第7話 アナスタジア・パルマ?

 馬車の辿る駅までの道は、ぐるりと弧を描きながら続いている。アーサーはその道筋を無視して、迷路のような路地裏へ入り込み、その中から駅までの最短距離の道筋を選び取りながらメルを案内してくれた。その途中で、すっかり犯人を見失ってしまい右往左往していたヴェスターとの合流も果たし、二人と一匹は無事に駅までたどり着いた。


 その頃にはもうほとんど日が落ちていた。空は濃い紫に染まり、寒気が駅を行き交う人々の肩をすくませる。


 メルは、辻馬車が乗り付ける駅の正面入り口付近へ注意深く視線を走らせた。しかし、全く同じデザインの馬車が入れ替わり立ち替わり発着を繰り返すので、トランクを持った女性を見つけ出すのは至難の技だった。それでも辛抱して観察していると、たった今停車した馬車から目をつけていた女性が降りてきた。人ごみに紛れる前に取り押さえようと、メルはアーサーとヴェスターを連れて前へ飛び出した。ところが、いきなり頭上から黒い影が差した。


 あのフクロウだ。


 フクロウは音もなくメルたちの目の前へ急降下し、威嚇するように翼を大きく広げ、獲物を捕らえるための鍵爪が付いた足をこちらへ突き出してきた。突然のフクロウの出現に悲鳴をあげる人々の声を聞きながら、メルは両腕を上げて顔を防御する。


「なんだこいつ」


 アーサーがメルの前に立ちふさがると、腰に下げていた鞄を振り回してフクロウを追い払う。フクロウはさっとそれを避けると、驚く人々の頭上すれすれを飛行して、駅の中へ吸い込まれるように飛んで行った。その頃にはすでにあの女性の姿はなかった。


 だが、先ほどからメルの周囲をウロウロしていたあのクロブチフクロウは、おそらく泥棒の相棒にちがいない。そのあとを追えばきっと主人である泥棒のところまでたどり着けるはずだ。


 しかし、後を追って駅の構内へ飛び込んでしまうと、フクロウの姿は消え失せていた。


「どの汽車に乗ったのかしら」


 メルは立ち止まり、駅に停車している汽車の入り口へ視線を彷徨わせる。このままでは見失ってしまう。そしたらもう手がかりがなくなってしまう。焦りが不安を呼び、メルの息遣いが荒くなる。


「いたぞ!」


 不意にアーサーが叫んだ。走り出した彼の背中をほとんど反射的に追いかけた。その背中越しに、駅員から切符を買い求めているトランクを持った女性の姿が見えた。女性は切符を手に入れると、すぐメルたちへ背中を向けてどこかへ行ってしまう。


「あの!」


 アーサーが、先ほど女性に切符を売った駅員へ掴み掛かるようにして声をかける。


「さっきの女性が買ったのと同じ切符を3枚!」


「3枚?」


 駅員が怪訝そうに顔をしかめた。アーサーを見て、それからその後ろのメルと、メルに抱きかかえられたヴェスターを見やる。


「2名様分ですね?猫はちゃんと、持ち運び用のゲージに入れてもらわないと」


「この猫は檻に入れると凶暴化するんだ。檻から出してもしばらく落ち着かないし、ひどく引っ掻かれる!ほら見て、この肘の傷!さっきも檻に入れようとしたらこのざまだ!彼女が抱っこしてる分には大人しくしてるからさ」


 腕まくりをして駅員に見せつける彼の肘には浅い擦り傷があり、若干腫れている。どう見てもさっきメルを受け止めて転んだ時にできた傷だと思うが、駅員は渋々納得してくれたらしい。2枚分の切符を寄越してくれた。


「えっと、レシーニス行き?」


 代金を支払い、切符に刻印された文字を読んだアーサーは目を丸くした。


「レシーニスって、シュフルヴ国か。リヴレとの国境沿いの?」


「山脈の向こうね」


 アーサーから切符を受け取ったメルは脳内で地図を広げる。シュフルヴ国はリヴレ王国の北部に位置する国だ。ちょうどコレス・ヴェルトから見えるシルム山脈を境として、国境が接している。


「どうしてわざわざ隣国へ行くのかしら?」


 その時、汽車の発車する合図が長々と構内に響き渡った。びくりと顔を上げると、メルの肩へ登っていたヴェスターが声を上げる。


「メル!レシーニス行きの汽車はあそこだ。もう出発しちゃうよ!」


 ヴェスターが前足で指した汽車は、向かい側の線路に停まっている。そこへ行くには線路の上を通る階段を通らなければならない。メルとアーサーは大慌てで階段まで走り込んだ。そして、肩で息を切らしながらギリギリ汽車の中へ駆け込むことに成功した。


