#2 かごめかごめ

2-1 終わりのない遊び

 ——かーごめ、かごめ。


「え?」


 誰かの歌声が聴こえた気がして、私は掃除の手を止めた。

 零和三年十一月十日、水曜日の朝八時。

 青い空は抜けるように高い。境内は人気ひとけもなくひっそりしている。

 まだ参拝客がやって来るには早い時間帯だ。私以外のスタッフは、社務所で御守や御札の管理をしているはず。

 つまり、辺りには私の他に誰もいない。


 冷たい風がびゅうっと吹いた。

 少し遅れて、木々ががさがさと音を立てる。色付いた紅葉もみじがぱぁっと舞い散り、さっき掃いたばかりの地面を彩った。


 あれっきり誰の声もしない。どうも気のせいだったみたい。


 それにしても冷え込む。

 巫女装束の下に保温肌着を重ね着しているけど、身体の芯まで凍えてしまいそう。

 竹箒を持つ指先もかじかんでいる。はぁっと白い息を吐きかけると、多少はマシになった。


 今日は戌の日。名古屋市内で安産祈願と言ったら、ここ八竈やがま神社だ。

 犬(戌)は一度に多くの子を産み、またお産の軽いことから『安産の守り神』と言われる。それにあやかり、赤ちゃんのできた女性が妊娠五ヶ月目の最初の戌の日に腹帯を巻いてお参りをするのだ。

