第31話 左手

 父さんと母さんが帰省している日だった。

 新生活前の疲労という口実で自宅に一人留守番中の僕は、深夜に皆本家の固定電話に掛けられた機械振動で目醒めざめる。


 自室から電話のあるリビングまでの距離が意外とあって、寝ぼけながら到着すると留守電の録音機能に切り替わり、看護師長さんと思わしき荒げた声が流れる。


『皆本さんっ! 夜分申し訳有りません、志津佳さんのことでっ! 至急病院に来——』


 受話器を強奪ように取り、耳に当てる。


「——佐藤さん!」

『その声……笹伸くんね?』

「はい。それでシズは——」

『——……とにかく来て、としか言えない』

「……」


 なんと返答したのか分からない。

 受話器を戻したのかも定かじゃない。


 ただ佐藤さんの言葉が緊急であること。

 電話を介してだと、とても伝えられないような事態がシズの身に起きたこと。


「嫌だよ……」


 したくもない想像が反芻する。

 それは僕が一番望んでいないシズの姿が、最も現実的だと諭してくる鬱陶しさ。


「……急が、ないとっ」


 闇雲に玄関へと駆けた。

 ジャージとか、寝癖だらけとか、声が枯れているとか、移動中に脇腹を変にひねったとか、とにかくどうでもよかった。


「……」


 そんな冷静さを欠いた最中。僕の視界に飛び込んできたのは、ハンガーに掛けられていたカーディガンと、その近くに定置された靴棚上のプラスチック皿にある、サメのストラップが巻き付いた自転車の鍵。


 それはシズの影響で冬用に購入したカーディガンと、シズからせっかくだからもっと乗って欲しいと譲り受けた水色の自転車の鍵。


「……っ!」


 造作も忘れて鍵を手に取る。無言でカーディガンを羽織り、スニーカーを履いて、玄関扉を開けると、普段なら母さんのワゴン車が停まっている駐車場の空きスペースにある、元はシズの自転車を求める。


「はー……——」


 ハンドルが夜中の低気温のせいで冷たい。

 暗くてどこにあるか分からない自転車の鍵穴を、感覚を頼りに探る。


 身体が浮き上がったような錯覚。

 切迫する心拍。突発的な偏頭痛が目蓋まぶたにまでのしかかり、視界が歪んでくる。

 自律神経が定まってくれなくて、過呼吸に投げやりな声を出さないとやってられない。


 古傷のせいじゃなく怯える脚膝あしひざから、今にも崩れ倒れてしまいそうだ。


 意識を保とうと、鍵を持つ右手が力む。

 サドルの位置からなぞるようにして、挿入出来そうな箇所には辿り着いている。

 でも金属同士がかち合う感触こそあるけど、肝心の鍵穴に嵌まらず何度も弾かれる。


「——逆……?」


 そう呟き、力んだ右手を緩め、シズの自転車の鍵を指先で半回転させて試みると、幾つもの関門を突破するみたいに段階を踏みながら入り込んで行く。


「はー……ふー……よしこれで……——」


 鍵を捻り、バネが弾け飛んだ反響音と共に、車輪の隙間を通って動きを塞いでいたアーチ状の金属棒が収納される、はずだ。ちゃんとは暗くて見えていない。


「——ふっ」


 スタンドを靴底で蹴る。

 そのまま自転車が倒れる前に、握っていたハンドルを手押しで加速していく。


 僕の家の玄関前に戻ると旋回して、その減速を取り戻すように一歩ずつ助走を付ける。見慣れた街路に差し掛かると同時に、過去のトラウマなんかも振り払い、ただシズと逢うことだけを考えて跨り、両方のペダルを踏み付けて二つの車輪を回転させて行った。


