第12話 呪い
メルは、自分の心臓が止まったかと思った。それほどまでに驚いたのだ。ランプの明かりに慣れていた目は、とっさの暗闇に対応できない。何も見えない状態のメルの耳に、ガタガタと音が聞こえた。これは、トランクを開けている音だ。ついで、犬の遠吠えがすぐそばで聞こえる。モリーが鳴いているのだ。
「あの、シルヴィアさん」
さすがに状況を知りたくなって、メルが声を上げる。するとすぐにシルヴィアの快活な声が返ってきた。
「ランプの明かりは私が消したのよ。眠っている女性の姿を勝手に見るなんて失礼だもの」
では寝室に入るのは良いのかとメルは思ったが、それは言わないでおいた。ついでメルはアーサーへ大丈夫かと声をかける。卒倒しているのではないかとメルは思ったが、意外にもアーサーの返答はあった。
「ああ、なんとか、大丈夫だよ」
しかし、そう言う彼の声はかつてなく震えている。
「アーサーってば、すっごい腰が引けてるよ」
夜目が利くのか、ヴェスターがメルへアーサーの様子を教えてくれた。
「なっ、言うなよ」
アーサーは文句を言ったが、その声はやはり震えている。そこへ、「ねえ」とシルヴィアが声をかけてきた。
「図書迷宮のお嬢ちゃん」
そう呼ばれるのは、自分しかいないと、メルは「なんですか」とシルヴィアがいるはずの闇へ問い返す。
すると、シルヴィアがメルの手を掴み、そこへずっしりとした物を押し付けてきた。メルは驚いて手を引っ込めかけたが、すぐにこれがあの仕掛け絵本だと気付いておとなしく受け取った。
「本を、返してくれるのですか」
半信半疑で尋ねると、闇の奥からシルヴィアの笑う声が聞こえた。少しずつ目が闇に慣れてきて、彼女の輪郭がぼんやりと暗闇の中に浮かび上がってくる。
「いいえ、違うわ。あなたが葬るのよ。その棺の中へ」
「私がですか」
「ええ、そうよ」
メルは口をつぐんだ。シルヴィアの意図は全く読めないが。これは本を取り戻す絶好の機会だ。何せ、本は今、メルの手中にある。このままこの場からアーサーの手を掴んで逃げ去り、龍に変身したヴェスターの背に乗れば絶対に追いつかれる心配はない。やろうと思えば、できる。
「シルヴィア。何を考えている。本を葬るのはお前の一族の役目だろう。その子は、お前の一族ではないはずだ」
バルブロが厳しい口調でシルヴィアへ言った。すぐそばで、鬼灯色の明かりを灯した目を持つモリーが不安そうにクンクンと鼻を鳴らしている。
「ちょっとした出来心よ」
「答えになっていない。お前は」
昔からそうだ、とバルブロが吐き捨てた。
メルは二人の会話を聞きながら、なおも動けずにいる。本を取り戻して図書館へ無事に運び届けることも、この宝物を永劫に土中へ封じ込めることも、どちらもメルの手に委ねられた。すぐに前者の行動を取るべきなのに、なぜか迷いが生じている。
自分は一体、この本をどうしたいのだろう。いや、自分の気持ちなんて関係ない。そもそも、メル一個人が判断して良いことではない。盗掘された書をあるべき場所へ、過去の人々が望んだ場所へ戻すべきなのか、宝物として図書館の所蔵品に加え、未来に向けて保存していくべきのか。それを判断するのは自分ではない。だから少なくとも、今この場で棺へ本を葬ることはするべきではない。本の先行きは保留にして、問うべきだ。ソルヴィ氏と王立図書館の館長へ。どうするべきなのかと。
「シルヴィアさん、私は、この本を今ここで葬ることはできません」
顔を上げて、メルはきっぱりと言った。シルヴィアが小首を傾げて、「あら、理由は?」と尋ねてくる。
「私は、王立図書館の司書としてここ立っています。この本を図書館へ持ち帰る事が、今の私に課せられた仕事。それが理由です。それに、この本は、すでに死者のためだけにある本ではない。死者と共に眠りにつかせるには、多くの人の思いが詰まりすぎている」
大陸に広く流布している、「玻璃の龍」という題名のつけられた御伽噺。今日においても、この御伽噺を原作とする絵本が出版され、街の本屋や図書館の児童書コーナーに並べられている。子供から大人まで、皆が知っている非常にポピュラーな御伽噺と言っていいだろう。そして、そのオリジナルが今、ここにある。シルヴィアの話した事が事実というならば、まさに、正真正銘のオリジナル。価値は計り知れない。
「盗掘と言う行為は褒められたものではありませんし、ソルヴィ氏のお爺様がどういう経由で手に入れたのかは分かりません。けれど、少なくとも現在の所有者であるソルヴィ氏は、この本が、国の宝として後世まで残っていくことを望んでいます。コレス・ヴェルトの図書館長も、王立図書館のマクレガン館長も、ヘインズさんも、私も、おそらくそれ以外の多くの人も、それを望んでいます。私とあなたの個人的なやり取りで、どうこうしていい本ではないのです」
メルが意見を述べると、シルヴィアはなぜか微笑んだように見えた。帰ってきたのは肯定の言葉だった。
「そうね、その本はもう、ただの副葬書じゃない」
闇に慣れた視界。月明かりに照らされたシルヴィアの横顔が見えた。
「土に戻すには、あまりにも有名になりすぎた。私だって、あなたとはおおむね同意見なのよ、お嬢ちゃん」
