第33話 それくらいの役得はあってもいいと思います


「……それ、大丈夫なのか?」

「大丈夫か大丈夫でないかと聞かれれば、大丈夫ではありません。ただ……父親の方は少し事情が違うというか、なんというか」


 悠莉が言いよどむなんて珍しい。

 思考の時間を経て、話を続ける。


「……私は両親からないもの同然に扱われてきました。母親は私を嫌っていましたが、父親はどちらかというと……私への興味関心がないと言えばいいのでしょうか。基本的に私がやりたいようにさせてくれますし、お金が必要ならそれも出してくれます。ですが、そこには血が繋がっているからという義務感しかないように感じられて……」

「…………」


 それは、どうなのだろうか。


 人間が生きるためにお金は必要不可欠だ。

 だけど、お金があれば幸福に生きられるかと問われれば、俺は違うと考える。


 お金だけでは満たされないものもある。


「父親は直接的に私へどうこう言ってくることはありません。それどころか、何をしても何もしません。私を自由にさせているというよりは、私への干渉を最小限にしている感じに近いでしょう」

「……それで、悠莉はいいのか?」

「お互いその方が利益になるので。むしろ、嫌っているはずの私に養育費を払ってくれていることに感謝すらしているくらいです」


 悠莉の笑顔はあまりにも寂しかった。

 それが本心であるとわかってしまうのが、余計に悲しい。


 自然と手に力が入り、強く握られる。


「……蓮くん?」

「ん?」

「いえ、その……もしかして、私のために怒ってくれているんですか」

「え? あー……怒るっていうか、勝手に怒ってたっていうか」

「なんですかそれ」


 要領を得ない返答に、悠莉は目を細めて笑った。


 人の家庭の事情に首を突っ込むなんてお節介もいいところだ。

 第一、俺に悠莉の境遇きょうぐうをどうにかする力なんてない。

 出来ることなんて、こういう時に一緒にいて話を聞く程度。


 それくらいしか、俺ができることはない。


「もしまた俺の胸が必要なら言ってくれ」

「……はい。多分、借りることになりそうです」


 控えめに照れつつも悠莉は頷く。


 それはつまり、父親と会って確実に傷つくとわかっていることになる。

 選択をしたのは悠莉で、俺に止める権利はない。


「無理はするなよ」

「無理をする気はありません。また泣き顔を見られたくはないですから」

「泣くこと前提かよ」

「……情けない話ですけど、自信はないので」

「そう言えるだけでもマシ……か?」

「はい。前までは話せる人もいませんでしたし、それに比べれば進歩です」


 ね? と同意を求めるような目を向けられても反応に困る。


「……ここ、笑うところですよ?」

「あまりにもわかりにくい振りをありがとう。次は笑うわ」

「そうしてくれた方が楽なので助かります」


 そこまで話して、悠莉は再び凭れかかってきた。


 揺れた白い髪、特有の甘い香りが漂ってくる。

 触れ合った体温は暖かく、息遣いは落ち着いていた。

 伏せられた長い睫毛まつげ、すっと通った鼻梁びりょうのラインが美しい。


 その下にある桜色の瑞々しい唇へと視線が吸い寄せられ、目を逸らす。


「……悠莉、頼むから寝ないでくれよ」

「眠ってしまっても蓮くんは何もしませんよね?」

「そりゃあしないけど……そういう問題じゃなくて。男の前で無防備な姿をさらすのはよくない。悠莉は……ほら、可愛いんだからさ」

「……なら、蓮くん的には役得じゃないですか?」


 小悪魔的な微笑ほほえみと誘惑のささやき。


 ……どうして人が折角耐えてるのに、誘ってくるのか。

 立ち上ってくる欲をため息として発散し、


「悠莉」


 静かに名前だけを呟く。


 そっちがその気なら、こっちにも考えがあるぞ。


 目をつむったままの悠莉の耳元に顔を近づけ、少しだけ声のトーンを低くして、


「――もし、ここで悠莉を抱きしめたらどうするんだ?」


 吐息と共に、耳元でささやく。


 すると、悠莉は身を震わせてぱっちりと両目を開いた。

 驚きのあまり空いてしまった口がどうにも可愛らしい。


 自分だけ安全地帯から口撃こうげきできると思っていたのなら大間違いだ。

 俺だってやるときはやる。

 それに、こうでもしないとわかってくれなさそうだし。


 悠莉がどうするのかと見下ろしていると、顔を真っ赤に染めながらもパチパチとまたたき、口元を手で隠しつつ、


「……蓮くんなら、大丈夫です」


 そう、信じられない言葉を耳にした。


 完全な不意打ちを受けて、身体が完全に固まってしまう。


 大丈夫……大丈夫って、文脈的に抱きしめても大丈夫って意味だよな?

 普通、恋人同士でもない相手にそこまでの接触を許す人は珍しい。

 悠莉はそこまでボディタッチが好きというわけでもないはずだ。


 それなのに、抱きしめられるのを許容している?


「むしろ……さびしいときは、抱きしめてもらえたら嬉しいかも、しれません」


 言葉を残して、悠莉はすっかり目を閉じてしまう。

 完全に俺が何をしても構わないと言っているようで、どうしようもなく胸が高鳴たかなる。


 悠莉からはそうするのを待っているような雰囲気すら感じられた。


 俺の中でそういう欲求が首をもたげる。


 華奢きゃしゃで甘い香りを放つ悠莉を抱きしめたい。

 細くつやのある髪に手櫛てぐしを通して、悠莉の頭をでていたい。

 寂しい顔をさせないように、ずっと隣にいたい。


 今なら悠莉は受け入れてくれるだろう。


 でも――それは悠莉が弱っているところに付け込んでいるだけなのではないかと考えてしまって。

 そういうことをするなら、もっとちゃんとした仲になってからにしたいと思って。


 それ以上に悠莉を大切にしたい気持ちを、強く感じた。


「……俺は、偽物だからさ。流石にそこまでは出来そうにない」

「私は怒りませんよ?」

「悠莉が怒る怒らないじゃなく、俺の心情的に無理。あ、勘違いしないで欲しいから言っておくけど、悠莉が嫌いとかじゃなくて」

「わかっていますよ。蓮くんは私を友達として大切にしてくれているって。でも……友達以上に、蓮くんは彼氏ですから。偽物でも、彼氏は彼氏です」


 ふるふると首を振って悠莉は薄く目を開いた。

 つぶらな緑色の瞳と視線が交わり、


「偽物の彼氏でいて欲しいと頼んだのは私です。だから……それくらいの役得はあってもいいと思います」


 へにゃりと頬を緩ませて、悠莉は笑った。


 自然な流れで見せた、魅力みりょく的な笑顔。

 それは一瞬で俺の心をつかみ、離さなかった。


 思わず手が伸びそうになったのを、寸でのところで止める。

 抱きしめるだけで済む気がしなかったからだ。


 でも、この溢れそうな感情をどうしようもなくて。

 ほんの少しだけ満たしてもいいのかなんて思ってしまって、右手だけが悠莉の頭へ伸びていく。


 手のひらが髪に触れた。


 抱きしめられなかったのが不満だったのか悠莉の頬がわずかにふくれるも、その髪をきはじめると今度は心地よさそうに目を細めて受け入れる。

 可愛いな、なんて素直に思ってしまう穏やかな表情。


 俺はただ、こういう悠莉が見たいんだと再確認をして、悠莉の気が済むまでで続けるのだった。

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