十年後 終幕

第32話 笹舟

 僕が知らないシズが古びたアパートの二階に住む部屋へと、縞鋼板しまこうばんのアルミ製の階段でリズムを刻むように、煌びやかなロングヘアーを左右に揺らし駆け上がって行く。


 現在は十八歳で、もうすぐ十九歳になると朗らかに告げていた。子どもの頃の幼さが未だ色濃く残りとても可愛らしい。


 同世代の子とたくさん触れ合えて、達観する暇も無く、学生期間も謳歌し、それどころじゃないのなら嬉しく思う。


「皆本ーどうしたの?」

「……ううん、いっぱい動いてるなって」

「ふふっ、元気なうちに動かないと勿体ないからね」

「確かに。年々身体が硬くなるし、その方がいいかも」


 羽織ったパーカーが遠心力で膨らむ。階段の途中で振り返り、立ち止まった僕を見つけて声を掛けてくれる。


 願わくばこのままの元気な姿で、十九歳を迎えて欲しいなと仰ぎながら微笑む。


「皆本もまだまだだよ。私に付き合って歩いてくれるし、体格も殆ど変わってないし、顔色も良い……し——」


 僕が知らないシズが珍しく言い淀む。けれどすぐに左手で駐車場のある方角を指差すと、まるで自分の事のように嬉々として、心的外傷を乗り越えた僕を讃えてくれる。


「——自転車も乗れるようになってるし!」

「うん、お陰さまでね」


 指先は駐車場の奥側にある駐輪場の、原付バイクと並んでいる水色の自転車。


 当時のものは実家にあり異なるけど、なるべく似た車種を選んだから、シズなら一目見ただけで分かってしまうようだ。


「……凄いね、流石だね、皆本」

「いや、僕独りじゃなかったからだよ」


 もう十年が経過するというのに、決して上手く行き続けた人生ではないのに、僕よりもはしゃぐシズが支えてくれる。


 当時の奇縁は、どうしようもなく続く。


「そっか……」

「うん」

「友達とかは、今でもいるのかな?」

「そう思っている人はいるよ」


 苦笑しながら告げて、きしむ階段の上る。

 ついでに家の鍵を取り出そうとする。

 僕の知らないシズの制服や荷物が部屋の中にあるから、もし帰ってしまうのなら渡して置かないといけない。僕の部屋は階段を上り切ってすぐにある二○二号室。先に行く少女が扉前に待機する。


