吊り橋を渡る前に。

 この日の夜は、その話を聞いた受験生たちが喜んだ。

 中にはまだ下山できるか半信半疑な者も居たようで、少女の中には涙を流して喜ぶ者がいたくらいだ。



 きっと、心細かっただろう。

 才能に満ち溢れた少年少女であっても、まだ幼い彼らが親元を離れてこんな場所。

 異常な雪と寒さに襲われたことで、死が脳裏をよぎった者もいただろうし、ようやく助かると思えばしょうがないことだ。



「交代です。レン殿」


「あ、もうそんな時間ですか」



 日付が変わるその直前だった。

 砦の外に立って夜の番をしていたレンの下に、その役目を交代するための騎士が訪れて言った。



 レンは砦の中に戻る。

 武骨な内部は松明に照らされている。僅かに通り抜ける隙間風で炎が揺れるたび、壁を照らす灯りが左右に動いた。

 入ってすぐのエントランス奥に置かれた暖炉に向かい、冷たくなった手を温める。



(温かいものでも飲もうかな)



 そう決めてすぐ、砦の炊事場を目指した。

 砦に来て以来、何度か足を運んだことのある場所だ。

 僅かに残された食料の確認や、先日、魔物を狩ってからも食料の確認などで足を運んだことを思い出す。



 断熱らしい断熱がされてない寒い道を進み、向かった先に鎮座する木の扉に手を掛けた。

 鳥肌が立ちそうになる低い軋音を響かせながら、開かれたその先に足を進めた。



「……あ」


「……あ」



 レンは中にいたフィオナと顔を見合わせ、声を漏らした。

 先客のフィオナは炊事場に並ぶ流し台の前に立ち、一人で食器を洗っていた。レンは軽い会釈を彼女と交わしたのちに、水を沸かすべく銅製の片手鍋を手に取った。

 古臭い竈に近づいてみれば、既に火が焚かれていた。



「冒険者さんもお使いになりますか?」



 フィオナがレンの傍にやってきて言った。

 彼女の手には、レンと同じで片手鍋がある。



「はい。寝る前に暖かい飲み物でもと思いまして」


「あ、私もですっ! 洗い物が済んだら、お茶でも入れようと思って」


「だから火を焚いていたんですね。水、一緒に沸かしても構いませんか?」


「ええ。もちろんですよ」



 レンはフィオナの厚意に甘え、傍にある水瓶から二人分の雪解け水を汲む。

 竈の上に片手鍋を置き、薪が弾ける音に耳を傾けた。



(……気まずい)



 こうして、じっと二人で黙るのはむずむずしてくる。

 でもフィオナは、冒険者たちと交わした不干渉の約束を守り、自分からレンに話しかけようとはしなかった。



 当然、レンも気軽に話しかけたりはしない。

 そもそも、話しかけるための話題もなかった。



 だが、二人は同時に歩きはじめた。

 その瞬間は互いの顔を一瞬だけ見て様子を伺ってみたが、どうやら互いに、同じタイミングで茶葉を探しに行こうと試みたようだ。



 一言も交わさず、二人は気が付かなかったふりをして食器棚に向かう。

 小瓶に入れられた茶葉をいくつか手に取り、香りを頼りに好みの茶葉を探した。



(こんなものまで運んでるのか)



 一応、緊急時の食料その他はクラウゼル家の指示で運び入れているらしい。依頼を受けた冒険者や騎士がやってきて、今回のような事態に備える。

 おかげで茶の一杯くらい楽しめるわけだ。



(これにしよ)



 レンの手が茶葉の入った小瓶に伸び――――それに触れた瞬間。



「……すみません」


「い、いえっ! 冒険者さんだけじゃなくて、私もですから……っ!」



 偶然にも、二人の指先が小瓶の前で重なった。

 二人は予期せず熱湯に触れたときのように慌てて身体をよじって、半歩ずつ距離を取って笑みを繕う。

 互いに同じ茶葉を選んだことには驚きを隠せなかった。



「よければ、俺が淹れましょうか?」



 レンが提案した。

 このまま妙な雰囲気のままでいることに耐えられずに言えば、フィオナは遠慮がちに「いいんですか?」と言い、後を追うようにレンが「お口に合うかわかりませんが」と言った。



 すぐに、給仕に教わった所作を思い出しながら茶を淹れる。

 口が裂けても高価とは言えないカップに、明らかに保存状態が良くない茶葉から淹れた茶を注ぐ。



「……あ、美味しいです」



 するとフィオナは、唇から湯気を漏らしながら言った。

 椅子なんてものはないため、二人は立ちながら茶を楽しんでいた。



「冒険者さんは、お茶を学ばれたことがあるんですね」


「少しだけですけどね」


「そうだったんですね……私なんかより、ずっとずっとお上手でびっくりしました」


「俺なんかまだまだですよ。それにイグナート家のご令嬢となれば、あまりご自分で淹れる機会はないのではありませんか?」


「えーっと……実は私、最近まで病弱な身体だったので、話し相手になってくれた給仕から教わっていたことがあるんです。ですがその……私が不器用過ぎたと言いますか……」



 フィオナが苦笑を浮かべながら俯いて、カップの陰で照れくささを隠す。



「薬のためにもお茶が大事だったので、自分でも覚えようとしたんです。動けるときは身体を動かしたほうがよかったのもあって、頑張ってみたのですが……お世辞にも、美味くないお茶しか淹れられませんでした」


「お茶は本当に難しいですよね。――――でも、薬のためですか?」


「はい。私が飲んでた薬は水ではなく、お茶で飲み込んだ方が吸収に良いそうなんです」



 へぇ、とレンが頷いた。



魔物の素材、、、、、を使うと、薬もやっぱり違うんですね」


「そうみたいです。あはは……私のような素人には、何が何だかではありますが……」



 レンは生まれ故郷の村で、薬師のリグ婆から「薬は水で飲むもの」と教えられたことがあった。薬を飲む際に用いた飲み物の影響で、薬の効果に変化が発生することもあるから――――らしい。

 当然、すべての薬がそうというわけではないのだが、基本的には、水を用いた方が間違いないという話だ。



「でもお茶で飲めるなら、薬が苦くても誤魔化せそうですね」


「お察しの通り、そのおかげで飲みやすかったんですよ」



 歓談をする間に、二人が手にしていたカップは空になっていた。

 このことに気が付いた二人は、どちらともなく水場に向かう。



「後片付けは私に任せてください」


「い、いえいえ! さすがにご令嬢にお任せするのは――――ッ」


「冒険者さんはお茶をご馳走してくださったんですから、気にしないでください。後片付けくらい、私にさせてくださいね」



 フィオナの声は穏やかで、淑やか。レンが食い下がっても固辞するだろう芯の強さも漂わせていた。



 それから、レンが去った後で。

 


「……不思議。どうしてあんなに話しやすいんでしょう」



 何となく波長が合うのだろうかと思いながら、二人分のカップを洗う。

 洗い終えてからそれを布で拭き、元の場所に戻していると、



「――――あれ?」



 フィオナはあることに気が付き、疑問を抱いた。

 先ほど、レンと薬について話していた際、その彼が口にした言葉が何となく脳裏をよぎったことで、



「私、魔物の素材を用いた薬なんて言いましたか……?」



 水が出ていた蛇口をひねり、ついでに首もひねったのである。



 炊事場を離れて暖炉の傍に向かい、そこに置かれた粗末な木のベンチに腰を下ろすも何となくぼーっとしてしまう。

 暖炉の炎と温かさを前に、彼女にとって突拍子もない予想が脳裏をよぎる。



「おや? イグナート嬢」



 そこへ現れた騎士が、フィオナから数歩離れたところより話しかけた。



「そろそろお休みになられた方がよろしいかと。明日の出発は早いですよ」


「え、ええ……すみません……」



 騎士が言う通り。

 ここで夜更かしをしても迷惑になる、そのことを自覚したフィオナが慌ててベンチから立ち上がり、暖炉の傍を離れようとしたのだが……



「――――あのっ!」



 フィオナは騎士に向けて、どこか慌てた声を上げたのだ。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 順調だった。

 夜が明けてすぐの朝食の後、皆が砦の外で朝焼けを臨んだ。



「レン殿、ようやくですね」



 騎士がレンに話しかける。

 レンもようやくと思い、「ですね」と答える。

 冒険者たちだが、彼らの代表であるメイダスが居ないため、代わりに騎士が冒険者もまとめて指揮していたようだ。



「では、出発しましょうッ!」



 その騎士の声に応じ、レンが、冒険者が、砦に残されていた受験生たちが、一人残らず雪道に足を進める。



 受験生たちは、名門・帝国士官学院が誇る特待クラスの最終試験まで残った逸材だ。

 だが彼らは、大人と自分たちとの体力差を見せつけられた。

 騎士や冒険者たちは下山してすぐ砦に戻ったというのに、深い雪道を先導し、疲れた様子も見せないことに驚かされていた。



 彼らの様子を傍目に、レンが息を吐く。



(やっとだ)



 予期せぬ事態により、予定より長い滞在となってしまったが、肩の荷が下りる思いだ。

 受験生たちが喜ぶ声も聞こえてくる。

 彼らを下山させるまで油断できないと気を引き締めたレンだったが、



「……?」



 足を止めて頬に手を伸ばす。

 冷たいような、それでいて熱いような風が頬を撫でたような気がして、その風の名残を探そうと頬に指を滑らせた。



 気のせいだろうか? レンは首をひねった。

 まるで、雪風に火花が入り混じった風が吹いた気がしたのだが……。



「レン殿?」



 近くにフィオナがいないから、騎士が遠慮なくその名を口にした。



「すみません。少し気が抜けてたみたいです」


「ははっ、ようやくの下山ですからね。少し気が抜けて当然でしょう」



 するとレンは頬を叩き、気の抜けた自分に喝を入れた。



(油断するなよ)



 受験生を下山させるまでは絶対に。

 彼はおもむろに受験生たちが歩く後方へ目を向けた。



 ……もうすぐ帰れるんだな。

 ……くっ。相手が魔物に限ればこんな醜態は……。

 ……不合格なのかな、私たち。



 安堵、苛立ち、不安。

 人の数と同じ数の感情が吐露されていた。



(結局、試験官の姿もなかったな)



 常軌を逸した最終試験で、万が一に備えるはずの試験官。

 最終試験に要する日数は既に超過しているそうだから、それが不審でたまらない。



 いずれにせよ、一日でも早く下山した方がいい。

 生徒たちの体力もそうだし、器割れに似た症状に参っていた者たちも、それで直接命は落とさずとも、体力の消耗は無視できなかった。


 

 ――――砦を発ってからしばらく経ち、吊り橋が見えてきた。



 その吊り橋をはじめてみた受験生たちの顔に緊張が奔る。

 バルドル山脈のような高地で、更に吹雪に煽られる吊り橋は、傍から見ているだけで恐れを抱かせる。



「騎士さんたち、俺たちで受験生たちを先導しようぜ」


「承知した」



 戦闘を歩く数人の冒険者と騎士につづき、受験生たちは他の大人に手を借りる。

 冒険者に「行くぞ。手すりか俺たちのコートを掴んでおけよ」とぶっきらぼうに言われた少年の受験生が、横風おうふうにほくそ笑んだ。



「必要ない。俺たちを誰だと思っているんだ?」


「あー……そりゃ失礼した。栄えある名門が特待クラスの受験生となりゃ、こんな吊り橋なんて怖くないか」


「あ、当たり前だ! 見くびるんじゃないッ!」



 だが、冒険者が吊り橋に進んですぐだった。



 後を追って吊り橋に足を踏み入れたその少年が、不規則に揺れる足元に怯んだ。

 ギシッ、ギシッ、と軋む木床版の隙間から覗く峡谷の下は、吹雪で見通せなかった。だが、落ちればひとたまりもない高低差だ。

 生存本能に従い足を止めた少年を見かね、冒険者が仕方なそうに手を取った。



「俺は別に……ッ!」


「わかってるわかってる。ただ、落ちられたら困るってだけだ。他の受験生ともども、手が空いてるやつは先導してやってくれ」



 レンはそのやり取りを見ながら、冒険者の意外な優しさに笑う。

 まだ自分の足で歩けない冒険者も連れている影響で、騎士を含むほとんどの大人が受験生に手を貸した。



 やがて、レンもそれに倣った。

 あと、手を借りていなかった受験生はフィオナと、以前、彼女に最終試験の結果を相談していた少女だった。他の者たちにはもう相手がいる。



 レンとしてはどちらに手を貸すべきか迷ったが、フィオナの身分を思えば騎士に任せるべきだろう……と思っていたのだが、もう一人の少女が騎士に近づいて、



「お願いできますか?」



 手を伸ばし、他の受験生のように吊り橋で身体を支えてくれと願い出た。



 他の騎士や冒険者については、既に受験生や一人で歩けな冒険者を介助しているため、レンの後ろで吊り橋へ向かう準備ができている。

 そのためフィオナには、レンが手を貸すしかなかった。

 騎士に手を借りた少女はレンとすれ違いざまに、僅かに警戒した様子を見せた。



「冒険者さん、お手を借りてもよろしいですか?」



 すると、入れ替わりにフィオナがレンの傍に来た。

 レンは先ほどの少女が他の冒険者にも見せた固い態度を見て、少女が冒険者に苦手意志を持っていることを悟り、フィオナに尋ねる。



「いいんですか? イグナート嬢も騎士に手を借りたかったのでは?」


「いいえ。私は最初から、、、、、冒険者さんにお願いしようと思ってました」



 どうしてか、気持ちよく言い切られてしまった。

 彼女が言う冒険者さんはレンのことだろう。その口ぶりから察しが付く。

 手袋に包まれたフィオナは若干照れくさそうにレンが着るコートに手を伸ばす。



 遠慮がちに摘ままれたコートの裾はレンが一歩進めばぴんと伸び、彼女が後ろにいることをレンに教えた。



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