第54話

聞いていて何かに苛立つなんて久しぶりだった。

あまりに腹が立って気がつけば体が動きだしていたのだから。


「あら、ロイ殿下。ご挨拶申し上げます。この度はおめでとうございます」

貴婦人たちは心にもないような感じで口々にロイに挨拶をした。

ロイはぐっと堪えようとしたが我慢ならなかった。

「私たちはこれにて失礼します。彼女が聞く価値もない言葉を聞いているようなので」

ロイはレイニーの手を取って微笑んだが言葉の最後は自分でも気がついていないほど凄まじい睨み方だった。


ロイは言いたいことを言い切ってレイニーの手を取って歩き出した。

ソフィアを残してその場を離れていることすら認識せずただレイニーの手を取って会場から出ようとしていた。

慌ててレイニーが貴娟人たちに会釈だけしてそのままついて行く。

とはいえロイ自身どこに向かっているのか正確には分からなかった。

ただただレイニーが言われなくても済む言葉たちを彼女が黙って聞いていることが気に入らなくて、そんな言葉は聞いて欲しくなくて何も考えずに身体が勝手に動いてしまった。

ロイはこんなことは滅多にない。

この後のあの場を誰が収集するのかとかそんなこと今はどうでも良くてただレイニーのことしか考えられなかった。


「で、殿下…!でん…」

怒りで頭に血が登ったロイにレイニーの声は届かない。

ただロイの背中だけでもレイニーのために怒っているのが分かる。

「ロ…ロイ!」

レイニーが意を決して名前を呼んだからロイはようやくぴたりと歩くのをやめた。

実はロイもレイニーに名前で呼んで構わないと伝えていたがなかなかレイニーは呼ぼうとしなかった。

なので名前を呼ばれて、ようやく呼んでくれて驚いて嬉しくて立ち止まった。

ロイは反射的に振り返る。

するとやっと視線のあったロイにレイニーは微笑んでいた。

「私の母のために気分を害してしまってごめんなさい…それと連れ出してくれてありがとうございます」

レイニーはロイが痛くなるほど握っていた自分の手を見た。

そしてロイの手を包むように握る。

その姿がまるで初めて誰かに守って貰えた小さな子供のようでロイは泣きそうになった。

彼女のせいではないし、そもそも子供は守ってもらうのが当たり前なのに。

喉に詰まる苦しい思いを隠すために思わずレイニーを抱きしめた。

「で、殿下?」

レイニーが動揺しているのが声に乗っている。

しかしロイが何も言わないのでレイニーもそのままロイの背中をとんとん、と優しく撫でた。

しばらく沈黙した後にロイがぼそっと呟いた。

「名前…」

「はい?」

聞き返すレイニーにもう一度言う。

「名前で呼んでくれて嬉しかったよ」

そう言うのが今のロイの精一杯だった。

もう一度呼んで欲しいとは言えずにただお礼だけ。

それにレイニーは気がついたのか、そうでは無いのか分からないけれどふふっと笑って言う。

「ロイに私の声が届いて欲しかったからです」

そう言ってもう一度名前を呼ばれてロイはぱっとレイニーから身体を離して彼女を見つめた。

するとレイニーは両手で顔を覆う。

「み、見ないでください。これでもかなり…だいぶ勇気を出して呼んだんです。顔が見えなかったから言えたけどまだ面と向かって言うのは恥ずかしくて慣れません…」

そう言ってひとりで言い訳をするレイニーが可愛くなった。

つい笑ってしまう。

「わ、笑わないでください、殿下」

レイニーが慌ててそう言うとロイがレイニーの顔をのぞき込む。

「こっち見て、名前で呼んでよ」

そんな優しい表情を見たレイニーは顔を覆う手を少しだけ外して目元だけを見せて言った。

「…ロイ」

するとロイは満足したように笑って答えた。

「うん、君の夫になるやつの名前」

そう言われてレイニーはまた顔を覆ったが結局手を外して唇を尖らせた。

「ずるい、反則です」

拗ねたようなむうっとしたように言うレイニーの初めて見る表情にどきりとする。


そしてそんなレイニーに気がつけばロイの怒りは静かになり笑い出していた。

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