#4 指切り

4-1 遠い記憶

 ——指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。


 小指と小指を絡めて、そんな歌を口ずさんだ。


「私、来週もここで待ってるから」

「分かった、また来るよ」


 週に一度、おばあちゃんのお見舞いで訪れる病院。

 その中庭で会う、僕と同い年の女の子。いつも可愛らしい花柄のパジャマを着て、器用に車椅子を操っている。この病院に長いこと入院しているらしい。

 僕との約束は数少ない楽しみなのだと、その子が教えてくれた。


 僕がうんと小さいころに建て替えられたらしい大きな大きな総合病院は、どこもかしこもピカピカに見えた。

 だけどそれと重なるように、建物のあちこちで黒っぽいモヤを目にすることも多かった。

 同時にものすごくゾッとしたり、理由もなく苦しくなったり哀しくなったりした。

 だから病院は苦手だった。学校の次くらいに。


「病院は命が消える場所だもんね。君はきっと、人の痛みを自分のことみたいに感じちゃうのね」


 いつだったか、あの子は大人びた口調でそんなことを言った。

 ちょっと変わった子だった。に興味があるらしくて、そういう本を読んでいるのを見たこともあった。


「でも、どうして学校の方が嫌いなの? 病院にいる時より苦しくないんでしょ?」

「僕、頭おかしいんだ。みんなとおんなじようにできんから」


 僕の見る景色は他のみんなと違うのだということが、最近ようやく分かってきた。この十年、知らずに僕だけ仲間外れの世界を生きていたらしい。

 お母さんにもよく怒られる。嘘ばっかり吐くんじゃない、いちいち大袈裟に騒いで鬱陶しい、と。

 正直なところ、学校へ行っていないこの子が羨ましかった。


「おかしいとは思わないけどなぁ。私は君とお喋りできて嬉しいよ。だから、また遊びに来てね」


 そんなふうに言ってもらえたのは初めてで、友達と約束を交わしたのも初めてで、僕はすっかり嬉しくなってしまった。


 そう、友達。

 あの子は、初めて僕にできた友達だった。



 ここに入院しているのは、父方のおばあちゃんだ。

 だけど洗濯など身の回りの世話は、仕事で忙しいお父さんに代わってお母さんが全部やっていた。

 僕と妹も、週に一度はお母さんに連れられて病院を訪れていた。

 お母さんとおばあちゃんは、あんまり仲が良くなかったと思う。おばあちゃんが僕や妹を甘やかすと、お母さんの機嫌は悪くなった。

 おばあちゃんの病室内の空気はトゲトゲしていて、苦しくて痛くて気持ち悪い。だから僕は部屋を抜け出し、広い病院の中を探検したりして時間を潰していた。


 そんな時、中庭であの子に出会った。



 週に一度、三十分間。

 それが、僕たちが一緒に過ごせる時間だった。


 花壇の横にあるベンチに僕が座る。あの子はその隣にぴったり車椅子をつける。そうしていつも肩を並べて、おしゃべりをした。


「こんにちは。いい天気ね」

「こんにちは。ちょっと寒いけどね」

だと、お天気関係なく移動できるから便ね」

「外が見えんで、つまらんよ」

「でも、私も一回乗ってみたいなぁ」


 この病院は地下鉄の駅から直結。僕には乗り飽きた地下鉄も、あの子にとっては珍しいものみたいだった。


 あの子はいつも僕に尋ねる。


「今日の気分はどう?」

「ちょっとだけぞくぞくする。そんなに怖い感じはしんけど」

「あぁ、今日は三人亡くなったみたいだからね」

「そうなの?」

「うん」


 なぜ分かるのだろうと思わなくはなかった。だけど、本当かどうかを訊くこともしなかった。

 だって、それが嘘でも良かったから。

 僕の感じている気持ち悪さを馬鹿にせず、理由を見つけてくれたから。


 中庭には立派な石碑が立っていた。眺めていると、心が落ち着いた。居心地のいい場所だった。


「あの石碑って、神さまみたいなものなのかな? 見とると気持ちが楽になるよ」

「ほんと? 私もそう思ってたの。たくさん人が死ぬ場所だから、天国へ行く人が寂しくないように、ここにあるのかもね」


 僕はびっくりした。

 自分と同じように感じる人が他にもいるなんて。こんな奇跡みたいなことがあるなんて。


「今週の学校はどうだった?」


 学校のことを訊かれると、少し気分が重くなった。

 教室には友達なんていないから、僕は図書室で借りた本の話をした。


「六年生の男の子が三人出てくる物語を読んだよ。近所のおじいさんのことをこっそり覗いて、人間が死ぬ瞬間を観察しようとする話」

「えー、ひどいね、何それ」

「でも結局、見つかって怒られるんだよ。その後、三人はおじいさんの手伝いとかで、家に出入りするようになる」


 覚えている限りのストーリーを語ってみせた。

 三人の少年と独りぼっちのおじいさんの、温かな交流。そうして四人が親しい友達になったころ、おじいさんは寿命が来て死んでしまうのだ。


「……そっか、仲良くなってから別れるのは哀しいね」


 言われて、僕はハッとした。

 病気で長く入院している友達に、人の死ぬ話をするなんて。


「ご、ごめん」

「え? 何が?」


 本当に何でもないように返されて、僕は答えに詰まった。

 しばらくどちらも黙り込む。ずっと友達のいなかった僕は、こういう時どうしていいのか分からない。変なことを言わないようにと気を付けていたのに、何か間違えてしまったのだ。


