幕間

幕間 自分の形を保つもの

 足を開いて立つ。丹田たんでんに気を込めるように腰を据え、背筋を伸ばして呼吸を整える。

 右手で弦を取りかけ、左の手の内に弓を握り、視線を的へと定める。

 弓矢をゆっくりと高く打ち起こし、水平を保ったまま左右へ引き分ける。

 胴体が弓の中に入るイメージで、と教わった。身体と弓矢とで、縦横十文字を形作るのだ。


 天地左右に力が伸び行き、どこまでも拮抗する。そして——

 矢が、自然に離れた。

 形が残る。心が残る。均衡を、保ち続ける。


 だけど。


「服部先輩、外れです!」


 元気のいい一年生が教えてくれた通り、僕の放った矢は的を逸れて安土に突き刺さっている。


「……ありがとう」


 実を言うと、途中から筋力に割と限界が来ていた。

 イメージは完璧でも、そう上手くはいかないのが現実だ。



 弓道の最高目標に、『真・善・美』というものがある。

 誤魔化しのない射法を探求すること。

 心を鎮め、平静を保つこと。

 礼を重んじて弓と向き合うこと。

 身体と呼吸を整えて精神を安定させ、手順を踏んで弓を引けば、矢は自ずと的中する。

 正しい弓こそが目的であり、的中は結果でしかない。


 正直、その境地に至るには程遠いけれど、僕は弓道のそんな在り方が好きだ。

 結果ばかりを気にするべきじゃない。

 だけど結果に繋がらないのは、僕に足りないものがあるからに違いない。



 部活の練習時間も終わり、道場を立ち去る前に部員全員で神棚を拝む。誰もが疑問を持つことなくそうしている。たぶんここにも神さまはいるのだろう。


 帰り道は一人だ。

 他の部員たちとは挨拶くらいは交わすけれど、部活後の時間を共にするほど仲のいい相手はいない。

 別にそれで良かった。下手に踏み込まれるのも面倒だから。おかしな体質のこととか、家のこととか。

 道場では淀みなく孤高を目指せた魂も、一歩外へ出てしまえば心許ない。


 名鉄と地下鉄を乗り継いで、『自宅』の最寄り駅で降りる。

 帰路を辿る道すがら、いつもの場所でお地蔵さんに手を合わせる。

 神さまも仏さまもお地蔵さんも、見かけたらすべからく拝むべし。樹神こだま先生の助手を始めてから、変な習慣が付いてしまった。


 すっかり日の暮れた時間帯。人通りの少ない住宅街を進み行き、『服部』と表札のかかった一軒家に辿り着く。

 窓に引かれたカーテンを透かして漏れる光は、他人事みたいに明るい。ここを自分の家と言うのは未だに慣れない。

 それでも敢えて少し張った声で「ただいま」と戸を開ければ、「おかえりなさい」と返ってくる。


 やや小ぢんまりと感じる玄関で、靴をきちんと揃えて脱ぐ。すぐ目の前にあるリビングダイニングのドアノブに手をかける時も、ほんのわずかに意を決した。


「おかえりー、はじめくん」


 ブラウスにスラックスのまま台所に立つ女性は、僕の叔母だ。しっかり化粧の乗った顔を朗らかにくしゃりとさせている。


「すぐごはんにするで、ちゃっと着替えてりゃあね」

「はい、ありがとうございます」


 温かな空気と肉の焼けるいい匂いで、僕はようやくホッとする。


 言われた通り私服に着替えてから再び階下へ降りると、既に叔父がテーブルに着いていた。

 中肉中背で、優しげな面差しに眼鏡。黒々とした髪は、四十代半ばという実年齢より若く見える。


「朔くん、今日は部活だったか」

「はい、そうです」

「次に樹神こだまくんのところへ行く日はいつだった?」

「また来週頭に行くことになってます」

「そうか、意外と面倒見良かったんだな、彼は。僕のゼミにおった時とは大違いだわ」

「そうなんですか?」


 叔父は国立N大学の文学部人文学研究科で凖教授をしている。樹神先生はかつて、叔父の民俗学ゼミに所属していたのだ。


「知識欲や思考力は他の学生より頭一つ抜けとったけど、一匹狼みたいな感じだったな。せっかくいい男なのになぁ」

「へぇ」


 それを聞くと確かに、先生は僕のことをずいぶん気にかけてくれているらしい。