「お邪魔しまーす」

「……ん?」


 どういう事だろうと顔をしかめる。施錠は確認までしっかりしたはずだと所感しつつ、僕の知らないシズの居る方を見る。


 そこには部屋扉に向けて手をかざし、何もしていないのに乾燥した音色と共に鍵穴が一回転して、満足そうに頷く少女の横顔。


「よしっ」

「えっ……いやいや、何をしたの?」

「皆本の部屋の鍵を開けた?」

「……有り得ない。だって鍵はここにしかないし、そもそも鍵穴に触れてすらいなかったのに、なんで……」


 ポケットから取り出した鍵を開示する。

 すると僕の知らないシズが、慌てふためく僕を面白がるように戯けて、ドアノブに手を掛け、勝手にお邪魔しながら教えてくれる。


「あははっ、まだ気付いてなかったんだね。私の世界だとこれくらい造作も無い事なんだよ。実は最初に侵入したのも、この技術」

「最初? ああ……——」


 偶然にも出逢ったときを回顧する。

 一時的に約束して別れ、僕が部屋に入り鍵を施錠した後、冷蔵庫前で購入した食材入れに苦戦していると、突然扉が全開だと主張する僕の知らないシズが隣に現れた。


「——……僕、鍵閉めてたよね?」

「はいっ! 私が開けてました」

「……おかしいなとは思ったけど、これは気付きようがないよ」


 けれど。僕の住む世界では不可能な現象も容易く実現する世界線があるのは、とても羨ましく感じる。


 こうして僕が知らないシズと逢えたことも、健やかなシズが十九歳になろうとしているのも、この世界だと空論でしかない。


「驚いた?」

「うん、驚いた」


 僕が率直に返すと、玄関で脱いだばかりのローファーとピースサインを掲げた後に背を向け、弾むようにして廊下を歩いていた。


 軽快な足取りのまま居間に向かい、荷物を抱き寄せると、すぐに玄関口に戻って来る。そして足場に優しく置いたローファーを履きながら、僕の知らないシズは呟く。


「皆本。夜も遅くなるし、私そろそろ帰らないといけないんだ」

「あっ……そう、だね」


 想定はしていた。

 けれど本当にそのときが来てしまうと、身体中が締め付けられ、のぼせるような頭痛が思考を惑わす。


 行かないで欲しいという望みが、配慮も出来ずに零れそうだ。


「色々お話も出来たし、ね?」

「うん」


 だってこの子は、正真正銘のシズだから。

 僕の想像も及ばない進化を遂げた世界で、無事に完治して、高校生になれたシズだ。


「でもちょっとだけ、安心した」

「安心?」


 僕が知らないシズが立ち上がり、背伸びをしながら、僕に一歩ずつ近づいて来る。


「「…………」」


 いつかの背比べを思い出す。

 あのときのシズは、置き場のない照れを隠そうとしていたんだと、今なら分かる。


「……やっぱり、同じ表情だ」

「僕、どんな顔してる?」

「うーん、内緒かな?」

「……それがいいね」


 気にはなるけど、そのほうがお互いのためだと思う。僕は内緒にされたままで、僕の知らないシズはいつか、脚膝から臆病な誰かさんに聴かされるかも知れない。


 ローファーを履いた踵が地に着く。

 こうして眼前に居てくれる時間も、一刻と迫ってきている。


「ここにはさ……私が、いないでしょ?」

「……」


 僕は答えずに俯く。

 意思を汲んでくれて、そのまま続ける。


「……私がいない世界の大きな皆本が、友達がいて、結婚までしてる。なにやら仕事かな? も企んでいるみたいだし——」


 僕が知らないシズが左手を差し伸べる。

 それは連れて行こうとか、連れ添おうとするんじゃなくてきっと、思わず反射的な優しさが静かに伸びたようだった。


「——実は、皆本が独りで寂しくしてるんじゃないかって、心配だった。私も病室で皆本が帰った後は辛かったから」

「……うん」

「でも皆本は、色んな人と一緒に生きてるんだって分かった。独りって言ったのが本当に嘘で良かった……可愛い顔もしてるしね?」

「……シ——」


 込み上がる切望が胸に痞える。

 独りじゃないかも知れない。だけど寂しいと、いつも感じている。


 どこにも解決する方法は無くて。

 少しでも埋め立てられる論理も無くて。

 真夜中の静謐が恋しい。


 無垢な笑みで僕を照射する子の愛称を呼んでしまいそうになる。けれど、ギリギリのところで理性が保ち、喉元を食い止め自重する。


 僕が知らないシズにすがるのは、ここに居る僕ではない。


「——いや、なんでもない」

「そう?」

「うん。可愛い顔はしてないと思うから」

「ふふっしてるよ。あっほら、今も!」


 すかさず笑顔で指摘してくる。

 きっと僕も、それに釣られている。


 取り止めのない会話が楽しくて。

 連れられる道中が新鮮で。

 時計の針が回るのがあっという間。


 褪せない日々が平穏と隣り合わせ。

 シズと一緒だと、いつもそうだ。


「……じゃあ皆本。私の帰りを待ってる人がいるから」

「……そっか」

「本当はその人も連れて来てビックリさせたかったんだけど、皆本に逢わせるのはダメだって言われて……」

「僕に……——」


 それはきっと、僕が一番良く知る人物を示唆している。これはドラマなどのフィクションでの情報ではあるけど、同一の世界線に同一の人物が混在すると、予期せぬトラブルが発生するかも知れないらしい。


