夏の終わりが近づいて。

 多くのことが済み、屋敷に帰れたのは深夜になってからだった。

 途中、ラディウスは帰ってもいいと何度もレンに告げたが、レンはこの日の作戦に携わった身として、最後の最後まで付き合った。



 この日の騒動の様子に驚いていた者は少なくない。

 ユリシスも同時に動いていたため影響は最小限に留められたが、どうしても、現場でなすべき仕事は多かった。



(――――疲れた)



 本心から、そう思った。

 振り向けば、大時計台の針が深夜三時を示している。

 クラウゼル家の屋敷に帰ったレンは、鉄製の門の前に立つ騎士と言葉を交わした。



「おかえりなさいませ」



 それだけだ。

 クラウゼル家の騎士は疲れ切った様子で帰ったレンを見て、また、ここまで届いた騒ぎの余波を思い返して多くを悟った。



「皆様、まだ起きていらっしゃいますよ」


「こんな時間なのにですか?」


「もちろんです。今日はどうしてか町中でとてつもない騒ぎがございましたので、その影響で、ご当主様も多くの仕事をなさっておいでだったようです」


「……帝都の貴族とか、来客ですか?」


「貴族の使いは多く足を運んでおりましたが。恐らく、今宵のことへの伺いかと」



 だが、屋敷に殴りこむような者はいなかったようだ。恐らくそれも、ユリシスが何らかの策を講じていたからだろう。

 レンはそれがわかっただけで十分だった。

 そうした仕事は自分の仕事じゃない。ユリシスが担当しているなら何も言うことはない。

 というか、考える余裕がほとんどないくらい疲れ切っていたため、レンの頭が自然とそうさせなかった。



「俺は……」



 何を口にして、屋敷に入ろう。

 疲れた頭を働かせていると、門番を務める騎士が微笑んだ。



「今宵はお休みください。レン殿が成すべきことは、それだけでありましょう」



 レンは目の前の騎士の言葉にきょとんとして、同じように笑った。

 疲れ切った、普段よりだいぶ弱々しい笑みだった。



 鉄製の門をくぐり、芝生が敷き詰められた庭園に入った。門から真っすぐ敷き詰められた石畳の道を進んで、いつもなら気が付くはずの影に気がつかないまま屋敷の扉の前に立った。

 その影と言うのは、庭園の片隅に停まった一台の馬車だった。

 でも、レンはまったく意に介した様子もなく、そのままの足で屋敷に入った。その扉の前に立っていた給仕に「お帰りなさいませ」と優しい声で言われて、彼女が開けた扉の先へゆっくり歩いてだった。



(まず湯を浴びて……あと少しくらいご飯を食べて……)



