第14話 悲しい存在

 十三歳になったシルヴィアは、これまで学んだことを復習していた。もう直ぐ、本を探す旅へ初めて出るからだった。それは、長い歴史の果てに生まれた、一族のもう一つの仕事だった。


 シルヴィアの属するヴィブリフェクス家は、本来、数百年続く製本職人の家系だ。現在も全盛期より縮小したものの、工房をいくつも持ち、血縁ではない弟子も多く抱えている。


 先祖たちが、数百年前にこのレシーニスの地に根付いたのは、ひとえにその腕を買われたからだという。死者と共に書物を埋葬する風習のあったラゴモンス国の王家に、その技術を見初められた先祖たちは、王家に仕え、ここを永住の地に定めた。


 ヴィブリフェクス家は、普通の本の製本も手掛けたが、最も力を入れたのが副葬書の製本だった。


 ラゴモンス国及びその近隣地では、人が死ぬと本を作る。それも、その故人の人生の一遍を掬い上げた出来事を記した、物語調の書物を。書物は、故人へ贈る最後の贈り物。


「書は肉体であり、物語は魂である」


 全ては、この意識のためである。教祖や経典があるわけではない。人々の営みの中で、自然と生まれた土着の民間信仰のようなものだ。


 人が死ねば、その亡骸は特別な棺に納められて、香木が群勢する小屋の中で安置する。そこで白骨化を待つ間に本を作る。遺族が揃って故人の思い出を語り合いながら、一つ、物語を作っていく。それが何よりの供養であり、遺族にとっては別れの準備でもあった。作られた物語は書物として形に残され、祈りを捧げられる。その書物を故人の肉体とみなして、遺族が別れを告げた後、改めて死者の肉体と共に埋葬される。これによって、葬儀は完了となる。そしてその際作られた物語は、口伝により後世へ語り継がれ、その行為そのものが、故人の供養とみなされる。


 そしてそれは、シルヴィアの生きる時代にも細々と続いている。しかし、その風習は一度断絶された。約百年前に起こった戦争。その際の侵略と敗北、敵軍の略奪行為が直接的な原因だ。


 ラゴモンスの製本技術は他の追随を許さぬものであり、特に王家の副葬書ともなれば凄まじい大金をつぎ込んだ宝石のような書物であることは広く知られていた。だから墓所は荒らされ、多くの副葬書が国外へ流出した。それはラゴモンスの人々にとっては、冒涜行為以外の何物でもなかった。


「書は肉体であり、物語は魂である」


 副葬書を奪われるということは、死者の亡骸を奪われるも道義。


 それは、すっかりラゴモンスの人間になっていたヴィヴリフェスク家も同様であった。さらには、その奪われた書物は自分たちの先祖たちが作ったものだ。以後、ヴィヴリフェスク家は大陸中に散らばった書物を全て取り戻し、再び棺に納めることを悲願とした。それから百年経ってもその悲観が成就していない。だからシルヴィアの代になっても、本を探し、取り戻すという重要な仕事が課せられている。ヴィヴリフェスク家の子供の将来は、製本職人になるか、本を探すか、その二択だった。


 それに疑問を抱くことはなかった。それが当たり前なのだから。


 旅に出る日の朝、シルヴィアはバルブロへ会いに墓所へ訪れた。彼とは、あの日、「怪物だ」と告げられてから、まともな会話をしていなかった。いや、その前からも、会話らしい会話なんてなかったが。


 あの幼かった頃のシルヴィアは何も知らなかったが、十三歳のシルヴィアは知っている。バルブロとモリーが、なぜ「悲しい」と言われているのか。


「おはよう。バルブロ、モリー」


 シルヴィアが声をかけても、バルブロは返事一つせずに墓所の掃除をしていた。シルヴィアは全く気にせずに言葉を続けた。


「私、今日旅に出るの。本を探しにね。あなたの仲間を探しに行くのよ」


 バルブロは俯いたまま、草むしりを始める。


 シルヴィアは、相変わらず陰気な男だと思った。ずっとそうだ。いつからそうなのかと考えたが、多分生まれてからずっとそうなのだろうと結論づける。


 彼は、悲しいけれど特別な存在でもある。


「書は肉体であり、物語は魂である」


 大地に満ちていた魔力が枯渇し、魔法の廃れつつある時代にもかかわらず、その力強い民間信仰が産んだ奇跡。その奇跡によってこの世に産み落とされたそれは、あまりに悲しい。


 バルブロとモリーは、シルヴィアたちが探す、大陸中に散った副葬書の一つだ。


 その持ち主は、彼の遺言通りに、同じ日に死んだ愛犬と共に葬られた。だから、一冊の書物には、二つの魂、二つの祈り、そして、一人と一匹が織りなす一つの物語が宿っている。


