ここからが本編だ――――と、彼はそう口にした。

 あの夏の後も忙しない日々がつづいた。

 クラウゼルに居た頃が充実していなかったわけではないが、エレンディルでの生活は試験勉強以外にもすることが多く、瞬く間に過ぎ去っていった。



 クラウゼル家にも大きな出来事があった。

 城に呼ばれたレザードに、エレンディル領主としての功績が讃えられて子爵位が与えられたのである。夏の騒動への協力に限らず、悩みの種だったエレンディルを統治する腕が認められた。帝城における謁見の間で行われたその儀にて、皇帝自らそれを宣言したのである。



 これには誰もが驚いた。

 特にレザードが驚き、多くの者と抱擁を交わした。レンに対してはうっすら涙を浮かべて感謝した。



 だからいまとなっては、レザードもクラウゼル子爵だ。

 まだまだ上位貴族とは言えないが、レザードはより一層、他の貴族たちの覚えが強くなった。皇帝が珍しく他者に「期待している」と口にしたこともあり、夏の儀は貴族の間でもちょっとした話の種になったほどだ。



 また、夏にあるリシアの誕生日もレンのそれと同じで慎ましく、家族だけで。

 秋には三次試験が、そして年が明ければ最終試験が。リシアと勉学に励み、フィオナが時にそれを協力し、ある日のレンはラディウスと約束通り帝都へ繰り出すこともあった。リシアがクラウゼル家の仕事をするため一か月ほど屋敷を空けたり、帰ったリシアとフィオナの関係に変化が現れたり、本当に色々なことがあった。



 ――――そんな、夏を過ぎても話題に事欠かない半年だった。

 春の、ある日のことだった。



「お父様っ!」



 リシアがはじめて披露した帝国士官学院、その特待クラスの制服姿。それをみたレザードは感慨深そうに微笑み、今日という日を祝った。

 同じく制服姿に身を包んだレンのことも見て「おめでとう」と口にする。



「二人ともよく似合っているぞ」


「ありがとうございます。その……ちょっと肩が窮屈な感じがしますね」


「真新しい制服なんてそんなものだ。いずれ制服も柔らかくなり、身体に合うようになろう」



 入学式が執り行われるこの日、天気は最高だった。

 蒼天に覆われた天球は雲一つなくて、暖か過ぎず、寒くもない絶好の入学式日和である。



「さぁさ、皆様方」



 エントランスに居た皆へ、外からやってきたヴァイスが声を掛けた。

 彼は制服姿の二人に一頻りレザードと似たようなことを告げ、最後はその双眸にうっすら涙を浮かべて感動していた。



 だが、こうしてはいられない。

 そろそろ出発しなければ、入学式に遅れてしまう。

 エントランスに集まった給仕や騎士、それに執事たちの優しい表情に見送られなら、三人は蒼天の下に繰り出した。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 白銀と深紅、それに黄金だった。

 帝国士官学院が誇る大講堂は広い。一階の席から天井を見上げると、遥かに高い天井に並ぶ黄金のシャンデリアを臨めた。白銀の内壁は荘厳で、深紅の絨毯が良く映える。内部は扇状の造りをしている。



 扇状の造りに沿った客席が二階、三階……五階までつづいており、 来賓はもちろん、在校生も一人残らずこの入学式に参加している。



 そして、最奥の檀上に立つ絶世の美玉――――クロノア・ハイランド。

 長きにわたる責務を負えてレオメルに帰った彼女は今日、新入生を迎えるべくそこにいた。



 入学式の会場となった大講堂に、別の教員の声が響き渡る。

 この学院では、男子と女子の中でもっとも成績が良かった新入生が代表となり、壇上のクロノアの前に足を運ぶ。



 今年、名を呼ばれたのは次の二人だ。

 レン・アシュトン、そしてリシア・クラウゼルの二人である。

 入学式も終盤に差し掛かったところで、その二人が隣り合った席を立って大講堂を歩いた。



「レン、緊張してる?」


「はい。実は少しだけ」


「よかった。私も一緒よ」



 二人は潜み音を交わし、そっと微笑みを交わして。

 分厚い深紅の絨毯の上を進み、最奥に鎮座した壇の前に立つ。階段を上り、その先に待つ学院長の下へ向かった。



(……ここに、リシア様と一緒に立つことになるなんて)