 そんな時。


「……私ね、今度手術するんだ」


 突然言われて、僕は驚いた。


「えっ、いつ?」

明々後日しあさって


 もうすぐだ。


「だから、来週はここに来られないかもしれない」

「そう、なんだ……」

「でもね、手術してから十日くらいで動けるようになるって先生に言われたの。再来週、また会える?」


 僕は力いっぱい頷いた。


「もちろん! 絶対来るよ。早く元気になるといいね」

「ありがとう、頑張る。じゃあ、約束ね」


 差し出された小指に、自分の小指を絡めた。

 二人で声を揃えて、節をつけて歌った。


「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。指切った!」


 触れ合った指先が、くすぐったかった。



 そうして笑顔で交わした約束を、僕は破ることになる。

 僕のおばあちゃんが退院してしまったからだ。

 家で面倒を見るのか施設に入れるのかと、大人たちがバタバタしているうちに、気付けば二週間が過ぎ去っていた。

 わけを話せば、あの子はきっと分かってくれる。

 だけど僕にはもう、病院を訪れる理由がなかった。

 僕はまだ十歳の子供で、お母さんが一緒じゃなければ、一人で病院まで行くことなんてできなかったのだ。


 結局、あの子とはそれきりになってしまった。

 手術は成功したのか、退院できたのか。

 それどころか、あの子が生きているかどうかすらも確かめる方法がない。


 あの物語に出てきた三人の少年は、仲良くなったおじいさんの死を見届けた。

 友達のいなかった僕は、やっと仲良くなった女の子の生き死にを知ることもかなわない。

 僕には何もできない。簡単な約束一つ守ることさえも。

 嘘を吐いたのだから、針を千本飲むべきだ。

 胸が、ちくちく刺されたように痛んでいた。


 僕はまた独りになった。


 頭の中がひどい嵐みたいだった。

 哀しい。淋しい。虚しい。そわそわする。イライラする。ムカムカする。痛い。怖い。気持ち悪い。

 理由もなく涙が出てきて、どこも悪くないのに寝込んで、時々癇癪を起こした。


 おばあちゃんは施設に入ることになったけれど、お母さんはそれまでずっと不安定だった。

 僕の言うことは一つも信じてもらえず、キンキン声で怒鳴られた。


「いちいち手ぇ煩わせんといて。ほんと、あんたなんか産んだのが間違いだったわ」


 何が原因だったか思い出せないけれど、そんなことも言われた。


 人はいつかみんな死ぬ。

 だったら、僕はどうして生きているのだろう。

 いったい何のために。

 僕には、生きることや死ぬことについて一緒に考えてくれるような友達もいない。

 お母さんの言う通り、そもそも生まれてしまったことが間違いだったのかもしれない。


 何もかもどうでも良くなって、なけなしのお小遣いを握り締め、一人で地下鉄に乗った。

 用心深く路線図を見て、東山線の中村日赤駅で降りた。

 時刻は夕方ごろだった。覚えのある通路を通って行ったら、思ったより簡単に病院へ辿り着いた。


 初めからこうすれば良かった。

 僕なんていない方がいいんだから、どこへ行こうと誰も気にしないはず。

 会いたい人は、一人だけしかいなかった。僕が約束を破ったせいで、怒っているかもしれないけれど。


 面会時間を過ぎた病院は、いつもより人が少なかった。僕は誰からも止められることなく、中庭に到着した。

 そこにあの子の姿はなかった。約束してないから当たり前だ。

 受付で病室を訊いたら、教えてくれるだろうか。僕みたいな子供でも?

 家に連絡されたらどうしよう。きっとすごく怒られる。どうしよう。

 心が揺らぐ。いろんな嫌な気持ちがぐるぐると渦を巻く。

 頭が痛い。目が回る。今にも吐きそうだ。


 その時。


 ——指切りげんまん、嘘吐いたら針千本、飲ーます。


 あの子だ、と思った。

 後ろを振り返った、その瞬間。


 ——指切った!


 突然ものすごく強い光に襲われて、僕は咄嗟に目を瞑った。

 それから恐る恐る薄目を開けて、息を呑んだ。


 なぜなら、景色が真っ赤に染まっていたから。

 見慣れた中庭には違いないのに、物の形はそのままに、何もかもが赤い色をしていた。


 あぁ、これは『』だ。

 が、きっとどこかにいる。


 それから僕は、しばらく赤い世界にいたのだと思う。

 思う、というのは、よく覚えていないからだ。


 意識がはっきりしたのは、あの声を聴いてから。



 誰もいない場所に、いきなり人が現れた。スーツを着た、背の高い男の人だ。

 その人は屈んで僕と目線を合わせると、にぃっと笑って、心地よく響く声で言った。


「やぁ、こんにちは。服部 はじめくんだね?」

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