Run away

増田朋美

Run away

雨が少し降って、のんびりした日であった。最近は、気候も穏やかになってきたので、良かったなと思われる季節である。もう暑さで悩まされることもないし、災害級の大雨が降ったり、停電がどうのこうのといわれる季節でもなくなった。やっと、安心して暮らせる季節が戻ってきたというか、そんな気がするのだった。

「そうですか。わかりました。引き続き、水穂さんの事を、よろしくおねがいします。」

と、ジョチさんは、電話をかけながらそういう事を言っている。

「ええ、構いません。そちらにいたほうが、多分きっと、居心地がいいというか、ずっと良い医療を受けることができると思いますから、しばらくそちらにいさせてあげてください。ああ、そうですか。妹さんが、そんな事をしてくれるようになりましたか。それは良かった。じゃあ、よろしくおねがいしますね。」

ジョチさんは、そう言いながら電話を切った。

「理事長さんどうしたんですか?誰から電話なんですか?」

と、製鉄所を利用している女性が、ジョチさんに聞いた。最近は、ここを利用する人の人数は減ってきては居るのだが、利用している女性たちの抱えている問題は大きくなっているような気がする。この製鉄所は、もともと、家や学校に居場所のない人が、居場所として勉強をしたり、デスクワークのような仕事をしたりするために、部屋を貸している施設なのである。もともと、居場所がない人たちであるが、それらに囚われて、ほかのことに関心を示せない人たちでもあるので、そのあたりをどう扱っていいのか、非常に難しいことでもある。つまり、自分のことで手一杯で、他人のことなど関心を示せないという人がとても多いと言うことだ。そんな利用者の一人が、ジョチさんに他人のことで声をかけたということは、大きな進歩なのだった。

「ええ、フランスのマークさんからです。水穂さんの容態は一進一退を繰り返してばかりですが、それでも、ゆっくり暮らしているようですよ。」

「そうなんですか。良かったですね。水穂さん、わたしが、こちらに入ってきたばかりの時、わたしに焼き芋くれて、嬉しかったなあ。」

ジョチさんがそう言うと女性利用者は、懐かしそうに言った。確かに、水穂さんは、新しく入ってきた利用者が孤立しないように、気を配っている様子だった。一応、製鉄所の掃除などの雑用係として、製鉄所に住み込みで働いていた水穂さんであったが、現在は、杉ちゃんと二人で、海外に出てしまっていた。

「それにしても、日本の暑さは、凄まじいものですね。いっときは、40度まで上がりましたものね。まあ、一日だけだったから、良かったようなもので、これが連日続いたら大変なことになるところでした。水穂さんには、日本から出てもらったほうが良かったと思います。」

ジョチさんがそう言うと、利用者は、そうですねといった。

「そうですね。まあ、フランスもきっと暑いでしょうけど、日本の暑さよりはマシかな。それはちゃんとわかってますから、水穂さんの事を責めたりすることはしませんよ。」

そういう彼女は、ちょっとうらやましいなという感じの言い方でもあった。

「なんですか。なにか困ったことでもあるんですか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「まあ、そうなんでしょうけどね。水穂さんはずっと病気で弱ってきているんだし、暑さから逃げて涼しいところに言ってしまっても、しょうがないと思いましたが、でも、なんか、逃げてしまっているようで、複雑な気持ちでして。」

と。女性は答える。

「まあ、その気持もわからないわけではないですよ。でも、あなたは、からだがあるんだし、少なくとも、エアコンを動かすことはできるのではありませんか?水穂さんには、それもできないということですよ。それは、ほかの人もそうです。もう少し、暑さが続くと思いますが、それは仕方ありませんね。」

ジョチさんは、にこやかに笑ってそういう事を言った。こういうセリフを言うときは、できるだけ不快な顔をしないで話しかけるのが一番なのである。重い雰囲気で言ってしまうと、それはいけないという事になってしまう。そういう事を感じさせずに、利用者たちに伝えるのは、いくつか技術が要る。

「まあ、この暑さはしばらく続くそうなので、エアコンを付けてくれて結構ですから、どんどん使ってくださいね。」

「そうなんですね。わかりました。」

と、利用者は、そういう事をいわれて、ハイと納得したように答えた。そういうふうにうまく伝われば、苦労はしないのだが、それがうまく伝わらないで、不快な方ばかり感じ取られてしまうことのほうが、実は多いのである。