 壇上に注がれるシャンデリアの灯りは眩いくらいだ。

 目もくらみそうになる中、レンは瞼の裏にある記憶を回想した。



『見てわかるだろ? 俺はいま、彼女を殺したんだ』



 聖女リシアを殺し、その亡骸を抱いたまま言い放ったレン・アシュトンを。もの言わぬ亡骸と化した聖女リシアから滴る血潮が壇上を濡らす様子を。



 自分はいま、そのリシアと共にその壇上へ向かっている。

 肩を並べ、こんなにも近くで。

 複雑な感情に苛まれながら、でも足は止めなかった。コン、コン、と革靴の底が木製の床を叩く音を響かせて、ゆっくりと歩いた。



 そして、待ち受けるは彼女――――クロノアだ。

 七英雄の伝説において、レンが命を奪うもう一人の人物。世界最高の魔法使いの一人だ。



 金糸の髪を揺らし、レンとリシアの来訪に喜んだクロノア・ハイランド。つばが広い魔女の帽子をかぶって、マントを嫌味なく着こなしていた。

 壇越しに立った二人に、彼女は宝石と見紛うような笑みを向けた。



「はじめまして、聖女さん。それと――――久しぶり、英雄くん」



 リシアはクロノアにそう話しかけられて緊張した。しかしリシアは、すぐにレンを英雄くんと呼んだ事実にきょとんとした。

 また、クロノアは確かに久しぶりと言った。

 わけもわからずレンの横顔を覗き込んだリシアは、レンもきょとんとしているのを見た。



(久しぶり……?)



