また、逢えた。

 レンが三十分と少しほど歩いたところで、道行く人々の姿に変化が見られはじめた。



 多くが制服に身を包んだ少年少女で、時折、どこかの学び舎で教鞭をとっていると思われる大人の姿もある。いまは冬休み中のはずだが、いずれかの学び舎で補習などに勤しむ者も多いのだろう。



(……)



 思いのほか動揺はない。ただ普段通り歩くだけだ。

 目的の帝国士官学院までの道のりも迷うことなく、まっすぐ向かっていく。

 すれ違う少年少女の中に、帝国士官学院の制服を着た者も混じってきた。レンはそれでも歩きつづけ、今日の夕食はなんだろう、と考える余裕すらあった。



「お待ちください」




 広大な敷地を誇りし帝国士官学院、その正面門に立つ守衛が言った。



「当学院に何か御用ですか?」



 制服を着ていない少年が一人でくれば、そのくらいの質問は当然だろう。



「入学試験を受けるために必要な書類をいただきに来ました」


「かしこまりました。何か身分を証明できるものを拝見できますか?」


「ええ。用意してます」



 用意していたものは二つ。

 一つはギルドカードだ。もう一つは出発前、レザードに一筆認めてもらった簡単な手紙である。



 それらの情報を確認した守衛はレンに「ご案内いたします」と言い、先導してどこかへ向かって歩く。



 その先は、校舎に繋がる建物の一つだった。

 上位貴族の屋敷であろうと比肩できない、見事な建物。

 帝国士官学院が誇る校舎が雪化粧された様子を眺めながら、レンは案内された建物の中に足を踏み入れた。



 ここは学院に来た保護者や商人など、主に部外者が案内される客間のような広間だ。内部は白塗りの壁が広がり、床には分厚い深紅の絨毯が敷かれている。並ぶ調度品の数々も一流の品々で揃えられている。

 シャンデリアから注がれる橙色の灯りが、暖かな空間を彩っていた。



「こちらでお待ちください」


「はい。ありがとうございます」



 レンは案内された先にあるソファに腰を下ろした。

 守衛はすぐに係りの者が来ると言い、そのまま立ち去ってしまう。



 レンが待たされたのは、ほんの数分だった。



「お待たせいたしました」



 ソファの傍に足を運んだ学院の事務員が、レンを連れて広間奥にある広いカウンターへ案内する。

 このカウンターの真横は、大きな窓ガラスが広がった解放感のある場所だ。

 おもむろにその窓の外を見たレンが、校舎の移動に使う渡り廊下を一瞥した後に、カウンター越しに待つ別の事務員から声を掛けられた。



「入試関連の書類でございましたね。一般と特待のどちらでご用意いたしましょう」


(特待だけでいいんだけど、どうしよ)



 レザードはレンの身分を保証する手紙を用意してくれたが、あれは試験のための紹介状というわけではない。当然リシアも、誰か高位貴族に紹介状を書いてもらっているわけではなかった。



 ユリシスなら頼めば手を貸してくれるだろうが、諸々を思えば悩ましいところだったのだ。

 ……それらを前提に、レンが何を気にしているのかというと、



(紹介状がないどころか、一人でやってきた平民がいきなり特待って言うのもな)



 されないと思いたいところだが、怪訝な顔をされたら面倒に思う。



「記念に両方もらってもいいですか?」


「大丈夫ですよ。同じようなことを申される方は結構いらっしゃいますから。では、早速ご用意いたします」



 少々お待ちください。

 そう言われたレンはカウンターで待った。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 帝国士官学院には立派な図書館がある。

 禁書庫を設けた帝立図書館には劣るものの、それを抜かせばレオメルで一、二を争うほどの蔵書量を誇っていた。



 いま、フィオナはその図書館を出たところだった。

 今日はここで勉強に勤しんでいた。



 特待クラスの制服を見事に着こなす彼女は歩くだけで絵になる。

 冬休み中にもかかわらず足を運んでいた者は性別問わず魅了され、思わずその姿に目を奪われていたほどである。



「……あ、雪」



 そのフィオナが呟いた。

 図書館は独立した建物で、校舎とは渡り廊下で繋がっている。彼女は渡り廊下の窓から外を見て、雪が降る様子におよそ一年前のことを思い返した。



 それは、冬になってから度々思い返していたことだった。

 バルドル山脈で過ごした日々は、辛く険しいかったことをよく覚えている。

 楽しかったことなんてまったくない。でもレンに会えたことと、帰りに彼から星瑪瑙を貰ったことは大切な思い出だ。



 フィオナの手が、胸元のネックレスに伸びた。

 ぎゅっと掴んだら、自分の胸もぎゅっと締め付けられるような想いだった。



「……レン君」



 彼に逢いたい。

 その想いは募り、高まりつづける。



 レンに迷惑をかけたことへの後ろめたさから、何度手紙を送ろうとして止めたかわからない。でも礼は言いたくて、ユリシスが手紙を送る際に自分の言葉を添えて貰っていた。当然、会いたいという言葉や、是非エウペハイムに来てください、といった言葉は紡げなかった。



