1-3 悪魔の証明とあんかけスパゲティ
僕の出したコーヒーは、既に冷めてしまっていると思う。
「SNSで見たんです。七年前にあった神隠し事件を、樹神という名の探偵さんが解決したって。他にもいろいろ、オカルト関係のサイトに載ってました」
七年前の『神隠し』事件。そのフレーズに、心臓がざわめいている。
先生を見つめる翼沙さんの目には切実な色があった。
「もちろん、ただの家出かもしれません。考えたくはありませんけど、最悪の事態だってあるかもしれない。でも、もし、神隠しだったら。何か不思議な力のせいで、弟がいなくなってしまったんだとしたら。その道の人でないと、見つけることは難しいんですよね?」
しばらくの間、二人の視線は膠着していた。
やがて先生はふっと頬を緩め、ようやくカップに手を伸ばす。
「
「えぇ、あの……それはそうですけど」
翼沙さんはきまりが悪そうに言い淀む。先生のこういう物言いは、どことなく皮肉っぽく聞こえるのだ。
先生はコーヒーを一口飲んだ。
「もしあなたがそんなオカルトをただ盲信していたのなら、お受けするのは難しい依頼でした。しかしあくまで可能性の一つとして考えているのであれば、話は別です。こうに違いないと思い込みで行動するのは、何であっても危険ですからね」
「え、えぇと……結局、あの噂は本当なんですか?」
かちゃり、とカップがソーサーに戻される。
「私は探偵業をしていますので、さまざまな方面に伝手があります。都築さんがネットでご覧になったようなこともその一つだというだけですよ」
先生が、長い脚をゆったりと組む。
「さて、簡単に説明をしましょうか。『神隠し』というのは俗称です。我々の世界では『引き込まれ』と呼ぶ。これが発生するためには、いくつかの条件があります」
人差し指が立つ。
「一つは『場』の力。霊的なエネルギーが溜まる場所や土地であるということ」
続いて、中指が立つ。
「二つ、本人の『波長』。霊的なものを引き寄せやすい体質や精神状態であること。そして三つ——」
次に立てられたのは、親指だ。
「何者かの『念』が存在すること」
「念?」
「えぇ。それは悪意かもしれないし、はたまた愛情や執着かもしれない。誰かの強い情念が、
翼沙さんはわずかに小首を傾げる。
「幽霊とかの仕業ってことですか?」
「その場合もありますが、生きた人間の念というケースもある。自分の身体を抜け出して生霊となった者の念などは、特に厄介です。生きている分、パワーがあるから」
「生霊が憎い相手に害を及ぼす」などという事例も、現実にはあるようだ。
「それから時間帯も大きな要因の一つです。弟さんがいなくなったのは夕方、つまり黄昏時だ。あちらとこちらが繋がりやすい時であったことは確かです。だが、いずれにせよ条件が揃わなければ、もちろん何も起こりません」
そう、普通の人なら縁のない世界のことなのだ。
「弟さんには、霊感などあったりしますか? 何かおかしなものを視たとか感じたとか、そういう話を聞いたことは」
「いえ、ないと思います。家族でそんな話をしたこともありません」
「だとすれば尚更、弟さんが『引き込まれ』た可能性はさほど高くない。調べたところで何も出てこないということも、十分あり得るでしょう」
「だとしても」
翼沙さんは、きっぱりとした口調で応えた。
「可能性がゼロでないなら、調べていただく意味はあります」
正式に調査の依頼を受け、翼沙さんを見送るころには、外はすっかり暗くなっていた。
十月も終わりに近づけば、日が落ちるのもずいぶん早い。
お客さんが帰るや否や、先生は懐から煙草を取り出した。黒い箱にインディアンの絵が描いてあるパッケージだ。いつも仕事の区切りに一服することにしているらしい。
先生は渋いデザインのオイルライターで煙草に火を点けると、旨そうに煙を吐き出しながら言った。
「服部少年、メシ行こうか。奢るでさ」
