第9話 1844年

 壮年の男は、机の上に置かれた一冊の本を手にして深いため息をついた。

『創造の自然史の痕跡』と題したこの本は、平易な文章で読みやすく魅惑的な内容で、あらゆる階級の読者に受け、何万部も売れるベストセラーとなり国中を騒がせていた。

 著者は匿名とされているが、どこかのアマチュア学者によるものと推察していた。

 というのも、ところどころ間違いがあるからだ。

 地質学に関してはまだいい。だが化学や動物学の分野ではごちゃまぜの知識が目立ち、理論が古いところもある。欠陥だらけだ。

 だが問題はそこではない。

 物議ぶつぎをかもしていたのは「生物の創造が神の意志ではなく、自然法則が作用した結果」さらには「人間がサルや類人猿から生じた」とはっきり述べていた点だ。

 宗教界だけではなく、地質学者、天文学者、博物学者、ありとあらゆる分野の人間たちがこぞって手厳しく非難した。

 反発は予想はしていたが、これほどまでとは想像を超えていた。

 何より尊敬する恩師の一人が「世界はひっくり返されることに耐えられない」と苦悩の叫びをあげたのはかなりのショックであった。

 ミスター痕跡め、厄介なことをしてくれた、と当初は感じていたが、世間の反応を前にもっと用心深く行動しなくては自戒させてくれたことに感謝している。

 それに、この本によって初めてこの理論に一般大衆が接することができたのだ。


 机の中にしまっていた秘密のノートブックを取り出し開く。

 今年中にこの自説を発表しようと考えていたが、さらに証拠を集め理論を構築しなくてはならない。

 だが、どれだけ年月を重ねようとも苦悩しようとも、いずれ発表してみせる。

 これまでの世界の殻にヒビが入り、道はできた。あとは打ち破るだけだ。

 題名は決まっている。

『自然淘汰による種の起源』だ。

 男――チャールズ・ダーウィンは、ノートを静かに元の場所へと戻した。

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