「シズ……——」


 自転車のライトが、か弱くも照らす。

 その後僕はどうやって家から病院まで難なく乗り進んでいったのか、冷静さも慎重さも欠いて記憶にない。


 周囲の街人も道路交通法も、交通事故に遭った恐怖も臆病さも、とにかく何もかも頭になく、体力の温存も考えずひたすらにペダルを漕ぎ続けた。


 僕の想像の中で、幼げなシズがひょっこりと現れ、何してるのと訊ねようとすると途端に消えてしまう。


 戸惑って辺りを見回すと、いつのまにか背後を取られていて、同じ年頃のシズが忍び寄り、肩に両手を置いて驚かせて来る。


 ねぇびっくりしたかな、とあどけなく笑いかけて来たから、足音でなんとなく分かったよ、と返す。


 何気ない日々の、記憶の片隅。

 僕にとってかけがえのない時間。


「はぁ……ん、はー……——」


 もうどの疲労のせいか分からないくらい呼吸に困りながらも、お世話になった病院の仄かな明かりが見えてくる。


「——つい、た……」


 荒ぶった安堵が漏れる。

 こんなにも乱れた感情の僕が無事に辿り着けたのは、深夜という静かな時間帯に救われた所もあるだろう。


 普段が徒歩だから駐輪場の位置関係がうろ覚えだったけど、シズと病院内の冒険をしたおかげで間違いなく見つけ出せた。


 自転車を駐輪場のはしめ、スタンドを掛ける。倒れないかどうかだけ確認して、鍵を抜かずに小児科病棟へ急いで向かう。


「……ありがとう」


 そう自転車に呟く。

 それはここまで徒歩よりも早く進ませてくれたこと。シズが練習に付き合ってくれてまた乗れるようになったこと。


 僕のことを僕以上に喜んでくれる人に、こうして巡り合えたこと。


 全部の気持ちを伝えられる言葉が見当たらない。ありがとうではどうしようもないくらい足りないけど、口籠くちごもるよりは良い。


「……っ」


 かつて僕の両親を探すためにシズと潜伏した灌木の近くを駆け抜ける。


 歩けるようになってすぐのことで、途中でおぶって貰い快適だったのを憶えている。

 枝の隙間から見た拡大性能のない指望遠鏡は、今日もどこかで起動しているはずだ。


「シズ……——」


 傷だらけだった両膝は、僕の行きたい場所に付き添ってくれている。


 思えば。この病院で事故後の治療を行なったからこそ両親の優しさを知れて、なによりシズと出逢うきっかけにもなった。


 代償としてはあまりにも凄惨な出来事だけど、それらを知らない人生は考えたくない。


「——……おね、がい……開いて、て」


 小児科病棟の入り口に着く。

 自動ドアが作動してくれることを祈りながら前に立ち、数秒の静寂。


「開い、てない……」


 体力は摩耗して、視界が眩む。

 滅茶苦茶な脈拍が身体を震わす。

 シズに夢中で忘れていた疲弊が一気に押し寄せて来て、流石に耐えられそうにない。

 もう、本当に両膝から崩れ落ちそうに——


「——あっいた、笹伸ーっ!」

「……田宮さん?」


 僕の進行経路とは逆側。

 いつも徒歩でこの病院を訪れる方角から一目散に来る看護師姿の田宮さんが、段々とはっきりとして、大きくもなって見える。


「やっ……と、見つけた……——」


 やがて僕の隣にまで駆け寄ると、脇腹を抑えながら辿々しくも、要点を教えてくれる。


「——笹伸。ここじゃ……なくて、別口から入れるから、付いて来て」

「……」

「……看護師長が電話で伝えてたの、聴いてなかったでしょ?」

「……はい——」


 多分僕が看護師長の佐藤さんの通話を切断しないまま家を出た後に伝えたんだと思う。


 ちゃんと聴いていたかどうか定かではなかったから、念のため田宮さんが入り口周辺で待機していて、頃合いから徒歩経路の方へと一時的に確認しに行っていたようだ。


 それは僕のことをよく知っているからこその行動原理で、また迷惑を掛けてしまった。


「——……すみません」


 田宮さんが僕に、安心感を与えてくれる微笑みと一緒に首を振る。


「ううん、謝ってる場合じゃないし必要もない。そんなことより笹伸、こっちだよ」

「はい」


 田宮さんの先導に付いて走る。

 別口の存在は認知してはいたけど、最近は施錠されていることが多くて、勝手に開かれていないものだと考えてしまっていた。


 そこから小児科病棟に進入ことが出来て、憩いの場を抜けた先の階段を駆け上がり、シズの病室を求める。


「あの……シズは——」

「——覚悟は……出来てるよね、笹伸は」

「……はい。田宮さんに反論したときから、理解だけはしてるつもりです」


 きっと言葉だけの覚悟と変わらない。

 いざそのときになって、普段通りに振る舞える自信がなくて、耐えられそうにもない。


 けれどシズと、どこまでも一緒に連れ添うと決めたことをそう呼称するのなら、受け止めたいと思う。


