1-4 名古屋駅西エリアの闇
翌日の午後。
僕と
「高校生コースですと、木曜金曜の夜と、土日の授業がメインのカリキュラムになります。冬期講習も現在申し込み受け付け中ですよ」
警察でもない僕たちが、簡単に塾生の個人情報を開示してもらえるはずもない。
ここへは見学者を装って、『場』の状態やおかしな『念』の有無を調査しに来た。務夢さんに接触した何者かが、生きた人間以外に存在するかもしれないからだ。
「弟さんと同じT高校の方も多くみえますよ」
「えぇ、実は弟の先輩がここに通ってまして」
先生——今は僕の『兄』という設定の三十路男は、それとなく周囲の様子を探りつつ事務の人と会話している。『父親』の方が違和感がないんじゃないかと申し立てたのだけれど、聞き入れてもらえなかったのだ。
校舎内部は、先んじてひと通り案内してもらっていた。
教室、食堂を経て、またロビーに戻ってきたけれど、どの場所においても特に妙な気配はないように思えた。
既に用事は済んでいる。今は入校案内の説明を聞き流すだけの時間である。
「塾生の方には、ロビーにある端末から受講内容や模試の成績を確認いただけます。保護者の方専用のスマホのマイページもありますので、そこから模試の結果をご覧いただけますよ」
「なるほど、それは便利ですね」
結局、有力な情報は得られなかった。予備校のことに詳しくなっただけで。
予備校から出て、名古屋駅までのルートを辿る。
時刻は午後四時すぎ。務夢さんが姿を消したのと、だいたい同じ時間帯だ。
日が暮れかけているせいもあるけれど、どうにも薄暗いイメージのある道だった。
真上の高架を通る新幹線の音が喧しい。僕ら二人以外には人影もない。
「こっちの方、久しぶりに来ましたよ。
「まぁ、この辺りって戦後しばらくはドヤ街だった場所だでな」
「ドヤ街?」
「日雇い労働者の街って言やぁ分かるかな。闇市があったりして、そりゃあひどい環境だったらしいわ。俺も昔の資料見ただけだけどね」
僕は思わず周囲を見回した。
「ここが? 名駅の真横ですよ?」
「うん。東側は当時から整備が進んどったけど、裏側はそうじゃなかった」
確かに寂れた雰囲気はあるけれど、そんなの上手く想像できない。
「もう少し西へ行きゃあ、有名な中村遊廓があったエリアだ。戦後に公娼制度が廃止されてからも、看板を飲食店にすげ替えて営業が続けられた。いわゆる赤線区域ってやつだよ」
「赤線?」
「売春が半ば公認のような状態で横行しとった場所ってこと」
「へぇ……知らんかった」
「だもんで実際、『場』としては十分すぎるほどではあるんだわ。土地柄、いろんな負のエネルギーが溜まりやすい」
そう思うと、目に映る景色もいっそう暗く重く感じる。
でも、さすがに大型家電量販店の付近まで来れば車通りがあるし、ちらほら通行人もいた。
先生は目を眇めるようにして、鋭い視線を巡らせる。『場』の乱れを探っているのだろう。
「……違うな。この辺は特に何もなさそうだ」
「務夢さんがこの道を通る様子は、監視カメラにも残っとったって話ですもんね」
「彼はこっから、どういうわけか西へ向かった。何があったんだろうな」
そう言って、務夢さんが立ち寄った商店街の方へと視線をやった。
「『場』の質を考えると、怪しいのは断然あっちだ」
僕たちは揃って足を進めた。かつて赤線区域があったという方角へ。
夕日が眩しい。空は茜色に染まりつつある。
『駅裏通商店街』と名前の入ったゲートを二人してくぐった。レインボーカラーがあしらわれた野暮ったいデザインのそれは、よく見ればあちこち錆びている。
古い商店街だ。同じ並びに紛れて如何わしげな看板を掲げたまま朽ちかけている店舗もあったりして、とても名駅から徒歩数分の場所とは思えない異様な雰囲気が蔓延っている。
やはり
「おっ、お地蔵さんだ」
先生の声に顔を向ければ確かに、建物の間にちょこんとお地蔵さんがいる。
わざわざ足を止めてお地蔵さんを拝む先生に倣って、僕も隣で手を合わせる。
「先生、お地蔵さんとか小さいお社とか見かけるたんび、いっつも拝んでますよね。なんでですか?」
「え? 拝むもんでしょ」
ごく当たり前のことのように返され、そういうものかと理由もなく納得する。ここは
商店街を進むにつれ、良くない感じがだんだん濃くなってきた。
上手く説明できないけれど、空気中に何かが混ざり込んでいて、時々ひゅっと首筋を撫でていくような。
どこにでも神が宿る一方、妙な気配も雑多にごろごろしている。善悪玉石いろんなものが入り乱れ、どうにも胸がざわめく。
「うーん、ここら辺ていつ来てもこんな感じなんだよな。扉を開いて探るにしても、範囲が広すぎる」
先生がちらりと僕を見下ろした。
「大丈夫?」
「……何がです?」
「体調的なこととか、気分的なこととか。ほら、服部少年は当てられやすいでさ」
何気なく見抜かれて、僕は思わずムッとする。
「大丈夫です。今日は授業が午前だけだったもんで、ここに来る前に少し自主練して気を落ち着けてきたんです。このくらいどうってことないですよ」
