第2話 山岳都市コレス・ヴェルト
列車の止まる気配と振動を感じ、メルは目の前で誰かにパンと手を叩かれたように少しびっくりしながら目を覚ました。前を見ればヘインズがテキパキと荷物をまとめて、列車を降りる準備をしている。
メルもそれに習って、膝上に置いたままになっていた本を鞄にしまい、ヴェスターが眠っているバスケットの蓋をしっかり閉めてから席を立ちあがった。
ヘインズに続いてコンパートメントを出て、他の乗客と一緒に駅のホールへ出る。外はすっかり暗くなっていて、駅内に点在するガス灯の寒々しい光が、外套に身を包んだ人々の足元を照らす。メルも、図書館司書の制服の上に厚手の上着を羽織って、夜の外気に備えていた。
乗ってきた列車の終着点であるコレス・ヴェルトは、王都から北西の位置にある山岳都市だ。
隣国との国境を成すシエル山脈の麓に作られたこの都市は、麓と言え、標高は高く、家々も斜面に沿って建てられており、外観そのものが無数の建物で構成された一つの山のような都市である。そのため王都より気温はずっと低く、一足先に冬の世界に迷い込んだような気持ちにさせられる。
メルはヘインズと共に駅の改札を抜けて、乗合馬車を止めて宿泊先へ向かった。馬車についた窓から外を眺めてみるが、日が沈んでいるせいで、天を突く怪物の角の異名を頂くシルム山脈は見えなかった。
宿へついたメルとヘインズは、明日の予定を確認しながら食堂になっている一回で夕食を取った後、二つ取っておいた部屋に各々別れた。そこでメルは、やっと緊張感から解放された。
ベッドの上に置かれた籠の中からヴェスターがひょっこり姿を現して、キョロキョロと部屋を見渡す。
「ここは寒いね」
「王都よりずっと北にあるもの」
ベッドに腰掛けたメルを尻目に、ヴェスターは部屋を探検し始めた。しかし、ベッドが一つと文机、鏡しかないような殺風景な部屋である。ヴェスターの探検はすぐに終わってしまった。ほぼ一日中籠の中にいてようやく出られた身であるヴェスターは、少し残念そうだ。
「明日は外に出られるわ。そうすれば、街を探検できる」
「僕は今、探検したいんだけどな」
アーチ型の窓を見上げてヴェスターは言った。窓の外は暗く沈み、きっと今外を見ても街路灯が照らす範囲しか見えないだろう。
「ねえメル、夜の街を探検するのも、きっと楽しいよ」
興奮しているのか、ヴェスターの尾がブンブン揺れる。
ベッドの上に下ろした荷物から寝巻きを出しながら、メルはヴェスターをたしなめた。
「ダメ。勝手知ったる街ならともかく、初めて来た知らない街を日が暮れてから探検するなんて危なすぎる。そうでなくても夜道は危険なのに」
「メルは心配性だなあ。僕は平気だよ。危ないことがあっても龍になれば万事解決さ」
得意げに言いながらも、メルを心配させたくはないのか、ヴェスターはおとなしくベッドの上へ戻ってきた。その間にメルは寝巻きに着替えており、左右に髪を結わえていた髪留めも外していた。
「明日は、九時にコレス・ヴェルトの図書館司書の人が迎えに来てくれるから、その人と一緒にコレス・ヴェルト図書館を見学。それから昼食をとって、午後からソルヴィ氏の邸宅へ行く予定よ。そのあとはすぐ王都に帰るから、早朝のうちに、あちこち探検してみればいいと思うわ。だから今日は、もうおやすみ」
部屋の明かりを消して、メルは布団に潜る。しばらくしてからヴェスターが布団の中に潜り込んでくる気配を感じた。ヴェスターはメルの胸元までくると、ピタリとメルへ体をくっつけた。心臓に火が灯ったように、ヴェルターの暖かな温もりが全身を駆け巡ってくる。
メルはヴェスターの体を優しく撫でた。皮膚越しに感じる骨と体温、そして滑らかな毛並みは、本物の猫と何ら遜色がない。彼が実体を持たぬ魔力であることを忘れてしまいそうになる。一人と一匹はそのまま健やかな眠りにつき、山岳都市の寒い夜は、いよいよ静かになった。
*
山を丸ごと街に変えてしまったようなこの円錐型の都市の道路は、碁盤の目状に広々と伸びた王都のものとは全く異なっている。
道はびっしりと密集して立つ民家の間を縫うようにして作られ、時々その姿を階段に変えたり民家の庭の小径に変えたりしながら微細な血管のようにそこかしこに横たわっている。これでも駅がある街の麓からその周辺は、比較的広い道路が通っていたのだが、旧市街と呼ばれる伝統的な区域に入ってしまえばもはや迷路だ。案内人がいなければ、初めて来た者は迷ってしまうだろう。