「ではなぜ、計画的にこの本を狙い、こうしてこの場にいるのですか」
シルヴィアは自嘲気味に笑った。
「こういう生き方しか知らないもの。言ったでしょう?一族の悲願だって。盗掘された全ての副葬書を取り戻し、本当の所有者の元へ返すことが。その悲願を成就するために私は育てられた。なんの利益も生まない、ただ信仰心と先祖への敬いによってのみ続くとても尊く高潔な行為。それが当たり前だと、育てられた。だから、本を取り戻し続ける生き方しか知らないし、それを否定するのは、一族や信仰を否定すること、そして、死者を冒涜するのと同義だわ。そんなことはしたくない。だから私は、ここにいるの。でも、あなたを連れてきた。あなたにそれを、託してみた。私の生きてきた世界とは違う世界を生きてきたあなたに」
シルヴィアの瞳が、メルを捉えた。
「お前は、その娘を通じて、全てを否定するつもりか」
メルとシルヴィアの間に、なじるようなバルブロの声が響く。
「死者と書物は一心同体。書物は肉体であり、物語は魂。肉体が葬られるのならば、書物も葬られるべきなのだ。そういうものなのだ。そうでなければ、」
「まあ、あなた、そんなに長いこと喋れたのね」
シルヴィアが、先ほどとは打って変わっておどけた調子で言うと、バルブロはムッとしたのか、口をつぐんでしまった。
「そうでなければ、なんです」
バルブロが言いかけたことが気になり、思わず、メルは続きを促した。
「そうでなければ」
バルブロの言葉を、シルヴィアが引き継いだ。
「俺みたいなのが出来上がる。そうでしょ」
シルヴィアの珍妙な言い回しに、一同の視線が一気にバルブロへ集まる。バルブロは、そんな視線に答える気はないようで、腰を屈め、重いものを持つ動きをした。ついで、何かの蓋を閉める音。棺に蓋をしたのだ。バルブロの足元で、モリーが批難するように小さな鳴き声をあげる。
「そこの娘よ。お前の意見は尊重するが、書物は帰還を望んでいる」
一瞬間をおき、メルはこの普段は寡黙らしい男が、自分に話しかけているのに気づく。
「書物が、ですか。シルヴィアの一族ではなく?」
「そうだ。書物が、そう望んでいる」
噛んで言い含めるように、男は言う。
メルは思わず、腕に抱いていた仕掛け絵本を見下ろした。月光にぼんやりと移ろう夜の世界に慣れた視界に、仕掛け絵本がうっすらと浮かび上がる。冷えた指先で絵本に触れたが、既に錠がかけられており、本を開くことはできない。
メルは白い息をこぼして、再度問う。
「どうしてあなたは、書物が帰りたいと望んでいると、断言できるのですか」
しばしの沈黙があった。やがて、バルブロが低音を震わせながら答えた。その口から出ているはずの息は、白くない。
「俺も、そう望んだからだ」
バルブロのすぐそばで、鬼灯色の目をしたモリーも哀愁を誘うようなか細い声で鳴く。
「いや、俺たちが、か」
言い直したバルブロは、不意に、空を見上げたようだった。澄み渡った冬の空に浮かぶ、白い月。そこに、過去の幻影でも見出したかのように。
「だが、そう望んでも、俺たちに帰る場所はない。帰るはずの墓所は暴かれ、俺たちは死者から引き離され、法外な金額で売られ、数々の人の手を渡った。ヴィブリフェクスの者の迎えはなかった。やがて、自らの意思でここへ戻った。そこにはもう、帰る場所はなかった。墓も、骸も、永久に失われた」
「あなたは」
「そうだ」
バルブロの声が一段と大きく震える。
「俺たちも、かつては物言わぬ、考えぬ、書物だった。今、お前が手にしている書物と全く同じ。だが、ラゴモンスの民の信仰心が、俺たちのような怪物を生み出したのだ」
「怪……物?」
メルはバルブロを見つめる。彼は、苦悩しているようだった。膝を地面に着き、まるで懺悔でもするかのように頭を垂れる。
「書物がその物語の主人公の姿形を得て、独り歩きを始めるなど、怪異か、怪物か?そうでなければ何と呼ぶ。俺たちは、副葬品として造られた、ただの本だ。ずっとそうだった。盗掘され、副葬品としての役目を果たせなくなってからも。だが、書物は死者の分身であり、肉体であり、共に棺に葬るもの、だが魂は自由だ。物語も。それがラゴモンスの死生観だ。その思想が、信仰心が、理を捻じ曲げ、ただの本を帰巣本能に飢える怪物に変えたのだ」
バルブロの告白に、頭が追いつかない。
メルは腕に抱いた仕掛け絵本とバルブロを、交互に見た。彼は言った。かつて本だったと。でも今は、ああして人の姿で、メルたちと会話をしている。
傍らのヴェスターを見る。ヴェスターは魔法が自我を持った存在だ。つまり彼は、ヴェスターのようなものだと思えば良いのだろうか。
そして、そのヴェスターが、バルブロを前にして口を開いた。
「君たちがそうなったのは、呪いだ。でも、それは結果的に呪いになったものであって、悪意のあるものではない。尊い、信仰心から生じた、自然発生的な呪いだ。」
その言葉を是と返し、バルブロは切なげな声を漏らした。
「そしてこの呪いは、元いた場所へ、棺の中へ戻らなければ解けない。その本が、俺たちのようになる前に、棺へ、還すべきなのだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます