5分
龍宮真一
5分
あと5分。
自宅に到着するまで、あと5分。
いつもそうだが、特に何かをする訳でもなく、何かを考えるでもなく。
なんとなく歩いているだけで、気が付いたら自宅に着いている。
それはなんと言うか、帰巣本能に近いものなのかもしれない。半分眠っているような状態でも、毎回きっちりと自宅には到着しているのだから。
あと3分。もうすぐマンションが見える。
ここを左に曲がると、あと少しだ。
見えてきた自宅マンションに、少し安心する自分が居る。
702号室に到着するまで、あと2分。
部屋に着いたら、さっさと眠ってしまいたい。
それくらい、とても疲れていた。
マンション前に到着。
あと1分で自室に着ける。
エントランスで入口のロックを解除して、エレベーターホールに入る。エレベーターは4階で止まっているようだ。呼び出しのボタンを押し、スマホを胸ポケットから取り出した。
23時48分。
今日は何とか日をまたがずに帰宅できた。
到着したエレベーターの扉が静かに開く。
スマホを胸ポケットに仕舞いながら乗り込む。
ほとんど反射的に7階のボタンを押していた。
扉が閉まり、一瞬の浮遊感を感じる。
上昇していくエレベーターから、各階の廊下が見える。どこの階も自分が住んでいる7階と造りは同じで、違うところがあるとすれば廊下の突き当りに放置されている複数のビニール傘くらいだろうか。
2階を過ぎ、3階に差し掛かるときに少し揺れる。
ここのエレベーターの癖なのか、いつもそうだ。
3階を過ぎ、4階に差し掛かる。
そこに見えたのは、いつもの廊下ではなかった。
赤かった。
赤いテクスチャを雑に塗りたくったような…
赤のペンキを適当にぶちまけたような…
そんな廊下が見えた。
その中に、人が居た。
こちらを見ていた。
一瞬だったが、間違いない。
目が、合った。
景色が下にスライドしていく中で、倒れている人が居たのを視界でとらえた。
間違いなく、それは人だった。
だというのに、恐ろしくグロテスクだった。
心臓が痛い。
そして、思考を埋め尽くす言葉。
ヤバい。
どうすればいい?
7階に到着して、自室に逃げ込む?
鍵を開けて、扉を開けて、中に入って、扉を閉めて、鍵をかける。
それだけの行動だというのに、ひどくやる事が多く感じる。その間に追いつかれたら…そう思うと吐き気がする。
どうする?
エレベーターに乗ったまま、もう一度1階のボタンを押して1階に戻り、マンションから脱出して大通りに出る?
いや、4階でボタンを押して待たれていたら、そこで終わる。終わってしまう。
ゆっくり開く扉の向こうで血に濡れた殺人犯がこちらを見ているところを想像する。
恐ろしすぎる想像に、呼吸が荒くなる。
じゃあどうする?
7階に到着した後、非常階段から逃げる?
いやそれもヤバいのではないか?
そもそも咄嗟の行動なら、非常階段で追いかけてくるのではないか?
もしそうなら、最悪な形で殺人犯と鉢合わせることになる。
逃げ切れる自信なんて、あるわけもなく。
今まで生きてきた中でこれほど脳を酷使したことはなかったかもしれない。それほどに、高速に、脳内で思考が巡っていた。
それは自分の命が危機にさらされているからこそできる芸当なのかもしれない。
いや、今は無駄な事を考えている暇なんてない。
エレベーターが6階に差し掛かる。
もう時間がない。
決めなければ。
どうする?
エレベーターを出たら、まず非常階段を確認する。
やつが来ているなら、鍵をかければいい。
一時的にでも足止めになる。
そのうえで、エレベーターで1階へ逃げればいい。
これならば生きながらえる可能性がある。
だがこれは、奴よりも先に7階の非常階段にたどり着くことが前提だ。そうでなければ、逆にこちらとしてはそこで終わりという事になる。命はない。
だがそうだ。
そこが運命の分かれ道と言うならば、やるべきことはまずこれしかない。
非常階段へ続く扉に鍵をかける。
これができるかどうかですべてが決まる。
6階を過ぎて7階に差し掛かる。
もし奴が自分よりも先に7階にたどり着いていたら、その時はどうすればいい?
命をあきらめる?
それだけは、嫌だ。
絶対に。
大きく息を吸い込み、吐き出す。
勝負だ。
7階に到着したエレベーターが完全に止まるまでが異常に長く感じる。
外には誰も居ない。
なんとか間に合った?
軽い振動と共に、エレベーターが止まる。
ゆっくりと扉が開く。
開ききらない扉の隙間から体を横に向けてすり抜け、非常階段へ続く扉へと走る。
まだ誰も居ない!
間に合う!
あと5歩で!
その時、扉が大きな音を立てた。
「開けろぉ!」
そこに、赤く染まった服装の男が居た。
その眼が放つ尋常ではない何かを感じ、身体が勝手に走るのをやめた。
扉に近づけず、むしろ無意識に後ずさっている。
男はなお扉をたたき続けている。
「ここを開けろと言ってるだろ!
早く! 早く開けろ!」
どうやら非常階段へ続く扉にはもとから鍵がかかっていたようだ。そうでなければ、今頃は…
幸運だった。
もし鍵がかかっていなかったらと考えるとゾッとするが、とにかく決めていた方法をとろう。
奴がこちら側に来られないようにできた今、やるべきことはたったひとつだ。
未だに大きな音を立て続ける扉に注意をしながら、エレベーターに戻る。
そこで、何かが変だと感じた。
エレベーターが、やって来る。
下の階から。
先ほど自分は7階までエレベーターを使って来た。
誰かが使うような事が無ければ、7階にそのままあったはずだ。
だが、今エレベーターは間違いなく下の階から昇ってきている。
嫌な汗が噴き出す。
ヤツが4階で念のために呼び出しボタンを押しておいたのか?
いや、それはおかしい。それなら7階で呼び出しボタンを押すまでは動いていないはずだ。
なら、誰かが返ってきて1階から乗ってきている?
それなら可能性としてはあり得る。
もしも誰かが乗ってきているなら一緒に逃げれば良いだけだ。
非常階段へ続く扉からはまだ音がしている。
視線を向けてみても、男の顔はまだそこにあった。
エレベーターが到着する。
やはり誰かが乗っていた。
やけに赤い服装で。
やけに赤い肌の色で。
そこに、白と黒がのぞいている。
黒は、瞳の色。
白は、白目と、歯。
この目だ。
さっき一度だけ見た目。
未だに扉をたたき続けている、扉の向こう側に居る男の目は、この目じゃなかった。
なぜそれに気づけなかったんだ?
まだあの男は、扉をたたいている。
扉をたたいてくれているのだ。
ここを開けて、逃げて来いと。
ああ…そうなのだ…
目の前に居るのは、女だった。
確か、管理人だったはずだ。
扉がゆっくりと開く。
ゆっくりとその手が持ち上げられた。
そこには赤黒い雫を垂らすナニカが握られていた。
ああ…
そして、それは、まるでコマ送りであるかのように。
ゆっくりと…
最後に聞いた音は、
自分の頭蓋が砕ける
嫌な音
だった
気がする………
5分 龍宮真一 @Ryuuguu
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