 眠りに付けるのは一時間後くらいだろうか。いや、今日のことをレザードに報告してからになるから、二時間くらいか。

 すぐにでも寝たかったけど、こればかりはしょうがない。

 しかし、眠るのはほぼ朝になると思うと苦笑いが浮かんでしまった。



「よければ大浴場をお使いください。ご当主様もそう仰っておりました」


「……ありがとうございます。今日は素直に甘えます」



 そう言って、レンは大浴場へ足を運んだ。



 浴びた後、レンは後悔していた。

 湯を浴びる前に夕食をお願いする旨を給仕に告げておけばよかった。もう遅いから、何か軽い者でも貰って休むとしよう。

 そう考えていたら、大浴場を出たレンに給仕が声を掛ける。



「お食事を用意しておりますので、どうぞ大広間へ」


「……へ?」


「おや? 何を驚かれておいでなのですか?」


「だって俺、お願いしますなんて一言も……」


「あらあら。我ら給仕にわからないとお思いですか? ご用意させていただきましたから、レン様さえよければ、是非お召し上がりください」



 すると、レンの腹がぐぅ、と鳴った。

 情けない音にレンは照れくさそうに頬をかき、「ありがとうございます」と礼を言う。給仕に連れられて大広間へ行き、中へ入った。

 レンのことを、大広間の中に居たエドガーが迎えた。



「お帰りなさいませ。レン様」


「あれ? エドガーさん、どうしてここに?」


「どうしても何も、フィオナ様が居るのですから私もおりますよ。――――そうでなくとも、今宵はレン様をお待ちするつもりでした」



 穏やかな笑みを浮かべてい言ったエドガーが、



「――――今宵も英雄であった、そう思ってよろしいですか?」


「どうでしょう。ただ、俺にできることは全部してきました。最後は剣王の力に圧倒されましたけどね」


「ははっ――――なるほど、承知いたしました」



 軽いやりとりの後、レンはエドガーに連れられて大広間の中を歩いた。

 テーブルに用意されていた食事が湯気を上げている。



「そういえば、フィオナ様はまだエレンディルにいらっしゃるんですね」



 レンはもうフィオナは帝都に帰っただろうと思っていたのだ。

 が、どう考えてもそれはあり得ない。

 あの少女がレンの帰宅を待たず、作戦の終わりを以て帝都に帰るなんてどう考えてもありえなかった。

 では、彼女が何処にいるのかと言うと――――



「レン様がお帰りになる少し前まで、お二人とも起きてお待ちになっておりました」



 フィオナは、そしてリシアはソファに座っていた。一枚のひざかけを二人一緒に使い、その膝の上に数冊の参考書を置いて。

 二人は互いに寄り添うように、静かに寝入っていたのである。



「どうして、お二人はあのように?」


「数時間前から、フィオナ様がクラウゼル嬢の勉学にご協力なさっておいででした。その途中で、お二人とも疲れ切って眠ってしまったようでございます」



 参考書を片手に教えるため、二人は隣り合って座りながらその時間を過ごしたようだ。



「フィオナ様も最近は試験勉強で夜更かししておいででしたし、クラウゼル嬢も試験勉強であまり寝ておられなかったと聞いております」



 だから二人は、眠ってしまった。

 二人にとってそれは相当な不覚だろう。互いに忙しない日々を過ごしたこの日にレンが屋敷を出て戦い、それを待てず意識を手放してしまったのだ。

 限界まで起きていた二人の姿に、レンは思わず口角を持ち上げた。



「道理でエドガーさんがいたんですね」


「先ほども申し上げましたが、そうでなくとも私は残っておりましたよ」



 同じようなやり取りを交わしてから、レンは席に着いた。

 給仕が用意してくれた料理が冷める前に食べる。二人に帰宅の挨拶をすることはこの状況から避けて、眠りの邪魔をしないようにと。

 部屋に運んで食べようとも思ったけど、食べやすい軽食が多かったからここで食べることにした。



「そういえば、リオハルド家のご令嬢とお会いしました」


「私も報告を受けております。主はその件でリオハルド家に働きかけているようですので、御心配には及びません」


「安心しました。というか、本当に仕事が早いですね」


「それはもう。主はあまり裏方に徹することはありませんが、徹すればこそ存分に務められましょう」


「……裏方に徹したユリシス様ほど怖い存在はいませんよ。ほんとに」



 七英雄の伝説における彼の暴走が裏方とは言わないが、自分が成すべきことに徹したユリシスの強さは言うまでもない。

 今宵、ラディウスがあのように動けた一番の理由だろう。

 レンは食事に勤しみながら、今日のことを思い出す。



「……この後はレザード様にお会いしないと」


「それでしたら今日はよいそうです。クラウゼル男爵はつい二時間ほど前に屋敷を発ち、帝都に居る主の元へ向かわれました。『今日は存分に休んでくれ』と、言付かっております」



 それが少し、嬉しかった。

 この後はもう寝るだけだと思うと、身体がふっと軽くなった気がした。

 レザードへの報告を軽んじたわけではない。ただ単に、今日はどうしようもなく疲れてしまっただけである。



剣豪殿、、、



 ふと、



「今宵の戦いを経て、何か目指す先はできましたか?」



 エドガーからの唐突の問い。



「……」



 レンには兼ねてからの思いがあって、それを目指しつづけてきた。

 先の戦いから間もないとあって新たなことを考えるには時期尚早な気がしたけど、レンはエドガーがそれを知らずに尋ねたとは考えなかった。

 エドガーは、何か考えがあっていまの問いを投げかけたはず。

 特に、いま話したほうがレンの頭に強く残って、レンのためになるという理由などがあって。



(そうか)



