第6話 追走劇

 少女を背に乗せ、狭い路地を駆けていく黒馬を目にした人々が、踏まれないよう泡を食って道を譲る。ひったくり犯はしばらく猛スピードで街の麓へ続く下り坂を走り続けていたが、馬の出現に気付いたか、道なりに走ることをやめて、左に伸びていた階段の手すりに足をかけ、トランクを階段に接している家の屋根の上へ放り投げた。自身もそれに続く。


「あの人、屋根を伝って逃げるつもりだわ!」


 焦ったメルが叫ぶと、ヴェスターもヴェスターで気が動転しているのか、


「ここで馬の姿になったのまずかったかな」


と頓珍漢な答えを返してくる。


「龍よりマシよ!」


 一体いつのまに、龍、猫に続いて馬に変身できるようになっていたのやら。


 けれど、今となっては、そんなことは瑣末事である。


 ひったくり犯は、屋根に登るとすぐにトランクを手に取り、身軽な動きで屋根伝いに逃走を始めている。


 ヴェスターは後ろ足を踏ん張り、ひったくり犯が経路に使った階段の前で止まる。


 メルは危なげな動作で鞍も置いていない馬の姿のヴェスターの背の上に立つと、ひったくり犯が登った屋根の軒先へ腕を伸ばし、なんとか屋根の上へよじ登った。しかし、もうその頃にはひったくり犯の姿は見えなくなっていた。おそらく、どこかの屋根から路地へ降りたのだろう。


「嘘でしょ」


 黒猫の姿へ戻ったヴェスターも、屋根の上に登ってきた。


 メルは息を弾ませ、憔悴した表情をヴェスターへ向ける。


「どうしよう、ヴェスター。姿を見失ったわ」


 しかし、ヴェスターは落ち着いた様子でメルより前へ出ると、足の先である箇所を指し示した。


「まだ諦めちゃダメだよ。ほら、見てごらん」


 ヴェスターに示された場所を見てみると、屋根に使われているオレンジ色の瓦が割れていた。さらにその先の瓦も、何枚かは割れている。犯人に踏まれて体重がかかり、破損したのだろう。


「これを追えば、犯人がどこで地面に降りたかわかるはずだ」


「そうね」


 メルは頷き、ヴェスターと一緒に割れている瓦を辿り始めた。屋根の上を歩くのは初めてだったため、傾斜した屋根から足を滑らせないよう注意を払いながら進む。気持ちは焦っているのに、なかなか前へ進めないのがもどかしい。メルは、自分よりも屋根を歩くのに適しているはずのヴェスターに先へ行くよう促した。


「私は後から行くから、ヴェスターは犯人を追いかけて。何が何でもあのトラン

クを返してもらわなくちゃ」


「わかった!メル、気をつけて来るんだよ」


 ヴェスターは返事をすると、割れた瓦を辿りあっという間に遠ざかって行ってしまった。メルは息を吐いて、未だ動転している心を落ち着かせながら屋根の上を慎重に歩いた。


 先ほどのひったくり犯は、重いトランクを持っているとは思えない動きで走り、挙句屋根の上に登ってそこから走って逃げた。一般人ができる動きではない。相当腕を上げたひったくりの常習犯なのかもしれない。


 観光地で、観光客を狙ったスリやひったくりが起こるのは決して珍しいことではない。明らかにこの土地の者ではなさそうなメルとヘインズを観光客と思い、金目のものが入っていそうなトランクを狙ったのだろう。だが、あのトランクには例の仕掛け絵本しか入っていない。金銭に換えられないほど値打ちのある品ではあるが、ひったくり犯からすればただの古い本だ。中身を見たら、当てが外れたと思い、その辺に置いて行ってくれやしないだろうか。


 そんな淡い期待を抱きながら、やはりメルは焦っていた。早く、もっと早くという思いが歩みにも現れる。慎重な足運びが乱れ、やがて重心を崩したメルは屋根の上から足を滑らせた。わっと声を上げた時には足はもう屋根から離れている。


