3-2 妹
名古屋駅から名鉄あるいはJRで二駅。もしくは地下鉄東山線に乗り、栄で名城線左回りに乗り換えてから四駅。
金山総合駅の程近く、とある雑居ビルの二階に、小さな事務所がある。
看板は出しておらず、玄関扉の表側にレトロな風合いの小さな表札がかかっているだけ。
そこには、こんな飾り文字が並んでいる。
『樹神探偵事務所』
樹の神と書いて『こだま』と読む。
密室殺人なんかとは縁がないけれど、この探偵事務所にはちょっと変わった依頼が持ち込まれる。
僕の名前は服部
ここで
さて、今回ご紹介するのは、ある少女の視界に現れ始めた謎の生首の怪。
人は聴きたい音を聴き、見たいものを見ることができると言うけれど……?
◇
その日は、先生から急な呼び出しがあった。
『とにかく早く来てくれ』
切羽詰まった感のあるLIMEメッセージに首を傾げつつ、僕は学校が終わってまっすぐ事務所へ向かった。
扉を開けると即座に、いつもの伊達男スタイルの先生が出迎えてくれる。
「やぁ服部少年、よく来てくれたね。今日ほど君が来るのが待ち遠しかったことはないよ」
「な、何かあったんです?」
やけに
入ってすぐのところに配置されている応接セット。
コーヒーカップと菓子の並ぶ洒落たローテーブルの向こう、革張りの渋いソファに、セーラー服姿の女の子が二人座っている。
特徴的な三本線の襟に、水色のスカーフ。市内にある中高一貫の名門女子校のものだ。
学生のお客さんは珍しい。
だけど、問題はそこじゃない。
二人のうちの片方が、顔を上げて言った。
「あっ……お兄ちゃん、久しぶり」
「はっ……
小柄でショートボブ、丸っこい目と意思の強そうな眉。
今は離れて暮らす僕の実妹、服部 遥南だった。
「えっ、ちょっ……な、なんで? ここに来とること、お母さんとかは?」
「言っとらんよ。学校で補習があるってことにしてある」
つまりバレたらまずいということだろう。
遥南が両親と暮らしている家を、僕は三年前に出た。以来、叔父の家で世話になっている。大人たちの間で、そういう取り決めになったのだ。
「一時間ほど前からお待ちいただいてるんだよ」
少し困ったように言う先生は、僕の家の事情を把握している。
二人を追い返すわけにも、親に連絡を入れるわけにもいかない。きっと僕を待つより他にどうしようもなかったのだ。
「す、すみません……」
「いや、服部少年からあの漫画を借りといて良かったよ。そうでなきゃ、こんな可愛らしいお嬢さんたちとどんな話をしたらいいか分からないからね」
先生がにぃっと片頬を上げて笑った。
確かに、三十路の男と女子中学生では、共通の話題を探すのも難しいだろうけれど。いろいろと申し訳ない。
僕は先生と共に、二人の対面に腰を下ろした。久々に妹と正面から向かい合う。
「それで……遥南はどうしてここに?」
「あのね、この子。私の友達の、
遥南の隣に座った女の子が、ぺこりと頭を下げた。拍子に、二つ結びにした長い髪が揺れる。
瞳の大きい、おっとりした雰囲気の可愛らしい子だ。ただし、何となく顔色が悪い。
「悩みって……あのさ、遥南はここがどういうところなのか知らんかもしれんけど……」
「もちろん、知っとって来たんだよ。怪奇現象とかを調べてくれる探偵事務所でしょ?」
相変わらずの、ずばずばした物言い。こうも堂々とされると、誤魔化す手も思い付かない。
先生がやや身を屈め、目線の高さを女子中学生たちに合わせた。
「お嬢さん方。ここは調査契約という形で依頼を請け負う探偵事務所だよ。民法上、未成年者とは契約を結ぶことができない。法定代理人、つまり保護者の方の同意が必要になる」
二人の表情が強張った。所在なげに俯く芽衣さんとは対照的に、遥南は眉根を寄せて先生を睨み付ける。
「相談だけでもできないんですか?」
「もっと身近に相談できる大人はいないのかい? お嬢さんたちだけでいきなり探偵事務所に来るのは、得策じゃない」
「そんなの……」
口籠もったかと思いきや、遥南はぎゅっと膝の上でスカートを握り、抑えた声で呟いた。
「大人なんて、
おや、と思った。遥南は、両親と上手くやっているはずではないのか。
芽衣さんが遥南の袖を引く。
「ねぇ、遥南。もういいよ、やっぱやめとこ」
「良くないよ。ここまで来たのに」
「でも……」
にわかに気まずい沈黙が訪れる。
それを破ったのは先生だった。
「まぁ、せっかく我が助手の妹さんとそのご友人が遊びに来てくれたんだ。ゆっくりしていったらいい。だが、若人の雑談がたまたま聞こえてしまうこともあるかもしれない。もちろん野暮をするつもりはないが、ご容赦いただけると嬉しいね」
あまりに
そして僕は一人、取り残される。
目の前には関係がいいとは言い難い妹と、何か思い悩んでいるらしいその友達、しかも初対面。
気を利かせたであろう先生が恨めしい。