 疲れていても、レンは冴えていた。

 エドガーがわざと剣豪殿、と聞いたのも関係して。



「以前と変わらない、分不相応な目的を再確認したところです」



 と。

 エドガーは満足げに笑っていた。



「頂を見上げ、その差を理解できる者はごく僅かでございます。また頂を見上げ、その地へ歩もうと思える者は数えるほどしかいないでしょう」


「それは道化だ、と嘲笑される気もします」


「英雄譚と喜劇の違いを理解できぬ者が何を言っても、所詮戯言でございます」



 食事が一段落したところで、レンは傍に控えたエドガーを見た。



「現実を見せつけられて、驚嘆させられました。でも俺は変わりませんよ。クラウゼルの屋敷で決めたように、剣王のような強者になるため剣を磨きます」



 ここでの問いかけはエドガーなりの檄だった。

 剣王の強さを見せつけられたレンが衝撃を覚えていたら、何か言葉を投げかけようとした。しかし不要だった。レンは以前と変わらず揚々としていた。



「次の春には獅子聖庁の長官も帝都に帰ります。レン様にとって、剣を学ぶ良き機会となることでしょう」


「……」


「レン様?」


「いえ、何でもありません。疲れたせいでぼーっとしてました」



 実際はそうじゃない。獅子聖庁の長官と聞き、レンはゲームの知識を思い返していただけだ。

 次の春になったら、また賑やかなことになりそうだ――――と、レンは座ったままうんと背筋を伸ばす。



 するとそこで大広間の扉が軽くノックされた。

 現れたのはクラウゼル家の給仕で、彼女は小声でエドガーを呼んだ。



「申し訳ありません。主から連絡があったのかもしれません」


「わかりました。念のため俺もここに居ますね」


「お気遣いいただき感謝申し上げます――――では、少々お待ちくださいませ」



 エドガーは大広間を出ていった。

 残ったレンはおもむろに立ち上がると、ソファへ近づいた。

 寝てしまっている二人に近づくことは勧めらない振る舞いかもしれないが、やはり疲労困憊のレンは木製の椅子に座っていることに耐えきれず、柔らかなソファに腰を下ろしたくなった。