 瞬時に固い地面へ落ちる衝撃を予想して身をすくめたその時、路地裏へ激突する寸前で誰かに強く体を抱きとめられた。だが、抱きとめた本人もあまりに咄嗟の動きだったのか、メルを抱きとめたそのままの流れで前へ盛大にすっ転んだ。それでもメルから手を離さなかったのはあっぱれと言えよう。


 少々重めの尻もちで済んだメルは、自分のスカートに腕ごと顔を埋めて突っ伏している人物を一目見て危うく悲鳴を上げかけた。慌てて跳びのき、「ごめんなさいすみません」と恥ずかしさと申し訳なさで顔を真っ赤にして平謝りする。


「いや、良いよ、別に、ちょっと痛かったけど……」


 そう言って身を起こしたその人物の顔を見て、メルは二度目の悲鳴をぐっと飲み込み、代わりに「アーサー!?」と叫んでいた。


「ああ、そうだよ。アーサーだ」


 腰を手でさすりながら、目の前の人物--かつて王都で出会った図書迷宮を探す赤毛の少年は、ニッとメルに笑いかけてくる。その笑顔は依然とちっとも変わらない。


「奇遇だな、メル。こんなところで会うなんて」


 奇遇にもほどがあるとメルは思ったが、約半年と少し前、王都を去るアーサーが乗り込んでいた汽車の終着点の名前が、ここ、コレス・ヴェルトであったことを思い出した。


「アーサーの故郷だったの。あれ、でも、農村生まれだって」


 アーサーの手を引っ張って地面から起こす手伝いをしながら、メルは尋ねた。立ち上がったアーサーは手で服についた土ボコリを叩き落としながら「ああ」と答える。


「俺の故郷はシャイベンタンの農村さ。でも、今は冬で農閑期だから、母ちゃんの親戚が店を開いてるコレス・ヴェルトに出稼ぎに来てるんだ」


「そうなの」


「メルは?」


 矢継ぎ早に聞かれ、メルは少々言い淀む。


「仕事で来たの。本を受け取りに、本は……盗まれちゃったけど」


「盗まれた?」


 目を大きく開いたアーサーは、メルとメルが降ってきた屋根を交互に見た。


「もしかして、その泥棒を追いかけて屋根の上なんて歩いていたのか?」


「ええ、泥棒は屋根伝いに逃げたから。ヴェスターが今も追いかけてくれてると思う。私は、完全に見失った」


「ヴェスターも来てるのか。てことは、やっぱりさっき見かけた黒い馬はヴェスターなんだな」


 合点が言ったと、アーサーは腕を組んだ。


「暴れ馬だ!逃げろ!って騒々しい声がしたもんだから見に行ったら、びっくりしたよ。黒い馬がすごい速度で目の前を走って行って、危うく踏み潰されるところだった。その時、チラッと、銀髪が目に入って、まさかと思って、追いかけてきたんだ。正真正銘、メルが屋根の上を歩いてるの見た時は肝が冷えたよ。足を滑らせた時なんて死ぬかと思った」


