雪に舞う炎。

 レンの片足が吊り橋の木床板に乗る。

 すぐに両足が乗り、更に進めばフィオナもまた吊り橋に足を乗せた。最近まで病弱だった令嬢はこんな経験をしたことがないだろう。



(大丈夫かな)



 レンたちの後にも冒険者や騎士、それに残る受験生も足を進めた。

 前後から、少年少女たちの不安そうな声が微かに届いた。

 けれどレンのすぐ後ろ、彼のコートに手を伸ばしたフィオナからはその様子が一切伝わってこない。

 彼女が恐れていないか振り向いたレンは、自分の目を疑い掛けた。



「? どうかしましたか?」



 レンが顔を向けたことに気が付いたフィオナは、吊り橋を進む前と全く様子が変わっていなかったのだ。



「い、いえ。イグナート嬢が少しも恐れてないように見えたので」


「ええ。私なら平気です。いまは冒険者さんに守っていただいてますし、それに――――」



 フィオナが、不意に自嘲する。



「寝て起きて、その日に生きていられるかわからない生活を過ごしていたんです。あの日々と比べれば、怖いことなんてありませんから」



 吊り橋を進みながら、彼女は辛い日々の追憶にふける。

 いつしか、ぴんと張られていたはずのレンのコートは緩み、フィオナはさっきより少しだけレンの傍にいた。



 ……ギシッ、ギシッ、と吊り橋がとめどなく軋む。

 長い長い吊り橋はやがて、その中央へ。既に吊り橋を渡り終えた者たちもではじめていたところだった。



 すると、ここでレンが足を止めた。

 同じく、ここでフィオナも足を止めた。



「……なんだ、いまの」


「いまの風は……?」



 何物も凍てつかせる風と、戦火の名残りを想起させる熱を孕んだ風だった。

 二人は鏡に映った自分を見るが如く同じ仕草で頬に触れた。頬を撫でたその不可思議な風の存在を確かめようと、二人は頬を何度も擦って確かめた。



 先を進む騎士たちとの距離が離れ、レンとフィオナは吊り橋のほぼ中央で眉をひそめた。

 後ろを進んでいた者たちが、二人のすぐ後ろまで迫っていた。



 ――――最初の異変に気が付いたのは、レンだった。

 彼は峡谷の底に見えた赤光に、そっと生唾を飲み込んだ。



「……俺の手をとって」



 フィオナはその理由を尋ねず、レンの差し迫った声に応じた。遠慮なくレンの手に自分の手を重ねれば、彼も遠慮なくその手を強く握り返す。

 今回は、以前のような紫電は見受けられない。

 レンは間髪おかず走った。



「――――走ってッ! 早くッ!」



 唐突な励声を前後に発し、離れていた騎士や冒険者たちに警告した。

 振り向いた彼らはレンの鬼気迫る様子に眉をひそめたが、他でもないレンが慌てた姿を見て一斉に走り出した。



 異変は、それとほぼ同時に訪れる。



 熱波だった。

 峡谷の底から押し寄せる熱波が吹雪と交じり、吊り橋を進む一行の頬に届く。つづけて、紅光が皆を下から照らす。



「急げッ! 何かヤバいぞこりゃッ!」


「おいッ! 何が起きてるんだッ!? お前たち冒険者ならわかるだろッ!?」


「知らねえよんなことたぁッ! 危ないのがわかってんなら、気にせずさっさと走れェッ!」



 レンの前後で鬼気迫る声が響き渡った。

 熱波に負けじと、吹雪が周囲をあっという間に包み込む。吊り橋が揺れた。吹雪ではない、何らかの影響によって。



「はぁ……はぁ……っ……」



 背中に届くフィオナの呼吸が乱れていた。

 緊張による必死さも聞いてとれる。



「こ、これも最終試験の一部なのよねっ!? そうって言ってよっ! そうなんでしょっ!?」


「ッ……絶対に止まってはなりません! 絶対にですッ!」




 受験生の騎士の切羽詰まった声。

 もう、吊り橋の揺れや当たりの景色に畏怖する受験生はいない。

 頬に届く熱波と、紅光……不規則な揺れに恐れ、一刻も早くこの吊り橋を抜けることだけを考えていた。

 


 だが、思うようにいかない。



 峡谷の底から伸びた炎の渦が宙をうねり、爬行する。

 紅炎を散らしながら迫るそれは、気が付けば反対側の宙からも、辺りを見渡せば幾本もの存在を主張しながらレンとフィオナに近づいた。



「ッ――――凍てつきなさいっ!」



 フィオナが手をかざし、炎の渦に外気より冷たい冷気を放った。

 猛威を弱めた炎の渦はすぐに勢いを取り戻し、瞬く間に元の調子で二人に襲い掛かる。

 爬行する炎の渦は更に数を増し、二人を襲った。

 ……いや、二人にではない。



(なんだこの炎……まるで彼女だけを狙ってるような……)



 レンは疑問符を抱きながらも、その実、この予想が間違いないと確信していた。

 先ほどの炎の渦に加え、新たな炎の渦も、よくよく見ればその先端がレンと言うよりはフィオナに向けられている。

 だが、そんなことを気にしている場合じゃない。



「走れ走れ走れ――――もっと走れって言ってるんだッ!」



 冒険者の声が響き渡る。

 吹雪と熱波でどこか聞こえ辛い声だったけど、焦りは伝わる。

 これまで足を止めていなかったどころか、更に駆け足になっていたレンたちも吊り橋を抜けるべく息を切らせた。



 吊り橋を抜けるまで、あと少し。

 もう、前方の一団は吊り橋を抜けた者もいる。

 