「……シズは今、昏睡状態になってる。あと数時間かもしれないし……私たちがこうしている間にも……——」

「——どちらにせよ、ながくはないんですね」


 前方を行く田宮さんが頷いた気がする。

 正直。最近のシズの容態から、いつそうなってもおかしくはなかった。


 身体は肌と骨が同化したように衰弱して、喋る抑揚が無くなって、こんなにベッドで寝ている姿を見たのが初めてで、一緒にいる時間が恋しく思うようになる。


 僕は全て分かった上で、拒み続けていた。


「もう身動きも出来ないだろうし、話せない。でも人は……最後まで聴覚が機能するとされてるから——」

「——……はい」


 何を話せばいいんだろう。大体いつもシズの方から話し掛けてくれた。僕はそれを心待ちに、今日はどんなことをするのか楽しみにしているだけで良かった。


「……笹伸。シズは名前の通り静かに、眠るように生き続けてる」

「眠る……——」

「——おやすみって、言ってたから」

「……そうですか」


 シズの居る病室への最後の踊り場に差し掛かる。そんな最中、必要な情報だと田宮さんは、当時の状況を話してくれている。


「発作や副反応で苦しむこともなく、突然倒れて意識を失った訳でもない……良かった、なんて言うのは間違ってるしドライかもしれない。でも、小さな頃からお腹を抑えてへたり込んで、しんどくなる薬と説明した上で飲ませて、理不尽にずっと耐え忍んできた。その最後がこんなにも安らかなのは、看護師としては……良かったって、思わないといけない」


 シズはいつも僕に対して痩せ我慢をする。

 だから発作で苦しんでいたことも、子どもの頃からの持病も、おくびにも出さない。


 そういった気配を時節感じてはいたけど、変わらず会話や行動を継続してしまうから、少し休もうと告げる暇すら与えなかった。


 シズは些細な体調不良なら、長年の経験からかコントロール出来る子だ。

 でも当然、限度というものがある。


 僕だって側に居た。完全に無知じゃない。

 特に面会謝絶という手段を使う日は、検査と重なっていることもあるけど、他は体調を誤魔化せない日だと知っていた。


 けれど一度も指摘出来なかった。しなかったと表現する方が正しいかもしれない。


 シズの持ち前の強がりを、僕がにじりたくはなかった。


 病室のある階層を上り切る。

 何度もこの道を通ったけど、今日も胸が高鳴っている。だから少し、可笑しな感想を喋ってしまったのかもしれない。


「……シズの寝顔は、いつも幸せそうで好きです」


 恥ずかしげもなくそう言うと、田宮さんは立ち止まると即座に振り返って、何故か驚いたように僕を見据えている。


 するとすぐに、慈愛の込められた母性的な笑みを見せ、一度だけ頷いた。


「私も、そう思う。楽しそうだねって訊きたくなるくらい、可愛い」

「……はい」


 僕と田宮さんは口元が綻んだまま、再び歩き始める。


 いつもと異なる、微々たる白光を頼りに廊下を伝いシズの病室前にまで辿り着くと、僕はそれ以上物理的に進めなくなり固まる。


「こんなに……」


 田宮さんから感嘆が漏れる。

 その理由は、深夜という時間帯にも関わらず、シズと触れ合って来たこの病院の患者さんたちが大人子ども問わず集まっていて、勇姿を見届けるように囲っていた。


「……」


 なのに、皆一様に沈黙している。

 全員が眺めているのは、三人の触れ合い。


 眠るシズの額を撫でるシズのお父さんと、腹部に優しく触れるシズのお母さん。


 家族三人の、細やかなる時間。

 微熱を少しでも冷ますように。

 痛めたお腹におまじないをかけて引き受けるように。


 それはまだまだ子どものシズを、二人で穏やかにあやしている憩い。

 とても横槍を入れられる雰囲気じゃない。


「シ……」


 僕も気付いて、口を噤む。

 シズの動悸を反映した、心電図の薄緑の波が辛うじて跳ねていて、間隔がかなり空くけど呼気もしている。


 いつものどこか満足気な寝顔を眺める。

 ずっと幸せな愛娘の表情を慈しみながら、シズのお母さんが囁く。


「志津佳が産まれたときは大変だったんだよ。何時間も掛かってやっと出て来たって思ったら、もう全然泣いてくれなくて。

 助産師さんの呼び声ばかり聴こえて、息をしてないんじゃないかって不安の中で、私の意識が遠のいていくときにようやく……とっても小さな産声が、私の耳に届いて来た。

 そのときの物静かな印象と、もうちょっとだけ感情が溢れる子になって欲しい願いを込めて、志津佳って名前にしようってね。

 まあ……由来に反して賑やか過ぎる子になっちゃったのは愛嬌かな? ほんと誰に似たんだろうね……流石に聴き飽きたかな? でも何度だって言うよ。私の命を懸けて、産まれて来てくれた志津佳の話だもん……大好きよ志津佳。これからもずっと、お父さんとお母さんの子だからね……」


