水辺の二人

吉原司

水辺の二人

 9月に入っても未だ暑さ冷めやらぬ日々が続いていた。吉澤奏多よしざわかなたは、吉祥寺の自宅から程遠い森の道外れを分け入る様に歩き続けた。蝉時雨がけたたましい夕暮れ時だった。春先に緊急事態宣言が発令されて以来、勤務先ではテレワークが継続され、奏多の心身を非常に楽なものとしていた。殺人的な朝の吉祥寺駅のラッシュを思い出すだけで未だに心が冷たくなる。帰宅の所要時間が無くなったため、終業後には自転車を走らせて武蔵野市内を散策することが出来るようになった。奏多は生まれてこの方暮らし続けている実家のある吉祥寺以外の市内をほとんど知ることがなかった。ゆっくりと様々な場所を観察することで、自身の暮らす街の容貌を再発見出来たことは、奏多にとって新鮮な経験であった。その中で住宅街の一角に位置する森に小さい神秘的な池を見つけた。陽光が斜めに差し込むと水面が眩しいほどに煌めく綺麗な池だった。底が見渡せるほど透き通っていて、初めて見つけた際には、あまりの美しさに息を呑んだ。以来、奏多はお気に入りとなった誰とも出くわすことのないこのほとりを頻繁に訪れる様になった。今日もブナの木々を抜けた先に美しい水辺の景色が広がっていた。透き通った水面には奏多の顔がしっかりと映し出され、時折吹く風やアメンボの滑走が水面に小波を起こし、水面の奏多の顔を淡く揺らした。


「やあ」

不意に前方から声がして奏多はどきりとした。目の前には一人のマスクを着けた男が窪地に座り、こちらを眺めているのが目に入った。

「脅かしてごめんね。ここで人を見かけるなんて、滅多にないことだから」

マスクの下で男は、からからと笑い声を上げた。はっきりと表情を捉えることは出来ないが、目尻の周りを見る限りは、まだ年若い男の様に見えた。

「ここを知っているということは、君も桜野小さくらのしょうの出身だね。何年生まれかな?」

出身校を勝手に断定されて戸惑った奏多は、自分が吉祥寺の出身であることを伝えた。

「そうか。君は吉祥寺の子なんだね。どうりでお洒落な感じがするわけだ。ようこそ桜堤さくらづつみへ」

男は適当なことを言いながら、再度笑った。桜堤。男の口から地名とおぼしき名が出て、奏多は初めて自分がいる場所の名を知った。

「ここは僕が小学生の頃に友達と秘密基地を造って遊んだ場所でね。僕らの時代には、桜野小の子供達は代々この場所を上の子達から引き継いで遊び場としていたんだ。それで君も同じかと思っていたんだけど、まさか吉祥寺の子だったとは」

見知らぬ男は、喜々としながら奏多に語り掛けた。初対面の人間に対して、よく喋る男だと思った。そして、寂しい人なのだろうかとも思った。

「ここで出会ったのも何かの縁だし、もしよかったらこの老いぼれの話をちょっと聞いてもらえないかな?最近はこういうご時世だから、人とほとんど会話をしてなくてね。これだけ距離が開いて、お互いマスクをつけてるから大丈夫だろう」

おどけるかの様な口調とは裏腹に男の眼差しは真摯であった。特段予定もなかった奏多はそれに同意し、男は礼を言い水を得た魚の如く滔々と続けた。

「僕は今年で31になるんだけど、生まれてからずっとこの桜堤で育って、未だに他の土地で暮らしたことは無いんだ。ここは最寄り駅からは遠い変哲もないただの住宅街なんだけどね。それでも僕にとってはずっと暮らしてきた町だから、それなりに愛着もあるんだ。他の人からはいい歳なんだから実家を出て自活しろと言われたこともあったけど、今までこの生活には不満もなかったから、出ていく理由なんて無かったんだよね」

奏多はこの武蔵野で自分と同じ境遇の男と出くわしたことに奇縁を感じた。

「僕の家は、父と母、妹の四人家族だったんだけどね。別に特別仲の良い家族ではなかったけど、今まできちんとした家族の在り方なんて考えたこともなかったから、それが自分の中で当たり前となっていたんだけどね。今年は、コロナの影響で皆家に居ることが多くなったでしょ?顔を合わせることが多くなった父親と母親の言い合いが多くなってね。今までにない様な激しいやり取りもしたあげくに、父親が家を出て行ってしまったんだ。世間では熟年離婚なんていう言葉もあるくらいだから、そんなの良くある話だと言われればそれまでなんだけど、それでも僕は悲しかったな。家族という形が壊れるのを目の当たりにするのは」

マスク越しの男の表情に翳りが帯びたのが見て取れた。父母の関係が悪くは無い奏多ではあったが、男の立場を考えると彼の悲しみが分かる様な気がした。

「前に新聞でコロナ禍が始まってから在宅時間が増えたことで、家族同士の絆が深まったなんていう記事を目にしたこともあったけど、あんなのは嘘っぱちだと思ったね。今まで潜んでいたそこにあったものが顕在化されてしまったんだ。コロナウイルスによってね」