「じゃあ私、勉強に戻ります。暑いせいで、ちっとも進まないですけど。あ、それは、もしかしたら、あたしが頭が悪いのも原因の一つかな。」

と、彼女は、できるだけ軽い口調でそういった。そういう口調で言ってくれるのなら、彼女なりに、気に留めないで、受け取ってくれたような気がしたのだ。

一方、杉ちゃんの方は、ちょうど時差があって、水穂さんに、お昼を食べさせている時間であった。お昼は、パンを牛乳で潰したパン粥である。パンはトラーが見つけてきてくれた、小麦粉を使わないで、そば粉でできているというパンだった。それを、牛乳にひたして、柔らかくして、病人でも食べられるように工夫した料理だった。

「ほら、食べてよ。こっちは日本の暑さのような、蒸し暑いところはないんだから、日本に比べたら、よっぽど快適だよ。」

と、杉ちゃんは、水穂さんの口元へお匙を持っていくのだが、水穂さんは、どうしても、食べようとしてくれないのだった。杉ちゃんが、なんで食べてくれないのかなと困った顔をしていると、

「ほら水穂、栄養を取らなくちゃ。食べて元気をつけないと、病気が治らないわよ。しっかり食べて、力をつけて、夏に立ち向かいましょ。」

と、トラーが客用寝室にやってきた。そういうところは、由紀子さんにも近いようなところがあるが、それよりも、かなり強引だった。

「ほら、おとらちゃんもそう言っている。しっかり食べなくちゃ。あんまり、食べないで弱ってばかりいると、日本人は、なんて忍耐力がないんだって、バカにされちゃうよ。」

と、杉ちゃんが言うと、水穂さんは悲しそうな顔をした。

「そんな顔しないでよ。それが嫌なら、ちゃんとご飯を食べるんだな。だって、考えても見ろ。今頃日本では、39度とか、平気で行っていると思うよ。だけど僕達だけ、それから逃げて、こっちへこさせてもらっているんだから、ちゃんとご飯を食べて、ご恩に答えるんだ。」

「あたしは、逃げてもいいと思うわ。」

杉ちゃんがそう言うと、トラーはすぐにそういった。

「逃げてもいいって?」

杉ちゃんがまた聞くと、

「今朝のニュース番組でも言ってたわよ。日本で、驚くほどの猛暑だって。なんでも、たじみというところでは、40度を超えたそうね。まあ、こっちは、そこまで行かないけど、40度なんてなったら、水穂はとても住めやしないわ。それがはっきりわかっているんだから、逃げたっていいと私は思う。」

と、トラーは、にこやかに笑っていった。

「あたしたちは、そういう水穂のこと、ちゃんと見てるから、水穂が面白半分でこっちに来ているわけではないってことは、知ってるわよ。だから安心してこっちで暮らしてね。」

「まあ、そうなんだけどね、それはおとらちゃんが水穂さんに特別な感情があるからで、そういうことが一切なくてただ仕事だけの関係だったら、とうの昔に破綻してるよ。ほら、そうならないためにも、ご飯を食べて、体力つけような。」

と、杉ちゃんが言うと、水穂さんは、はいと小さい声で言って、さじを口の中へ入れてくれた。よくかんで飲み込んでくれたのだが、飲み込もうとすると、空気が入ってしまうためか、それとも単に食べないでいるせいで、精神的にからだが受け付けないためなのか不詳だが、水穂さんは、咳き込んでしまうのだった。トラーが急いでその口もとを拭いてやると、拭いたちり紙は、真っ赤に染まってしまうのであった。しかも、朱に近い真っ赤であり、鮮血であった。やれやれ、まあやるよと、杉ちゃんは嫌そうなかおをする。

「咳き込んでも、しっかり食べるだよ。人間は食べることしかエネルギーを補給できない動物なんだからさ!」

と、杉ちゃんの言うとおりなのであるが、水穂さんには、それは難しいようだ。またお匙を口に入れても、やっぱり咳き込んでしまうのだ。

「おい!しっかりしてくれ!頑張って、なんとかしようと、思ってくれよ!」

杉ちゃんは仕舞いには呆れた顔でそういうのであるが、

「水穂、本当に食べる気がしないのね。今度ベーカー先生が来たら、食欲を出させる薬とか、そういうものがあるかどうか、あたし、聞いてみるわ。」

「へえ、おとらちゃん、結構、前向きになったじゃないか。なんだか、おとらちゃんも、明るくなったねえ。それは、良かったよ。」

トラーがそう提案すると、杉ちゃんは、彼女ににこやかに言った。確かに、トラーも、以前に比べればずっと明るくなったとマークさんも言っている。そこはとても嬉しいことなのだが、水穂さんの容態はいつまで経っても変わらないので困ってしまう。