 とっておきの思い出と、とびきりの愛情。

 所々シズと同じような口調で語られる全てが、母と娘のかけがえのない絆。それは勿論、形は異なるけど父親の方にだってある。


「……あまり一緒に居てあげられなくてごめん、志津佳。お腹を痛めたときも、気付いてやれなくてごめん。きつく叱り過ぎたかもしれないごめ……いや、謝ってばかりのつもりじゃなくて、その……こんな不甲斐ないやつにお父さんって、ひっそりと近付いて言ってくれるのが嬉しくてな……血が繋がっているから当たり前……そうじゃないと思うんだ。志津佳がお……ボクのことを、お父さんにしてくれてるんだよ。

 愛想のない朴念仁ぼくねんじんに何度も喋りかけてくれたお母さんが頑張って、確かに泣き声も身体も小さかったけど、元気に産まれて来てくれた可愛い志津佳。そんな二人と家族になる、こんな幸せなことって、二度とないからさ……大きくなったね、志津佳」


 その成長を褒めるように撫でて、これ以上の眠りの邪魔はしないと、名残惜しむ笑みと一緒に離れて見守る。


 とてもへりくだった愛情表現。けれどそれは、どこかシズの伸び伸びとした返事を心待ちにしているからこそだと感じる。


 遍く視線が注がれている。みんなはどんなシズと逢ってるんだろうか。


 手を焼くほどのじゃじゃ馬娘だった明朗なシズ、少しお姉さんになった大人気ないシズ。僕も知らない口約束だって、きっとあると思う。


 その人にとってシズとの特別な瞬間が今、けたたましくも映されている。


 むぜびを抑制するように、両瞳から悲しみの雫が流れ落ちないように。


 どんな困難にも、患難かんなんにも堪えて、誰にも苦しみの涙を見せようとしないシズとちゃんと向き合うために、返って戯けたシズに大丈夫と拭って貰わないように、みんなが忍ぶ。


 静かな暖かさが、割れんばかり溢れる。

 無音のサイレンが、またたく間に僕らを包む。


「……笹伸、くん」

「……はい」


 シズのために集まった人達の方へと突然、その最奥から気配を感じ取ったと、病室のスライドドアへと視線を移したシズのお父さんが僕を発見して、目を丸くしながら思い掛けず名前を呼んできた。ちゃんと応える。


 シズはどうしようもなく母親似の子だ。

 けれどその視野と突飛な表情は父親譲りで、二人も紛れもない父娘なんだと分かる。


「……そこに、いるの——」


 続いてシズのお母さんの声がする。

 すぐに頷いたけど、視認して貰えたかどうかは定かじゃない。


 すると座椅子がられる摩擦音が慌ただしく鳴る。僕と田宮さんが佇むドア前まで歩み寄ると、一例と共に優しく微笑んだ。


「——間に合って良かった。おいで、笹伸くん。志津佳がそわそわして待ってる」

「……っ」


 まるでシズの家の玄関口でのやり取りのような呼び掛けに、僕は硬直してしまう。


 気持ちだけはもう既に駆け寄っている。

 けれどそれは、ここに居る全員もそうだ。


 何を伝えたら良いのか、相変わらず分からないままに立ち尽くす。

 僕がおずおずと顔を覗かせると、否応なく迎え入れてくれるシズが今日は眠っている。


 みんなの視線が暗夜の中で委ねられる。

 こんなときにどうしたら良いのか、未だ答えが出ない。


「……笹伸。今日もシズに、逢いに来てくれたね——」

「……」


 茫然とする僕の隣から、看護師としての口調そのままの田宮さんが背中を押す。


「——笹伸が近くに居ないとシズ……寂しいんだって……すぐに、行って来てあげて?