 そうこうするうち食卓に料理が並び、三人揃って手を合わせた。

 今日の夕飯は豚肉と野菜の炒め物と、スーパーで買ってきたらしいお惣菜がいくつか。

 叔母は地方銀行に勤めている。定時で退勤するのだとしても、僕のような食べ盛りの男子高生の分まで食事を用意するのは大変だろうと思う。


「いっつもおかずが適当で悪いねぇ。ごはんだけはいっぱいあるで、お代わりしやぁよ」


 予めそう言ってもらえるのはありがたい。遠慮が完全に消えることはないけれど、少しは気が楽になる。


 「自分の家だと思ってくつろぎゃいいでね」と、この家へ来た最初の日に言われた。

 だけど僕には、どう寛ぐのが正解なのか分からなかった。

 普通は自分の家で、どうするものなのだろうか。

 叔父夫婦には子供がいない。たぶん、この三年間ずっと、僕たちはそれぞれ互いに距離を測りかねている。


 僕は期待された通りに白飯を一度お代わりし、おかずを綺麗に平らげて、箸を置いた。

 そのタイミングで、叔父が口を開く。


「あぁ、そう言やぁ。今日、兄貴から連絡があったわ。朔くんに今月分の小遣いをやってくれって、また振り込みでもらったよ」

「……そうですか。分かりました」


 曖昧に、笑みを作る。

 叔父の兄とは、僕の父親のことだ。学費や生活費など、金さえ出しておけばいいと思っている、僕自身のことには無関心な父親。


 叔父に礼を言うのもおかしいし、ましての近況などは訊ねる気にもなれない。

 恐らく、叔父も敢えて食事が終わる頃合いを見計らって切り出してきたのだ。


 僕は笑顔を固めたまま、再び丁寧に手を合わせた。


「ごちそうさまでした」


 神さまは、どこにいるとも知れない。



 食後の片付けを手伝ってから、借りている自室へと引っ込んだ。

 宿題と予習を手早く終わらせ、『ミラージュ・コレクターズ』の最新巻をぱらぱら読み返しつつ、スマホで考察サイトを巡る。感想を言い合う相手はいないけれど、僕にはこれで十分だ。


 好きな漫画が買えるのも、スマホを使えるのも、父のおかげではある。

 私立高校に通わせてもらい、食いっぱぐれることもなく、身の危険のない温かな家の中で眠れる。

 不満など、あるはずもない。


 叔父も叔母も穏やかで親切だ。僕の共感応エンパスが変に負の方向へ傾くこともない。僕がここへ預けられることになった経緯が経緯だから、気を遣ってくれているのだろうと思う。

 ありがたい。でも、申し訳ない。僕なんか、お荷物に違いないのに。


 何があっても平静でいたいと思う。

 少しも心を揺らさず、凪いだ水面のようであれたらいい。

 時々考える。

 誰に頼らなくても、誰と関わらなくても、自分の力だけで生きていけたらいいのにと。


 ピコン。LIMEの通知音でハッとする。


【KOHSHIRO KODAMA】急で悪いけど、明日は来られる?


 樹神先生からだ。


【服部 朔】行けますよ。学校帰りに寄ります。

【KOHSHIRO KODAMA】助かります。よろしく。


 即座に返信があり、最後にスタンプが送られてくる。もののけの姫のアニメ映画に出てくる木の精霊のイラストに『ありがとう♡』の文字が添えられた可愛らしいスタンプだ。

 思わず吹き出してしまう。どういうテンションでこのメッセージを打っているんだろう。


 一つ息をつく。

 明日、予定が入った。

 また独りになれない時間が発生する。


「朔くーん、お風呂ー」


 階下から叔母に呼ばれた。


「……はーい」


 部屋を出て、階段を駆け下りる。

 ととん、ととん。足音が妙に軽やかなことに気付いて、途中で歩調を緩めた。


 なぜ僕はこんなに浮かれているのか。


 平静を保て、平静を。

 僕は口元を引き締めてから、一階へと降り立ったのだった。



—自分の形を保つもの・了—

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