2-6 実体なき対峙
休憩し終えた僕たちは、例の階段付近にいた。
時刻は午後四時すぎ。既に辺りはどんより暗い。雨こそ降らなかったものの、厚い雲は結局ひと時も晴れることはなかった。
「そろそろかなぁ。事故が起きたのも、だいたいこのくらいの時間帯なんでしょ?」
「
「朝から夕方までバラバラだったみたい。あそこはオープンな『場』だもんでね。発現の場所やタイミングが特定しやすいここに出るっていうのは、逆に好都合だわ」
その姿をぼうっと眺めていたら、長い睫毛の端から流れる視線に絡め取られた。
「服部くん、えらい敏感みたいだし、ちゃんと回線閉じとってね」
「あっ、はい」
僕が思わず背筋を伸ばすと、優美な弧を描くふっくらした唇から、ふふ、と軽い笑みが
焦燥と、緊張と。何もかも見透かされているようで、どうにも落ち着かない。
「歌が聴こえたら、あたしが扉を開く。自分の身はなるべく自分で守ってよ」
「よろしく頼む。こちらで適宜サポートする」
特に百花さんからは、何となく底の知れない陰の気を感じる。緋奈子さんと喋っていた時には、明るく無邪気な印象さえあったのに。
境内の奥からざわめきが近づいてくる。最後のご祈祷が終わったのだ。
何組かのお客が帰っていくのを、何食わぬ顔で見送る。
先生はいつの間にか、スマホを灯籠の縁の目立たないところに置いている。
どこからともなくカラスの鳴き声がした。湿気を含んだ風が、すっかり葉の落ちた木々の枝を揺らす。
前触れは、やはり分からなかった。
百花さんが素早く煙管を吸い、ひと息に煙を吐いた。
すぐに芳しい香りに包まれる。嗅いでいるだけで頭の芯が痺れるような、同時に身体の芯が疼くような、堪らなく心地の良い匂い。
知らず知らずにぼうっとして、視界にあるものの輪郭がひどく曖昧になる。
気付けば、夕暮れ色の風景の中に立っていた。階段も、灯籠も、石造りの鳥居も、何から何まで赤く染め抜かれている。
『狭間の世界』だ。
陰鬱とした曇り空から一転、むしろこちらの茜空は明るく眩しい。
途端、全身に
すかさず先生が、懐中時計型スマートウォッチを片手に叫ぶ。
「動くな」
何が何だか分からないうちに、嫌な気の流れがぴたりと止まった。
『念』の気配。近くにあると感じるのに、目視できない。
一方で百花さんは、その『念』の最も強い辺りに煙管を突き付ける。
「見ぃつけた」
きゅっと
煙はある地点に到達するや、たちまちぱぁっと拡がった。恐らく、『念』の存在する範囲いっぱいに。
「ここまで来い」
拡張された先生の
膨れ上がった白は赤い世界の中で歪み、暴れ、つむじ風を巻き起こす。まるで悲鳴でも上げるみたいに。
これは元々秘女ヶ坂にいた霊の『念』だ。『念』は謂わば電波みたいなものなので、それを発信する魂の本体を引っ張ってくる必要がある。
白い煙の塊が突然こちらへ手を伸ばしてきた。一瞬のうちに三人丸ごと吞み込まれる。
ばちばちと激しいラップ音が鳴り、鼓膜が爪弾かれた。背骨に電流を通されたかのような不快感。後頭部から肩にかけて鈍痛があり、僕は絞った喉の奥で呻いた。気持ち悪い。
そんな中、先生は平然と言い放つ。
「往生際が悪いな。離れろ」
すると煙は殴り飛ばされたように離れ、僕たちは解放された。
「捕縛」
霞んだ視界の端で、宙の低い位置に蔓延っていた『念』の渦が徐々に収束していく。
百花さんがそっと僕の背中をさすってくれる。
「大丈夫?」
「す、すいません……」
額に汗が滲む。少しでも気を抜いたら、『念』に囚われてしまいそうだ。
「応急処置だけど」
百花さんが、僕のうなじの辺りにふぅっと息を吹きかけた。温かなものが首筋を撫でていくと、急に呼吸の通りが良くなった。