「そうよね。我ながら危ないことしてたわ。その、ありがとうね。助けてくれて」 


 メルがやっとお礼を述べると、アーサーは「いや、結局メルを抱えたまま転んじゃったし」と少々バツの悪い顔を浮かべた。


「それで、泥棒はどんな奴だったんだ?わざわざ本を盗むなんて」


「本だとわかって盗んだ訳じゃないわ。本の入ったトランクごとひったくって行ったのよ。顔はよく分からない。性別も。フードつきの黒いマントを羽織ってたから」


「それでそいつは、屋根の上を使って逃げたのか」


「ええ、それも走って。トランクの重さもあるのに」


 二人は揃って民家の屋根を見上げる。


「ひったくり犯が踏み割った瓦は、まだ向こうへ続いていたわ。今更手遅れかもしれないけど、私、追いかけてみる」


「じゃあ、俺も手伝うよ」


「仕事は大丈夫なの?怪我はしてない?」


 メルが尋ねると、アーサーは空を指差した。


「もう日暮れだ。仕事から上がったばっかりだよ。だから問題ない。怪我は、まあ、擦り傷程度だ。怪我のうちにも入らん。」


 メルが擦り傷を心配し始めるのを遮るようにして、アーサーはそばに置いてあった木箱に足を乗せて両腕をめいっぱい伸ばし、屋根の軒先を掴んで顔だけを上へ出した。メルが落ちた道は坂道になっていて、その坂より下の地面に建てられた家屋の屋根は、木箱に乗ったアーサーが両腕を伸ばせば十分届く高さにあったのだ。


「うん、犯人はとにかく街の麓へ向かっているみたいだな」


 そう言って、うんしょと、アーサーは軒先から手を離して、木箱から足を地面に下ろした。


「麓の方へ行けば、ヴェスターと合流できるかもしれない。急ごう」


 そう言って、アーサーはごくごく自然に手を差しのばしてきた。メルはその手を取ろうとしたが、なんとなく恥ずかしい気持ちに駆られて、その差し出された手をまじまじと見つめ返してしまった。


 以前にもアーサーに手を差し伸ばされたことはあった。図書迷宮へ迷い込んだときのことだ。あの時は迷いもなく、気恥ずかしさに駆られることもなく、その手を掴めたはずだが、なぜか今はできなかった。


 アーサーもメルの反応を見て、焦ったように「あ、ごめん」と差し出していた手を引っ込めた。急に行き場を失ったその手を持て余しながら、ぎこちない動作でメルへ背を向ける。それからどことなくかすれた声で、「とりあえず、行こうか」とだけ背中越しに告げる。メルも、「はい」とだけ頷き、アーサーの後ろへ続いた。


 別にアーサーが謝る必要はなかったのに。自分が、あの時のように素直に手をとっていれば何の問題もなかったのに。そうモヤモヤした気持ちを抱えなながら、割れた瓦を追って坂道を下り続けたメルとアーサーだったが、犯人は途中で屋根から下りたのだろう。手がかりもなくなり、ヴェスターとの合流も果たせず、二人は暮れ行く街の通りで途方に暮れた。


「でも、ヴェスターも泥棒も見つからんということは、うまいことヴェスターが後をつけてくれているのかもしれないぜ」


 アーサーが励ますようにメルへ話しかけた。もう先ほどのような気まずい空気は流れていない。それに安堵して、メルも普通に答えた。


「確かにそう考えられるわね。ヴェスターはすごい子だもの。絶対に諦めたりなんかしない」


 ふと、すぐそばにある小さな店の陳列窓が目に入る。メルは言葉を切り、並べられたブロンズ製の置物たちを眺めた。馬や犬、貴婦人や紳士の姿を模した置物を眺める自分の顔が、陳列窓のガラスに反射して映っている。アーサーの姿も映っていた。その時、ガラスの中を見覚えのある人物が右から左へと横切った。ガラスに映ったということは、メルの背後を通って行ったということだ。


 パッと振り返ってみると、緩やかな坂道を下っていく女性の後ろ姿が見えた。


 その手には大きなトランクがぶら下がっている。盗まれたあのトランクとよく似たデザインのそれが。


 その女性は、ちょうどそばを通りかかった辻馬車を引き止めると、「駅まで」と馭者に告げ、中へ乗り込だ。馬車の扉が閉められ、御者は馬に鞭を当てて駅までのくだり道を進み始める。


「アーサー、駅よ」


「え?」


 遠ざかっていく辻馬車を見つめながら、メルは繰り返す。


「駅へ向かいましょう」


「なんでまた急に?」


「さっき馬車へ乗った女の人が、本の入ったトランクを持ってた。彼女は駅へ行くよう馭者に頼んでたわ。どうにかして先回りをしないと」


「先回り、ね」 


 アーサーは得意げに口元を緩めた。


「それなら任せておけ。近道を知ってる」

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