 その人と具体的な明言を避けているのも、なんらかの憂慮だと思う。


「——それは残念だね、逢って話してみたかったかも」

「本当だよ。絶対面白くなってたのにね、だって同じ……」


 そこまで言い掛けると、これは言っちゃダメなやつだと慌てて口元を手で覆っている。間に合ってるのかどうか分からないけど、そそっかしい姿は何度見ても飽かない。


「……」


 鱗粉りんぷんすすが付着した蛍光灯が点滅する。

 太陽が落ちて気温が下がり、素肌に快適な夜風がさすらっていく。


 名残り惜しい静かさ。この瞬間がいつまでも続かないのは切ない。

 けれどここに居るシズには、帰りを待ち浴びてる両親や同級生もいる。


 もしかすると。ある意味で片想いを長年していて、口下手で脚膝に不安がある、僕が良く知る男の子だって居るかもしれない。


 恐らくだけど、ちゃんと気持ちを伝える機会を悉く逸していると思われる。


「あのさ、一ついいかな?」

「ん? なになに、聴くよ」


 僕が知らないシズが口元の封印を解いて、比喩的に耳を傾ける。


 興味ありげなのがひしひしと送られてくるけど、残念ながら大人のフリをするだけの僕の、余計なお世話な助言かもしれない。


 でも、いつまでもタイミングを逃してしまいそうなその子のことを考えると、誰よりも性格を知る僕が何もしない訳にはいかない。


「その……いつになるか分からないけど、キミに昔からの積み重ねた気持ちを伝えたい人が、現れると思うんだけど……」

「うんうん」


 僕が知らないシズは二度頷く。

 勘付いているのか、いないのか。どっち付かずな反応のまま荷物を強く抱いている。


「あっ……もちろん、キミの意思が大前提ではあるんだけど」

「ふふっ、うんうん」


 前振りの長い僕に心当たりがあると言いたげに微笑んで、再び二度頷く。

 なんだかとても、話しやすくなる。


「その子はずっと。キミと話したくて、遊びたくて、振り回されたくて、一緒に居続けたくて、いつも探してると思う。

 なのに感情が絡まってるから上手く言えなくて、最悪どもってしまって、めちゃくちゃなタイミングかもしれないけど……聴いて欲しい」


 本当なら聴いてあげて欲しいと、僕は言うべきだった。もっと直接的な言葉を使って懇願しても良かった。


 私情が混ざってしまい、その子の口調にも近しいものになる。何年経過しても、こういうところは改善しない。


「なるほどね……」

「うん……」


 僕が知らないシズはしっかりと見据える。

 それは僕と、ここにはいないその子に向け、神妙に真剣に応える……そう思っていた。


「ふっふっふ、皆本——」

「——ど、どうしたの?」


 僕は一瞬だけ、ど忘れをしていた。

 不敵な笑みに気付かされてしまう。


 シズという女の子が、突拍子のない柔軟な思考で平然と僕たちの予想を上回ってしまう、じゃじゃ馬娘なことを。


「それ、聴けないかもしれない」

「えっ、なん——」

「——だって私の方から先に言っちゃうかもしれないもん、大好きーってね!」

「……」


 大人びた振る舞いを一時的に置き去りにして両眼を瞑り、荷物をこれまで以上に抱き寄せ、その場で半回転し妄想に浸っている。


 僕が知らないシズの密やかな好意が、本質である純粋さと共に溢れ出していた。

 ……どうしてか僕まで、胸の内が騒々しくなってしまう。豊富な所作と顔色が輝く。


「あれ? なんか皆本、嬉しそうだね」

「そうかな?」

「うん。もしかすると、私以上かもっ」

「いやいや、流石に敵わないよ」


 緩やかな摂理が、相変わらずのまなじりと見つめ合いながら流々とする。


 いつまた逢えるか分からない別れの前だとは感じられないくらい、のんびりと過ごす。


 まるで一緒に芝生で眠るようなゆとり。

 これもきっと、幸せと言うんだと思う。


「じゃあそろそろ、お父さんとお母さんの所へ帰るよ。良い気分にもなっちゃったしね」

「うん。それは僕も……そうだ、帰り道は分かるの?」

「分かるよー」