メルたちは今、今朝方迎えに来てくれたコレス・ヴェルト図書館のアナスタジア・パルマと名乗った女性司書に案内されながら、階段と渾然一体と化した路地を歩いている。
麓にあった昨晩の宿からの道順を覚えようとしていたメルだったが、早々にお手上げ状態となり、今はすでに物見遊山へ気分は移行している。ヴェスターは今、籠の外に出ており、メルの足元から付かず離れずの距離を歩いていた。やっと外を歩けると、その足取りは軽やかだ。
「不便でしょう?馬車も通れないし、移動方法と言ったら自分の足か、馬か驢馬ですよ」
案内人を務めるパルマが、苦笑まじりに言うと、大きなトランクを手に下げたヘインズは少々言い淀みながらも「そうですね……。確かにそれは、否定できません」と同意する。メルは何も言わなかったが、確かにここは生活するには不便だろうと思った。平地の街に馴染んだ者にとっては特に。
「あなたは、この街の出ですか?」
ヘインズが尋ねると、前を行くパルマは「いいえ」と小さく頭を振った。
「私はシャイベンタン平野の農村生まれです。コレス・ヴェルトはとても美しい都市ですから、最初ここの図書館へ配属となった時は舞い上がるほど嬉しかったですけど、いざ住み始めてみると不便なことが多くて。それでも、この都市を美しいと思う気持ちは当初と変わりませんよ」
パルマはこちらへ振り返って小さく笑った。シャイベンタンの農村生まれという割には、彼女の肌は滑らかな象牙色をしており、すっと通った鼻筋も切れ長の黒い瞳も、そして豊かな黒髪もエキゾチックな印象を与えてくる。先祖が移民だったのかもしれない。
「確かに、この街は非常に美しいですね。今回始めて参りましたが、百聞は一見に如かず。これほど美しいとは思いもしませんでした」
ヘインズの言葉に、メルも頷きたくなる。この都市の外観を讃える文言は、様々な書で目にしたことがあった。
王都ロワペールや西都プラケルセイユの華やかな美しさとは対を為す、質素で堅牢な美しさ。
前者を野原に咲き乱れる百花に例えるならば、後者は岩肌の間に根を生やして発芽したたった一輪の白い花。
全体的にくすんだ白い石で作られたこの都市は、遠くから見ると、まさにシルム山脈を頂く殺風景な高地に突如として栄えた花なのだ。
それを内部から見てみても、王都と全く異なる雰囲気には圧倒させられる。かつて築かれていた要塞を改修し増築する形で山の斜面に建造された建物と無数の道がパズルのように組み合わさり、一つの街を作っている様はいっそ芸術的とも言える。
その建物の間から垣間見える王国最高峰のシルム山脈の眺めもまた格別であった。
今、一行が横切った路地の向こう側に見えた角に似た形の頂を持つのは、シルム山脈最高峰のケラヌー・エクスだ。大地の底に棲む巨大な怪物が、自身の角で大地を割り、その衝撃で隆起したのがシルム山脈。そして怪物の角が、ケラヌー・エクス。大昔の人々はそのように信じ、今でもその言い伝えは残っている。
幾つかの角を曲がり、いくつもの階段を上るうちに、ケラヌー・エクスは見えなくなった。前を歩くパルムが「もう直ぐ着きますよ」とメルとヘインズへ声をかける。
「コレス・ヴェルト図書館って、どんなだろう」
ヴェスターがメルの肩の上に登ってきて、こっそりと尋ねてきた。メルは写真で見たコレス・ヴェルト図書館の外観を思い出しながら答えた。
「洞窟みたいな図書館よ。元々は先住民の隠れ家だった洞窟に手を入れて、宝物を保管し始めたのが起源」
「じゃあ本以外にも、貴重なものがいっぱいあるのかな」
「ええ、そうね。昔ここを収めていた一族の肖像画とか、当時使われていた銀食
器や燭台、後は宝石の類も展示されてるみたい。半分は博物館みたいなものね」
「へえ、すごく面白そうだね。僕、博物館はまだ行ったことないや。王都にも博物館はあったよね」
「ええ、王立博物館でしょう。今度帰ったら、また行きましょう」
会話を重ねていくうちに、一行はそのコレス・ヴェルト図書館の手前へ到着していた。入り口は剥き出しの岩肌に囲まれているが、さらにその岩を囲うようにしてアーチ型のハイレリーフが飾られている。彫られているのは雄々しい馬の上半身だ。前脚を高く掲げ、力強い眼が図書館の入り口をくぐる者を見据えている。
その馬の下を通って館内へ入ると、館内のひんやりとした空気と一緒に、赤縁の眼鏡をかけた男性が奥から両手を広げて一行を出迎えにきた。
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