第15話 優しい子

「棺へ、還すべきなのだ」


 バルブロの祈るような、唸るような、悲しむような、切望するような、慈しむような、その低い声が耳朶を震わせる。


 メルは、胸元の本をぎゅっと掻き抱いた。


「それでも、それでも私は、この本を今ここで葬るわけにはいきません。あなたがとても辛い思いをしていること、この本には、自分のような目にあって欲しくないこと、その気持ちは、痛いほどあなたから感じます。理解できるなんてそんなおこがましいことは言いません。でも、感じ取ることはできます。でも、私は、王立図書館の司書として、本を無事に王都の図書館へ届けなければならないんです。一個人としてではなく、一介の図書館司書として、そうしなければならないんです。この、図書館司書の制服を着ている限り」


 そう、自分は今、王立図書館の司書としてここにいるのだと、メルは自分で自分に言い聞かせる。そうすると、自分が取るべき行為を容易に想像できた。


「この本は、当初の予定どおり王立図書館へ届けます。その後、ここで知った事情を全て、館長へお伝えしましょう。マクレガン館長は、公明正大な、懐の深い方です。図書迷宮であるヴェスターが、今こうして自由に外を出歩いているのも、館長の働きかけあってのこと。だからきっと、この問題の終着点を定めてくださるはずです。今はただ」


 メルは、シルヴィアとバルブロを見つめる。


「私を信じて、この本を預けてくださいませんか」


 返答はすぐにない。


 随分と、背伸びした言葉を使ったかもしれないと、メルは今更になって尻込む。「私を信じて」なんて。今日初めて出会ったのに。けれど、その気持ちを吹き飛ばすように、シルヴィアがしばし間をおいてから、「良いわよ」と軽い調子で答えた。


「あんたのこと信じる」


「シルヴィア!」


 詰問するバルブロを手で制し、シルヴィアは続けた。


「私、二代目の図書迷宮の管理人襲名のことを聞いてから、この子のこと色々調べてたの。当時の魔法使いも手に負えなかった暴走状態の図書迷宮をどうやって手懐けたのか、あのコルキアをどうやって退けたのか、気になるってもんでしょ?さぞかし名のある魔法使いを輩出してきた家柄の子かと思えば、全然。ただの語り部の孫。その語り部は魔力猫との接点もあるようだったけれど、血筋的には何もない、ごく普通の家の子だわ」


 シルヴィアは腕を組み、またあの挑発的な表情を月明かりの下で晒した。


「だったら、この子個人に突出した何かがあるのかもしれないと、私は考えた。ものすごいカリスマ性があるとか、素晴らしい魔法の才能があるとか、ね。で、機会に恵まれて実際に会ってみたら」


 つかつかとシルヴィアが歩み寄ってきたので、メルは思わず身を引いた。さっきから値踏みされているようでどうにも居心地が悪い。シルヴィアは立ち止まると、胸をそらして腰に手を当て、メルの身長より少し高い位置からメルを見下ろした。


「驚くほど普通の子だった。素直で真面目で地味な女の子。敷いていえば、銀髪ってのが珍しいけど、それだけ。その辺にいる普通の子。でもね、なんとなくわかったことがあるの」


 シルヴィアは、ふうと、息を溢す。それから、子犬や子猫、宝石など、可愛いもの、美しいものを愛でいるような表情をした。


「優しいのよ。とても誠実で、優しい子。私みたいなのにも、バルブロみたいなのにも、誠意を持って接してくれる。あなた、誰に対してもそうなんでしょう?暴走してる図書迷宮にも、あのおっかないコルキアにも、そういう風に接してきたんでしょう?誠意を持って人と接する。人として当たり前のことだけど、当たり前にできる人って少ないものよ。特に、私らみたいな、普通じゃない連中に対してはね」