 ふわっ、と柔らかくも沈みすぎない絶妙な感触に、瞼がどっと重くなった。

 少しだけ、エドガーが帰ってくるまでだけ。

 重い瞼が重力に従って下がる様子に抗うことはできず、レンの呼吸が徐々に深くなっていく。



 レンが意識を手放すまで、数分と掛からなかった。



 そして、レンが眠ってしまってから数十秒後のことだった。

 すー……すー……という規則正しい寝息を立てる彼の対面のソファで、まずはリシアの目がぱちっ、と開いた。

 数秒遅れてフィオナも目を覚まし、二人は顔を見合わせてハッとした。

 レンを待つつもりだったのに、自分たちだけ眠ってしまっていた。

 そのことに気が付いた二人は心の内で自らを責め立て、強く後悔していたのだが……



「っ……レ、レン?」


「レン、君……?」



 彼女たちはほぼ同時に呟いて、レンの姿に気が付いた。

 そして、立ち上がった。

 疲れ切ったレンの両隣りに座った彼女たちはレンに優しく、そして穏やかな笑みを向けて、互いにレンをねぎらった。

 共に居られなかった悔しさは口にしない。

 いまはただ、レンの働きにだけ触れるべきだったからだ。



「……リシア様。レン様をお部屋に連れて行ってあげた方がいいかもしれません」


「え、ええ……でも私たちが抱き上げたら起こしちゃうかもしれませんし……」



 二人は迷ってしまった。

 寝起きとあって、ここでエドガーや騎士を呼ぶという単純なことを忘れ、自分たちでどうにかしないければ、などと目の前のことにしか意識が向かなかった。

 視野が狭いことは、彼女たちがレンのことに意識を集中しすぎたことも原因だろう。



 迷った二人は、二人が手を貸してレンを彼の自室に運べないかと思った。

 しかし、そこへエドガーが戻った。



「ふむ。お二人は何をなさっておいでなのですか……?」



 当たり前の疑問を述べられて、二人はエドガーを呼べばよかったのだと頬を赤らめた。レンに伸ばしかけていた手は、そこでぴたっと止まる。

 エドガーは二人の考えを勘付いた後で仕方なそうに笑った。

 周りの様子に気が付いたのか、レンはそこで目を覚ます。僅かな睡眠は物足りなかったけど、両隣に座ったリシアとフィオナの姿にも気が付いて、



「――――すみません。状況が理解できません」



 素直にその感情を吐露したのである。



「わ、私はその……レンは疲れてるだろうから、ベッドで寝た方が良いと思って……っ!」


「私もです! レン君をどうにかして運べないかと考えてたんですが……っ!」



 慌てふためく二人を見て、レンが和む。

 状況もわかったから驚きはない。だがこうして二人に挟まれているのは立場的にどうかと思い戸惑った。



「ね、ねぇ」



 リシアがレンに尋ねる。



「今日のこと、もう聞いても平気……よね?」



 次にフィオナが、



「でも、無理にいま教えてくださいとは申しません。レン君もお疲れでしょうから……」


「ええ。だから明日以降でもいいんだけど……」



 そうはいっても、レンは話そうという気分になっていた。

 僅かな睡眠でも意外と頭がすっきりしたし、何よりもここにいる二人には粗末な嘘をついてまで戦ってきたのだから、何も説明せずに寝る気にはなれなかった。

 だが、どこから話したものか。

 レンはエドガーの顔を窺い、エドガーが唇の動きで「大丈夫ですよ」と言ったのを見て頷く。



「話せば長くなるんですが……」



 とりあえず、一番重要なことから話すとしよう。



「――――ラディウスと一緒に、大時計台で魔王教徒と戦ってきたんです」

 


 そう、これだ。

 いくら二人の美姫がきょとんとしていたとしても、実際にそうなのだから言い換えようのない事実だ。

 だから二人には、そんなに唖然としないでくれと言いたい。



「……ほんとに?」


「ほんと、なんですか?」



 二人も一つ一つの予想はできていたろうが、まさかそこで、レンが第三皇子と共に魔王教徒と戦うなんて思ってもみなかった。

 知らぬうちに、レンは何てことをしていたのかと。

 だけどそんなレンもレンらしい。リシアとフィオナは同じくそう思って、同時にくすくすと笑いはじめた。



「もう、レンったら。教えてくれたと思ったら、いったいどういうこと?」


「ふふっ。魔物と戦いに行くって言いながら、ほんとは第三皇子殿下と一緒に魔王教徒と戦ってたんですね」


「お二人とも笑ってますけど、本当ですからね!」


「わかってる。別に疑ってなんかないわ。ただちょっとだけ、びっくりしちゃっただけよ」


「あっ、私もですよ。でもそんなレン君もレン君らしいなーって思っちゃいました」



 もう、眠気もどこかへいってしまった。

 レンは二人に作戦を教えず屋敷を出たことへの詫びとして、それから夜が明けるまで今日のことを語り聞かせたのである。

 リシアとフィオナの二人はレンの話を聞きながら、彼の横顔を眺めて微笑んだ。



 

