1-7 共感応と容喙声音
気付けば、僕は地面に倒れていた。
途端、全身を這うような
「うわぁぁぁッ⁈」
「落ち着け。ゆっくり息を吸って、吐いて。腹の真ん中に力を入れろ」
言われた通り深呼吸し、腹に意識を向けた。胃の中に、先ほど
大丈夫、僕は僕だ。
ようやく半身を起こす。
夕焼けの空と、見覚えのない公園。鳥居をくぐって神社に入ったはずだったのに。
「正気に戻ったか、服部少年」
「……すいません」
他人の感覚を我がことのように受信してしまう、強すぎる
今見ていたのも、僕自身の記憶じゃない。
コントロールの方法は先生から教わったけれど、時々どうにもできなくなる。
僕はフラつきながら立ち上がり、身体についた砂を払った。
頭がくらくらして、左頬が痺れるように痛む。
「先生、殴りましたね」
「父さんにも殴られたことなかっ」
「古い」
「……最後まで言わせてよ」
「冗談言っとる場合ですかね」
「その調子なら良さそうだな。危うく君まで引き込まれてまうとこだったんだ。むしろ感謝してまわんと」
軽口を叩きながらも、先生は視線を彼らから外さない。
呆然と立ち尽くす小学生の男の子と、五歳か六歳くらいの女の子。
先ほどまで僕が受信していたのは、務夢さんの五感と情動だったのだ。
「
先生の声が低く
子供の姿の務夢さんが、びくりと身をすくませた。
「君は今、十九歳の予備校生だ。小学生じゃない。今日は、零和三年の十月二十八日」
先生が懐中時計型スマートウォッチを取り出し、日時を表示させる。
「思い出せ」
その声は、まるで鼓膜を介さずに頭の中へと響く。穏やかだけど良く通り、自然と心の奥深くまで入り込む。
『
務夢さんはようやく目の焦点を先生に合わせた。
「零和、三年……?」
「そうだ。六日前の十月二十二日、君は予備校で授業を受けた。お姉さん、
「うぅっ……」
「この場所は君の記憶の中にある風景だ。君を幽世へ引き込むために作られた幻影なんだ。現実じゃない」
「幻、影……?」
務夢さんが頭を抱えて、眉間に皺を寄せている。
女の子が叫んだ。
「ちがう! おじさん、なにいっとんの? せっかくふたりであそんどったのに!」
その瞬間、彼女の纏う『念』が大きく膨れ上がった。それが波動となって渦状の突風を巻き起こす。
周囲にあった小石や落ち葉が宙に浮き、刹那、鋭い軌道で先生に向かってくる。
「先生!」
先生が懐中時計を
「捕縛」
その一言は、波紋のごとく響き渡った。
先生にぶつかる寸前だった
「うっ……」
女の子は、見えない糸で縛られたように動きを止めていた。
時計の蓋には特殊な紋章が刻まれている。
「ごめんね、お嬢ちゃん。お兄さんは今、彼と話をしているんだ」
静かな口調だが、物を言わせぬ凄みがあった。
務夢さんはいつの間にか大人の姿になっている。シャツジャケットに斜めがけの帆布バッグ。恐らく、いなくなった時そのままの服装だろう。
周囲の様子にも変化がある。公園の景色が薄れ、元の暗い神社が透けて見える。女の子の力が弱まっているのだ。
「現実の世界に帰ろう。お姉さんが心配しているよ。我々はお姉さんの依頼で君を迎えにきたんだ」
「姉ちゃんが……」
「このままここにいては、魂が囚われて二度と抜け出せなくなってしまう」
動きを封じられた女の子が、それでも声を振り絞る。
「いや、だ……いかんといて……」
「しぶといね」
「ぅぐっ……た、たすけて……」
務夢さんが強ばった表情で拳を握る。
「は、離したってください。小さい子にこんなひどいことするなんて」
「それは聞けない頼みだな」
「その子、怪我しとるんですよ。助けんと」
先生がすぅっと目を細める。
「よく聞け、その子はもう死んでいるんだ」
「……え?」
「もう、助けられない」
