2-8 選べないもの
「
「弱った状態でここに留まるのは危険だ。すぐ帰るぞ。操作は分かるな?」
「あっ、はい。これ、僕でも大丈夫なんですか?」
「ある程度の異能持ちなら問題ないはずだ」
そうなのか。
僕はいつも先生がやっているように、見様見真似で呼び出しボタンをタップする。
急に物事を知覚できるエリアが拡がったような、不思議な感覚。鋭いコール音は、いつもより長い四回目でやっと繋がった。
途端、空の天辺から茜色のフィルターが剥がれ始める。
先ほどからほとんど時間は経っていないはずだけれど、赤い世界からの落差でやけに暗く感じる。
頬を撫でていく風が汗を冷やし、僕はぶるりと身震いした。
意識を取り戻した百花さんが、口元を押さえて呻いた。
「う……気持ち悪ぅ……」
「大丈夫かい? 無理しない方がいい。その辺で少し休憩しようか」
甘く響く囁き声。
しかし百花さんは自分が先生の腕の中にいることに気付くや、一瞬にして虚無の表情になった。やんわりと先生の胸を押して身を離す。
「大丈夫。ありがとう」
「……なら良かった」
先生はパッと両手を広げ、『降参』みたいなポーズを取った。
今のは、先生の言い方が何となくいやらしい感じだったと思う。
百花さんが荒い息をついて、解いたままの髪を気怠げに掻き上げる。
「ちょっと油断したわ。まさか子供の方だったなんて」
「でも、さすがだったな。今回のは百花さんじゃなけりゃ収められんかったと思う」
「んー、どうかねぇ。何にせよ、今回のMVPは服部くんじゃない?」
「えっ?」
僕は両の手のひらを振った。
「いや、全然です。また相手の意識に引っ張られました。気を付けとるつもりでも、勢いで来られるとダメですね」
「あたしの香のせいもあったでしょ。ただでさえ敏感なのに、悪かったなぁと思って。でもおかげで、あの子の記憶が見られたんだよ。助かったわぁ」
「いえ……」
身を守れと忠告されていた。しっかり回線を締めていたはずだった。
だけど、ガードを易々と越えられてしまった。僕の精神が弱いせいだ。
「結局ね、一人の人間にできることみたい限られとんのよ。あたしだって、自分しかおらんかったら霊の浄化もできんかったわけだし」
僕は無言のまま首を振った。
百花さんは強い。あれだけピンポイントに狙い撃ちの精神干渉を受けながら、子供の霊に優しい言葉をかけ、能力を使った。
先生にしても、常に冷静で判断に迷いがない。百花さんが無理できたのも、先生がいたからだろう。
僕はきっと、二人のようにはなれない。
「あの子、無事に転生できるかしらん。今度は幸せになれるといいんだけどね」
「子供は親を選べんでな」
先生が何気ない調子で口にした一言が、ずしりと胸にのしかかる。
自分の中にあるわだかまりの存在を、否が応でも意識する。
境内の方から、がやがやと人が近づいてきた。最後の参拝客だ。
その後ろに、依頼人である緋奈子さんもいた。
「もしかして、何かされました? 急に気配が変わったんで」
「分かりますか。ここへ来ていた悪い『念』の発信元は、あちらへ還しました。もう大丈夫です」
「本当ですか! 良かった、ありがとうございます」
緋奈子さんは心からほっとした表情で、階段を降りていく家族連れの後ろ姿を見つめた。
「これで私も安心してお祈りできます。赤ちゃんが無事に生まれますようにって」
誰かの幸せをまっすぐ願う緋奈子さんの横顔は、明るく輝いていた。
宵闇の
後日。
僕は先生と共に、
年の瀬の近づく、天気のいい土曜の昼下がり。空は透き通った群青色で、知らず知らず背筋が伸びる。
「いい日和だな」
「そうですね」
今日の先生は、上から下まで真っ黒のフォーマルスタイルだ。手にした小さな花束が、やけに様になる。
対して僕は、いつも通り何の面白みもない学ラン姿。強いて言えば、授業もないのにその格好をしているという点が、特別と言えば特別かもしれない。
十分ほど遅れて、百花さんがやってくる。
やはり黒一色。驚いたことに、今日はワンピースだ。編み込んでハーフアップにした髪型が可愛らしい。
「ごめん、遅なったわ」
「いや、今来たとこだよ。洋服、珍しいな」
「真っ黒の和服で地下鉄乗ったら、さすがに目立つもん。それにこの辺、坂ばっかだで足捌きがいい方がいいかなぁって」
「確かに」