 いつどこで会っていたのかと、レンはこの状況で冷静に考えた。

 クロノアは嘘をついていないはずと考えて、過去、彼女とどこで会っていたのかと頭を働かせた。



 ゲームでの話になるが、クロノアもリシアと同じでレンにとって特別な存在だ。

 そんな人物と会っていたなら忘れるはずもないのだが……。

 壇上に足を運んだ総代の二人が、クロノアを前に何も言わない。

 それには、見守る者たちも違和感を――――覚えることはなかった。

 新入生や在校生、賓客は彼らが何か話しているのだろうと、誤解していたから。



「どこかでお会いしておりましたか?」


「うん。もう二年くらい前になるかな。ボクと君はお話をしたこともあるんだよ」



 それだけで十分だった。

 レンは過去、印象に残ることがあったら頭からその記憶を失うことがなく、今回も例外なく当時の記憶を思い返した。



 あれは、鋼食いのガーゴイルを討伐した日のこと。

 それと、リシアと共に領内の村々を巡ったときだ。



「紆余曲折ありましたが、学院長――――」


「クロノアでいいよ。様もイヤかな」



 クロノアはわざとらしく言葉を挟んだ。

 方やレンは、クラウゼルの冒険者ギルドでクロノアと交わした言葉に触れる。



「――――クロノアさんの思い通り、帝都に来ることになりました」


「うんっ! 思いだしてくれて嬉しいな」


「レ、レン……? ど、どこでお会いしていたのよ……っ!」



 壇上で慌てるなんてできない。

 リシアはその背に平静を装いながら、しかし向かい側に立つクロノアと、隣に立つレンにはその驚きを表情に浮かべて知らせていた。

 レンはクロノアに目配せを送り、話していいか問いかけた。

 クロノアは小さく頷く。



「クラウゼルで一緒に村を巡ったとき、急に帰ることになったことがありましたよね」


「……町で会った人がどうしてか森の中に居て、レンと再会したときのことかしら」


「そうです。どうやら、その人がクロノアさんだったようです」


「たはは……試験のために使う場所を探してたんだ。クラウゼルで二回もレン君に会えたことは偶然だったんだよ」



 驚くリシアと、思いのほか驚いていなかったレン。

 レンにとっては合点がいくことだらけで、逆にすっきりしたくらいだった。



「イグナート侯爵からレン君のことを聞いてたからね。本当はクラウゼル家にも挨拶に行きたかったんだけど……」



 この学院の入試が特別だったこともあり、叶わなかった。クロノアはバルドル山脈での件を謝罪しようとしたが、ここでしては時間を要すると思い場を改めることにした。

 代わりに、



「後でゆっくり話そうね。いまは学院長として、ちょっとだけ頑張らせてもらおうかな」



 クロノアは言った。

 総代となる二人に対して、そして背後に広がる席に座る多くの新入生たちへ。

 この日、皆が帝国士官学院に入学したことを心より祝い、これから先、皆がこの学院で実りある日々を過ごせることを祈った。



 そして彼女は、両腕を翼のように広げ――――



「さぁ、みんな」



 彼女が右手の指先をぱちんと鳴らすと、大講堂の中に一陣の風が吹いた。



 天井が、壁が、そして床が。

 調度品や椅子を除くすべてが透けて、限りなく蒼穹が広がる空へ変わった。雲が泳ぐように空を過ぎ去っていく様子と、純白の鳥たちが行き交う景色。

 頂点から注がれる眩い陽光とともに、神秘的な景色がクロノアの言葉と共に訪れた。



「ようこそ帝国士官学院へっ! ようこそ世界最高の学び舎へっ!」



 神々の世界が存在したら、こんな場所なのだろうか。

 席に座る者は例外なく驚きの声を上げ、それはいつしか歓声に変わった。

 拍手と喜びの声が入り混じった歓喜の空間を、壇上に居たレンとリシアの二人も頬を緩めて辺りを見渡した。



「二人とも、今日は本当におめでとう!」



 と、そこでクロノアが歓喜の渦に乗じて声を掛けた。

 振り向いたレンとリシアへ、クロノアがそれはもう可憐な笑みを浮かべていた。



「今度は学院長室ボクの部屋でお話しようね!」



 そんなに軽く誘っていい場所なのかとレンとリシアは迷ったが、相手はクロノア、そこいらの上位貴族以上の発言力を持つ存在だ。



 断るなんてとんでもなく、レンもクラウゼルのことをちゃんと聞きたい。

 二人がやや遠慮がちに「はい」と言えば、クロノアは嬉しそうにはにかんだ。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 入学式が終わってからは、学内のいたるところが賑わう。

 たとえば大講堂に、たとえば庭園に、たとえば正門付近に多くの人が足を運んで語らう光景が毎年見られた。



 貴族同士であれば親交を深め、今後のための話もした。

 また、平民同士も友人を作るため新入生同士で語らったり、将来有望な者は上級生やその家族などに声を掛けられて、早くも従者や文官として取り立てるべく話すこともあった。特に顕著なのは特待クラスの制服を着た者たちで、特筆すべきエリートたちの周りは目立つくらい賑わった。



 それを知っていたためリシアは正門付近に居た。もうそろそろ帰ると匂わせることで、人混みを作り出すことをどうにか避けていた。



「リシアっ!」



 そこへ声を掛けた、セーラ・リオハルド。

 彼女はヴェインを連れてリシアの下を訪ね、これから同じクラスで勉学に励むことへの喜びを共有した。

 ヴェインは二人を見守って、爽やかな笑みを浮かべていた。



「最後の最後まで試験会場が別だったけど……次からは同じ教室ね!」


「ええ。これからよろしく。――――えっと、ヴェイン君だったかしら?」


「は、はい! はじめまして! ヴェインです! 家名はないんですが、いまはリオハルド家のお世話になってまして……っ!」



 ヴェインはリシアの可憐さを前に緊張し、少し強張っていた。

 それが不満なのかセーラは唇を尖らせていたが、ヴェインの反応も無理はない。制服姿のリシアは誰が見ても眩しくて、隣に立つだけで緊張してしまう。別にセーラがそうじゃないというわけではなかったものの、聖女の威光……とでもいうのだろうか。