 ……シズ、きっと喜ぶからね」

「田宮さん……——」


 僕を促すように柔らかく背中を叩く。

 子どものことを愛し、第一に考え、シズと引き合わせてくれた田宮さんが、看護師として、きっかけを作った人として、僕とシズの関係の保証人として、見届けてくれた一人の大人として、今日もにこやかに言ってくれる。


 未熟な子を安心させる顔色。

 ここに入院した頃から変わらない、一番信頼を置ける看護師さんの言葉だ。


「——……はい、行ってきます」

「うん」


 震える脚膝は治ってくれないけど、決心は着いた。どこまでもシズに連れ添うと誓ったのは、他でもない僕だ。


 シズのお母さんの後に続く。みんなからの無言のエールがひしひしと伝わる。


「……寒くは、なかったかい?」

「あ……大丈夫です」


 シズのお父さんに身を案じられる。多分だけど動揺する僕のことを気遣って、何気ない挨拶から入ろうとしたんだと思う。


 ベッドの対面には担当医師さんと看護師長の佐藤さんが居て、頭を下げていた。そうしてすぐに佐藤さんがシズが眠るベッドから離れ、担当医師さんが重い口を開く。


「楠木さん、本当にいいですね?」

「……はい。志津佳にとっても、ボクたちにとっても、大切な子が来てくれましたから」


 シズのお父さんが、僕とシズを交互に見合いながら答えている。何かは不明だけど、取り決めがあったようだ。


「あの……先生、佐藤さんから何やら私に用事があると伺ったのですが——」


 すると先程立ち去った佐藤さんと入れ替わるようにして、田宮さんが担当医師さんの隣へと向かい、意見を求めていた。


「——志津佳さんの呼吸器を外します。手伝って下さい」

「えっ……いやそれは——」


 僕も田宮さんと一緒で異を唱えたくなる。

 だってそれは、シズの延命措置を無くすことと同義だからだ。

 けれど担当医師さんは反論を遮るように首を振り、理由を述べていく。


「——ご両親からの願い出です。元々これは延命のためではなく、志津佳さんが呼吸をし易くするためのものだからと。笹伸くんが志津佳さんの元へ来るまで。そして、病院で志津佳さんの面倒を見てくれた田宮さんに、出来れば最後を頼みたいと……後々なにが起きても、主治医の私が全責任を取ります」