 発車して徐々に速度を上げていく汽車の中で、メルとアーサーは床に座り込んだ。汽車まで全力疾走だったので、息は上がり、頬は火照り、足は震えている。


「もう無理だ。もう俺動けない」


「私も……」


 へたり込む二人を、唯一元気なヴェスターが心配そうに見上げた。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないよ。普段こんなに走ることなんかないし。ああ」


 深く息を吐きながら、アーサーがフラフラと立ち上がった。メルも少し息が整ってきたので、彼に続いて立ち上がる。


 汽車の中は、振動音がする以外は静まりかえっている。客は皆、それぞれコンパートメント席に入り、おとなしくしているのだろう。廊下にずらっと並ぶコンパートメント席の扉を眺めて、メルは小さく吐息をつく。これから一つ一つの部屋をノックして犯人を捜すことを考えただけで、気が遠くなってくる。ところが、すぐにそれをやる必要がないことがわかった。当の本人が、自らメルたちの前へ現れたからだ。


 女性は、メルたちの乗る車両とその隣の車両の連結部の扉を開けて、こちらへ入ってきた。手には、あのトランクが握られている。偶然通り掛かった風情ではなく、彼女はメルたちのことを正面から見据えて、前で立ち止まった。


 メルはその女性の顔をようやくまともに見て、確信した。そして、彼女の名を呼んだ。


「アナスタジア・パルマさん」


 もっとも、彼女はアナスタジア・パルマの名を騙っていた偽物ではあったが。


「あら、覚えてくれていたの」


 偽物のパルマは、にこりと微笑む。 


 彼女は、深い紺のロングスカートに男物のトレンチコートとブーツを組み合わせた格好をしていた。どことなく無骨な印象を与える服装ではあったが、三日月のように美しい弧を描いた赤い唇だけが、荊の中で咲く薔薇のように燃え上がっている。図書館司書として接した時の彼女とは、まるで別人のような雰囲気だ。


「あなたですね。私から、本の入ったトランクを奪った犯人は」


 偽物のパルマは、固い口調で問いかけてくるメルに対し、全く悪びれる様子もなく「そうよ」と肯定した。


「あなたは一体誰で、なぜトランクを奪い、わざわざ山脈を越えて隣国へ向かう汽車へ乗ったのです」


 すでに、街のひったくり犯が観光客の鞄を奪ったのだろうという考えはメルの中にはなかった。彼女は明らかに、それもある程度計画性を持って本を奪った。それは間違いない。


「まあまあお嬢さん。そんなに矢継ぎ早に質問をしないでちょうだい」


 片手をひらひらと振ると、偽者のパルマは何がおかしいのか、クスリと笑う。


「もうこの汽車は発車したわ。もう、目的地に着くまで止まらない。当然、私もその間はあなたたちからは逃げられない。到着予定時刻まで、有り余るほど時間があるのだから、私の席で、さっきの質問にゆっくりと答えてあげましょう」


「そうすれば、その本を返していただけますか?」


 メルの問いに、偽物のパルマは「いいえ」と答えた。


「返さないわ」


 偽物のパルマの登場以来、ずっと黙っていたアーサーが鼻息を荒くするのをメルはそばで聞いた。力づくででも返してもらおうという腹積もりなのだろう。偽物のパルマもそれに気づいたのか、アーサーを見て宥めるような声を出した。


「まあ、坊や。やめたほうがいいわよ。私のほうが、きっとあなたよりもずっと強いもの」


「どうしてそんなことが言える」


そう言うや否や、アーサーはパルマの持つトランクめがけて飛びかかった。それをパルマは優雅に交わしてみせた。ついでにアーサーの腕を片手で捻りあげる。そして何をどうやったのか、メルが瞬きをする間に、アーサーの体を床へ転がしていた。


 呆然とした顔で仰向けに転がるアーサーのそばへ、偽物のパルマはちょこんとしゃがみ込むと、不敵な笑みを浮かべて囁いた。


「あらあら、可愛い顔して怖いことをするのね。私はただ、話し合いで解決できないかと考えているだけよ」


 メルとヴェスターがアーサーを助け起こしにかかると、パルマは立ち上がってさらに続けた。


「あなたたちが、私から本を取り戻すのを諦めてくれる、平和的な解決を私は望んでいるの」


 アーサーは少し肩を痛めただけのようだった。どこも怪我をしていないことに安堵しつつ、メルは偽物のパルマへ抗議の意思を込めた目で睨みつけた。


「逆ではないですか?」


「逆じゃないわ」


 メルの声にかぶせるようにして、偽物は言った。口元は美しい弧を描いているが、目は笑っていない。


「だって、この本は盗品だもの。奪われたものを奪い返して何が悪いのかしら。ねえ?図書迷宮の管理人さん」

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