普段の和装では見ることのできない、黒いストッキングに包まれた脚がほっそりと綺麗で、僕はそれとなく目を逸らした。いつも通り独特の気配とも相まって、変にそわそわしてしまう。
「坂の上の方にする?」
「そうねぇ」
三人連れ立って、急な坂道を登っていく。
「ところで、ちょっと不思議に思っとったんだけど、どうしてここにおった霊が
「それ、あたしも思った。この場所に思い入れありそうなのにね。あたし、何回も来とったのに、いっぺんも見んかったんだよ。どこにおったんだろ」
「子供だから特にですよね。誰かに教えられでもしん限り、知らん場所になんて行きづらいのに」
先生と百花さんが同時に僕の顔を見る。
「なるほど、別の何かに、
「考えてみや、戌の日に妊婦さんがあの神社に集まることを知っとったり、歌で神域に穴を開けるとかも……」
「ふぅ……」
「あんな小さな子供が、思い付くとは考えられんな……えらい昔の霊なのに、急に動き出したのも気になる……はぁ……」
「このところ、市内のあちこちで、変な現象が起きとるみたいよ……あー……つら……」
「あ……そう言や、こないだの事件も、そうでしたね……」
先日の一件では、『駅裏通商店街』の端の神社にいた女の子の霊が、誰かから『友達』を連れてくる方法を教えられたと言っていた。
あれもずいぶん昔——戦後間もない時代の、幼い子供の亡霊だった。
「ちょっとあたし、情報を集めてみよっかな……あー、もー、脚がえっらい……」
「俺も調べてみるわ。また情報交換しよう……はぁ、きっつ……」
「も、もうすぐ頂上ですよ……ふぅ……」
三人とも程よく呼吸が乱れたころ、ようやく道が平らになる。今回の案件でひと月分くらいの坂を登ったかもしれない。
息を整えた百花さんが手荷物から香炉を取り出し、歩道の脇に据えた。
「さぁ、おまじないの続き。あたしも好きな匂いだよ」
小さな三角形をした線香の先に、マッチで火が点けられる。すぐに白い煙が立ち、爽やかな甘い匂いが辺りに漂った。
続いて、先生が花束を置く。
「どうか、安らかに」
低く響く声。そこに微かな
三人で合掌し、目を閉じる。
さわさわと木々の揺れる音がする。清廉な香りが鼻先を掠めていく。頬に当たる空気は冷たいのに、日の光は暖かい。
不意に現実感が遠ざかり、ここがどこだか分からなくなる。
その境界は、時々ひどく曖昧だ。気を抜いたら、どこへでも行けてしまいそうなほどに。
そこへ、幼い子供の声と足音が混ざる。母子連れが僕たちの後ろを通っていくようだ。
「坂道、気を付けて。手ぇ繋いどってね」
「あーい」
楽しげなやりとりは、胸の奥に小さな痛みを思い出させる。普段は意識していないだけで、きっと本当はずっとここに巣食っているのだろう。
身じろぎの気配で瞼を開ければ、両隣の二人が既に姿勢を崩していた。
「ちょっと失礼」
先生が懐から煙草を取り出し、いつものように火を点ける。
慣れない線香の匂いに、馴染んだ匂いが上塗りされて、思わず肩の力が抜けた。
青空へ立ち昇っていく二つの煙を目で追って、首を巡らせる。
そうして目に飛び込んできた景色に、僕は言葉を失った。
坂の上から眺める街並み。
近隣の大学キャンパスの木々と、こまごま詰め込まれたような家々。少し視線を上げれば、東山動植物園の鉛筆みたいなタワーも見える。
それらがみんな、明るい光に隈なく照らされていた。
「わぁ、いい見晴らし!」
「本当だ、ここまで登った甲斐はあったな」
二人が口々に言って、僕は驚いた。
同じものを見て、同じ感想を持つ。
そんな奇跡が、これほど簡単に起きるなんて。
「そろそろ行くか」
吸い殻を携帯灰皿に収めた先生が、緩く微笑んでそう言った。
百花さんが楽しげに応える。
「せっかくだし、お茶してかん? 近くにヨネダ珈琲あったよね」
「いいね。服部少年も、まだ時間いいよな?」
「あっ、はい」
胸の奥が、今度はそわそわ温かい。
急な坂道をぎこちなく下っていく。勢いが付きすぎないようにするのが大変だ。
思い切り息を吸い込めば、甘やかに込み上げるくすぐったさに喉が詰まる。
理由もなく泣きたくなるような、穏やかな土曜日の午後だった。
—#2 かごめかごめ・了—
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