ディア・カート 俺の処方を待つんだ!

白瀬隆

時間の向こう側

工学部博士課程を修了し、何年経っただろうか。僕は精神科医だが、工学部に入り直し、大学院を卒業してずっと研究を続けている。研究テーマは何か。それはまるで興味のないことであるため割愛する。僕がここに来た目的は、タイムマシンを開発することだ。そんなことは不可能だと思うだろう。実際に成功すれば、世界中から注目される。ただ僕は作ってしまったのだ。それもこっそりと。



それなら然るべき場所で発表し、億万長者になればいい。普通はそう思うだろう。しかし、そうなってしまえば開発者の僕ですら自由に使えなくなってしまう。僕がわざわざ医者をやめ、工学の道を歩んできた意味がない。



自由にタイムマシンを使ってしたいことは、過去の自分に過ちを犯させないよう注意喚起するといった些細なことではない。一人の男を、僕のヒーローを救いたかったのだ。



そのヒーローはずいぶん昔に死んでしまったミュージシャンだ。それも散弾銃を口にくわえ、自分自身で頭を吹き飛ばしたという悲しい死に方をした男。なぜ彼がそうなったかと言えば諸説あるが、心を病んでいたということは誰もが知っていることだった。



さて、ここまで話せば僕が医者になった理由や、タイムマシンを作った理由が分かるだろう。僕は若いころ彼の音楽を聴き、彼に憧れ、勇気と一緒に悲しみを覚えた。少しでも多くの人を心の病から救いたいと思ったことが医者を目指した理由だ。患者さんの中には笑顔を取り戻した人もいる。僕は満足していたが、彼を誰も救えなかったのかと悔しく思うようになった。彼が僕の原動力なのに、その彼が非業の死を遂げているのだ。悲しすぎるじゃないか。



ある日、僕はCDの上に一滴の涙を落としてしまった。彼が曲の中で、その苦悩を叫んでいる。歌っているのではない。助けを求めるように、まさに叫んでいるのだ。僕は彼を救おうと決意した。



タイムマシンというと、UFOやロケットのような形状を想像すると思うが、おわん型になった。時間という川をオールで漕いでいくため、ほとんど一寸法師のような格好で時間をさかのぼっていくことになる。過去は上流にあるため、未来へ行くよりも過去に行く方が大変だった。



僕は深夜の研究室に忍び込み、タイムマシンに飛び乗る。スイッチを入れると、おわんが川に浮かんだ。僕は上流に向かってオールを漕ぐ。目指す先は90年代だ。



90年あたりにたどり着いた頃には僕は汗だくだった。無理もない。7時間半という時間、オールで漕いでいたのだ。モーターをつけておけばよかった。



スイッチを切ると、ちょうど彼のコンサートが行われているホールの控室だった。肩で息をしながら彼が部屋に入ってくる。僕は物陰に隠れて彼を覗き見た。



汗だくの彼はコンサートの後に満足感を覚えているようではない。むしろ物憂げだ。僕が心配していると、部屋に怪しげな男が入ってきて、彼に小さな袋を渡した。震える手で彼は袋を開ける。僕からも注射器と白い粉が入った袋が見えた。薬物。彼は心の病に耐えきれず、薬物に頼り、身を滅ぼしたとも言われている。僕はとっさに声をかけてしまった。


「やめろ!」


彼は僕の存在と、薬物が見つかったことが合わさり二重に驚いている。


「何だ、お前は」

「何かと聞かれると、答えにくいな。医者だよ。精神科医」


彼は困惑している。


「もう薬物に手を出しているの?」

「今日が初めてだ」

「やめとこうよ」


僕の呑気な声に彼は弛緩した。


「つらいのは知ってるけど、僕が治療するから」

「俺の病気のことを知ってるのか?」

「有名だもん」


彼は絶句した。


「今、どんなお薬を飲んでるの?ここに書いてよ」


僕が紙を差し出すと、彼は素直に薬の名前を書き始めた。


「この薬くらいしかないのかー。90年だもんね」

「治らないと聞いてるけど」

「そうだね。でもうちの病院にくればマシになるよ」


彼は目を見開く。僕は我に返った。憧れの人が前にいる。


「よろしければ、握手を」

「お願いします!」


右手がかたく握られ、僕は人生で一番の感動を覚えた。ただ何となく、彼の握手と僕の握手は意味合いが違いそうだ。



彼も我に返ったようだ。


「どこから来たんだ?」

「話せば長いけれど、遠い国だよ。あまり想像できないと思う」

「そうか」


彼が遠い目をしているので、僕は伝える。


「知ってるよ。売れたくなかったし、別にヒーローになりたかった訳じゃないんだよね?」

「精神科医っていうのはすごいな」

「だから僕の国で、音楽を続けようよ」


静寂が続く。


「俺を知らない国があるのか?」

「知ってはいるけど、気付かないよ。自分のポスターさえ見なければ大丈夫」


やっと彼から笑顔が見えた。



僕はすべて事情を話した。彼は数十年先の未来で自分の音楽が通用するのか、そもそも生きていけるのかと心配している。


「ここにいたら死んじゃうんだよ?それよりいいじゃない」

「そうだな」


彼の声は震えている。



彼は名前を捨て、顔を整形し、僕の病院に通いながら地道に音楽活動を続けている。昔の自分が着ていたカーディガンがオークションにかけられ、数千万円で買い取られたニュースを見て笑っていた。


「着てくればよかった」

「本当だね」

「ギターにも高値がついたらしい」

「君は今でもみんなのヒーローなんだよ」


何もかも笑い飛ばす彼は、もう昔の苦しみを忘れてしまっているようだ。

好きな音楽をできる彼の幸せそうな顔は、僕の原動力だ。


時空を超えて迎えに行った彼は、きっとまた誰かに勇気を与えるのだろう。

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