお気になさらず」
イグナート家の対応はそつがなく、必要十分どころではない。
「どうせなら泊っていかれては?」
「泊ってといいますと、お屋敷にですか?」
「ええ。私もですが使用人も喜びますし、是非。宿にはこちらから連絡を入れておきましょう」
いきなりの提案に、レザードが面食らっていた。
これはこれで悪くない面があった。レザードとユリシスの二人は離れたところに住んでいるとあって、連絡手段は手紙か魔導船に乗るしかなかった。
彼らは緊密に協力して仕事をしており、直接話せる時間は金に並ぶ価値だと感じていた。この後も話ができるなら実利もとれる。
「両家のさらなる繁栄のためにも、いかがです?」
「これは主、クラウゼル家の皆様をもてなされたいと仰せでしたのに、すぐに仕事の話をしてよろしいのですか?」
それまで静かにしていたエドガーが言った。
「泊っていただいた方がさらにもてなせるのに、余計なことを言わないでくれ」
「おや、これは失礼を」
わざとらしいやりとりだった。
最初から皆を泊める予定なら事前に連絡していたはずなのだが、今日は思いのほか話が弾んだ。
言ってしまえば、予定外の提案だ。
レザードがレンとリシアに目配せをすれば、二人はすぐに頷いて返した。
近くではフィオナも嬉しそうに手を合わせて、にこにこしている。
「イグナート侯爵、久しぶりに酒の席もご一緒させていただけますか?」
答えは提案に応じるもの。
誰も異を唱えることなく決められた。
◇ ◇ ◇ ◇
夕方をすぎ、夕食をいただくその前に。
以前はクロノアやラディウスも足を運んだ、ユリシスの執務室がある。
声を掛けられたレンも同席し、話を聞いていた。村を継ぐ予定のレンの勉強にもなるかもしれないという、大人たちの気遣いだ。
「失礼いたします」
話の途中でエドガーがやってくると、彼はユリシスの紐で綴じられた紙の束を渡した。
エドガーはすぐに執務室を後にしてしまう。
「旧市街の報告書にございます」
「ああ、そろそろその時期だったね」
旧市街というと、昨日から度々レンが耳にしていた場所のことだ。
昨日はリシアがセーラたちと横切った場所でもある。
「ユリシス様、旧市街で何か?」
「大したことじゃないよ。定期的な報告みたいなものさ」
話題に出たから、ユリシスが「旧市街も知っていたのかい?」とレンに尋ねた。
「ええ。前々から聞いていましたし、神秘庁でも話題になりましたから。それと昨日はリシアも通りかかったと聞いてますし」
「ああ、確か例の室長殿と話をしてきたんだね。そこで話題に出なかったかい? あそこは管理されている場所だと」
「なので気になっていたところがあります」
「なら話が早い。旧市街は定期的に警備に行く必要があるんだが、これはそれらの件だよ」
紙に記された文面に目を向けたユリシスは「やっぱりね」と言う。
おおかた予想していた通りの内容が書かれていたから確認が早いのか、はたまた、いまここにレンとレザードがいるから流し目で読んでいるのか。
「また例の反応か」
レンが再び、
「妙な物が見つかったのですか?」
「ああいや、これまでだって何度もあったことさ。神秘庁の調査では、水に沈んだ魔道具が何らかの反応を示したことによる光ってことでね。もちろん、その光が危険信号か否かは調べてあるよ。ただ単に、まだ動作していることを示す光らしい」
ユリシスには念のために報告が届くようになっていた。
それとは別に、定期的に警備を派遣する時期でもあったのだが、それはまた後程考える、とユリシスはこの場の時間を優先した。
しかし、
「旧市街……」
レンが興味を窺わせる声を漏らしたため、
「気になるのなら行ってみるかい?」
その声を聞いたユリシスが提案した。
さらっとした、いつも通りの声音でだった。
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