#3 あめふり
3-1 空想癖
——あめあめ ふれふれ 母さんが、蛇の目でお迎え うれしいな。
物心ついたころから、頭の中は歌でいっぱいだった。
授業中でも、ごはんを食べている時でも、誰かと喋りながらでも。
今もあたしは窓際の席で、雨の降る校庭を眺めながら、声を出さずに歌っていた。
——ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。
一月の終わり。雪にはならない、冷たい冷たいただの雨。
それでも、歌に合わせて軽やかな音が鳴っているような気がしてくる。
こんな時、YourTubeで話題の曲なんかが思い浮かべばいいのかもしれない。
でも生憎、真っ先に降りてきたのがなぜか子供のころにテレビで繰り返し聴いたこの童謡だったから。
脳内では『あめふり』をBGMに、誰かと誰かが会話をしている。
『今から校庭の水溜まり全部踏んでくゲームね』
『屋根の上を渡る忍者と競走させよっか』
目に映る景色の中で、誰かと誰かが駆け回る。
世界はいつだってがちゃがちゃ騒がしい。
——かけましょ かばんを、母さんの 後から
——ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。
教室の空気はとろとろして暖かい。黒板には、訳の分からない年号や歴史上の事件の名前がずらずら並んでいる。
教壇に立つ織田じいの声を子守唄に、居眠りしている子もいるくらいだ。
ふと、誰かの囁き声が聴こえた。
『ねぇお嬢さん、お歌がとっても上手なのね。口に出して歌ってみて。ほんの小さな声なら、誰にも気付かれないはずよ』
頭の芯がぼうっとしている。妄想の声だとしても、面白そうな考えに思えた。好奇心がむくむく湧いてくる。
そうだ、ゲームをしよう。みんなにバレなければ、あたしの勝ち。
いくらかタイミングを待つ。
そしてあたしは、織田じいの喋るのに紛らせて、ほとんど口の中だけで歌った。
「あらあら あの子はずぶ濡れだ 柳の根方で 泣いている。ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」
それとなく教室を窺ってみても、気付かれた様子はない。
心の中でガッツポーズして、何の気なしにもう一度、校庭の方へと目をやった。
ふと、違和感を覚える。ノイズみたいに雨の降りしきる視界の中で、何かが引っかかった。
それは直感みたいなもの。背筋がぞわっとしたから。またいつものあれかもしれないと、ちょっとげんなりしたその時。
視えてしまった。
体育館の手前にある木の下に、何か丸いものが落ちている。
それがごろりと転がって、目が合った。
「うわっ!」
あたしは反射的に立ち上がった。がたん!と椅子が派手に音を立てる。
教室じゅうのクラスメイトが、一人残らず一斉にあたしを見た。
「どうした、
「えっ? あ、す、すいません、何でもないです……」
織田じいに問われて、あたしは慌てて誤魔化して、元通り席に着く。
「エスカレーター式で高等部に上がれるからって、寝惚けながら授業受けとったらかんぞ」
織田じいがどことなく茶化したふうに言うと、あちこちからくすくす意地の悪い笑い声が上がる。
中高一貫のお嬢さま学校。そんな評判、名前ばっかりだ。
「芽衣、大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫……」
心配そうに声をかけてくれたのは、隣の席の
小柄で童顔、くりっとした目のしっかり者。落ちこぼれのあたしにも優しく接してくれる、数少ない友達。
何事もなかったかのように授業が再開される中、どうにかセーラー服の群れに紛れたあたしは、人知れずドキドキしていた。
恐る恐るさっきのところに視線を向けて、ホッと胸を撫で下ろす。
体育館前の木の下には、もう何もなかった。
だけど、あの感じ。見間違いなんかじゃなかったはず。
木の根元に転がっていたもの。
あたしと、目が合ったもの。
あれは確かに、人間の生首だった。
あたしは昔からぼんやりした子供だった。成績もそんなに良くない。この名門私立中学に入れたのだって、奇跡みたいなものだ。
お母さんからは今もしょっちゅう「みっともないことしとらんで、ちゃんとして」なんて注意されている。
時々、変なものを視ることもあった。