 僕が知らないシズが階段へと向かう。きっとそちらが帰り道に繋がっているんだろう。


「ねえ皆本」

「どうしたの?」


 ささやくような愛らしい微笑みで紡がれる。


「私、皆本を幸せにして来るからね!」

「うん、楽しみにしてる」


 その人はどうなってしまうんだろう。

 ただただ戸惑うのか、らしくもなく絶叫するのか、膝から崩れ落ちるのか。

 本当に、楽しみで仕方ないよ。


「またねっ皆本!」

「……うん、またね」


 満面の笑みで左手を振り、僕も応える。

 別れを偲ぶと同時に、またこうして再会することを祈るやり取り。


 僕とシズは、またねと交わしたままだ。

 どれだけ月日が経過しようともその事実は変わらず、山積みの口約束と共にいつまでも有り続けることだろう。


「……」


 階段を下りる足音は、しなかった。

 僕が知らないシズは瞬きの内に忽然と姿を消し、どこかへと忍んでしまう。


「シズ……僕が幸せにするかもだよ」


 シズに聴こえないように言ってみる。

 冗談になるのか、現実になるのか。少しだけ違うであろう若い僕次第だ。


「気をつけて、帰りなよ」


 そう告げた後、虚勢で僕は部屋に戻る。

 幸いにも扉を開いてくれている。


 躊躇とまどいつつ扉を閉めて鍵を掛け、玄関でスニーカーを脱ぐ。


「……ん」


 すると、居間の方から振動音が聴こえる。

 初期設定から何も弄っていない、スマホ通話の着信音だ。


「……もう、そんな時間だったかな?」


 余韻に浸る間も無く、日々は続くようだ。

 今後のことで改めて話をしたいと、相手の仕事が終わって一段落が付いたら電話を掛けて欲しいと約束をしていたのを思い出す。


 僕の方は時間の余裕があってほとんど家にいるから、皮肉にも効率が良い。

 そのまま廊下を早足で通り過ぎる。


「名前は……やっぱりそうか」


 普段は喋るのが苦手だから電話はしないけど、ビジネス的な側面こそあれ、小学生の頃から知っている同級生の友人とならあまり気負うことがなくて、寧ろ楽しみだ。


 僕はスマホを手に取り、武藤と記された下部にある応答ボタンに触れる。


「はい、たけ……——」

『——ううん、私』


 予想外の刺々しい声質が流れる。

 第一声に被せて否定したのは明らかに武藤ではない。いや苗字はそうなったけど、僕が武藤と呼ぶ人じゃない。


「えっと、たね……じゃなくてあの——」

『——種川でいいよ……これ前にも同じやり取りしなかったっけ?』


 武藤のスマホから聴こえた声の主は、教師になる夢を叶え、今では結婚して可愛らしい娘さんにも恵まれた種川だ。


「どういうこと? 武藤は?」

『あーなんか、通話掛けた途端にお腹が痛いって私に渡してきた。一回切ろうかなって思ったら皆本に繋がって焦ってる』


 その割には冷静沈着とした抑揚だと、人知れず苦笑する。


「とてもそんな感じはしないけど……」

『煮込み料理をたまに見ながら、終業式の予定を確認しつつ、ともちゃんを宥めて通話してるんだよ』


 ともちゃんと言うのは二人の娘さんのことだ。名前の由来は、お互いをより意識するきっかけになった出来事に起因する。


「……それは大変だね」

『うーん……料理を見てるのと一緒に遊んでたのは私じゃなかったけどね。俺がするって言ってたのに、いきなり全部託された。まあ親同士、困ったときは持ちつ持たれつだよ』


 どういう状況かおおよその想像出来る。

 僕が武藤と電話をするときは、大体子どもの声や足音が一緒に聴こえてくる。


 何度か直接、お話しをしたこともある。

 とても人懐っこい子で、初対面のときも向こうから名前を訊かれ、今では僕のことを笹伸ならぬしゃしゃのぶと舌足らずで呼ぶ。


 笹という単語が特にお気に入りみたいだ。

 意外なことに、僕の名前は他の子どもたちからも好かれやすいらしい。


「どうしようか? 一回切る?」

『いや大丈夫、皆本ならいいよ』

「……僕なら、いいのかな?」