「……僕、今回もこき使われるんですかね」
「ちょっと、人聞き悪いことない? 俺を何だと思っとんの」
先ほどまでとは打って変わった緩い笑顔。こっちが素だ。
この誘いを受けようが断ろうが同じであるなら、素直にご馳走になるべきだろう。
「じゃあ、家に連絡しときます」
「ここにおることは、家の方には?」
「伝えてますよ。叔父が先生によろしくって言ってました」
「なら良かった」
僕は今、訳あって叔父夫婦の家にお世話になっている。先生と叔父は昔から面識があるのだ。
「一階でいい?」
「いいですよ、すぐですし」
先生が一本吸い終わるのを待って、僕たちは玄関を出た。
樹神探偵事務所の階下には喫茶店がある。わざわざそういう物件を選んだのだと、いつか先生が言っていた。「探偵事務所の下は喫茶店って、昔っから相場が決まっとんだわ」と。
その喫茶店は、レトロと言うよりここだけ時代に置き去りにされたかのような、ただただ古い軽食屋だった。
年季の入ったカウンターは、客側から見えるタイル部分が派手に割れている。内装の壁は元は白かったと思われるが、塗りが剥がれてひどい有様だ。
僕たちが座った席のテーブルも、とっくにニスが掠れて傷だらけ。ちなみに隣のテーブルは天面がゲーム台になっている。十円玉でインベーダーというシューティングゲームができるものだったらしいけれど、今はもう動かない。
僕たちも例に漏れず、揃ってあんかけスパを頼んだ。大盛り無料なので、僕は遠慮なく大盛りにしてもらった。
「服部少年さ、意外とよぅ食うよね。小柄なのにな」
「……こう見えて成長期だもんで」
小柄は余計だろう。
どっさり載せてもらえるトッピングは、定番のミラカン。ミラネーゼ(肉類、とは言ってもウインナー)とカントリー(野菜類)を合わせてそう呼ぶ。そもそも、それらの名称の由来もよく分からないけれど。
まろやかな酸味にピリッとした胡椒辛さの効いた、トマトベースのあんかけソースが美味い。それがよく絡む太めの麺は、程よい歯応えがある。
男二人、黙々と料理を食べ進める。麺類ならば、平らげるのにさほど時間はかからない。
互いに食事を終えたころ、僕は気になっていたことを切り出した。
「それにしても大丈夫なんですか、この依頼。あの人かなり切羽詰まった感じでしたし、もし弟さんが見つからんかったら納得してもらえますかね」
「まぁ、そん時ゃそん時だわ。あのお嬢さんなら大丈夫じゃない?」
「そうですかね?」
「本人が失踪してから一週間も経っとらんで、現実世界での事件だったらまだ間に合うかもしれん。だで、依頼人にも念押ししたんだよ」
先生は軽い調子で言う。
「例え『幽霊の仕業じゃありませんでした』って言ったって、霊感のない人にしてみや、それが
普通は信じてもらえないものだ。妙なものが視えたと主張したところで。
逆に言えば、視えない人に対して『不可思議現象が存在しないこと』を証明することもできない。
嘘吐きだと、いくらでも罵倒される可能性がある。これはそういう仕事なのだ。
「依頼人に説明した通り、相談料と調査に必要な人件費に加えて、本人が見つかりゃ成功報酬を頂戴する。見つからんけりゃ報酬はなし。一般的な探偵事務所と同じだよ。分かりやすくていいでしょ」
確かに、お金で決まっているなら割り切りやすいかもしれない。
「本当に何かあったんなら、まだ痕跡くらいは残っとるんじゃないかな。君、明日も空いとる?」
何気なく正面からの眼差しに捉えられる。
奇しくも『引き込まれ』の案件。あのことに、先生は触れない。
だから僕も敢えて淡々と応える。
「えぇ、いいですよ。そのつもりでいましたんで」
「そう来なくちゃ。頼りにしてるよ、我が助手」
先生は片頬でにぃっと
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