第5話 フクロウ

「この大陸出身なら知らぬ者はいないおとぎ話『硝子の龍』。その原本を祖父が所有していて、遺産相続により私が所有者となりましたが、これは到底一個人が所有して良い代物ではないでしょう。素人目から見てもわかります。この本には、おとぎ話の原本としての価値だけではない。史上最高レベルの製本技術の結晶です」


 興奮に目を大きくさせながら、トーマスは両腕を開いた。


「私は、この本は永久的に後生へ残されるべき遺産として、しかるべき場所に保管されることが、最善であると考えています。コレス・ヴェルト博物館では設備が整わないとのことで、この度、モンティース館長の紹介で王都の国立図書館への寄贈の話が浮上し、私は非常に満足しております」


「そう言っていただき、当館としても喜ばしい限りです」


 ヘインズは目を伏せてお礼を言う。


「ですが、まずは書物の状態を確認させていただきます。傷みがひどい場合、下手に動かさない方が良い場合もありますから」


 彼女は、書物の損傷箇所や状態について、幾つかトーマスに質問した。それも終わると、洗面台を借りて手を清潔な状態にしてから、実際に本を触れて状態を確認していく。メルはまだそうした専門知識に乏しいので、ヘインズがどういった部分をチェックしているのかを注意深く観察する。


 欠損、破損等、もしも本の状態があまりに酷い場合は、受け入れ自体ができない可能性がある。モンティース館長が紹介状を書いてくれたのだから、十中八九受け入れ可能だろうが、それでも部屋の中にしばし張り詰めた空気が漂った。やがて、仕掛け絵本をそっと閉じたヘインズが小さく吐息をこぼし、「当館で受け入れ可能です」と言った途端、一同はホッと胸をなでおろした。


 その後、ヘインズは朝からずっと持ち歩いていたトランクを仕掛け絵本のすぐそばに置いた。貴重書を一時的に保管するための特別なトランクだ。メルは手伝うように言われて、洗面台で手を洗ってから、ヘインズと二人掛かりでその本をトランクの中に収めた。トランクの蓋を閉じる前に、メルはヴェスターと一緒に固く閉じられた仕掛け絵本を眺めた。表紙は赤銅色の革が貼り付けられ、緻密な文様が空押しされている。また、金細工が装身具のように本を飾り立てていた。その一部は、本が開かないようにするための留め具になっていた。鍵の掛けられていない錆び付いた小さな錠前が、寂しそうにぶら下がっている。


 寄贈するにあたりヘインズと必要な書面を交換したトーマスは、二人を屋敷の外まで送ってくれた。


 原本の入ったトランクは、メルが持っている。道中、メルは空の状態のトランクを持つことを何度かヘインズに申し出ていたのだが、これくらい持てると断られていた。だが、さすがに本を収めた今の状態のトランクは重いので、交代で持つことになった。


「それでは、どうぞ道中お気をつけて。本のことを、よろしく頼みます」


 晴れやかな表情をしたトーマスとその執事に見送られて、二人は屋敷を後にした。


 標高が高いためか、王都よりも日の落ちるのが早い。夕暮れの暖色に染まり始めたコレス・ヴェルトの街を、冷たい風が通り抜けていく。


 メルはぶるり、と体を震わせた。厚着をしているが、やはり寒い。日中はそれほど寒さを感じなかったが、やはり日が落ち始めると気温も急激に下がるらしい。ずっしりと重みのあるトランクをうっかりどこかにぶつけたりしないように気をつけながら、ヘインズと狭い路地を下っていく。その時、頭上に影が落ちた。驚いて見上げると、フクロウが今しがた飛んできたところだった。


「またフクロウがいる」


 ソルヴィ氏の邸宅前で見たあのフクロウと同じ種類だ。ひょっとして同じ個体だろうか。フクロウは、道までせり出していた木の枝に留まると、顔を傾げてメルたちを見た。ヘインズもフクロウには気づいているようだったが、無視して通り過ぎる。後に続くメルもそのまま無視して行こうとしたが、ヴェスターが何事かぼやいた。


「あのフクロウ、何を待ってるんだ?」


 その意味を聞こうとした時、突然背中に衝撃が走った。誰かに、背後から体を強くぶつけられたと悟った時にはもう、トランクを持っていた方の腕が何者かにねじり上げられる。傷みに力が緩んだ隙をついて、メルの手からトランクが離れた。奪われたのだ。一瞬の出来事だった。メルには抵抗する暇も、自分に体当たりを食らわしてきたのがどんな人物なのか見る時間さえ与えられなかった。


「ちょっと!」


 異変に気付いたヘインズが声をあげたがもう遅い。黒いフードで顔をすっぽり隠したひったくり犯の姿を、メルがようやく視界に捉えることができた時には、彼あるいは彼女は、重いトランクを持っているとは思えない動きでヘインズの横をすり抜け、健脚を披露していた。


「待って!」


 当然待ってくれるはずもないので、メルは言ったそばから走り出していた。しかし、運動が得意ではないメルの足では到底追いつけない。


「メル!僕につかまって!」


 ヴェスターが前へ飛び出す。咄嗟にヴェスターを掴もうと伸ばしたメルの腕の先で、小さな猫の姿がふっとかき消えたと思うと、メルの手は荒れ狂う黒馬の鬣を掴んでいた。

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