第19話 人の思い
「硝子の龍」の原本が、修復作業を終えた後、短期間、王立図書館の特別閲覧室で一般公開される予定となっている記事が新聞の一面を飾ったのは、それから一月後のことだった。一般公開の期間は、一ヶ月。記事には、その後、原本はしかるべき場所で保管されるという文面があったが、それがどこなのかまでは言及されていない。だが、メルは知っていた。原本は、その後、もともとあるべき場所へ帰されることを。そのあるべき場所とは、たった一つ。所有者の眠る墓地だ。
一般公開の最終日。閉館の差し迫った時刻に、閲覧室の分厚いガラスケースに入れられた大型の書物を、メルはこの目に焼き付けようとまじまじと眺めていた。もう二度とその姿を目にすることのできない書物を。
明日には、あの名もなき墓地に埋葬された王妃の棺の中へ、再葬される。
長引くかと思っていたこの本の決着は、意外とあっさりと片付いた。もともとが盗掘品であることが判明した以上、元の場所へ返すべきだと他ならぬソルヴィ氏の主張のおかげか、誰か別の者の口添えがあったのか、メルは知らない。
ただとにかく、この書物は再び、そして今度こそは決して醒めない眠りへ着くことになった。これが、揺るぎない事実だ。
この美しい本を、こうやって眺めていると、それは、あまりに惜しいことのように思えてくる。けれど、今もなお副葬書の帰還を望むシルヴィアの一族やバルブロ、死者に対する祈りや思いを無視してまで、図書館で丁重に保管することが絶対的に正しいものであるとは言い切れないだろう。
メルは思いを断ち切るようにして、ガラスケースの前から立ち去った。
惜しもうが惜しむまいが、全ては盗掘されたからこそ起こった出来事だ。死者と共に眠りにつくはずの書物が、強引に永劫の眠りから目を覚まされて見た、白昼夢のような出来事。白昼夢は過ぎ去り、書物は再び眠りにつく。もう、起こされることもない。
そう思いながら、開け放たれた閲覧室の扉を出ようとしたその時、誰かの話し声を聞いた気がして、メルは立ち止まり、振り返った。その、ほんの刹那の時間。メルの瞳は、十代の半ばに届くか届かないかの年頃の、少女の姿を映していた。御伽噺に出てきそうなお姫様のような姿の。それは本当に一瞬のことで、閲覧室には当然のことながら誰もいなかった。ガラスケースの中の仕掛け絵本も、変わらずそこにある。少女の姿は見えていたかどうかすら怪しく、メルは、自分の頭が空想したものを、あたかも見えたように錯覚していただけだろうかと思った。
メルは、わずかな間、仕掛け絵本をじっと眺めていたが、やがてくるりと背を向け、扉を閉めて、閲覧室を後にした。
そして誰もいなくなった部屋の中で、閉じられた仕掛け絵本は少女の姿を借りて、親しき友の名を呼んだ。
「アーリューシャン、私、いよいよ帰る時が来たのね」と。
そしてそれは、白昼夢のようにすぐに幻となって消え去り、帰還を待つ仕掛け絵本だけが、そこに残った。
*
「お別れの挨拶は済んだ?」
帰り支度を済ませて図書館から出てきたメルを出迎えたのは、黒猫姿のヴェスターだった。
「ええ、この目に焼き付けてきたわ」
いよいよ本格的な冬を迎えた王都。メルは北風に身をすくませながら答える。ヴェスターは相変わらずだが、寒くないのだろうか。と思っていると、メ
ルへ飛びつく姿勢を見せたので腕を広げると、そこへ飛び込んできた。
「う〜寒い、寒い」
やはり寒いらしい。
「冬の寒さってのは、本で読んで知ってたけど、実際に感じるのとではまるで違うな」
「ここなんて、まだ温かい方よ。何せ大陸最南端なんだから。きっと北国の人た
ちからしたら、この程度、鼻で笑われちゃうわね」
「僕、絶対北には住まない」
「はいはい」
ヴェスターを抱えているとこちらも温かいので、メルはそのまま家路へ着くことにした。
「とにかく、本は元の場所へ戻されることになって、バルブロさんもきっと一安
心ね」
「うん、そうだね。彼からすれば、それが一番良いことだもん」
「今頃も、墓守の仕事、してるのかな」
仕事の手を止めて、空を見上げるバルブロとモリーの情景が頭に浮かぶ。彼は今も、帰巣本能に苦しんでいるのだろうか。あの夜、メルに見せた彼の剥き出しの感情が、今でも痛みと共に胸に刻まれている。最後に会った時は、そんな様子はなく、むしろ穏やかな表情で、「ここはいい場所だな」と、言ってくれたが。
「きっと大丈夫だよ」
メルの腕の中で、ヴェスターが目を閉じたまま小さな声で言った。
「彼を作ったのが人の思いなら、彼を変えるのまた、人の思いだからね」
「人の思い?」
メルの腕へ、ヴェスターは小さな額を愛しげに擦り付ける。
「僕も変われた。シルヴィアの願いによって生まれた僕は、彼女が死んで、図書
館として生まれた本能ばかりが大きくなっておかしくなっちゃった。でもね、メルに会えたんだよ。そして君が僕へ抱いた思いが、僕を変えたんだ。僕にとってのメルを、バルブロもきっと見つけるよ。ううん、きっともう、見つけてる。だから、大丈夫。大丈夫だよ」
優しいヴェスターの声が、いつの間にか穏やかな寝息に変わっていた。
メルはしばらく声を失っていたが、「そうね、きっと、そうね」と祈るように呟いて、すっかり体重をメルに預けているヴェスターを落とさないようぎゅっと抱きしめる。
その黒い被毛の上に白い結晶が舞い降りてきたのを見て、メルは空を見上げた。そこには、粉雪が舞い始めていた。例年、年が明けてからでないと、なかなかお目にかかれない雪だ。
今年の冬は冷え込みそうだ。
暖炉の暖かさと、祖母の作る温かな食事がますます恋しくなったメルは、家路を辿る足を速めたのだった。
【完】
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