『うん。昔から知ってるし、今頃トイレに居る誰かさんと違ってうるさくないし、私たちがこういう関係になれたのも、皆本……いや、皆本家のおかげだから——』


 二人の仲は前々から周知の事実だ。

 だから僕は、すぐに否定するはずだった。


 けれど種川がわざわざ皆本家と言い直したのは、きっとシズを含めている。


『——しゃしゃのぶー』

「……元気な声が聴こえるね」


 ともちゃんの声だ。シリアスな雰囲気になりそうなところをたちまち華やかにする。


『ごめんちょっと待ってて』

「うん」


 電話越しに乾いた等速の音色が流れてくる。多分スリッパを履いたまま、愛娘を追い掛けているんだと思う。


『はい捕まえた——』


 ともちゃんの脇目も振らない笑い声が、僕の耳にまで届く。きっと優しく包まれるように捕らえられたに違いない。


『——良いお姉さんになれないよ?』

「……」

『はい、よろしい』

「……」


 それは僕に向けたものじゃなくて、種川に頭頂部を触れられているであろうともちゃんへの呟きだ。


『ごめん皆本、急に動き出しちゃって……』

「いいよいいよ、元気そうだね」

『うん……あっ、ちょうど帰って来たみたい。代わるね』

「えっあっちょっと待って」


 スマホから一度叩かれたようなノイズがする。おそらく耳から外したところで僕の声に気が付き、急いで元に戻した際に当たってしまったみたいだ。


『どうしたの?』

「えっと……——」


 取り分け呼び止める必要もないことかも知れない。頃合いも過ぎてしまったさえある。でもたった一言。毎年メッセージでは送っていたけど、喋って伝えた事はなかった。


『——皆本? 何かあった?』

「……少し遅いけど、誕生日おめでとう。

 体調は……今の種川なら大丈夫だね」


 高校生の頃から続くやり取り。あと、頑張ってと応援するのは負担になる気がして、労い言葉が婉曲えんきょくになる。


『……どうかな。私はすぐ我慢するらしいからね。周りに頼ろうとは思ってるよ。ふふっ……毎年この時期にありがとう。六月になったら連絡するよ、二人分ね——』


 順々に答えてくれるのが種川らしい。


『——私が少し落ち着いたら、またともちゃんと一緒に遊んであげてよ』

「うん分かった、また今度」


 僕は厳かに頷き、意識が部屋に帰宅する。

 そういえば電気を点けていないことに気付き、すぐ真っ暗な居間を灯す。


 変わらずスマホを耳に当てていたので、受け渡し中の武藤と種川の軽口を図らずも傍聴してしまい、バレないように微笑する。


『皆本ー?』

「うん、今度はちゃんと武藤だね」

『いや悪い。あんな、突然くるとはな』

「仕方ないよ」


 武藤は大学で経営学部を専攻したのち、現在はコンサルタント会社に勤務している。いずれは独立か、新規で起業することを目的に知識と経験を蓄えている。


 というより。もう既に幾つか試みているらしいけど、僕にはまだ秘密みたいだ。

 恐らくは軌道に乗り出して、絶大な知名度と名声などを得たら、満を持す形で教えてくれる算段だろう。


 照明のスイッチを押し、ついでに資料をまとめたメモとファイルと持ち、テーブルの上に置き、しばくつろぐ。


『それで単刀直入だけど、この前聴いた計画書の続きな——』

「——うん、率直な感想をお願い」


 僕はファイルに備え付けたペンを取り、独自で記述した資料に視線を落とす。


 そこには医療機関と一般家庭という単語と派生の概要を別々の小枠で囲み、丁度双方の中間に武藤へと予め告げた計画内容を簡潔に記し、クエスチョンマークを添えていた。


『一般家庭、特に子どもたちが医療機関などを頼りやすくするための仲介と、もしもの場合の支援をする組織。身体的精神的な異変があっても気付かれない、一過性のものだと放置、本人が様々な事情で公にしづらいなどの場合がある。

 その相談や講演会などを通じて自身の体調面を知るきっかけ、ひいては医療機関への導線。どの機関が適当か、どのような設備が整っているかの内容説明と、病が発見された後の親や子の支援体制。医療関係者じゃないからこそ、中立的に出来ること……ね——』


