第10話 モリーとバルブロ
深夜。
山岳鉄道の旅は終わる。メルは駅でヘインズと宿泊していたホテルへ、事の次第を電報にして送った。
犯人を追いかけた挙句国境まで越えてしまったなんて、勝手なことをしているのは承知しているが、こうするより他に仕方がなかった。シルヴィアを逃すわけにはいかなかったのだから。
しかし、シルヴィアを捕まえたかというとそういうわけでもない。今の所メルたちは、シルヴィアから本を取り返すどころか、完全に彼女に丸め込まれている。
彼女の語ったことが本当なら、その本を正当な所有者に返すべきだが、その所有者は死者なのだ。どうすれば良いのか、メルには判断がつかない。かといって、強引な手段で本を手に入れたシルヴィアが正しいとは思わない。本当に返して欲しいなら、法にのっとった正当な手段で返してもらうべきなのに、彼女のやり方ときたらもはや犯罪である。そうと分かっていても、シルヴィアへ強気で出ることはできなかった。彼女がやすやすとアーサーをいなしたこと。その力に対する警戒。彼女の語ったこと。その事柄についての好奇心。その二つの感情が、そうさせているのかもしれなかった。
リヴレとシュフルヴは、人や物資の自由な移動を定めたミュール協定に共に加入しているため、入国審査は必要ない。そのため、メルたちは国内の駅を利用する時と全く同様に改札口を通り抜けた。
駅ではメルたちの他に下りた者はいなかった。列車はこのまま走り続け、レシーニス地方の中心地へ向かう。メルたちが下りたのは、ただ山岳鉄道の中継地点であるというだけの、田舎の無名の街だった。
シルヴィアは、本の入ったトランクは自分で持ち、フクロウの入った鳥かごはアーサーに持たせていた。フクロウは大きな目を見開いて、自分のすぐ下を歩いているヴェスターをしげしげと眺めている。そうしていたかと思いきや、体をゆさゆさと揺らして、翼を扇のように広げる。どうも威嚇しているらしい。ヴェスターはチラとその様子を見るや、べーっと舌を出してそれに応えてやった。
シルヴィアは、まるで一行のリーダーのようにメルとアーサー、ヴェスターを引き連れて駅の外へ足を踏み出した。夜の街はシンと静まりかえり、街灯の明かりが寒々しく揺れているのみ。雪こそ降っていなかったが、気温はかなり低く、メルとアーサーは揃って身を震わせた。だがシルヴィアは、「行くわよ」と告げて、そのまま迷いなく歩き出す。
「どこへ行くんですか」
メルが尋ねると、「決まってるじゃない」とシルヴィアが呆れたように言った。肩越しに振り返り、当然のように告げる。
「墓場よ」
「今から!?」
メルのすぐ後ろを歩いていたアーサーが素っ頓狂な声をあげた。シルヴィアは
「何、怖いの?坊や」とクスクス笑う。
「いや、そういうわけじゃないけど、今何時だと思ってるんだよ」
「そうね、午前零時を回ったところ?」
「幾ら何でも遅すぎるだろ。明日の朝でいいよ。な、メル」
アーサーがすがるような目でメルを見つめてきたが、この場の主導権は完全にシルヴィアのものだったので、メルは何も言ってやることはできなかった。
「いやよ。いくら坊やが弱いと言ったって、寝ている間に本を奪われたら最悪だわ。私の一族の故郷には、善は急げという諺があるのよ。文句があるなら、駅で待ってたら?一人っきりで」
うっとアーサーが言葉に詰まる。その腕の中で、フクロウがホーホーと目を細めて鳴いた。
墓場までの道中。空を見上げれば、そこには宝石のように煌めく星空が広がっている。
闇に沈み、石畳を寒々と照らす街灯しかない暗い地上と比べると、空の方がずっとずっと明るく思う。吐く息は白く、指先は冷えてきたが、メルはしばらく立ち止まってこの満天の星空を眺めていたいと思った。けれど、シルヴィアの足取りは時間が惜しいとでも言うように、早い。先ほどまでしていた会話は途絶え、ただ彼女とそれに続く足音のみが聞こえる。