 ◇ ◇ ◇ ◇




 二週間経ってから、レンの元にラディウスの使いが訪れた。

 その使いはレンに食事の席を用意したと言い、ある夜にラディウスとレンが語らう席が設けられた。

 それは以前、二人がステーキを共に食した大通りの店だった。



「こんなとこで話しても平気なの?」


「こんなとことは人聞きが悪い。この店は私が気に入った料理を出す店だぞ」


「いや、店の格がどうのとかって話じゃなくて、この前の話をするからって意味に決まってるじゃん」


「案ずるな。周りの席に座る者たちは剛剣使いだ」


「……なにそれ?」


偶然、、、予約が重なったらしい」


「絶対嘘じゃん……まぁ、手を尽くしてあることはわかったから、もういいや」



 二人の元へ料理が運ばれてきた。

 運んできたのは前回も二人の対応をした店員で、先日ほどは緊張していないようだ。やはり事前に連絡があるのとないのでは違うらしい。



「改めて礼を言う。先日は助かった」


「いいよ。こっちこそ同行させてくれて助かった」



 ステーキを頬張り、果実水を飲む。

 数分経ったところでラディウスがレニダスの件に触れた。



「レニダスをはじめ、魔王教徒らを尋問した――――が、奴らは日に日に衰弱しつつある。我らが食事を与えようと、ポーションを与えようとそうだ」


「……意図的に死のうとしてるってこと?」


「そのようでもない。どうやら刻印が力を奪っているようだ」



 ラディウス曰く、何が何でも自害できないよう気を遣っているようだ。

 見張りも、魔道具も、それにポーションをはじめとした治療用の準備もそう。だが、それでも衰弱しつつあった。

 穴の開いたコップに水を注ぐが如く、与えた活力がすぐに抜けてしまうという。



「しかし収穫はある」



 ラディウスが果実水を一気に呷ってから、



「奴らは半年前、聖地の連中と事を構えたらしい」


「……聖地と?」


「ああ。とある聖遺物を奪うため、その聖遺物が保管された神殿を魔王教徒らで襲って奪い取ったようだ」


「レニダスの刻印から調べられたことじゃないよね?」


「さすがにな。あくまでも尋問で聞けただけのことだ。しかし、レニダスの刻印には聖水の影響が残されていた。事を構えた際、奴の刻印に封じられた力が傷ついたのだろう。私はそれを確認しているから、聖地と事を構えた事実は間違いない」



 話を聞くレンがラディウスに倣って果実水を呷る。

 ラディウスが言った聖遺物だが、



エルフェンの涙、、、、、、、と呼ばれるもののようだ」



 言い伝えによると、なにものも浄化する特別な力を秘めた液体だという。それを魔王教が狙う理由がわからない。

 彼らにとってその液体は、とてつもない劇薬以外の何物でもないだろうに……。



「それ、もう盗まれてるの?」


「衰弱したレニダスによるとそのようだ。奴らが教主と仰ぐ存在とともに神殿を襲い、互いに多くの犠牲者を出しながら奪い取ったようだぞ」


「……目的がわからないな」


「私もだ。あくまでも浄化の力を秘めただけのものを、奴らが何に使おうとしてるのか見当もつかん」



 ラディウスは帝都大神殿をはじめ、レオメル中の神殿に向けて警戒のため動いているという。

 当然、ユリシスの協力もあって順調なのだとか。



 食事が終わり、口直しの氷菓子を食べてから。



「レン」



 ラディウスが真面目な声で、



「然るべきときが来たら、また私と共に戦ってくれるか?」


「ここで俺が勝手に頷くことはできないけど、その戦いが俺の守りたい存在のためになるのなら、喜んで命を懸けると思う」


「――――十分だ。それ以上の答えはないな」



 ところで、とラディウスが繰り返す。



「先の戦いにおける褒美として、クラウゼル家に一つ贈り物がある。この手紙に書いてあるから、レザードにはその日に登城するよう伝えてくれ。遅刻は許されんぞ」


「えっと……よくわからないけど、レザード様が城に行けばいいってこと?」


「うむ。後はそうだな、私からレンへ個人的に礼をしたいのだが、何かほしいものはないか?」



 急に問いかけられても、レンは相変わらず困ってしまう。

 だが、レンはラディウスの立場を思い出して考えたことがある。



「もしラディウスが皇太子になったら、禁書庫で本を探してきてくれたらそれでいいよ」


「禁書庫? そればかりは私も簡単には頷けんが、なんという本が欲しいのだ?」



 レンもどんな本があるか、そもそも情報が残されているかわかっていない。それでも、アシュトン家に関する情報なら何でも欲しいと思っていた。

 これをラディウスに告げてよいか迷うも、結局レンは口にしてしまう。


「俺が生まれたアシュトン家について、家系図でもなんでもいいから残されてたら見せてほしいんだ。他にも、アシュトン家に関係する情報ならなんでもいいよ」


「ふむ……そのくらいなら構わんと思うが、逆に禁書庫にある気はせんな……」



 合点がいかないラディウスは、それでも邪険にしなかった。

 他でもないレンが言ったのだから、可能な限りその希望に沿おうと思った。

 しかし、それにはラディウスが皇太子にならなくては。



「そう言われては、何としても皇太子になろうと思わせられる」


「まぁ、そのときにいまの言葉を覚えていてくれたらで」


「心得た。実際、貴族の古い家系図は何らかの事情で禁書庫に入ることもある。レンが見たい資料だってあるかもしれんからな」



 ラディウスが立ち上がった。



「次は共に城下町でも巡ろう。戦いのことは考えず、友としてな」


「いやいやいや、第三皇子が何を言ってるのさ」


「無茶と思うか? だが、どうにか変装すれば問題ない。それに、大時計台での戦いに比べれば些末事だろうに」


「そりゃ……まぁ」


「そのときはそうだな……レンに美味い果実水を出す店でも紹介してもらうか。レンは帝都の店に詳しいようだしな」


「果実水? 酒じゃなくて?」


「私はもう酒を飲んでも咎められることはないが、特段、興味は無い」



 ラディウスはレンに背を向け、歩きながらつづける。

 七英雄の伝説で見たラディウスと違う、彼の素の人となりとともに。



「果実水、いいじゃないか。果実水にも高級品はあるがおおよそが酒より安い。酒も適度に嗜めば身体にいいと聞くが、果実水は更にそうだ。どちらも利点があることは知っているが、私は果実水の方が好ましく思う」


「なるほどね。天才と呼ばれる第三皇子は果実水が好きなんだ」



 その背に告げれば、その足が止まった。

 ラディウスは顔だけをレンに向けて、



「――――ああ。私は甘いものが好きなのだ。民には秘密だがな」



 くしゃっと年相応の笑みを浮かべ、この店を後にした。

 周辺の席からも客が立ち上がる音が聞こえた。

 偶然居合わせたという剛剣使いたちも去るのだろう。

 レンはそれらの音に耳を傾けながら、グラスに残された果実水を飲み干したのだった。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 馬車に乗り込んだラディウスを迎えたのは、彼の側近のミレイだった。



「充実したお時間だったみたいですニャ」


「ああ。友と語らう時間があれほどいいとは思わなかった」



 車輪が石畳を進む音。外から僅かに聞こえてくる民の営みの音。

 ラディウスはそれまで窓の外に向けていた顔を馬車の中に戻して、傍に座ったミレイに声を掛ける。

 大時計台で見た、レンの振る舞いを語るために。



「レンは凄まじい男だ。あの底知れぬ強さは何が根底にあるのだろうな」



 語り聞かせる彼の顔には笑みが浮かんでいた。

 まだ、先ほどの夕食の席での余韻が残っているように見えた。



「剣王みたいな感じですかニャ?」


「いいや、彼女も凄まじいが……また違うのだ。表現するのは難しいな。……ちょうどいい喩えがあればいいのだが。レンの根底にある、得体のしれない強さについて語りたい」



 少しの間迷ったラディウスが、「そうだな」と重い口を開いた。

 


「レンの強さは、あの話に出てくる少女によく似ている」


「あの話ですニャ?」


「私に仕えるミレイも聞いたことはあるだろう。我ら皇族の子らが皇帝陛下より語られる、古い古い昔話だ」


「あ、あー! あの昔話ですニャ!」



 ラディウスが満面の笑みを浮かべて頷いた。



「――――むしばひめ。レンの強さはまるで彼女のようだ」



 思いだせたラディウスはそれを語る。

 自分自身がまだ幼かったころ、父である皇帝から語り聞かされた昔話を。

 


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