 武藤が一呼吸入れる。

 僕も黙し、固唾の飲む。


『——うん。皆本の意向は良くわかる。俺はどういう人間か知ってるから、相変わらずお人好しな印象を受ける』

「……」


 戯けた口調ではあったけど、武藤の声色が少し低くなった気がする。


『でもこれがビジネスになるかと訊かれたら……個人だと相当難儀だな。収入源の確保をどこからするか、あと医療関係者じゃないのが売りだけど逆に仇になるかもしれない』

「……それは僕も思う。希望的観測と理想論を並べただけなのは、理解してる」


 きっと武藤じゃなかったら相手にもされないような資料内容だ。


『実現したとして運営維持をどうするか。相談料を受け取るのが妥当な方法だけど、それだと人が集まらないから本末転倒だし、物を売る形式も適してない』

「確かに……」


 どちらも経営と人情に必要不可欠な信頼を失いかねない手法だろう。気軽に誰でも相談が出来て、押し売られる心配もないのが、この場合は最良だ。


『となるとインターネットサイトを構築してアクセスの際の広告料を得る。他企業と提携関係を結んで双方の利点になる落とし所を探る。講演料を受け取るもあり、だけど——』

「——全部。それが出来たら苦労しないって内容、だよね?」


 僕の指摘に同感だと苦笑が漏れている。

 多分だけど、武藤も似たような経験をしたことがあるのかもしれない。


『ああ。ここまでに至るノウハウか、大衆の信用や関心を持っていないと』

「僕には何もないね」


 僕は溜息混じりに呟く。すると剣幕を変えた武藤が戯けた様子もなく反論する。


『……いや一つだけあるにはある』

「えっ……なにが?」

『あるけど、皆本には言いにくい』

「どういうことなの?」

『……これを言うと、皆本がキレられても仕方ない内容。それでもいいなら』


 前置きをするということは、明るい内容ではないのだろう。僕を貶める発言にもなってしまうのかもしれない。


 でも、それなら問題はない。


「うん、覚悟はする。言ってみて」

『……分かった。これは俺個人の考えだけど、皆本の過去で講演会を開けるだけのエピソードがあると思ってる』


 僕の過去、という話で大方の察しは付く。もしそうだとするなら必然かもしれないけど、この計画を企図した理由とも合致する。


「……僕が小学生の頃の交通事故、だね」

『そうだ。連日地元ニュースに流れていたし、各地の学校でも喚起を促したらしいから憶えている人も一定数いる。当時の状況、事故を未然に防ぐ手段、一時意識不明重体になった子どもがその後どんな大人になったのか……需要は恐らくある』


 そう言い終えると、武藤が小声で謝っているのが微かに聴こえる。要約すると、僕の過去に起きた事故を資金の為に売る提案だ。


 気持ちの良いものでは、確かにない。

 回顧するのも億劫で、長年そのトラウマにも苛まれてきた。けど——


「——武藤はさ、この計画書を作成した理由を知らないよね?」

『え? ああ……』


 でも、教えて貰ったことがある。これら負の感情を独りで抱え込み続けるのは、もっと辛い。


「事故の後。顔を名前も知らない人が、意識のない僕の為に救急車を呼んでくれた。

 もし見て見ぬフリをされていたら、僕は絶対この世に生きていない……シズにも逢えなかったんだよ——」


 人生は良し悪しあれ、遭遇を繰り返す。

 嫌気が差すことだってある。

 でもそれらは、命あるからこその経験だ。


「——だから僕は、一つの行動で助かるかもしれないはずの命から、目を背けたくない。……そうやって、僕は救われたから。助けてくれた人たちを見習おうと思った」


 この感情は、とても大切なもの。

 童心が成長してもなお、変わっていない。


『そっか。めっちゃ良いと、俺は思う』

「うんでも、押しつけになるかも……」

『……楠木と逢えて、嬉しくなかったか?』


 敢えて分かり切ったことを、武藤は訊く。

 僕の答えは、もちろん決まっている。


「嬉しいよ。シズと居るとね、もう何をするか分からなくて、もっと側に居たくなるんだ……今も」

『ははっ、だよなっ! それなら皆本は堂々としてたら良いだけ、だろ?』

「……うん」


 武藤なりのエールだと思う。持つべき者は勝手に察してくる、僕の友達だ。


『……あっ、悪い皆本』

「どうしたの?」


 何かに気が付いたと、武藤は小声になる。


『多分料理するの辛そうだわ』

「種川? そっか……うん、今日はここまでにしよう」

『すまん助かる。また俺の方から掛ける。実現したら最高だと思うしな』

「ありがとう、また今度ね」

『おう』


 長いようで短い通話が切れる。

 交わした会話の残響が鼓膜を揺らす。

 改めて部屋を見回すと、どこかわびしい。


「シズのこと、言いそびれたね」


 僕はそう呟きながらおもむろに、ファイルにある資料の奥のパンフレットを手に取る。


 僕とシズが入院していた病院のものだ。

 そこに挟まれた一枚のチラシを抜き見る。


「明日の、九時から」


 それは小児科の憩いの場で催される物作り企画の案内。看護師長になった田宮さんの薦めで、僕も参加する予定だ。


「……丁度ちょうど、僕に縁があるね」


 子どもたちと作るのは、笹舟。

 以前小児科へ訪れたとき、僕の名前にある笹が気になる子が数人おり、田宮さんがそれにお応えした企画らしい。


「僕とシズに縁がある、かな?」


 僕は微笑みながら訂正する。

 笹舟は静かな水面じゃないとすぐに倒れてしまう。けれど微力で賑やかな波打ちに感化され、左右に揺れて躍動が増す。


 脆い船舶せんぱくは連れ去られそうな僕。

 水面の儚さは、シズのように愛らしい。


「うん」


 その場で立ち上がる。

 脚膝は今、このときも動いてくれる。


「シズ、今日は不思議な出逢いがあったよ。違う世界の僕とシズがお互いを幸せにしようとしてるんだ……今度、一緒に行こうか」


 シズが僕を掴み、先を行く。

 僕はシズに翻弄されながらも追い掛ける。

 そうして二人、笑顔で連れ添い続ける。


 このささやかなるしずけさと一緒に、いくつになっても僕とシズは手を繋ぎ、未知みちあゆむ。



        ささ静謐せいひつ

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