 たまたま魔力の濃い土地に流れ着いたのか、その二つの祈りを込められた副葬書は、書物を肉体に、物語を魂に変えた。信仰通りに。そのままに。そして、自ら戻ってきた。信仰と魔力が組み合わさって生まれた彼らには、強烈な帰巣本能があった。すなわち、本体である死者の元へ戻ること。その帰巣本能だけが、彼らを突き動かしたのだ。けれど、彼らの墓はもうなかった。略奪行為の最中、火事が起こり、一部の墓地は焼失している。おそらくそこに、彼らの帰る場所があったのだろう。


 バルブロとモリーが現れたのは、シルヴィアの生まれる二十年ほど前だったらしい。帰る場所のないバルブロに与えられたのは、墓守の仕事だった。


 彼らには、信仰によって生まれたがための強烈な帰巣本能があるのに、その欲求を満たすことは永久にできない。だから、悲しい、と人々は言うのだ。バルブロもそうだと言わんばかりに、陰気さと悲壮感を常に連れ添わせている。もちろん、今もだ。


 陰気さ満点以外の表情も、彼はするのだろうか。シルヴィアは、試してみたくなった。草むしりをするバルブロへ接近して、その隣にしゃがみ込む。そして、雑草を掴んだ彼の手をいきなり掴んだ。


「何をする」


 バルブロの低い声がすぐ近くで聞こえた。


 シルヴィアは「別に」とクスクス笑った。


 彼の声を久しぶりに聞けたのが、嬉しかったのだ。


「あなたって話しかけても話しかけてもガン無視だから、どうすれば無視しないのかやってみただけ」


 パッとバルブロの手を離す。手にはまだバルブロの手の感触が残っている。意外と人間のそれのように温かった。幽鬼のような顔をしているから、てっきり冷たいと思っていたのに。


「あまりからかわない方がいい」


 再び草むしりを開始したバルブロが、シルヴィアの顔を全く見もせずに言った。シルヴィアはフンと小生意気に鼻を鳴らす。


「怪物だから?」


 彼の草をいじる手は止まらない。


「私はあなたのこと、別に怪物だって思わない」


 反応はない。


「悲しいとも、思わない」


 ピタリと、手が止まる。それからやっと、シルヴィアの方を向いた。


「あ、こっち見た。やっと」


 シルヴィアは、生意気そうで、でも見てて心地よくなるような無邪気な笑みを浮かべた。それなのに、バルブロはたちまち眉間に皺を寄せる。背中を丸めてこちら睨みつけてくる姿はなんだか熊みたいだ。それでも構わずに喋り続けた。


「あなた、悲しいねって言葉以外、人からかけられたことないんじゃないの?だって、父さんも母さんも姉さんも兄さんも、村の人たちもみんなあなたのことを悲しい存在だって口を揃えて言うもの。私なら、周りからそんな風に思われたり、言われたりしたら、悲しくなくても悲しくなっちゃうわ」


 バルブロの大地に刻まれた谷のような眉間の皺がふっと消えた。代わりに、困惑したような、驚くような、どこか間の抜けた表情が顕れる。


 シルヴィアはその顔をよく見返してから、立ち上がった。


「うん、とりあえず言いたいことは言ったから、私、もう行くわね」


 そう言って、墓地を出た。あれから、自分は随分変わったと、すっかり大人になった今のシルヴィアは思う。


 外の世界を知り、同時に自分の育った環境が特殊だと知った。


 外の世界は文明が発達して、便利な道具が次々生まれているのに、地元は百年以上も昔のままの生活。職業だって、その気になれば王様以外なんだって選べるのに、シルヴィアは選べない。民間信仰や宗教の存在も、忘れられてこそいないものの、シルヴィアの地元ほど重要視されてないし、ほぼ形骸化している。


 いつまでも古臭いものに囚われている自分と実家に、若い娘であるシルヴィアが反抗心を抱くのもそう時間はかからなかった。


 それなのに未だに律儀に本を探しているのは、そんな生き方しかできない自分以上に、ひょっとするとバルブロの存在があったからなのかもしれない。彼と同じ存在を生まないためにも。


 けれど、同時に疑念が頭をよぎるのだ。信仰などなくなれば、一族のこの行いがなくなれば、バルブロは自由になれるのではないのかと。


 「書は肉体であり、物語は魂である」


 「奪われた副葬書は、全て取り戻す」


 この二つの、祈りのような言葉が、思いこそが、彼を呪いのように陰気な牢に繋いでいる真の要因なのではないのかと。


 だから、この一族の魂とも呼べるこの思いを、いつか自分が捨て去ることができたのならば、何かが、彼の中の何かが、変わるのではないのかと。

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