 シルヴィアは小さく笑むと、顔だけバルブロの方へ向けた。


「ね、この子は大丈夫。信じましょうよ。私たちの思いを、あんたの思いを、ちゃんとお偉い様方に届けてくれるさ」


「それでそのお偉い様方が、結局本を返してくれなかったらどうするつもりだ」


「そん時はそん時よ」


 バルブロの深刻そうな声に反して、シルヴィアはあっけらかんとして言った。


「今のところ、あんたみたいになってる本って、あんただけだし。もし万が一、この本があんたみたいになった時に、帰れる場所があるように、ちゃんとここを、この場所を、守ってあげるのが、あんたの仕事じゃないの?そう思ったから、ここにずっといるんじゃないの?」


 その声に、バルブロは「知っていたのか」と、小さく、ほとんど独り言のような調子で言葉をこぼした。シルヴィアはその小さなぼやきをちゃんと掬い取って、それに答える。


「ええ、知ってる。あんたは、墓守の仕事を与えられたんじゃない。自分の帰る場所がないと知った時、だったらせめて、他の本の帰る場所を守りたいと、自ら墓守になることを願ったのでしょう。でも、周囲の人たちから、可哀想、悲しい、って散々憐れまれて、それが今の、暗くてじめじめしたあなたを作った」


「俺は元から根暗だ」


 ぶっきらぼうに言い放ったバルブロをシルヴィアはケラケラと笑い飛ばした。


「あらそう?ごめんなさいね。でも、あなたの物語、私知ってるけど、主人公のバルブロって、そうね、どうだったかしら、そんなに暗い性格じゃなかった気がするんだけど」


 墓地に似合わぬ声でひとしきり笑った後、シルヴィアは改めてメルへ向き直る。


「まあ、そんなわけだから、その本を持って、王都へ帰りなさい」


「本当に、いいんですか。私を、信じるのですか」


 おどおどと言うメルに、シルヴィアは「あなたが言ったのよ?信じろって」と呆れたように眉尻を下げる。


「ほら、私の気が変わらないうちに」


 急かすように、シルヴィアはメルの腕にトランクを押し付ける。


「ちょ、ちょっと待ってください」


 メルはトランクを一度地面へ置いてから、本をその中へ丁重に収める。その間に、「あ、でも、もう汽車ないか」とシルヴィアが、はたと気づいたように言う声が聞こえた。


「大丈夫だよ。僕が二人を乗せてコレス・ヴェルトまで飛んでいくよ」


「飛んでいくって」


 シルヴィアは目を丸くして、芝生の上のヴェスターを見つめている。



「もしかして、ここで龍に化けるつもり?」


「お墓を踏んづけたりしないってば」


 本を収め、しっかりと留め具をかけたトランクを持ち直したメルは、ヴェスターとシルヴィアのやり取りを聞いて、「あの」とシルヴィアへ声をかける。それに気づいたシルヴィアが、罰の悪そうな表情をこちらへ向けた。


「帰れって言ったけど、今が深夜なの忘れてたわ。良かったらバルブロのうちに泊まっていかない?」


 その提案に、バルブロが顰め面をして「なぜ俺の家なんだ」とぼやく。一方メルは、彼女の申し出を丁重に断ることにした。


「有難いですが、コレス・ヴェルトには上司を残してきています。きっと、本と私の事を心配しているはず。もともと、本を取り戻したらすぐ帰るつもりだったんです。ヴェスターもこう言ってくれてますし、今、帰ることにします。それに」


 と、メルはここにきてやっと微笑んだ。


「あなたの気が変わらないうちに、帰ったほうがいいでしょう」


 シルヴィアも、「そうね」と口の端に笑みを浮かべる。


 それから、メルがそっとシルヴィアの背後にいるバルブロへ目を向けると、彼は「俺は、もう何も言わん」と肩をすくめた。納得してくれているのかはわからないが、その顔には「シルヴィアは言い出したら聞かないから」といった諦めの表情が見える。


「それじゃあ、帰ろうか」


 月明かりに照らされていたヴェスターの影が、その言葉とともにグンと伸びた。伸びた影からは、蝙蝠に似た翼がバサリと生える。メルが頭上を見上げれば、そこには夜の闇の色をした竜がいた。


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