第16話 一夜の夢
竜になったヴェスターは、身をかがめてメルとアーサーが背中に乗りやすい体勢になった。メルは、先にトランクをヴェスターの背中に乗せてから、自分も上へ登る。そうして下を見ると、アーサーが「本当に、竜の背中に乗って帰るのか」と驚いた表情をしてこちらを見上げていた。
「アーサーは初めてだものね。ヴェスターの背中に乗るのは」
「ほら、アーサー、早く乗って」
ヴェスターに急かされたアーサーは、ずっと持っていたフクロウの入った鳥かごをシルヴィアへ返して、自身の体をヴェスターの背中の上へ持ち上げる。
ヴェスターの背中には、馬の鞍のようなものが取り付けられていた。ヴェスターが気を利かせて、竜の体の一部を鞍へ変化させているのだ。メルは少し感心した。鞍にはちゃんと手綱もついていて、これに掴まって鞍の上でちゃんと体を安定させていれば、落ちる心配はない。それに乗り心地も段違いだ。
メル、そしてその後ろにアーサーが座ったのを確認してから、ヴェスターは翼を広げた。
「気をつけて帰りなさいよ」
大きな竜の背の上にいるメルたちに聞こえるように、シルヴィアが声を張りあげた。
「ええ、さようなら、シルヴィアさん」
メルも大きな声で別れを告げる。
次の瞬間には、ヴェスターが翼を羽ばたかせて地面から飛び立っていた。
高度が上がり、墓地は見る間に遠ざかっていく。寒風が体に吹き付けてきて、その寒さにメルとアーサーは身を寄せ合って耐えた。やがて、高度が安定してきて、風も少し和らぐ。ヴェスターは速度を落として、ゆっくりと山脈に向かって飛んだ。空には変わらず満天の星空が広がっている。メルはかじかんだ手で手綱を握りしめたまま、夜空を見上げた。メルの腰に手を回して掴まっているアーサーも空を見上げているのか、感心したような吐息をこぼすのをメルの耳は聞いた。
「とっても寒いけれど、綺麗ね」
「ああ、綺麗だ。すごく」
言ってから、アーサーが不意に短く笑った。
「それにしても、今日はすごい冒険だったな。じいちゃんに良い土産話しができるよ」
「アーサーのおじいさまも、ヴェスターの背中に乗って空を飛んだこと、あるのかしら」
メルが気になって誰ともなしに言うと、ヴェスターが「あるとも」と答えた。
「最初はすごく怖がってたけどね」
「じいちゃんは案外ビビリなところがあるからなあ」
アーサーが困ったように言うと、「それはアーサーもでしょ」とヴェスターが呆れる。
「血は争えないのね」とメルが肩をすくめると、「そんな、メルまで!」とアーサーが傷ついた様子で大きな声を上げた。その時、落ちないように手綱を持つ腕と鞍の間に挟んでおいたトランクが、カタカタ揺れていることにメルは気付いた。
「どうしたのかしら」
前方が見えないアーサーが、後ろから「何かあったのか?」と尋ねてくるが、メルは揺れるトランクを抑えるのに必死だった。
「わからない、でも、トランクがすごく揺れてる。まるで」
中に入っている本が外に出してと、暴れているかのように。
「メル!出してあげて!」
前方で、ヴェスターが叫んだ。
「でも、もし本が落ちたら」
「僕がそんなことにはさせないよ」
そうしている間にも、トランクの揺れはいよいよ激しさを増す。中で本が傷つくことを恐れたメルは、思い切って留め具を外した。すると、蓋が内から勝手に開けられ、仕掛け絵本が飛び出してきた。メルは悲鳴をあげてのけ反った。身を反らしていなかったら、仕掛け絵本に頭をぶつけていただろう。
宙へ一人でに飛び出した仕掛け絵本は、そのまま後方へ置き去りにされて地上へ落下することはなかった。アーサーがとっさに片手を伸ばして、本を捕まえたからだ。
「一体なんだってんだ!?」
アーサーはまるで本に向かって話しかけるように声を荒げた。まるでそれが合図だったかのように、いつの間にか夜は明け、空は青々としていて白い雲が浮かんでいた。冬の空ではない。明るく陽気な春の空だ。眼下には山脈ではなく、青い平原が広がっている。乗っている竜の背に鞍はなく、鱗も黒ではない。森の奥でコンコンと湧き続ける、泉のような色をした鱗。いつものヴェスターの竜の姿ではない。体躯も小柄だ。それに、と、メルは自分の体を見下ろした。図書館司書の制服ではなく、上等な仕立てのドレスを着ている。胸元にかかる長い髪は、シャーロットのようなブロンド。
「これは」
そう、メルが思わず声を上げた時には、昼は夜に、春は冬に、泉色の鱗は黒に、ドレスは図書館司書の制服に、金の髪は銀の髪へ戻っていた。まるで魔法が解けたように。
自分はうたた寝でもしていて、短い夢を見たのだろうか。いつの間にか胸の中で抱きしめていた古びた仕掛け絵本を、メルはまだ夢の中にいるかのようにぼんやりと眺めた。その後ろで、興奮した様子のアーサーの声がメルの意識を現実へと引き戻す。
「メル!今の見たか?」
「今のって」
「今のは今のだ!青い空の下、自分じゃない自分になって、ヴェスターじゃない竜に乗っていた!」
メルが見た夢と、全く同じ内容をアーサーは言い表した。メルは戸惑いながらも「ええ、見たわ」と頷いていた。
「あれはなんだったの」
「なんだろうな。二人一緒に眠って、同じ夢でも見たのかな。なあ、ヴェスター
も見たか?」
アーサーに尋ねられたヴェスターは、ゆっくりと尾根の上を飛びながら答える。
「うん、見たよ。でも、あれは夢じゃない」
「夢じゃないって、じゃあ俺たちは何を見たんだ。幻覚か?」
「まあ、そう言えるのかもしれないね。でも、魔法とも呼べる。きっと、その本が見せたんだよ。僕らに、その物語の一場面を」
メルは、まじまじと仕掛け絵本の表紙を眺めた。本は勝手に動く様子はなく、ごく当たり前のように静かにメルの腕の中で抱かれている。
「魔力の塊である僕が近くにいること、そして、御伽噺の中にも出てくる、竜の背に乗って空を飛ぶという行為。その書物に込められた、何らかの強い思い。ここまで条件が揃っているんだ。何か不思議なことが起こったとしても、おかしくはないよ」
ヴェスターの言葉に、メルは息を飲んで仕掛け絵本の表紙を見つめた。
この絵本に綴られているのは、数百年も前にこの世を去った王妃の、おそらく幼少期の頃のお話。その物語は現代においても忘れ去られることはなく、幾世代の読み手により、何度も、何度も、お姫様と竜は出会い、友達になり、空を飛び、そして別れを繰り返してきたのだろう。それは文字どおり、レシーニス地方にて浸透していた信仰における、死者への祈り。それが今晩、一時の夢のように、奇跡のように、魔法へと転じたのだろうか。そしてバルブロも、そんな風にして自我と肉体を得たのだろうか。彼もヴェスターもそれを呪いと言ったけれど、魔法と呪いの境界は、一体どこにあるのだろう。
メルは目を閉じて、先ほど一瞬だけ見た光景を思い浮かべる。何も見えなかったけれど、御伽噺の主人公が、また竜に乗れたとことを喜んでいるような、そんな光景が、メルの想像の中だけに、立ち現れた気がした。
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