「えぇと……それで、悩みって?」
仕方なく僕が訊ねると、二人は無言で何往復か目配せし合った後、遥南が口を開いた。
「芽衣、少し前から、変なものが視えるって」
「変なもの?」
「なんか、女の子の生首? だって」
「生っ……えぇ? 常に視えるの?」
芽衣さんが小さく首を振る。
「あの、そういうわけじゃ、ないんですけど……学校におる時、たまに窓の外や人の肩の向こうから、こ、こっちを、覗いとることがあって」
「それは、怖いだろうね」
「……はい」
「どんなタイミングで視えるの? 何かきっかけとか、あったりした?」
「えっと……」
しどろもどろでもどうにか喋っていた芽衣さんは、ついに黙り込んでしまった。視線があちこち彷徨い、眉はわずかに歪む。両手は落ち着きなくスカーフを弄っている。
「芽衣?」
遥南が声をかけても、芽衣さんは口を閉ざしたままだ。
僕は締めていた感覚の回線を少しだけ開いてみた。
たちまち流れ込んでくる感情の奔流。
恥ずかしい。みっともない。惨めで、情けない。
それは途轍もなく身に覚えのあるものだった。意識していなければ、僕自身の感情だと勘違いしてしまいそうなほどに。
こういう時はどうしたらいいのか。かつて自分がかけてもらった言葉を思い出し、僕は慎重に切り出した。
「大丈夫だよ、そのままを話してくれたら。何もおかしいことなんかない。そこに問題を解決するヒントがあるかもしれないんだ」
感情の波が揺れた。
芽衣さんの色白の頬がかぁっと赤く染まる。次の瞬間、彼女は顔を覆ってわっと泣き出した。
「えっ……?」
再び、感情の波。今度は間違いなく僕のものだ。
まずい。これはまずい。女の子を泣かせてしまった。どうしよう。助けて先生。
部屋の奥へと目をやる。先生はなぜか神妙な面持ちで、遠くからサムズアップしてきた。鬼か。
「芽衣、大丈夫だって。お兄ちゃん、話聞いてくれるって」
遥南が慰めると、芽衣さんの呼吸が少し落ち着いてくる。ぐずぐずと洟をすする彼女に、僕はポケットにあったハンカチを差し出す。
「ゆっくりでいいよ」
「すいません……」
芽衣さんは僕のハンカチで涙を拭う。その後、盛大に鼻をかんだ。
「……それ、あげるよ」
お約束か。
伝わってくる感情が凪の状態に近づいたころ、やっと会話ができるようになった。
「アレが視えるようになったのは、あたしがある歌を脳内リピートし始めてからなんです」
「ある歌って?」
「……『あめふり』、です」
「あめあめふれふれ母さんが?」
「はい……」
僕は首を捻った。さっぱり分からない。生首との因果関係もさることながら、泣き出すほどのことなのか。
「うーん、妙なものを視たり感じたりってことは、前からあった?」
「あの、はい、時々。でも、それは、あたしが普通じゃないから」
「……そうやって、誰かに言われた?」
芽衣さんが弾かれたように顔を上げる。しばし僕をじぃっと見つめた後、ほんの小さく頷いた。
「あたし、いつもぼうっとしとるから。よく、お母さんにも注意されてます。いつも何となく、頭の中で歌を歌ってるんですけど、そっちばっかに気を取られて、人の話とか聞いとらんかったりして。だから、変なものが視えるなんて言ったら……」
「気のせいだとか、ただの妄想だとか言われる?」
芽衣さんは、ぱちぱちと瞬きを二度三度。
「あ……はい。そう、です」
ようやくピンときた。突然泣き出すほどの精神不安定は、むしろ親からの抑圧に原因があるのだろう。
「これは独り言なんだが——」
唐突に先生が口を挟んでくる。明後日の方向を見たままで。
「霊感があるということは、多かれ少なかれ引き寄せやすい体質ということだ。強い感情を伴う思念、特別な意味を持つ言葉や歌なんかは、霊的なものを呼ぶ可能性がある。例え頭の中で考えただけであっても」
ということは。
「今まで視えたものも、頭の中の歌に引き寄せられとったって可能性もある?」
「さぁ……? これまでは、そんなにはっきりとは視えなかったんです。でも、今回のはめちゃくちゃリアルで」
「それにしても、なんで生首? 『あめふり』の歌と何か関係あるのかな」
先生がまた遠くから割り込んでくる。
「これは独り言の続きなんだが——」
「いや、もう、そういうのいいんで、こっち来て普通に喋ってください」
「野暮だな君は。人がせっかく気を利かせてるってのに」
「独り言に無理がありすぎて設定が台無しです」
「服部少年さ、時々俺に対して辛辣じゃない?」
「気のせいだと思いますけど」
「……やだ、最近の子怖い……」
ぶつくさ文句を言いながら、先生はまた僕の隣に腰を下ろす。そして、長い脚をゆったりと組み、こんな話を始めた。
「さて、君たち。『あめふり』の歌に都市伝説があるのを知ってるかい?」
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