1-8 救いの手

 女の子の姿が見えなくなると、樹神こだま先生は懐中時計型スマートウォッチをポケットにしまった。


「若いな、服部少年は」

「何がですか」

「いや、まっすぐなのは良いことだよ」


 片頬だけで笑うその表情は、いつも通りに緩い。先ほどまでの触れたら切れそうな雰囲気は、既に欠片も微塵もない。

 大きな手が、僕の背中をぽんぽんと叩いた。


「よぅやったな」

「……いえ」


 幻影の景色はすっかり消え去り、元の小さな神社が現れる。相変わらず、何から何まで夕暮れ色に染まったままで。

 務夢つとむさんがぎょっとして辺りを見回す。


「え? え? 何だこれ、また赤い世界だ」

「あちらとこちらを繋ぐ狭間の世界だよ。さっきはあの子の『念』の影響で、ここの鳥居が幽世かくりよへの扉になってたんだ。もう大丈夫」

「へぇ……?」


 彼は周囲の様子や自分の手足をひとしきり確認した後、ハッとして先生に向き直った。


「あっ、あの、いろいろすいませんでした。助けに来てもらったのに、俺、失礼なこと言ったと思います」


 深く下げられた頭からは、生真面目な性格が伺える。

 先生はひらひらと手を振った。


「あぁ、それは全然。混乱して当然だよ。無事で良かった。さぁ、帰ろうか」


 三人で連れ立って、来た道を戻る。現実味の乏しい色味の街を歩きながら、僕は心が沈んでいくのを感じていた。

 「よぅやった」と言われたけれど、とてもじゃない。

 危なかった。また自分の力をコントロールできなかった。それも二回も。

 未熟すぎる。能力的にも、精神的にも。


 僕の気も知らない先生は、頼りにならないはずの僕に言う。


「しかし、ちょっと気になるな。あの亡霊に干渉した存在がおるっていうのは。服部少年、どう思う?」

「どうって……あの子の記憶、断片的すぎてあれ以上のことは何も。すいません」

「いや、まぁそれは仕方ないさ。あってほしくはないが、また似たようなことが起きたらその時考えようか。今はまず、彼を家まで送り届けなかん」


 屈託のない笑顔に、ひどく心がざらついた。

 これで『助手』なんて名乗るのも烏滸おこがましいと、自分が一番理解している。


 やがて駄菓子屋の前に辿り着く。

 務夢さんが、「あっ」と声を上げた。


「この店、見覚えがある。どうやって元の世界に戻るんですか?」

「すぐだよ」


 先生がまた懐中時計型スマートウォッチを取り出し、操作した。

 鋭い呼び出し音が鳴り始める。二回目のコールが終わらないうちに、回線が繋がった。

 その瞬間。

 空の頂点から膜が剥がれ落ちるように、景色から赤みが抜けていく。雲の陰も、ずらりと連なった店々も、遠くに見える背の高いビルも。

 そうして現れたのは、何の変哲もない黄昏時の街並みだ。


 穏やかな風が頬を撫でていき、甘い香りがふわりと鼻先を掠める。

 気付けば、駄菓子屋の店先に百花もかさんが立っていた。その手には先生のスマホ。


「おかえりー。無事に終わったみたいね」

「ただいま。おかげさまでね」


 務夢さんが、またきょろきょろしている。


「あれ? 元通りの色だ」

「場所の座標としては同じなんだよ。階層が違うだけで」

「はぁ……」


 何の超感覚も持たない人には、ただ色味が異なって見えるだけで、ピンとこないかもしれない。

 同じ場所であっても、『狭間の世界』の階層では、この世ならざるものの存在を遥かに感知しやすくなるのだ。


 先生は手元に戻ってきたスマホを確認した。


「午後四時五十分。任務完了だ」


 現世うつしよでは、あれから五分しか経過していないらしい。

 異界での時間の流れ方はこちらと違う。楽しい時は現実より早く過ぎるし、そうでなければゆっくりだ。

 事実、あれがたったの五分間だったとは思えないほど身体が重い。いろいろあったから仕方ないけれど。


「二人、えらい疲れた顔しとるわ。お茶でも淹れてくるわね」


 僕と務夢さんの様子を見てそう言った百花さんが、カラコロと店の奥へ入っていった。

 務夢さんが再び目をぱちくりしている。


「えぇと……これ、現実?」

「現実ですよ、大丈夫です」


 気持ちは分かる。化石みたいな駄菓子屋に、モダン和装の美人。下手するとあちらで見た幻影より現実離れしている。


 程なくして、百花さんがいい匂いのするお茶を持ってきてくれた。


「レモンバームティー。飲んだら気分が落ち着くでね」


 ハーブティーだろうか。透き通った琥珀色の液体が、ガラスのカップの中で揺れている。