先生の眼差しは、底が知れないくらい静謐としている。
対する務夢さんは、先生をきつく睨み返した。
「どうしてそんなこと言うんですか。あんた、さっきからひどいことばっかり……」
「昭和二十一年。内務省令第三号により、公娼制度が廃止された」
唐突な先生の言葉。務夢さんが怪訝な顔をする。
「何? 昭和? コウショウ?」
「公の娼婦で公娼。この辺りにあった中村遊廓では、公娼制度廃止をきっかけに貸座敷の名義を特殊カフェーと改め、営業が続けられた。戦後の混乱期、ここは赤線区域——つまり半ば公認の状態で売春が横行していたエリアだった」
「はぁ……」
「駅裏には闇市が立ち、日雇い労働者で溢れた。それを相手にする街娼や非公認の売春業者も増え、ここらは一時ひどい環境だった」
「それが、いったい何だって?」
「この神社の前には、よく街娼が客引きのために立っていたそうだよ。中には、貧しさから子供を育てながら身を売っていた母親もいただろう」
事実が、無情なほど淡々と告げられる。
「その子は、街娼の母親の帰りを待ちながら餓死した子供の一人だ。恐らく、母親を探して幽体でここまで来たんだろう。成仏できずに取り残されている」
務夢さんは息を呑んだ後、無理やり口元に笑みを作った。
「いやいや、そんな冗談……俺、さっきまであの子と一緒に遊んどったんですよ」
先生は何も応えない。ただ、まっすぐに相手を見据え続けるだけ。
務夢さんの表情が、ぐしゃりと歪んだ。
「そんな、嘘だ……だってボク、約束したんだよ。あの子を助けるって……」
その姿が二重映しになる。子供時代と現在とが、重なっている。
女の子が、うわ言のような呟きを漏らした。
「……たすけて、おかあちゃん……ひとりぼっちは、もうやだよ……」
「あぁ……」
悲痛な嘆きと、絶望と。それらがない混ぜとなり、僕の肌をびりびり灼く。身体の神経を隅々まで伝って、思考回路を嵐のように掻き乱す。
辛い、哀しい、助けたい、助けられない。
心臓が痛いほど暴れている。呼吸が浅くなり、胸が苦しい。
ぐらぐらと景色が揺れ始める。叫び出したい衝動を堪えると、今度は凄まじい吐き気に襲われる。
自分という存在が、丸ごと渾沌に呑み込まれたようだった。
嫌だ、嫌だ、どうしてこんな思いを抱えてまで。
「服部
混濁する情緒の渦を切り裂いて、先生の声が響く。
途端、ぱちんと何かが弾けて嘘のようにモヤが晴れ、僕自身の意識が輪郭を取り戻した。
「自我の主導権を手放すな」
「……はい」
腹に力を込め、自分の精神に集中する。自我の領域に線を引き、外側からの情報をシャットアウトした。……しっかりしろ。
先生が今度は、女の子へ声をかける。
「お嬢ちゃん、今から君をあの世へ送り届ける。そこに君のお母さんもいるはずだ」
「いかん……ともだちつれてきてって、いわれたもん」
「言われた? 誰に?」
「しらんおねえちゃん」
「それは何者だ? 何のために?」
「わからん……」
先生の視線が、ちらりと僕に向く。
僕は慎重に感覚の回線を開き、女の子の思念に触れる。まだ先生の声が効いている。今度は大丈夫だ。
断片的に流れ込んでくるのは、『友達を連れてくる方法』を誰かから教わった記憶。だけど、ひどく不鮮明だった。
「……先生、その子自身もよく分かっとらんみたいですけど、誰かに
「そうか」
務夢さんが口を開く。
「あの、その子、どうするんですか」
「成仏させる。そしたら君も家に帰れる」
「いや、帰れるわけないですよ……帰りたくない。俺はここにいたいんだ……」
最後の方の呟きが
これは務夢さんの感情だ。ちゃんと線引きできている。
生きた相手だろうが死んだ相手だろうが、僕は誰彼構わず情緒の揺れを受信してしまう。
正直、手放せるものなら手放してしまいたい。