 先負と言えど、午前も午後もなく朝から夕方までご祈祷の予約が入っている。

 最初のお客さんが来る前に、落ち葉を退けておかなくちゃ。妊婦さんが足を滑らせて転んだりしたら大変だ。


 止まっていた掃き掃除を再開する。

 八事やごとの山の上にあるせいで、この神社へ行き着く道はもちろん、境内の中も隅から隅まで急勾配だらけ。

 拝殿へ向かうのにもたくさん階段を登らなきゃいけなくて、妊娠中でなくとも相当きつい。掃除するのも一苦労だ。

 そうしてせっせと竹箒を動かし続け、境内が綺麗になるころには、私はあの声のことをすっかり忘れていた。



 ご祈祷は午前九時から始まる。

 それに合わせて、午前八時半ごろには参拝客が訪れ始めた。


 忙しくとも、決まった手順をひたすらに繰り返すだけ。

 待合室でご祈祷を受ける方のご芳名を呼び、本殿の中へとご案内する。

 宮司である私の父親が祝詞のりとを奏上した後、私たち巫女がお鈴を振るってお祓いを行う。

 最後に、安産祈願の文言が書かれた腹帯や御札、御守を進呈するという流れだ。


 どの家族もよそ行きの格好をして、みんな背筋が伸びている。期待、緊張、不安。いろんな表情を見る。

 お腹に新しい命を宿したお母さんたち。どれほど参拝客が多くても、一人一人に心から祈りを込める。

 どうか無事に元気な赤ちゃんを産んでほしい。そして、初宮参りもうちの神社に来てくれたらいいなと思う。



 ——かーごのなーかの とーりーはー。いーつーいーつー 出ーやーるー。


「ん?」


 次に歌声が聴こえたのは、交替でやっと取れた遅めのお昼休憩中だった。社務所の奥の控えスペースで、お弁当のわかめおにぎりの一口目を飲み込んだ瞬間に。

 私はおにぎりを手にしたまま、部屋じゅうきょろきょろ見回した。

 一緒に休憩中だった他の巫女スタッフさんから、訝しげに声をかけられる。


「緋奈子ちゃん、どうしたの?」

「いや、今、なんか歌が聴こえたような……」

「歌? どんな?」

「『かごめかごめ』だと思うけど」


 辺りの雑音を探ってみる。

 耳に届くのは、この社務所の窓口でスタッフと参拝客とがやりとりする会話や物音ばかり。ご祈祷の受け付けの確認とか、初穂料をいただく声とか。

 『かごめかごめ』なんて、もちろん誰も歌っていない。


「やっぱ気のせいだったかも」

「外におる子供とかが歌っとったんじゃない?」

「んー、そうかなぁ」


 朝九時から始まったご祈祷は、定時ごとに入れ替え制で途切れることなく行われている。

 夫婦だけでなく、おじいちゃんおばあちゃんも一緒に来ている家族も珍しくない。

 中には、小さな子供連れも。でも、せいぜい二、三歳くらいだ。そんな幼い子が『かごめかごめ』を歌うだろうか。


 それに、朝にも聴こえたのだ。

 仮に子供が遊んでいるのだとしても、早朝から昼すぎまでここに留まっているような参拝客は滅多にいない。

 いまいち説明のつかないことなので、私は考えるのを諦めた。

 まぁ、いつものアレかな、と。

 私は残りのお弁当を掻き込むと、午後の仕事に戻った。



 ——よーあーけーのー ばーんにー。つーるとかーめが すーべったー。


 その後は、歌声に構う余裕がなかった。

 時々こういうことはある。神社の娘に生まれたせいか、他の人が感知できないものを視たり聴いたりするのだ。

 私は以前から、そうした現象を大して気に留めていなかった。

 ここは神社なので、ちょっとくらい人知を超えた不思議なことが起きてもおかしくないだろう、と。

 だから特に何をするでもない。ただの通りすがりの見知らぬ人に、わざわざ話しかけたりしないのと同じで。


 それにしても、『かごめかごめ』ってどんな遊びだったっけ。

 結構な大勢でやる遊びだったはず。私が子供のころにもやった記憶はあんまりないし、ルールもうろ覚えだ。

 確か、みんなで手を繋いで輪を作り、中に入った鬼がしゃがんで顔を伏せて。歌が終わった時に鬼の真後ろにいる子が誰かを当てる。そんな感じだったはず。

 それからどうするんだっけ。どうなったら終わりになるんだっけ。



 そんなことを考えているうちに、気付けば本日の業務も終盤に近づいていた。

 最後の回のご祈祷が終わり、お客さんたちを見送る。

 昼間はあんなにぽかぽかしていたのに、午後四時を過ぎれば太陽もずいぶん傾いて、再びぐっと冷え込んでくる。秋の日はつるべ落としだ。もう間もなく空も暗くなる。


 外側の門を閉め、社務所へ戻ろうとした折。


 ——後ろの正面、だーあれ。


 ひゅうっと何かが背筋をなぞっていった。

 そして間髪入れず。


「きゃああっ!」


 甲高い女性の悲鳴。

 私は驚いて、すぐに声のした方へと走った。袴が纏わり付いて、下る坂道で何度か脚がもつれる。

 いくつか階段を降りたところで、人だかりが見えた。

 手近な一人に訊ねる。


「どうされました?」

「あっ、あの、妊婦さんが……」


 その人が指さす先。

 まだまだ続く階段の踊り場、ちょうど鳥居が立っているところに。

 一人の女性が、倒れていた。


「えっ?」


 見覚えがある。さっき、ご祈祷を終えられたばかりの方だ。

 私は急いでそこまで駆け下りた。


「大丈夫ですか?」

「うぅ……」


 彼女は身体を曲げて横たわり、小さく呻いた。どうにか意識はある。

 隣にいたご主人らしき人が、おろおろと彼女の背をさすっている。


「お、おい、しっかりしろ、どこが痛い? 頭は? 腹は大丈夫か?」

「階段で転ばれたんですか?」


 私が話しかけると、彼はハッと顔を上げた。


「は、はい。急に、何かに引っ張られたみたいになって、それで……」

「えっ?」


 引っ張られた、とは。


 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。誰かが呼んでくれたらしい。幸い、ここから病院は近い。

 その時。


 ——かーごめ、かごめ。


 全身にぞっと怖気おぞけが走った。

 冷たい風が駆け抜ける。木々が不穏にざわめく。急に宵闇が濃くなった気がした。

 首を巡らせれば、夕焼け空の逆光に沈む、大きな鳥居の梁。

 そこに止まった一羽のカラスが、カァ、カァと警告のように啼いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る