 店先にパイプ椅子を並べて、揃ってお茶をいただく。温かな飲み物が身体に入ると、ようやく胸の奥のざわつきが収まった。


 先生が懐から煙草を取り出し、一本を咥えた。慣れた手つきで火を点け、一口目を旨そうに吸う。

 いつもの匂い。仕事の区切り。

 僕もまた、肩から力が抜けていく。


 務夢さんが、独り言のように呟いた。


「なんか、夢でも見とったような気がする」

「……そうですね」


 少なくとも。長い夢を見続けていたあの女の子の魂は、きっと救われたはずだ。向こうの世界で楽しく駆け回っていればいい。

 先生の燻らせる紫煙が空へと立ち昇っていくのを眺めながら、僕はそう思った。




 後日。

 都築つづき姉弟が揃って樹神探偵事務所を訪ねてきた。


「このたびは、本当にお世話になりました」


 依頼人である姉の翼沙つばささんの謝辞をそこそこに受け、先生は事の顛末をざっと説明する。


「今回の『念』の発信者については、恐らくもう大丈夫でしょう。務夢さんが渡した御守が身代わりのような形になってくれました」

「御守?」

「ほら、姉ちゃんが俺にくれたやつだよ。合格祈願の」

「えっ、あんなものが? ただの学業守だったことない?」

「務夢さんの想いが託された御守です。おかげで発信者の『念』が消滅しました」


 あの幻影の中で、務夢さんは言った。


『大きくなったらお医者さんになるんだわ。ボクが君の怪我を治したるよ』

『君を助けるって、約束するよ』


 その想いが、学業守に女の子の『念』を浄化する力を与えたのだ。


「あれから、父親と話し合いをしてます。今の俺の成績じゃ、第一志望はとても無理だ。医療系が向いてるかどうかも分からない。でも、あの子みたいな子供を助けられる道へ進もうと思います」


 現代でも最低限の生活すらできない子供が、きっといるはずだから、と。

 未来のことを話す務夢さんの瞳には、確かな光がある。


「服部くんが言ってくれたおかげだよ。俺が、いつか誰かを助ける人になれるって」

「えっ?」


 急なことで、一瞬返答に詰まった。


「いえ、僕は務夢さんの思念に触れて、思ったことを言っただけなんで……」

「それでもだよ。ずっと自分に自信が持てんかったから」


 同年代と言えど年上の人からそんなふうに言われると、どうにも尻の座りが悪くなる。

 あれから何度思い返しても、自分の不甲斐なさばかりが胸に引っかかる。先生がいたからこそ、上手く事が運んだに過ぎないのに。


「いえ……あの、頑張ってください。応援してます」

「ありがとう」


 務夢さんなら、きっと大丈夫だろう。

 もう、置いてけぼりの子供なんかじゃない。自分の意思でトンネルを抜け出せる。


 事務所の玄関先で、先生と一緒に二人を見送った。

 遠ざかっていく姉弟の会話が耳に入る。


「あ、そういやミラコレの最新巻買わなかんね。駅の中に本屋あったよね」

「姉ちゃん……俺、受験勉強……」

「私が読みたいの。務夢が無事に帰ってきたで、やっと読めるんだから」

「そっか、ごめん」


 最新巻、すごく良かったですよ。心の中でそう呼びかけた。


 仲が良くていいな、と思う。きょうだいで好きな漫画をシェアできるような関係が。

 たちまち心が昏く翳る。自分に欠けたものの存在を、ふとした時に意識する。


「楽しみがあるのはいいことだな、現世を生きる力になる」

「……そうですね」


 胸の小さな痛みは、先生の呟きに応じることで霧散させた。


「よし、服部少年。メシ食いに行こう」


 ……本当にこの人は、こちらの気も知らないで。

 八つ当たりだと自覚しながら、そう思う。


 独りの方が楽でいい。特定の誰かと何かしらの関係を築くのは面倒で仕方ない。

 実にありがた迷惑だ。独りだったら、こんな無力や羨望を知ることもなかったのに。


 でも。


「……叔父に、連絡入れときます」

「何食べたい?」

「何でもいいですよ」

「んー、じゃあ駅の方でも行くかぁ。あー腹減ったなぁ」


 拍子抜けするほど気楽な声。

 先生は玄関を施錠すると、迷いなく歩き出す。階段を下るのに合わせて、ぴんと伸びた背中で束ねた髪が弾んでいる。


 時々、うだうだ悩むのが馬鹿みたいに思えてくるのはなぜなのか。


 僕は釈然としない顔を作って、先生の後をついていった。

 悪くない。しぶしぶながら、そう思うことにした。



—#1 かくれんぼ・了—

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