「ええ。貴方もこれからよろしくね」



 リシアはそう言うと、腕時計を見た。

 この前の夏、レンに誕生日の贈り物としてもらった腕時計だ。ピンクゴールドの全体像が可愛らしい時計で、純白の文字盤が清楚な彼女に良く似合う。



「もう少し話していたかったんだけど、もう行かなくちゃ」



 今日はユリシスが祝いの席を設けてくれると前々から決まっていた。秘密裏にラディウスも足を運ぶ、それなりに仰々しい席となる。

 だからリシアは、傍で他の新入生に声を掛けられていたレンに言う。



「レン、そろそろ行きましょ。お父様が待ってるわ」



 これまでリシアの傍でそうしていたレンが振り向いて、ヴェインとセーラの二人にその顔を見せた。

 二人は唖然とした。

 まばたきを何度も何度も繰り返してから、あの夏の夜のことを思い出して、



「え――――?」


「あれ――――?」



 遂に驚嘆に至った二人へと、レンが軽い態度で「やぁ、久しぶり」と言う。

 諸々の話を聞いていたリシアは仕方なそうにくすっと笑み、「行きましょ」と再び口にした。セーラとヴェインへも別れの挨拶をして、レンを伴って歩き出す。

 レンたちが背を向け歩き出したところで、



「あ、あああなた、もしかしてっ!」


「き、君はまさか――――ッ!?」



 レンとリシアの背に届く、あの二人が驚いた声。



「嘘!? リシアが言ってた自分より強い男の子って――――そ、そうだわ! 彼、リシアと一緒に総代を務めてた……ッ!」


「あ、ああそうだ! ってことはやっぱり、彼が噂の……ッ!」



 猶も聞こえる声に、リシアが上機嫌に弾ませた声でレンに尋ねる。



「私から行きましょって言っておいてなんだけど、やっぱり、あの二人にはちゃんと話しておく?」


「いえ、どうせ同じ教室で授業を受けることになるんですから、いくらでも話す機会はあると思います。なので今日は、優先すべきことを優先しましょう」


「ふふっ――――ええ。そうしましょうか」



 とんっ、とんっ、と軽快に歩くリシアの横で。

 レンはこの日の出来事がゲームのイベントだった時のことを思い出し、賑わる正門周辺を歩きながら笑った。



(ほんと、色々変わったな)



 本来、総代は別の生徒たちが務めるはずだった。

 それもレンの存在が変えてしまったし、クロノアとの出会い、彼女との再会と会話に至るすべてが新たな展開だ。



 故にレンは、過去に思っていた帝国士官学院へ恐れをもう抱いていない。いま心に抱いているのは、兼ねてより心に宿っていた成長することへの欲求と、待ち受けるであろう試練に対する覚悟だけだ。



「レンったら、楽しそう」


「ええ。楽しいですよ。かなりワクワクしてます」



 なぜなら、はじまるから。

 レンが学院に入るまでの物語はここまでだ。

 いわば、彼にとっての序章だろうか。七英雄の伝説Iにおける序盤のイベントがやっと終わり、入学したところからはじまるのが本編だから、これまでのことは間違いなく序章だろう。



 これがゲームの中ではなくとも、あくまでも気持ちとして、である。



(……それにしても、長い長い序章だったな)



 幾度も戦い、死闘を繰り広げた。

 普通に生きていれば経験しないようなことだって、何回も経験した。

 だから、こんな本編のはじまりはどうだろう? 他の人より波乱に満ちて、その分の幸せに満ちたはじまりというのは。



 心地良い春風が、レンの髪を靡かせた。

 周囲の賑わいに溶け入るように、レンは小さな声で口にする。

 きっとそれは、彼自身の気持ちを再確認するための言葉だ。いままでの生き様を肯定し、これからの人生に光り満ち溢れるように。



 自分がしてきたすべてのことへと、レンは数多の思いを言葉に乗せる。



「さぁ――――本編のはじまりだ」



 物語の黒幕に転生して、彼が迎える数奇な運命。

 その本当のはじまりはきっと、この日だったのだろう。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 ――――とある昔話の一部を語ろう。

 

 

 厳重に管理された石造りの塔に、一人の少女が幽閉されていた。

 その少女は美しかった。どんな花や宝石も霞む可憐さと美貌を孕んだその顔は、どんな異性でも虜にすることができただろう。



 だが、彼女はその身体に、なにものも蝕む稀有で凄まじい力を宿していた。

 彼女の近くにいるだけで生命力を蝕まれ、その皮膚が爛れ、脳まで侵食したその力により正気を奪ってしまう恐ろしい力だった。

 


 そんな少女に声を掛ける者がいた。

 夜な夜な警備の目を盗み、僅かに外が見える小さな窓から声を掛ける、一人の男だった。

 彼が石造りの塔に足を運ぶようになって、二か月が経った。

 その間、少女は男の声に耳を傾けることはあっても、返事をすることはなかった。

 彼女が返事をしたのは、更に一か月が経ってからのことだったのだ。



『貴方はどうして気が触れないの?』

 