そう言って男はポケットから手のひら大の携帯用消毒スプレーを取り出して、自らの手に噴霧した。

「もうすっかりこれが癖になっちゃって。ちょっとやりすぎかなとは自分でも思ってるんだ。それでもこれが無いと落ち着かなくてね。月にどのくらい買ってると思う?この前計算してみたら、家で使うのを合わせると10本くらいにはなってたんだ。なかなかばかにならないけど、やっぱり怖かったから。これほどコロナに関する情報が溢れているのに、どうすれば防げるのかはっきりしたことはよく分からないじゃない。マスク無しで人と喋るのが危険なことは分かる。それでも、物についたウイルスから感染するとしたらとか思うとね。どれくらい効果があるのかは分からないけど、やらないよりはマシかなと思ってたらこうなったんだ。自分だけがかかるのならまだしも、年老いた母と妹にうつしてしまったらなんて考えてしまうと、やっぱり怖くてね」

男は再びスプレーを手に馴染ませた。その様子を見ていた奏多の視線に気付き、男は苦笑して見せた。

「以前は仕事も順調だったんだ。市内の小さなLPガスを扱ってる会社に勤めていてね。アットホームな雰囲気で居心地は良かったんだ。この様な状況になってからは、飲食店が休業したり時短営業になったでしょ?その影響でガスの売れ行きが落ちてしまってね。もともと経営に余裕の無かった会社に更なる打撃となってしまって、一番若かった僕がクビになっちゃったんだ。これまで会社には自分なりに尽くしてきたつもりだったんだけどね」

男の表情に言いようのない無念さが滲み出ていた。やり場のない憤りに際して、虚しさが溢れているかの様だった。

「今までは一番大切なものは友達だと思ってた。辛いことや困ったことがあれば、友達同士で支えあっていけると思ってた。コロナが始まって最初の頃は、zoomで集まって励ましの言葉なんかを交わしてたんだけどね。それでも自分の辛いことや悩みごとを話してもなかなか理解してもらえなくて。その時分かったんだ。ああ、僕らは表面上の関係だけだったんだなって。でも、それはしょうがないことだと思うんだ。もし自分が逆の立場だったら、相手に対して親身になって言えることも出来ることも無いからね。そう思うと無力感しかなくてね。人間不信になってる自分が居ることが分かって、もう連絡を取らなくなってしまったんだ」

水辺に佇む二人の不織布マスクを身に着けた男達の間を強い風が吹き抜けた。うだるような暑さの中、その風は一瞬の涼気をもたらし、水際に群生する葦を一斉に揺らした。

「そろそろ行かないと。明日、この街を出て広島に引っ越すんだ。まだまだ荷物が片付いてなくてね。向こうで新しい仕事が決まったんだ。いい歳して恥ずかしいことなんだけど、初めての見知らぬ街での一人暮らしというのはなんだか緊張するんだ。時間を掛けて慣れていけばいいかなとは思っているんだけど」

男は腰を上げてズボンに付いた土を払い、スプレーを手にまぶした。

「君の話も聞かなきゃいけないのに、一方的に喋ってばかりで申し訳なかったね。でも、聞いてくれてありがとう。お陰ですっきりとした気持ちで新生活に臨むことが出来そうだよ。時間に余裕があってこういう状況じゃなかったら、焼肉でもご馳走したかったところなんだけどね」

「あの」

去り際の男の後ろ姿に奏多は声を掛けた。

「もしもコロナが収まったら、やりたい事ってありますか?」

振り返った男の顔は、一瞬呆気にとられたかの如く目を見開いた格好となったが、直ぐに柔和なものへと変わった。

「君には人間不信だとか散々偉そうなことを言った手前恥ずかしいんだけどね。やっぱり人に会いに行くかな。孤独というのは耐え難いものだからね。これもコロナのせいで分かったことなんだけど。また友達と会って、酒でも飲んで、他愛もない話をして笑いあう。それだけかな。僕がしたいことは」

照れくささを隠すかのように俯きながら話した男は、顔を上げると決まり悪そうな笑顔を浮かべた。それに釣られて奏多からも笑みがこぼれた。

「同じです。僕も久しく人と会ってないですから」

「またいつか会えると思うよ。ワクチンが出来れば、この状況も変わってくるんじゃないのかな。変わらないものなんてこの世の中にはないんだから」

今、世界では種々のワクチンが治験段階に入っているという。これが実用化された暁には、世界が正常化を取り戻す極めて重要な一歩を踏み出せるという。しかし、現時点でその結果は、神のみぞ知るものとなっている。

「そうですね。そうなることを願ってます」

「希望だけは捨てちゃだめだよ。どんな時でもね」

「はい。広島でのご活躍を期待しております」

「君もね。身体にだけは気をつけるんだよ」

そう言って男は踵を返し、別れの挨拶の如く左手を軽く振り、ブナの木々の奥へと消えた。


 

 

 

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水辺の二人 吉原司 @toro3390

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