「ちゃんと息しやぁよ」
「あっ……はい」
身体が軽い。すごい……
先生が横目で見てくる。
「大サービスだな、百花さん」
「サービスとは言っとらんけどね」
「マジか」
「それよりアレ」
百花さんの指さす先。
人の形を取った、僕より小柄な影。相変わらず白い煙に覆われて顔形は分からないけれど、先ほどよりもしっかりした存在感がある。先生の声によって、亡霊の本体がここまで引き寄せられたのだ。
「幸せな女性を妬む、男に捨てられた女性の亡霊。無理やり封じ込める? それとも力ずくで捩じ伏せる?」
「うわ、最低。どういう下衆かしらん。あんた、そんなんだでモテんのだに」
「ちょっと百花さん……ひどいことない?」
軽い調子で言葉を交わしつつも、先生と百花さんには全く隙がない。
亡霊は二人の異能に縛られて、身動き一つ取れずにいるようだ。
「大丈夫、あたしに任せてよ。そんな男のこと、あたしが忘れさせたげるわ」
百花さんはほっそりした指で
長い髪が
不思議な香りが辺りに拡がった。鼻に抜けて頭の奥まで滲み入るような、華やかで強い匂いだ。まるで百合の花のような。
「あ……」
無意識に、僕の喉から声が漏れていた。
急に肌が粟立ち、四肢から力が抜ける。思わず
「服部少年、気を引き締めろ。あの髪の匂いには、感覚の回線を開く効果がある。感度と攻撃力が上がる分、守備力が下がるようなもんだと思え」
「は、はい……」
さっき百花さんが「自分の身は自分で守れ」と言った理由が分かった。確かに、今までにないぐらい感覚が鋭敏になっている。
僕はようやくぐっと腹に力を込め、改めてしっかりと回線を閉ざした。
「ごめん。ちゃっと終わらすわね」
百花さんは懐から小ぶりな物入れを取り出すと、そこから粉のようなものを煙管の火皿へ落とした。
そして亡霊に歩み寄り、優しく語りかける。
「女の哀しい心を癒す香だよ。きっともう、変に惑うこともなくなる」
吸い口を紅い唇に咥え、静かに吸う。
そして口付けするように、薄桃色の煙を亡霊の中へと吹き込んだ。それは白濁したモヤと混じり合い、ほのかに色付いていく。
しかし。
「……あれ? 何の匂いもしないですね」
「百花さんは特殊な香を使う調香師だ。対象によって種類や調合を変える。相手の感覚を開いた上で、狙い撃ちするんだ」
「じゃあ僕があの香を嗅いでも、何も感じんわけですね」
「そういうこと」
見たところ、亡霊の様子にも変化はない。効いているのだろうか。
しばしの後、百花さんが小首を傾げた。
「あれぇ、何か変だねぇ……最初の炙り出しの煙も晴れてこんし。ちょっと
「あぁ」
今度は、先生が唱える。
「真名を示せ」
次の瞬間。
亡霊が言葉にならない叫び声を上げた。これまで人型を保っていた煙が、弾けるように霧散する。
輪郭を失った亡霊の『念』が激しく暴れ出す。
「あっ……」
「服部少年!」
突風が叩き付けてくる。
僕はたちまち生温い空気にすっぽりと包み込まれ、胸を圧迫するほどの息苦しさに襲われた。
入ってくる。意識が、遠ざかる。
——かーごめ、かごめ。
声が聴こえる。
研ぎ澄まされた感覚が、濃密な情動を受信する。
脳裏に次々浮かぶ情景と、移り変わる心模様。
そこで、ようやく気付いた。
今まで『念』の発信者は、秘女ヶ坂の女性の霊だとばかり思っていたけれど。
「ち、違う、これは……」
掠れた声でどうにか紡ぐ。
「女の人、じゃ、ない……」
そうして僕の視界は暗転した。
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