 もう、心が痛いくらいだ。

 唇をきゅっと噛み締めて、冬の空を見上げてそっと目を伏せる。こうしていると、彼と過ごした冬の時間が何度も何度も瞼の裏に蘇る。



 でもずっとこうしてはいられない。

 フィオナは心を律し、女子寮へ帰るために歩き出す。

 足取りは重く、彼女の沈痛な気持ちを代弁しているかのよう。



 だが、彼女は唐突に立ち止った。

 さっきまで眺めていた窓の外に再び向いて、今度は空を見上げず同じ高さを見た。

 広い庭園を挟んだ奥にある、来客用の広間に意識が向いた。

 


 ……気のせいだと思った。

 自分が彼のことを考えていたから、縋るように見た幻覚。あるいは、彼女の心が彼女自身をあざ笑うかのように見せた幻想。

 幾分か違いはあっても、彼女は見間違いだったと落胆するはずだった。



 しかし、彼女は「……え?」と声を落とす。



「レン、君?」



 目を向けた先の、橙色の灯りの中に。

 何度瞼を擦っても消えない、レンの姿があった。



 フィオナは思わず駆け出した。

 コートを着ることなく渡り廊下を駆け抜けて、離れた広間へ向けて一心不乱に足を動かした。



 彼女はたどり着いた先で、呼吸を整えることなく扉を開ける。

 大きな音を立てぬよう開け放てたことは、自分でも褒めたいくらいだった。

 しかし、レンの姿が見えない。

 さっき彼がいたはずのカウンターを見ても、周りの席を見てもどこにもその姿が無かった。



「…………」



 フィオナは来客用の広間を歩いて回った。

 その際、呼吸を整えきれておらずどこか切羽詰まっていた彼女を見て、学院の職員がどうしたのかと尋ねてきたが、フィオナは「すみません。何でもないんです」と気丈に笑みを繕い、この広間を後にした。



 やっぱり、勘違いだったのかもしれない。

 落胆しきった様子でその場を後にしたフィオナの足は、渡り廊下に戻ることなく外へ向かって動いた。

 また、雪が降る空を見上げたくなったのだ。さっきのは心の弱さが生んだ幻覚だったんだ。そう自嘲しながらも、せめて雪を見たかった。

 少しでもバルドル山脈で過ごした時間を想起したくて、白い息を吐きながら歩いた。

 


 ――――その足は、中庭で止まった。



 ここには一つ、大きな木が植えられている。

 年を越す前になると魔道具の灯りに彩られて、校舎の窓から届く橙色の灯りと相まって目を引く光景を作り出す場所だ。



 雪を見ているうちに偶然通りかかったこの場所で、フィオナはその木を見上げた。

 周りには誰も居ない。そもそも冬休み期間で、時間も時間のため誰一人いなかった。



「……頑張らないと」



 フィオナはバルドル山脈の騒動以後、特筆すべき努力をつづけてきた。

 レンに対しても多大なる迷惑をかけたこともあり、自分の身を自分で守れるよう、何事にも懸命に取り組んできた。



 自らレンに会いに行こうとしなかったのは、そのためだ。

 以前のように迷惑を掛けたらと思うと、そんなこと考えられるはずがない。

 だから我慢し、今日までを過ごした。そこでレンの幻覚を見てしまえば、意志の強い彼女も少し……僅かに心が揺らいでしまう。



「……でもやっぱり、逢いたかった……です」



 本心が漏れ出すのも今日は仕方ない。

 そう思いながら、微かに残されていたレンがいるかも、という期待も崩れたため瞳から涙が溢れそうになった。



 けど、それも懸命に耐える。

 瞼に涙を浮かべるだけで、決壊はさせなかった。



 いつしかフィオナは、肩を震わせた。

 コートも着ないで外にいたため、寒さでくしゃみも出そうだった。

 氷の魔法を得意とする彼女は寒さに強い自信はあったけど、真冬にコートも着ないでしばらく外に居るのは身体が堪える。

 あるいは心に生じた揺らぎのせいかもしれない。



 もう、本当に帰らないと。

 無意識に肩を抱いた彼女が、目の前の木を離れようとしたところで――――

 


 不意に、温かさが彼女の肩に訪れた。

 肩を抱いていた腕ごと、自分のものではないコートが包み込む。



「え?」



 困惑したフィオナが振り向くと、彼が居た。

 幻だと思っていたはずの彼が、以前と同じ優しい笑みを浮かべた彼が立っている。



「風邪ひいちゃいますよ。フィオナ様」


「レ……レン、君……ですか……?」


「はい。お久しぶりです――――レン・アシュトンです」



 これすらも幻覚だったら、もしかしたら自分は立ち直れないかもしれない。今度こそ無理を言ってでもレンに会うため、どうにかしていたかもしれない。



 だが、まぎれもない現実だった。

 彼がかけてくれた彼のコートから伝わる暖かさも、彼の声もそう。幻でも夢でもなく、彼がすぐ傍にいた。

 フィオナの肩を抱いていた手が少し下ろされて、レンのコートの前裾を掴む。




「――――またお逢いできて、本当に本当に嬉しいです」




 レンの目の前で可憐に笑んだフィオナは、他の誰にも見せたことのない煌びやかさすらあって、息を呑む美を孕んでいる。

 また、瞼の上で決壊寸前だった涙が頬を伝う。



 無意識に赤らんだ頬と共に、多くの感情が入り混じった様子で涙を拭った。


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