やがて彼女は、高い塀に囲まれた一角にメルたちを連れてきた。もうこの辺りには街灯がなかった。頼るものといえば月の明かりしかない。シルヴィアは手探りで何かを探り当てると、ギイと軋んだ音を立ててその何かを開いた。何かとは、塀の中へ通じる扉だったのだ。
「着いたのか?」
アーサーの不安げな声が暗闇の中から聞こえて来る。それにシルヴィアが答えた。
「ええ、そうよ。ここが墓場。というか、その入り口」
シルヴィアは、皆が中へ入ったことを確認してから扉を閉めた。そして突然大声を出して、何者かを呼んだ。
「バルブロ!私よ」
塀の中は森のような景色が広がっており、人がいるようには見えなかった。しかし、人にしては異質な息づかいと足音が暗闇の中から聞こえてきた。
「な、なんなんだよ、もう……」
今にも消え入りそうな声でアーサーが言うのも無理はない。この荒々しい息遣いは人にしては異質どころではなく、まさに人のものとは思えなかった。人ではなく、獣だ。
メルも身をこわばらせて、シルヴィアの背後からその正体を見極めようとしていた。すると、肩へヴェスターが飛び乗ってくる。
「ヴェスターも、怖いの?」
「いや、そうじゃないよ。ただこの場所は、他と違うと思って、それをメルに伝えようと思っただけだよ」
その時、木々に囲まれた暗がりから、これまた真っ黒な何かが姿を現した。人ではない。そのシルエットは四足歩行の獣。頭部と思わしき場所には、鬼灯のような目が爛々と輝いている。その獣はシルヴィアを見るや、「ワンッ」と鳴いて尾を千切れんばかりに振りながら、彼女の足元へじゃれついた。そこまで見ればもうわかる。獣の正体は、黒い犬だった。
「こいつが、バルブロ?」
地面にしゃがみ込み、よしよしと犬の鼻面を撫でて可愛がっているシルヴィアへアーサーが拍子抜けしたように問いかけると、彼女は笑いながら首を横に振った。
「違うわ。この子はモリー。バルブロはモリーの飼い主。ほら、あれが」
モリーを撫でるのをやめて、シルヴィアは向こうを見ろとでも言いたげに、自分の顎をクイッと前へ動かした。
「バルブロよ」
メルたちが視線を向けると、手に明るいランプを掲げた黒ずくめの男が、モリーが現れたのと同じ場所から姿を現していた。モリーがこれまた嬉しそうに尾を振りながら、彼の足もとへ駆け寄り、足の周囲を二周ほど回る。
立ち上がったシルヴィアは、そのまま言葉を続けた。
「この墓地の墓守にして、沈黙と孤独を好む変人よ」
「おい、なんだ。その紹介の仕方は」
彼の掲げたランプの明かりで、バルブロの顔が顕になる。不機嫌そうに歪んだ年齢不詳の顔には無精髭がまばらに生え、深い眼窩からこちらを覗く眼光は鋭い。犬のモリーと違い、この男からはシルヴィアを歓迎している気配は感じ取れなかった。
「あら、そのままでしょ。そしてこちらは、今宵のお客様」
そう言って、シルヴィアはメルとアーサーに前へ出るよう促した。バルブロはただ「ふん」と鼻を鳴らして、二人をジロジロと眺めるだけで、向こうからの挨拶はなかった。
「早速だけど、王妃の墓まで案内してちょうだい」
シルヴィアがそう言うと、バルブロは目を見開いた。
「取り戻したのか?王妃の副葬書を」
やはりそうだったのかと、メルはシルヴィアが持つ本の入ったトランクを見つめた。この仕掛け絵本の物語の主人公は、お姫様だ。つまり、かつてこの地に栄えたという、ラゴモンス王家の血筋の。
「ええ。そうよ。もう少しで、王立図書館の所蔵品になるところだったわ」
バルブロはシルヴィアが話をしている途中で背をむけると、ランプを前に掲げて森の中へ歩き出した。そのあとを、モリーが尾を振って進む。
「相変わらず愛想のない男よね。さ、行きましょ」
シルヴィアに声をかけられたメルは、ヴェスターを肩に乗せたまま、アーサーと一緒に墓守の後へ続いた。
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