 ――――しかしレンは、足を止めざるを得なくなる。



「……え?」



 力の抜けたフィオナの声。



 ふと、レンとフィオナの手を分かつ不思議な圧が空間を――――世界を揺らした。

 絶対に離すものか、と彼女の手を握る手に力を込めていたレンは、確実に油断をしていなかった。

 なのに、二人の手が分かたれる。

 吹雪が意志を持つ風の魔物と言わんばかりに、二人の間を赤色の風、、、、が抜けた。



 フィオナの身体はその風に攫われて、吊り橋の手すりを超えて宙に飛ぶ。

 ……まるで、不可視の力が無理やり奪い去ったみたいに。

 同時に、離れたところから強烈な破裂音が響き渡ったと思えば、溶岩が舞い上がった。



(な――――ッ)



 レンはそれに、何かの存在を感じた。

 イェルククゥが最後に見せた真のマナイーターより、ずっとずっと凶悪な強さが手を伸ばした、そう思わずに得られない気配が間違いなくあったのだ。



「イグナート嬢ッ!」


「っ……冒険者、さん……っ!?」



 手を伸ばす。しかし、届かない。

 宙に身体を投げ出されたフィオナとレンの指先が、僅かに掠れただけだった。

 ……レンは迷わず、自分も身体を手すりに乗り出す。



「この……何がどうなってるんだよ……ッ!」



 そして、自身も宙に身体を投げ出した。

 最初は木の魔剣による自然魔法でフィオナを助けようとしたけど、彼女の背に迫る炎の渦を見て、すぐにやめた。炎の渦はフィオナを包み込まんと上下左右から迫っていたから、自然魔法を使ったところで焼き尽くされる。



 代わりに、盾の魔剣を召喚した。

 これでなくては、もう守れないと悟って。



「勝手なことをしますが、許してください――――ッ!」



 レンはフィオナの身体を抱き寄せて、間髪おかず盾の魔剣の力を行使する。

 力を使うことに逡巡している時間はない。

 宙に生み出した魔力の盾で自分とフィオナを包み、迫りくる炎の渦から身を守った。



「お願い……凍ってっ!」



 フィオナもまた、魔法を行使した。

 先ほどと同じように冷気を放ち、魔力の盾を襲う炎を抑える。

 こうしている間にも二人は落下する。峡谷の底へ向けて、吊り橋からあっという間に離れつつあった。



「レ――――殿ッ!」


 

 騎士の声が届く。だが、彼らにもどうしようもない。

 視界の端で、吊り橋を抜けた冒険者たちが騎士に変わり、受験生たちを連れて行くのが分かった。

 


 一方、レンもレンで炎の渦の対処に必死だ。

 彼は崩壊寸前にまで追い詰められた魔力の盾を見て、息を呑む。



(鋼食いのガーゴイルの突きを、あんなに真正面から受け止められたのに)



 この炎は、それ以上。間違いなくただの炎ではないということ。

 だが、やがて炎の渦は勢いを抑え、峡谷の底から届く紅光が弱々しく変わる。

 その理由は分からないが、これなら帰れるはず。

 同時召喚していた木の魔剣の力でツタを伸ばして、吊り橋に戻る――――それでよかったのだが、



「冒険者さんっ!」


「な――――く、くそ……ッ!」



 残る炎の渦が吊り橋に直撃し、二人が宙に投げ出される前に居た場所が焼き切られた。

 炎の渦はそのまま爆ぜて、吊り橋を左右に分かつ。それは重力に従って垂れはじめ、レンたちを案じていた騎士たちが慌てて吊り橋に捕まった。



 そこに受験生はもういない。

 冒険者と騎士の活躍により吊り橋は渡り終えていたため、吊り橋に捕まったのは幾人かの騎士と冒険者に限られた。



(これじゃ、自然魔法のツタも焼き切れる……ッ!)



 前方にツタは伸ばせない。

 では、後方――――砦へ戻る方の吊り橋はどうだ。



(行ける。あっちの方が長いから地上に近づくけど、掴まれさえすれば、俺の力でどうにかできるはず――――ッ!)



 吊り橋の後方には炎の渦が迫っていない。

 これなら、ツタを届けて掴まれる。少なくとも、峡谷の底に落ちるよりずっとましだ。

 そこにも炎の渦が届いたなら、それはもうそのときに考えるしかない。



「イグナート嬢ッ!」


「っ……はい!」


「貴方のことは俺が必ず無事に送り届けますッ! だから、俺を信じてくださいッ!」



 その横顔に、フィオナは即答。



「はいっ! すべて冒険者さんに委ねま――――っ!?」



 返事をし終えるより先に、二人の前方が、左右が。峡谷の底から現れた炎の渦と、飛び散る溶岩が辺りを真っ赤に染め挙げた。

 それは、レンが自然魔法を行使するのとほぼ同時……。

 


「間に合えッ!」



 レンは吊り橋に捕まった騎士たちの無事を案じながら、自分もフィオナを守るため木の魔剣を振る。

 片腕で抱きかかえたフィオナが震えてないかと思って顔を覗きこめば、彼女はきゅっと唇を結びながらも、強くレンの腕に身体を預けていたのである。


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