そういうのは「みっともないこと」に当たるみたいで、「ちゃんとしてない」と叱られるから、何も視ていないふりを覚えた。
だけど。
——かあさん、僕のを 貸しましょか、君きみ この傘 さしたまえ。
——ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。
あの日以来、『あめふり』の歌が頭から離れない。
あたしを見つめる生首のことも、ずっと脳裏に焼き付いている。
ずっと、誰かに見られているような気がする。
「毛受さん」
先生に呼ばれ、慌てて前を向いた瞬間、それは視界に飛び込んできた。
「うわぁぁぁ!」
黒板からにょきりと顔を出した生首。女の子のものだったと思う。
あたしはすっかりパニックになって、その後のことはあんまり覚えていない。
お母さんが学校に呼び出された。最近のあたしの様子がおかしいからだ。
「本当に情けないわ」
担任から話を聞いた後、お母さんがぼやいた。あたしもそう思う。
だんだんと夜も眠れなくなってしまった。あたしはお母さんに連れられて、初めて行くクリニックを受診した。
お医者さんやお母さんの前で、おかしな生首の話なんかできるはずもない。
結局、あたしの代わりにお母さんが症状を説明した。ほぼ、不眠についてのことだけを。
「思春期にはよくあることだ」と先生に言われて、お母さんは安心したようだった。
「医者に行ったこと、学校の友達には内緒にしとかなかんよ。普通じゃないことだで、恥ずかしいでね」
お母さんの言う通りだ。教室じゃ、誰にどんなことを言われるのか分かったものじゃない。
あたし、大丈夫なのかな。
意味もなくそわそわして、形のない不安ばかりが胸にある。
せめて変な化け物が視えなければいいのに。
『ねぇお嬢さん、神社にお参りしましょうよ』
困った時の神頼み。それはいい考えだ。
学校の最寄りである地下鉄
鳥居の横の石柱には『石神神社』の文字。そんな名前だったんだ。
境内はごちゃごちゃした感じだった。
いくつか小さい鳥居や灯籠なんかがあって、何ヶ所かあちこちに小ぶりなお
一つの神社の中で、いろんなものを祀っているらしい。
あたしはそのうち、『白龍社』という
お賽銭箱に十円玉を入れてから、手を合わせる。
こういう時のお作法も、忘れちゃった。
お祈りしたって無駄かもしれない。でも。
神さま。神さま。
助けて。
その時。
『ねぇお嬢さん、…………!』
誰かの声を、聴いた気がした。
気付けばあたしは神社の外に立っていた。
あれ?
あたし、どうしたんだっけ。思い出せない。
なぜだか記憶がすっぽり抜け落ちていた。
「毛受さん、何か悩みがあるんじゃない?」
あまりにしんどくて保健室で休んでいたら、養護の先生にそう訊かれた。
お母さんと同じくらいの年頃の、優しそうな女の先生だ。
歌のこと。生首のこと。記憶のこと。
どれもこれも情けない、みっともない、言えないことばかり。
「ううん、大丈夫です」
「そう、それならいいんだけど……」
言わずにいれば、『普通』の中にいられる。
「ねぇ、芽衣。このごろ顔色悪くない? 大丈夫?」
ある休み時間、そう声をかけてきたのは遥南だった。
「食欲もないことない? 気分悪いなら一緒に保健室行こっか?」
「う、ううん、大丈夫……」
保健室に行ったら、また養護の先生に何か訊かれるかもしれない。
それにもし、サボったことがお母さんに知れたら、間違いなく怒られる。
遥南みたいな優等生には、出来損ないのあたしの気持ちなんて分からないだろう。
「もしかして、何か悩んどる? 最近ほんと元気ないよ」
お願いだから、もうあたしに構わないで。
優しくされればされるほど、どうしようもなく惨めになる。
「私で良ければ、話聞くよ」
「いや、大丈夫だから」
「でも」
もう、しつこいな。
「遥南——」
いい加減にして、と口をついて出る直前。
——僕なら いいんだ、母さんの 大きな 蛇の目に 入ってく。
——ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。
息が止まる。
なぜなら、視えてしまったから。
「芽衣? どうしたの?」
心配そうな遥南の肩の、向こう側から。
土気色の顔をした女の子の生首が、こちらを覗き込んでいる。
にたり、と。
その口元が、笑みの形に歪んだ。
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