僕は高校で弓道部に所属している。運動神経は良い方ではないけれど、弓道に動体視力や反射神経は必要ないので問題ない。
意識を集中させ、矢を引き絞る瞬間がいい。あの刹那、世界には僕と的しか存在しなくなる。そこに不純なものが入り込む余地はなく、精神は平らな水面のように凪ぐ。
何より、独りだ。誰かの干渉を受けることもない。
「あれ? そう言やぁ、なんで授業が午前だけだったの? 木曜日だよね、今日」
「三者面談の時期なんです。さっき予備校の人も言ってましたけど、先週末に全国模試の結果が出たもんで、それを踏まえて」
「大変だな、進学校も……ん?」
先生がぴたりと立ち止まる。
「全国模試って、みんな受けるやつ?」
「うちの高校は僕んら二年生も全員受けさせられますよ」
「そうじゃなくて、予備校生とかも? 大学受験する人は全員?」
「あぁ」
何が言いたいのか分かった。
「あの予備校が主催の模試なんですよ。務夢さんも受けたはずです」
「その結果が先週末に出たんだな。彼が姿を消したのも似たようなタイミングだ」
「だとしても、関係あります?」
「大ありだよ。受験生にしてみや一番の関心ごとだ。その結果で一喜一憂する」
務夢さんに霊感はないはずだと、
そんな人が
「俺たちの仕事は本人を探し出すことじゃない。連れ戻すことだ。もしこれが本当に『引き込まれ』なら、彼の心に
そうなのだ。
一般的な探偵業の人探しであれば、対象者の状況や居住地を依頼人に伝えて調査完了だけれど。
樹神探偵事務所は、不可思議現象を解決するのが仕事だ。つまり『引き込まれ』の案件ならば、
「模試の結果、保護者も確認できるって言ってましたね」
「念のため確認を取っとこう」
先生は電話をかけ始めた。相手は翼沙さんだ。
「樹神です。少々お願いしたいことがあるんですが——」
約五分後、先生のスマホに折り返しの着信がある。
『母に訊きました。探偵さんの仰る通り、あの日の午後、予備校からのメールで模試の結果についてのお知らせが来てたそうです。なぜか迷惑メールフォルダーの方に入っちゃってて、気付かなかったらしいんですけど……』
スピーカーから聞こえる翼沙さんの声は沈んでいた。
『マイページで結果を確認したら、第一志望の医大がE判定でした。きっと弟も見たんでしょうね。だから家に帰り辛くなったのかも。あの子、やっぱり神隠しなんかじゃなくて、自分の足でどこか行っちゃったんだわ……』
語尾が消え入り、辺りは静寂に包まれる。電波の向こうから、すん、と小さく洟をすする音がした。
先生が、ちょっと格好付けた声を作って応える。
「都築さん、諦めるのはまだ早いですよ。弟さんが戻ってくる可能性はゼロじゃない。警察も捜査を続けてるんでしょう。私の方でも、もう少し『引き込まれ』の線で調査してみます。また報告の電話をお入れしますから」
『はい……どうか、よろしくお願いします』
通話が終わると、先生はどこか戯けたように小さく肩をすくめてぽつりと言った。
「いやぁ、女性に泣かれると敵わんわ」
それには概ね同意だけれど。
「先生、本当にまだ調査するんですか? 何も出てこん気がしますけど」
「もちろん。何にしても、俺たちはやるべき仕事をやるだけだ」
僕たちは再び、暮れなずむ街を歩き出す。
「とりあえず、漫画なんか買っとる場合じゃなかったってことは、よく分かりましたね」
「まぁね。ずっと親からのプレッシャーがあったんなら、模試の結果一つで地の底まで落ち込んでも仕方ないわな」
『引き込まれ』の可能性以上に、ただの現世の失踪事件の可能性が高まった気がする。
仮に翼沙さんが模試のことを早めに知っていたら、樹神探偵事務所へ人探しの依頼をすることもなかっただろう。
「でも先生、例えば万に一つ『波長』が合ったんだとしたら、いったいどんな『念』なんですか? 受験生の亡霊でもおるんですかね」
「そこなんだよ。もうちょっと手がかりがほしいね。協力者を頼ろう」
辿り着いたのは、一軒の駄菓子屋だ。
この商店街に立ち並ぶ店の中でも、際立って古い。軒先に出ている商品も、いつからそこに置かれているのかと問うのも恐ろしいほどに。
先生は慣れた様子で店の中を覗き、声をかけた。
「どうも。
「おうよ、ちょっと待っとってね」
背景の一部だと思っていた場所からしゃがれ声の返事があり、僕は内心驚いた。店番の、えらく痩せたおじいさんだ。
彼はどっこらしょと腰を上げると、建て付けの悪いガラスの引き戸を開け、奥へと引っ込んでいった。
しばしの後、横手にある玄関のドアが開いた。
そわそわと、肌が不思議な気配を感知する方が早かったと思う。その人の姿を目にするよりも。
どんな得体の知れないものが出てきたのかと思ったくらいだ。
しかし、顔を覗かせたのは——
「あら、珍しいお客さんだわぁ」
着物姿の、綺麗な女の人だった。
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