「まあ、そうだけど、今のことは、杉ちゃんに教えてもらったのよ。あたしは。」

と、トラーは、言った。

「僕が何を教えたと言うんだ?」

杉ちゃんが言うと、

「ええ。杉ちゃんいつも言っているじゃないの。事実はただあるだけで、ほかになにもない、人間にできることは、それに対してどうしようかを考えることだけだって。逆をいえば、それさえしていればいいんだって、あたし、感動したのよ。今までそういう事教えてくれた人、誰もいなかったわ。皆、家族に迷惑を掛けるなとか、そういう事は言ってくれるんだけど、具体的にどうしたらいいのかは、何も教えてくれなかった。だから、杉ちゃんが教えてくれたのよ。」

と、彼女は、そういうのである。

「はあ、そうなのか、それは、ただ、華厳経に書いてあっただけのことなんだけどねえ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「へえ、その華厳経というのは、どんな本なの?」

と、トラーは言った。杉ちゃんはちょっと水穂さんを気にするが、

「あのね、仏教の経典の一つでね、大事な経典の一つとしてあげられている大事な書物だ。僕がいっていることは、だいたい観音講で、庵主さまに習った事をそのまま言っているだけでなんの意味もないよ。」

と答えた。

「へえ、そうなのね。日本人は、土着の宗教なんて、葬式の時しか使わないって聞いたけど、そうでもないのね。」

トラーはちょっと興味深そうに言っている。

「いやあ、日本の仏教を学ぶために、観音講というグループを作って、勉強しているやつも居る。まあ、ほんの一握りかもしれないけどさ。でも、ちゃんと日本の伝統を勉強しようとするやつだって居るよ。すべての日本人が、チャラチャラして、ヘラヘラしている奴らばかりじゃないんだ。」

と、杉ちゃんは急いで話した。

「そういうことなのね。そういうしっかりした人たちも居るのかあ。あたしもそういうグループがあったら入りたいわ。そういうなんていうのかな、哲学的なグループっていうの?そういうところに言ったら、しっかり行き方も学べると思うの。」

トラーは、羨ましそうに言った。

「日本人は、勤勉な人だっていうし、そういうグループではきっと、しっかり勉強しようという意識の高い人が集まるんだろうな。あたしは、学校に行っても、真剣に勉強している人に巡り合ったことないし。あーあ、一度でいいから真剣に勉強している環境に行ってみたいわ。」

「そんなところ、二度とないと思うけど、少なくとも、現実から逃避しようとして、勉強をしようとしている方は居ると思います。」

と、水穂さんが静かにトラーに言った。

「ただ、そういう人たちは、トラーさんのような若い人を受け入れてくれるかどうかが問題です。若い人が今の日本を作ったって、恨んでいる人が多いのではありませんか?」

「そうだねえ、まず、自分は悪人ではないと、偉い人たちに信じてもらえるかが、鍵だなあ。偉い人たちは、若いやつは皆、悪人だと思っているから。」

杉ちゃんも、水穂さんに付け加えるように言った。

「そうなのね。まあ、あたしにはかなわないのぞみだけど。でも、あたし、希望は持っているわよ。いつか、そういうふうに、真剣に学ぼうとしている人がいるところに行けるって、信じてるわ。まずはじめに、できるって思わなければ、何も始まらないって、教わったことがあるから。」

トラーがそう言うと、

「そうだね。逃げることは同時に信じることでもあるんだな。それはどこの国家でもそうだ。」

と、杉ちゃんが結論を出した。

「それでは、あたし今度ベーカー先生が来たら、食欲を出させる薬があるかどうか、聞いてみてあげるから、水穂も、できる限りご飯を食べてよ。」

トラーは、にこやかに笑って、水穂さんに言った。不思議なものだ。猛暑の日本から逃げてきたはずなのに、逃げた先で、水穂さんのことを、これまで以上に助けてくれる人が現れるのだから。水穂さんは、少し咳き込んだが、トラーと杉ちゃんは、急いで背中を擦って、中身を吐き出しやすくしてあげるのだった。

そんな事をしているとはつゆ知らない、日本では。

「なんですか、蘭さん。ここへ来ないでくれませんかね。あなたがいくら文句を言ったって、水穂さんは、回復しなければ、帰ってきませんよ。」

と、ジョチさんは、製鉄所にやってきた蘭にそういうのだった。蘭という人は、水穂さんのことが、本当に気になるのか、時々製鉄所にやってきて、水穂はまだ帰ってこないのかと、ジョチさんやほかの利用者に聞くのだ。

