豚骨フレーバー

安藤リョウヘイ

第1話

 引っ越し準備で殺風景になった部屋を眺め、僕は大きく息を吐いた。明日は卒業式。この部屋で過ごすのもあと2日だ。

 携帯で時間を確認すると、24時を回っていた。そろそろお腹も減ってくる時間だ。僕は厚着をして家を出た。


 夜露で濡れた自転車で向かうのは、大学近くにあるラーメン屋だ。バイトが終わると、決まってそのラーメン屋に向かった。大学進学のために福岡へ引っ越してきた僕の、唯一の行きつけの店だ。

 お正月に店に向かった時、店が開いてないことに落胆した1年生の冬。あの時も、今日と同じくらい寒かった。4年間、長いようで短い大学生活だったな。鼻水を啜りながら、僕は遠くを眺めた。


 店に着いたのは深夜1時。お客さんは思っていたよりも多い。


「いらっしゃいませー!」


 いつもの女性の店員さんだ。歳は30代後半くらいだろうか。いつもの席に座り、いつものラーメンを頼んでタバコに火を付けると、思い出が巡る。

 大学に入って初めて振られた5月のあの日。友人と2人でこの店に来た。華々しい大学生活を夢みていた僕は、ひどく落ち込んだ。その日のラーメンはいつもより塩辛く、身に染みた。

 大親友と好きな子が同じになるというラブコメ顔負けの展開が巻き起こった大学2年の夏。

 結果、僕が付き合うことになり、それを親友に打ち明けたのもこのラーメン屋だ。あの日のラーメンはいつもより苦く、箸が上手く進まなかった。

 思い出したらキリが無い。僕の思い出には、いつも鼻をつく豚骨ラーメンの匂いがあった。4年間を包み込む匂いが、今日も僕の前に運ばれてきた。


「お待たせしましたー。」


 いつものようにラーメンを置いた後、


「明日、卒業式ですね。」


 と店員さんが言った。驚きだ。今まで4年間、この店員さんと個人的な話をしたことは一度も無い。動揺した僕は、


「そうっすね。卒業です。」


 とだけ返し、割り箸を割った。店員さんは何も言わず、カウンターに戻って行った。

 明後日には、僕はこの街を離れる。ここに来るのも今日で最後になるかも知れない。名残惜しいが、麺が伸びてしまう前に食べよう。


 5分ほどで器は空になり、〆のタバコを吸い始める。そういえば、4月からは禁煙になるらしい。僕がいなくなった後の話だ。関係ない。

 奥の席では、大学生らしい4人組が、旅行の計画を立てている。何とも楽しそうなその声は、明日も変わらずこの場所に響くのだろうか。

 さて、帰ろう。明日は慣れないネクタイを結ぶために早く起きなければならない。僕はコートを羽織り、レジへ向かった。


 出口近くのレジには、いつもの漫画が並んでいる。4巻が抜けた本棚を眺めながら待っていると、奥からお姉さんが出てきて、急いでこちらへ走ってきた。


「お会計480円頂きます。」


 500円玉を出す。


「はい。お釣り20円ですねー。」


 いつもの流れだ。4年間、ずっと繰り返してきた。


「4年間、お店に来てくれてありがとうございました。卒業式おめでとうございます。」


 いつもと違うセリフ。そりゃ毎日のように4年間通っていれば、覚えられるか。


「ありがとうございます。ごちそう様です。」


 僕は短く言うと、一礼して店を出た。より一層冷たくなった風が、僕の体を揺すった。「お世話になりました。」僕は小さく呟いて自転車に跨った。


 帰り道、僕は遠回りで家に戻ることにした。この街で、僕は4年過ごした。

 大学裏のこの道では、飲みで潰れた日に憧れの先輩に介抱してもらった。あそこのコンビニでは、デート終わりで振られたっけ。

 あの店は……あの通りは……あのアパートは……

 

 ああ、思い出したらキリがない!最高の街だ!


 大学近くの駅では、いかにも大学生な団体が騒いでいる。彼らには、明日も明後日も、変わらぬ日常が待っているのだろう。4年なんて、あっという間に過ぎていく。今を大切にするんだぞ、後輩。


 自転車を漕ぐ僕の目には、寒さのせいか風のせいかは分からないが、涙が浮かんでいた。店を出て30分程だろうか。自宅付近にさしかかった頃、僕の心はノスタルジーで埋め尽くされていた。

 自宅前の坂。引っ越し当初は、このアパートにしたことを後悔すらした坂だが、今日はゆっくり歩いて登ろうと決意した。


 楽しかった。4年間。良い友達に囲まれ、可愛い彼女が出来て、それなりの卒業論文を提出して。悲しい思い出をかき消すほどの光だった。オシャレな男になると誓って始まった大学生活。行きつけは大学近くのラーメン屋。現実はそんなものだ。後悔はしていない。


 服に少し残った豚骨の匂いを連れてドアを開けると、冷え切った部屋が僕を迎え入れた。ただいま。長い間、お世話になりました。

 明日は卒業式だ。後輩は花束でも用意してくれているだろうか。大丈夫、泣きはしないだろう。多分。


 部屋に戻ってから1時間ほど物思いにふけっていたが、そろそろ電気を消そう。僕は最後にネクタイの結び方を携帯で確認し、眠りについた

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豚骨フレーバー 安藤リョウヘイ @ryohei_ando070

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