第8話 ヒカリアレ

「研究室の鍵だ。わがまま言って今日まで期限を伸ばしてしまってすまない」

 対面に座ったウィリアムに鍵を手渡すと、彼は肩をすくめた。

「お安い御用さ。しかしまさか本当にあの膨大な数の標本をすべて片付けてしまうとはな。大したものだよ」

「全部ではないよ。まだ一つここに残っている」

 懐から取り出した例の頭蓋冠を机の上に置くと、ウィリアムの顔がわずかにかげった。

「君が探していたものではないかな?」

「どうしてそう思う?」

「〝過去に何がされたのか、今の私たちは見ることができない。ただ推論がその跡を示してくれるだけである〟先生が尊敬していたルクレティアの言葉だ。私が今から述べるのはただの推測に過ぎないよ」

 ウィリアムの顔に笑みが浮かぶ。

 学生時代、いつも見ていた彼の笑顔が今は張り付いたように見えた。

「この頭蓋冠が見つかった洞窟は、鉄道工事のために潰されるそうだ。けれど当初、あの地域一帯は開発予定地には入っていなかった。それがどういう訳か急遽きゅうきょ路線が変更したと調べがついている。残念ながら発見場所がなくなればこの化石の記録は不十分のままで、どこにも発表できないだろう。捏造ねつぞうだと言われかねないからね。洪水以前の人類の謎の解明につながる重大な発見になり得たのに、なかったことにしたい誰かがルートを変えるように進言しんげんしたようだ。そしてその誰かに、先生はこの頭蓋冠が渡ることを恐れて暗号だけを残して隠していた」

 湧き上がる感情を抑え、ウィリアムの目を見据えて言う。

「先生と君が言い争っているのを、たまたま隣の部屋にいたアーサーが見かけたと言っていたよ。詳しい内容までは分からなかったが、ミッシングリンクという言葉を君が言っていたのをはっきり聞いたそうだ。先生はそれについての論文を書いていたそうだが、君ならどこにあるのか知っているのではないか? それに、君と調査に例の洞窟へ出かけてたと先生の日記に書かれていたよ。なぁウィリアム、あの洞窟の存在を知っていて、なおかつこの発見の真の意味を理解できる人物は君しかいないんだ」

 彼の眉間にシワがより笑顔が歪む。居心地悪そうにソファに座りなおし腕を組み、口を開いた。

「だからこそ、その危険性が分かるんだよ。お前のことだ。先生が書いていた論文の内容をだいたい推測できているんじゃないか?」

「変化を重ねて生まれた、ヒトとサルの間の空白を埋める存在の示唆しさ

「そうだ。ヒトは元々サルだったなんて、社会秩序を混乱におとしいれかねない危険な思想だ。もしヒトという種がサルから変化して生まれたのならば。ヒトが神に祝福され魂を注がれた特別な存在でないのなら。他の動物と同じなら。神が自らの姿を似せてヒトを創られなかったのなら――神の居場所はどこにある?」

 重苦しい沈黙が流れる。

 あの頭蓋冠の正体を知った時に感じた寒気。

 それは先生の発見が、人間が頂点に立つと神に約束され創造された世界を土台から打ち崩し、科学と宗教の対立を引き起こしかねないという暗い予感だった。

「分からない。私も背筋をゾッとさせる恐ろしい考えだと思う。だが理論はいつも仮説にすぎない。先生の主張が本当に正しいのか、多くの人間を交えて色んな角度から検証をするべきだった。だからこそ、発見をなかったことにしてしまった君の選択を非常に残念に思う」

 ウィリアムは顔を歪め、首を振った。

「俺はただ、先生が今一度自分が何をしているのか考えなおしてもらいたかった。けれど俺がいくら言っても聞こうとしなかったから、学長に論文の内容を打ち明けた。その結果がこれだ。今回は研究室が取り潰されるだけで済んだ。けれど、これ以上踏み込むならば君もただではすまない。これは友としての忠告であり警告だ」

 話は終わりだ、と言いたげにウィリアムは立ち上がり扉へと向かった。

「ウィリアム」

 彼の歩みがぴたりと止まる。

 ずいぶん遠くなってしまった背中に、最後に問いたかった。

「世界中の知的探求はとどまることはない。今日もどこかで新たな発見が見つかっている。一つ一つは水の一滴に過ぎないだろう。けれどその一滴が川となりやがて知識の洪水を引き起こし、いつの日にかせき止めている堤防を押し流す。それは百年後、いやもっと早いかもしれない。いずれ今回のような人のあり方を変える発見がなされるだろう。果てしなく広がっていく世界に、聖書が応えられなくなった時。この世界はどうなると思う?」

 ウィリアムは振り返らずに言った。

「願わくば、そのような暗黒の世界が訪れないよう祈るだけだ」



 カーン、カーンとツルハシが岩を削る音があたりに響き渡る。

 鉄道工事の中止を求めようにも何もできず、先生の発見は永遠に手の届かぬ場所になってしまった。

 古代の謎の解明につながる手がかりが、科学の発達の象徴とも言われる蒸気機関車によって潰されるとは、なんと皮肉めいていた光景だろう。

 隣でただずむアーサーは工事の様子を何も言わずに見ていた。

 その暗い眼差しは、生き物のすべてを知りたいと夢見て諦めた、かつての己に似ていた。光を失ったばかりの彼を絶望させ、道を閉ざしたくなかった。

「〝われわれに分別と理性と知性を授けた神がよもや、それらを使わせまいとするはずがない〟」

「……ガリレオ」

 アーサーはこちらに顔を向けずにぽつりと言った。

「ああ。かつて覆い隠されそうになったガリレオの科学は、時を超えて今に息づいている。この世界がどうなっているのか知りたいというヒトの想いがある限り、道は消えない。それにどんな形であれ、私は先生の発見を発表するよ」

 彼は顔をあげ、目を合わせた。瞳に光が見えた。

「本当に?」

「ああ、約束だ」

 何があろうと、もう逃げない。先生の発見をなかったことになんてさせない。

 決意を前に、足を進めた。

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