だけど、この力のおかげで分かることもある。
僕は
「務夢さん、立ってください」
「いや、
彼の姿はまだ、大人と子供を行ったり来たりしている。
「務夢さんは、医者になりたいんですか?」
「そんなの、父親に言われたからだよ。俺には無理だ。模試の結果も最悪だったし」
気持ちは分かる。志望校の合格判定が悪かったら、僕だって落ち込む。やらされている意識があるなら、尚さら捨て鉢にもなるだろう。
でも。
「務夢さんは、あの女の子を助けるつもりだったんですよね。あの子の怪我を、いつか治してあげたいって」
「あぁ、そうだよ」
「務夢さん自身の強い意志を感じました。誰かに言われたから、とかじゃなくて」
「……子供の
務夢さんが、疲れた浪人生の顔で自嘲気味に笑った。
胸の奥が、きゅうっと痛む。
あぁ、これは。
「そんなこと、言わんといてください」
僕自身の痛みだ。
「例えば同じ状況になっても、あの子の怪我に気付かん人もおるかもしれない。見て見ぬふりをする人だっておるでしょう。でも、務夢さんはそうじゃなかった。ちゃんと気付いて、子供なりに何かしなきゃと思ったんですよね」
幻影の中で感じたそれは、他のどんな感情より強く燦然と輝いていた。
救われた、と思った。救ってほしい、とも。
「過去に起きたことは、残念だけど、もうどうにもできません。でも現実世界に戻ったら、務夢さんはきっと、いつか誰かを助ける人になれる」
「いつか、誰かを……」
しばらく僕を見つめていた務夢さんは、やがて女の子の方へと目を向けた。
もはや抵抗する力もなくなった彼女が、消え入りそうな声で呟いた。
「たすけて……」
務夢さんの頬を、一筋の涙が滑り落ちる。
彼はゆっくり立ち上がると、先生に言った。
「離したってください。もう、大丈夫ですから」
先ほどまでの彼とは違う、理知的な瞳と毅然とした口調。
先生は拘束を解き、懐中時計を下げた。ただし警戒の視線は外さない。
務夢さんは女の子に歩み寄ると、自分の鞄についていたあるものを差し出す。
「これ、あげるよ」
小さな手が受け取ったそれは、まだ真新しい御守だった。深い紫紺の布地に、金色の糸で『学業守』と書かれている。
「わぁ、きれい……こんなきれいなの、いいの?」
「もちろん」
務夢さんが身を屈め、女の子と目線の高さを合わせた。
「あげられるのが、今これしかないんだ、ごめん。それから……ありがとう」
「え?」
「遊んでくれてありがとう。友達になってくれてありがとう。小学生のころ、かくれんぼで置いてかれたことがあったんだ。浪人生の今も、自分一人だけ足踏みして、周りから置いてけぼり食らっとるように感じてた。まるで自分が無価値な存在みたいだって。でも、君が……」
子供の姿の務夢さんの頬を、一粒、二粒と、涙が零れていく。
「君が、ボクを見つけてくれた。ボクは一人ぼっちじゃなくなった。ボクにもできることがあるかもしれんって思えた。だから君を助けたかった……けど」
僕はまた少しだけ回線を開いた。そうしたいと思ったのだ。
務夢さんの感情が伝わってくる。心臓が共鳴して鼓動を打つ。ゆえに理解する。彼に迷いがないことを。
「ごめん、俺、もう行かんと。ありがとう。……ごめん」
女の子は務夢さんをじっと見つめた後、ぱぁっと花が咲いたように笑った。
「あたしも、たのしかったぁ! これ、ありがとね。たからものにしよっと!」
そして御守を両手で大事そうに握り、くるりと踵を返して走り出した。その片足はもう、引き摺られてはいなかった。
小さな身体は、背景に溶け込むようにすぅっと消えた。最後に御守の金糸が夕日を弾いて、きらりと光ったように見えた。
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