 唐突に問いかけられた男が、慌てることなくいつもの調子で、



『俺が強いからです。貴女程度の力では、俺を蝕むなどできません』



 あっけらかんとした口調で言い、少女が次の言葉を口にするのを待った。



『嘘ね。どうせ何かの力で少しだけ防いでるに違いないわ。お父様に命じられて、私の機嫌を取りに来ているのでしょう?』


『いえ、そのようなことは』


『ならその小窓から手を伸ばしてごらんなさい。恐れることなく私に触れることができたら、貴方の言葉を信じてあげる』


『それくらいで信じていただけるのなら、喜んで』



 男は小窓から手を差し入れた。

 少女は唖然として、しかし自分から言ったのに彼の手に手を重ねることはせず、慌てて小窓から距離を取った。



『馬鹿なの? それとも愚かなの?』


『同じような言葉を並べる意味がわかりません』


『……では蛮勇ね。もういいから、手遅れになる前に手を戻しなさい』



 しかし、男は手を戻そうとしなかった。

 むしろ小窓から中を覗くことをしない代わりに、腕を振って少女に触れられないかと懸命に試みた。

 少女はそれを見て、『やっぱり、馬鹿なのね』と言った。



『心外です。触れてみなさいと言ったのは貴女だ。馬鹿と言うのなら、それは貴女自身のことになってしまう』


『私を馬鹿と言ったのは貴方がはじめてよ』


『光栄です』


『……別に褒めてないわ。もういいから、その手を戻しなさい』


『いえ、俺に触れていただくまで戻す気はありません』



 少女は深くため息を吐いた。

 そのため息すら男の手に届かぬよう、更に小窓から離れる。

 少女の声が遠ざかったことに気が付いた男の手が、しょぼんと垂れ下がった。



『私に触れてもなにも良いことはないわ』


『あります』


『言ってごらんなさい』


『――――少なくとも、俺は他の者と違うと理解いただけましょう」


『その必要はないわ。これが最後よ。大声で騎士を呼ばれたくなければ、その手を抜いて立ち去りなさい』



 男の腕は微塵も動かず、どうしたものかと迷っていた。

 そこで男は、名案だと言わんばかりに、



『どうすれば手を取っていただけるのですか?』



 と、猶も図々しく言ったのだ。

 少女は再び深いため息を漏らし、「あーもう!」と荒れた声を口にする。

 男の諦めの悪さに対し、無理難題を押し付けて茶を濁すことにした。



『私の力を抑えるために、あるモノを持ってきたら手を取ってあげる。顔を合わせて、その手に口づけをしてあげても構わない』



 諦めの悪い男が相手とあってどこか乱暴で、偉そうな口調になってしまった。

 それは少女本来の口調ではない。少し普段と調子が違う自分に、少女は自分自身、密かに驚いていた。



『何を持てばいいかお教えください。どうにかして用意して参りましょう』



 少女は以前、高名な魔道具師から聞いた言葉を口にする。

 確か、ミリム・アルティアという女性が次のように口にしていた――――と。



『龍王の角の欠片に、天空大陸を統べし不死鳥の血。海底に眠る巨人の涙を持ってきて』



 それを聞いた男がようやく小窓から手を引いた。

 少女は男がやっと諦めたのかと思って安堵しながらも、諦められたことに少し落胆するという、複雑な感情に苛まれた。

 だが、少女のそれは勘違いである。

 男は小窓から顔を覗かせることはせず、外で月灯りの下、嬉しそうに笑う。



『すべて一年以内にお持ちしましょう』


『え、あ――――ちょ、ちょっと! 待ちなさい!』


『約束ですよ。どうかしばしお待ちを。いまの約束を反故にすることだけはなさらぬように』


『だから待ちなさい! あの――――っ!』



 男の気配は消えていた。いつの間にか忽然と、霧のように消えていた。

 少女はその事実に困惑し、ぺたん、と床に腰をついた。



『……嘘つき。できっこないわ』



 少女はそう呟き、でもあの男が嘘つきでないことを祈った。

 生まれてはじめてあんなにも近くでずっと話をしてくれた者の存在に、彼女はあることを願った。



 願わくば、また自分の傍に来てくれますように。あの三品を持ってきてくれなくても、また話をすることができますように――――と。



 ――――――――――



 3章はこれにて終了となります。

 今日まで1か月少々、2章に引き続きお付き合いくださり、本当に本当にありがとうございました。


 4章も楽しんでいただけるようまたご用意させていただきますので、これからも『物語の黒幕に転生して』を、また好評予約受付中の1巻も、何卒よろしくお願い申し上げます。


 ――――といったところで、今回は失礼いたします。

 また4章で、皆様とお会いできますように。




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