「そうだけど。お前、恥ずかしくないのか?」

と蘭はジョチさんに聞いた。

「恥ずかしくないって何がですか?僕は何も恥ずかしい事はしておりませんが?」

とジョチさんが聞くと、

「お前のやっていることは、水穂を安全なところに逃したと、英雄ぶっているのかもしれないが、実は、水穂を左遷させたのと同じようなものだぞ!」

と蘭はでかい声で言った。

「何を言っているんですか。蘭さんも変なことはいわないでもらいたいものですね。左遷なんて変な事は言わないで貰えないでしょうか。別に僕達は、水穂さんが邪魔だとか、逃げてほしいとか、そういう事は一度も言いませんでした。ただ、マークさんたちが、日本でものすごい猛暑が続いていることを、テレビかなんかで聞いてくてれて、それでは、水穂さんは、とてもいられないから、こっちで、暮らしたらどうか、と提案してくれただけです。水穂さんには、とても絶えられるものではないでしょうということでね。そのどこが行けないというのですか?」

と、ジョチさんが言うと、

「だからその現実逃避が行けないと言っているんだ!お前がしたことは、水穂を暑さから逃してやっていることではなく、水穂が邪魔だから、消しちまえということで、ただ、彼を、遠く離れた海外にやってしまった、それだけのことなんだぞ!お前は、善人ぶってそれを良いことをしたというように解釈しているんだろうが、そのような事は、真実から、顔を反らせているだけだ。真実は、水穂の事をバカにして居るだけのことだ!」

と蘭は、急いで言った。

「だから、そのような事は何もありません。蘭さんも、変な勘違いは、やめてもらいたいものですね。僕たちがしたことは、ただ、マークさんとつながりがあってそれを、利用させてもらっただけのことですよ。それだけのことです。いいですか、40度を超えるような暑さの中、水穂さんが持つと思いますか?それをちゃんと考えてくれませんかね。」

ジョチさんは、蘭の回答に、冷静な顔のままそういう事を言った。きっとスギちゃんだったら、先程の華厳経に書いてあったこと、つまり、人にできることは事実に対してどうすればいいのかを考えることだけだと、発言するに違いない。でも、蘭は、そういう言い方は嫌いだった。なんとしてでも、水穂さんを健康な体に戻してやらなければという気持ちがあった。それをするためには、蘭が、自分のちからで、水穂産に医療を受けさせることだと思い込んでいた。

「蘭さん、人に任せてもいいじゃありませんか。なんでも自分でなにかしようなんて、人間は絶対できませんよ。誰か他人に頼るしかできないことだってあります。それは、もしかしたら、国を変える必要があるかもしれません。逆をいえば、いい時代ですよ。そうやって、外国の人にお願いできるんだから。それを喜んだほうがいいんじゃありませんか?」

と、ジョチさんは、蘭に呆れたような顔で言った。確かに、そういうことが気軽にできて、気軽に国際電話で話せるのは、たしかに良い世の中になったのかもしれないけど、、、。でも蘭は、なにか寂しいような気がしてしまうのだ。

「でも、水穂たちを、海外へ飛ばしてしまった。」

「蘭さん、もうくよくよしないでください。日本人は、どうしても逃げないで立ち向かうとか、そういう事を美徳にするようですけど、今はこんなに海外の思想が入ってきているんですから、少し改めてもいいんじゃありませんか。そういうわけですから、逃げたって、何も、悪いことではありません。水穂さんのことは、マークさんたちにおまかせして、蘭さんは蘭さんに課されたことに打ち込めばいいのです。」

ジョチさんは、国会議員を動かすくらいの口の旨さを持っている。だけど蘭にはそういう武器はまるでなかった。今回の波布とマングースの勝負は、明らかに波布の価値であり、マングースは完敗した。

「わかったよ。お前の言うことだから、ろくなことではないと思うけど。」

「どうぞどなたにでもお話ください。そうすれば、蘭さんがかなり偏った考えをお持ちだと言うことがわかると思います。」

この二人、やっぱり波布とマングースだった。絶対、仲の良くなることはないだろうなと思われた。

一方、水穂さんの方は、杉ちゃんやマークさんから、ご飯をもらっても何も嬉しそうにしなかった。彼自身も、悲しい気持ちをしているのだろうか。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Run away 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る