「……」


 田宮さんが言葉を失いながら、シズの両親が居る方へと一瞥する。真意をちゃんと確かめるためにそうしたみたいだ。


「……はい」


 シズのお父さんが頷き、シズのお母さんが深々と頭を下げる。


 シズは物心付く前から病院に通う必要がある子だ。その小さな生命に向き合い続けた長年に渡る覚悟が、この決断に繋がっている。

 田宮さんの表情が変わる。


「……先生、一つだけ訂正させて下さい」

「訂正?」


 田宮さんが自身の胸に手を当てる。


「私も責任を負います。ただの看護師と患者さんの関係かもしれないですが、私にとって大切な人の、かけがえのないシズの命です……預からせて下さい」

「……」


 担当医師さんは意向を汲み取り、一度だけ長く瞳を閉じた。総意を確認してからは迅速に、呼吸器の取り外しにかかっていく。


「……今日は、おとなしいね」


 田宮さんはシズに声掛けながら、眠りを妨げないように、てきぱきと外していく。


 シズの可愛らしい寝顔が鮮明になる。

 図らずもみんなの口元が弛緩してしまうくらい、儚いも美しいものだった。


 苦しそうに息をしている様子はない。

 本当にただ、眠っているだけみたいだ。


 昔から変わらない色白の地肌。

 笑顔が染み付いたような口角とまなじり

 子どもの頃と比較したら、丸顔が大人びて両頬が引き締まっている気がする。

 ありふれた形容かもしれないけど、やっぱりシズはいつだって可愛らしい女の子だ。


「笹伸くん……」


 シズのお父さんが僕の名前を呼ぶ。

 その一言は、シズとの後悔を一つでも減らそうと絞り出されたものだろう。


「……シズ」


 当然だけど、なにも返事はない。

 僕も後に続けるべき言葉が分からない——。


「……っ」


 ——いや違う。正確には、頭の中に今まで触れ合った沢山のシズがいて、どこから話せばいいのか分からないんだ。


「シズ……」


 なにか特別な話をしようとして散々迷うと、言葉にならないくらい佳麗なシズの姿ばかりが浮かんできて、愛称しか呼べない。


 初めて逢ったシズから最近のシズまで。

 いっぱい連れ回されて、未知の場所を二人で巡って来た。


 口下手な僕が喋らざるを得ないくらい話題を撒いて、色とりどりの新種の花が咲く。


 なんでここまで一緒に居てくれるのか疑問に思うことすら忘れて、振り回されるのが楽しくて仕方なくて、幾つ年齢を重ねても根本的なことが何一つ消失しなかった。


 恩恵と幸せな日々をシズと送る。

 もう僕の手に余すぎて、逆にどうしたらいいのか戸惑うくらいの、この入り組んだ温かい感情はなんだろうか。

 教えて欲しいよ、シズ。


「シズ……えっ……——」


 僕は何も考えず、そう呟いた。

 いや、そう呟かざるを得なかった。

 シズの両親、田宮さん、担当医師さん、集まってくれたみんなが目を疑った出来事。


 それはもう言葉も発せず、身動きすら叶わないとされたシズの微動。


「——シズっ」


 繊細なシズの左手は、反射的に挙がる。

 どうしたらいいか分からなくて迷う僕のことを、まるで導くように手探っている。


「……」


 そのシズの左手を、僕は両手で捕まえる。

 思い返せば。最初に鮮烈な印象を残したのも、ベッドの上で仰向けの僕の視界に映った、田宮さんの呼び掛けに左手を挙げながら

 元気に返事をするシズだった。


 それからというもの。僕を連れ回すときは大抵、左手で掴んできた。


 シズの利き手自体は右利きだけど、咄嗟に伸びるのはどうやら左手らしい。


 理屈で言えば、利き手は箸や鉛筆を握ったりするから、余った逆手が人を招く手段という感じだろうか。


 つまびらかな骨格に冷んやりとした感触。

 僅かながらに柔肌で、よく観察すると指先の爪も丸みを帯びている。


「……ふふっ——」


 冷たいはずなのに、どうしてか温かい。

 なんだかそのシズの名前と性格みたいな現象が可笑しくて、さっきまで気の利いた一人語りをしようだとか、ちゃんとした別れの台詞を言おうだとか、もうどうでも良くなって、僕は未だシズに驚かされていると知る。


「——ねえ、シズ」


 シズへの僕の感情は、本当に複雑だ。

 積年の日々のせいか、無数の経験のせいか、ただ単純に思春期であり成長期だったからかもしれない。


 僕の顔を覗くシズ。

 お弁当を一緒に食べるシズ。

 真剣にゲームをするシズ。

 ドラマの話をするシズ。

 勉強が難しいと頭を抱えるシズ。

 色んな髪型を試すシズ。

 制服姿のシズ。

 私服姿のシズ。

 病院服のシズ。

 しおらしいシズ。

 気持ちを汲み取ろうとするシズ。

 成長を喜ぶシズ。

 同級生に気を使うシズ。

 勢いよく宣言するシズ。

 仲間と遊ぶシズ。

 友達と遊ぶシズ。

 旅行に浮かれるシズ。

 目移りばかりするシズ。

 煌びやかな瞳孔のシズ。

 告白を受け入れてくれたシズ。

 共に闘ってくれたシズ。


 幸せにすると言ったシズ。

 大好きと言ってくれたシズ。

 またねと言うシズ。

 数え切れない人に愛されたシズ。

 叶え切れないくらいの約束をしたシズ。


 僕からシズへの様々な気持ち。

 ただ、これでもまだ極々一部だ。


「シズはもう知ってるかもだけど——」


 九歳のシズが右へ左へ揺れながら話していて、九歳の僕が頷いて聴いている。


「——子どもの頃から、思ってたことが、ずっと……言えてなかったんだ」


 もっと早く言うべきタイミングはあったのに、一回も伝えていなかった。それこそまた歩けるようになって、僕以上に喜んでくれたシズに言ったって良かった。


 そのせいで結局、シズに先越されてしまったけど言わせて欲しい。


 子どもの頃から隠していた、僕のあどけなくも素直なシズへの想い。


「僕もシズのこと……大好き」


 僕自身でもびっくりするくらい、あどけない口調。話し方だけは大人らしいと言われいたのに、こんな純粋な気持ちを伝えられるのは、きっと愛らしいシズのせいだ。


 僕はシズと居ると年相応になって、ちょっとだけ、はしゃげるようになる。


 一緒に山積みの約束を叶えよう。

 きっと時間が幾つあっても足りないから。

 少なくとも天井を見続けるよりは退屈させないよ。ねえシズ、どこから行こうか。


「……」


 僕のつたない手が、シズに握り返される。

 離れてくれそうにないくらい、力強く。


 深夜の閑静な総合病院の小児科病棟。その一室。名前に似合わず溌剌はつらつな少女の呼吸と心拍が安心したように止まってしまう。


 僕とシズは、これからも一緒に連れ添うと誓うように手を握り、互いを温め合う。

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